走り抜けても『英雄』がいない 作:天高くウマ娘肥ゆる秋
最初は誰かの気紛れだった。
最初にそうしたのが誰だったかは、シンボリルドルフでさえ覚えていない。別に重要な事ではなかったから、特別意識はしていなかった。
しかし性格から考えて、最初はエルコンドルパサーかタイキシャトル、テイエムオペラオーあたりだったのだろうと当たりが付く。
最初は確か、メイクデビューでも『若駒ステークス』でもなく、重賞レース初挑戦となる『弥生賞』だった。
ターフから遠く離れた来賓用の観覧室ではなく、ターフのすぐ傍にある一般観戦スペースの最前列。
その場所で、最初の一人が東条と共に、一人の後輩を応援し始めたのは。
日本のエンターテインメント産業にとって、チームリギルは極めて重要なチームだ。
個人個人の成績や記録は勿論、各方面への影響力や、擁立するファンの多さだって軽視出来ない。だからチームリギルのウマ娘は、全員が例外なく国の至宝と呼ばれている。
仮に諸外国と国際交流試合を組むとしたら、近年好成績を収めつつもむらっ気のあるチームスピカではなく、長年に渡り実績を重ねて来たチームリギルが代表の軸に据えられるだろう。そう多くのウマ娘ファンが確信する程に、日本中から信頼を勝ち取るだけの存在感をチームリギルは有していた。
だからこそ、レースの観戦でさえチームリギルのウマ娘は優遇されるのだ。レース場全体を見下ろせる来賓用の観覧室に通されて、徹底した警備を受けるのだ。全員が例外なく、日本のウマ娘業界を牽引する重要人物だから。
きっと、最初の一人は本当に気紛れだったのだろう。恐らく、慣れない重賞の大舞台を控える後輩に、一度くらいはエールを贈ろうとでも思ったのだろう。
同じチームの後輩とは可愛いものだと、シンボリルドルフはよく知っている。自分の後に続いてくれるウマ娘達には、どうしたって情が湧く。
最初の重賞レースくらいは、人の波を掻き分けるだけの手間を度外視してやろう。少しでも、後輩を勇気付けてやろう。シンボリルドルフの良く知るリギルの仲間達であれば、そう思ったって可笑しくはない。
君臨する事には慣れていても、直接誰かを育てる経験は乏しい。
実力至上主義を金科玉条として突き進むチームリギルだからこそ、そんな背景が存在している。そもそも、自分達に付いて来られるウマ娘自体がほとんど居ないのだから、詮方無い。勝負の世界では、強者となればなる程、孤独になった。
自分達には多くの責務が付き纏っている。それをチームリギルのウマ娘は自覚している。その中の一つが、絶対的な強さだ。圧倒的な実力を以て、時代を代表するウマ娘になるという義務を全員が背負っている。
自分がとてつもない才能と努力、幸運の果てに今の場所に立っていると分かっているから、自分達の輪の中には、強いウマ娘の席しかないと知っている。
チームリギルのウマ娘にとって存在するのは、輪の中の同類か、輪の外の好敵手か、先頭に立って導くべき弱者か。極論すれば、それだけだ。誰かに期待を寄せるのは、酷く苦しい事だった。
だからこそ、自分達と同じ景色を見る事の出来る後輩は珍しかった。ましてや、自分達の後ろを追って回り、少しでも強さの秘訣を学ぼうと走り回る……そんな弱者のような貪欲さを見せるチームの後輩なんて、シンボリルドルフだって初めての経験だったのだ。
稀代の天才トウカイテイオー。自分にずっとべったりだった彼女だって、四六時中くっついていた理由は憧れ故だ。純粋な強さを求めて、自分を
傲岸不遜とさえ取れる貪欲な姿は、強さを標榜し続ける自分達にとって、心地が良い程に収まりの良い
東条が新しく迎え入れた後輩は、まるで小鴨のような獅子の子であった。
そんな少女だったから、最初の一人は殊更に愛着が湧いたのだろう。
近くでレースを観た。
それだけの事で、その後輩が驚く程に喜んだから、また次も応援してやろうと思ったのだろう。喜ばせてやろうと思ったのだろう。
そんな姿を羨んだから、残りのメンバーだって同じ事をし始めたのだ。気が付けば、チーム全員で応援し始めていたのだ。
マスコミに囲まれて煩わしかろうと、君臨者達が変わったお遊びを始めたと呆れられようと。
声が必ず届くターフの傍で、その後輩を応援し始めたのだ。レース直前に必ず自分達を見付けて近寄ってくる、末っ子の妹分に愛着を持ったから。
何時からか、最初の一人が誰だったか分からなくなるくらい、そのやり取りが当たり前になっていた。
前回の『菊花賞』の時だって、間違いなくそうだった。
「……探してますね」
「うう、罪悪感が凄いデース……!」
グラスワンダーの心配そうな声と、エルコンドルパサーの申し訳なさそうな声。二つ分の声音が、シンボリルドルフの意識を中山レース場へと引き戻した。
最近、妙に物思いに耽るようになった。まだ歳若い身でこうなってしまっては、先が思いやられる。
自分が急激に年老いた気がして、シンボリルドルフは苦笑した。自分はまだ十代の身空だ。既に老輩を気取っていては、歴戦の老君達に笑われる。
「仕方がないさ。私達がいつも通り叱咤激励に向かえば、記者が殺到するかもしれない。そうなっては、アフタの邪魔になるだろう」
シンボリルドルフは、後輩達を励ますように口を開いた。
そう言いながらも、自分自身だって僅かな寂しさを覚えている。
現在、アフターマスと東条を除き、チームリギルが居るのは来賓用の観覧室だった。ターフから歩いて近寄れる、一般の観戦スペースではない。
いつものようにターフの上から自分達を探すアフターマスには悪いが、これもメディア対策の一環だった。各社報道機関に学園への立ち入り制限が掛かった以上、記者が自由に
制限が掛けられて、メディアも幾分かの冷静さを取り戻した様ではある……が、それはそれ、これはこれだ。折角、報道熱が落ち着きかけているのだから、再燃する要素は与えない方が良い。
アフターマスには事前に、いつもとは違う対応を取ると東条から連絡が入っている筈だが、レース前の緊張で忘れているのかもしれない。
もしくは、もしかしたら誰かしら一人くらいはリギルメンバーが居るかもしれない……そんな淡い期待を抱いたか。
遥か彼方で小さく肩を落とした後輩を見て、シンボリルドルフは少し、気の毒に感じた。同時に、後輩の変わらない仕草に安堵する。家出紛いな事をしていても、やはり根本は早々変わらない。
「そういやトレーナーは何処に行ったんだ? そろそろレース開始の時間だが」
「トレーナーなら、アフタの礼を言いにスピカの下へ行っている。結局、トレーニングどころか中山レース場までの送迎も世話になってしまったしな。今後をどうするかの話し合いも兼ねて、レースはそのまま関係者席で観るそうだ」
「あー……今日ばっかりはスピカも一般席じゃ観戦出来なかったんだね。合宿中の動画がかなりネットに上がってたし、どう言い繕ってもアフタの関係者ってばれるか。スピカには申し訳ない事をしたねぇ」
ナリタブライアンとエアグルーヴ、ヒシアマゾンが疲れたように言葉を交わした。
アフターマスの『日本ダービー』制覇以来、生徒会役員であるナリタブライアンとエアグルーヴにはかなりの仕事を担って貰っている。同様に、美浦寮の寮長であるヒシアマゾンにも、本人の好意に甘える事が多々あった。
生徒会も『日本ダービー』直後は、純粋に明るい話題に忙殺されるだけだった。
トウカイテイオー、ミホノブルボンと続き、シンボリルドルフ以来三度目となる無敗の二冠ウマ娘誕生。
その頃まで、メディアや世論は素直に祝福の声を上げていた。恵まれたとは言い難い体格と境遇で、血の滲むような努力の果ての栄光。持て囃されるのも
しかしそれも、ある日を境に雲行きが怪しくなって行く。
強いウマ娘達によって繰り返される熱いレースに、飽きたと言って去った聴衆がいた。
何時まで経っても現れないシンボリルドルフの後継者に、不可視の壁を見定めて諦めたウマ娘達がいた。
人の心がウマ娘のターフから離れて行く。それを止めようとしても、URAでさえ止められなかった。
歯止めの利かない緩やかな衰退は、少しずつ、日本のエンターテインメント産業を蝕み始めていた。
そんな時だったのだ。アフターマスが無敗の二冠を取ったのは。
URAは藁にも縋る思いだったのだろう。無敗の三冠達成を彷彿とさせるには明らかに時期尚早なのに、URAからアフターマスへと、京都レース場に像を建てる事が提案された。
今年の『菊花賞』に合わせて公開出来るようにして、人々の関心を無理矢理集めた。まるで、アフターマスが必ず勝つとでも言うように。
ウマ娘は不可能を可能にする。そんな夢を、意図的に人々に見せる為に。
──そして、アフターマスは人々の夢を叶えてみせた。
『菊花賞』の勝利。すなわち、無敗での三冠制覇。観衆がずっと見たかった夢の成就。栄光に満ちた光景を、アフターマスは人々に見せた。シンボリルドルフが敷いた無敗での三冠制覇という軌跡が、再現可能な夢物語であると証明してみせた。
終わらない栄華の夢を、アフターマスは人々に
そこから、一気に世の中が可笑しくなったのだ。
生徒会に舞い込む仕事の様相が変わった。日に日に、明るかったものからきな臭いものへと、メディアやイベントに関する書類の色が染まって行く。
中には、シンボリルドルフの神域を犯したアフターマスを扱き下ろすものや、逆にアフターマスを持ち上げる為に他のウマ娘を蔑ろにするもの、他のウマ娘を支持する為にアフターマスの存在を否定するものまであった。そんな事、ウマ娘の誰もが望んでいないのに。
シンボリルドルフは最初、トレセン学園とURAへと抗議を行った。自分はともかく、こんなものは生徒達に任せる仕事ではないと。未来あるウマ娘達に見せるべきものではないと。
……しかし。抗議する為に向かった先は、生徒会以上に地獄のような様相だった。
単純な話だった。自分達に多くの場違いな仕事が割り振られるようになったのは、学園とURAが処理出来る限界を超えてしまったからだった。
従来からずっとウマ娘に携わっていた業界以外も、新たな無敗の三冠ウマ娘に関心を示していた。中央トレセン学園とURAの想定を大きく上回ってしまう程に、日本中の関心の中心に、アフターマスがいたのだ。
そうなれば、栄光に向かって悪意が向けられるのは、残念ながら当然と言えた。人間は善と悪の両方の顔を併せ持つ生き物だから、関心の全てが向くのは、つまりはそういう意味だった。
アフターマス本人を置き去りに、世界は新たな無敗の三冠ウマ娘を担ぎ上げて廻っている。
『──にしても、今回は更に一段と絞って来ましたね。春の天皇賞のライスシャワーを彷彿とさせます。歴戦のウマ娘達を相手に、気迫は十分と言ったところでしょうか』
『──この子が見たくて中山レース場に徹夜で並んだファンも多いでしょうからね。今日はどんな勝ち方をファンに見せてくれるのか、本当に楽しみで仕方がありません』
館内放送のスピーカーから、実況者と解説者の声が流れる。本来公平であるべき立場の人間でさえ、伝説の新しい一頁を心待ちにしているようだった。しかし、それも幾分仕方がないのかもしれない。
まるで負ける姿が想像出来ない。
本気でそう言ってのけるファンが多いのだ。勝負事はいつ負けるか分からない……内心では、そう気付いているにも関わらず。
世間の目は、アフターマスを見ている様で見ていない。ある者は比類なき栄光を。ある者は栄華が翳る瞬間を。それらはアフターマスを通じて、
「なに難しい顔してるの? 有馬記念、もう始まっちゃうわよ?」
シンボリルドルフの両肩へと、後ろから手が置かれた。自身の友であるマルゼンスキーだ。
「ああ、いや。すまない。少し懐かしくなっていてね」
「懐かしい? 有馬記念が?」
「それもあるが、どちらかと言えばシニア挑戦……いや。クラシック三冠が、だな。私が菊花賞を勝ち取った時は、世の中はどのように動いていたかと思ってね」
「そうねー……ルドルフちゃんの時は確か、目が点になってる人が多かったわね。『え、本当にそんな事出来るの?』って感じの人が多かったかな?」
マルゼンスキーが思い出す様に細い
自分の時は、そう言えばそうだったかもしれない。
栄光の道を切り開いた……と言うにしては、聴衆がかなり唖然としていた。
どう祝えば良いのか分からない。そんな文字が沢山の顔に書いてあったのを思い出す。少なくとも、アフターマスのように流言蜚語に塗れて賛否両論……なんて状況にはなっていない。
視線のずっと先で、アフターマスが落ち着かないように自分の尻尾を引っ張った。
自分達と会って話す。そのいつものルーティーンが出来ていないからか……そう考えたが、どうやら他にも理由がありそうだった。本人も頻りに首を傾げているのが見える。大丈夫だろうかと、些か心配になった。
誘導係に従って、ウマ娘達がゲートに収まって行く。
アフターマスは3枠6番。偶数番なので後入りだが、ゲートが得意なアフターマスには後入りでも先入りでも関係がない。
好調時のアフターマスを相手として想定するなら、他のウマ娘にとってスタートダッシュは重要だ。少なくとも自分なら、先頭集団に位置取ってレースを組み立てるので、間違えてもゲートでは躓けない。
「遂に始まるのね、アフタちゃんのシニア挑戦。無敗のまま挑む最初のレースが有馬記念だなんて、凄くロマンチックね」
「ああ、そうだな。アフタが勝っても負けても、世の中を大きく動かすレースになる。そんな舞台で自分を差し置いて一番人気に選ばれた後輩が相手だ。他のウマ娘も気合いが
「……ルドルフちゃん、もしかして出走してる子達が羨ましかったりする?」
「うん? そんな事はないが」
マルゼンスキーの問い掛けるような声に、首を傾げた。特に心当たりがなかった。
そっか、ごめんね。変な事聞いちゃって。そう言うマルゼンスキーの声を、館内放送のファンファーレが紛れさせた。
もうレース開始の時間だ。今から三分後には、今年最後のGIの勝ちウマ娘が決まっている。
『──最強の衝撃対歴戦のシニア級ウマ娘、お互いの意地と誇りを賭けた世紀の一戦。生まれるのは史上初の無敗の四冠ウマ娘か、或いは強さを示した真の古豪か。クリスマスに迎える今年の有馬記念、勝つのは私の夢でしょうか、貴方の夢でしょうか。誰かの夢が栄光を飾ります』
冬の寒さに負けじと、実況者が観客の熱気を煽るようにスピーカーを震わせた。場内から歓声が薄れ、静かな熱が膨れ上がる。
レース開始時は、必ず場内は数瞬静かになる。嵐の前の静けさ……と言うよりも、ファンとウマ娘が夢を鮮明に研ぎ澄ます時間。この時ばかりは、ターフの上に何年立とうと緊張が消えない。ゲートの中に居るアフターマスも、きっと同様だろう。
ふと思い付いたように、マルゼンスキーが再び口を開いた。
「そう言えば、弥生賞で誰が最初にアフタちゃんの激励に行ったか。ルドルフちゃんは覚えてる?」
「いや、実は全く覚えてないんだ。恐らく、エルコンドルパサーかタイキシャトルあたりだと思うんだが……」
「ふーん? ……ふふっ。やっぱり似てるわね、貴方達」
「ん? それはどういう──」
『──さあ、各ウマ娘一斉にスタートしました!』
どういう意味だ? シンボリルドルフがそう口にしようとした瞬間、スピーカーから実況者の声が流れた。レースが開始したらしい。
咄嗟に、視線をマルゼンスキーからゲートへと向ける。焦点は、横一線に並んだウマ娘達の先頭。好スタートを決めたウマ娘の定位置。つまり、いつものアフターマスの指定席だ。
当然だが、そこにはいつものように、絶好のスタートを決めた後輩がいて──いる筈で……待て。どうしてそこにいない?
場内に絶叫が響く。すぐ隣からも、驚いたように「嘘」と一言漏れた。シンボリルドルフは、静かに瞠目する。
何か特別な事が起きた訳ではない。ただ、レースでは良くある事を、アフターマスがやった。それだけだった。
それが信じられないのは、知らず知らずに、自分すらも後輩の強さを信頼し切っていたからだろうか。
レースに絶対はない。それを誰よりも知っているのは、絶対があると謳われた、シンボリルドルフ自身だと言うのに。
『──おおっと、どうしたアフターマス! 得意のゲートで大きく出遅れたぞ! 他のウマ娘はほぼ出揃いました! アフターマスは最後方からのスタートです!』
遥か視線の先。夢の舞台に選ばれた十六人のウマ娘が、最初に鎬を削る場所。そこには、観覧室にまで響く程のどよめきの雨が降る。
メイクデビューから数えて、実に八度目の公式戦の舞台。
そこで初めて、アフターマスは出遅れた。
■□■
俺という駄馬は、どうしていつもこうなのだろう。
青い風が体に纏わり着いて、世界が灰色に染まっている。体は四足歩行の感覚に戻ってしまっているけれど、いつもの様に気を散らせる余裕はない。
『──おおっと、どうしたアフターマス! 得意のゲートで大きく出遅れたぞ! 他のウマ娘はほぼ出揃いました! アフターマスは最後方からのスタートです!』
実況さんの声が大きく響く。前世でも犯した事のない失敗を、『
スタート失敗。大きな出遅れ。
ディープインパクトの紛い物ではあっても、ディープインパクトではない俺には、このミスは致命的だ。特に、今回の『有馬記念』では。
視線を強く前に向ける。俺の先を行くウマ娘達が見える。自分にとって最善の場所を取ろうとする先輩方の姿は、俺の場所からでは辛うじて中団後方までしか見えない。
そしてその中に、
やはり今回も、ハーツクライは前世同様、先頭集団での
ハーツクライ先輩は追い込みを専門とするウマ娘だ。けれど、俺の知ってるハーツクライは恐ろしく強い先行馬だった。
もしかしたら、このレースでは走り方を切り替えて、先行策を取ってくるかもしれない。今世は前世と妙な所で似てるから、十分に可能性はあるだろう。
そう予測して、事前に沖野トレーナーへと、ハーツクライ先輩が先行策を取る可能性を相談してあった。
──ハーツクライが先行策? 幾ら何でも、有馬の舞台でぶっつけ本番にそれは……いや。南坂ならやりかねんな。一応、ハーツクライが先行策を取る可能性も考えて、有馬への調整プランを練るか。
俺はトレーナーの事情に詳しくはないが、どうやらハーツクライ先輩の担当トレーナーは、かなり癖の強い戦略家であるらしい。
沖野トレーナーが東条さんへ話を振った所、同様に先行策の可能性を賛同されたと言っていた。
そこからは、先頭集団での競馬をするだろうハーツクライ先輩をマークする為に、此方もいつもとは異なる先頭集団後方でのレースを予定していた。
出遅れは勿論許されなかったし、ましてや最後方からの
『──さあ、序盤から予想外の展開が生まれております! しかし、1周目の第3コーナーに向かって、やはり先行するのはこの二人──』
先頭を走るのも、やはり前世と同様に逃げ脚を持つ二人の先輩だったらしい。前世では此処まで後ろに下がっていなかったから、先頭を奪い合う二頭の競走馬の姿をまざまざと見て、確かにその姿を覚えている。
もしもレース展開が完全に前世通りならば、ハーツクライも先頭のすぐ傍にいるだろう。
脳内で急いでレースを組み立て直す。同時に、直ぐに前へ行きたがる悪癖持ちの脚の手綱を、直ぐに弛める為の準備に入る。
後方集団からの勝負では、今回に関しては絶対に勝てない。はっきり言って、この『有馬記念』のハーツクライは化け物だ。
前世のこの有馬では、俺はディープインパクトとハーツクライに置き去りにされ、二頭の競り合いを見せ付けられた。その時の恐ろしい強さをまざまざと覚えている。それこそ、ディープインパクトが二頭居るのかと錯覚した程だった。
翌年にジャパンカップでリベンジしたものの、その時のハーツクライは不調だったのか、ディープインパクトと見紛った程の輝きは見られなかったが。
しかし、これは俺が負けた時の『有馬記念』だ。ジャパンカップの時の強さは関係ない。今回において、ハーツクライはディープインパクトと同等の怪物だ。故に、徹底したマークは必須だった。
『──先頭から3バ身差、3番手は固まっております! おっとハーツクライ、ハーツクライがなんと3番手に上がって来ました! そして追うように4番手に──』
ハーツクライが3番手に着けたと聞いて、腹を括った。このままだと、前世以上に悲惨な結果が待っている。
終盤の為に脚を残そうと金切り声を上げる理性を黙らせ、走るペースを大きく上げた。
此処からはターフの中で
やる事は単純だ。脚の消費に気を付けつつハイペースで駆け、出来るだけ早く先頭集団へ追い付き、ハーツクライのすぐ後ろを位置取る。後は可能な限りマークして、勝負を仕掛け始めるだろうラスト2ハロンの地点まで、好位置を取られないように立ち回るだけ。
言うは易し行うは難し。だが、大きく出遅れた競走馬が強い先行馬に勝とうと思えば、例外の様な化け物馬を除けば、それくらいしないと勝つ術はない。
しかし、その例外の化け物馬であるディープインパクトに勝つという無理難題に比べれば、それでも圧倒的に簡単だろう。そう自分に言い聞かせて理性を説き伏せる。
先ず以て、ハーツクライに勝てなければ、ディープインパクトにも勝てない。前々世ではハーツクライが勝った筈だが、前世ではハーツクライとディープインパクト、両頭がほぼ同時にゴールラインへと駆け込んだのだ。
前世よりも明らかに強くなっていた今世の『菊花賞』のディープインパクトならば、『有馬記念』のハーツクライが相手であっても勝つ可能性が高い。
その場合警戒しなければならないのは、ディープインパクトがハーツクライをペースメイカーとして利用する事だ。強い先行馬が作ったレースのペースを、強い追い込み馬が上手く利用する……はっきり言って、そんなのもはや絶望でしかない。
そもそも、違う競馬をすると言うなら、もうそんなの今更だった。だって、今回は
「──自分だけ最高のスタート切りやがって」
俺はありったけの憎しみを込めて、自分の左斜め前方──ゼンノロブロイ先輩の横に位置取るウマ娘を睨む。
そいつは、悠然と走っていた。俺と同じ勝負服を靡かせて、俺とよく似た走りをしている。
響く
──ディープインパクト。
遅れてやって来る筈の『英雄』は、何故か既にそこにいる。
『──各ウマ娘、今第4コーナーを曲がってスタンド前! 各ウマ娘の位置取りは変わらない──おっと、アフターマスが後方集団のゼンノロブロイに並んだ! ペースが速いが最後まで持つのか!?』
自分を前へと進ませる為に、脚に力を込めた。
「──もうペースを上げるんですか!?」
並んだゼンノロブロイ先輩へと、一瞬だけ視線を送る。
前世で一度だけ見た、世紀末覇者の愛馬みたいな競走馬ゼンノロブロイ。あの傑物と同一人物とは思えない程の優しい顔に、驚愕の表情が浮かんでいた。
凄い──という驚きよりも、正気を疑うような色合い。
俺もこんな序盤にスパートを掛ける追い込み馬が居れば、恐らく同じ顔をする……そんな自信があったので、深くは触れたくない。
そう言えば、この先輩の名前は
答える余裕なんて本当はないが、並んだディープインパクトに負けないよう、自分に聞かせるべく声を出す。
「──勝って『英雄』になりたいので」
「──えっ、英雄?」
ちゃんと分かってるから、待ってろよ『英雄』。
湧いて出たそんな雑念を、意識して風に吹き飛ばした。
ゼンノロブロイとディープインパクトの間を、一頭で抜け出た。英雄と『英雄』、二頭の競走馬に背を向ける。
正直な話、ゲートに入る前から僅かな違和感はあった。音が妙に遠くて、世界が少しだけ色褪せて見えていた。
でもそれは、『有馬記念』への緊張感が齎した錯覚だろう。そう割り切ってゲートに入った。ディープインパクトが現れるのはレースの中盤以降。つまり、レースがまだ始まっていないゲートの中は安全圏。本気でそう思っていたし、今まではずっとそうだった。
だから、
幻影の癖に盤外戦術なんて仕掛けないで欲しいと、切実に思う。そもそも、小細工は俺みたいな弱者の特権だろう。
がりり、と歯を食いしばる。自分の不甲斐なさが嫌になる。スタンドから降ってくる声の塊が、俺の情けなさを非難している気がした。
そんなんで『英雄』になれる訳がないだろ。
元の世界では中山競馬場と呼ばれた、ディープインパクトがラストランを飾った場所。『英雄』の最後を見届けたスタンドから降り注ぐブーイング混じりの歓声が、苛立ったようにそう告げる。
だから、早くその場所を
何処からか聞こえて来た声は、俺と同じ声音をしていた。
──『生まれるべきではなかった新たな■■の■■ウマ娘』
──アフターマスの呪い、同期を壊す■■の影。
──アフターマスさんもそう思われるから、リギルから
「ごめんなさい」
レース場の風が、心の蓋をこじ開ける。ずっと見ないようにしていたものが、俺へと伸し掛かった。
それを風で吹き飛ばしたくて、更に一歩前へと進む。
全ては、俺が皆から『英雄』を奪ったのが悪いのだ。
ずっと蓋をしていた心から、逸らしていた感情が溢れ出る。恐怖。悲しみ。悔しさ。憎しみ。そして──負けたくなかったという本心。それらを、鑢のように風が削る。
お前にそんなものを感じる権利はない。そう言う様に、心と体をじくじくと痛み付ける。
勝ちたい。
完全に首を下げた馬の声が、何処からか零れた。それは、一番良く聞く声をしていた。
前世の『新馬戦』で生まれて、今世の『菊花賞』で現実を見た負け馬。それが俺の正体だった。
俺が俺を見付けられないのは当然だった。俺は、俺を持たないまま今日まで走って来たのだ。沖野トレーナーの言う通りなのだ。俺は、完膚なきまでに心が折れている。その現実を、見ないようにしていただけで。
頭の裏側の、脳と頭蓋の狭間。何かがある筈のそこが空白になって、燃えるような焦燥を感じる。
俺は此処にいる。その一言すら、情けない俺じゃ言えなくて。
もう一度、歯を食いしばる。
俺がどんな駄馬であっても、それでもチームリギルの一員だった。先輩方の顔に、これ以上は泥を付けられない。
「──夢が見たいなら、見せてやる」
ディープインパクトが果たせなかった、最初の『有馬記念』制覇。
それを果たせば、今日までの補填にはなるだろう。そう信じて、死力を尽くす。
俺は、ディープインパクトにならなければならない。皆の誇りにならなければならない。
そんなの知っている。だから黙って見ていて欲しい。『英雄』を讃える歓声なんて、俺は要らない。
『──先頭集団変わらず、スタンド前を通過します! 3番手は変わらずハーツクライ! 中団以降も様子見のままレースを展開しております! 前年度覇者のゼンノロブロイは最後方でゆったりと強い走り! そしてアフターマスはじわりじわりと上がっている!』
スタンド前。質量を持った夢の声を掻き分けて、突き進む。皆の誇りになる為に、一歩ずつ恐怖を飲み下す。
今日こそ勝つんだ……その想いだけは、胸に抱いて。
既に期間が空いているので、予定を変更して完成してる分を先に投稿します。次回分はまだです。時間を縫いながら頑張ります……!
今話、楽しんで頂けたなら幸いです。