走り抜けても『英雄』がいない   作:天高くウマ娘肥ゆる秋

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 新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。
 ……投稿が遅くなってしまい、申し訳ないです。色々やってました(言い訳)


第18話 帰る日

 非常に情けない話、俺は『有馬記念』が怖い。

 理由は嫌な思い出しかないから……だけではない。

 『有馬記念』の執り行われる年末の日曜日は、俺の存在意義が消える日だからだ。

 

 ディープインパクトという競走馬は、勝ち続けたままターフを去り、伝説となった。

 日本近代競馬の結晶。全世代の頂点。奇跡に限りなく近い馬。

 そう呼ばれながらも、やっぱり()も生き物だった。どんな化け物であっても、血が通うならば(いず)れは消えていなくなる。そして、化け物であるディープインパクトが勝負の世界から消えたレースこそが、『有馬記念』だった。

 

 ディープインパクトが消える。それはつまり、俺が()に勝てなくなるという事を意味する。相手が戦場に現れないのならば、そもそも戦えないのだ。俺がどれだけ喚こうとも、勝ちようがない。

 俺が一番見て来た()は、実物ではなく幻影だ。どういう原理で奴が俺の前に現れているのかなんて知らないが、それでも奴はディープインパクトだから、何時かは消えていなくなる。

 

 しかし、それは何時だろうか。

 夢から生まれ出た化け物が夢へと帰る日は──ディープインパクトの代わりに夢を見せると言う俺の存在意義が消える日は、何時だろうか。

 そう考えて──奴が伝説となったラストラン、『有馬記念』がその日である可能性が高かった。

 だって、()はレースの時にしか現れない。併せ馬でも駄目で、前々世に奴が走ったレースの時にしか、奴は現れないのだ。

 だから、タイムリミットは二度目の『有馬記念』まで。

 それに気付いてからは、時間との戦いが始まった。

 

 制限時間内に、史上最強を打ち倒せ。

 ゲームなら、リトライの先に何時かはエンディングを迎えられるだろう、そんな文言。しかし、これは現実だった。リトライなしで、俺は『英雄』を超えなければならなかった。

 俺がディープインパクトを消して、ディープインパクトが俺の存在意義を消す。俺が奴と言う存在を奪ったように、奴はアフターマスと言う競走馬から、()()と言う至上命題を奪い去る。

 最強の競走馬ディープインパクトの勝ち逃げを以て、俺は完全な()()()となってしまう。()()()()()()()()()という史実の夢に疵を付けた罪を、一生背負う畜生となる。

 

 ……嫌だった。堪らなく嫌だった。

 負けたくないのだ。実力不足だろうとも、心が折れていようとも、競走馬は勝ちたいのだ。夢を見せたいのだ。

 だから、最善を尽くした。勝てるなら死んでも良かった。だから、あの日の『有馬記念』で俺は最善を尽くした。

 最高速度で二度のコーナーに突っ込んで、遠心力を捩じ伏せる為に前脚を一本へし折った。前脚の分まで力を入れた後脚も、最後の直線で駄目にした。必死に止めにかかってくれた鞍上の指示も無視して、ゴールの瞬間までただただ速さだけを求め続けた。

 それでも……やっぱり、ディープインパクトには勝てなかった。結局、時間切れでゲームオーバーだった。それと同時に、俺も人に迷惑をかけ続けた馬鹿に相応(ふさわ)しい結末を迎えた。

 

 そして、気が付けば──競走馬からウマ娘に生まれ変わっての今世だ。

 存在しないと思っていたリトライ。競馬の神様が駄馬の俺に恵んでくれた夢の続き。ディープインパクトに再び挑める時間。

 しかし俺は、前世と同じように、多くの人に支えて貰っても、恩を仇で返し続けていて……またみっともなく、生き恥を晒し続けている。

 俺は勝たなければならない。前世とは比べ物にならない未熟な体であろうとも、脚を二本取り上げられてゼロからのリスタートであろうとも、俺は前世の分まで、ディープインパクトに勝たなければならない。

 俺が自由になって良いのは、『英雄』に勝ってからだ。走り抜けて、俺のせいで世界からいなくなった『英雄』の栄光を、皆に見せてからだ。

 

『──さあ、アフターマス外を回って現在中団後方まで上がっている! 更にその後方からは内を突いてゼンノ□□□□!あとは□□□□、□□□□!──』

 

 灰色の世界でも何故か青く見える空の下で、湧き出て来た悔恨の念を踏み潰した。

 世界から余分な情報が削り取られて、色んな音が欠落していく。

 スタンドから降るどよめきの雨の中を、俺達は突っ切った。

 この『有馬記念』で挑まなければならないのは、『英雄』と呼ばれた最強の競走馬と、最強の競走馬を打ち倒した『主役』と呼ばれた競走馬。

 駄馬がこの二頭に勝つには、全身全霊でもまだ足りない。特に、出遅れと言う致命的なミスを犯した状況では、天を仰ぎたくなる程に足りないのだ。

 

『──各ウマ娘、第1コーナーをカーブしていきます! 先頭は□□□□、リードが3バ身程! □□□□2番手です、ゆったりとした流れか! 3番手には□□□□、あと──()()()()()()!』

 

 どくん……と心臓が跳ねる。ちらりとだけ、ハーツクライの姿が()()の向こうに見えた。脚に力を込めて、ハーツクライを追う。

 このレースで走っているのは、ディープインパクトだけではない。ハーツクライだってそこにいる。『ジャパンカップ』とは違って、万全の状態で走っている。その事実に、気を引き締める。

 前世の『ジャパンカップ』でリベンジした時のハーツクライは不調だった。だからあれは例外で、俺はハーツクライにも雪辱を果たさなければならないのだ。恐ろしい程に絶好調な今世のハーツクライ(ハーツクライ先輩)に勝って、きちんとした勝鬨を上げなければ胸を張れない。

 だから、この『有馬記念』は譲れない。

 しかし、それは──()にとってもそうだろう。

 

 背後で、『英雄』の鼓動が震える。

 必ず勝つ。幻影である筈の()から、確かにその意志を感じ取った。

 ()もやっぱり競走馬で、負けたくないと言う本能からは逃げられない……そんなの、前世で初挑戦だった『有馬記念』で嫌になる程に分からされている。

 ディープインパクトという競走馬は、見た目に依らず負けず嫌いだった。

 

『──□□□□、第2コーナーへ向かいます! 中団の前には11番の□□□□が追走して、そして1バ身差□□□□です! 外を突いて上がって来ましたアフターマス! 向正面に上がります!』

 

 ぼんやりと、脳が酸欠で馬鹿になっていく。

 このまま全力で走り続ければ、本当は勝てるのではないか。

 そんな錯覚を本気で感じてしまう。背中は()の存在で焼け付いていて、首から先はハーツクライの存在で溶けている。茹だった頭で湧いて出たこれは、確実にまともな思考ではない。

 

 第2コーナーから続く下り坂の終わり間際。

 つまり、向正面の折り返しよりも手前。残り1000mの所で、ようやく俺はハーツクライの影を踏んだ。

 しかし、此処──ラスト5ハロンの地点はもう、普段の俺やディープインパクトが勝負を仕掛けられる射程圏内だ。こんな所からでは、ディープインパクトを撒ける程のレースのペースは作れない。

 だから俺はもっと早く──()()レースの主導権を掴まなければならなかった。まだ勝敗は決していないが、勝つ為にはそうであるべきだった。

 だって、そこからは簡単なのだ。もっと全力で走り抜けて、全員の目を吹っ切る。そして、雲一つなかった夜の空のように、『英雄』すらもいない場所に居座って、ゴールラインまで駆け抜けて、先頭で最後の一線を踏み締めて……──。

 

『──さあ、各ウマ娘これから3コーナーに向かいます!これから800mを通過、□□□□先頭です! リードは3バ身! しかしすぐ後ろ3番手には追い込みウマ娘のアフターマスとハーツクライが既に控えております! 一体何が起きているのでしょうか!』

 

 ──俺は、一体何を言っているのだろうか。そんな事をしては、最後まで走れる訳がない。

 馬鹿になり過ぎた自分自身を叱咤する。夢見がちな年頃であっても、こんな滅茶苦茶な空想は恥ずかし過ぎる。

 これは()()()()()()ではない。遊びでやるような走りで勝てる訳がない。空想の中の幼稚な全能感は恥ずかしいだけだ。

 それに、今だって全力だった。余力を残すなんて真似はしていない。つまり、現状が掛け値なしの俺の実力だ。

 

「──待ってたよ! スーパースター!」

 

 風に乗って、凛とした声が流れた。ハーツクライだ。

 灰色の世界を緩やかに駆け続けている体が、意識せずとも声の主へと並ぶ。

 

「──待たせてすいません、先輩。勝ちに来ました」

「──知ってる! でも今日は()()()の早かったね!」

「──先輩に勝つ為には必要ですから」

「──へっ?」

 

 咄嗟に返した軽口に、ハーツクライからは驚いたような声が返って来た。

 一瞬だけ横目を向けると、ハーツクライは嬉しがるような、照れるような……何時の日か、映画館でウオッカ先輩とスカーレット先輩が浮かべていたような顔をしていた。

 ハーツクライは口角を上げて──競走馬ではなく、人間染みた顔で口を開いた。

 一歩分だけハーツクライが前へと進み、僅かに距離が開く。

 

「──嬉しいな! 最高に嬉しい! レースで意識されて嬉しいなんて初めてだよ!」

「──指を銜えて負ける気はないので」

「──ああっ、もう! 良いな、良いな! このままずぅっと走ってたい!」

 

 朗らかな声が、高速で流れる芝の上に落ちる。落下点から、音の雫が広がっていくような錯覚を覚えた。

 地面に落ちた音が、じりじりと焦げるように広がって行く。たった一つの声の波動が、世界そのものを飲み込んで行く。そんな錯覚だった。

 しかし、世界は──錯覚ではなく、質量を伴うように、重くなる。

 

「──だから、最後まで最高のデート(勝負)をしよう!」

 

 ぞわりと、背筋が震えた。ハーツクライの空気が変わる。勝負のラスト3ハロンが始まった。

 後方で『英雄』の脈動が強まったのを感じる。本来なら歴史に残る筈だった末脚──ディープインパクトの追い込み(ラストスパート)が始まった。

 ハーツクライとディープインパクト。怪物二頭に勝つ為に、俺も僅かに残していた脚の手網を解き放つ。

 

『──第3コーナーをカーブ! □□□□行った! □□□□2番手になりまして、ハーツクライ3番手! そしてアフターマスも動いた! アフターマス、四冠目を狙ってすぅーっと上がって行った!』

 

 風。青く見える風が、俺に強く纏わり付く。いつもより強く吹いて見えるのは、俺の願望が反映されているのだろうか。

 一歩で、空を飛ぶ。二歩で、時間を飛ぶ。三歩で、歴史を飛ぶ。

 中山競馬場の最後の直線では、どれくらい多くの競走馬達が泣いたのだろう。此処の二度目のスタンド前はとにかく短くて、後方からレースを組み立てる競走馬は泣きを見る羽目になる。

 此処は──夢のグランプリなんて呼ばれる『有馬記念』は、そういう戦場だった。

 

 ……ああ、でも。お前だけは、違うよな。知ってたよ。嫌になる程、知ってるんだ。

 

『──第4コーナーをカーブ! 直線コース向いて、ここで先頭代わって、アフターマス! アフターマス先頭だ! ハーツクライ! ハーツクライ! □□□□が来た! □□□□来た! 外から──』

 

 ──ディープインパクト。

 

 当然のように、奴は俺を追い抜いた。

 残り300mくらいだろうか。最後の坂が丸々残っているが、奴は一息で飛び越えて行く。比喩ではなく、本当に奴は飛ぶのだ。坂だろうと、平地だろうと関係なく。

 

 勝ちたいな、と思った。だから、やれるだけの事をやった。でも、現実が此処にあった。

 

 ディープインパクトは、最後は絶対に垂れない。奴は加速し続ける。先行していても抜かれたなら、もう勝ち筋はない。此処から差し返せるだけの脚は、俺には残されていない。

 だから、このレースも負けだろう。此処から先は、いつも通りの二着決定戦だ。

 一着は、ディープインパクト。二着以降、その他。今日のレースも、いつも通りそんな結末。

 

 ──巫山戯るな。

 

「──まだだっ!」

 

 ぐっ、と脚に力を入れる。全身が赤熱したように、体を撫でて行く風を感じた。前世と違って、まだ物理的には脚が残っているじゃないか。

 だから、まだだ。まだ終わっちゃいない。

 先に進むディープインパクトを睨み付ける。今日の奴は、何故か『菊花賞』の時の走りをしていない。

 嘗めている──訳ではないだろう。出し惜しみでもないのだろう。背中からでも、ディープインパクトが本気で走っているのが分かるから。

 正直、奴が何をしたいのかなんて分からないし、知った事ではない。

 俺は勝ちたい。それが全てだ。

 

 叫ぶように、息が漏れた。こんな所では終われない。

 勝ってGI馬になる。先輩方に並べる立派な競走馬(ウマ娘)になる。負け馬じゃない。本当の意味で、チームリギルの一員になるのだ。

 俺だって──期待に、応えたいから。

 

「──此処から! 勝負だ!」

 

 背後から、叫び声が聞こえた。

 身が竦みそうになる程の覇気。ディープインパクトが二頭いる……そう錯覚する程の輝きが、背中を焼いた。

 当たり前の話。勝ちたいのは、他の競走馬──ハーツクライだって、そうだった。

 競走馬の意地が、俺の背を貫く。

 

『──ハーツクライ! ハーツクライが加速する! アフターマス捕らえられた! 先頭入れ替わってハーツクライ!』

 

 俺の隣を、ハーツクライが追い抜いて行く。此処に来て、呆気なく差し返された。

 必死に食らいつこうと脚を動かすが、少しずつ……少しずつ、着実に差が開く。その反面で、ディープインパクトとハーツクライの差は縮む。

 

 ゴールラインへと駆けるハーツクライは、恐ろしく強い走りだった。

 前世のハーツクライは差し返すなんて走り方はして来なかったけれど、それは今世と前世で俺の取った作戦が違うからだろう。

 それでも、変わらずに強い走りだったというのなら……それは、ハーツクライが自分の走りを貫いた。それだけだろう。

 俺にはない()()()()()という魔物が、俺へと牙を剥く。ディープインパクトとハーツクライにはあって、俺にはない……そんなものが、俺に突き刺さる。

 

「──まだ諦めるなぁぁあああああ──!」

 

 ハーツクライが、再び叫んだ。自分に対して言ったのか、俺に対して言ったのか。()()()()()()()()の性格から考えても、分からない。

 分からないが、もし後者なら──勝手に、諦めた事にしないで欲しい。

 俺はまだ、走っている途中なのだ。まだ……負けていない。

 

『──アフターマス! また伸びる! まだ伸びる! 『衝撃』の末脚は終わらない! ハーツクライ捕らえられるか!? 逃げ切るか!? どうだ!? ハーツクライ! アフターマス! ハーツクライ! どっちだ!?』

 

 残り何mだろうか。分からない。世界がひっくり返った気がして、何処を走っているのかも分からない。俺は今、人間なのか、競走馬なのか、ウマ娘なのか。それすらも、限界の中では分からない。

 でも、それがなんだと言うんだ。この程度でへこたれていられない。負けたくないのだ。勝つと決めたのだ。皆の誇りになると決めたのだ。

 だから、だから──。

 

「──あっああぁああああああ──!」

 

 ──だから、どうか。こんな所で、限界に負けないで。

 

『──しかしハーツクライだ! ハーツクライが更に突き放した!』

 

 決死の一歩が、届かない。軽い体が悪いのか。偽物の俺が悪いのか。何が悪いのか、本当に分からない。

 でも、ただ一つ、言えるのは……俺は、勝ちたくて、勝ちたくて、堪らない。それでも、勝てない。皆の期待に応えられない。

 

 情けない。みっともない。申し訳ない。ごめんなさい。

 

 東条さんと、チームリギルの先輩方。沖野トレーナーと、チームスピカの先輩方。他にも、練習に付き合ってくれた別チームの先輩方や、俺に張り合ってくれた同期の皆。そして、前世で俺を育ててくれた人達。

 俺は皆の期待に、応えたかった。掛けて頂いた手間に報いたかった。

 限界を越えられる競走馬に、なりたかった。

 ディープインパクトや、ハーツクライ先輩のように、限界の先へ進める()()()になりたかった。

 先輩方は限界を越えて来たウマ娘ばかりだから、レース前に一目で良いから、先輩方に会いたかった。会えば力が貰える気がしたから、みっともなく、つい探してしまった。

 いないと分かっていても、『弥生賞』の時みたいに──()()()()()()みたいに、いてくれるかもしれないな……なんて、思ってしまったから。

 

 スタンド前に降る声は、水に似ている。しっとりとしていて、重くて、体を綺麗に覆う。

 人の夢が、声を通じてターフを進む背中を押す。押された競走馬が夢に近付けば近付く程、時間の流れがゆっくりになって、競走馬は速くなる。

 例えば……前を行くハーツクライ先輩のように、夢のような競走馬であれば、歴史に残る速さになる。限界を、軽々と越えて。

 

 ハーツクライ先輩。お願いだから、そんなに簡単に限界を越えないで欲しい。実は先輩も、もうとっくに限界が来ている筈だ。

 俺と同じで、余裕のない走りをしていて……それなのに、ディープインパクトに肉迫する程、加速し続けている。

 ハーツクライが限界を越えながら走っているなんて、前世は全く気付かなかったけれど、今回は気付けたから言わせて欲しい。

 限界を越えられない俺が馬鹿みたいだから、そんなに当たり前の顔で、限界を越えないで。

 もしかしたら、限界を越えられたら俺が勝ってたかもしれない──そんな後悔を、伸び代の残っていない俺に、与えないで欲しい。

 

『──ハーツクライだ! ハーツクライ! 今年の有の勝者は! ハァァァァァツクライだ、ゴォォォォォルイィンッ!』

 

 凡そ4馬身先。ゴールラインを、二本の脚が踏む。

 ハーツクライと、ディープインパクト。この光景を見るのは、二度目だ。どちらが勝ったのだろうか。馬鹿になった俺の頭では、分からない。

 ただ、まだあの走りが残っている筈のディープインパクトが、悔しそうな顔をしている気がして……ざまあみろと、少しだけ思った。

 もし()と話が出来たら、何がしたかったんだよお前……と、揶揄うけれど、もしはもし(if)でしかない。現実が全てだ。

 一着と二着、ハーツクライかディープインパクト。三着、俺。その結果もまた、現実だ。

 

 万雷の喝采が、ハーツクライ先輩へと降り注いだ。幾らかのざわめきが、雑音のように混ざる。

 夢のグランプリ『有馬記念』。夢だけが走り、夢だけが勝つレース。前々世のこの舞台で勝ったハーツクライは、やっぱり本物の強者だった。

 晴れ空のように伸びやかな背中に、心の中で賛辞を贈る。敗者は、勝者を祝福しなければならない。

 

「──あ、れ……?」

 

 空は晴れ。季節は冬。顔に吹き付ける風も、それ相応に乾いていた。

 なのに、何故か……俺の顔は雨に濡れたように、不思議と冷たかった。

 

 

■□■

 

 

 こつ……こつ……と、地下バ道に足音が響いた。

 この薄暗い道は不思議な冷たさがあって、何時だってシンボリルドルフを落ち着かせた。

 思えば、自身が初めて負けを経験した『ジャパンカップ』でも、この場所の静けさが自身に平常心を取り戻させたのかもしれない。

 

 ──なんて言うのは、真っ赤な嘘だ。

 

 負けて取り乱さないウマ娘は、レースに出た事がないウマ娘だけだ。

 自身が経験した三度の負けは、その全てが許容し難かった。例え百度経験したって、負けに慣れる事は断じてない。負けに慣れる事があるとしたら、それは競技者ウマ娘としての終わりを意味する。

 

 かつり……かつり……と、蹄鉄が地面を軽く打つような音が響いた。

 音を不規則に感じるのは、レース後の心身の疲れが()()を襲っているのか──はたまた、最後の驚嘆すべき加速で脚を痛めたか。

 何方にせよ、今は頑張った後輩を労うのが先だろう。敗北の痛みは、肉体のそれより残酷だ。

 

「世辞でも嫌味でもなく、本当に見事なレースだった。あの出遅れから彼処まで巻き返すのは、私やマルゼンでもかなりの覚悟が必要だ。頑張ったな、アフタ」

 

 地下バ道の出口から、光を背にしてやって来た小さなウマ娘──アフターマスへと、声を投げかける。

 アフターマスは驚いた顔をした後、歩みを止めた。小さく、口を開く。

 

「すいません、先輩。負けました。ハーツクライ先輩、強かったです。本当に、強かった」

 

 そう返事をして、アフターマスはまたゆっくりと歩き始める。少しだけ右脚を庇うような仕草を見せていた。立ち姿から大事ではないと思うが、それでも心配だ。

 

 控え室まで肩を貸そう。ありがとうございます。

 そんなやり取りしてから、シンボリルドルフはアフターマスを抱え上げた。

 

「……あの、ルドルフ先輩。これ、肩を貸すんじゃなくてお姫様抱っこ」

「すまない。どうしても身長差があってな。肩を貸すより、こっちの方が早いんだ。脚は大丈夫そうか?」

「くそ身長め……脚はまだまだ大丈夫です。ライブも出来ます。ただ、力を入れ過ぎて熱が篭ってるので、アイシングしないと故障するなと思いました。まる」

 

 それは大丈夫とは言わないんじゃないか? そう軽口に返しそうになって、シンボリルドルフは飲み込んだ。

 アフターマスが強がって緩さを取り繕っているのが、目に見えて分かったからだ。

 二ヶ月振りの再会。それでもやはり、後輩の分かり易さは変わらなかった。

 まるで、二ヶ月の空白がなかったかのように、いつも通りの時間が流れる。

 

「ハーツクライ先輩の最後の加速、凄かったですよね。あれ、加速しなきゃ負けるって思ったらしいですよ。笑っちゃいますよね。あの時、もう2バ身は差が付いてたのに」

 

 ぽつりぽつりと、アフターマスが口を開く。自嘲するように、勝者を称えた。

 

「それだけ、後ろからの……アフタの気迫が強かったのだろう」

「そうですかね。そうだと良いな。……勝ちたかったなぁ」

 

 勝ちたかったな。勝ちたかった。本当に、勝ちたかった。

 少しずつ、腕の中の少女の声が濡れて行く。

 

「俺、どうしてこうも弱いんだろ」

 

 血を吐くような呟きに、シンボリルドルフは何も答えない。静かに、少女の声に耳を傾ける。

 

「学んだ事を出し尽くしても、勝てない。何をやっても、勝てない。皆の誇りになれない」

 

 情けない。そう呟いて、アフターマスは口を閉じた。目許が震えていて、顔を取り繕っているのが容易に分かる。

 これ以上の泣き言を言うのは、迷惑だ……そう後輩の顔には書いてあった。

 シンボリルドルフは、口を開く。

 

「チームリギルには、強い後輩がいるんだ」

 

 何を言っているんだろう。そんな顔をしながら、アフターマスはシンボリルドルフを見上げた。

 シンボリルドルフは眉尻を下げながら、足を止める。顔を、アフターマスへと向けた。

 

「驚く程に志操堅固でな。どうも、越えたい目標があるらしいんだ。その為にはなんだってする強さがある。その上、責任感だってとても強いんだよ。私達の誇りなんだ」

 

 シンボリルドルフはアフターマスを抱える腕を少し直して、再び歩き始めた。

 こくり……こくり……と、二人分の体重が乗った足音が地下バ道に響く。向かう先は、夢の舞台『有記念』が行われたターフとは逆方向。観客の歓声から遠ざかるように、静かな建物の中へと進む。

 勝者の栄光は光の中で、敗者の涙は暗がりの中で。そんな感傷がシンボリルドルフを襲うのは、形は違えど、()()というものが、自身とアフターマスにとっては特別なものだからだろうか。

 腕の中で、アフターマスが自分の勝負服の端を、ぎゅっと握り締めたのを感じた。

 

「ただ、そいつにはどうしようもない欠点があってね。凄く臆病で、嘘吐きなんだよ。不抜之志と言うには動揺が多くて……あと、ばれないように泣くのが上手い」

 

 アフターマスは、必死に目を瞑った。ふるふると、瞼が揺れている。恐怖心への涙は隠せる癖に、それ以外は駄目らしい。

 シンボリルドルフは穏やかに笑い……ふと、既視感を覚えた。

 後輩──アフターマスへとエールを送り、アフターマスは泣くのを我慢する。この状況には、覚えがあった。

 シンボリルドルフはいつの事だったろうかと考えて……『弥生賞』の直前であった事を思い出した。

 マルゼンスキーに笑われるのも宜なるかな。最初にアフターマスの応援をしにターフの傍へ立ったのは、自分だった。

 それに気付けば、どうして自分が忘れていたのかも、容易に思い出せる。

 色々な()を背負わされた少女に、これ以上の夢を……シンボリルドルフの新しい()を、背負わせたくなかった。だから、諦める為に忘れたのだ。

 果たして、それが正解だったのかなんて、現状を見れば容易に分かった。

 シンボリルドルフは、自身の失敗を認めた。

 アフターマスは、夢を背負えるだけ強いのに、自分が何を背負わされているのかを知らずに、自分を信じ切れずに潰れている。だから、教えてやるべきだったのだ。例え、新しい()をひとつ、彼女に載せたとしても。

 

「アフターマス、勝とう。次こそ、私達と一緒に」

 

 ()()()()()()()()()()()のではなく()()のだろう?

 

 シンボリルドルフのその投げ掛けに……アフターマスは、遂に一筋、涙を零した。

 

 アフターマスが固執する幻影のウマ娘、ディープインパクト。

 実の所、シンボリルドルフは、その正体に凡その見当が付いている。しかし、それをアフターマスに伝える訳にはいかない。

 だからこそ、アフターマスには勝って貰わねば困るのだ。自分達が直接育てたウマ娘は、ディープインパクトではなくアフターマスである。アフターマスならば……自分の本当の在り方に向き合えたならば、勝てると信じているから。まだまだ、アフターマスは強くなれるから。

 

 そして、いつの日か──。

 

「──私達と一緒に走ろう、アフターマス。私の夢だ。リギルメンバーがいて、テイオーやスピカの面々もいて、オグリキャップやミホノブルボン達がいて……そして、アフタがいる。そんなレースを、私は走ってみたいんだ」

 

 私達に()()()くれるんだろう?

 シンボリルドルフのその問い掛けに応じるように、暗い地下バ道には、一つの雫が落ちた。

 

 シンボリルドルフは、ようやく少し素直になった後輩に安堵しながら……一つ、大事な事を思い出した。

 まだ、この少女に言うべき事が一つだけ残っている。長い間、家出し続けた少女へと、送る言葉が。

 

「ああ、そうだ。うっかり忘れていたな──おかえり、アフタ。帰ろうか、皆の所(チームリギル)へ」

 

 少女は、嗚咽を漏らす。

 長い旅路の果て、傷と強さを身に付けながら、帰るべき場所へと穏やかに進む。

 暗がりを抜けた先、彼女の為に用意された控え室に、ずっと会いたかったリギルメンバーがいる事を、偽物の少女(大嘘吐き)はまだ知らない。

 

 

■□■

 

 

「とんでもない嘘吐きがいたもんだな、本当に」

 

 沖野は、現実味を欠いたように呟いた。視線の先にあったのは、中山レース場の電光掲示板だった。

 そこには、一着のウマ娘──ハーツクライの上がり時計2()()2()9()()9()と、二着に沈んだウマ娘──アフターマスとの差が4バ身と表示されていた。

 沖野は癖で手に握っていたストップウオッチを、自分の左側に立つ人物へと向けた。ストップウオッチの数字は、自分達が応援していたアフターマスの上がり時計を示している。

 

「おハナさん的にはこれ、知ってた?」

 

 差し出されたストップウオッチを一瞥して、東条は溜め息を吐いた。

 

「……想定した事はあったわ。あの子、レクリエーションとかでは驚く程にハイペースで走るの。だから、実際に()()で走らせて計測してみた事もあるわ。でも……」

「いざ走らせてみると、不思議とタイムが伸びない。走らない──いや、走れない……って所か。成程な」

 

 沖野はがりがりと頭を掻いた。

 全て、納得がいった。アフターマスと言うウマ娘の感じるスランプの正体。彼女の走りが見せる、奇妙な特徴。彼女の性格と噛み合わないレース運び。その全てが。

 

「いや、こんなの流石に分かる訳ないって。アフタは、実はシンボリルドルフ(万能なウマ娘)じゃなくて、サイレンススズカ(特化型のウマ娘)だった。それも、力押しで無敗の三冠取れるだけのポテンシャルを持った」

 

 誰が思い付くって言うんだ、そんなの! ……沖野は、理不尽さにそう憤りそうになり、ぐっと飲み込んだ。世の中、ままならない事だらけなのは当たり前だった。

 

 アフターマスの感じるスランプの正体。それは、彼女の走りが彼女の性能に付いて行けなくなった事に起因していた。

 彼女の肉体は──本能はまだまだ速く走れるのに、理性がその邪魔をする。他のウマ娘を基準に走るせいで、パフォーマンスを発揮出来ない。本当の全力では走れない。

 

 それは、かつてサイレンススズカという稀代の逃げウマ娘が陥った苦労と同じだった。

 ただ少し違うのは、アフターマスと言うウマ娘は、無敗の三冠ウマ娘なのだ。そして本人も、先行差しも一応出来る追い込みウマ娘……そう、本気で思い込んでいる。

 競技者ウマ娘としての一つの結論が無敗の三冠ウマ娘だ。すなわち、彼女である。その本人が間違えたまま走っている等、想定する事自体バ鹿げている。

 

「ただ、流石にこんなハイペースでもいつも通りに走り切れるなんて思ってなかったわ。もしかしたら、()()も出来るかもしれない……程度の認識だったのよ」

「そりゃあそうだろ。無敗の三冠ウマ娘が隠していて良い武器じゃないぞ、ありゃ」

 

 まあ、先頭集団に目星を付けていたウマ娘──ハーツクライがいたから起きた奇跡かもしれないが……そう呟いた後に、沖野は東条へと視線を向けた。

 

「その真相が知りたくて、傷心中の家出娘を迎えに行かず、此処に残ったって訳だ。おハナさんは」

 

 東条は沖野のにやついた顔に視線を飛ばし……負けたように口を開いた。

 

「……まず間違いなく、心のケアにはルドルフが動くから問題ないわ。むしろ私が行くよりも、今はチームのウマ娘同士の方が良いわよ。あの子達、二ヶ月振りの再会だもの」

「どうだろうな。チームの()()()()がいないと、締まるものも締まらないんじゃないか?」

 

 からかわないで。そう返して、東条は一度目を閉じた。

 

 正直に言えば、沖野が邪推するように、今頃はルドルフに拾われているだろうアフターマスの激励に向かいたかった。だが、今はそれより大事な事があるのだ。

 アフターマスとの約束──彼女が満足するまで速くしてみせるという、死んでも破れない約束。

 その足掛かりが、今此処にある。

 

 東条は静かに瞼を上げて、沖野の向こう側……チームスピカのトレーナーの隣に立つ、一人のウマ娘へと視線を向けた。

 アフターマスの生来の走りを知る、一人の少女へと。

 

「私の知るアフタは、既に追い込みウマ娘だったわ。でも、今日のアフタはスズカと同系統の走りをぶっつけ本番でやってみせた()()()()()。一体、どっちが本来のアフタなのかしら。教えてくれないかしら──()()()()()()()()()

 

 好敵手とも呼べるチームのトレーナーに名を呼ばれ、少女──メジロマックイーンは、関係者室の窓から見える電光掲示板から、東条へと視線を移した。

 

 自身を偽物だと定義した少女、アフターマス。

 彼女を本物へと押し上げようとする存在が、夢の生まれる暮れの中山に集ったのだった。




『泣いた偽物』編、完。

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 いつもご愛読頂き、本当に有難う御座います。
 実は先日、総合評価17,000pt、お気に入り登録9000件、栞3000件を突破致しました。
 ささやかながらお祝いというか、お礼に掲示板形式のオマケを用意致しました。掲示板形式は好き嫌いが別れるので、読まなくても一応問題ない内容となっております。あと、ちょっとした設定を前書き後書きに用意してあります。
 最終推敲が御座いますので明日の投稿になり恐縮ですが、楽しんで頂けると幸いです。
 ……あと、続きはもう暫くお待ち頂ければ幸いです。実は今週末は、かなり忙しいもので……!
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