走り抜けても『英雄』がいない   作:天高くウマ娘肥ゆる秋

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需要があったので慌てて書きました(小声)


第2話 曇り空

 二度と忘れられない()()が、そこにいた。

 その走りで起きた()()は、何時までも消えないようだった。

 そいつは芝の上で、空を飛んでみせた。不可視の翼を、確かに目撃した。

 

 同年代のウマ娘と比較しても、小柄過ぎる体格。バ群に飲まれてはパワー負けするだろう矮躯は、同時に柔らか過ぎる有り様だった。

 一点、体付きのバランスだけは良かったが、それ以外に見所はない……それどころか、欠点の方が多い。彼女はそんなウマ娘だった。

 

 きっと、この子はレースですぐに怪我をするだろう。走る才能はそんなにないウマ娘だろう。レース以外の道を教えて、早々(はやばや)そっちの世界へと歩ませた方が、この子の為になる。

 彼女の両親がそう判断しても、仕方がない特徴をしていた。

 

 残酷な事だが、レースの世界では才能が絶対的な指標となる。年間何千人という、彼女と違って才能や体格に恵まれたウマ娘達が挫折し、心を折り、幾つもの負けだけを積み重ねては去っていく。そういう世界だった。

 その中には、彼女と同様に名家出身のウマ娘だって、少なくはない。

 

 東条ハナは最初、彼女に走る事を諦めさせる為に、彼女の元へと訪れたのだ。

 

 ──足の爪が割れて、靴が血塗れになっても走るのをやめない傍流の娘がいる。才能のない彼女へと、現実を告げてやって欲しい。

 レースは、才能の壁というどうしようもない厳しさが存在する世界であると伝えてやって欲しい。()()で何人もの時代の寵児を見出した、トップトレーナーである貴女の口から。

 

 (かね)てから交流のあった名家から、トレセン学園に入る前の若いウマ娘達へと、一日だけの指導を頼まれた時。併せて出されたその依頼へと、東条ハナはすぐに承諾を返した。

 

 その一族は黄金の年とも言える程に、数多くの若き綺羅星を抱えている事で有名だった。彼女達はいずれも中央トレセン学園の中等部に進む事が半ば内定していたので、他のトレーナーに先んじて次世代の才能を間近で確認する絶好の機会だと思ったのだ。

 

 勿論、そんな綺羅星達と同年代であるという()()()()が心配だったというのもある。

 まだ小学生の幼い少女が、血と激痛に耐えながら走り続けるなど、只事ではなかった。

 すぐ傍にいる天才達の強過ぎる光に充てられて、自分を見失ってしまっているのかもしれない。才能のなさという自分の非ではない所で、自分を責めすぎて、やけくそになっているのかもしれない。

 そうやって潰れてしまったウマ娘達を、東条ハナは何人も見て来た。人格すらも歪んでしまった子を、何も出来ないまま見送ってしまったこともあった。

 ()()()()よりも精神的に成熟したウマ娘達でさえそうだったのだ。名家がレースを走らせる前に()()()幼い娘であれば、心身の成長にどのような悪影響が出るかわかったものではない。

 東条ハナはその少女の担当トレーナーではない。だが、一人のトレーナーとして、苦しんでいるウマ娘を助けるのは当たり前の事だった。例えそれが、残酷な現実を突き付ける事であったとしても。

 

『初めまして。貴方が()()()()()()さんね? 私は東条ハナ。中央トレセン学園でトレーナーを──』

『──トレーナーさん!? じゃあ、()()()()速く走る方法、たくさん知ってますよね!?』

『えっ、ええ……それなりにはね』

『すいません! じゃあ一つで良いんでアドバイス下さい! 俺、今伸び悩んでて、ミリアンやカネヒキリ──友達に相談しても分からないって言われちゃって──』

『──……ええ。良いわよ。それじゃあ、少し走りを見せて貰えるかしら』

 

 第一印象は、とても焦っている子だな、というものだった。やはり、同年代の天才達と比べてしまったのだろう、とも思った。

 彼女が今言ったミリアンというのは、ヴァーミリアンの事だろう。カネヒキリと合わせて、どちらも次の時代の牽引役として期待されるウマ娘だった。

 アフターマスは焦りからか少し失礼な態度ではあるものの、子供なら大なり小なり全員そんなものだろう。そんな事よりも、走りへの貪欲な姿勢が好印象な、吸い込まれるような瞳をしたウマ娘だった。

 それは思わず、応援してしまいたくなるような……。

 

 ──だからこそ。実際に走りを見た上で、言い訳出来ないくらいに否定しよう。

 理詰めで。精神論で。肩書きで。思い付く限りの言葉を弄して。彼女が自分の意思で、レースから離れられるように。

 

 東条ハナは、そう心に決めたのだった。

 ……彼女の家が持つ練習用コースで、それを見るまでは。

 

『──6ハロン8()1()()6()……ラスト1ハロン、1()2()()6()……? この歳で? いえ、そんな事よりも、今の走りは何……?』

 

 ──きっと、それは運命の始まり。

 噂に聞いたヴァーミリアンとカネヒキリよりも速い時計。彼女がどうすれば更に速くなるかなんて、二人に分かる訳がない。ウッドチップコースを1800m走り、汗一つかいていない小柄過ぎた少女。彼女の方が、二人よりも格上だった。

 ()()()()、東条ハナはそのタイムをそんな事よりも、と切って捨てた。

 

 ──なんという走りだろう。信じられないような脚。関節。いや、体幹か……? 末恐ろしい──なんてものじゃない。かつて、日本にこんなウマ娘は居なかった。

 この子に才能がない? 違う。この子の走りが、他とは違い過ぎた。ただそれだけ。

 

『──見付けた』

 

 何故走れるのか、理解出来ない程の前傾姿勢。一歩一歩が異様に長く、その上で全く上下に揺れない体。体に置き去りにされた腕が、風を切って直線を描いていた。腕の振りはなく、スライドや、バネの使い方に至るまで。それはウマ娘の定石を無視した走り。

 あれは本当に走っていたのだろうか。いや、飛んでいたのだろう。彼女は走る必要なんてないのかもしれない。そんな事しなくても、誰にだって勝ててしまう様になるのだから。いずれ、世界のウマ娘達が相手だって関係なくなるだろう。

 だって、彼女の背中には翼が──。

 

 ──……ない?

 

 東条ハナは、歩み寄ってきた()()()に翼が生えてない事を確認して、ようやく()()から解き放たれた。

 

『──東条さん、どうでした!? 俺、どうすればもっと速くなれますか!?』

 

 屈託のない笑顔──ではなく、見事な走りを見せたにしては焦燥した顔。アフターマスは、必死に()()()()()()を求めていた。

 気付けば、東条ハナは口を開いていた。

 

『……ごめんなさい。私でも、分からなかったわ』

『えっ──あ、そうですか……すいません、走りまで見て頂いたのに』

『いえ。こちらこそ、ごめんなさい。()()()()()ウマ娘を見て来たつもりだったけど、貴方みたいな走りをする子は初めて見たわ。私もまだまだね』

『いえ……見苦しい走りを見せてすいません。あ、ミリアン──ヴァーミリアンとカネヒキリなら、今日はダートの方に居ますよ。二人に会いに来たんですよね? それじゃあ俺、もうちょっとだけ走ってきますんで。ありがとうございました』

『──ちょっと待って貰って良いかしら』

 

 咄嗟に口を衝いた言葉に、東条ハナは自分で首を傾げそうになった。

 ちょっと待って貰って、私はどうするつもりなのだろう。そういえば、そもそも私は何の為に彼女の走りを見たんだっけか。彼女から受けた()()が強過ぎて、忘れてしまった。

 ……ああ、そうだ。思い出した。私は、彼女の翼を折りに来たのだ。そうして、ヴァーミリアンとカネヒキリの走りを確認して、見込みがあれば繋ぎを付けて──本当に?

 

『──アフターマスさんは、進学は何方(どちら)へ?』

『一応、中央トレセンが第一志望ですけど……』

『ああ、良かった──アフターマスさん。入学式が終わったら、すぐに()()()ってチームの部室を訪ねてくれないかしら? 貴方が来るまでに必ず、貴方が速く走る為の完璧なメニューと環境を用意しておくわ。もし、場所が分からなかったら私の──東条の名前を出して誰かに聞けば、すぐに分かるから』

 

 一瞬、『本当に!?』と嬉しそうな顔をしたアフターマスは、しかしすぐに申し訳なさそうに辞意した。

 

『正直、めちゃくちゃ有難いですけど、流石にこれ以上迷惑をかけちゃ悪いですから。会ったのも初めてですし、それに中央に受かるか分からないですから』

 

 落ちる事を心配する彼女へと、少し笑いそうになった。

 

『あら、どっちも気にしなくて大丈夫よ。貴方なら間違いなく合格するし、私は私の負担なんかより、貴方が少しでも速く走る事の方が興味あるの。だって私は──』

 

 だって私は──なんて言おう? 彼女は、他の子達みたいにリギルに憧れて選抜レースを走った子ではない。彼女にとって、私はたまたま知り合っただけのトレーナーに過ぎない。少なくとも、担当トレーナーではない。今はまだ。

 ならば──ああ、そうだ。これしかないだろう。これは、私の一方的な片想いだ。だから──。

 

『──トレーナーなのよ?』

 

 ──トレーナー。

 その文字に、今だけは、冠は要らない。

 

 

■□■

 

 

 十月の京都は、正直ちょっと肌寒かった。

 

 トレーニングに熱を入れすぎてエアグルーヴ先輩の怒りを買ってから、早くもひと月が経つ。

 

 天候は生憎の曇り空。だが、実際に雨粒さえ落ちてこなければ、晴れでも曇りでも誤差である。後はレースが終わるまで雨が降らず、良バ場を維持してくれる事を祈るのみ。

 ちなみに、事前に教えられたレースの番号は4枠7番で、念願の内枠だった。前世の番号なんて覚えてはいないが、きっと俺に追い風が吹いている証拠だろう。そう思う事にした。

 

「それでは、今から会場内まで移動します。各自、忘れ物のないように。……それと事前の打ち合わせ通り、今日は常に誰かがアフターマスの傍に居る事。良いわね?」

『はい!』

「宜しい。それでは、会場入りします。着いて来なさい」

 

 東条さんの号令に、大小様々なウマ娘の声が、移動用バス内で返事を響かせた。

 

 ──新幹線を使い、中央トレセン学園のある東京からレース会場のある京都まで、二時間と少し。そこからURAによって用意されていた移動用バス──マスコミ対策の為、今乗っている物とは別の車輌だった──に乗り、更に二十分程。合計二時間半程度の時間をかけて、俺達チームリギルが現地入りしたのは昨日の事だ。

 

 クラシック最後の大舞台『菊花賞』。誰かの夢に、一つの区切りが付く日。一番強いウマ娘だけが笑い、二番目以降は涙を飲む日。

 ついでに、世間的に言えば、俺が()()()()()()()()という、たった一行の神話へと、二行目を書き足すのか。歴史が動く運命の日。それこそが、今日だった。

 

「……東条さーん。昨日も言いましたけど、流石に今日は何もしませんって。昨日だって練習せずにきちんと休んでたじゃないですかー。少しは信用して下さいよ」

「ええ、信用してるわよ。信用した上で、この判断を下したわ。グラスワンダー、エルコンドルパサー。控え室まで頼んだわね」

「了解デース! 今日は不良後輩から片時も目を離しませんヨー!」

「あらあらー。エルったらやる気満々ね。まだ先月の事を引き摺ってたのかしら。……寄り道させず、走らせず。()()()をきちんと控え室まで連れて行きますね、トレーナー」

 

 エルコンドルパサー先輩はめらりめらりとした炎を目に宿し、グラスワンダー先輩は相変わらずおっとりと──外見だけだが──しながら返事を返した。

 東条さんは信用している等と言っていたが、チーム内での俺の信用のなさが如実に現れた一幕だった。

 

 実は今回の遠征には、俺と東条さんだけでなく、チームリギルの全員が来ていた。

 これは、今回の俺のレースが特別だから……とかではなく、基本的にチームメンバーの重賞レースは事情がない限り、チーム全員で現地まで見に行くという、暗黙の了解が存在していたからだった。

 これは俺でさえ自分の練習を我慢して守るくらい重要な行事であり、その分の()()も多い()()でもあった。

 

 前提として、チームリギルは強い。それはもう、鬼のように強い。

 近年、チームスピカという対抗馬──そういえば、こっちの世界では馬はいない訳だが、『対抗馬』という表現はどう変わっているんだろう。対抗バ? それとも対抗ウマ娘?──が現れるまで、満場一致でチームリギルの一強時代だと言われた。

 俺は知らなかったが、ウマ娘ファンなら学外の人間でも知ってて当然と言われる程のチームこそがリギルだった。

 

 そんなチームであるから、我らがリギルのメンバーが参加するレースもまた、レベルが高いものばかりだった。

 勝ち鞍に重賞があるのは当たり前、先頭がレコードペースで駆け抜けても競り合いを演じ、地元では当然スーパースター扱いされる。

 リギルメンバーの参加するレースでは、そんなウマ娘ばかりが何人も敵として出走している。そんなハイレベルなレースだからこそ、疑うまでもなく強者であるリギルの仲間が、本来の……或いは普段以上のパフォーマンスを発揮する。

 勉強になる事は山程あって、実践練習の奴隷である俺からしても、観ないという選択肢を選ぶのは些か勿体ない程だった。

 

 そしてそれは勿論、今日俺が出走する『菊花賞』も例外ではない。ただ、それだけの話だった。

 

「うーん……本当に何もしないんだけどな」

「しないだろうよ、レース前はな」

「……どういう意味です? ヒシアマ先輩」

「さてな? 例えばの話、気に入らない()()の場所と壊れ易い方向を確認しておいて、レース後にドロップキックでぶち壊す……くらいの事を平然と企んでそうな顔してるな……と思ってな。どう思うよ、フジ」

「そうだねぇ……後は『レース直後で興奮してました! 単なるパフォーマンスのつもりでした!』とでも言えば言い逃れ出来る……とか、考えてそうかな?」

「………………ちょっと何言ってるか分からないですね」

 

 まだレース前だと言うのに、本気で戦慄を味わった。そんなにも俺の考えは顔に出るのだろうか。納得いかなかった。

 実の所、ヒシアマ先輩とフジキセキ寮長が言った事は、全て正解だった。

 

 今日走るこの京都レース場には、何故か俺の銅像が建てられている。まだ三冠は取っていないにも関わらず。

 ……いや。何故か、は別にどうでも良いし、俺の銅像が建てられた事自体も別に気にしてはいなかった。URAにはURAで色々と事情と予定が有るのだろうし、銅像を建てる許可だって一応は事前に取りに来てくれている。

 それに、時期は違えど銅像は前世でも建てられていたらしいし、自分を模した像がレース場前に居座っている事自体は、気にするだけ無駄だろうと思う。前世の銅像とやらを、俺は(つい)ぞ見た事がなかったが。

 取り敢えず、その上で俺が気にしているのは、その銅像の()()()だった。

 

 バス座席の網ポケットから、昨日貰った京都レース場の案内パンフレットを取り出し、開く。そこにはレース場内の案内マップやコースの解説、京都レースの歴史年表と並び、一枚の写真が紹介されていた。

 

 ──■■■■年■月■日、『アフターマス像』竣工! 今年の菊花に、『衝撃』が走る!

 

 ……東京レース場にあるシンボリルドルフ像と並べた時の見栄えの問題だろう。

 縮尺から考えて、実物の俺よりも明らかに高い身長。何故か胸部が盛られており、どう考えても銅像の方が俺より全体的に体格が良い。

 それに加えて、銅像であるが故の無表情。万物全て私よりも遅い。何なら車よりも私の方が速い。……とでも思っていそうな澄ました顔付き。()()()()()腹立つ佇まい。

 それは正しく──。

 

「ディープなんだよなぁ……」

 

 ──こちらの世界に来て、何故かウマ娘になっていたディープインパクトの幻影そっくりだった。

 

「ん? 何か言いマシタか?」

「……いえ、すいません。独り言です。大分似てないなぁ……って思って」

「そうデスか? うーん……あ。確かに銅像よりもアフタの方がキュートデスね」

「小さいですからねぇ……」

 

 実はこっちの世界のディープインパクトは、俺を大人っぽく成長させたかのような見た目をしている。発育を気にしている俺への当て付けか、奴の性癖だろう。そういう事にしておく。

 ……まあ、奴が幻影の癖に大きい顔を出来るのは、今日までなのだが。

 

「あらー? アフタ、何だかご機嫌さんですねー? 良い事でもありましたかー?」

「だから何で分かるんです……?」

「だってアフタ、考えてる事がずっと顔に書いてあるデース……」

「嘘だそんなことー」

 

 そろそろ、サングラスとマスクのセットを標準装備にした方がいいかも知れない。チームスピカでは標準装備の一つであるとも聞くので、多分怒られないだろう。

 そんな事を考えながら、咳払いを一つ。頭を切り替えてから、エル先輩とグラス先輩へと口を開く。それは、俺から奴への宣戦布告でもあった。

 

「実は今日の俺、過去最高のコンディションなんですよ。そこに加えて、願い通りの内枠で、この天気のままいけば得意の良バ場。今なら()()()負ける気がしないです」

 

 ()絶好調()の会()と、()距離を走っても()良い勝負して勝てそうです。そう付け加えてみた。

 前の席で荷物を整えていたルドルフ先輩の肩が震えた。ついでに、ルドルフ先輩の隣に座るエアグルーヴ先輩が肩を落とした。

 

 ふと思いつきで、『あっ、()()』と言ってみた。勿論、十月のバス内に蝶なんていないが。

 

 ──ルドルフ先輩の肩がびくんとはね、エアグルーヴ先輩の背中には影がまとわりついた。

 

 エル先輩とグラス先輩は、呆れた顔になった。

 ルドルフ先輩が肩越しに、顔だけ振り向いてくる。

 

「珍しく、今日はやけに強気じゃないか。()()賞に挑むに当たり、何か自信を持つ()()()けでも見付けたのかい」

 

 少し考えてから、返す。

 

()()()な奴にも()()()り勝てるくらいに仕上がったんですよ。今日は先輩方の度肝を抜いてみせます。見ていて下さいね」

 

 きりりと不敵な笑みを浮かべながら、宣言するように俺は言い放った。

 ──俺が、最強の()に勝つ瞬間を。そう、言葉の裏に忍ばせながら。

 

 走るのが楽しみなんて感情は、いつ以来だろうか。少なくとも、ウマ娘になってからは初めてだった。奴に勝てるという自信を抱いたのは、きっと前世を合わせても初めての事だ。

 レースが始まるまでまだ時間はあるが、レースの事を思うと、少しずつ、闘志が高まってくる。今から昂っていては体力が勿体ないので、小さく深呼吸を入れて精神を落ち着かせる。

 

 ──大丈夫だ。大丈夫。今回こそは奴に勝てる。だって、()()菊花賞を走った時よりも、今の俺の方が()()()()()()()()()()

 先日、トレセン学園で計測した菊花賞と同じ芝3000mにおけるタイムは3()()3()()6()。前世の感覚から考えて、菊花賞における奴のタイムは3()()4()()6()くらいだろう。前世の菊花賞の時は、奴とは一馬身差だったから、きっと間違えちゃいないはずだ。

 トレセン学園と京都レース場とじゃ、ターフの勝手が色々と異なるのは分かっている。だが、それでも自信を持つには十分な時計だった。

 ウマ娘の──馬の一秒差とは、それ程に大きい。一秒違えば、五馬身以上の差が生まれる。その五馬身の壁が隔てた先は、正に別の世界。

 どうもウマ娘になった()は、前世の同時期と大差ない実力しかないようだった。それでも今世で俺に先着し続けているのだから、化け物としか言い様がないが。

 だが、幾ら何でもこれで俺の勝ちだろう。そう確信出来るだけのタイム差が、奴の菊花賞と現在の俺の芝3000mでは存在していた。

 長らく辛酸を舐めさせられたが、ようやく奴の三冠を阻止出来る。それだけで俺には十分満足で、この上なく幸せだった。

 

 ──だが、それはそれとして。欠片も慢心してはやらないが。油断もしない。そんな事をして、奴に塩を送ってやる必要はない。可能な限り、差を広げてぶっ千切る。今まで空けられた距離全てを、今日まとめて返してやる。必ず。

 勝者は、俺だ。言い訳なんてさせない。

 

「……成程。緊張で空元気でも出ているのかと心配したが、言うだけの事はあるようだ。レース、楽しみにしておくよ」

「うーん、素晴らしいファイティングスピリッツデース。……アフタ、今から少しエルと走りませんか?」

「……エルー?」

「ひいっ!? じょ、冗談デース……」

 

 グラス先輩がエル先輩を諌める。……が、その諌めたグラス先輩も獲物を見付けた目をしているので、説得力に乏しい。

 やる気満々の俺を見て、先輩方は何かしらを感じ取ったらしい。

 好戦的なヒシアマ先輩やエル先輩は勿論の事。()──ディープインパクトに真っ向勝負で勝ちうるルドルフ先輩をはじめとした比較的穏やかな先輩達からも、それはそれは()()()な目を頂く。

 どうやら、今日の俺の気迫は、()()先輩方の御眼鏡に適うものらしい。俺の自信は空手形(からてがた)ではないという安心感が湧く。

 

 荷物をまとめ終わり、東条さんを先頭にしてリギルの皆でバスから降りる。

 URAがバスを替えてまで撹乱しようとしたマスコミは、当然の権利の様にバスの周りを囲んでおり、URA職員に抑えられている。

 

 ──来た! アフターマスだ! カメラ回せ──。

 ──アフターマスさん! 菊花賞への意気込みを一言──。

 ──ずばり、菊花賞でのライバルは──。

 ──フラッシュはお止め下さい! インタビューも御遠慮下さい──。

 

「うーん……ダービーの時より凄い事になってる……」

 

 バスから()()()()()()と降り──やっぱりかたんかたん(勝たん勝たん)では縁起が悪いので、かつかつ(勝つ勝つ)にする──()()()()と降り終え、顔を顰める。

 前世ではカメラに撮られる事は多々あれど、発言を求められたり、()()()()()()()()()()()事はまずなかった。

 基本的に、ただひたすらに強い馬──ディープインパクトに勝てるよう、全力を尽くすだけで十分だった。

 だが、この世界では勝負で勝つだけでは不十分で。俺達ウマ娘は、人格のある一人の人間として、様々な事を求められた。

 アイドル性、社交性、人間性。華やかにダンスを踊ったり、ファンが喜ぶイベントをしたり、メディアに一目を置かせる(さか)しさを発揮したり。

 俺はそれらが全部、苦手だった。

 ただ、走るだけ。ディープインパクトに勝つ為に。前世から、それだけが俺の全て。

 

「ふふ……すぐに慣れるさ。勝ち続けると、嫌でも注目を浴びるようになる。同時に、やっかみも。アフタ。勝つということは、人の目に晒されるという事だ」

 

 日本一有名なウマ娘は、そう言って俺の頭をくしゃくしゃにした。

 シンボリルドルフ──ディープインパクトが現れるまで、()()()()の代名詞だった伝説の馬。

 或いは、日本で一番多くの人の目に晒され、その全ての人の記憶へと、鮮烈に自分を刻み込んだ馬──その魂を引き継ぎ、自身も同様の活躍をして見せた『皇帝』。

 彼女が向けてくる眼差しが擽ったくて、俺は「そんなもんですかー」と肩を竦めた。意識して、緩く。

 根幹を揺り動かされては、決意が揺るぐから。だから、揺るぎなく()く為に。緩く、受け流す。今更、人間だった頃の俺は、要らない。()()()()()なんて、必要ない。

 俺はウマ娘だ。人間であると同時に、()なのだ。だったら俺は、()である事を選ぶ。

 

 ……ルドルフ先輩は、なんと言うか。祖父や祖母みたいな穏やかな包容感を感じてしまうから、好きだけど苦手だ。

 今世の俺の家柄もルドルフ先輩の家柄も名家だが、繋がりはなかったはずである。前世の俺にも、()()()()()()()()の血統は入っていなかったと思うのだが。

 なんと言うか、不思議な感覚だった。

 

「さて、アフタ。()新星の()躍を、日本中に一()見せてやれ」

「……まだ考えてたんですか、先輩。流石に滑ります」

 

 俺が呆れた様な顔で返すと、シンボリルドルフは、しょんぼりルドルフと化した。

 

 ──ディープインパクトが、伝説になった日。

 伝説の序章が終わり、()()()が日本中で響き始めた日。菊花賞、当日。

 

 俺は今日、英雄譚を終わらせる。

 真っ白な楽譜のような曇り空の下。聞こえて来るのは、熱狂した人達の声。足音やシャッター音が混ざった、現代の(うた)……その中で。

 偉大な先輩達に囲まれながら、改めてそう誓った。




漢数字とアラビア数字が乱立してるのはわざとなので、誤字じゃないです。

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