走り抜けても『英雄』がいない   作:天高くウマ娘肥ゆる秋

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長らくお待たせしてしまい、本当に申し訳ありません。
色々な意味で書けない期間に入ってました()

2022/3/29 11:30 追記
作中の表現を数箇所、少し変更しました。大筋に影響はありません。


第19話 夢の舞台

『お前、本当に賢い()だなぁ』

 

 ──夢を見ている。

 そう、はっきりと自覚する。

 競走馬は、間違いなく夢を見る。

 

『これで馬体がでかくなりゃ良いんだが、お前貧弱だもんなぁ』

 

 過去の追体験。既視感と懐かしさに包まれた光景の明滅。

 馬に生まれ変わって以来、刻み刻みの眠りの中では、そんな夢しか見ない。楽しかった思い出も、嫌な記憶も、夢の中では分け隔てなく再現される。

 人間の頃はどんな夢を見ていたっけ……なんて、思い出すにはもう時間が経ち過ぎている。今となってはどうでも良い事だけど、思い出せないとなると僅かに寂しい。

 

『……三角食べなんて、誰に教わったんだよお前。やっぱり中に小さい人間入ってんだろ。ほら……なんて言ったけな。黒スーツのアメリカ人がエイリアンと戦う映画。あんな感じでさ』

 

 この記憶は、まだレースにデビューする前のものだろうか。馬房のような場所で、少しだけ見覚えのある若い男性が寝藁の準備をしている。

 夢の中の俺は不貞腐れていて、男性にふしゅると鼻を鳴らして返事をした。

 何を当たり前の事を言っているんだ。俺は人間だ。馬ではない。

 そう言いたげに、右前脚で地面を掻いた。

 

 ──意識が暗転する。

 

『■さん、流石に新馬戦であんなに頑張らせなくても良かったでしょ。皐月賞に挑む前にマークされるようになったらどうすんのよ』

『いやぁ、申し訳ないです。あんまり気持ち良さそうに走るもんだから、つい』

『いや、ついって■さん……』

 

 続いて現れた場面は、新馬戦の直後だ。

 鞍上を務めてくれた天才ジョッキーが、壮年の調教師さんから小言を貰っている。苦笑いを浮かべながらのらりくらりと躱す人と、先々の事を考えて指摘を入れなければならない人。

 二人の姿を見ていると、まるで漫才を見ているようで楽しくて──言葉を伝えようとしても伝わらない自分との違いを、まざまざと思い知らされた。馬になった現実は、凡人の俺には余りに重かった。

 

 ──意識が暗転する。

 

『──アフターマス、速い速い! 並ばせない! 影さえ踏ませない! 四馬身、五馬身と再び差が開く! 二番手には■■■■の体勢、今一着でゴールイン!』

 

 走っている。驚愕に支配されながら、ただ走っている。信じられないものを見た。そんな感覚が体を襲っている。

 この記憶は、若駒ステークス。()との初めての出会いの瞬間だ。

 最終直線まで、間違いなく俺の独り舞台だった。

 馬の膂力は、人間よりも遥かに強い。まだ若い馬達の揉み合いに巻き込まれるのが怖いから、最初から何馬身かリードを取って走っていた。

 追い切りなんかの練習とは違い、本番のレース。それも、オープン戦ながらも未来のGI馬が集まる()()()若駒ステークスだ。(くつわ)を並べる馬達は、全員鍛え上げて出走して来ている筈だ。色んな意味で油断出来なかった。

 ……とはいえ、俺は競走馬の姿をしているだけで人間だ。馬の体に人間の頭脳という圧倒的なアドバンテージがある。本気の勝負では、俺が負ける訳がないだろう。

 

 ──そう思っていたのだ。深い衝撃が走るまで。

 

 最終直線で、俺は誰かに追い抜かれた。

 お前が後続に何馬身の差を付けていようが関係ない──そう言いたげに、俺を追い抜いたそいつは、最後まで加速し続けた。そしてそのまま、俺に距離を縮めさせる事なく、一着のままターフを走り切った。

 凄い……なんて言葉で表現し切れる速さではなかった。圧巻の走りだった。正に、衝撃的な強さだった。

 何なんだ彼奴は──そう思って、俺を追い抜いた競走馬へと目を走らせれば、着けていたゼッケンには、その競走馬の名を示す文字列と、有り得ない筈の『4』という番号の印字があった。

 俺は、()()()()()()()()()()を着けた半透明の競走馬──『ディープインパクト』と、その時に出会った。

 

 あれは人間として、受け入れ難い非科学的な存在である……そんな事実はどうでも良く感じて、ただこの競走馬に勝ちたいと思った。

 自分は人間ではなくなってしまった──そんな目を逸らしていた現実を、この時の()()()()は消し飛ばした。

 僅かに見えた瞳に、呑み込まれた気がした。

 きっとこの時、俺は()()()()()()()()()から競走馬へと生まれ変わった。人間への未練が断ち切れた訳ではないけれど、未来へ向けて確かに前を向いた瞬間だった。

 

 ──意識が暗転する。

 

『デビューからここまで三連勝。本当に良い馬だなぁ、お前。朝日杯に出さなかったのが勿体ないって思っちまうよ』

 

 この記憶は、確か弥生賞の後か。目尻よりも眉間の方がよっぽど皺の多い調教師さんが、上機嫌に笑っている。

 この頃は、正しい走り方について悩んでいた辺りだ。

 

 ディープインパクトにまた勝てなかった。今回も最初は姿がなかったけれど、必ず現れると何故か確信があったから、ディープインパクトを意識して走っていた。それなのに、また呆気なく負けた。

 強かった。ただ純粋に強かった。はっきり言って、このままではまた負けるだろう。自分の人間的な部分がそう判断していた。

 理由は……俺が、()()()だからだ。

 俺は馬本来の走り方が分からない。馬が最も効率的に走れる方法を知らなかった。馬は走る事が本能だ。元々、どう走れば良いのかを知っている。

 しかし、俺は人間だったから、分からないまま我武者羅に走っていた。そんなので、あの『英雄』に勝てる訳がなかった。

 

『よしよし。今日からは()()()()()良い走り方を教えてやるぞ。大丈夫だ。お前は賢いから、すぐに身に付けて、いつかは世界だって取れちまうさ』

 

 調教師さんの言葉に、俺は僅かに安堵した。俺はまだ強くなれる。中長距離の(2kmを超える)長い舞台で俺の前を走って行く彼奴に、まだまだ近付ける。それがただ嬉しかった。勝利への渇望を誤魔化さずに済んで、身震いした。

 だから、小さく覚悟を決めたのだ。

 俺はもう人間じゃなくて良い。とにかく、ディープインパクトに勝てればそれで良い。

 その為には、調教師さんや騎手さんが教えてくれる事をとにかく受け入れて、そしてディープインパクトの姿から走りを学ぶ。

 競走馬として最上級の()から、馬としての在り方を学ぶのだ。そうすればきっと、勝てるようになると信じて。

 ……訳も分からず、馬らしくないだろうみっともない走り方をしていても、信じて育ててくれた人達を喜ばせる為に。

 元々人間()()()俺は、もう言葉を話せない。けれど馬としてならば、走りで感謝の一つくらいは伝えられるだろう。

 俺はせめて、育ててくれる皆を喜ばせたい。()()()()()()()()()

 それが馬として出来る、人間らしい唯一の恩返しだろう。

 

 ──意識が暗転する。

 

『──■■、三冠馬との巡り会い!』

 

 皐月賞。正しく走っても、結局勝てなかった最初のレースだ。

 全力の末に、さも当然と言うかのように負けた。

 なんという競走馬なのだろうか。勝てるイメージが、最後までこれっぽっちも湧かなかった。

 敗北する瞬間が思い付かない後ろ姿に、俺は何処までも夢を見た。

 あんな馬が実在したというのだろうか。

 競走馬とは、なんて凄い生き物なのだろうか。俺もあんな風に強くなれるのだろうか。

 

 この頃の俺は幻影のディープインパクトへと、勝手に()()()()のようなものを(いだ)いていた。

 誰からも知られる事なく、たった一頭で走り続ける影の競走馬、ディープインパクト。

 人とも馬とも意思の疎通なんて出来ず、独りぼっちの元人間の競走馬、アフターマス。

 この頃の俺にとっては、ディープインパクトは世界から()()()()()者仲間だった。人の常識の外に生まれた孤独な奴同士だったのだ。

 

 けれど、ディープインパクトは俺なんかと違って、本当に凄い奴だった。

 前世で皆が、ディープインパクトに心を奪われた理由を特等席で目の当たりにして、どれだけ感動したか覚えていない。

 席代に敗北という高過ぎる料金を払った事だけは納得いかなかったが、とにかくディープインパクトの走る姿は衝撃的だった。

 負ける姿は見たくないけれど、必ず越えてみせると誓ったヒーロー。それこそが、俺にとってのディープインパクトだった。

 

 ……そして、いつか。俺は()()()ディープインパクトと会ってみたいなと思った。俺は馬の言葉なんて知らないし、馬同士で会話があるのかどうかも知らない。

 それでも、答え合わせがしてみたかったのだ。俺の知るディープインパクトの幻影。彼奴の()()は、本当に此処まで凄かったのか。

 競走馬とは、こんなにも強くなれる生き物だったのか。

 その答えを、どうしても知りたかった。

 

 ──今世のディープインパクトは、何処にいるのだろうか。

 年代的には、活躍したのは今頃の筈だ。

 確か前世でディープインパクトは早々(はやばや)引退した筈だから、もしかしたらもうレースには出ていないのかもしれない。

 レースに出て来るなら是非もない。その時は俺が勝つまでだ。

 けれど、もしもうターフにいないなら……いつか俺も引退した時、養老牧場なんかで会えるだろうか。時代を背負って走った、偉大な競走馬(彼奴の本物)に。

 

 歓声の中、いつかの夢に胸を膨らませて、俺は両前脚を持ち上げた。

 

 ──意識が暗転する。

 

『──世界のホースマンよ見てくれ! これが日本近代競馬の結晶だ!』

 

 そして、これは菊花賞だ。通算戦績六連敗。

 ディープインパクトの余りにも狂った強さに戦慄しながら、どうしようもない悔しさと苛立ちを噛み締めて、()()でゴールラインを踏み締める──その瞬間。

 世界が罅割れるくらい、深い衝撃に見舞われた。

 

 今し方、実況者さんが言った台詞。それは余りにも有名な言い回しだった。

 日本近代競馬の結晶。それは、鞍上の天才ジョッキーが名付けた『英雄』と並ぶ、ディープインパクトの代名詞だ。

 日本の競馬は──日本の調教技術を含む、競走馬を取り巻く日本の全ては、海外よりもレベルが低い。

 その風聞をディープインパクトならば一蹴出来ると確信した人間達が、()を褒め称える為に語り継いだ言葉。それこそが、日本近代競馬の結晶。

 ディープインパクトこそが、日本の競馬そのものだ。だから見てくれ、世界の競馬関係者達。これでも下に置けるものなら、やってみろ。

 そんな意が込められたこの台詞こそが、ディープインパクトをディープインパクトたらしめた。

 

 ──それを何故、今言った?

 

 走り抜けて、少しずつ速度を落としていく中で、俺はディープインパクトのいた場所を見遣った。

 しかしそこにはもう()はいなくて、ただ風だけが吹き抜けていた。

 

 ならば多くの観客達の視線の先に、彼奴がいるのかも知れない。もしかしたら、俺だけが見えていると思っていたのは思い込みで、本当は皆もディープインパクトを見ていたのかもしれない。半透明に見えるのは毛並みが特殊で、光の加減でそう見えるだけなのかもしれない。

 そう思って、咄嗟に観客達の視線を追った。その先に、見慣れた半透明の濃い鹿毛があると信じて。

 ……けれど。十万人を超える視線の先にいたのは、ディープインパクトではなく俺だった。

 

『──やった、やったぞ■■! 遂に無敗の三冠達成! 『衝撃』の末脚が歴史に残る! シンボリルドルフ以来、遂に()()()の無敗の三冠馬誕生! 京都競馬場に集まった競馬ファン全員が! 新しい歴史の目撃者です!』

 

 ……何を言っているんだ? 悪い冗談はやめて欲しい。

 それではまるで、ディープインパクトがいないみたいじゃないか。

 俺は、スタンドで宙を舞う外れ馬券の光沢に、酷い吐き気を催した。

 

 ──意識が暗転する。

 

『遂に有馬記念か。ちょっと、年甲斐もなくわくわくして来たよ』

 

 初挑戦となる有馬記念の数日前。競走馬の体でも些か寒い日に、馬主さんは忙しい合間を縫って、俺に会いに来てくれた。

 にこにこと堂に入った笑い顔で、楽しそうに語り掛けてくれる。

 ずっと恋しくて堪らない人間の温もり。それを前にして、俺はひたすら物思いに耽っていた。

 

 菊花賞の日、実況者さんはどうしてあんな台詞を吐いたのだろうか。

 まさか、ディープインパクトに(あやか)る為に言ったのか?

 水溜まりや古びた硝子の歪んだ虚像から、俺と()とが似ている事には気付いていた。

 だから、二頭目のディープインパクトになって欲しい……そう思って、俺を『日本近代競馬の結晶』と呼んだのか?

 

 ……そんな矛盾塗れな考察を重ねていた。理性では、そんな訳ないと分かっていながら。

 

『セレクトセールで他に買い手のいなかった馬に一目惚れして、今やその子が無敗の三冠馬……いや、それどころか、史上初の無敗の四冠馬になろうとしているんだ。本当に、馬主冥利に尽きるよ』

 

 馬主さんが誇らしげに語る。俺は嘘吐きになった気がして、縮こまった。

 俺は『無敗の三冠馬』なんかじゃない。それどころか、まだ勝ち鞍は新馬戦だけだ。実質、皆無と言って良い。

 俺が誰かに誇って貰って良いのは、まだまだ先だ。ましてやディープインパクトのような皆の誇りになるなんて、遥か先だろう。

 

『初めて見た時、瞳に吸い込まれるかと思ったんだ。本当に衝撃的だったよ。それなりに長く生きているけど、あんな経験が本当に存在するとは思わなかった』

 

 ゆっくりと穏やかな声音で、初めて見た俺がどれほど衝撃的だったかを語ってくれる。

 むず痒さを感じる。気恥しさも、気まずさも。けれど、同時に気付いた。

 それは──その感想は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『……実はね、君には最初、違う名前を付けるつもりだったんだ』

 

 言いたい事は伝わっていないだろうけれど、俺が身を固まらせた事に気付いたのかもしれない。

 馬主さんは安心させるように、殊更優しく微笑んだ。

 怖がる要素なんて無い筈なのに……嫌だ、嫌だ、と。何処かで駄馬が嘶き始めた。

 

『もしもそのまま名付けていると、もっと違う歴史があったのかもしれない……そう考えると、感慨深いものがあるね』

 

 世界が揺れるように、音が遠くなる。世界が灰色になって、俺は自分の誤ちに気付く──嘘だ。

 俺はもう、本当は答えに辿り着いていた。それに気付かない振りをしていたのは、俺が臆病者の卑怯者だからだ。

 

 もっと違う歴史──もっと違う()()。それがあったとすれば、どんな形だったか。

 例えば、先日の菊花賞。歓声の中で、皆の視線の先にいるべきだったのは、一体誰か。

 ──そんなの、一頭しかいないのだ。だって彼処から、新しい日本の競馬が始まる筈だったんだから。

 

『おや、自分がどんな名前になる筈だったか知りたいかい? 教えても良いけど、皆には内緒だよ。馬にこんな話をしたなんて知られたら、妻や部下達に何を言われるか分かったものじゃないからね』

 

 ぐじぐじと、頭を馬主さんに押し付ける。馬主さんのスーツに皺が寄っても、叱られる事はなかった。

 一言、怒って欲しい。支離滅裂で良いから、とにかく咎めて欲しかった。

 そうすれば、どうしようもない罪が軽くなる気がしたから。

 それでも……俺を育ててくれた人達は、どうしようもなく優しかった。

 

『よしよし、良い子だ。ラジオで■さんが『衝撃』なんて呼び始めた時は驚いたけど、本当に君はそういう子だね』

 

 馬主さんは、ぎこちない手で俺の鬣を梳いた。

 違うんだ。そうじゃないんだ。

 ()()なのは、彼奴なのだ。俺じゃなくて、影になっても走ってる彼奴なのだ。この世できっと、一番速い奴。前世で一番有名で……この世界じゃ、俺以外の誰も知らない衝撃的な競走馬。彼奴こそが、()()()()()だ。

 

『本当はね、初めて見た時に感じた()()()()(ちな)んで、君に名前を付けるつもりだったんだ。だから本来、君に付ける筈だった名前は──』

 

 声は届かない。俺はもう、人間じゃないから。

 それでも伝えたい。()()()()は、こんなものではない。とてもとても衝撃的で、強くて──見るもの全員を救ってしまうくらい、()()のだ。

 俺は、走り続けなければならない。走りで伝えなければならない。競走馬だから、何かを伝えるには走りしかないから。

 俺は、俺の為に、誰かの為に、()の為に──()()()()()()()()()()()()()()()

 ……だからもう、()()()駄馬はお呼びじゃない。勝てないのなら、消えてしまえ。

 

『──()()()()()()()()()。君には、ディープインパクトと名付けるつもりだったんだ』

 

 ──世界が遅くなる。

 馬主さんの動きが、静止画を捲るように遅くなる。役割を終えた舞台装置のように、不自然に、軋むように。

 

 夢の舞台から降りる時間がやって来た。何処まで現実と区別が付かなくとも、これは微睡みの中で見る夢だった。

 賑々しい太陽が、もう直ぐ空に昇るだろう。

 ベッドサイドのカーテンからは朝日が差し込んで、栗東寮が活動を始める。仄暗さなんて場違いな、華やかな世界が広がるのだ。

 俺はその前に、起きなければならない。()()()()()()へと向ける憎しみを、皆の日常に持ち込む訳にはいかないから。

 

 ──意識が暗転する。

 移り変わった場面は、まだ陽の昇らない暗闇のエンドロール。『英雄(ヒーロー)』が遅れてやって来なかった末の後日談だ。

 俺は起き上がった。ウマ娘の体で、ベッドから、緩々と。

 

 

■□■

 

 

『──さあ、遂にこの日がやって参りました! 一年の始まりを告げるウィンタードリームトロフィー! 私達に新年最初の勝ちウマ娘を教えてくれる大事なレースの日が、遂に遂に遂に! 今年もやって参りましたよー!』

 

 中央トレセン学園の最寄り駅から、国内有数の歴史あるレース場まで、なんと電車で一駅跨げば到着する。

 時に『府中』とも呼ばれるそのレース場は、言わば日本のレースの象徴とも呼べる場所で、現在の日本にとってなくてはならないエンターテインメントの聖地となっている。

 

 その名は──捻りなくシンプルに『東京レース場』。

 

 GIレースの中でも特に由緒正しい『日本ダービー』や、時に中距離最強ウマ娘決定戦として位置付けられる『天皇賞・秋』、国内唯一の国際GIレースである『ジャパンカップ』と言ったビッグイベントの開催地だ。

 日本にはレース場が数あれど、立地の関係上、東京レース場は中央トレセン学園のウマ娘にとっては一番馴染みが深く……そして何より、最も憧れを抱くターフとして知られている。

 

 中央トレセン学園に入学する時、道すがら東京レース場で見た先輩ウマ娘の姿に憧れた。

 東京レース場で幼い頃に見た『日本ダービー』に憧れて、中央トレセン学園の門戸を叩いた。

 そう言った話は枚挙に(いとま)がない程で、初めて東京レース場で走る際はレース場前にある『シンボリルドルフ像』で願掛けを行うのが学園生にとってのお約束となっている。

 

 年明け早々、俺はそんなレース場へと向かっていた──電車で。

 

『──史上唯一、年間無敗。史上最長、GI制覇。テイエムオペラオーか、トウカイテイオーか──冬の王者を、さあ決めよう』

 

 目的地に到着した電車の自動扉から、本日東京レース場で開催されるビッグイベントの告知やら解説やらが雑多に流れ込む。

 そのイベント目当てで集まった人の群れが、その音声を押し返すように外へと雪崩た。

 とにかく楽しみで仕方がない──俺がどれだけ鈍感でも読み間違えようがないくらい、電車から降りる人達の顔にははっきりとそう書かれていた。

 

「──さて。それじゃあ、お嬢さん。私達も降りようか。お手を拝借しても?」

 

 人の流れが緩くなってから、隣に座っていた中性的な人物がすっくと立ち上がり、俺へと手を差し伸べた。東京レース場前のこの駅は比較的大きく、停車時間が多少長い。

 度の入っていない黒縁眼鏡を掛けたその人物が、あまりにも男性用スーツを着こなし過ぎていて、少し苦笑した。少なくとも、俺が着るよりよっぽど様になっている。

 俺はその厚意に甘えて手を取った。

 

「ありがとうございます、先輩。……今更ですけど、良くそんな()持ってましたね? ちょっと羨ましい」

 

 あと、変装してても、普段通りの言動だと流石に()()ますよ?

 そんな意を込めて、沖野トレーナーに貰ったマスクとサングラス……ではなく、リギルに戻ってから東条さんが用意してくれた変装用眼鏡と大きな白いマフラーを肩で軽く揺すった。

 何を言わんとしているのか理解したらしい人物──フジキセキ先輩は、慣れたように左目で小さくウインクした。どうやら、大丈夫と言う自信があるらしい。

 そのまま先輩は俺の左手を引いて、俺は右腕で()()()を突いて立ち上がった。

 

「これは次の聖蹄祭で使う衣装のサンプルだよ。実は私達にトレーナー喫茶をして欲しいって要望が出ていてね。今回は丁度良かったよ」

 

 フジキセキ先輩、普段は変装とか全然しないタイプですもんね。

 ……と、プライベートのフジキセキ先輩が歩いた後に出来る女性ファンの行列を思い出して、少し顔が引き攣る。

 フジキセキ()()とフジキセキ()()は、もしかして双子の別人なんじゃないか……そう疑うくらいには、寮長の仕事中とそれ以外でのフジキセキ先輩の価値基準のバランスは、異なっているような気がする。何方にせよ、他者の幸せを第一に行動している点に違いはなかったが。

 

 俺とフジキセキ先輩が車ではなく電車で移動しているのは、マスコミ対策の一環……だけではなく、どちらかと言えば個人ファンへの対策が重きを占めていた。

 

 有記念が切っ掛けで俺とメディアが完全に接触しなくなってから、早くも数週間の時間が過ぎていた。

 その間、チームリギル自体も情報開示を余り行っていなかった──と言うより、大きなレースを控えたオペラオー先輩の気を散らさない為に、事務的な情報公開しかしていなかった──為、結果的にマスコミよりも先にファンが痺れを切らしてしまったのだ。

 

 アフターマスを含めた全員、チームリギルは今日必ず、トレセン学園を出て東京レース場へ向かう。

 ……有難くも応援してくれているファンの方々はそう推測を立てたらしく、なんとトレセン学園の敷地外には、朝からチームリギルの出待ちファンがスタンバイしていたのだ。

 更には、トレセンから東京レース場への学園生の移動は車か徒歩が多い為、それらしい車が学園から出る度に出待ちファン達はSNSを駆使してまで情報共有を行っていたらしい。

 その執念深さに俺は「そうなんだ、すごいね!」と阿呆の子全開な感想が漏れるだけだったのだが、東条さんやルドルフ先輩達はファンの手際の良さから、ネット中心のグレーなメディア団体の思惑を警戒したらしい。

 その裏を突いて、リギルメンバーは変装したり、むしろ逆に目立つように車で移動したり、果てはリギルファンには有名なマルゼン先輩の愛車『たっちゃん』を出動させたり、目立たないような格好で敢えて電車で向かったり……と言った具合で、ファンを散り散りに撒いたのだった。

 ちなみに俺とフジキセキ先輩の変装のコンセプトは『学校見学に来た小学生とその保護者』らしい。非常に解せない。

 

 ……なお、見付かる危険度的には車が一番アウト──レース場の駐車場は、だいたい毎回ファンとマスコミがスタンバイしている──なので、俺は大人しく変装して電車に揺られる選択をした。

 今は右脚にギプスを嵌めているので、それを見た人達に「有は怪我のせいで負けた」等と勘違いした噂を立てられたくない為だ。あれは全力の末の負けなので、()()()()なんかに入って来て欲しくはない。負けは負け、それ以外には何も存在しない。

 あとは、徒歩は怪我をしていない方の脚の負担を考えて却下され……『たっちゃん』も当然──普段ならまだしも──今は論外だった。

 

「ふむ……脚の具合はどうかな?」

「全然大丈夫です。と言うか、物理的に走れなくするのが目的でこれ(ギプス)着けられてるみたいですから、本当に軽傷ですし」

「それでも心配なものは心配さ。……怪我が治ったらセンター以外のダンスも練習しようね。センターとその他とじゃ、やっぱり脚の負担も違うからね」

「……お恥ずかしい限りです」

 

 俺は恐縮のあまり、肩身を縮めた。

 有の直後、センター以外の踊り方がよく分からなかったせいで目測を誤り、右脚を本格的に痛めた……なんて、正直笑い話にもならなかった。

 

 とんとんと、松葉杖を右側で突くに合わせて、フジキセキ先輩が左側を進んでいく。位置取り的に、俺が転びそうになったら助けに入ろうとしてくれているのだろう。本当に申し訳なかった。

 駅の構内に降りると、車内に迷い込んでいた音の断片とは比べ物にならない程の、情報の洪水とでも言うべき多くの音声が降り掛かった。

 

 その話題はほぼ全て統一されていて──概ね、俺達が東京レース場に向かう目的のレースに関する情報だった。

 

 トゥインクル・シリーズで目覚しい成績を残したウマ娘だけが移籍出来るドリームトロフィーリーグ。

 そこで開催される冬の大舞台の会場は、全国の大型レース場を毎年のように転々としている。その会場に今年選ばれた場所こそが、東京レース場だった。

 

 中央トレセン学園生の多くの汗を──多くの涙を──多くの夢を飲み込み続けたターフ、東京レース場。

 そこでは本日、あるレースが開催されるのだ。

 

 お品書きは、『チームリギル所属のテイエムオペラオー』対『チームスピカ所属のトウカイテイオー』。

 レースの名称は、冬のドリームレースこと『ウィンタードリームトロフィー』。

 

 ──『世紀末覇王』と『不屈の帝王』。日本を代表する二大チームの伝説的ウマ娘が、本日のこの地で激突する。

 見るもの全てを飲み込む天才達の夢の舞台が、眩い太陽と共に、揚々と幕を上げる。




 更新出来ていない間も、沢山のお気に入りやご評価、ご感想を頂いておりました。皆様の応援のお陰で、筆を折らずに済んでおります。
 本当にありがとうございます。

追記:
 今回の話は公開後、少し推敲するかもしれません。しないかもしれません(保険)
 ……推敲する時間がなかったんです。すいません。

2022/3/25 連絡:
 いつも『走り抜けても『英雄』がいない』をご愛読頂き、本当にありがとうございます。

 第16話後書きのハーツクライ(前世)の戦績に間違いを見付けた為、修正させて頂きます。
【誤】:2006年 ドバイシーマクラシック(二着:ハリケーンラン)
【正】:2006年 ドバイシーマクラシック(二着:コリアーヒル

 また、作中で『ドリーム・シリーズ』や『ドリーム・カップ』と表記していたものをアプリ版準拠の『ドリームトロフィーリーグ』に順次統一させて頂きます。
 加えて、アプリ本編で『モンジュー』の名前が出て来ましたが、キャラクターイメージを固めやすい為、本作ではこのまま『ブロワイエ』で行こうと思います。
 もし『モンジュー』が本当に実装されたら臨機応変に対応します。ご容赦ください。

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