走り抜けても『英雄』がいない   作:天高くウマ娘肥ゆる秋

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第20話 追い駆ける

 ──綺麗だった。

 

 走る姿は鳥のようで、脚を止めれば墜ちてしまいそうだった。何処までも走り続ける精神性は、完全に人間味を切り捨てていた。一心に勝利へと身を捧げた末になってしまう、超然とした有り様だった。

 それが人間として正解なのか、不正解なのか。そんな事はどうでも良かった。初めて彼女の走りを観た日から、彼女こそがウマ娘の理想形だと信じたから。

 だから、完全な押し付けであっても、彼女に自分の願望を重ね合わせていたのだ。

 

 何処までも勝ち続けるウマ娘。

 ひたすら見る者の賞賛に応え続ける絶対性。勝利という栄光だけに向けた、余所見をしない正直な心根。

 皆が誇り、憧れて当然の英雄像。

 

 そんなものを、勝手にアフターマスへと期待していた。

 だから、自分が感じた怒りは理不尽なものだと知っている。理不尽だとは感情が落ち着いてから気付いたものの、『菊花賞』の直後に分かっていたとしても、きっと同じように怒りを抱いた事だろう。

 

『勝てないんだ。何度やっても、どれだけトレーニングしても、どんなに必死に走っても』

 

 なんだそれは。巫山戯ているのか。それっぽっちの事で、お前が首を下げて良い訳ないだろう。

 お前は勝利の象徴で、負けを認めちゃいけないウマ娘なのだ。勝ち続けなければならないウマ娘なのだ。例え敵が、自分相手であったとしても。

 

 そう怒りに駆られたから、彼奴の事はもう、終わりつつあるウマ娘だと考える事にした。これから先は、クラシックのような奇跡を起こせないだろうと思う様にした。

 もしかしたら、敵とすら見られていなかった自分自身への怒りすらも、彼女へと押し付けていたのかもしれない。それでも、そうする他に道は無かった。

 勝手に期待した癖に身勝手だ……そう言われても、自分の中の理想が傷付く事には耐えられなかったから。超えたいと願った後ろ姿が、本当は()()()()だったなんて考えたくなかったから。

 無敗の三冠ウマ娘。幼い頃に夢見た非現実を現実にした綺麗な少女が、有り触れた存在だなんて思いたくなかったから。

 全盛期が過ぎたウマ娘なら、弱い姿を晒していても仕方がない……そう言い訳が出来るから。

 

 勝ちたいと心底願ってしまうあのウマ娘は、きっともう下げた首を持ち上げられない。だって、自分と()()()競ってくれる前に、心がターフで死んでしまっている。まるで、何時の間にかターフに背を向け消えていた、かつての仲間達のように。

 彼女は特別だった。強過ぎたのだ。勝負の神様が彼女を見初めてしまうくらい、心を殺してしまうくらい特別だったのだ。だからきっと、彼女がターフの中で消えて行くのは仕方がない事だったのだ。

 

 ──その筈だったのに、今更何故なんだ。

 

『──アフターマス! また伸びる! まだ伸びる! 『衝撃』の末脚は終わらない! ハーツクライ捕らえられるか!? 逃げ切るか!? どうだ!? ハーツクライ! アフターマス! ハーツクライ! どっちだ!?』

 

 余りにも綺麗だった。心の奥底が震え上がった。

 彼奴の本気の走りを初めて見た()の、彼奴のメイクデビューで覚えた感動。それよりもずっと大きな情動が、自分の中に居座った。

 何処か彼奴に感じていた違和感がさらさらなくて、総毛立つくらい腑に落ちるような必死の姿。アフターマスという一つの象徴が、自分の中から消えてくれなくなる走りだった。

 ようやく、恐ろしく速い本当の()()と走れるのか……彼奴はまたしても、そう自分の目を眩ませに来た。

 レースで負けた癖に。いつもの自分達みたいに、最後は悔し涙を流した癖に。

 

 ……だからこそ、勝利の象徴だった。自分の理想だった。皆が誇りに思ってしまう程の負けず嫌いだった。心底悔しいが、アフターマスは敗北を経験した上で、そんなウマ娘だった。

 怪物集団であるチームリギルの中にあっても一際輝く、『皇帝』の対抗バとなり得る日本史上最強候補。或いは、死んでも走り続けてそうな一周回った優等生。そして、最後には必ず立ちはだかってくれる、たった一人の世代の壁。

 自分達が必ず倒すべき存在が、無敵にさえ思えた好敵手(片想いの相手)が、そんなウマ娘だったからこそ──。

 

「お邪魔しまー──あれ、よく会うね」

「……あ、あんた。その脚、どうしたのよ……?」

「え。あ、ちょっと怪我で──ってうわ!? 大丈夫!? 救急車、救急車っ!?」

 

 ──松葉杖に身を預けた彼奴のギプス姿を見て、そのまま卒倒した。

 

 

■□■

 

 

「あの子、大丈夫かな?」

 

 東京レース場の特別観戦室は、和やかな空気を纏った学園生達で満ちていた。

 この場に暗い感情は不釣り合いだ。

 そんな不文律が漂う室内で、リギルメンバーが集まる一角に座りながら、先程ばったり遭遇した少女を案じる。

 

 現在はちんまい体に甘んじている俺である。ではあるが、それでも中身は大人なのである。

 だから目の前で急に子供が倒れたら心配するし、とにかく気になって仕方がない。それも最近何かと縁のある藍染リボンの少女が相手ともなれば、もはや動揺するなという方が無理であった。

 

「同行していた友人も大丈夫だと言っていたんだろう? なら、過度に気を向け過ぎない方が良い。良かれと思って取る言動が、逆に相手を困らせる事態を招かないとも限らない」

「そんなもんですかね?」

「ああ、そんなもんさ」

 

 何処か遠い目をしながらそう言ったルドルフ先輩に、こくりと首肯を返す。

 脳裏では、倒れた少女を回収しに駆け付けた、何処か影っぽい少女の言動を思い出しながら。

 

 ──あ、成程ね。大丈夫大丈夫。放っておけば治るから。それよりその脚どうしたの? え、軽い怪我? そっか。お大事にね。それじゃ、この子は連れてくから! ご迷惑、おっ掛けしましたー!

 

 思い出して、思う。

 ……あれ、明らかに俺から早く遠ざかろうとしてたよな。一緒にいたフジキセキ先輩、苦笑いしてたし……と。

 何故だか、ほんのちょっぴり涙が零れた。

 

「……殷鑑不遠、か」

「えっと、どういう意味です?」

「いや、なんでもない。それよりも、URAも思い切った事をしたな。埋め合わせとは言え、まさかウィンタードリームトロフィーの特別観戦席を一部屋丸ごと貸し切るとは。確か学園に残っている中等部の美浦寮生は全員が観戦予定だったか、ヒシアマゾン」

 

 ルドルフ先輩に話を振られて、前の座席に座るヒシアマ先輩が振り向く。釣られて、ヒシアマ先輩の隣に座っていたフジキセキ先輩も。

 

「ああ! お陰様で、事情があって帰省出来ていない子達も大喜びさ! 寮長としては、正月くらいのんびりと楽しく過ごして欲しかったから万々歳だよ! フジ、栗東寮の様子はどうだい?」

「此方は全員参加ではないけど、雰囲気は似た感じだね。ただ本音を言えば、最近引き篭ってばかりのアグネスタキオンやエアシャカール達も連れ出したかったんだけど、失敗してしまって悔しい限りさ」

 

 ヒシアマ先輩、フジキセキ先輩、ルドルフ先輩。この三人が集まった時の話題は、専ら寮住まいの生徒達の近況と相場が決まっていた。

 俺は「あ、なんか誤魔化されたな」と思いながらも、訳知り顔で頷いておく。顔を作った理由は特にないが、何となくそういう気分だった。

 

 ……いや、訳知り顔自体は間違いではないのだが。

 何故なら、今回のウィンタードリームトロフィーの特別観戦室貸し切りは、先だって開催された『有記念』の補填の一環なのだ。

 厳密には、『有記念』で起きたメディア関連のあれこれで割を食った学園生達──出走ウマ娘以外のウマ娘にもそれなりの余波があり、最終的には大なり小なり学園生全員が影響を受ける事となった──への、URAとトレセン学園からのお詫びみたいなものなのだが……何にせよ、俺は切っ掛けとなった出来事の当事者であった。

 

 リギルが頻繁に間借りする何から何までお高そうな部屋ではなく、この特別観戦室で本日のレース観戦を行うのも、当事者が別行動するのはちょっと褒められた行為ではないからだった。

 俺に付き合わせてしまった先輩方には申し訳ないと思うが、本人達も普通に楽しそうにしているのでセーフ……という事にして欲しい。

 ちなみに同じチームであっても、ウィンタードリームトロフィーではコース脇で応援なんてさせて貰えない。

 控え室までは俺達でも入れるが、今日のオペラオー先輩は少し掛かり気味と言うか……取り敢えず、先輩は精神を落ち着かせる必要があるようで、東条さんのみが控え室へと付き添っていた。レース直前のウマ娘にはよくある事だが、少しだけ心配だった。

 

「うーん……オペラオー、羨ましいデスね。エルもテイオーと勝負したかったデース」

「あらあら。エルったら、往生際が悪いですよ? W()D()T()の予選リーグよりもブロワイエへの備えを優先したのは自分ではありませんか」

「それはそうですけど、ブロワイエがこっちでレースに出走するって噂、これっぽっちも聞かなくなったんデスよね……」

「やはりデマだったのではないか? そもそも、彼女が祖国のフランスではなく日本で今更走る理由が思い付かないのだが。私も噂を聞いた当初は、もしやスペシャルウィークへの雪辱戦を考えているのかとも思ったが……最近では後進の育成に熱を入れていると聞くぞ」

「デース……」

「エルコンドルパサー、元気出してくだサーイ! 予定通りのレースも楽しいですが、サプライズで走れる方がたくさんハッピーデース! きっとチャンスは回ってきマース!」

「それはそうなんデスけど……うう、負けっ放しは主義じゃないのデース! 早くリベンジマッチしたいデース!」

 

 後ろの座席から、エル先輩、グラス先輩、エアグルーヴ先輩、タイキシャトル先輩の賑やかな会話が聞こえて来る。

 内容は、エル先輩のリベンジレースに関してのようだった。WDT──ウィンタードリームトロフィーの略称──の会場に秘められた、レースへ向けた熱気に充てられたのかもしれない。

 

 欧州の元絶対王者ブロワイエ──彼女に『凱旋門賞』で敗れて以来、エル先輩は打倒ブロワイエに燃えている。

 ……燃えてはいるのだが、現実問題としてエル先輩が雪辱を果たすのは、中々に難しかった。

 と言うのも、件のブロワイエが第一線を離れてしまい、現在では後輩達の指導に回ってしまっている為だ。

 エル先輩が敗れた当時、ブロワイエは欧州で生きる伝説としてターフに君臨していた。それが意味する事とはつまり、他文化圏に属するウマ娘ではそもそも一緒に走る機会すら貴重だったという事だ。

 欧州の至宝。フランスの誇り。そうとまで謳われた伝説的ウマ娘こそがブロワイエである。

 そんな彼女が第一線を退いたと言うのだから、負ける可能性を侵してまで彼女が再び国際レースの場に立つ事は、周囲がおいそれと許しはしないだろう。

 つまり、エル先輩がブロワイエにリベンジ出来る可能性は絶望的と言えたのだ──とある噂が流れるまでは。

 

 ──近々、ブロワイエが日本のレースに出走する。

 

 そんな噂が、突如としてブロワイエの本拠地であるフランスから流れて来たのである。それも、噂の発祥元は『凱旋門賞』の舞台として知られるパリロンシャンレース場の運営関係者だという。ロンシャンの芝がブロワイエのホームグラウンドと呼ばれている事を鑑みれば、噂の信憑性はそれなりに高かった。

 だからこそ、エル先輩はそれはもう大喜びでその噂に賭け、対ブロワイエ戦の備えを行い始めたのだ。夢の舞台とも称されるドリームトロフィーリーグのレースを差し置いてまで。

 名誉よりも大切なものがある。

 トレーニング中のエル先輩の背中からはそんな想いが伝わって来て、些か……と言うよりかなり格好良いのだ。

 ……格好良い分、現在の落ち込みようは見ていて痛ましいものがあったが。

 

 俺は聞こえてしまった背後の呻き声から意識を切り離すように、座席に据え付けられた小型モニターへと視線を落とした。画面の中では、出走ウマ娘達が誘導係に連れられて、地下バ道を進んでいる。

 同じ方向を向いて並べられた特別観戦席の正面の壁は一面硝子貼りで、東京レース場のコースを眼下に一望出来る。だが、コースから離れた場所に設置されているパドックや地下バ道の様子は、此処からではテレビ等の中継映像を介してしか確認する手段がない。その為、全座席に設置されているのがこの小型モニターであった。

 

 個人的にはいつもの高級ホテルみたいな部屋も、この近代的な設備の整った部屋も、明らかにお金が掛けられ過ぎていてとても落ち着かない。

 小市民と笑うことなかれ。良い所のお嬢さんに生まれていようとも、俺はそもそも馬である。藁やら木やら以外の物ばかりに囲まれていては、リラックス出来る道理がないのだ。流石に慣れたから、トレセン学園内であれば例外となるが。

 

 ──オペラオー先輩、やっぱり調子が()()()()なぁ。凄くそわそわしてる。

 テイオー先輩は普段通りのコンディションかな。合宿の時からかなり意気込んでたし、何かしら企んでそうな気がする。

 ……あれ。誘導係の芦毛のウマ娘、ちょっとゴールドシップ先輩に似てたような──。

 

「──そうかぁ? アタシって割とゴルシティ高い方だぜ? ゴルシちゃんと張り合うにはまだまだ攻撃力が欲しい所だわな。もっと腕に錨巻くとかよ」

 

 ぬっと、隣に人の熱が現れた。顔の真横から突然聞こえてきた声に、びくりと肩が跳ねる。

 顔を通路側──つまり右手方向に向ければ、ゴールドシップ先輩が少し屈んで俺の座席の小型モニターを覗き込んでいた。

 

「よう! 遍く世界からこんにちは、ゴールドシップ様が来てやったぜ!」

「ケ!? ゴールドシップ、今何処から現れたんデスか!?」

「何処ってそりゃ、そこからだが」

 

 驚いたように飛び上がったエル先輩へと、ゴールドシップ先輩は自分の後ろを親指で示しながら真顔を返した。

 普通に歩いて来たと言いたいんだろうか。何言ってんだ此奴……そんな文字が先輩の顔から読み取れた。

 ルドルフ先輩がゴールドシップ先輩へと朗らかに口を開く。

 

「やあ、ゴールドシップ。何時見ても快活としていて何よりだ。所で、何か用事でもあっただろうか?」

「おう、会長もご機嫌麗しゅう存じ上げましてなんちゃらかんちゃら。いやな、ちょっとアフターマスの怪我の様子を見て来て欲しいって頼まれちまってよ。人参スティック一本で使いっ走りのバイトしてんだよ。人使いが荒いでゴルシ」

「……そうか、成程。ちなみにだが、君の後ろにあるその苗木は、我々に関係あったりするのかな?」

「ん? ねぇけど。これは、あれだ。ちょっと大欅(おおけやき)の野郎に(えのき)としての誇りを取り戻させてやろうと思ってよ。あんなに立派な榎なのに欅だなんて嘘吐かされてちゃ見てらんねぇからな。あ、レース後に植え替えようと思ってんだけどお前らも来る?」

「ふむ。その()()がどうなるのか、確かに()()()()な。参加は遠慮するが。それにしても(けやき)でも(えのき)でもなく(ひのき)の苗木を用意するとは、何とも()が効いていて洒落ているじゃないか」

「待て。そういう問題じゃないだろ」

 

 思わずと言った風に、ゴールドシップ先輩とルドルフ先輩のやり取りへとブライアン先輩が口を挟んだ。

 最後列に座ったブライアン先輩からじゃ突っ込みにくいだろうに、先輩の中に眠っていた天性の突っ込み気質が先輩を衝き動かしたのだろうか。

 

 ブライアン先輩の前で頭を抱え始めたエアグルーヴ先輩を見て、フジキセキ先輩が口を開く。

 

「あはは……ジョークは程々にして貰えると助かるよ。エアグルーヴ、前に会長とアフタのコントショーに巻き込まれたせいで、ちょっとギャグの類にトラウマ抱えてるから」

「いや、私は……別にそんな事は……」

「……ルドルフとイッパイアッテナ」

「お前な……!」

 

 ぽつりと、一日限りで解散させられた漫才コンビの名を呟けば、エアグルーヴ先輩に睨め付けられた。

 ゴールドシップ先輩はひゅうと口笛を吹かせて、肩を竦めた。

 

「まあ、なんだ。大丈夫だろうとは思ってたけど、元気そうで何よりだ。そんじゃ、そろそろレース始まりそうだしアタシは行くぜ。テイオーが()()()()()()になるかどうかが賭かった一戦だ。チームメイトとして、アタシもちゃんと見ときてぇしな」

 

 それに、アフタのお陰で面白ぇもん見れるみたいだしな! それじゃあな、ラスボス系主人公ども!

 ……そう言って、ゴールドシップ先輩は嵐のように去って行った。レース観戦中でも一人遊びに興じる事で知られるゴールドシップ先輩にしては珍しく、愉快げに鼻歌を奏でながら。

 

 リギルの宿敵──と目される──スピカの先輩が去り、緩やかに館内スピーカーから音楽が流れ始めた。いよいよ出走ウマ娘達が入場するようだった。

 先程の賑やかさとは打って変わり、俺達は僅かばかりの沈黙に包まれていた。

 そして……ヒシアマ先輩が、ぎこちなく口を開いた。

 

「アフタ、良いかい。正直に答えるんだよ。アタシ達に何か隠し事してるだろ」

「……ちょっと何を言ってるか分からないんですけれども。あ。そういえば東京レース場の大欅が本当は榎だって噂、本当なんですね。新しい知識を得て知力が上がった気がします」

「誤魔化そうったって無駄だよ! 何を隠して──いや、その顔は言い忘れだね!? 一体、今度はどんな爆弾を持って来たんだい、アフタ!」

 

 此方を振り向いたまま頬をひくひくと引き攣らせたヒシアマ先輩から、しどろもどろに目を逸らす。先輩が更に前のめりになった。

 特別観戦室の座席は段差状になっている為、俺の場所からではヒシアマ先輩が上目遣いになって見える……のだが、勿論、可愛いとかそんな生易しい感想は出て来ない。代わりに、冷や汗ががくがくと流れた。

 ヒシアマ先輩は面倒見が良い分、怒るととても怖い。

 

「あの、あの……心当たりっぽいのが一つしかないんですけど、多分、当たってたとしても大事じゃないと言いますか……」

「うーん……ちなみにどんな事なの? 大事かどうかはお姉さん達が聞いてから判断するわ。アフタちゃん、自分が関わってる事だと良く判断間違えちゃうから」

 

 ルドルフ先輩の向こう側に座るマルゼンスキー先輩がゆっくりと頬に指を添わせた。

 俺は観念して、勇気を振り絞る。どうかやらかしてませんように……と祈りながら。

 

「テイオー先輩の走法を改良するお手伝いをしました」

「……なんだって?」

「合宿の時、ライブの特訓をして頂いたお礼に、テイオー先輩の走り方を改良するお手伝いをしました。主に、背骨関節の使い方についてを少々」

 

 てん、てん、てん。擬音にすると、そんな文字だろうか。静かな間が、小さく流れた。

 背中をゆっくりと冷や汗が流れた気がして、僅かに身を捩って──『はあっ!?』と言う先輩方の合唱と視線が、痛いくらい体へ突き刺さった。

 同時に、部屋のあちこちできゃあきゃあと言う声が大きく響く。瞬きの隙間に正面のターフを見れば、地下バ道からはオペラオー先輩やテイオー先輩をはじめとした、今回のウィンタードリームトロフィー出走ウマ娘達がレオタードに似たデザインのレース服で入場を開始していた。

 スピーカーから実況者さんの声が流れ始め……ヒシアマ先輩の声がそれをかき消す。

 

「走法の改良を手伝った!? なんでそんな大事な事を言わなかったんだい!?」

「べ、別に大事じゃないよなって思ってまして……あと、自分の事で手一杯で伝えるの忘れてたと言いますか……」

「大事なんだよそれは!? じゃあ何かい!? あの才能お化け、今度は加速中に再加速したり、ラスト5ハロンかっ飛ばしたりする様にでもなったってのかい!?」

 

 いやあ、それはないと思います……多分……と、食い気味のヒシアマ先輩へと口を窄めていく。

 

「テイオー先輩、三回も骨折してるって聞いて、ちょっとでも怪我しにくくなればなぁ……と思いまして、参考程度にと……。テイオー先輩、俺と同じストライド走法ですし、体格だってそこまで極端には違わないですし……はい」

「いや、はいって……はぁ。仕方ない、か。敵に塩送るなとは言わないけど、送ったならきちんと言いなよ。一応、うちとスピカとはライバル関係なんだからさ」

「ごめんなさい」

 

 しまったねぇ。アフタの自己評価の低さ、甘く見てたよ。せめて三十分くらい前に分かってたなら、トレーナーに連絡してオペラオーに一言申し送り出来たんだけど。

 ヒシアマ先輩の苦虫を噛み潰したような顔に、ブライアン先輩が続く。

 

「不味いな。今日のオペラオーは行き過ぎなくらい好調だ。テイオーのフォームが変わったなら直ぐに気付く。それも、変化の内容まで見抜く筈だ」

「そうなると、一番身近な近い走りをするウマ娘──言ってしまえば、アフタの走りをテイオーがする可能性も想定して走る事になるだろうね」

「アフタとテイオーちゃんだと仕掛け所等が全然違いますし、駆け引きの次第によってかなり困難な戦いになりそうですね」

 

 ブライアン先輩に続き、フジキセキ先輩、グラス先輩が所見を述べていく。

 それに反比例するように、俺は縮こまって行った。

 テイオー先輩のトレーニングに関する事だから、リギルの先輩方には言わない方が良いかもしれないよね……と、優柔不断に判断し切れなかった粗末な事柄が、まさかここまでの大騒ぎを引き起こすとは思っていなかったのだ。

 もう穴があったら入りたいと言うか、穴を掘るから埋めて欲しいくらい、いたたまれなかった。

 

 再びルドルフ先輩の口許が動いたのを見て、ぎゅっと目を瞑った。

 もはや申し開きの言葉はない。先輩方からサンドバッグにされる覚悟は決めた。全面的に俺が悪い。

 

「──しかし、丁度良かったかもしれないな」

 

 ……へ? と。聞こえて来た想定外の声色に目を丸く開いた。

 怒鳴り散らされても仕方がない……そう覚悟を決めていた分、驚いて腰が僅かに浮く。

 

「そうねぇ。オペラオーちゃん、最近ずっと白熱したレースに飢えてたみたいだもんね。この前の有記念、本当に羨ましそうに観てたし」

「テイオーなら使えるものを全て使って勝ちに行くだろう。間違えても鎧袖一触なんて事態にはならないな」

「良いなぁ、オペラオー。エルも走りたいデース……」

 

 マルゼンスキー先輩が意見を述べ、ブライアン先輩が独白し、エル先輩が羨む。

 そんな光景へ向けて、ヒシアマ先輩が苦笑した。

 

「呑気だねぇ。負けたらどうすんのさ?」

「負けたら負けたまでだろう。そこから更にオペラオーが強くなるだけだ。勝ったら勝ったで、流石は史上唯一のグランドスラム(年間無敗)……と言うだけの話だ」

「まあ、違いないね」

 

 ブライアン先輩が真剣な眼差しでターフのオペラオー先輩を眺めている。どんなレースをするのか。もはや先輩はその一点しか見ていないようだった。

 

 ……ちょいちょいと、左肩をつつかれた。視線を向ければ、マルゼンスキー先輩がルドルフ先輩越しに腕を伸ばしている。

 ルドルフ先輩は少し困ったように笑いながら、眉尻を垂れさせていた。

 マルゼンスキー先輩が、俺へとウインクを一つ飛ばした。

 

「怒られると思った? 大丈夫よ。長く走り続けると今回みたいな事も起きるわ。でもその代わり、レースをきちんと観ておくのよ? 次に似た事が起きた時、オペラオーちゃんの場所に立っているのはアフタちゃんかもしれないし……それにあんなに楽しそうな顔してる子達の真剣勝負、滅多にお目にかかれないわよ?」

 

 ほら、皆の顔付きイケイケじゃない? こんなレース、観るっきゃない!

 マルゼンスキー先輩は親指を立ててにこりと笑い、前へと向き直った。

 釣られてターフの上へと目を向ければ、出走する先輩方がゲートインを済ませていた。自分の中でうだうだとしている内に、いつの間にか時間が程々に過ぎていたようだった。

 ルドルフ先輩が締め括るように静かに、けれど響くように言葉を紡ぐ。

 

「期待を背負って走る。夢を背負って走る。そして何より、自分が走りたいから本気で走る。アフタにはこのレースで、テイオーとオペラオーからその姿勢を学んで欲しい。レースは、才能と技術だけでは決着しない」

 

 『皇帝』シンボリルドルフ。またの呼び名を、『永遠なる皇帝』。

 日本()()の最高傑作と呼ばれた競走馬の姿を、先輩の横顔に幻視した。

 

 館内スピーカーからがしゃんと言う音が響いて、反射行動のようにゲートへと視線を戻す。

 音が、忘れていた自分の仕事を思い出したように『ウィンタードリームトロフィースタートです!』と、実況者さんの声を伝えた。

 

 天気は快晴。バ場状態は良。風は緩く、冬にしては音が賑やか。

 フルゲートで開いた夢の舞台で、十八の脚が一歩目を踏み出した。

 テイエムオペラオーとトウカイテイオー。そして、彼女達と轡を並べる事を許された十六人の怪物達。

 偉大な競走馬達の魂を継いだ少女達の戦いが、弾けたように幕を開けた。

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