走り抜けても『英雄』がいない   作:天高くウマ娘肥ゆる秋

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バクシーン


第7話 小麦の穂

 もそもそとシリアルを頬張る。乾いた口内を水で流して、一本丸ごと人参をぽりぽりと齧る。それを飲み下して、またシリアルをもそもそと。

 それを何度か繰り返せば俺の朝食は終わりだ。人参の枠はレタスだったり胡瓜だったりに変わったりもするが、概ねいつも通りの朝食。

 シリアルはシンプルで麦芽を押し潰しただけに近い、オートミールのようなものが好ましい。水は水道水でも何でもいい。野菜は出来るだけ新鮮なもの。それが俺の拘りだった。

 

『生まれるべきではなかった新たな無敗の三冠ウマ娘』

『栄光の影、新時代の頂点の功罪』

『必然? 偶然? アフターマスの競争相手のその後』

 

 人参を片手に、薄ぼんやりと携帯端末の液晶画面を眺める。URAや学園の許可を通してなさそうな記事が、今日も沢山並んでいる。

 

「暇なのかなぁ……」

 

 生徒会の人やたづなさん達は、出版社がお金を掛けて作ったもっとえぐいのを見ているんだろうなぁ……と思うと、申し訳ない気持ちになった。

 そういうのを差し止めるのは、やっぱり大変なんだろうか。今度差し入れを置いて来た方が良いかもしれない。何が喜ばれるかはわからないが。

 

 携帯端末の電源を落としながら、心に蓋をする。そうすれば、練習で負った小さな傷の痛みを忘れられる。今日は一人でフォームの改善をしなければならない。痛みなんて邪魔なだけ。

 人参を全部頬張って、残ったコップの水で流し込む。シリアルの箱を閉じて、テーブルの真ん中の方へ寄せた。同居人は居ないから、自分の持ち物をやりっ放しにしていても問題はない。

 

 蹄鉄をしっかりと留めた練習靴を履いて、自室の扉を開ける。今日こそは、更に速くならなくては。接地時間の短縮が終われば、また次の課題がある。次のレースまでに完成()なければならない。走りで黙らせなければならない。

 皆の誇り(ディープインパクト)には、まだ遠い。

 ──さあ、今日も頑張ろう。

 

 

■□■

 

 

「えー……という訳で。今日から我がスピカに仮入部……じゃないな。色々あって預かる事になったアフターマスだ。少しの間、一緒に過ごす事になるから仲良くしてやってくれ。ほら、アフターマス、挨拶挨拶」

「あっはい。えーっと……ご紹介に預かりました、アフターマスと申します。アフタと呼んで頂ければ嬉しいです。手土産もなく、すいません」

『……はあーーーっ!?』

 

 三人仲良く室内へと入って来たスペシャルウィーク先輩、ダイワスカーレット先輩、ウオッカ先輩にぺこりと頭を下げる。

 異口同音に、驚きの声が上がった。急に爆発した音の塊に、耳もぺこりと下を向いた。

 

「ちょっ、ちょっとトレーナー!? 流石にアフターマスは不味いわよ!」

「いくら新人が来ないからって、リギルのホープ誘拐して来るのは駄目だろ!? 殺されちまうぞトレーナー!」

「……謝りに行きましょう。誠心誠意謝れば、今ならまだ許してくれるかもしれません……今直ぐに謝りに行って、けじめを付けて誠意を見せましょうっ!」

「お前らなぁ……」

 

 一体、俺を何だと思ってるんだ……そうぼやいたチームスピカの専属トレーナー──沖野トレーナーの周りで、チームスピカの先輩方がやいのやいのと声を上げている。見るからに仲が良さそうで、楽しい気分になった。

 

 ()()()、現在地と思われる場所はチームスピカの部室。

 何処となくレトロな雰囲気を残しつつ、必要な物は一通り揃っている機能的な空間だ。東条さんが同格として認めている数少ないトレーナーの一人が整えていると考えると、流石は超一流チームの部屋だ……と感じてしまう。最新鋭という言葉が似合うリギルとは方向性こそ違えど、練習拠点としての役割に差はなさそうだ。きっと、生み出される練習の質もかなり高いのだろう。

 初対面で挨拶前に脚を撫で回された時、沖野トレーナーの事を本気で危ない人だと思ったが、少し失礼だったかもしれない。

 

 ……そう思っていると、ダイワスカーレット先輩とウオッカ先輩が、沖野トレーナーの腕をそれぞれ掴んだ。

 

「待て待て待て待て! 俺は本当に何もしちゃいない! おハナさんに頼まれたんだよ!」

「そんな訳ないでしょ!? 何がどう転がれば、グランプリレース目前の無敗の三冠ウマ娘をライバルチームに預けるのよ!」

「俺達でももう少しましな嘘を考えるぜ、トレーナー!」

「本当なんだって!」

 

 沖野トレーナーはウマ娘に負けないくらい壮健……そう聞いてはいたが、ウマ娘が人間相手にプロレス技を掛けようとする光景を見ると、流石に驚く。何が驚くかと言えば、沖野トレーナーの反応が、完全に技を掛けられ慣れてる人のそれなのだ。

 この光景が日常的に繰り広げられてるとすれば、沖野トレーナーの耐久性はどうなっているのだろう。人体の不思議を垣間見た気がした。

 

 ……そう思っていると、スペシャルウィーク先輩に肩をつつかれた。はて、と思い顔を直視する。何故かとても優しい顔をしていた。

 

「アフターマスさん、正直に話して下さいね。大丈夫、私達が守りますから。ここまで来るのに、何がありましたか?」

「えっ。いや……自分の部屋を出て、ゴールドシップ先輩にずた袋で担がれて、気が付けばこの部屋にいて脚を撫でられてました……?」

 

 あった事をそのまま口に出してみる。しかし、自分で言ってて意味がわからないので、最後にどうしても疑問符が付いた。話の脈絡がなさすぎて、何を言っているのか本当に訳がわからない。

 だが、色んな意味で有名なスピカの先輩方にはそれで通じたようで、アウトー! と叫びながら、ダイワスカーレット先輩とウオッカ先輩が沖野トレーナーにプロレス技を掛け始めた。両サイドからの綺麗な腕ひじき十字固め。あまりに綺麗な極まり方なので一拍子遅れたものの、慌てて止めに入った。

 

「先輩方、すいません! でも俺、近々スピカの皆さんとトレーニングするって東条さんから聞いてました!」

 

 何時かは聞いてませんでしたけど……そう付け加えると状況が悪化するのは目に見えているので、黙っておく。

 先輩方はお互いにきょとんとした顔を見合わせてから、技を掛けるのをやめた。立ち上がって、こちらへと向き合う。痛みに悶絶打った様子の成人男性の声が部室に響いていて、スピカの凄さに色んな意味で慄いた。

 

「あら、そうだったのね。ごめんなさい、早とちりしちゃったわ。アタシ、ダイワスカーレット。歓迎するわね、宜しく」

「俺はウオッカだ! 一時的なもんかもしれないけど、俺達は仲間になるんだ、何でも頼ってくれよ!」

 

 アフターマスです、呼び方はアフタでお願いします……そう言って、再度頭を下げた。隣のスペシャルウィーク先輩にも同様に。

 

「あの……っ! もしスピカで困った事があったら何でも言って下さいね! 少しだけ個性的なチームですけど、皆さん本当に良い人ばかりですから、大体は何とかなりますので!」

 

 宜しくお願いします、アフタちゃん! そう元気良く言ってくれたスペシャルウィーク先輩に頭を下げて──彼女の後ろで、のそのそと沖野トレーナーが立ち上がったのを目撃した。痛みから復帰するまでの早さに、少しだけ引く。技を掛けられ慣れ過ぎて、肉体が特殊な進化を遂げているのかもしれない。

 中央トレセン学園のトレーナーは怪物ばかり……前に聞いた噂は本当だった。じゃあ、東条さんも同様なのだろうか。疑問が尽きない。

 

「ってて……実は前から検討してたんだよ。アフターマスがオーバーワークを繰り返し過ぎるから、短期間だけでも環境を変えてみようかって。うちにとっても悪い話じゃないしな」

「それにしたって急過ぎるでしょ……何も聞いてないわよ、アタシ達」

「いやぁ、すまんすまん。実は事情が少し変わってな。直ぐにでも決行する事にしたんだ」

 

 事情? と先輩方が首を傾げた。確実に俺のせいで、居た堪れなくなる。

 チームリギルに全然顔を出さなかった挙げ句、先日、盛大にすっ転んで顔を擦り傷まみれにしてしまったのが東条さん的にアウトだったらしい。ならば他の優秀なトレーナーの目が届く所で練習させよう……という事で、俺は一時的にスピカの預かりとなったのだ。

 こんな問題児でも退部させるのではなく、色々と手を尽くしてくれる東条さんには入学以来頭がずっと上がらない。

 

「うう……ボクがカイチョーにお願いされたのにぃ……」

 

 ふと、部屋の隅の方から、呻き声のような声が聞こえた。俺が沖野トレーナーに部屋に招かれた時には既にいた少女──トウカイテイオー先輩だ。

 実はテイオー先輩には一通りの事情を説明し終えており、何故かショックを受けた様子だった。カイチョーにお願いされた……という事は、ルドルフ先輩から何かを頼まれていたのだろうか。ルドルフ先輩とテイオー先輩の仲が良いのは有名な話で、ルドルフ先輩を訪ねて来たテイオー先輩とは俺も何度か顔を合わせた事があった。

 とは言っても、積極的に話す程気安い間柄ではなかった為、個人的なやり取りの事情は何も知らないが。テイオー先輩は、俺にとっては少し眩しいのだ。

 

 三角座りを決め込んでいるテイオー先輩へ、沖野トレーナーが声を投げた。

 

「そろそろ機嫌直せって。ほら、人参味の飴ちゃんやるから」

「要らないよ! そんなんで釣られるほどボクは子供じゃないよ!」

「そうか、すまんすまん。……あ、アフターマスは要るか?」

「あ、欲しいです。ありがとうございます、頂きます。それとアフタで大丈夫です」

「……いや、どうしてアフターマスはそんなに馴染んでるのさ!?」

 

 貰った棒キャンディーの包み紙をポケットに収めて、口に銜えていると、何故かテイオー先輩に怒られた。解せない。

 

「そういや、ゴールドシップの奴、何処に行ったんだ? アフターマス──アフタを連れて来たのってゴールドシップなんだろ?」

 

 チームメイトを気にかけるウオッカ先輩へと、ゴールドシップ先輩は俺を()()した後、直ぐに何処かへ行きましたよ。と、告げる。相変わらず自由な奴だなぁ……と、少し呆れたような顔。

 ゴールドシップ先輩──()()()()()()()()がスピカに馴染めているようで、何だか嬉しくなった。

 

 ゴールドシップ──黄金の不沈艦。最後方からの追い込み一気でレース終盤を盛り上げる華のあるウマ娘だ。「おら! 道を空けろやおら! すっぞおら! どけやおら!」みたいな強気のロングスパートでレースを駆け抜けた後、自由過ぎるウイニングライブでファンのハートを掴んでいるトップスターの一人。

 走りではワープを疑われるくらいの追い込みの名手だが、俺は何方かと言えば、ウイニングライブでの自由っぷりが好きだった。『うまぴょい伝説』でうまぴょいせず、五分間に渡りブレイクダンスをかましたウマ娘なんて、後にも先にもゴルシちゃんしか知らない。

 我が道を行く、破天荒な少女。

 

 ──マックイーン()()の家で会ったあんなに小さかった子がなぁ……と、一瞬思うも、はて。いつの事だろう。ゴルシちゃんは俺が中央トレセン学園に入学した時には既に学園生だった。つまり、俺より歳上だ。だから、俺の知ってるチビ助ゴルシちゃんと、すらりと背の高いゴールドシップ先輩は別人のはずである。というか、俺の知ってるチビ助のゴルシちゃんは栗色の髪でおっとり屋さん。ゴルシちゃん違いである。疑うまでもなく、俺の勘違い。

 ……練習のし過ぎで脳がバ鹿になったのだろうか。最近は睡眠の質も酷いので、少し心配になる。

 

 一人でうんうん唸っていると、テイオー先輩がいつの間にか復活していて、それでさー……と声を上げた。

 

「アフターマスはいつまでスピカにいる予定なの?」

「取り敢えず、有の三日くらい前までお世話になる予定みたいです。前後する可能性もあるらしいですが」

「ふーん……じゃあ、いまの所は一ヶ月半くらいだね。()()()()として、沢山鍛えちゃうから、覚悟しなよ!」

 

 にっしっし、と笑いながら、テイオー先輩はそう言った。

 俺としてはテイオー先輩程の名ウマ娘が鍛えてくれると言うのなら願ってもない事である。不屈の帝王伝説は、今生で何度も語り聞いたが、その度に胸が熱くなるような逸話だった。主人公とは彼女のような人物の事を言うんだろうなぁ……と感じずにはいられない、そんなウマ娘こそがトウカイテイオー先輩である。不運さえなければ、ルドルフ先輩の後継者だったかもしれない圧倒的強者。

 会話の中で妙に()()()()の部分が強調されていた気がするが、きっと気の所為だろう。

 

「有の三日前!? レースまでほぼずっとじゃない! リギルに戻って、少しくらい練習しなくて良いの……?」

「……なあ、実はリギルの連中と喧嘩別れして来たとかか? 大丈夫か? 会ったばかりだけど、俺で良ければ相談に乗るぞ?」

「いやー、あっはっは……」

 

 ダイワスカーレット先輩とウオッカ先輩に真剣に心配されたので、取り敢えず笑っておく。喧嘩どころか、こちらが勝手に距離を置いているだけなので、怒られる事はあれど、心配されるなんてとんでもない。

 少しだけ考えて、素直に理由を告げる。

 

「実は今、スランプなんですよ。速くなる所か、菊花賞の時より遅いかもしれないんですよね。だから先輩方に申し訳なくって」

「アフタちゃん……」

 

 スペシャルウィーク先輩が、こちらを心配するように見詰めて来た。そう言えば先輩も昔、スランプに苦しめられてたんだっけ? と、うろ覚えの記憶を掘り起こす。

 『日本総大将』の誉れを掲げてジャパンカップでヨーロッパ王者ブロワイエと激突し、勝利を収めた黄金世代の代表格。

 そればかりが先行するせいで忘れそうになるが、スペシャルウィーク先輩も勝ったり負けたりを繰り返して来た酸いも甘いも知っているウマ娘だ。

 いや、一番レースを走っていた時期の競争相手は、あの黄金世代や最盛期オペラオー先輩等の怪物だらけなので、無敗である訳もないのだが。そんな事が出来るなら、もはやウマ娘というよりもUMA娘だろう。

 ……ルドルフ先輩や()ならどうだろうか。わからない。

 

「……分かりました! だったら、リギルに胸を張って帰れるくらい成長して戻りましょう! お手伝いします!」

 

 あと、私もスペちゃんで良いですよ! という声に、何度目か分からないが頭を下げた。

 チームスピカにとって、好敵手であるチームリギルの若手を育てる事は、自分達の首を絞める事に繋がりかねない。なのに、ここまで親身になってくれて、申し訳なさと有り難さで涙が出そうになる。沖野トレーナーも成り行きを見守ってくれていて、否はないようだった。本当に良い人達ばかりだ。

 恩に報いる為にも、より一層頑張らなければならない。

 

「よし……じゃあ済まないが、少し口を挟んでも良いか?」

「あ、はい。何でしょうか」

「ちょっと確認したくてな。おハナさんからアフタの一日の基本的なトレーニングメニューと、自主練の内容をデータにして送って貰ったんだが……これは間違いないか?」

 

 沖野トレーナーからレポートを受け取り、目を通していく。中に書かれているのは、リギルのチーム練習の内容だったり、俺個人の為に組み立てられた追加メニューだったりといった、ずっと俺に密着し続ければ簡単に得られる情報が主。

 ……それに加えて、その後に隠れてやってる自主練習だったり、フォームの研究に費やしてる時間だったりが事細かに記されていた。

 まさかここまで東条さんにばれていたとは思っていなかったので、冷や汗が垂れる。

 

「えっと……そんな訳では、ないんですけれども──」

「……よし。嘘吐く時の癖確認、完了! アフタ、おハナさんと俺からの絶対命令だ。今日から一時、トレーニング禁止!」

「そんなっ!?」

 

 真剣な目で告げられた禁止令に、思わず手を滑らせてレポートを落とす。

 ダイワスカーレット先輩とウオッカ先輩がそれを拾い上げ──顔を引き攣らせた。

 

「坂路、酸素負荷、荷重負荷、プール、併走、反復トレーニングに長距離周回……何でも有りなのは良いとして、何日分の量よ、これ……」

「お前……涼しい顔してるけど、実はバ鹿だろ……?」

 

 脚壊そうとしてない限りこんな事しないって……というウオッカ先輩の声に釣られて、スペちゃん先輩とテイオー先輩も覗き込み──同様の顔をした。

 何かを言われる前に、先に口を開く。本当にトレーニングを禁止されてしまうなら、不義理を働かなければならなくなる。

 

「それはほら、あれですあれ。理想の量的な? ほら、中学二年生が患う病気の一種であるじゃないですか、実は陰で隠れてこれだけの鍛錬を重ねている……みたいな妄想。あれを具体的に書き出しただけの感じのやつです間違いなく」

「……その理論で行くと、書き出したおハナさんが中学二年生に取り憑かれてる事になるんだが、それで良いのか?」

「あっ……えー、短い間ではありましたがお世話になりました。皆さんから頂いた温かい応援を胸に抱き、頑張っていく所存です。それではさような──」

「確保」

『了解!』

 

 一気に捲し立てるように喋ってから、勢いよく振り向き、駆け出した。その先には、扉があった。そのせいで、あえなく御用となる。

 

「アフタ。悪い事は言わない。これはオーバーワークとか、そんな生易しいものじゃない。自主的に拷問してるのと同じだ。常に怪我のリスクが付き纏うし、折角の筋肉も駄目になる。関節だって、通常よりも磨り減ってしまう。リギルでトレーニングをしていた頃はおハナさんが上手く調整していた跡があるが、今はそうじゃないんだろう?」

 

 そう言われ、下を向く。言ってる事は、本当に正しいし、東条さんに迷惑を掛けてる事を改めて自覚した。

 でも、そうでもしないと()に追い付けない。いや、そうしていても、まだ追い付いていない。

 

「一度、全てのトレーニングを停止して、段階的に再開していく。これは俺とおハナさんの二人で決めた決定事項だ。何がなんでも従って貰うし、場合によってはスピカの誰かに取り押さえさせる。場合によっては、リギルにも手伝って貰う。例え、全員がトレーニング中であってもな」

 

 それが嫌なら、きちんと従うんだ。そう言われてしまえば、俺にはどうしようもない。先輩方に迷惑を掛けるのみならず、トレーニングの邪魔をする? それは駄目だろう。自分のトレーニングに対する未練は大いに残るが、天秤に掛ければどちらに傾くかなんて、一目瞭然だ。

 東条さんと沖野トレーナー、どちらが考えたのかは知らないが、俺からしたらとても悪辣な発想だった。

 

「……ちなみに、何本かだけでも思いっ切り走ったりは?」

「駄目に決まってるだろ……どうしたテイオー。お前らしくもない」

「だよねー。いやー……ちょっと気になっただけで、何でもないよー……」

 

 がっくしっ、とテイオー先輩は肩と耳と尻尾を落とした。何もないと言い張るには無理があると思うが、どうなんだろうか。

 

「まあ……何だ。レース前の休養だとでも思えばいい。お前のトモ、本当に最高だったが、流石に疲れが溜まってるようだったしな。もう一度触りたいくらい、本当に最高のトモだったが」

「……流石にこの見た目の差だと、通報されたら言い逃れ出来ないと思うけど、良いのかよトレーナー」

「ちなみにアタシは庇わないわよ」

「私も、ちょっと庇えないですね……」

「じゃあボクはカイチョーに密告しちゃおうかな?」

「……いや、やらないぞ?」

 

 このチームは、沖野トレーナーが弄られ役を買っているのだろうか。とても和やかな雰囲気だった。

 その中で、一人深刻に肩を落としている俺は、きっと最低な奴なんだろうな……と思う。

 

「アフターマス……人生は、戦いや栄誉だけが全てじゃない。特に、青春は。たまには思いっ切り遊んで、はっちゃければ良いんだ。意外と、そんなんでもスランプが治ったりするんだぞ」

 

 沖野トレーナーへと、俺はゆっくりと首を縦に上げ下げして返事をした。

 

 ──こうして、スピカでの『練習しない事が練習』という、奇妙な時間が始まった。

 有記念までに、本当にスランプが治るのだろうか。想定外の日々の幕開けに、俺は頗る不安を覚えた。


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