次のデイリー杯ジュニアステークスへの登録も済んだ。今回はGⅡなこともあってフルゲート近い登録があって、問題なく開催されそうだとのことである。
成立してもしなくてもやることは変わらないので、私はいつも通りトレーニングをしていた。次走がマイル戦であるということもあって、スズカさんの他に時々マルゼン先輩やグラス先輩と一緒に併走したり出来たのは楽しかった。皆すっごく速くて、スズカさんやマルゼン先輩を抜くことはできなかったし、グラス先輩にはプレッシャーを掛けられて足が鈍ったところを一気に差し切られたりした。
ただ、仕上がりとしては万全である。公式戦では初のマイル戦だが、心配はあまりなくなった。後は当日までモチベーションをキープできればいい勝負が出来るだろう。
「ふう……えっと、次は……」
トレーナーさんに言い渡されたトレーニングメニューを終え一休みする。この後はいつも通り追加の自主練をする予定だ。今日はプールの予約が取れたのでプールトレーニングを軽めにして、後は二学期の中間テストに向けた復習を済ませる予定である。英語の文法も大分わかってきたので、今回はいい点が取れると思う。
後片付けを終えてプール用の荷物を部室に取りに行こうとしていると、ピロンとスマホが鳴る。通知を見るとトレーナーさんからメッセージが入っていた。知らせたいことがあるから部室まで来てほしいとのことだ。ちょうど向かうところだったのでその旨を返し、駆け足で部室へ向かう。
部室に辿り着き、部室のドアを勢いよく開ける。ズバァン、と結構な音がしたが、トレセン学園の設備は基本ウマ娘の力を基準に作られているので問題はない。
「トレーナーさん! お呼びですか?」
「お、おう……扉はもう少し丁寧に開けような。勝負服が出来たから一度試着してもらおうかと思ってな。そろそろトレーニングが終わったころかと思ってメッセージを送ったんだが、大丈夫だったか?」
「はい! 大丈夫です! 早速着てみますね!」
勝負服。私たちウマ娘の晴れ着とも言える衣装で、GⅠなどの大舞台で着るものだ。トレセン学園に所属するウマ娘であれば、たとえ未出走でも一着は作成することが出来る。卒業式には全員勝負服を着て出席するのが慣行となっていたりするようだ。
早速衝立の向こうで着替える。同じ部屋にトレーナーさんが居るが、直接見えていないし別に構わないだろう。
「どうですか、似合っていますか?」
着替え終わってトレーナーさんの前に出る。私の勝負服は黒を基調にした着物と、袴も黒色の組み合わせだ。普通の袴よりは少し走りやすく加工がされている。露出少な目でお願いしたので袖もしっかりしており、胸元もきっちりとしているようなものだ。所々にあしらわれたアヤメの花の模様が上品さを引き立てている。アヤメはおばあちゃんが好きだったので、私も好きになった花だ。
靴は下駄のように見えるが足首辺りの帯でしっかり固定されていて走るのに全く支障はなさそうだ。
ちなみに着付けは母に仕込まれたので一人で出来る。一般教養だとして教え込まれたのだが、使う機会は今日までなかった。
「おう、似合ってる似合ってる。まさにマ子にも衣装だな。大人っぽく見えていいと思うぞ」
「褒めてくれるのは嬉しいですけど、大人っぽく見えるって……普段子供っぽいってことですか?」
まあ、心当たりはあるけど。最近はトレーナーさんにも遠慮がなくなってきたのでわがまま度合いが増している自覚はある。
「いや、そういうことじゃなくてな……何というかこう、風格っていうものが……」
少しトレーナーさんが焦った様子で弁明してくる。それがおかしくってつい少し笑ってしまい、それを見たトレーナーさんが困ったように頭をかく。
「とりあえず、走ってきていいですか? もう走りたくて仕方なくてうずうずしちゃいます」
勝負服に袖を通した時から、身体の奥から不思議な力が沸き出てくるような感じがして仕方がない。今すぐにでもコースを駆け抜けてしまいたい。
「そうだな……一応芝コースを一周走ってもらえるか? 大丈夫だと思うが、不具合があるといけないからな。準備をするから少し待ってくれ」
「はい、わかりました!」
トレーナーさんがタブレットなどの荷物を準備している間、そわそわしてしまう。スズカさんみたいにその場で回りだすようなことはないけれど、スズカさんが考え事をするときに左回りをする気持ちが少しわかった気がする。
そうしていると、部室の扉がコンコン、と控えめに叩かれる。
「ん? 来客か? 入っていいぞー」
トレーナーさんが準備を進めつつ扉の向こうの人物へ声を掛ける。ガチャリ、と音を立てて入ってきた人物は少し見慣れた人物だった。
「失礼するよ。テイオーは……居ないようだね。少し待たせてもらってもいいかな?」
入ってきたのは流星が特徴的な鹿毛のウマ娘、トレセン学園生徒会長、シンボリルドルフだった。
「あ、シンボリルドルフ生徒会長。お疲れさまです」
ぺこりと少し頭を下げて挨拶をする。初対面の時はダンスレッスン中にいきなりということもあってひっくり返ってしまったが、そこからちょっと話す機会もあり少しは楽に話せるようになったと思う。
「ブラックプロテウス君か。お疲れ様。ん? 勝負服を着ているのかい? うん、似合っているよ。まさに沈魚落雁、羞花閉月と言ったところかな」
「あ、ありがとうございます……面と向かって褒められると少し照れちゃいますね」
沈魚落雁や羞花閉月の意味自体はよくわからないが多分誉め言葉だろう。今度辞書を引いて調べておかないと……
「それにしても……アヤメか。うん、良いね」
シンボリルドルフ生徒会長が満足そうに頷いている。彼女もこの花が好きなんだろうか?
「勝負服だけに、
「……? ……!!!?」
だ、ダジャレ!? ダジャレなの!? 私は一体何を聞かされているんだ!?
「ち、違います! そんなつもりじゃ……!!」
とりあえず否定しておかないとまずい気がする。おばあちゃんのお気に入りだったから要望しただけでそんな意図はなかった。というか花菖蒲って厳密にはアヤメとは違ったような……?
「ふふっ、冗談だよ。でも、良いセンスなのは本音だよ。落ち着いた感じでとても君に似合っている。君がその勝負服を着て走るときを楽しみにしているよ」
にっこりと微笑まれる。凄い魅力があってつい赤面してしまう。顔が良すぎる……
「あ、カイチョー! 待たせちゃった? さ、行こー行こー!」
私が照れているとテイオー先輩が部室に突撃してきて、シンボリルドルフ生徒会長の手をぐいぐいと引いて外へ行こうとする。
「こらこら、テイオー。そんなに急がなくても私は逃げないぞ? では、沖野トレーナー、ブラックプロテウス君。失礼したね」
テイオー先輩を慈しむように見つつ、こちらに軽く頭を下げてくる。
二人を見送った後、気を取り直して芝コースを試走した。1600mと少し短かったがいつも以上に気合が乗って走れて、いきなり自己ベストを記録して二人で驚いてしまった。
その後はもっと走りたくてトレーナーさんに思いっきりわがままを言ってしまい、結局プールの予約もテスト勉強も忘れて門限ギリギリまで走り続けてしまった。遅刻ギリギリで滑り込んでフジキセキ寮長に苦笑いされてしまい、その恥ずかしさで夜寝付くまでに少し時間がかかってしまったのだった。
【トレーナーSide】
滞りなくデイリー杯ジュニアステークスの日を迎え、今はパドックが終わり、本バ場入場中だ。今日のテウスは1枠1番。逃げのアイツには絶好のポジショニングだ。
パドックでは体操服を着たテウスが恐らくテイオーに教わったであろうポーズを決めていた。今日も一番人気なだけあってポーズを決めると大きな歓声が聞こえていて、ちょっとテウスが嬉しそうにしていたのが印象的だった。
ただ、先日勝負服を見せたのがいけなかったのか、今日勝負服で出ようとしていたことには困ったが何とか言い聞かせることが出来た。それでも今日はいつもよりテンションが高いので、何かやらかさないか心配だ……
周りを見回すと他のトレーナーと目が合ってちょっと気まずくなる。他距離の戦場にいきなり乗り込んできたような形なのでまあ、歓迎はされていないだろう。表だって批判はされていないが良い感情は抱かれていないはずである。
これは次のレースは間隔を空けた方がいいな……別に俺が批判される分には構わないが、その責めがテウスに及ぶようなことは避けないといけない。次はGⅢの東京スポーツ杯ジュニアステークスか京都ジュニアステークスにする予定だったが、これはホープフルステークスまで我慢させた方が良さそうだ。今日の結果次第では朝日杯FSでも良いと思うが、フジキセキが出てくると思われる以上中途半端な調整では勝てないだろう。
ホープフルステークスには恐らくタヤスツヨシが出てくるだろう。デビュー戦は短距離で3着だったが、距離が延びるにつれ順位も上がっている。恐らく得意距離は2000m前後だと思われるので、確実にかち合うだろう。
まあ、それでも2000mなら心配していない。メイクデビューと同程度の走りが出来れば問題なく勝てるだろう。なんせあの時のタイムは皐月賞のレコードすら超えている。
そうこうしていると京都レース場にファンファーレが響き渡る。今日のバ場状態は多少雲は出ているが良の発表だ。京都レース場は今日が初めてじゃないし、問題はないと思うが……双眼鏡で覗く限り、テウスのテンションが大分高い。ゲート入りしても変わらずうずうずとしている。スタート前から掛かってるんじゃないだろうな……
『各ウマ娘、体勢整いました……今スタートしました!』
全員がゲートに入り、一瞬静まった後、ゲートが音を立てて開く。スタートは……良いスタートだ。今までで一番良いスタートかもしれない。
『ブラックプロテウス、抜群のスタートを切りました! 最初からエンジン全開で後続のウマ娘たちを引き離していきます!』
内枠有利なバ場状況と言うこともあるが、それにしたって今日は速い。これは……掛かってるな……
『ブラックプロテウス、勢いは止まりません。淀の坂に突入しても全力全開、フルスロットルで飛ばしています。二番手はトモエナゲ、同じ逃げウマ娘ですが既に5バ身ほどの差が開いてしまっています』
『これは……掛かってしまっているかもしれませんね。スタミナには定評のあるウマ娘ですが、このペースではたして持つのでしょうか……』
そのまま掛かりっぱなしになりながら坂に入る。ちっとも冷静さを取り戻す様子はなく、ラストスパートかと言わんばかりの走りで坂を駆け上っている。これは後で反省会だな……
『第3コーナー半ばを越えて、ここから下り坂。1000m通過タイムは……57秒ジャスト! かなりのハイペースだ! 更に下り坂を勢いよく下っていくぞ、まさに直滑降だ!』
下り坂と言うのはスピードに乗りやすく、さらに自然と前のめりになってしまうことが多いため恐怖を抱くウマ娘も多い。淀の坂は特に顕著で、まるで第3コーナーに小さな丘があるような構造になっているこのコースの下り坂はかなり勇気が要る。
テウスはその点怖いもの知らずとも言えるくらいの直滑降を決める。たとえ転んでも何ともないだろうと思っているだけかもしれないが、見ているこちらとしてはハラハラして仕方がない。
『坂を下り終わって第4コーナー、乗りに乗ったスピードに負けず綺麗なコーナリングを決めます、流石はコーナリングに定評のあるウマ娘!』
第4コーナーを先頭で回ってくる。いつも通り速度をほとんど落とさないコーナリングでホームストレッチに入ると大歓声がテウスを迎える。
すると少し落ち着きかけていたテウスがまた掛かってしまい、さらにそこからスパートを掛ける。テウスの足音だけいやに大きく聞こえるのは気のせいじゃないだろう。どれだけ強く踏み込んでいるのか、特に意識はしていないだろうが後ろに芝が千切れ飛んでいる。今日は良バ場の硬いターフのはずなんだが……力任せに走っているようで、速度自体はそれほど速くなったわけではないのが残念だ。あのパワーでスピードに乗れればもっと速い走りが出来るだろう。
『後続は大きく離れた! これは圧倒的です、このウマ娘で決まりだ! ブラックプロテウス、圧勝ゴールイン! 勝ち時計は1:31.5! 無傷の四連勝と、ジュニア級芝1600mレコードタイムを記録しました。2000mに続き、1600mでもレコードホルダーだ!』
そのままの勢いでテウスがゴールする。最初から最後まで掛かりっぱなしでよくスタミナを切らさないものだ……
『2着はトモエナゲ、3着はミニダンデライオンが入りました。おっと……ブラックプロテウス、ゴールしてなお爆走しています。ゴール板を過ぎて第1コーナーを綺麗に曲がっていきます』
『これはゴールしたことに気付いていないようですね。大分掛かっていましたから、周りが全く見えてないようです。係員が慌てて制止しようとしていますが止まりませんね、そのまま第2コーナーを過ぎて向こう正面まで行ってしまっています。いやー、物凄いスタミナですね、感心しますよ。果たしてどこまで走れるんでしょうねえ』
ゴール後も止まらず走り続けるような珍事に頭を抱える。当の本人はどうして自分を止めようとするのか全く分かっていないらしく気にせず爆走しているのだから手に負えない。走ってるウマ娘を無理矢理止めることは自殺行為なので、テウスが落ち着くまでは手が出せないだろう。
幸いなのは解説や観客には受けが良いことだろうか。観客が面白がって歓声を上げるものだから、それでさらに掛かって止まらなくなってしまっているので悪循環なのだが。
結局テウスが止まったのは更にもう一周し、3周目の第3コーナー、丘の頂上辺りだった。立ち止まって辺りを見回すと状況を把握したらしく、係員に深く、何度も頭を下げながらウィナーズサークルへ誘導されている。
さて……俺も謝りに行くか……無意識に飴を噛み砕きながら、この後は始末書を書く必要があるだろうなと、いつの間にか雲一つなくなった晴天の空を見上げるのだった。
ブラックプロテウス
勝負服が完成したことでテンションが振り切れてずっと掛かりっぱなしになってしまった。ライブ後の彼女を待っているのはお説教である。
沖野トレーナー
今回の件は始末書だけで済んだ。
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