漆黒の鋼鉄   作:うづうづ

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いつも感想ありがとうございます。最近は感想返し出来てなくてすみません。近いうちに必ず返します。

(こう書くと借金を返さない債務者みたいだな……)


第五十六話 阪神大賞典

 

 

 

 阪神レース場の控室。レース開始の2時間前に体操服に着替え終わった私はいつも以上にそわそわしていた。

 落ち着かない。いつもなら着替え終わったタイミングで必ずトレーナーさんが声をかけてくれた。彼が居ないというだけで支柱を失ったかのように揺らいでしまう自分がいて、少し情けなく思うと共にどれだけ信頼していたかを改めて思い知った。

 というか、早く着替えすぎた。いつもならこの時間はまだトレーナーさんと談笑している頃だ。なんだか落ち着かなくて、何かしていないとこのまま飛び出して行ってしまいそうだ。

 

「落ち着かないかい、ブラックプロテウス。まあ、いつもと違うということはそれだけ精神には影響があるだろうからね」

 

「すみません、奈瀬トレーナー。やっぱりトレーナーさんがいないとちょっと不安で」

 

 着替えを手伝ってくれていた奈瀬トレーナーが苦笑いしながら私を落ち着かせようと声をかけてくれた。

 ちなみに今日は他の皆は置いてきた。別にこの戦いについてこられないというわけではなく春のファン大感謝祭の準備に専念してもらうためだ。

 チームカペラと合同で何やら出し物をするらしい。キタちゃんの出店案とダイヤちゃんのメイド喫茶案で割れていたからどっちかになるだろう。もしかしたら両方やるかもしれないが、まあどっちも楽しそうだしいいかな? 

 

 ちなみにトレーナーさんはインフルエンザだったらしく、ついでに休暇を取っていなかったからと二週間ほど強制的にお休みを取らされている。

 そのトレーナーさんはスズカさんが毎日看病しに行っているらしいので安心だ。インフルエンザがうつるからとトレーナーさんは断ろうとしたのだが言いくるめられたそうだ。

 まあ、熱で頭が回っていないときにスズカさんみたいな賢いウマ娘を言いくるめるのは無理だろう。スズカさんは理詰めなら強いタイプだ。勢いには弱いけど。

 それにしてもインフルエンザか。彼が体調を崩したところを見たのは初めてだ。私とかスぺさんみたいなウマ娘に蹴られても鼻血程度で済むほど頑丈な人なのに。

 私が平日も休日も関係なくトレーニングをしているせいで十分な休みが取れていなかったのだろうか? これからは土日くらいはきっちり休みを取ってもらおう。自主トレだけなら事後報告でも問題ないだろうし。

 でも、レースは土日だから出走の時は働いてもらわないといけないのか……やっぱりトレーナー業って休みなしのブラック労働なのでは? ちょっとクラスメイトとかに声をかけてトレーナーさんたちに十分な休みを与えるようにデモ活動でもしてみようかな……

 

「そんな君に、一つ僕から差し入れだ。大したものではないけれどね」

 

 そう言って奈瀬トレーナーが手のひらサイズの長方形の小物を渡してくる。これは……スマートフォン? かなりシンプルなタイプだ。奈瀬トレーナーはガラケー派だったと記憶しているし多分トレセン学園から支給されている業務用のものだろう。トレーナーさんが同じものを持っていた記憶がある。

 これは今誰かと通話中になっているようだ。スピーカーモードにしてみると、そこから聞きなれた声が聞こえてきた。

 

『あ゛ー……テウス、聞こえるか?』

 

「と、トレーナーさん!? 休んでなきゃダメだって言ったじゃないですか! お休みの時くらい放っておいてもいいんですよ!」

 

『そういうわけにもいかないだろう……バチクソに緊張してる声だぞ、テウス。それに俺が休んでから一度も電話してこなかったから心配だったしな』

 

 薬で熱は落ち着いているとは思うが、喉に来ているのか声は少し枯れている。

 そんな本調子でない相手に電話越しで見抜かれている。長い付き合いとはいえ、私は相当わかりやすいウマ娘らしい。

 

「うー……すみません、休み中のトレーナーに心配かけるつもりはなかったんですけれど……休み中は連絡しないつもりだったんです。ゆっくり休めないと思って」

 

『気にすんなって、トレーナーって生き物は担当ウマ娘の声を聴くと元気が出る生き物なんだから』

 

「ふふ、なんですかそれ。聞いたことない言説ですよ」

 

 嘘か本当かわからないようなトレーナーさんの言葉につい笑ってしまった。トレーナーさんの声を久しぶりに聞いて私は元気が出たのであながち間違いではないのかもしれない。

 そのまま時間ギリギリまでトレーナーさんとお話をして過ごすのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「もういいのかい、ブラックプロテウス?」

 

 業務用端末を返してもらいながら、目の前のウマ娘に声をかける。そこには先ほど落ち着かなさそうに貧乏ゆすりまでしていたウマ娘はおらず、穏やかそうなウマ娘が立っているだけだった。

 

「はい、ありがとうございます。奈瀬トレーナー。そろそろパドックへ行く時間ですし。今日は11人中の6番目なのでそれほど余裕もありませんから」

 

「今日は6枠6番か。以前から思っていたけれど君は6に縁があるウマ娘だね。今日はいい日になりそうだ」

 

「6って西洋だとあんまりいい数字じゃないらしいんですけどね。聖書か何かで不完全な数とされているとか聞いたことありますし」

 

「不完全、結構じゃないか。不完全なら君はまだここから完全に近づける。つまりまだまだ沢山成長できるんだから」

 

 数字は噓をつかないというが、数字なんていくらでもこじつけができるものだし、所詮は気の持ちようということだ。

 

「そうですね。ポジティブに考えることにします。それじゃ、そろそろパドックに出てきますね、奈瀬トレーナー」

 

 微笑んで控室を出てパドックへ向かおうとする彼女の背に、一言だけ声をかけることにした。

 

「ブラックプロテウス。今日は楽しんでおいで。いってらっしゃい」

 

「……はい、奈瀬トレーナー。いってきます! あ、後、今後私を呼ぶときはテウスって呼んでくださいね!」

 

 そうして僕はその背を見送り、一呼吸おいてから僕もパドックへ向かうことにした。

 今日の強敵を挙げるならマヤノトップガンとナリタブライアンだろう。二人とも間違いなく強豪。マヤノトップガンはもしブラックプロテウスがいなかったら菊花賞と有記念は彼女が獲っていただろうと思えるくらい強いウマ娘だ。

 

 それでも、今日は、今日だけは──

 

「僕のウマ娘が最強だ」

 

 一時的にとはいえ担当しているウマ娘だ。これくらい思ったって罰は当たらないだろう。

 それはそれとして後で沖野さんには謝ろうと思いつつ、歩を進めるのだった。

 

 

 

 

 

『阪神レース場本日のメインレース、GⅡ阪神大賞典! 天候は晴れ、バ場状態良。すでにウイナーズサークル周辺は超満員。6万人を優に超える観客がここ阪神レース場に集まりました。芝3000m。2コーナーから一周半レースを行います。今、場内ファンファーレです!』

 

 ファンファーレが鳴るのを最前列で見守る。これはトレーナーの特権。それと同時に、ここまで来てしまえば後は見守ることしかできなくなる。もし背に乗って一緒に走れるならどれだけいいことだろうと何度も思ったことがある。

 だが、それは出来ない。ファンファーレが鳴った後はもう今までしてきたことを信じるだけしか、トレーナーには出来ないから。

 

「奈瀬さん。こんにちは。今日はライバルね」

 

「東条さん。ええ、そうですね。今日は勝たせてもらいますよ」

 

 じっとゲート周りを見つめていたら背後から声を掛けられた。東条ハナ、チームリギル、そしてナリタブライアンのトレーナーだ。ナリタブライアンを三冠に導いた名トレーナーだ。

 

「あのバカがぶっ倒れたフォローを任せてすまなかったわね。私もブライアンやフジのことで手が離せなくて。実はあのバカがぶっ倒れなければ一時的にブライアンを任せてみようかとも思っていたのだけれど」

 

「いいえ、構いませんよ。三冠ウマ娘を指導できるいい機会でしたし、何よりあなたのウマ娘を倒す良い機会だ。ナリタブライアンの指導は、またの機会に。臨時とはいえ今はブラックプロテウスのトレーナーですから」

 

 以前からナリタブライアンの指導については打診されていたし、去年のジャパンカップあたりから意見を求められたりしてもいた。

 実際、ブラックプロテウスの臨時トレーナーという今後二度と経験できないであろう立場が空いていなければ今頃はナリタブライアンの臨時トレーナーとしてここに立っていたかもしれない。

 

「なんだ。お嬢ちゃんに新しい恋人が出来たかと思ったらただの臨時だったか。まあそれでもかなり厄介なことになったのには変わりはないんだが」

 

 東条トレーナーと談笑を楽しんでいると、何人かのウマ娘を連れた年配のトレーナーが話に割り込んできた。アケルナーの中原トレーナーだ。いつも着ている黒のベストとスラックスでフォーマルな感じに決めているのに、なぜかオレンジ色のネクタイをつけている。ちょっと似合っていない。

 一時期荒れていた彼だが、今ではウマ娘たちに慕われるいいトレーナーだ。マヤノトップガンをはじめ、担当ウマ娘たちには若干どころではなくかなり振り回されているようだが、まあ双方楽しそうなので良いことだろう。

 

「中原さん。そこまで評価していただけるとは光栄ですね。ところで新しい恋人とは?」

 

 僕に恋人はいないし、作る予定もないのだが……そういうこともあまり考えられないし。

 

「スーパークリークと恋仲だと以前から有名だったぞ? なんだただのガセネタか。年を取ると情報が古くなりがちだな」

 

「いえ、それは私も聞いたことがありますし今もよく聞きますよ、中原さん」

 

「クリークの恋人と呼ばれているんですか……まあ、クリークは誰にも渡したくありませんからそれでも構わないんですが」

 

 なんだろう、二人から少し引かれている気がする。担当ウマ娘を誰にも渡したくないと思うのは当然のことだと思うのだが。

 

『今大外枠のマヤノトップガンがゲートに入り……いえ、ゲートの手前で立ち止まってしまいました。じっとブラックプロテウスのほうを見ていますね。何かあったのでしょうか』

 

「……何やっているんだあいつは……」

 

 大外枠のマヤノトップガンがゲートに入ろうとしたタイミングで立ち止まってしまい、少し観客席が騒がしくなる。隣にいた中原トレーナーが思いっきり頭を抱えている。

 当のマヤノトップガンはというと、係員がいくら促そうとその場を動かずじっとブラックプロテウスが入っているゲートを眺めていた。何か思うところでもあったのだろうか? 

 

「レース前に何かマヤノトップガンに言ったりしました?」

 

「おそらく一人か二人はブラックプロテウスを抑えに行くだろうから、金鯱賞のリボンマンボのように機を見て仕掛けろとは言ったが……揺さぶってどうにかなる相手でもないしな、超長距離のブラックプロテウスは」

 

 なるほど、多分僕でも同じ指示をするだろう。マヤノトップガンならどんな展開になったとしてもそこから対応できるだけの能力がある。彼らしい堅実な戦法だ。

 

『ようやくマヤノトップガンがゲートに収まりました。阪神大賞典──今スタートしました! 飛び出した影が一つ、いや二つ! 黒い影とオレンジの影がきれいに飛び出した! 抜群のスタートだ! ほかのウマ娘も出遅れてはいませんが、この二人は別格のスタートです!』

 

 ゲートが開き、レースが始まる。飛び出したのは、二人。ブラックプロテウスとマヤノトップガンが飛び出し逃げを打つ。他の逃げウマ娘を引き離した、いわゆる大逃げ。ただ、ブラックプロテウスが本気で大逃げを打てばマヤノトップガンでもここまで食らいつけてはいないだろう。彼女にとっては普通の逃げの範疇だ。

 

「出遅れ癖が嘘みたいだな。流石に天才の指導は違うか」

 

「ええ、そうですね。でも、そのブラックプロテウスに食らいつけるマヤノトップガンも凄いですよ」

 

「そういう東条さんのナリタブライアンもいい位置に付けているじゃないですか。油断できませんね」

 

 3人でそれぞれ別の相手のウマ娘を褒める。実際、今日のこの三人は仕上がりが良い。だが、決して全員本調子とは言えないだろう。

 大分ましになったがブラックプロテウスの不調は解決しきってないし、マヤノトップガンは見たところ仕上がりは8分程度。ナリタブライアンに至っては菊花賞などの時の姿と比べれば見劣りなんて言葉じゃ済まないくらいだ。

 

 それでも、このレースはこの三人のものだった。

 

『阪神芝3000内回りのこのコース。通常であればスローペースで進むこのコースですが、先頭二人はどこ吹く風! ナリタブライアンと菊花賞を走り、そこで大逃げをかましたアゲインストゲイルですら置き去りに駆け抜けていきます! ナリタブライアンは中団、6・7番手あたりを落ち着いて走っています。 これは本当に3000mのレースなのか!』

 

 それにしてもハイペースが過ぎる。ここまでハイペースで走れだなんてたぶん誰も指示していないだろうから、暴走しているのかもしれない。ただ、この歓声の中で指示を飛ばしてももう聞こえないだろう。今はただ見守るしかない。

 

『先頭が第4コーナーを回って一回目のホームストレッチに入ります。通過タイム──58.5! 菊花賞のタイムより1秒も速い、もはや破滅的なハイペース! 釣られて後方もかなりのハイペースだ! 誰のスタミナが先に尽きるのか、まさしくこれはチキンレース!』

 

 通過タイムを聞いて、ふと思った。

 

「まさか、ゴールドシップのあの時の言葉を真に受けて……?」

 

 1000mあたり58秒で走れば負けない。なるほど至言だ。それが出来れば2分54秒で3000mを走り切れる。勿論、出来ればの話だ。そんなことが出来るウマ娘を、僕は知らない。

 

「流石に暴走ね。あんなペースで走り切れるわけ……」

 

 東条さんも明らかに無理だと言わんばかりにしているが、中原さんだけは違った。

 

「マヤノトップガンが食らいついていっている。つまりアイツには、ブラックプロテウスがそれが出来ると()()()()いる。だから、今アイツはブラックプロテウスを風除けにして無理なペースに付いていっているんだ。アイツが、そうしなければ勝てないと結論付けたうえでな」

 

 余裕そうな顔をしているが、冷や汗がダラダラと流れている。流石にここまでのハイペースは想定外だったのだろう。

 当然だ。このパワーとスタミナが要求される阪神芝3000においてこの走り方は無理無茶無謀を通り越している。疲労で走れなくなる程度で済めば御の字、どこかしら故障してもおかしくない。トレーナーなら止めるべき走り方だが、ゲートを出てしまえばもう止められない。

 

『ハイペースにつられたか、第1コーナーに入ったあたりでナリタブライアンが少しずつ上がっていきます! 前方二人は少し息を入れたか、若干ですがペースが落ちています。ですが未だにハイペースなのは変わりません! 後方のウマ娘たちとは少しずつ、少しずつ差が開いている! 本当に息を入れているのか!?』

 

 ここまで大逃げが決まるとこんなレースになるのかと思う。3番手のアゲインストゲイルが60秒とちょっとで1000mを通過しているから、2秒くらいの差が開いていたし、今でもそれは広がっていく。その横を通り抜けようとナリタブライアンがペースを上げる。多分もう終盤のつもりで仕掛けに行っている。多分だが、マヤノトップガンはわからないがブラックプロテウスはこのペースでもと踏んだうえでの超ロングスパートだ。隣で今度は東条さんが頭を抱えた。

 後先なんて考えてない。この勝負だけに全てを懸けたそんな走り。闘争心を剥き出しにして走っている。全盛期の頃には及んでいないが、少しずつ、少しずつそのころの走りに近づいていくのを感じる。

 一トレーナーとしては一度故障で戦線を離れたウマ娘がこうやって全盛期の姿に戻っていくのを見られるのは幸福なことだ。消耗が激しい超ハイペースのレースでなければの話だが。

 全員無事で帰ってくれるように祈る。けれど、決して目は逸らさない。目の前のレースから目を逸らすなんて、トレーナー失格だから。

 

『ウマ娘たちが向こう正面に戻って二周目が始まります。先頭は変わらずブラックプロテウス。今までの不調が嘘だったかのような軽やかな逃げを見せています。続いて二番手にマヤノトップガン。ブラックプロテウスを風除けにするかのようにぴったりと後ろに付けています。その後ろ、2バ身ほど離れてナリタブライアン。4番手にはアゲインストゲイルがいますが、坂を越えたあたりから大分苦しそうに走っています。その後方、オントロジスト、アットワンマイル、リードフォトブックと続いていますが……これはきつそうだ。後方集団はすでに全員一杯に見えます』

 

「これがブラックプロテウスの恐ろしいところだ。どんなレースでも構わずハイペースにしてスタミナで相手を磨り潰してくる。大逃げと逃げの間くらいの位置。無理に追うほどではないが、そのペースに置いて行かれるとそのまま逃げ切られると全員焦ってしまう。これを封じるならサイレンススズカのようなブラックプロテウス以上の逃げを用意するか、そもそも逃げさせないかの二つに一つだ。マヤノトップガンにはなるべく後者で戦うように指示はしていたんだがな……」

 

「堅実な指示だと思います。ですが、それでは勝てないと判断したのでしょう」

 

 事実、リアルタイムで指示を出来るならマヤノトップガンには追わせたかもしれない。ナリタブライアンにも無理ない程度に前に出るように指示しただろう。

 

『今2000m地点を通過。通過タイム、1:58.8。少し息を入れたのかペースが落ちましたが、それでも十分ハイペース! 平均より10秒は速い! そして第3コーナーに入ります。例年ならここからレースが動きますが──』

 

 その瞬間、世界が塗り替わった。タマモクロスやオグリキャップの時に感じたあの感覚、限界の先の先、『領域』。残り1000m、レースの1/3を残して彼女がその世界に踏み込んだのが、ここからでも分かった。

 まさかここから、持つというのか。残り1000m、残り200mからは坂があるというのに。こんなところからスパートして、まさか届くのか。僕には到底届くとは思えない、狂気の沙汰だ。

 だが、彼女を追っていた二人は違う考えだったようだ。二人ともギアを一気にトップに上げて追いかけ始めた。二人とも完全ではないが、『領域』に入りかけているだろう。本調子でも無いウマ娘たちが良く入れたものだ。

 

 ──けれど、入るのが一歩遅かった。精彩も欠いていた。そして何よりも、残ったスタミナに絶望的な開きがあった。

 

『ブラックプロテウスここからスパート! 今まで息を入れていたのはこの時のためだと言わんばかりに一気に加速して、マヤノトップガンとナリタブライアンを引き離していきます! 遅れて二人もスパートをかけますが、少しずつ、少しずつ差が開いていく! そして今最後の直線! 仁川の舞台はこれから坂がある!』

 

 スタートの時よりも速いペースで、残りの距離を駆け抜けてくる。ただ一人、大歓声に迎えられて。黒くて綺麗な髪を靡かせながら、楽しそうに駆け抜けていく。

 

「……やっぱり、惜しいことをしたな」

 

 つい、口に出てしまった。あの時無理にでもスカウトしておくべきだったかな、とちょっと思ってしまったからだ。

 

「お前でもそう思うか。まあ、俺はアイツはどちらかというと嫌いなほうだが……」

 

「私も担当しきれる気はしないわね。グラスワンダーとは仲がいいからもしかしたら上手くいったかもしれないけど、ちょっとね……」

 

「彼女ほどベテラン向きで、それでいてベテランが指導を嫌うウマ娘はいないと思いますよ。ゴールドシップとはまた別の意味で破天荒ですから」

 

 最後の坂をまるで平坦な道のように駆け抜けていく姿を眺めつつ、苦笑いする。

 彼女を新人が担当すると後が怖いから、新人には担当させられない。ベテランはというと、自分の評判やら今までの常識やらが邪魔をして担当を渋るだろう。そういう意味ではあまり前例に囚われない沖野さんは最適解だったのかもしれない。

 

『最早文句なし! 3人のマッチレースになるかと思われたこのレース。蓋を開ければ菊花賞の焼き直し! 先週の惜敗をものともしない、まさに鋼鉄のような安定感! ブラックプロテウス、堂々ゴールイン! 阪神にも刻まれたレコードの四文字! 勝ち時計、2:57.0! 自らが持っていた世界レコードをさらに2.8秒縮める凄まじいレコード! 今後この記録が破られることは、彼女自身以外には有り得ないことでしょう!』

 

『二着、ナリタブライアン。タイムは3:00.4。アタマ差で三着マヤノトップガン。タイム差はありません。勿論このタイムはとても素晴らしいタイムです。ですが、世界でただ一人、3分の壁を打ち破ったウマ娘には届かなかった!』 

 

 走り終えてなお、彼女がターフに倒れこむようなことはない。全力を出し切ってなお、軽くゆっくりとしたスピードで走るだけで息が整っていく。他のウマ娘たちが膝に手をついて必死に息を整える中、彼女だけは涼しい顔をして、全員が止まったのを確認してから観客席のほうに引き返して、手を振りながら軽く走っている。

 彼女が勝ったレースの殆どで行う、ウイニングラン。他のウマ娘はあまりやらない、彼女特有と言っていいファンサービス。

 まあ、彼女が走ったレースの半分くらいで何かしらのアクシデントが起こっているので行わないことも多いのだが……今日は何事もなくて良かったと思おう。

 

「ここまでのペースで走って、まだ走れるのか……これはちょっと、いや……まずは労いに行くか」

 

 中原さんが苦虫を数千匹は噛み潰したような顔をしながら歩き去っていく。多分地下バ道で出迎えに行くのだろう。やはり随分丸くなったものだ。一体再教育は何を施されるんだろう……僕は絶対お世話にならないようにしよう。

 

「私も行くわ。ちょっと消耗が気になるし……流石に高松宮記念はだめかしら……なら大阪杯に……」

 

 ぶつぶつ呟きながら東条さんも歩いていく。というか、高松宮記念? 1200m? 流石に距離が違いすぎてまずいのでは? あの人もたいがいぶっ飛んでいるのかもしれない。

 

 とりあえず、僕も行こう。今だけは僕がブラックプロテウスのトレーナーだ。沖野さんには悪いけど、一番最初に祝う権利を行使させてもらおう。

 東条さんに続いて、僕も観客席を後にした。

 

 

 

 地下バ道でブラックプロテウスを出迎えると嬉しさ半分悔しさ半分といった表情でブラックプロテウスが戻ってきた。

 

「ど、どうしたんだい。ブラックプロテウス。何処か痛めたりしたのか?」

 

「ああいや、体の何処にも痛いところはないんですけど……」

 

 あのハイペースで走ってそれはそれでおかしいと思うが……様子を窺っていると、溜息をついてブラックプロテウスが語りだした。

 

「ゴルシさんは『頑張れ頑張れ絶対1000m58秒で走り続けられるって! 諦めんなよ! マックちゃんだってダイエット頑張ってるんだから!』って言ってくれたのに目標タイムに全然届かなくて……」

 

「いや、その理屈はおかしい。あのタイムでも今後500年くらいは破られないからね?」

 

 つい真顔で突っ込んでしまった。そんな冗談を言ったゴールドシップもそうだし、それを限りなく実現して見せたブラックプロテウスもおかしい。ゴールドシップは半分くらい愉快犯だろうが、ブラックプロテウスは完全に天然だ。

 

 その後、何度言い聞かせても納得しなかったブラックプロテウスに、僕は考えるのをやめたのだった。




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