これはとある男の“祈り”から始まった物語。
永い永い、永劫の回帰の旅路の果ての、終幕を飾る脚本である。
男は決して優れた者ではなかった。
叡智の総てを授かった賢者ではない。天下に無双と轟かす武人でもない。
あえて表現するのなら放浪者。永い旅路の中で一つ、また一つと成果を重ねていく者だ。
常人から見れば天上でも、同格からすればさほどの事はない。
覇気でも、奸知でも、力でも。より優れた者は他にいて、むしろそれらの基準でいえば下位とも言えるだろう。
しかし歩き続けた年月、自己というものを存続させる術においては他の追随を許さない。
どれだけの凡才でも、万年、億年という時間をかけていけば神域の才にも伍するという理屈を以て全能を為す。費やす時間の総量こそ男の武器。
その一刺しは絶対的な格差さえ覆して番狂わせを起こし得る威力を持つ。
そのような男が望んだのは自己の終わり。
なんという皮肉だろう。誰より自身を存続させるのに長ける男の渇望が自死とは。
だがそれもむべなるかな。届かないからこそ人は欲しがる。得意とするものと真逆の形に至る渇望は決して珍しくない。
むしろ順当とさえ言えるだろう。終わりが遠いからこそ、彼方にある幕引きの刹那を愛している。
そう。男が求めたのは至高の終焉。
繰り返し、繰り返して、総てが既知で溢れた天の下、色褪せない未知の輝きを求めている。
己こそが法である神の座で、己自身という舞台の幕引きをもたらす演者の存在を。
生と死の刹那に、未知の結末を見る。男の咒は水銀。永劫回帰の宇宙を廻す、始まりと終わりを孕んだ
歌劇の主演に選ばれたのは、黄昏に住まう一輪の花。
罰当たりの娘。天使の歌声で奏でるのは鮮血のリフレイン。
何人にも触れられない魂を生まれ持った娘は、故にあらゆる法に囚われず不変のまま。
そこに男は唯一無二の光を見た。死してさえ微塵も揺らがない娘に、愛と共に解放の誓いをたてた。
自己で完結する者から、流れ出す者へと。己という愚鈍な色を洗い流し、黄昏の天に染め上げると決意したのだ。
舞台の共演として選ばれたのは、黄金の覇道。
男が抱いた唯一つの友誼。娘への愛を別とすれば、天に二人といない友である。
その破壊の慕情によって、娘の不変を壊すため。彼と、彼に率いられる爪牙らによって舞台の用意は整えられた。
その筋書きは、ありきたりだが。役者が良い。至高と信ずる。
男が自らの脚本を指して評した言葉。自嘲して、至高の価値を他者におく男だからこその。
黒の円卓に集いし者は、女神が花開くための供物だが、同時に男自らの手で見出された傑物たちでもある。
最期を飾る舞台、演者の一人一人にも趣向を凝らすのは当然であり、故に手抜かりはあり得ない。
ならば最期に代行を。
己は凡愚であり、出張れば碌なことにならないと、自罰によって自らの矮小さを知るために。
ゆえ、そのために創られた我が代替よ。さあ武器を取れ。ギロチンの刃に血を注がせるがいい。
相手は十の席。獲得のルーン、アルカナは悪魔。残忍に命を絡めとる紅蜘蛛。
円卓の中では最も下位の器といえよう。されど超常の法を宿しているのは変わらず、人の身では打倒し得ない。
つまりは試金石。これより先の舞台にあがるための、ここが最後の試しの機会に相違ない。
であるなら是非はあるまい。ここで女神の魂をしかと受けいれ、その魂を用いて一刀のもとに断頭すべし。
天上よりの思念が響く。
それは天の啓示であり、催眠や洗脳の強制力とはまるで異とするもの。
投じられた時には既に手遅れ。それ以外の道など無いに等しい。総ての道筋は絡めとられて、望む未来のためにも従うしかないよう出来ている。
勝つために、生きるために、尊い価値を護るためには。同情と共感もある。黄昏に唯一人佇む娘を哀れにも思うから。
よって選択肢など始めから一つだけ。疑念を差し挟む余地さえなく、代行の少年は舞台にあがるための刃を取るだろう。
「鬱陶しい」
では、ここでひとつ考えてみよう。
もしも仮に、この場面で男の思惑を外す事が出来るとすれば、それはどんな者だろうか?
生きようとしてはいけない。勝とうとしてもいけない。
生きるにしろ、勝つにしろ、男の思惑に乗るしかないのだから。
命を省みず、完全無欠の大団円など目指さない。まともな人の思考判断から外れることが求められる。
無価値を是とし、無謀を極め、無意味を恐れず突き進む、そんな異形の価値基準。
相手が慈母の女神であろうと構わず斬殺を断じ得る精神があれば男の脚本からも脱し得よう。
「煩わしいんだよ。筋書きなんぞ知ったことか」
断じて正しい判断とは言えない。最悪とさえ言っていい。
何もかもを台無しにして破綻させるが如き暴挙。得られるものなんて皆無である。
ただあえてあげるとするなら、男の思惑を外したという事実。天の上からほくそ笑む輩に痛烈な返しをくれてやったというだけ。
それで得られるものといったら、吠え面をかかせてやったという自己満足程度。本気でそんなもののためだけに総てをご破算に出来るのなら、それは人の道理を逸脱した天邪鬼だ。
「ああ、何やらまったく分からんが、やるべき事は知っている。
わざわざ俺を出張らせたのだ。覚悟はしておいてもらおうか」
そうして彼は、黄昏が差し出す手を払い除ける。
それは断固たる拒絶、女神の繋がりに対する明確な断裂だった。
これにより、彼はもはや恩恵を授かることはかなわない。単一の戦いを強いられるのだ。
そんな窮地に自らを追い込みながら、しかし彼は嗤っていた。
代行である少年、水銀と同じ顔をした彼。
だが、果たして本当に彼は、水銀の代行者などと呼べる存在なのか。
だって彼が恐ろしい。まるで生き写しのような顔なのに、恐怖の種類が違う。
水銀たる男の恐怖とは、言い表せば正体不明の恐怖。総体が見えず、底が知れず、あらゆる認識が狂いだす。まるで理解が及ばないからこそ抱く恐れのカタチ。
対し、彼の方は何処までも分かり易い。ぶれた解釈が微塵も入り込めない凶気と殺意。
彼の前に立てば殺される。他の一切は轍と化し、殺戮の果ての荒野に独り立つモノだと。
まさしく対極。たとえ器を取り繕うと、その魂が放つ無慙無愧の嚇怒は覆いつくせるものではない。
「
*
黒円卓第十位、ロート・シュピーネは考える。
何を間違えてしまったのか。いったい何処に、自分の落ち度はあったというのか。
黄金錬成。不死創造。
異界におわすラインハルト・ハイドリヒを現世に呼び戻し、以て奇跡の恩寵を賜る。
かの第二次世界大戦の終結から60年、その悲願を胸に黒円卓の騎士たちが過ごしてきた年月だ。
半世紀という年月は人を変えるのに十分すぎる。肉体は老いずとも、シュピーネの精神には確かな変化が生まれていた。
俗世に関わる唯一のパイプ役として、あらゆる雑事をこなしてきた。儀式の舞台であるシャンバラ、この諏訪原市も我が手が創り上げたといっても過言ではない。
富と権力を欲しいままにして、有力者たちを自らの前に跪かせる愉悦の味。自分たちが黄金の獣を恐れるように、彼らも魔人である自分を恐れていたのだ。
好きなように喰らい、奪い、殺すことが出来る自由。これこそが生の謳歌であり、超越者からの恩賞など御免被る。
黒円卓への、ラインハルト・ハイドリヒへの反逆。
その言葉を頭の中に思い浮かべるだけで、恐怖で心臓が停止するほどの思いだったが、それでも恐れを呑み込んでシュピーネは行動した。
自分は他の者たちとは違う。黄金が帰還を果たせば全ては手遅れ。都合のいい幻想に甘んじる輩は絶望を知るだろう。
だからこそ、あの怪物を戻すなど断じてあってはならない。そのためにもあらゆる手段を講じながら準備してきた。
魔術、科学の両面から、財をつぎ込んでのアプローチ。現状はそれでも
ツァラトゥストラ。黒円卓の親愛なる好敵手。十三位の枠を埋めるメルクリウスの代替品。
早い段階で該当者を見出し、監視下において調査、研究に及べたのは僥倖といってよい。
準備はしてきた。勝算はある。一番手を引き受けられた事といい、風は自分の方へ吹いている。
そう信じているというのに、この悪寒は何故?何か致命的に間違えている気がしてならないのはどうしてなのか。
「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛――――!!!!」
それは人の声帯から出たとは信じられない絶叫。
痛みに泣き叫ぶでも絶望に嘆くでもない。怨嗟、呪詛、そして殺意と、凝縮された悪感情による獰猛な雄叫びだった。
しかし無駄な足掻きである。
その身を縛り上げるワイヤー。しかし無論のこと、ただの鋼線如きではあり得ない。
歴史こそ浅いが、啜った魂は百や二百の話ではない。半世紀を費やして研鑽を積んだ今ならば聖餐杯猊下とて捕らえてみせよう。
如何に死力を振り絞ろうとも人間で逃げられる道理はない。勿論相手はただの人間ではあり得ないが、それでも自信のほどは崩れなかった。
あのメルクリウスの縁者とは思えないほど、その感性はまともな人間のそれ。凡庸な己のまま、周囲から出過ぎることを拒む、この国の人間にありがちの事なかれ主義。
そういう相手ならこの“演出”も役に立つだろう。少々の趣味も兼ねて縊り殺した女たち。一般的な倫理観からすれば目を覆いたくなる惨劇がそこにある。
敵との内通。いっそありきたりとも言える戦争のリアリズム。
しかし主導権は握っておかなくてはならない。今後の関係がどうなろうと、心理的な優位は保っておかなくては。
恐怖に対し、勇猛果敢に抗える者など稀。現実は物語のように優しくはなく、絶望は人間性を容易く破壊する。
それは数々の“観察”を経て得た知見。拷問とはコミュニケーションであり、その本質とは相手の理解に他ならない。
相手の中の支柱となるものを見抜き、砕き、屈服させて吐き出させる。殺さずに傷めつけるだけなど三流の仕事である。
その手管において、シュピーネの右に出る者など黒円卓にもいない。惨劇の演出もその一環であり、この凡庸な若造を屈服させるなど容易いこと――――
いやちょっと待て。何か、何かとてつもなくおかしくないか?
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――!!!!」
再び吐き出された絶叫は、既に人の声の体をしていなかった。
それは凶念だけのせいではない。物理的に壊れつつある喉から無理やりに出しているせいで耳障りな異音となっているのだ。
四肢を縛り上げ、拘束された身体は動かせるはずがない。少なくとも人間の力では絶対に不可能で、出来るとすれば同じ黒円卓の魔人たち以外にあり得ない。
だというのに、構わず全力で抵抗してみせていることが既に異常。当然、ワイヤーは切れることなくその身に食い込み、このままいけば輪切りの肉塊になることは必然。
その未来は、程なくして訪れた。
切り刻まれる五体。それは完全な自滅の有り様。
こうならないように力加減を調整していたのに、それすら無視されればこうもなろう。
何がしたかったのか分からない。理解が追いつかず、呆れと侮蔑の眼差しで地に落ちていく肉塊を見るシュピーネ。
そしてそれは、次の瞬間には驚愕に変わっていた。
「なァ――――!?」
生首が噛み付いた。
腕が、脚が、相手の四肢を捻じ切らんと掴み掛かる。
突き出した骨が刺し、こぼれ落ちた腸が締め上げる。
寸断され、バラバラの血肉となった肉体が、敵を殺せと一斉に襲い掛かっているのだ。
「死ね、死ねぇ!!呼吸をしていいと誰が言った」
あり得ない。こんなこと、人間にあり得て良い事ではない。
奇跡とか、人の意志の輝きだとか、そんな綺麗な言葉で表してよいものでは断じてなかった。
まるで細胞の一片に至るまで染み渡らせた怨念の化身。殺意という名のどす黒い燃料が、死という活動停止を許容せずに道理を曲げて駆動させているかのよう。
理解が及ばない。特に分からないのは、これだけの荒唐無稽を引き起こして、こちらを殺しにくるその力が未だ“弱い”ということ。
それが恐ろしい。
科学と魔術。世界の表と裏。その両面に精通しているシュピーネだからこそ分かる。
一見して不条理と見える事象にも実態には確かな理屈がある。要は法則が分かっていないから非常識に映るだけなのだ。
たとえば黒円卓の魔人たちには一切の殺傷手段、毒や無酸素状態などに至るまで、あらゆる攻撃が通じない。
これは収奪した魂の分だけ霊的な装甲を身に纏っているからで、真っ当な手段で殺そうとするなら魂の総量分の命を一度に滅ぼし尽くす必要がある。
つまりは単純な足し算なのだ。命を喰らえば自分のと合わせて二人分強くなるのが道理であり、万人殺せば万人分の命と力を得るのがエイヴィヒカイト。
そういう視点で見れば、自分たちとて何も不思議な存在ではない。人である限り、どんな狂気でも法則までは覆せないのだ。
であるならば、これは何だ?
エイヴィヒカイトは使っていない。他の魔術的な手段を用いているとも思えない。
だというのに、何故こんなことが起きている?人間のまま、意思一つで起こしていい現象の領分を逸脱している。
理屈が通らない。まったくもって理解不能。重ねた知識と経験が通用しない。
真の意味で常識の外にいる怪物。それはまるで、“あの御方たち”であるかのような――――
「は、離れろぉ!」
堪らずに叫び、力任せに振り払う。
どれだけの凶状でも、その力は人のもの。いとも容易く振り解けた。
生々しい音をたてて転がる人体の残骸。やはり力の差は歴然。何も恐れることはない。こんなものは無意味な足掻きに過ぎず、
力の格差?霊的な絶対防御?
五月蠅い死ねよ。喚き散らすな今すぐ殺す。
理屈はいらない。あるのはただ怨念のみ。宇宙の法さえ捻じ曲げる凶の気迫が現実を粉砕する。
ああ敵がいるぞ悪がいるぞ。息をするな鼓動を鳴らすな。俺がすべてを止めてやる。
「ひ、ひ、ヒヤアアアアアアッ!!?」
それは人ならざる凶念、理を超越した殺意。
眼光が向いた。戦争の惨事を知り、残虐の限りを尽くしてきたシュピーネ。
その彼を以てして耐えられない深淵、無へと誘う暗黒がそこにあった。
対処の術など一つしかない。
この身に宿る魔人の業、それを全霊で行使する。
力の配分など考えない。文字通りの全身全霊。恐怖を吐き出すため、感情を爆発させて内から外へと発散するのだ。
元が小心と傲慢が合わさったような男である。この半世紀、全力を出す機会など皆無であり、必然的に技のキレは錆びる。
だからある意味で、これは功を奏したと言える。余計な雑念を排した一撃は、彼の生涯における最強の威力を発揮した。
乱れ拡がる
指先を起点として四方へ展開していくその様は、まるで自らを中心として包みあげる蚕の繭糸。
ただし、包み込むのは己だけではない。半径にして数百メートル、周囲の空間総てを無差別に標的とした鏖殺の網だ。
鋼鉄だろうと聖遺物の紅縄は防げない。そこに存在したあらゆる物体、生物は微塵と切り刻まれて壊された。
倒壊していくビル群。こうなっては人払いの結界も意味を持つまい。この大規模破壊でどれだけの犠牲が出たか。
無論、最大の標的たる眼前の相手を逃してはいない。原形など残っておらず、内臓の一片まで刻まれて魂が散華する。
聖遺物で殺されれば、魂を収奪される。魂喰いとしてその感覚を悟り、シュピーネは勝利を確信した。
*
殺害した者の魂を喰らい、聖遺物という器に納める術理。
魔人錬成。その実態とは、神の手により造られた神域へと至る補助器具に他ならない。
この天地で死した魂は、その瞬間に誕生へと回帰する。
まったく同じ人間として、まったく同じ人生を繰り返す。当人にその自覚はなく、魂の深部に刻まれた経験を僅かに感じることがある程度。
その感覚の名は既知感。初めて会ったはずの相手、初めて食したはずの料理、初体験するはずのあらゆる事象を、理屈なくかつてしたことがあるという錯覚。
とはいえ、常人にとってはさほど深刻ではない。錯覚未満の感覚でしかなく、人生観に支障をきたすほどの問題ではないのだ。
ただし、もしもその感覚を常時、あらゆる事象に対して強く深く感じていたとしたら、それは総てを既知で満たされた牢獄に変ずる。新鮮な未知など何処にもなく、飽き足りたものしかない人生など地獄と同じ。
だからこそ、それを壊す。
聖遺物に収奪された魂は、回帰という法則に囚われることなく留まり続ける。還るはずのものが還らず、一個の器に宿る質量が無制限に増大していけば、その負荷はやがて世界に穴をあけるだろう。
まさしく名が示す通り、それは永劫の回帰という理を破壊する理。神という絶対者を殺せるのは同じく神が創造した武器だけであると、皮肉だが道理だとも言える。
しかし、所詮は補助器具。
そもそも神へと至る可能性を持つ魂とは、例外なく規格外。
たとえば黄昏の女神など、さしたる自覚もなく回帰の法から脱却してみせた。
生まれながらの神格。求道に向いたそれは、個人で完成された一個の宇宙に等しい。
多元的な可能性宇宙を内包する天地たればこそ、そのような所業も罷り通る。そうした法則を流れ出させた水銀が黄昏を見初めたのはいっそ運命的といえよう。
要となるのは人の思い。
それは渇望。狂気に至るほどの思いの強度が現実を超越する。
時代によっては呼び方も異なる。たとえば我力。たとえば原罪。ただ一貫しているのは、絶対値の大きさこそが強さの指標となったこと。
そう、種別なんて何でもいいのだ。邪悪で獰猛で破滅的であろうとも、強ければ正道に変わるのが“座”の世界だから。
補助なんて無くてもいい。己の念一つで世界を圧する強さがあるのなら、我が身だけでも事足りる。
黄昏は世界の外に留まることを選んだ。
されど不変の無慙を宿した男にとって、それは無理な話。
未だに悪は生きている。世界は変わらず、不快な屑が跳梁跋扈して憚らないから。
たかが死んだ程度では、その怨念は傷さえ付かない。ならば当然の成り行きとして、凶気は現実を捻じ曲げる。
総てを殺すその時まで。殺戮の魔道に終わりはない。
*
死んだはずだ。殺せたはずだ。終わったはずだ。
間違いなく肉体は原形も残さず寸断され、魂は喰われて聖遺物に取り込まれたはずだった。
だというのに、彼はそこにいる。
五体を健在にして立っている。爛々たる殺意の眼差しで睨んでいる。
再生、蘇生といった魔性の業であっても説明できない。まるで現実が裏返ったかのような不条理を感じている。
シュピーネには理解できない。そして理解させてやる気も一切ない。混乱の極みにあるシュピーネを黙殺し、彼は地面から何かを拾い上げた。
それは外灯の破片だった。
恐らくは最初の時、拘束を引き千切ろうと足掻いた際に折れていたのだろう。
先に地に伏していて、それで紅縄の切断範囲から逃れていたのか。他のものより元の形を保っている。
尺でいえば、ちょうど長剣といったほど。垂れ下がっている照明部を一閃して叩き割り、武器としての体裁だけ整えてから構えを取る。
そんなものでは魔人は殺せない。それは分かっていたが、もはやそんな理屈では到底安心できなかった。
「何故、どうして……?」
不条理な、理不尽な、自分の理解の範疇を隔絶した規格外。
どうすることも出来ない存在格差。その絶望、故に思うのはどうしてそんなものが現実に存在するのかということ。
ラインハルト・ハイドリヒ。
カール・クラフト=メルクリウス。
あの二大の超越者。彼らに出遭ってしまった日、シュピーネという男の自負を打ち砕かれた。
優秀だと思っていた。容姿の差など補って余りある明晰な頭脳。単なる妄想ではなく、実績が伴えばこその確かな自信。
あるいは、世界に自分と並ぶ者などいないとさえ。そんな儚い夢は、あの瞬間に木っ端みじんに粉砕されたのだ。
もしもあの日、あの場所で出遭わなければ、自己という世界の王のままでいられたのに。
「どうしてあんなものがこの世にいるのだぁ!?」
極みに極まった混迷が、心奥に秘めた本音を吐き出させる。
それは真実、嘘偽りを剝ぎ取った魂からの慟哭であり、
「ああ。つまり貴様、死にたがっているのか」
故に、深淵より覗く暗黒の眼光はそれを取りこぼさない。
ロート・シュピーネという男の真実。当の本人でさえ無自覚だった本性を看破する。
「ずっと怯えていたんだろう。貴様の上に居る存在に、すべてはそいつらの胸先三寸だという現実に。お前の思い通りになるものなど一つもない。
賢しい自分を気取るのは一種の逃避だ。そうやって自分を大きく見せることで、矮小で取るに足らん自分自身から目を背ける。
呆れるほどの小心ぶりだな。その様で魔人とは、笑わせてくれる」
この半世紀、自分は生を謳歌してきた。
俗世に関わり、この手練手管を以て欺き利用し支配して。
結果、この手にもたらされた富と権力。裏側の魔人にとっては無用の長物でも、表の世界では玉座に等しい栄光そのもの。
このシャンバラ、諏訪原市の繁栄ぶりを見るがいい。
これこそまさに己の成果。己が王で神であり、総てを自由にする権利を持つ。
ここでは誰もが己に膝を屈する。相手は不老不死の魔人であり、人など虫けらの如く蹂躙できると知っているから。
――――ああ、その様はまるで、ラインハルト・ハイドリヒに跪いたロート・シュピーネの姿そのもの。
「本当は生きているだけで苦しい。いつも見られている恐怖で震えが止まらず、叫び出したくてしょうがない。
ああ、貴様のような小心者には苦痛でしかなかろうな、この世界は。
知りたくもなかったことを知らされて、知らなかった頃には戻れんのだから」
聖痕が痛い。
聖槍によりつけられた傷。
これがある限り安息の夜はない。認識不能の遥か彼方、天より向けられる眼差しを常に感じていたから。
結局のところ、シュピーネという男の器は凡夫のそれに過ぎない。
趣味趣向は関係ない。常人たちの中で見れば、あるいは天才といってもよいかもしれないが。
しかしそれも、超越者の視点からすればどれも同じ横並び。上には上がいて、その事実に折れてしまう凡人の感性だ。
その本性は変えられない。少々意気込んでみせたところで馬脚は容易く露れる。
彼には覇道の資質など無い。王者の器ではなく、また己がどう在りたいかと追求する求道者にもなれない。
どっちつかずの、大半の人間たちと同じ半端者。ただの人間に変えられるような甘さを、この宇宙は有していないのだ。
せめて知らないままでいたかった。
世界がこんなにもおぞましく、どうしようもないという事実など。
低俗なフィクションにありがちな、やたらと人に融通を効かせてくれる神はいないのだ。
神とは理不尽の権化であり、こちらの都合などお構いなし。我が法なのだから我に従えと告げるだけ。
人に出来るのはただ震えて祈ることのみ。頭の上を神意が通り過ぎていくのを一心に乞い願うばかりなのだ。
神への反逆?現実を直視してまだそんなことが宣えるのなら、それはもう人間では断じて無い。
人にとっては無知こそ幸福。
甘い夢を信じられる。世界は自分を中心に回っていると、可愛らしくも錯覚できる。
だが悪魔に魅入られた者に、その幸福は訪れない。世界は人ならざる悪魔を中心に回っていると否が応にも知ってしまった。
きっと死んでも逃げられない。死の先を想えば、そこにあるのは
生の謳歌と口にするのは、自分に言い聞かせるため。袋小路の運命からの逃避こそ、シュピーネの半世紀の正体だ。
「救ってやるよ」
構えた得物を振り上げる。
それは才覚を感じさせない不格好な、されど怨念だけは天井知らずに昂ぶり続けて止まらない。
「解放してやる」
手にしているのはただの瓦礫である。
武器と呼んでいいかも怪しい、せいぜいが鈍器程度の役割しか果たせまい。
到底、黒円卓の魔人たちに通用するものではない。無防備に受けたところで何ら問題はない、はずの。
「死ね」
殺意の宣誓と共に繰り出された一閃が、黒い颶風と化して奔る。
間合いの概念も置き去りに、飛ぶ斬撃と形容するのも何か違う。
そう、まるで彼我の間にあるものを丸ごと削り取っているような。物質も、空間も、果てには時間や運命さえも。
迫る黒閃を前に、シュピーネが思ったのは何であったか。
アレを受ければ死ぬ。あらゆる理屈を超越した域でそう理解した。
地獄にも逝かず、回帰にも流されず、一切合切を“無”へと還す暴威なのだと。
黄金と水銀の両者を知りながら、そんなことを思ってしまったのが信じられない。なのに理性より深い部分の魂は、その結論を疑わずに受け入れている。
最期の刹那に思ったのは恐怖ではなく、解放の“安堵”だったのかもしれなかった。
自壊衝動。
恐怖と共に過ごした半世紀。シュピーネのような凡夫の器にそれが芽生えるのは必然ともいえる。
決して表の意識で見まいとしても、無意識を蝕まれるのは避けられない。
もう終わりたい。この恐怖から解放されたい。そう願っていたことは否定できない事実であり、
だからこれも、きっと無意識から現れた反応。
黒閃を防ぐでも避けるでもなく、手を広げて迎え入れたこと。
彼自身でも無自覚なままに、シュピーネは斬滅の運命を安らかに受け入れていた。