無慙無愧が巡る怒りの日   作:ヘルシーテツオ

12 / 26
第九章『神に連なる者』①

 

 肌を刺した水の冷たさが沈んでいた意識を覚醒させる。

 

 痛みとして感じる真冬の川。

 氷点下の温度に近い流水は、体温を容赦なく奪っていく。

 まともな人間ならば命にかかわる。凍える水底で意識を失えば、二度と浮き上がることは叶うまい。

 

 つまりは、今の自分にとってはその程度のことでも堪えるのだなと、ベアトリス・キルヒアイゼンは自身の状態を理解した。

 

 凶剣によって砕かれた聖遺物。

 法則を決定的に破損したエイヴィヒカイトは、魔人としての無敵性にも亀裂を生じさせている。

 常人にとっての死因でも、今の自分ならば容易に死ぬだろう。それに抗うだけの余力も残っていない。

 肉体的な意味ばかりでなく、精神的な面においても。己の信じていたものを打ち砕かれて、ベアトリスの意志は既に折れかかっていた。

 

 私にとっての、この半世紀は何だったのか。

 随分と長い間を懊悩と諦観の中で過ごして、世紀の節目を前にしてようやく決断できた。

 憧れた人を取り戻したい。あの兄妹()たちを呪いから救いたい。そのためにも、やはり私は地獄(グラズヘイム)を認められない。

 それは正しい道だと信じていた。だけどその結果がこれならば、そんな決断にも意味なんてないことになる。

 正しくないとは思わない。しかし力が伴わない正しさが何の役にも立たないことは、魔人の薫陶を受けた時から分かっていたはず。

 

 その夢、青臭い祈りは、グラズヘイムを肥え太らせる。

 愛する者らを地獄へ誘う、ラインハルト・ハイドリヒの忠実なる戦乙女(ヴァルキュリア)

 メルクリウスより言われた呪い。そして別の何処かでも、誰かに同じことを言われたような。

 

 挫折を味わう心には後悔ばかりが沸いてきて、諦めようとする思いが克己の力を奪っていく。

 戦場では諦めた者から死んでいく。九死に一生を得る幸運も、諦めずに生きようとする意志があればこそ。

 生きることを諦めた者には、女神とてそっぽを向くのだ。祖国のために剣を取った騎士として、身に染みて味わってきた事実を、ベアトリスは今まさに実感している。

 死神が鎌首をもたげているのを感じるが、振り払おうという気になれない。全てが無意味だというのなら、ここで終わって何の不都合があるだろう。

 長く、苦しいものばかりだった生涯、それでも一度として屈しなかった清廉な矜持が、音をたてて崩れようとしている。

 

 ゆっくり水底へと沈没していく身体。死の冷たさを揺り籠に、ベアトリスは身を任せながら目を閉じようとして――――

 

「いいえ、あなたはまだ諦めてはいません。絶望に沈む奥底で、それでもと捨てきれない善なる祈りが、私には聞こえたから」

 

 声が、聞こえた。

 聞こえないはずの水の底で、はっきりと聞こえる澄んだ声。

 肉声ではない。まるで心に直接声を響かせているような、魔術とも思しき異法だった。

 

「それならば、あなたはまだ消えるべきじゃありません。

 どうか希望を捨てないで。どんなにひどい現実でも、それだけは不変の正しさだと思うのです」

 

「あな、たは……?」

 

 差し出された手に掴まれ、水底から引き上げられる。

 未だに朦朧としている意識。覚束ない視界には、自分を助けた相手の姿が映っていた。

 

 綺麗な女性だった。

 金に光る御櫛(みぐし)。覗ける肌は整っていて、荒れた部分は何処にも無い。

 それは人間というより、人形のような美しさだった。自然物としての乱雑さを持たない、被造物としての均整さ。

 人間のカタチをしていても、この人は人間ではない。勘としてだが、ベアトリスはそう感じていた。

 

「私はクイン」

 

 だけど同時に、ただの人形だとも感じない。

 そんな無機質で冷たい印象は受けない。むしろ逆に、温かさにも似たあやふやさを感じている。

 自らの渇望のままに、揺るぎなく変わらない。そんな黒円卓の魔人に共通する強さとも、愚かさとも取れるものを備えていない。

 いつも何かに迷っていて、よく足を止める。真っ当な人間らしい弱さとも、可能性とも言えるものをこの人からは感じていたから。

 

「この宇宙で、あなたたちの奇跡と共に在る者です」

 

 その声を直接耳で聞き届けて、ベアトリスの意識はそこでいったん途切れていた。

 

 

 

 

 病院とは、清潔であるべき場所である。

 

 衛生の観点からは勿論のこと、メンタルケアの観点からもそれは言える。

 死の危険が遠くなった現代、人生の最期を病院で過ごすケースは決して珍しくない。

 老衰、病気、その他にも様々な要因から。医学的にはそれぞれの死因で分類されているのだろうが、知識の無い患者の視点では一括りで定義されている。

 遠くなったはずの死が、とても近い所にある。それは穢れを呼びやすいことでもあるから、一種の聖域のように場所の清らかさは保たれなければならない。

 

 本城総合病院。

 諏訪原市随一の規模を誇るこの病院も、その方面を疎かにしたことはない。

 闘病の中で消耗し、明日も知れない不安と恐れ。そんな患者たちを尊重し、最期まで人らしく在れるように。

 所謂、緩和ケアと呼ばれるもの。今では治療と併行して行われ、ゆとりを得られた患者は従来よりも長命の傾向にあるという。

 

 そして今、その究極とも呼べる理想の姿を、この病院は手にいれていた。

 

 生命は巡るもの。死とは命が辿るべき自然のプロセス。

 絶望すべき終わりではなく、新たなる始まりだと知っている。故に恐れることはない。あるべきへと還る魂の輪廻、調和の元へと至れるのは幸福だと言っていい。

 誰もがそれを理解している。故に心には平穏が生まれ、その余裕は他人に対しての思いやりとして発揮される。

 誰もが誰かを敬い、尊重し助け合うことが自然と出来ている。まさしく人が善と信じる要素が、まったく無理のない形で実現されていた。

 

 

 ――――端的に言えば、彼らは“美しく”なったのだ。

 

 

 美しいものに、過分はいらない。

 調和という美しさを知れば、自然とそれに基づいて生きるようになる。

 他人を害する必要などなくなり、傷つき荒んだ心も安らかな癒しによって満たされる。

 怒りも、嘆きも、この場所には存在していなかった。誰の顔にも穏やかな笑顔があり、世の無情なんて本当は何処にもないのだと確信している。

 

 そんな、この世の楽園ともいえる場所を実現したのは、ある一人の人物だった。

 彼が何をしたというわけではない。彼はただ、この場所に降り立っただけである。

 それだけで十分だった。美しさとは、在るだけで周囲へと影響を伝播させる類感魔術だといっていい。

 究極に美しい存在が傍にいれば、それに感化された者も相応の域にまで美しくなる。止めるものがない影響力は、瞬く間に病院全体を覆い尽くした。

 

 彼はいったい何者なのか。何処から来て、どんな目的があって訪れたのか。そのようなことは些事である。

 何故なら、彼は“美しい”のだから。それが全ての答えであり、あらゆる物事を認可する絶対権威。

 小賢しい理屈など、不変なる美の前では無価値。この美しさが間違いであるはずがなく、それに倣って生きることは正しいと断言できる。

 彼が選び取るものが、これからの正しさの基準となるのだ。そこに疑念なんて発想自体があり得ない。

 

 一人の少女が歩いている。

 手に持つのは花と果物。持ち物から連想される通り、彼女は病気の母を見舞うところであった。

 母は不治の病であり、余命は長くないと言われている。けれど少女の顔は穏やかなもの。

 早くに先立たれることは不幸だろうが、悲嘆に暮れて無為に過ごすなど間違っている。

 親が子より先に逝くのはあるべき形。子を失った親の不幸と比べれば、この結末は自然なもので幸運なのだと。

 自分がすべきことは、母が安心できるよう気丈に振る舞い、ここまで育ててもらった分だけ、残された時間で親孝行すること。

 そんな当たり前のことだけでいいのだ。何も不安に思うことはない。その足取りは軽く、少女は母の元まで歩いていく。

 

「お嬢さん。悲しくはないのですか?」

 

 美しく澄んだ少女の心を、不吉の声が呼び止めた。

 

 いつの間にか、少女の前には長身の神父が立っている。

 病院とは人の生死が行き交う場所。人の死後を取り扱うのが職務である、その存在は何らおかしいものではない。

 その声も表情も聖職に相応しい柔らかなもので、少なくとも外見には警戒に足る要素など何処にもなかった。

 

「ええ無論、あなたの姿勢は間違いではない。実に清らかなものですとも。

 親しい者が死に逝くとて、いたずらに嘆き散らすべきではない。その慟哭と憤りはよからぬものを呼び寄せて、その者を悪魔の道へと誘うでしょう。

 死の先にも救いはあり、我らがすべきは天に召される彼らのために祈ることのみ。それが善であることに疑いの余地はない」

 

 なのに少女の心は、忘れていた恐怖で震えていた。

 この神父が怖い。威圧的なところは何もないはずなのに、映る姿の全てに怖気が走る。

 まるで彼は、この清浄な世界にあってはならない異物。善なる価値に穢れをもたらす邪な気配を感じずにはいられなかったから。

 

「ですがね、そんな正論一つで罷り通るほど、人とは物分かりのよいものではないでしょう。

 それが道理と、いくら言い聞かせたとてどうにもならぬ未練と執着。欠けた穴を埋めたがる渇望は毒となり、心を蝕んで狂気へと走らせる。幾度となく繰り返された人の業であり、罪である。

 取り除いてしまえればと、いったいどれだけの人間が夢想したでしょうか。もしも除けたとしたら、確かにそれは“美しい”のでしょうね」

 

 恐怖する少女は動けない。

 迫ってくる神父の姿が恐ろしい。もはや疑いようもなく、この神父は悪しきものだと分かっている。

 それなのに動けないのだ。蛇に睨まれた蛙のように、圧倒的な捕食者を前に弱き獲物は抵抗さえ許されないのだと。

 

「それが羨ましく、そして妬ましい。未だ罪業に悶える我が身には、あなたの美しさは度し難いものと見えてしょうがない。

 愛しき者への哀悼の嘆きを忘れるなど、喪失した価値に対する冒涜だ。あるいはこう思うのも、私が間違っている故なのでしょうがねえ。

 さあお嬢さん。あなたは泣くべきだ。泣かなくてはならない。尊い価値のためにも、まずは涙の流し方から思い出さなくては」

 

 悪魔の誘いがやってくる。

 その妄執と、その深淵。ただ美しくなっただけの少女では対抗できるわけもない。

 美醜の概念とは表裏一体。美しさが伝播するのと同じように、醜さもまた伝播する。

 醜悪なものに触れてしまえば、その穢れまでも引き受けてしまう。元が澄んでいるだけに、たった一滴の染みでも浸透するのはすぐだろう。

 触れたくない。逃げなくてはならないのに、動けない。己の弱さに絶望しながら、少女の中に醜い感情の数々が甦ってきて――――

 

「――――あまり怖がらせないでもらえんか?」

 

 背後から優しく肩に手を置かれ、聞こえてきた“美しい”声に振りかえる。

 

 そこには輝ける貌があった。

 邪なもの、醜悪なものを退ける聖性の化身。

 少女の心に、再び美しい安息が満たされる。不安の一切はかき消されて、世界は光で照らされた。

 

「行きなさい」

 

 たったそれだけの一言が、少女にとっては万の言葉に勝る導きの調べ。

 この美しい存在に気に掛けてもらえたこと、それ自体が至上の幸福なのだと理解する。

 もう何も怖くない。疑念を差し挟む意味などなく、少女は足取り軽くその場を後にした。

 

「……素晴らしい。月並みですが、そんな言葉しか出てきませんよ。

 私ごときの小賢しさなど入り込む余地はない。美しいものはただ美しい。それが真理なのだと、この楽土を見て思い知らされました」

 

「そうでもない。創ってみて分かったが、ここは存外に退屈だ」

 

 神父――ヴァレリア・トリファの言葉に応じる美しい者の名は、クワルナフ。

 受けた賛辞にもその表情は動かない。美貌の聖性に疑いはあり得ないが、その感情を表現するなら無と言い表せるだろう。

 今しがたの少女にも、ここに在る人々にも、自身の世界に対してすら、彼の態度は素っ気ないものだった。

 

「無論、彼らは私の人形ではない。生者としての情動を放棄などしておらんし、断じて糸に繰られた傀儡ではないと彼らの名誉のためにも言っておく。

 だが、たとえ操っていなくとも、導きも過ぎれば近い現象となってしまう。最も美しい存在の意向こそが正しいのなら、それに従うのが道理であり、あえて無道を進む反骨など彼らは持ち合わせない。

 それは争いに通じる。そんな醜さを洗い流し、恒久的な平和を求めることが我が祈りであり、我が美観である。根幹に私の基準がある以上、ここにいる者たちがこうなった責は私にある」

 

 美しい世界。争いは駆逐され、醜い悪感情に惑わされることもない理想の楽土。

 およそ人の想像力が及ぶ限りの、救済という概念の一つの究極。されどクワルナフの採点は冷徹なもの。

 彼は美の化身であると同時に、論理の権化でもあるのだから。人々が美しく、安らかに暮らせていればそれでいいと、そんな思考放棄を選ばない。

 

「私は本来、こうした事業を行うために生まれてきた存在だ。かつては終ぞ、その機会に恵まれることはなかったが。

 故に、これは得難いものなのだろう。実際、貴重な経験をさせてもらっている。そしてだからこそ検証できたこともある。

 他者を染める覇道と救済という目的。両立し、通じる点も多々あれど、同時にそれは矛盾を秘めた相関性だ。

 己の意向の下に白く染め上げ、以て救済として善しとするなら個々人への愛がなく、黒に染めようとも彼らの主観的に幸福を感じているなら救済には違いない。

 ならば本質的にはどちらも同じということになる。悲想の天も堕天の園も、白か黒かの色分けに過ぎない。

 では人には自由意思を与えるべきなのか。己の色に染めることなく、魂の安寧と自立を促すのみに留めるなら、人々にとっての理想だと言えるかもしれん。

 だがその場合だと、人の悪性は完全に放任されることになる。自由な成長を促せば自らにとっての脅威までも強くさせ、統治としてはひどく脆いと言わねばなるまい。

 人は、多様性を持った動物だ。どんな色であれ、一色に染めようとすれば必ずや反発する者が現れる。たとえ正しくとも、それだけでは罷り通らんのも人間というものだろう」

 

「なるほど。仰ることはよく分かります。リザがまさしくそうでしたよ。

 彼女にとって、この世界はあまりにも優しくて、だからこそ耐え難い毒にも等しい。

 こんな場所にいては、彼女は救われてしまう。ここでは汚濁と見做され排除されるであろうものを、彼女はずっと抱き続けてきたのだから。それを無くせば、もはやリザ・ブレンナーではあり得ない。

 彼女もここに居たと思いましたが、もしや?」

 

「彼女には申し訳ないことをした。あれは私にとっても本意ではなかった」

 

「謝るのですか?あなたは我が主と近しい存在だとお見受けしておりましたが。

 こう言っては何ですが、意外ですね。そのような人らしさなど、とうに超越されていると思っておりましたよ」

 

「さもありなん。私には拭えない慚愧がある。お前が言うような不変の超越者に、私はなれなかった。

 それを指して人らしさというならばそうなのだろう。覇道資格者としては故障しており、この祈りを拡げようとは思っていない」

 

 輝ける善の救世主として、遍く“みんな”を救うはずだったクワルナフ。

 それはあまりにも些細な、しかし致命的な時間の差異によって実現しなかった。

 もしもほんの少しでも運命を掛け違えていれば、彼は神座を握っていたはず。そうなれば後の歴史も大きく変わり、彼が今在るこの舞台そのものがなかったやもしれず。

 

 だがそうはならなかった。

 クワルナフは天を握らず、こうしてこの舞台に演者の一人として立っている。

 それを悲劇と嘆くべきか、否か。人にとって意見は分かれるだろうが、少なくともクワルナフ自身に悔いはない。

 拭えない悔恨に苦しむ醜さなど、彼の美しさには似つかわしくない。完成せずともクワルナフは美の覇道であり、決して自らの在り方を捨てたわけではないのだから。

 

「して、お前の目的は彼女の仇討ちか?修羅の覇道の使徒よ」

 

「仇討ち、ですか。ふふふ、ああいえ確かに、そう捉えてもらってもおかしくはないのでしょうが。果たして私にその資格があるかどうか。

 私はね、彼女(リザ)を殺すつもりだったのですよ。葛藤という自慰に生きてきた彼女では、黄金錬成の真実にきっと耐えられない。ならばせめて苦しまず、何も知らぬまま眠るのが幸せだと。

 しかして舞台は我々の想定を遥かに逸脱した様相を示し、もはや従来の知識など無用の長物に等しい。黄金より賜る奇跡のみを追い求めてきた彼女にとって、この状況は酷でしょう。

 むしろあなたには感謝しなければならないのかもしれません。私とて長年を連れ添った彼女を手に掛けたいと思っているわけではない。あなたに優しく壊してもらえたのならば、それも幸せな終わりではあるでしょうから」

 

 神父は嗤う。同胞の行く末を嘆くように、されど貌には喜悦を浮かべながら。

 仲間(リザ)を殺さずに済んでよかったと、彼は言う。しかしその様子は、まるで己の手で壊せなかったことを残念がっているようでもあり。

 黒円卓の首領代行たる聖餐杯。外装ばかりが強固となった、その中身は混沌。もはや本人にも自身の確かな心の在り処が分からない。

 こうして会話をしていても、真実なんて欠片も見えてはこないのだ。まるで無貌の怪物のように、柔和な笑みを張り付けた神父の顔はいつだって変わらない。

 

「私は彼女を壊していない」

 

 そんな神父の不吉に対しての言及はせず、ただ言葉に対しての答えをクワルナフは告げた。

 

「そうなる前に彼女はこの地を去った。より正確に述べるなら、奪われたというべきか」

 

「奪われた?それはいったい、いやでしたら、リザは今どこに?」

 

 疑問を口にするヴァレリアに、クワルナフは視線を動かし応えてみせる。

 ここではない場所に感じている気配。覚えのあるその覇気は距離を隔てていても間違えることはない。

 元よりかつての絶滅星団(クワルナフ)にとって、こんな距離など塵にも満たない。たとえスケールが変わろうとも、当時の己の感覚の全てが失われたわけではなかった。

 

「私がこの場所にしたのと同じように、自らの覇道を展開して領土としているようだ。敷かれた法も、なるほど奴らしい。

 この地での通りがよい俗称は“底なし穴(ボトムレスピット)”といったか」

 

 

 

 

「うう、ん……!?」

 

 意識の覚醒に伴い、まずは自らの置かれた現状把握につとめた。

 

 軍人としての常在戦場。

 長年の経験により本能の域にまで刷り込まれたそれは、思考が回らずとも身体に行動を取らせてくれる。。

 不明な状況に身を置く危険を熟知していればこそ、まずは自分の立ち位置の再認識。それが基本で、何よりも重要なことなのだと学んできた。

 

 だからこそ、混乱に逃避したがる頭を抑え込んで、ベアトリスは冷静さを保ちながら次の事態に備えられた。

 

「おはよう。気分はどう?」

 

「リザ……さん?」

 

 声の方へと振り向けば、そこにいたのは同胞であるリザ・ブレンナー。

 見れば、自分が眠っていたベッドの傍らに、椅子を引いて腰かけている。それはちょうど、寝付く子を見守る母のような位置で。

 知った相手の顔にほんの少しの安堵が生まれる。複雑な感情を抱いている相手であるが、話が通じるという意味では他の面子より大分マシだろう。

 

「……此処は?」

 

「廃棄区画。諏訪原市の裏に広がるアンダーグラウンドの中心地。

 軍や刑務所からの脱走者や犯罪者、密入国者に不良学生と、色んな意味で社会からあぶれた人たちの吹き溜まり。

 あなたもシュピーネから聞いていたでしょう。私たちにとっては囲い込みの一環ね」

 

『これまで、このシャンバラには特定の反社会勢力が根付くことはありませんでした。無論、それはこの私の手による“調整”の結果であるのですが。

 すべてはハイドリヒ卿のため。つまらぬ劣等どもの介入を阻むための措置ではありますが、そもそもこの類いのものは潰したところでなくなるわけではない。

 いつの時代でも、はぐれ者とは出てくるものです。そしてそういった罪人の魂は強い。黄金錬成の贄としては一般市民などよりも上質でしょう。

 ならばこそ、わざわざ虱潰すのではなく、いっそのこと一ヵ所にまとめて管理する。その方が我々にとっても都合がよろしい。

 とまあ自慢気に語ってしまいましたが、本当のところを言うと私のアイディアというわけではないのですよ。私の古い友人の考えでしてね。

 流石はケーイチローと褒めるべきでしょうなぁ。単に不利益を被らせるだけでは潰されると理解している。我々にとってのメリットもこうして提示できる辺りが彼の抜け目なさです。

 ああいえ、別に手を出したりはしませんよ。先逝く友のささやかな自己満足です。叶えてさしあげるのが友情というものでしょう。

 どうやらお孫さんも、なかなか利発そうなお嬢さんですし。ヒヒヒ、いやはや、将来の愉しみが増えましたよ』

 

 かつてシュピーネが語った内容を思い出しながら、リザが告げる。

 黒円卓の面々にとって、謂わばここは兵站の集積地だ。生贄要員を効率的に集めるための場所。

 彼らに容認されたからこそ、アウトローたちの流れつく場所として機能できた。今や街の裏側を取り仕切る一大勢力と化している。

 無論、そんなもので飼い主の手に噛みつけるわけではない。所詮、彼らは晩餐に捧げられるべき羊であり、厳然たる事実として魔人の脅威となり得ない。

 そもそも黒円卓にとって、真に脅威と呼べるものなどこの地上に存在しないのだ。彼らの主は至上の黄金であり、他の有象無象など取るに足らないと知っているから。

 

 ――そう、これまでは。

 

「……?そんな話、私は聞いていません。いったいいつの事ですか?」

 

 認識が違っている。

 リザが聞いたと思っていた話を、ベアトリスは聞いていない。

 それは矛盾で、そして必然の現象だった。ここボトムレスピットが成立した時、ベアトリスは既に“いなかった”のだから。

 

「……ああ、そういうこと。これも見落としていたというわけね。自覚してみると、我ながら間抜けぶりに呆れてくれるわ」

 

「リザさん?」

 

「あなたが分からないというならそうなんでしょうね。

 あなたの疑問について説明してあげたいけど、あいにくと私も分かることはほとんどないの。

 実際を言うとね、あなたが起きるのを待ってたのよ。事情に通じているのは他にいて、話すなら全員が揃ってからって。

 ここにはマレウスもいるわ。お預けされてたのは彼女も一緒だから、きっと待ち侘びてる頃ね」

 

「マレウスも!?」

 

 更に出てきた同胞の名前に、ベアトリスはいよいよ危機感を募らせる。

 リザとの会話の間で、自分の身に起きたことについても整理がついている。あの凶剣を含め、あり得ない事態の連続。

 もはや自分たちが想定してきた黄金錬成ではないと、彼女らとて気付いている。わけが分からない状況に翻弄されて、ただ打ち負かされた敗残者として。

 ベアトリスも、リザも、ルサルカも、既に敗北を喫している。そういう空気は多くを語らずとも分かるもので、ベアトリスもそこを察したからこそ意識せざるを得なかった。

 

 ならばこそ、無用なお喋りに時間を割くべきではない。

 立ち上がり、軽く身支度だけを整えて、揺らいでいた精神に喝を入れる。

 これから先、どんなことを聞かされようとも挫けないために。戦士としての己を意識に置き、絶望の中でも戦い抜けるよう心を入れ替えるのだ。

 それは騎士として、軍人としての彼女の心得。尊敬する上官より教わった、人を殺し、殺される者としての矜持だった。

 

 そんなベアトリスの様子を、リザは黙って見守っていた。

 彼女にとっては腐れ縁の昔馴染み、その姿を彷彿とさせるベアトリスの今は懐かしく感じるのだろう。

 向けられるそんな視線に、ベアトリスも気付いている。正直いって疎ましく思うが、それを生真面目さの裏に押し込めて、ひたすらに準備へと没頭した。

 

「お待たせしました。行きましょう」

 

「ええ、そうね。私はあなたほど強くはなれそうにないけど、それでも逃げるつもりだけはないから」

 

 泣き言とも取れる言葉には答えずに、先導するリザへと付いて行くベアトリス。

 

 道中、居心地の悪い沈黙が流れる。

 言ってしまうと、気持ちは分かるのだ。

 自分だって理不尽を感じている。こちらの都合なんてお構いなしで、弱音の一つだって吐きたくもなるだろう。

 だがそれで何が変わるわけでもない。理不尽なんて、あの戦争や、何よりハイドリヒ卿で嫌というほど味わってきたはずだ。

 

 虚勢かもしれない。それでも弱気を表に出すことはしない。

 口にすれば心は益々蝕まれる。困難な現実と向き合うのなら、前だけはしっかりと向いて。

 案内された部屋の前。この先に待っているのが誰だとしても、毅然と自分を貫こう。

 

 胎に力を込めて、覚悟の意志に揺らぎなし。開かれた扉の先へと、真剣な面持ちでベアトリスは踏み入れた。

 

「いやあの、ちょっとやめてください」

 

「ふふふ、何をそんなに恥ずかしがっているのですか?

 こんなに見事な脚線美をお持ちなのですから、隠れてしまっては勿体ない。

 むしろ積極的に見せていく気概でなくてはいけないでしょう」

 

 そんなベアトリスを出迎えたのは、戯れるように触れ合い絡み合う、メイド服に身を包んだ二人の女性。

 

「で、ですが、これはいくらなんでも、丈が短すぎるような……!」

 

「あら?あなたの普段着だって大概だったではないですか」

 

「それは!あれにもちゃんと意味があるといいますか……。

 というかですね、以前にもこうしたものを着た経験はありますが、ここまでではなかったというか。

 ちょっと露骨すぎだと思います!このデザインは」

 

 所謂、コスプレというものだろうが。

 正式な仕様ではない。本場のヴィクトリア朝の女性の使用人としての意味合いとは大分かけ離れている。

 絶対領域を主張してくるミニスカート。露出が多く、胸元が大きく開いた服装。頭には白のカチューシャを載せて、首元には黒のチョーカーが巻いてある。

 本来の機能的には色々と間違っており、しかして萌えの観点においては非常に正しい。美少女と称しても差し支えない二名が、そんな恰好でくんずほぐれつな様相を見せているのは、性的にも実に絵になることだろう。

 

 白の色が似合う二人である。人形めいた雰囲気には純白こそが相応しい。

 一方は非生物感が漂う造形美。生命というよりも一個の芸術として捉えるのが正しいだろう人型(クイン)

 そしてもう一人は、彼女(クイン)とはまた違った意味合いで、見る者に人形のようだと思わせる要素を備えている。

 外見の年齢は十四・五かといったところ。身長も低めな容姿には幼さを残しており、その白い髪と白い肌も相まって、まるで幻想を模した彫刻細工のよう。

 常人ではあり得ず、妖精郷の住人といった表現が適切かもしれない。白銀の容姿に似合うのは白だが、きっと黒の衣装を着ても映えるだろう。

 

「どうしたんですか、ルサルカ・シュヴェーゲリン?

 こういう時、あなたなら積極的にノッてきてくれるものと思ってましたが」

 

「あんた、それわざと言ってんの?

 こっちは流石にそんなテンションじゃないわよ」

 

 部屋の中にはルサルカの姿もある。

 言われたように、悪ふざけには基本的に乗っかかる性質である彼女だが、今回ばかりはその意気が無い。

 消耗して、消沈している。外面を取り繕った魔女の振る舞いも何処へやら、明らかな苛立ちを見せる彼女には余裕がなかった。

 

 そんな、まるで寸劇のような光景を見せられて、大いに肩透かしをくらったであろうベアトリス

 しかして、彼女が押し黙っているのは呆れからではない。あり得ないものを見た驚愕が彼女に二の句を継がせなかった。

 心を乱すまいとした覚悟も、早々に意義を見失う。それほどまでに目の前に在る人物は、ベアトリスにとって意外すぎるものだったから。

 

「ジークリンデ・エーベルヴァイン……東方正教会(ドッペルアドラー)の!?どうしてあなたがここにッ!?」

 

 いっそ何も知らない相手ならば驚くこともなかった。

 なまじ知っている相手だから、自分にとってその存在は定義に困るものだったから、その登場を受け止めきれない。

 

 双頭の鷲(ドッペルアドラー)。正式名称を東方正教会特務分室。

 カール・クラフトを宿敵とし、その眷属である黒円卓の打倒のため、黄金錬成以前に抗争を繰り広げた組織。

 されど、結局はその爪も蛇には届かず。用意された手段も魔人との戦力差を覆す域ではなく、あえなく全滅という結果に終わる。

 ジークリンデはその局長。彼女もその際に死亡したはずであり、この状況で出てくる者としてはあらゆる意味で場違いが過ぎる。

 

「まあ、眠り姫が目を覚ましたわ。ごきげんよう、ベアトリス・キルヒアイゼン。

 ですけど、それをあなたが訊くんですかぁ?こちらとしては、むしろあなたに引きずられたと思ってるんですけど。

 念のため訊いておきますけど、あなたの主観で今って何年です?2006年?それとも1995年と思ってます?」

 

 返された問いに、ベアトリスは言葉を返すことが出来なかった。

 それは矛盾の核心。気付いてしまえば明らかな、時系列の齟齬。

 ジークリンデだけではない。本来ならばベアトリスとて、この舞台にはあり得ないはずの演者である。

 違和感だけはあった。他の者と自分とでは見ている者が違う。見つめてしまえば決定的な何かが狂いそうで、今まではあえて目を向けまいとしてきたもの。

 

「流石にそこまで鈍くはないようで安心しましたが、ああそれにしても遅い。

 黄金を、水銀を知って、それ以外の脅威に対して疎かなのはあなた方に共通している愚鈍さですが。

 もうそんな常識は通じない。あなたたちは無敵でも最強でも何でもない。既にその身をもって思い知ったことでしょう」

 

 獰猛な嗜虐の笑みをその貌に浮かび上がらせ、悪意を込めた侮蔑を告げるジークリンデ。

 たとえ舞台が違おうとも、彼女は黒円卓の敵。猛禽の爪は、今も蛇の眷属を獲物と見做して研ぎ澄まされている。

 

「どんな気分ですか?カール・クラフトの加護を失った感想は?普段は疎ましく思っていても、いざ無くしてみると衝撃も大きいでしょう。

 そう、それがあなたたちの依存の証明。自分たちを倒せる者なんていないと、愚かしい夢に浸っていた代償よ。

 あなたたちは理不尽を感じているかもしれないけど、本当はそんなことない。こんなのは怪物が、もっと強い怪物にやられたってだけの話。そういうものを想像できなかったあなたたち自身の落ち度。

 ああ、なんて無様なんでしょうか。滑稽すぎて笑えてくるわ。所詮は眷属に過ぎないけれど、これなら少しは留飲も下がるかしら」

 

「調子にのってんじゃないわよ、双頭鷲団(ドッペルアドラー)如きが。

 メルクリウスの眼中にも無かったのはアンタたちの方でしょう。蛇の天敵、猛禽の爪が聞いて呆れるわ」

 

 挑発的なジークリンデの言葉に対し、反論してみせたのはルサルカだった。

 

「ええ、それも事実。私たち自身の手では水銀はおろか、その眷属の一角さえ崩せなかったと、それが結果です。

 あれで水銀も好きにやらせているように見えて、その実は徹底した管理型ですからね。想定されてない可能性は基本的に許されない。

 一度そうなった者は、何度やったってそうなるから。それが永劫回帰の法というもの」

 

「?何を言って――」

 

「ここに来てから、色々と見えなかった事も見えているんですよ。

 だからこそ分かるの。あなたたちはくだらない。ここにいるのは所詮、現実に折れた敗残者に過ぎないってね」

 

「……ああそう。ならその敗残者の力、その身体で味わってみる?

 こっちも正直言って、色々とむしゃくしゃしてんのよ。そうやって喧嘩売ってくるってんなら買うわよ?」

 

「あらあら野蛮だこと。けれど私たちにはその方がお似合いかもしれません。

 こちらは別に構いませんよ。興味深いことも分かりそうですし、それに何より()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 含みを持たせた不敵な台詞、その悪意でベアトリスは気付く。

 今までは当たり前すぎて気付かなかった。半世紀以上を共にして、もはや血肉の一部といっても過言ではない。

 魂を融け合わせた聖遺物。魔人としての力をもたらすエイヴィヒカイトが、今はその力を発揮できていなかった。

 

「あらあらそんなことも気づかなかったんですか?自分の武器のことなんて戦士にとっては基礎も基礎でしょうに。

 その驕り、黄金や水銀の超越性に毒された盲目。ああ、本当にあなたたちは愚鈍だわ。温い環境にいたのだと、こうして見ると一目瞭然ね。

 所詮は当て馬、女神のために用意された道化だもの。私もあなたたちも、誰も彼もね。ふふふふふ、あははははははははは」

 

 嘲笑が響き渡る。それは直接、脳髄を刺す不協和音として。

 煮詰められた悪意。憎悪よりもなおどす黒く、醜悪な怨念の発露だった。

 魔人ではないが、彼女とて人を外れた怪物の類い。数多と宿した異能は十分に超人の域にある。

 違いなんて、きっと水銀に見初められたかそうでないかだけ。その加護を失った今となっては、果たして軍配はどちらに上がるか予測がつかない。

 

「そこまでに。これでは話が進みませんよ、ジークリンデ」

 

 あわや一触即発かという空気に、制止の手を差し入れたのは唯一の部外者(クイン)

 

「あなた方にどんな遺恨があるのか、私は知りません。口出しできる問題でもないのでしょう。

 ですが、今そんな言い合いをして何になるというのです。感情では納得できないかもしれませんが、堪えて話すことは出来ませんか?」

 

「……ふふ。そうですね、ごめんなさい。確かに良い態度ではありませんでした。

 こうやって第三者がいると、自分のみっともなさが思ったよりも分かるものですね。今後は控えることをお約束します」

 

「ありがとうございます。そして改めて、ご無事なようで何よりです。

 私はクイン。あの時は挨拶も満足に済ませられませんでしたが、覚えてらっしゃいますか?」

 

「ええ。あなたが私を助けてくれたんですよね。

 こちらこそありがとうございます。こうしていられるのもあなたのおかげです」

 

「まあ、それが本当に良かったのかは分かりませんけどね。

 ああ、ごめんなさい。また余計な口をきいてしまったわ。どうにも言葉が過ぎてしまうのは癖みたいなものでして。

 私は人と会話をするのが好きなのです。伝えるべきは率直に分かりやすく、とは言いますけど味気ないと感じてしまうんです。

 ねえ、クイン?あなたならこの気持ちを分かってくださいますか?」

 

「そうですねジークリンデ。ただ私は今、彼女と話をしているもので」

 

「あらまあ、うふふ。そっぽを向かれてしまいましたね」

 

 果たしてそれで懲りたのか、いいや間違いなく懲りていない。

 ジークリンデ・エーベルヴァインとはそういう少女だった。以前に会った時も随分と辟易させられたのを思い出す。

 魔人を相手にも一切物怖じせず、変わることがなかった不遜な態度。それは豪胆というよりも、心そのものが変質してしまった異形の精神。

 きっと、まともに相手をする方が馬鹿を見る。だから極力、その存在を無視してベアトリスは話を戻した。

 

「クインさん。改めて訊かせてください。

 私はこの状況について説明を受けられると聞いて、ここに来ました。

 今のシャンバラはどうなっているのか、そしてあなたは何者か。答えてくださるんでしょうか?」

 

「はい。あなた方にとって、多くのことに戸惑いがあるでしょうが、少なくとも私は味方です。そう在りたいと思っています。

 正直なところ、総てを知っていると言えるわけではなく、私の考えも的を外していないという保証は出来ない。

 それでも誠実でありたいとは思うのです。右も左もあやふやな半端者ではありますが、そこにだけは嘘をつきたくない」

 

 純粋な言葉。危うさを覚えるほどに、彼女の言葉には悪意がない。

 善人すぎて、違和感すら覚えてしまう。悪が一片も存在しない人間なんているはずがないのだから。

 同じ違和感を、ルサルカとリザも感じているのだろう。訝しむようにクインを見ながら、彼女の言葉を聞いている。

 

 ただし、ベアトリスだけはそれとは別に、共感のような思いを感じていた。

 

 それが何故なのか、明確な言葉で表すのは難しい。

 自分の心のことなのに、きっとそれは理屈で表すものではないからだろう。

 言ってしまうと、半世紀を共にした黒円卓の同胞よりも、彼女の方に信頼を置きたがっている。

 元より人道に悖る者たちで、そりが合わないのは今さらだが、勝手知ったる相手よりもまだ二、三言しか喋っていない相手を信じたいなど、なかなかに異常だろう。

 同じものを目指していると感じた。理屈ではなく、出会って目を合わせたその刹那に、そういう直感が降ってきたとしか言えない。

 

 だからこそ、これから何を話されても、クインの事を信じてみようとベアトリスは決めていた。

 

「私は遠い遠い昔、宇宙が今のような形になるより前の、遥かな時間に過ぎ去った世界の住人。

 善と悪に人々が分かたれた真我(アヴェスター)の宇宙、その中の善の陣営として生まれた者です」

 

 

 

 

 話も早々に切り上げて、集った女一同は再び場所を移そうとしていた。

 

「結局、話が荒唐無稽すぎるんです」

 

 クインの話。それは異なる神座に支配された異なる宇宙の神話。

 彼女がどれだけ誠実に努めても、話だけで信じてもらうのは無理があった。

 それはクインの人格を信じられないという話ではなく、単にスケールが大きすぎて実感が沸かないのだ。

 どんな大言壮語も、話だけなら創作の中にいくらでも転がっている。これが真実と伝えられても、真剣に捉えることは心情以前に常識が邪魔をする。

 ラインハルトとメルクリウス。その両者を知っている魔人たちでさえ、常識に根差した上での考え方をしている。そこからあまりに乖離しているから、ただの空想程度にしか受け止められない。

 

「私がどれだけ真摯に伝えようとも、納得してもらうのは難しいと分かっています。

 だからこそ、皆さんにはまず実例に会ってもらいたい。乱暴なやり方だとは思いますが、それ以外の手段が思いつかなかったもので」

 

 だからこそ、スケールの尺度を測る物差しとして、ある人物との会合を提案された。

 

 その人物とは、現在このボトムレスピットを取り仕切っている者。

 それは単なるアウトローたちの代表という意味合いではない。君臨し、支配する、並び立つ者なき絶対王者として。

 ここの皆からは“(キング)”と呼ばれているらしい。そしてその人物こそ、クインと同じ宇宙よりの来訪者だという。

 

 事前に納得した知識としては、その程度。

 ルサルカも、リザも、ベアトリスも。未だ半信半疑な心持ちで続いている。

 唯一人、ジークリンデだけは別に。まるで全てを見透かしたような嘲笑を浮かべていたが。

 

「本当は着替えていきたかったんですけど。あの男の前で、こんな格好を晒すというのは」

 

「あらどうして?何度でも言いますけど綺麗だし、そんなあなたは可愛いのに」

 

「だからこそです。私にとって、あの男は元々は敵。真我の法に従うべきではないにせよ、やはりあの人格は気に入りません。

 私にとっては、戦いに臨むのと変わらない。だからこういう恰好だと気が緩みそうで……」

 

「あらあらそれはごめんなさい。ですけどそれも詮無きことでしょう。

 どんなに頑張ってみせたところで、相手との格差が縮まるわけでもない。気合と根性で逆転できるほど甘い法ではないでしょうに」

 

「それは、そうかもしれませんが……」

 

「そんなところで諦めないと強がっても、それは逃避にすぎません。自分たちは正しいやり方で頑張ったんだって慰めているだけ。

 本当に勝ちたいのならあらゆる手段を模索すべきだわ。それがたとえ邪悪でしかない所業だとしても、倒すと決めたのならやるべきなの。

 少なくとも、私にとっての戦いはそういうものだったけれど?」

 

 本当に、彼女はなんなんだろうか。

 存在自体が不明な点もさることながら、どうして彼女が事情に詳しい?

 立ち位置が分からない。そういえば過去に会った時も、何かを見透かしたような言動が多かったが。

 ジークリンデは魔人ではない。しかしその身には多種多様な異能を備えているという。

 読心能力もそうだし、予知能力もあるのだろう。あるいはそれらの超能力によって、黒円卓の団員すら把握していない事をも知り得ていたのか。

 そしてそれは、この舞台でも発揮されている。エイヴィヒカイトではない、素としての能力だからこそ、縛られることなく効力を及ぼせるのかもしれない。

 

 そうやってベアトリスが考えていると、程なくして一向は目的の場所へと辿り着いた。

 立ち止まった一同の前にあるのは大扉。クラブの中心である大ホールへと通じている扉だった。

 

「気を付けてください。この先にいるのは私の世界で“魔王”と称された一角。私たちが敵対していた黒の陣営の首魁の一人です。

 悪であると定められ、その頂点に君臨した圧制者。常識など遥かに超えていることでしょう」

 

「大丈夫ですよ、クイン。この人たちはそういうのには慣れています。

 ああ、つまりですね皆さん。これから会う相手には、黄金や水銀と謁見するのと同様の心構えで臨んでほしいということですよ」

 

 後半の、自分たちへと向けられたジークリンデの言葉は容易く受け入れられるものではなかった。

 

 ラインハルトとメルクリウス。魔人の上に君臨する黒円卓の双首領。

 あんな存在が他に何人もいる?そんな荒唐無稽、どう聞かされたところで信じられるわけがない。

 恐怖と痛みによって刻まれた黄金への忠誠。呪いの魔名を贈られた水銀への畏怖。もはや拭いようもない魂への爪痕として、魔人たちに共通して刻まれたもの。

 結局はクインが言ったように、言葉だけで納得することなど出来ないのだ。彼女の言葉を妄言ではなく真実として捉えるには、実物を見るより他にない。

 

 思いはそれぞれなれど、彼女たちも各々に覚悟を決めて、開け放たれた扉の先へと踏み入れた。

 

「っ!?」

 

「これは……!?」

 

「なんて――!」

 

 そんな想定を容易く凌駕する眼前の光景に、彼女たちは一様に絶句していた。

 

 まず光が飛び込んできた。

 過剰な光量を叩きつける、色彩鮮やかなネオンライト。程々に、加減して、なんて思考は微塵も介在していない光の放流。

 それは慎ましさなど無い欲望の光であった。もっともっと欲しいと餓えた思いのままに、これでもかと使い尽くされて憚らない。

 常人ならば眼球が焼けてしまいそうなほどの光。まさしく欲望の謂れの通り、過ぎたれば身を滅ぼすという実際例がそこにあった。

 

 次に流れ込んできたのは音だった。

 無数に響いて鳴り止まぬ人の声。それらは、まともなままでは聞くことはないであろう類いの声だ。

 キメたドラッグの恍惚に浸った寄声。人目も憚らぬセックスの快楽に喘ぐ嬌声。暴力に陶酔し、欲しいままに食を貪り、あらゆる欲を解放させた人々の声。

 それらが大音量のクラブミュージックと融合し、美醜一体の旋律となって駆け巡っている。嫌悪であれ、興奮であれ、その音楽には人の情動を揺さぶる力があった。

 

 氾濫する光と音の大洪水。

 器に収まり切らず、溢れ出すほどに増大した人の欲望の坩堝。

 まともな倫理で鑑みれば、間違いなく“悪”と称するべきもの。歓びに満ち満ちた地獄の風景がそこにある。

 

 だが、魂の狩り人たる黒円卓の魔人にとって、驚愕すべきは別のところにあった。

 

 罪人の魂は強い。

 道を外れ、罪を犯した魂は、その業の分だけ熱量を得る。

 それはエイヴィヒカイトの燃料となり得るもの。捧げる贄として、常人よりも上質だと言えるのだ。

 だからこそのボトムレスピット。いずれ儀式に捧げるために、罪人たちを集める受け皿として。

 それは黒円卓の面々も承知していたこと。実際の工作はシュピーネに任せきりではあったが、そういうものだと認知だけはあったのだ。

 

 されど、今ここに集められたアウトローたちは、それにしたって()()()()

 罪人の魂は強いと、そんな定説では片づけられないほどに、一人一人の魂の熱量が高すぎるのだ。

 魂を喰らう魔人だからこそ、魂の気配に対しては敏感だ。その感覚が、ここに集う者たちの異常性を明確に伝えている。

 端的に言って、同じ人間だとは思えない。際限のない欲望に身を焦がして、重ねる悪徳にも一片の恥も悔いもありはしない。

 事実、もしも彼らがまともならば、入り込んだ魔人たちに対して何らかの反応を示したはず。人外の域にある存在感を眼中にないと素通し出来ることが異常の証明だった。

 

 まるでここは、旧約聖書に記された悪欲と背徳の街(ソドムとゴモラ)

 奈落の底に堕天した獣たちの楽園。己の罪業に酔い痴れて喰らい合う甘美と醜悪の混沌界だ。

 

 常識が壊れる音がした。

 自分たちが不変だと信じていた現実が砂上の楼閣だったと気づかされる。

 ああ、これには一度だけ覚えがある。たった一度の、されど忘れようもない楔のように突き刺さった記憶。

 黄金と水銀。二つの超常と初めて邂逅した夜のこと。あってはならないものが現実に存在していると、自分たちの世界が破壊された瞬間と同じ感覚だった。

 

 今こそクインの言葉を信じられる。

 彼女は異なる宇宙の住人で、ここに在る者もまた、その宇宙よりの来訪者であるのだと。

 だってそれしかないだろう。()()()()()()、別の世界からやって来たのでもなければ、こんなものが現実に存在しているわけがないのだから。

 

「よう、来たか。待ってたぜ」

 

 かけられた声が、衝撃で茫然自失していた魔人たちの意識を、更なる引力によって引き寄せた。

 

 大ホールの中央にあるステージ。

 何人ものシンガーやダンサーが歌い舞うその中心に、そびえ立つ塔があった。

 高級車や高性能機器、宝石や貴金属、果ては絵画や彫刻といった美術品まで、その他にも種類は千差万別。古きも新しきも関係なく、ただ一点、高い価値があるものだという共通点で繋がった物品群。

 まるで欲望によって積みあげられた財宝の尖塔だった。そしてその建造物が果たしている役割とは、王を侍らせるための玉座であった。

 強欲という名の権威をこれでもかと振りかざし、領土の所有権を主張しているそれは玉座で違いあるまい。一般には無意味な悪趣味とも捉えられるだろうが、ここまで度が過ぎれば芸術にも似た規格外の魅力を放つようにもなる。

 

 ならばこそ、そこに深々と座り込む人物こそが、この場所を支配する“(キング)”に相違なし。

 

 全身に鏤められた煌びやかな装飾。大胆に開けられた胸元からは浅黒の精悍な肉体を覗かせている。

 豪奢ではあるが、荘厳ではない。むしろ俗世に近しい趣きがあり、彼という男と一体になったビジュアルは聖性には持ちえない色気を醸し出している。

 それは明らかな現代における意匠。されどその男を知る者で、見間違えるなどあり得ようはずもない。

 総てを己のものと言って憚らぬ強欲。その在り方は紛れもなく悪であり、故にこそ世界を変える覇道を有するに至った男。

 

 七大魔王が一柱。第六位カイホスルー。

 飽くなき欲望の化身、邪なる龍王がそこにいた。

 

 

 

 

 




 祝、黒白のアヴェスター3巻発売!
 
 頭が悪いバカどもの整理はついたので。
 ここからはバトル展開はいったんお預けとし、頭がいい奴らによる解説回です。

 注、一部にて小説版『Dies irae~Wolfsrudel~』の設定を使用しています。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。