無慙無愧が巡る怒りの日   作:ヘルシーテツオ

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第十八章『櫻井戒』

 

 その存在は、幾体もの骸の集合。

 悍ましき呪いの戦鬼。終わらない闘争を駆ける不死英雄(エインフェリア)の贋作。

 

 

 ――血の道と血の道とその血の道返し畏み給おう――

 

 

 勝利の栄光など、それには無縁。

 器を満たすのは不浄の穢れ。怨念、妄執、憎悪。およそ闇と形容されるだろう想念の坩堝。

 禍々しい恨みの念は底無しの沼のようで、特定の誰かに向けられたものでもない。

 道ずれは誰でもいい。自分たちだけがこんなにも醜く、苦しいままなのは辛すぎて、穢れの無い人々を妬まずにはいられない。

 

 

 ――禍災に悩むこの病毒を、この加持にて今吹払う呪いの神風――

 

 

 なんと恥知らずな祈りだろう。

 元を糺せば身から出た錆。そのくせ無関係な他人を巻き添えにするなど醜悪すぎる。

 同情の余地もあれど、唾棄されて然るべき思想だろう。恥を知るべきだが、人の道理を説いても無意味である。

 彼らは既に穢れているのだ。奈落へと転落した身の上であり、これ以上の底が無いのなら恥じる必要はない。

 運命に敗れた敗者たち。望むのは他者の転落。英雄の贋作は、正道とは真逆の邪道を住っている。

 

 

 ――橘の小戸の禊を始めにて、今も清むる吾身なりけり――

 

 

 水底の魔女は言った。一度でも穢れてしまえば、二度と元のようには戻らないと。

 容易く再起など口にするのは絶望を知らない者だけ。汚濁に堕ちた先で残るのは立ち上がる力ではない。

 自分と同じところに堕ちて欲しい。八つ当たりだろう。意味なんて無い。ああしかし、()()()()()()()()()()()()()()()()

 横並びの仲間が欲しいのだ。苦渋を共にする道ずれこそ、奈落の底での何よりの慰めだから。

 

 

 ――千早振る神の御末の吾なれば、祈りしことの叶わぬは無し――

 

 

 聖槍十三騎士団・黒円卓第二位トバルカインとは、そういう悪鬼(もの)

 救い難い負の連鎖。だが同時にそれは戦鬼の強さを支える骨子でもある。

 邪道には邪道ならではの強さがある。呪いが深まれば穢れはいっそう降り積り、邪念は強さを増すだろう。

 担い手たちの苦悶を糧に、偽槍の魔人は強くなる。いっそ作為的と思えるほどに、黒円卓の戦奴は継承者の絶望を啜るように出来ている。

 

 

 ――創造・許許太久禍穢速佐須良比給千座置座――

 

 

 ここに在りしは、二代分の呪いを継いだ三代目。

 名を櫻井戒。平和な時代に産まれた子。呪われた血筋でなければ穏やかな生涯だって送れたはず。

 彼は自分の代で宿業を終わらせようとして、それは叶わなかった。結末は悲惨であり、黒円卓の業による最大の被害者だと言える。

 

 だからこそ、彼には拭えない慚愧がある。

 救いたい人を、救えなかった。ならばこの再臨は好機でもあった。

 無残な悲劇で終わった櫻井戒。那由多と繰り返された回帰の中で、主役どころか脇役にすらなれていない。

 そんな男の続投がいったい何をもたらすのか。どうあれその展開が“未知”であるのは間違いなかった。

 

 

 

 

 トバルカインの変貌に際し、間髪入れずに剣戟の音が響いた。

 問答もなく、真っ先に仕掛けたのはカイホスルー。これが挨拶だと言わんばかりの一撃は、やはり出し惜しみの無い全霊の一閃。

 

 受け止めた屍兵の巨体が沈む。

 体格差で見ればあべこべだが、この戦いに真っ当な物理法則など適用されない。

 駆け抜ける衝撃が世界を震撼させる。神威も闘志も十二分。対峙した相手を敵だと認めている。いいや、それ以外は許さないと告げていた。

 

 その背景に興味はない。

 ただ、自分の預かり知らないところで事態を動かされたこと。

 つまり後手に回ったということ。それを他所の男にやられたことが龍の逆鱗に触れていた。

 

「なんだか知らねえが、しゃしゃり出て来たなら俺を愉しませろ」

 

 言い終えるよりも早く、怒涛の連撃が開始させる。

 閃く刃は無限の如く、流麗な技の冴えはベアトリスの術理。獲得し、我流にアレンジを加えて独自のものにしている。

 付け焼き刃とならないのがカイホスルーという男の才であり器だろう。先刻までのような付け入る隙は存在しない。

 

 その姿には“華”がある。

 戦いというよりは舞踏。雅な舞いには艶があり、周りの観衆は更なる熱狂に包まれた。

 彼らからすれば事態は何も変わっていない。主役は俺だと豪語する王に、信奉者たちは追従して持て囃すだけ。

 

 今のボトムレスピットはカイホスルーが支配する“天”である。

 ここでの彼は文字通りの“神”に等しい。トバルカインの側にアドバンテージと呼べるものは何も無い。

 ベアトリスから主体が切り替わったことで雷化能力も失われている。それは手数の面でも劣勢に追い込んでいた。

 力も技も、周囲の空気感に至るまで、トバルカインの有利は何も無い。事実、構図としては一方的で、むしろ蹂躙と言い切ってもよい。

 それでも未だ粉砕を免れているのは、死を喪失させるこの場の特異性と、魅せることを重視するカイホスルーが“遊び”を差し挟むためだった。

 

 実力の差は歴然。神格と考えれば、それもむべなるかな。

 なのに彼は斃れていない。とうに斃れていても不思議ではなかったが、それを覆すのは三代に渡る技巧の総決算。

 反撃までは届かない。しかし確かに凌いでいる。蹂躙されながら、その闘志は折れていない。苦境で抗う奮戦を見せていた。

 容易くはない。強大な力に圧倒されて、心を擦り減らさない者などいない。守勢を保つには忍耐が要る。勇猛果敢なだけではどうしようもない不退転の粘りが。

 

 その瞳は静謐だった。

 闘志は澄んで、揺るぎなく。ただの蠢く屍体とは一線を画している。

 如何なる不条理、理不尽な運命を突き付けられようとも屈さない。瞳の光はそう訴えていた。

 

「ふん。なるほど。お前が例の三代目。たしか名前はサクライカイと言ったな」

 

 それが琴線に触れたのか、僅かに勢いを緩めて口撃を発するカイホスルー。

 

「聞いてるぜ。お前の祈り。自分だけが穢れればいいと思ってるんだってな。

 くだらねえ。自虐か、自罰か知らんが、またつまらん欲望を懐いたものだ。数ある欲の中でも特に醜悪だぜ、そいつは」

 

 天津罪、国津罪、罪事を背負い担ぐ鬼を定め、放逐し清めとする大祓。

 つまりは人柱。穢れを被せて遠ざける呪術の真髄。肯定的に懐くなら、己一人で大過を背負い災いを封じようとする利他の祈りか。

 そんな願いを、強欲の覇王は認めなかった。唾棄すべきものとして、声も高々に侮蔑する。

 

「その手の生贄根性は昔から好かん。己という財を差し出す真似だろう、それは。

 単にお人好しというんじゃない。てめえの天秤が狂っている。得るんじゃなく差し出すことに安堵を感じてやがるんだ。

 不本意な運命なんざ踏み倒し、望んだ総てを手に入れる。そういう発想が出てこない時点で病んでやがるんだよ」

 

 それは龍王にとっての当たり前。当たり前すぎて、それ以外など選択肢にも上がらない常識だった。

 彼はいつだってそうしてきた。何をしても満たされず、舗装された運命に従う限り、望みの宝は手に入らないと悟った。

 ならばよし。煩わしい運命とやら、その総てを覆そう。そう決断し、その通りに生きおおせてきた果てに今がある。

 敗者の理論は通用しない。カイホスルーは強者であり勝者なのだから。敗けを恐れる雑魚の理屈など眼中になく、今に至ってもその欲望を諦めていない。

 馬鹿なのだろう。考える頭を持ちながら、放棄して考え無しの暴挙に出れる極めつけの大馬鹿者。だがそれ故の魔王であり、覇者と成り得る器となった。

 

 対し、櫻井戒の生き方はどうだろう。

 確かに考え方自体は正しい。彼が泥を被れば、あるいは丸く収まるのかもしれない。

 しかし、その決断は賢明ではあれど限界が見えた選択である。どう足掻いても彼が犠牲になるのは避けられない。

 誰一人不幸にならないのが最上なら、その時点で妥協と言える。賢明であるが故に自身を諦めて、それが結果として破滅へと繋がってしまった。

 彼が愛する者とは、即ち彼を愛する者でもあるのだから。馬鹿を極めて総てを得てきたカイホスルーとはあらゆる点で真逆。

 

「己の値打ちを下げているような奴に、いい女を抱くには能わん。輝かせる甲斐性もない屑なら、まったくらしい姿じゃねえか。

 だから俺が奪ってやろう。安心して木偶になれ。欲しがることを知らんのなら、それが価値相応というものだ」

 

 剣の勢いは緩めても、弁舌の切っ先は斬れ味を増すばかり。

 カイホスルーは戦いの手を止めたわけではない。祈りの有り様にこそ強さの根源があるのは知っての通り、その自負こそを打ち砕きに掛かっている。

 暴力のみでの決着など望まない。そんなものは覇王の所業に非ず。示す“格”を以て説き伏せたなら、それこそが最上というものだ。

 

 トバルカインは応えない。

 ただ黙殺しているのか、それとも口が利けないのか。

 その死相では表情も読み取りづらい。カイホスルーの言葉に思うところはあるのかどうか。

 

「だんまりかよ。面白味のない奴め。ふん、だが賢しい男であるのは本当らしいな。

 余興を察してみせるだけの機微はある。なんならあのマグサリオンよりも、よっぽど粋ってモンを分かってるぜ」

 

 一聞すれば脈絡のないカイホスルーの言葉。

 しかし言ったように、カイホスルーの戦いには“遊び”がある。

 それは他人から見れば慢心、油断だと取られるもので、カイホスルーにしてみれば目先の勝利よりも優先されるものだった。

 一気呵成に終わらせても興醒めだ。そんなものでは誰の心も靡かない。前哨戦にも魅せるべき華があり、その範疇の力を逸脱してはいなかった。

 無論、それで終わるならそこまでだが、今のところは善戦している。王の称賛に値する健闘だと言っていい。

 

 そしてトバルカインもまた、未だに力の底を見せてはいない。

 三代に渡る異能の属性は『腐食』。櫻井戒の創造は触れる総てを腐らせる。エイヴィヒカイトの霊的防護とはまた別の、あらゆる攻撃を寄せ付けない穢れの鎧だ。

 効果内容はシンプルで、故に隙がない。本領を発揮した屍兵に近づくことは破滅を意味し、黒円卓内でもその性質の猛悪さは最上位だろう。

 

 カイホスルーの意図を汲んだ結果か、そうではないのか。

 いずれにしろ、今の展開はカイホスルーにとって好ましい。これも王の器が為せる業だと彼は言うだろうが。

 

「もっとも本気でやり合って、それで勝負が成り立つかは別の話だがな。

 出し惜しんだところで、貧しい欲しか懐けん男の力などたかが知れている。

 そんなもので俺を侵せるなどと夢にも思うな」

 

 その言葉は傲慢だが、大言壮語では断じてない。

 格の差以上に、在り方こそが問題だと。誰よりも欲望の可能性を信じる男にとって、欲しがることを止めた男に敗れる道理がない。

 勝つ。真っ向から、堂々と。腐食など関係ない。そんな異能ごと奪い尽くしてやると豪語していた。

 

 極才色の王気が立ち昇る。

 それはカイホスルーの全霊の証。ただ力のみではない。持てる権能を行使して総てを奪う意思表示だ。

 これに敗北すれば、後には何も残るまい。骨の髄まで搾り尽くされて、魔王の許しがあるまで朽ち果てることも許されないのだ。

 

 貪婪の龍王は変わらない。今も昔も、暴君として征服するために。

 紫電を纏わせた聖剣を振りかざしてカイホスルーは突貫した。

 

 

 

 

 人が餓えた望みを懐く時、そこには必ずや背景が存在する。

 誕生の瞬間から在り方が定まっているなど極々稀な例であり、何かしらの出来事を切っ掛けに方向性が決定するのは神格とて同じだった。

 

 黒円卓に属する魔人たちも、全員が特異な事情を持つ者ばかり。そういう事情を持つからこそ水銀の目に留まったとも言えるだろうが。

 劣悪な環境。悲惨な境遇。ある者は壊され、またある者は乗り越えて。ベクトルの正負はあれど、誰もが経験を糧にして強固な信念を獲得した。

 強さには理由がある。結果には因果関係があり、恵まれないから力を求めるのは至極当然の流れでしかない。

 

 然るに、櫻井戒。

 創造位階に達する彼の祈りは、いったいどんな因果から生じたのか。

 自己に穢れを背負わせる。聞いただけなら、それは罰を求める渇望だろう。

 己を屑だと断じるのは、悪しき自分を嫌悪するから。罪業に苦しむ者にとって、禊の罰こそ唯一の救い。

 カイホスルーに言わせるなら苦しい方が楽なのだ。自己の天秤が狂ってしまった者は幸せになる自分が許せない。

 気質が清廉な者ほどよく見られる。ならば櫻井戒もその手の人種だと見做すのはごく自然な流れだろう。それくらいの背景が無ければ祈りは狂気に達しない。

 

 しかし、考えてみればそれはおかしい。

 かつてロート・シュピーネは言った。カインなどという壊れた戦奴になる定めでなければ、と。

 そう、櫻井戒の因果とは真実それだけ。たまたま櫻井の血統に生まれてしまったという背景以外、彼には何もないのだ。

 それこそ単なる一般人と大差ない。許し難い罪の因果などあるわけもなく、戦場帰りの魔人たちと比べれば平凡としか言い様がない。

 虚飾混じりの信仰に強さが宿るはずもなし。ありもしない罪のために自罰の渇望など懐けるわけがないのだ。

 

 一代目の祈りとは呪いの継承。

 何故だ。何故俺だけが、こんなに醜い。

 ああ嫌だ。認めない。苦しいのが俺だけなんて許せない。

 俺と同じところに堕ちてこい。元凶の一つであることも棚に上げた、絶望の果ての歪んだ妄執。

 

 二代目の祈りとは呪いの転嫁。

 血筋の呪いから逃れるため、櫻井鈴(カノジョ)が選んだ逃避先とはあろうことか戦場だった。

 生き死にの不条理に溢れる鉄火場でこそ、絶望から逃れられる。命の使い道は己で決める。断固として呪いなどには譲らない。

 預かり知らない運命に従うことを良しとせず、極限の生を踏破することを決めた少女。その気質は臆病さとは対極であり、ヴィルヘルム好みのじゃじゃ馬だった。

 たとえ誰を不幸にし、何千何万の死を積み上げようと、自分だけは逃げ切るのだと。性質は“悪”だろうが、醜悪ではないだろう。

 境遇を思えば理解もできる。一人惨めに堕ちていくより、獰猛であり生の活力に満ち充ちているのは間違いなかった。

 

 彼らに共通しているのは、共に呪いを忌諱し、受け入れまいとしていること。

 可能ならばすぐにでも破棄したい。偽槍を宝だなどと思っているわけもなかった。

 初めてだった。呪いを自ら引き受けようなんて祈りは。同じ属性でも先代たちとは真逆。ましてや彼は当時、二十歳にも満たない若者だったのだ。

 年齢に対しあまりにも不相応な達観ぶりは奇妙に映っただろう。警戒する魔人たちを尻目に逃げ出す様子は微塵もなく、その内面を訝しんだに違いない。

 

 そして結論つけた。

 要は諦めているのだろう、と。

 呪いの穢れは三代目までで終わらせる。そうすれば後の世代に災厄が降りかかることはない。

 護るべき(ヒト)がいれば人は強くなれる。それも間違いではなかったので、早々に納得してそれ以上考えることをしなかった。

 黒円卓の面々が共通して掛かっている疾患。なまじ黄金という頂点を知るが故に、それ以外に対する警戒が疎かとなる。

 そしてカイホスルーも、彼がどんな流れから情報を得たにせよ、所詮は伝聞に過ぎない。当事者として直に向き合ったわけではなく、ならば評価を誤ることもやむを得ないだろう。

 

 そう、誰もがここまで見誤ってきたのだ。

 そもそもの話、あり得るのだろうか。如何に偽槍の恩恵があろうと、初の実戦から創造位階にまで駆け昇り、ヴィルヘルムを一蹴しベアトリスと渡り合うなど。

 ましてや弱体化していたとはいえ、ラインハルト・ハイドリヒを相手に真っ向からの足止めをやり果せるとは。もはや才能なんて言葉だけで片付く範疇ではない。

 事実は一つ。櫻井戒とは、黒円卓においても規格外。水銀の肝入りでもなく、平和な時代に理屈もなく生まれた狂人であると。

 

 ならばこそあり得ない。そんな男の願いが、ただの人柱で終始するなど。

 カイホスルーが言うように、その選択は賢明故に諦めが含まれている。馬鹿にはなりきれていないのだ。

 運命に反逆するとは、不可能を覆すこと。理不尽に屈さず、不条理を打ち砕き、あり得ない未来をその手で勝ち獲ることに他ならないから。

 

 秘めた本心は明かされることなく終わった。

 本当は何をしたかったのか。愛する(カゾク)を、最愛の(ヒト)を、救うとはどんな意味だったのか。

 逸してしまった本懐の機会。永遠に訪れるはずがなかったその好機がここにあった。

 

 

 

 

 炸裂した一撃は、まさしく全霊の一閃だった。

 魂という燃料を惜しみなく注ぎ込み、内包させた膨大な出力が破壊へと転化される。

 伴って生じるのは戒律による等価交換だ。民の魂を己の財産と捉え、失った分だけの宝を相手から奪う。

 

 エイヴィヒカイトの本質とは魂喰らい。

 回帰という理から魂を塞ぎ止めて、既存法則を穿つ力に変える。

 故に、担い手は自前以外の魂を用意しなければならず、それは否応のない殺戮へと走らせる忌むべき業であったが。

 ことカイホスルーに限ってはまるで事情が異なる。等価交換を憎む彼は、燃料を燃やせば消費するという当たり前の引き算すら許容しない。

 聖遺物に懸ける渇望が『消費それ自体を踏み倒す』となったのは当然とさえ言えるだろう。憎らしい戒律だから、それを出し抜きコケにする法則(ルール)を発現した。

 たとえ踏み倒しても消費自体は起こっているのだ。故に交換は成立し、その後に失ったものまで戻ってくる。

 

 『奪い貪る三首の業報(アジ・ダハーカ)』より改め『奪い征する三宝の大欲(アジ・ダハーカ)』。

 シャンバラの舞台で確立させた新たな戦法。首一本とて差し出さず、三宝総てを独占する欲の極致。

 武辺者では真似できない妙技は、カイホスルーならばこそ。彼自身、なかなかのものだと自負もしていた。

 

 だがやはり、些か以上に虫が良すぎるだろう。

 無論、そんなことで咎める心など魔王が持ち合わせるわけがない。獲れるならば限界まで搾り獲るのが彼の流儀だ。

 端的に言って、賢しい。本来なら交わるはずのない二つの法則を掛け合わせ、両方の旨味を獲得するやり方は画期的だが、そこに熱が伴っていると言えるだろうか。

 神座に生きる強者たちは自らの信念に従う。愚直に、視野狭窄となりながら、想いを狂信して法則を吐き出すのだ。

 嘘や誤魔化しは通用しない。曲げられず、棄てられず、時には在り方に苦しみながら殉ずるしか処方はない。

 だからこそ強い。極まった愚かさ故に想いは世界を変える。対して、賢しくまとまった想いでは熱量の絶対値で狂人のそれには及ばない。

 

 不変の欲望を懐く龍王。その想いが弱いわけがない。

 だが現状は賢しくまとまりすぎているとも言えて、そこに隙が生じる余地があった。

 

 例えば、彼が貧しいと侮った男の欲が、その想像を遥かに凌駕するものであったとしたら。

 

「ぐおおおおッ!な、にぃ!?」

 

 奪い獲った財が注がれる。それは失った空隙を埋めて、カイホスルーの器を満たすはずのもの。

 だが、カイホスルーが得たのは宝とは真逆の猛毒だった。上がった驚愕には苦悶も含まれている。

 極彩色の覇気に充ち満ちた龍の身体に、染みのように腐食の色が滲み出ていた。煌めく価値を塵に堕とす穢れは、餓龍にとっても許容しかねる。

 

「ボ、ク――ボクハ、ボ、ボぼ、ボクは……」

 

 破壊の奥から声がする。

 カイホスルーの渾身が炸裂して、尚もその原形を保っている。いいや、今も真っ向から対峙する姿勢を崩していない。

 その声は嗄れて、抑揚もなく、屍体の喉からどうにか絞り出すように。それでも確実に形となって、トバルカイン――櫻井戒は言った。

 

「……僕は、屑だ」

 

 声に込められたのは、深い、深い悔恨の念。

 彼は自虐し、自罰している。櫻井戒という人間を徹底的にこき下ろし、認めない。

 

「そちらの見立ては正しい。僕はろくでもない人間だ。

 櫻井戒は腐っている。全身だけじゃなく、性根まで。役立たずの塵屑だ」

 

 構えられた偽槍からは禍々しい毒気が迸っている。

 触れる総てを蝕む穢れの求道。屈指の猛悪さを誇る異能が発揮している証だ。

 

 しかし、今の構図はそれでもおかしい。

 相手が並なら不思議はないが、此度は魔王カイホスルーなのだ。

 彼には意志力のみで万事を制圧する我力がある。どれほどの猛毒でも、龍王ならば克己の一つ何とでもなるだろう。

 少なくともラインハルトには出来た。ならば同格の彼に出来ない道理はなく、初撃でここまでの痛手となるのは理屈が合わない。

 

「だが、よりにもよってそんな男から奪おうだなんて。業突く張りも結構だが、少しは節操も身につけた方がいい」

 

 カイホスルーの力の本質は破壊に非ず。

 あまねく財宝を愛する彼のこと。その価値ありと認めれば敵だとて消えるのを惜しむだろう。

 尽きることなき無限の散財こそ餓龍の王の望みなれば。滅ぼすのではなく跪かせての支配こそが望ましい。

 その欲望は不変。故に改められることはない。龍王はいつまでもあらゆる宝を欲するだろう。

 

 ならばこそ、その業報は唯一、餓龍を揺るがす毒となる。

 その男が求めた財宝とは、余人であれば触りたいとも思わないもの。

 奪われたところで、奪った方が損をする。呪いも、穢れも、毒も、自ら引き受けると宣った男がここにいる。

 

「白状すると、理解はまるで追い付いてない。ただそれでも、分かっていることが一つある。

 ベアトリスが戦っている。そしてお前は、彼女にとっての障害らしい。僕にとってはそれだけで剣を執るに値する」

 

 握った偽槍を構え直し、正眼の姿勢を取る。

 その様は静謐で、余分な殺気は一切ない。ただ静かに、鋭く研ぎ澄まされていく闘志だけがあった。

 目覚めた途端に戦場へ放り出されたも同然で、常人ならば呆然と立ち尽くすのが関の山。たとえ歴戦の戦士であっても、突如のことに意義を燃やせるかどうか。

 

 決して己のためではない。

 他人のため、彼女のために。それこそが櫻井戒の不変の真実。

 そのためならば地獄の軍勢だとて相手取ろう。愛しい人たちへの災厄は、総て自分が引き受けると誓っているから。

 

「どうした?その様じゃあ恰好もつかないだろう。早く立つといい。

 ――男が下がるぞ?」

 

「てめえ!」

 

 その挑発に、カイホスルーは躊躇なく聖剣を叩き込んだ。

 威力は絶大。鍔迫り合った偽槍が軋みの悲鳴をあげている。

 しかし同時に、カイホスルーも毒の侵食を受けていた。更には戒律の等価交換も止まっていない。

 魂の消費分だけ毒の穢れを奪ってしまう。外患と内患の両面から発症させては如何なカイホスルーとて無事では済まない。

 

 ここに戦法の弱点が露呈していた。

 戒律とは生き方に制限を加える見返りとして得る力。消耗によって機能不全となることはないが、自由なオンオフは効かない異能なのだ。

 発動させたくなければ、そういう状況に持っていかないようにしなければならない。だがエイヴィヒカイトを使用しているカイホスルーは必然として魂を消費してしまう。

 よって交換が発生する。よって穢れを奪うのを止められない。止めればそれは破戒であり、挑むではなく逃げるがための戒律破りはカイホスルーの存在に致命的な崩壊をもたらしかねない。

 

「はん、そうかよ。見誤っていたのは俺の方か。

 天秤が狂うどころか真逆ってわけだ。すました面してイカれてやがる」

 

 これが先代、先々代までのカイン達なら、こうはならなかっただろう。

 彼らにとって呪いとは唾棄すべき塵屑。異能の属性は『腐食』でも、自らが毒の塊に成りたがったわけではない。

 マグサリオンにしたところで、彼は生き地獄に等しい在り方を課しているが、別段苦痛を望んでいるわけではなかった。

 勝つために。殺すために。無慚無愧を為すがための冥府魔道。果てに磨いた凶剣こそが“宝”であるのは間違いなく、ならば奪うことに支障はなかった。

 

 故に、その渇望は真実の唯一無二。

 自己犠牲の極み。利他の想いで穢れを負う人柱の祈り。

 そんな“宝”を奪ってしまえば、同じく穢れを負ってしまうのは必然だった。

 

「自己犠牲?違うな、それだけじゃあるまい。それしきで終わるわけがねえ。

 お前は何も諦めちゃいない。狙っていたのは総取りだろ」

 

「どうかな。今さら何を言っても負け惜しみにしかならない。

 それに元々、大口を叩くのは好きじゃないんだ。若輩だからね。弁えている」

 

 黒円卓との初めての対面を果たした時、櫻井戒は少年だった。

 同胞などと認められようはずもない。彼らにとってその子供は哀れな生け贄に過ぎなかった。

 櫻井戒は聡明だった。歳不相応に、故に直感的に察したのだろう。この集団は災厄だと。

 真意を口に出来るはずもない。鬼畜の集団に慈悲を求めるなど愚か。それに侮っているのならそれはそれで都合がよかった。

 向こうがそうであったのと同じ、櫻井戒にとっても黒円卓が同胞であったことは一度もない。断言して、ただの一瞬でも心を許したことはなかった。

 

 ――例外だったのは、たった一人。

 ベアトリス・ヴァルトルート・フォン・キルヒアイゼン。

 彼と妹の御目付役として選ばれた彼女だけは、櫻井戒にとっての至上の奇跡だった。

 

 カイホスルーのように、天上天下に恐れるもの無しと、己の信念を宣言する。

 そんな大胆不敵さは確かに強い。王者と呼ばれるに相応しい豪胆な在り方だろう。

 しかし、ならば胸に秘めたる祈りは劣るのか。堂々と大言を口にする気概がなければ、意気地なしの浸る妄想に過ぎないと。

 

 総ては大切な家族のため。妹と、彼女のために。

 あえて口にしたことはない。それは彼にとって当然の、絶対すぎる命題だから。

 わざわざ吹聴したり、振り返って確認していては、お約束の記号めいたものに堕する。秘める誓いは不滅の輝きを宿し、それは今とて微塵も損なっていない。

 

「貧乏くさいな。蒼玉姫(ファティマ)を思い出すぜ。だが女であれば可愛げもあろうが、張り所を失くした野郎の見栄なぞ狗も喰わんぞ。

 果たせなかった慚愧があるなら、ここは肚の内を明かしてみろや。それすら出来んのなら、それこそ戯れ言の証明だろう」 

 

 勢いを増したカイホスルーの剣撃がトバルカインを圧倒する。

 無論、状況は何も変わっていない。侵食してくる腐食すら構わぬと、ただ勢い任せの剣閃。

 迷いのない太刀筋は鋭く、そして重い。己の覇気を証明してみせるように。これに抗える意気があるなら見せてみろと言葉でなく告げていた。

 

「……カインという呪いの宿業は僕の代で終わらせる。

 それは嘘じゃない。けど、それだけでいいはずもない」

 

 偽槍の呪いを引き受けて、黄金錬成までの期間を耐え忍ぶ。

 まずその時点で無理難題。先代、先々代ともに非凡な才覚の持ち主だったが、無念にも呪いに追い付かれた。

 未だ成し遂げた者のいない前人未到。それを前提条件としか見做さないなど、聞いたところで小僧の戯れ言としか受け取られまい。

 

 しかし、よくよく考えてみれば分かることだ。

 彼がトバルカインをやり遂げれば後の世代には累は及ばない。しかし、そんな保証がどこにある?

 黄金錬成さえ遂げたならお役御免で解放などと、黒円卓とはそれほどに物分かりのよい組織だろうか?

 直接黄金とまみえたことはなくとも、不吉な気配はすぐ近くにあったはず。たとえ全てを首尾よく終わらせても、明るい未来は想像出来なかっただろう。

 

 そこから目を逸らして、如何に困難でも目先の現実しか見ないのは単なる逃避だ。

 もしも本気で後に咎を負わせないと誓うなら、呪いの真なる“元凶”こそを断たねばならない。

 

「黒円卓を滅ぼす。元凶は他でもない、奴らの存在こそ櫻井の禍だ。

 つまりはハイドリヒ卿とカール・クラフト。双首領を斃すことが僕の誓いだ。()()()()()()

 

 トバルカインとして、黄金錬成までの日を耐える。

 それは肉体だけを意味しない。その精神も、腐敗と呪いによる汚染の中で正常を保つのだ。

 そうして来るシャンバラでの約束の儀式、ベアトリスと共に反旗を翻す。ラインハルトを斃し、メルクリウスを滅し、黒円卓という牙城を陥落させる。

 少なくとも、彼の主観から見た情報ではそれが最大の勝算だった。未だ現れないツァラトゥストラも味方として加えられれば、戦力は三騎分。それでも心許ないのは確かだが、単騎よりは遥かにマシだろう。

 

 そんな考えこそ、無知と無謀による妄想でしかあるまい。

 出逢ったことがないからそう言える。黄金の破格に誰もが膝を折り屈してきたのだから。

 しかしこの際、彼の意思もさほど関係ない。何故なら動機の芯にいるのは、未だに戦うことを諦めていないベアトリスであったから。

 

「僕は屑だ。櫻井戒は全身のみならず、性根まで腐っている。そう思っているし、そう在るべきだ。

 ああ、だって元から腐っているのなら、カインになったところで大した違いもないだろう?」

 

 彼女が口にしたわけではない。それでも彼女を知っていく内に櫻井戒は察していた。

 ベアトリスの“正義”は魔人たちの中にはない。黒円卓の打倒こそ真の目的だと。

 ならば迷うことはない。ベアトリスの願いは櫻井戒の願いだ。たとえ相手が人智を超越した怪物でも、彼女が諦めないなら自分だって諦めない。

 

 『黒円卓の聖槍(ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス)』。

 この忌むべき贋作も、そう考えれば悪くない。お誂え向きとさえ言っていい。

 聡明だからこそ甘い考えは持たない。地獄の戦場を生き抜いた鬼たちに、戦場も知らない若輩風情が勝とうとするなら、常軌を逸するほど重い信念が要るだろう。

 苦しいだけなら耐えればいい。誰も巻き込まず、自分が苦しむだけで済む話だ。そうすれば必要な強さが手に入る。ベアトリスと肩を並べるための強さが。

 利他の祈り?自己犠牲?やめてくれ。こんなものはただの我執だ。強さのための試練が必要だからそうしてるだけ。こんな真似が出来る時点で、櫻井戒はまともじゃない。

 

 櫻井戒は己を蔑み、自罰する。

 本来、咎められる罪など無い身でありながら、徹底して自分を慰める言葉を吐かない。

 そうすれば強くなれるから。呪槍が苦悶を糧にするなら、幾らでも差し出そう。

 誰もが拒絶する偽槍の呪いを、ある意味では“宝”とさえ思っている。願いに手を届かせる架け橋だと。

 

 妥協などと、悪い冗談だ。彼は何も諦めていない。

 その願いを誰にも譲りたくないから、不幸の運命すら武器にすると誓った男だ。

 

「ベアトリスの願いは僕が叶える。他の誰でもない。僕が彼女を幸せにするんだ。

 これだけは譲れない。いいや、これを譲るようなら、()()()()()()()()()

 

 静かに、だがはっきりと。ずっと秘めてきた想いを櫻井戒は口にした。

 

 どうしてこれだけの決意が懐けたのか。

 一目惚れだったのか。それとも同じ時間を分かち合う内にこうなったのか。

 確かなところは自身でも分からない。分かるのは彼女を想うそれだけで、決意も覚悟も幾らだって沸いてくること。

 ()()()()()()()()()。真実、その想いだけで、櫻井戒は命を懸けると決めたのだ。

 

「クッ、ハァハッハハハハハハハハハハ!!

 なるほどなぁ。なかなかどうして、面白い馬鹿野郎だよ。サクライカイ!」

 

 男が男に向けて言う馬鹿とは、最高の褒め言葉。

 認めればこそ熱い血潮が燃え上がる。最高の武闘にして舞踏とするために、大笑しながら斬り合いに移行した。

 

 ……実際のところ、カイホスルーが勝利するのは容易いのだろう。

 

 交換が問題なら、戒律が成立しないように立ち回ればよいとは先に述べた。

 エイヴィヒカイトの使用を止めて、魂の消費を失くせばそれで済む。

 水銀の秘術とて、カイホスルーにとっては山とある財宝の一角に過ぎない。代わる手段なら幾らでもあるだろう。

 天を巻く龍の星霊体より、極光の雨を降らせてもよい。触れる総てを腐り落とす猛毒も、近づかなければ害はない。

 遠方へと攻撃を届かせる手段を持たない。単純だが、それは明確な弱点だろう。自身に穢れを集めるという性質上、逃れるだけなら対処もしやすい。

 優位を譲らず、相手の手札を封殺し、対処の暇を与えないまま勝利する。それは強者の王道であり、疑う余地のない賢い選択だった。

 

「ハッ、冗談だろう」

 

 一瞬だけ脳裏に過った考えを、カイホスルーは自分自身で嘲笑った。

 

「いい女が見ているじゃねえか」

 

 さもしい勝利など欲しくない。至宝の価値が無ければ手を伸ばす甲斐がない。

 重要なのは、如何に己を魅せ付けるか。闘争とは、そのための手段に過ぎない。

 数多の視線を釘付けにし、想いも願いも期待も独り占めする。舞台の中心に立つことの何と素晴らしき快感か。

 ここにお前の役目は無いと、言われようが知ったことかと言い返そう。少なくともこの場における主役とは間違いなくこいつと俺だ。

 そこにはどんな都合も割り込まない。意義の有無なんぞどうでもいい。今はただ、この神楽舞を完遂するのみ。

 

 どれほどの猛毒でも、器に容れてみせてこその王。

 凶戦士の時と同じ。価値を認めたなら、総ては彼の懐に収まるべき宝なのだ。

 狡い考えなど不要。男と男の真っ向勝負、ここまで来たら剣によって決着をつけるのが相応しい。

 

 一つだけ断言できるのは、ここでイモを引くような男に好い女は靡かない。

 

「大事な鼓動(モノ)は貰っているんだよ。

 ああ、分かるぞ。これが命を懸けるってことだろう。この実感を、俺は決して手放さねえ!」

 

 まだ、上手く出来ているとは言い難い。

 それはカイホスルーにとって、産まれてこの方経験したことのない感覚だ。

 その心臓は今も冷たく止まったまま。外面を如何に取り繕おうと、その実態はトバルカインと大差ない屍体である。

 未だ言動に軽薄さが宿るのもそのためだろう。それでもここは間違えない。命を懸けることの意味、唯一つの我として世界と向き合う源たるべきもの。

 

 カイホスルーにとって、この舞台は“遊び”だ。

 本気になる意味は薄い。だが動かぬ心臓に血潮の熱さを思い出させる、命を懸けるに値する“遊び”だった。

 

「そして俺にも“穴”が見えたぜ。なかなかの馬鹿であるお前だが、やはり半端な賢しさが足を引っ張っている。

 秘めた想いも結構だが、お前には自分で動く積極性がない。主導権を握ろうって気概がねえんだよ。

 そんなことだから後手に回るのさ。欲しがる望みもその手をすり抜ける」

 

 そう、命懸けでありこれ以上なく本気だからこそ、相手にも同じだけの熱を求めるのだ。

 鋭く切り込んだ弁舌は、櫻井戒の内面を抉るもの。そこに一片の不純でも見出したなら、瞬く間に総てを奪われる。

 

「なあ。馬鹿で賢いお前のことだ。分かっているんだろ?

 ベアトリスにとって、お前は“ついで”だぜ?」

 

 それはベアトリスが剣を執る理由。

 とても、とても大事で、捨てられなくて。愚かな選択をしてしまうほど切実で。

 比重においても決して見劣りしない。本命と並べられる価値を持った“二番目(ついで)”。

 

「分からねえなぁ。そこまで惚れ抜いた女なんだろう。

 二番の立場に甘んじて、それで文句の一つも言わないってのは物分かりが良すぎるぞ。

 奪い盗って己のものにしてやろうとは思わないのか?」

 

「思わないな。そちらの価値観を押し付けるなよ」

 

 我欲を奔らせる龍の問いに、迷いなく櫻井戒は返答した。

 

「この穢れた手で彼女に触れる?それは本末転倒だろう。

 僕が呪いを引き受けたのは、大切な人たちを穢さないためだ。

 そんな執着は、こうなることを決めた時に棄てている」

 

 櫻井戒の祈りにはもう一つ、彼にとって切実な意味が含まれている。

 自分が穢れの塊となる以上、彼自身も愛する人たちを抱き締めることは叶わない。

 そこに妥協はない。あるいは全てが終わったならと、そんな空想を持ち出すことも許していなかった。

 それは信念の不純に繋がる。トバルカインを継ぐと決めたその時に、自分自身が幸せになる未来を完全に見切っていた。

 

「それを指して諦めだとは思わない。誓った通りにやり遂げるまでだ。

 反論は受け付けないよ。黒円卓は自分ルールを貫く偏屈の集まりだからね。僕が正しいと信じられるならそれでいい」

 

「つくづく反りが合わん奴だ。激しくムカつくぜ」

 

 己の価値観と真逆をいく男に、憮然としてカイホスルーは告げる。

 瞬間、トバルカインの身に異変が起きた。動きが硬く、鈍くなり、屍肉で構成された肉体が鉱物へと変じていく。

 輝きには、毒と映りながらも惹かれずにはいられない魅惑が宿る。妖艶な光沢の紫水晶(アメジスト)。醜い骸が美しい宝石へと変わっていく様は、見方次第で救済なのかもしれない。

 封じられていくトバルカインへと、悪戯を成功させた子供のような笑みを見せてカイホスルーが言った。

 

「感謝しろよ。そんな腐ったツラよりも、よっぽど見れる貌になるぜ」

 

 貴石化の権能。

 カイホスルーの十八番である力。問答無用に宝石へと変えてしまう封印術は相も変わらず強力無比だ。

 戒律やエイヴィヒカイトのように、何かしらの条件や消費を伴う力ではない。謂わば世界から許された強制権であり、物理法則と同じ自然の摂理だ。

 予兆もなく回避も不可能。遊びを止めればこのように戦いそのものが成立しない。依然として揺るぎなく、カイホスルーこそ生殺与奪の権を握る君臨者。

 

「俺をムカつかせるとは大した奴だ。褒美に俺の宝として所有してやる。ベアトリスの隣に並べてやるから咽び泣いて喜びな」

 

「お断りだ」

 

 逃れられないはずの摂理を、しかしトバルカインは抗った。

 可能なことではない。意志の力でやれる範疇を超えている。地に向かう重力に逆らい、空へと昇ってみせるが如き無理無道。

 かつてマグサリオンは貴石と化した身体のままでも戦闘を続行させたが、それとて貴石化自体を無効にしたわけではなかった。

 摂理と摂理の鬩ぎ合い。それはまさしく神々の闘争だ。傑物といえども人の域では神威たるカイホスルーの権能には対抗できない。

 

 そう。摂理に異を唱えるのを許されるのは、同じく世界そのもの。

 死面の片割れを被ったトバルカインは、力の源泉をカイホスルーと共有している。魂と融合した聖遺物との繋がりは、そのまま存在の骨子の部分での繋がりでもあった。

 今のトバルカインは、魂の定義においてもう一人のカイホスルーとも言える。同質の存在だから権能に抗える。無論、主導権はカイホスルーにあるだろうが、一息で貴石に変えられることはない。

 

 好敵手の奮闘を、カイホスルーは嬉しげに受け入れた。

 権能を使ったのは遊びを止めたからではない。これぐらいは何とかしてみせるだろうと期待を込めてのことだ。

 この戦いを演舞と呼ぶなら、誰より敵とこそ息を合わせなければならない。魅せる勝負とするために好ましい展開を選んだまで。

 

 演出が済んだのなら、あとは舞うのみ。

 この勝負、決着は二つに一つしかあり得ない。

 トバルカインの呪いが、カイホスルーを腐り落とすのが先か。

 カイホスルーの権能が、トバルカインを煌めく玉宝へと変えてしまうのが先か。

 その勝敗を決めるのに、もはや神など関係ない。張り通す男の意地があるだけだ。

 

「ベアトリスの願いは過ぎた宝だ。あいつの身に余る。

 叶わない想いにいつまでも恋い焦がれて、若さを浪費してしまうのは損失だろう。諦めさせてやるのが情けだし、男の甲斐性の見せ所でもある」

 

「ならお前は、彼女をどうする?」

 

「俺に靡かせる。女としての幸せを、俺が新たに教えてやるのさ」

 

 伊達に典雅な笑みを浮かべて、カイホスルーは言い放った。

 

「やはり女には剣よりも花が似合う。斬った張ったの戦働きなぞ男に任せればいい。そうは思わんか?」

 

「思わない。ベアトリスは騎士だ。彼女から剣を棄てさせることは出来ない。

 お前の趣味を押し付けるな。彼女はそんな簡単な人じゃない」

 

「そうかな。頑なな女を俺の色に染め上げる。それこそ醍醐味というものだろう。

 それとも男女の機敏には疎いか?そんな様じゃあどうせ経験もないんだろう。

 せっかくの宝石も、後生大事に箱の中では持ち腐れだ。野暮は止そうぜ」

 

「下種の勘繰りだ。ベアトリスとはそんな関係じゃない」

 

「だから、それが野暮だってんだよ。

 男と女の関係とは綺麗なばかりじゃない。時には爛れてしまうから艶かしいんだ。尊敬だの崇拝だの、女に向けるものじゃねえんだよ。

 触れようとしないのは畏れ多いと思ってるからだろう。何だかんだと理屈を付けて、抱き締める勇気がないから別の形で表そうとしてるんじゃねえのか?」

 

 突きつける言葉と共に繰り出された一閃。

 剣撃がトバルカインを後退させ、波打った衝撃が肉体に容赦のない破壊を刻んだ。

 鉄面皮を貫いても、カイホスルーの言葉が櫻井戒にとって無視できない衝撃だったのは明らか。強固な信念を力に変えるからこそ、それが揺らいだ時には脆さを露呈する。

 

「主導権を握ろうとしないのはそういうことだ。

 ベアトリスの考えに反対しない。互いに想い合い、認め合って過ごす時間は居心地がよかったろう。本音で言い合わなきゃ傷つくことはない。

 だから手遅れになるまで見過ごしたんだろ。まさか、彼女が?女を侮る愚図の常套句だぜ、それは。

 全てを呑み込む器量がないからそうなる。居心地のいい関係を崩せなくて失敗した。お前の末路とはそういうことだろう」

 

 忘れてはならないことである。

 いくら不相応に聡明でも、当時の櫻井戒は少年だったのだ。

 初めての時は背丈でも見上げるほど。外見上は姉と弟。実際には母子どころか祖母と孫くらいの隔たりがある。

 成長し、外見だけは同年代となっても、隔たりが消え失せるわけはない。親しい間柄だからこそ踏み込めない領域がそこにはあった。

 

「……確かに、そういう面があったことは否定しない。そちらの言うとおり引け目があったのは間違いない。

 それでも、これだけは言っておく。釣り合わないなんて理由で身を引いたつもりはないし、何かを諦めたりはしていない!」

 

 ベアトリスの眼が好きで、同じくらいに嫌いだった。

 あれは保護すべき対象に向ける慈しみ。彼女が情を移した櫻井の兄妹は、不運を背負わされた被害者でしかない。

 その時点で受ける扱いは決まってしまう。同情し、憐憫し、たとえ愛してくれたとしても、頼ってくることはあり得ない。

 

 それはある意味で、悪意よりも少年の心を抉る。

 ベアトリスが向けてくれる労りが嬉しくて、屈辱だった。

 僕はあなたに護られたいんじゃない。あなたを護り、肩を揃えて戦いたいのだ。

 強さが欲しい。男の矜持が哭いている。無力な子供のままでいるなんて屍肉の戦奴になるよりも耐えられない。

 

「対等に、なりたいんだ」

 

 様々なしがらみがある。配置された境遇は本音だけで話すことを許してくれない。

 それでも、諸々の事情を取り払い、果てに見える芯にあるのはその一念。

 全てはそこから。決意も覚悟も、その初志があればこそ生まれたもの。

 ()()()()()()()()()()()()。それこそが櫻井戒の原点である。

 

「青臭いな。だが悪くねえ。花丸をやるよ、坊主」

 

 ああ、つまるところ、櫻井戒という男とは。

 未だ“初恋”に胸を焦がし、その熱に灼かれ続けているのだと。

 愛と呼べるほど成熟もしていない。少年と、少女のように未熟な女との、不器用すぎる恋模様。

 互いに澄まして素直になれない。下手くそにも程がある男女の睦み合いだ。

 

 評した言葉に愚弄の意図は無い。カイホスルーとしては、むしろ評価を引き上げている。

 恋は盲目、されどその愚かしさこそ若さの特権で、その時分でのみ愉しめる醍醐味だ。

 女のために馬鹿になれる。賢しいばかりの男より、そちらの方が価値は上だと確信している。

 

 ならばこれ以上の口出しこそ無粋。青い蕾の情熱に訳知り顔で理屈を弄するなど、それこそ野暮というもの。

 

「ガキの恋路には付き合えん。ここからは大人の恋愛の時間だぜ」

 

「知ったことか。引っ込んでいろ、間男」

 

 宇宙の理なんてどうでもいい。

 喧嘩を売った。それを買った。男たちの間にあるのはそれだけだ。

 女へ貢ぐ愛のために、俺が上だと分からせる。屁理屈こねて逃げ出すヘタレにいい女は落とせない。

 

 これまで以上の意気が乗った両者の剣戟。

 そこにはもう技巧の概念はない。気持ちで退いた方が敗けだと確信していた。

 お互いが頭の理屈で動いていない。鍔迫り合えば前へ前へと、後ろへ退がる気など毛頭なし。

 たぎる情熱と意地に懸けて、命懸けの遊びに没頭する。馬鹿な真似としか言い様がないが、だからこその鮮烈さは人々の熱狂を天井知らずに加速させる。

 

 両者の加熱の行き着く先、激しさを増すばかりの剣戟の果てに、その決着が訪れるのは必然だった。

 

 先に崩れたのは、カイホスルーでもトバルカインでもない。

 意地に懸けても譲らない男たちの前に、互いの武器の方が力尽きた。

 『戦雷の聖剣(スルーズ・ワルキューレ)』『黒円卓の聖槍(ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス)』。どちらの大業物にも致命となる亀裂が入る。

 

 エイヴィヒカイトのルールは諸刃の剣だ。

 魂を融け合わせた聖遺物の破壊は、そのまま担い手の破滅に直結している。

 たとえ破格の魂でも無事には済まない。甚大なダメージが両者を襲い、その内側から崩れようとしていた。

 文字通り、精魂尽きた。割れた器からは魂も零れ出し、どちらにも力は残されていなかった。

 

 ならばこそ、あらゆる余力が失われた、その先で。

 底をついた器から、それでも絞り出される力がある。魔術でも、戒律でもない。理屈を超えて発揮される底力(チカラ)

 それこそ生命(ヒカリ)と人は呼ぶだろう。起爆の切っ掛けは何でもいい。願いを諦めまいとして現れる奇跡は、きっとどんな法則よりも尊い力だ。

 

 動けないはずの刹那、彼らは動いた。

 どちらも限界を迎えながら、闘志はまったく折れていない。

 この意地は命に代えても張り通す。そう決めた男たちの、まったくもって馬鹿げた真似だ。

 互いの剣は折れている。折れない男たちが選んだのは、己の拳。古今東西、男の意地を乗せるのにこれ以上の武器は無い。

 

 踏み出したのは同時だった。

 どちらも前しか向いていない。退くことなど頭の片隅にもなかったに違いない。

 であるなら、明暗を分けたものとは何だったか。剥き出しとなった今、唯一人の男としての彼らの勝負を決めたもの。

 

 片や、命の重みを知らず、重さを実感することも出来なかった男。

 片や、強いられた運命に屈さず、唯一人、その生涯を懸命に抗い続けた男。

 言うなれば経験の差。慣れないことには誰しも迷いが生じる。それが神でも、未知なる一歩には勇気が要るのだ。

 その勇気を装填し、決意と覚悟の撃鉄を起こす作業。その行程にて一歩分の遅れが生じた。

 

 カイホスルーの拳は一歩分が届かず。

 トバルカインの、櫻井戒の拳は一歩分を先んじて突き刺さっていた。

 

 

 

 

 あれを愛だと呼んでよいのか、この期に及んでも僕の中には躊躇いがある。

 

 初めて出逢った時の、ベアトリスの背丈は見上げるほどに高くて。

 別に、彼女が大柄だったわけではなく、むしろ肉体年齢と比しても小柄な方だけど。僕はそれ以上に幼かった。

 男女の関係で見るには視線の高さがあまりに違う。憧れと恋心。この二つを明確に分けるものとは何だろう。

 これといった心変わりの覚えはない。僕が彼女に向ける感情に、当初からどれだけの変化があったのか僕自身にも判然としなかった。

 

 こんなものはただの照れ隠しだと、あの男の言い様は正しいように思える。

 だけど男女の睦み合いなんて生々しい表現には、やはり違和感を覚えるのだ。

 ベアトリスは綺麗だ。大事にしたい。しかし抱きたいかと問われれば、確かな答えが浮かんでこない。

 出逢って以来、彼女はそういう対象だった。剣の師で、僕ら兄妹の監視役兼世話役で、最も身近な目上の異性。

 ベイの言い様ではないけど、果たして抱こうという気にならない男女の間柄を愛と呼んでもいいのかどうか。

 

 不器用で、不格好で、相手を困らせてばかりいる。

 こんな僕はやはり屑だ。要領が悪いにもほどがある。男としては最低の部類だろう。

 

「あなたは馬鹿よ」

 

 ほら、こんな時まで、僕はベアトリスを困らせてしまう。

 泣きそうになってる彼女の顔は辛くて、怒ってる様子が可愛くて、僕のことを想ってくれてるのが嬉しかった。

 

「いつも、いつもそんなに、損なことばかりして。あなたは何も悪くないのに。

 平気な顔なんてしないでよ。私に背負わせてよ。これじゃ私だけ、馬鹿みたいじゃない」

 

 あの男との戦いで、僕の聖遺物は砕けている。

 けれどベアトリスの聖剣だけは、限界間際でも砕けるまではいっていない。

 僕がやったことじゃない。悔しいけれど、あの男の手際を認めるしかなかった。あれほどの激突の最中、咄嗟に剣を退いていたなんて。

 魂が受ける損壊は全て自分が引き受けて。あの男に言わせれば、これも流儀ということなのだろうけど。

 正直なところ、勝ったという気がしない。ベアトリスを救ったのは奴の方だと言われても頷くしかなく、まったく大した“粋な男”だ。

 

 対する僕は、そんな器用な真似はとても出来ない。

 やれたことは、ベアトリスをトバルカインから分離させ、独立させた魂を形成具現させたまで。

 それでなけなしの余力も使い切り、聖遺物を砕かれた僕はまもなく消える。先代、先々代の魂は既になく、この意識が途切れるのも時間の問題。

 せめてもの幸いは、末期の姿が多少は見れるものになっていることか。宝石にされた姿は、元の腐った骸よりは大分マシなものだろう。

 

 ベアトリスの記憶に残るのは、少しでも綺麗なもので在りたい。

 未練がましく思えるだろうが、これくらいの我儘は許してほしい。

 その上こうして最期に彼女と話が出来るなんて、僕にとっては望外の幸運だ。

 

「それについてはお互い様だろう。僕がこうしたかったんだから、文句を言われる謂れはないよ」

 

 ああ、だっていうのに、僕の口から出てくるのはそんな言葉。

 気の利いた台詞一つ言えやしない。本当に、僕も彼女も不器用すぎる。

 

「生意気なのよ、あなたは。子供のくせに。いつの間にか私の方を子供みたいに扱って」

 

「それは日頃の行いかな。慎みとか思慮だとか、君には足りない部分が色々あるから。

 今だから言うけど、年長者の役割は無理があったと思うよ」

 

 これについては偽りのない本音だ。

 本来の年齢を知っていても、彼女の振る舞いは時折それを忘れさせてしまう。

 監視を兼ねて学校に通っていた時だって、本人は否定するだろうけど、まったく違和感を感じさせない程度には馴染んでいた。

 いくつになっても彼女は青い。それは好感が持てる青さだけど、変わらなすぎて否定したくなる気持ちも分からないではない。

 そんな様で聖餐杯を相手取り、出し抜こうとしていたのだから、気を揉んでいたこちらの身にもなってほしい。

 

「両親を蘇生させる、だったかな。聞いてすぐに分かったよ。嘘だって。

 何も知らなかった僕にすら見抜かれるんだ。隠し事がまったく向いていない」

 

「……どうしてよ。ちゃんと筋は通ってたでしょう?」

 

「理屈が合うからってそれだけなんて、むしろ稀だろう。人間は感情で動くものだし、特に君はそうだろう。

 立ち止まっているのは似合わない。君は駆け抜ける閃光だから。似合わないことをしたって、すぐに不具合が出てしまう」

 

 言い方が説教臭くなっている自覚はある。

 こういう言い方をしてしまうのも、ベアトリスからの目を変えたかったからだろう。

 言われた通りに頷いて、素直ないい子と可愛がられる。そういう事態だけは避けたかったから。

 小僧なりの意地っ張り。僕が欲しかったのは好感度なんかじゃなく、共に肩を並べる戦友としての目線だ。堂々と意見を交わしてこそ対等だろう。

 彼女からは生意気だと言われたりもしたけれど。要するに単なる見栄で、動機を鑑みれば僕だって十分に青臭い。

 

「今さら誤魔化す必要もないだろう。いい加減、素直になりなよ。

 君のことを何でも出来る救世主(ヒーロー)だなんて思っていない。君は出来ることを、したいことをすればいい」

 

「……戒。でも、それだとあなたは……」

 

「いいんだよ、ベアトリス。いいんだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 君の半世紀は僕らのためにあったのか?違うだろう。いつまでも“ついで”のために足を止めてることはない」

 

 果たしてこの言葉は僕の本心だろうか。

 声は震えていない。自信がある。彼女を迷わせるような感情は決して表には出さなかった。

 本当は、行ってほしくない。傍にいて、僕の事だけを見てほしい。そんな思いがまるでなかったとは言えない。

 そこまで達観は出来ていないと思う。我ながら取り繕うのが巧くなった。おかげで時折、僕自身でも本心が分からなくなりそうになる。

 

 だけど、僕はそれでも構わない。

 どちらであろうと僕がすることに変わりはないから。

 ベアトリスに綺麗なままでいてほしい。君は君のまま、余計な重荷にはならないと決めている。

 

 たとえこれが見栄だとしても、男には張り通さないといけない見栄がある。

 

「あまり上ばかりを見ない方がいい。昔から思ってたけど、君はもっと自由であるべきだよ。

 何かを背負っていく人じゃない。器用な性質(タチ)でもないんだから、迷うことだって幾らでもあるだろう。

 だけど道が照らされたなら、君は誰よりも真っ直ぐ疾く駆けられる。そうなれば大丈夫だ。僕はそう信じてる」

 

「待って。ねえ、待ってよ!お願いだから!」

 

 今にも泣き出しそうな彼女の声は愛しく、だからこそ切なくて。

 慰めたい。抱き締めてあげたいと、とても強い衝動に駆られた。

 

「違うでしょう。せっかくこうして会えたのに、私たちがするのってこんな話なの!?

 もう二度と会えないかもしれないのに。もっと伝えなくちゃいけないことがあるでしょう!」

 

 ああ、確かにそれは言えてるかな。

 会話に色気がなさすぎる。照れ隠しは彼女も同じで、お互いに筋金入りだ。

 言葉にしなくても伝わるなんて、そんな言い訳は甘えだろう。口にすれば最後の一線を越える。だから言い出すことが出来なかっただけ。

 

「あなたのことが好き」

 

 そんな踏みあぐねてきた一線を、彼女の方から越えてきた。

 

「愛しているわ、戒。ずっとそう言いたかったの。

 こんなこと、普段だったら言えないよ。十年早いって、私、ほんとはお婆ちゃんなのに。

 あなた、背伸びしてばっかりなんだもの。ほんと子供のくせに生意気で、でもそんなところが愛しくて」

 

「うん。ありがとう。本当に嬉しいよ」

 

 ベアトリスの告白を、僕は不思議な既知と一緒に聞いていた。

 前にも、彼女からこんな風に言われたことがあったような。そんなはずは無いと、疑う気持ちにはもはやなれない。

 既知感(ゲットー)。かつて副首領(メルクリウス)が唱えた概念。それは世界の本質に根差した法則だと実感している。

 

 きっと繰り返された世界の中で、こうやって言われたことがあったのだろう。

 既知は感動を喪失させる。感動の喪失とは、即ち生命の摩耗。生きる意味と実感を擦り減らすと。

 でも僕はそう思わない。一度は辿り着いた僕らの結末。あの終わりは無為ではなかったと確かめられた。

 あれこそ僕にとっての至上の刹那だ。感動に水を差されたと思うより、この真実こそ誇らしい。

 

「でも、君はそれを理由に立ち止まる人じゃない」

 

 たとえ君が、決して手に入らない光だとしても。

 

「他人が見たら変に見えるんだろうね。でもいいんだ。僕たちはこれでいい。

 君は僕を蔑ろになんてしてないし、僕だって妥協で身を引いたわけじゃない。

 ただお互いにとって、これが最善なんだと信じてる。だから気に病むことなんて何も無いんだ」

 

「……ええ。そうね」

 

 僕は君に触れない。

 櫻井戒の祈りは穢れを引き受けることだから。

 誰からも忌諱される呪いの塊として、皆が僕から遠ざかってくれたらいい。

 それが僕の矜持。愛しい人たちは、遠いところで綺麗にいてくれれば満足だ。

 

「行ってくれ、ベアトリス。櫻井戒はいつだって君の味方だから」

 

 だから矜持にも懸けて、ここに未練は遺していかない。

 ベアトリスは綺麗だ。どうかそのままの君として、何処までも駆けていってほしい。

 君を縛る戒めにだけはなりたくないんだ。どうか頼むよ、今回ばかりは聞き分けて、君は先へと――

 

「もう。ほんとに、生意気な子」

 

 ……ああ。それは、いくら何でも反則だろう。

 

 唇に触れてきた感触。

 僕が懐いていた決意も覚悟も、一瞬で蕩かせる甘い熱。

 すぐ目の前にはベアトリスの顔。呪いに穢れた屍体である僕に、躊躇もなく口付けてきた。

 

 僕の矜持なんて形無しもいいところだ。

 君に触れてはいけないのに、胸から溢れる愛おしさが止められない。

 僕らの強さは自分理論を貫くところ。信念が揺らげばたちまちに脆くなって瓦解する。

 今すぐに、君を抱き締めたい。そう思わされたことで、僕という存在への最後のトドメとなった。

 

 それは、この世界の何よりも、優しい介錯。

 器が消える。呪いも、毒も、不快を煮詰めた穢れの総てと一緒に。

 最期に残ったのは安らぎだけだ。あなたが苦しまなくて済むようにと、彼女からの誠心が満たしてくれる。

 

 ああ、僕は、なんて幸せな……――――

 

 

 

 

「ねえ。ホントにさ、この展開でよかったの?」

 

 そうして勝利した男と女が本懐を果たしている時、敗者たる男は倒れ伏していた。

 魂は致命的に損壊し、器は毒に侵されて、悲惨極まる有り様となったカイホスルーが天を仰いでいる。

 

「なんだか王サマの方がカマセっぽいし。ナメプでやられるとか三下じゃん」

 

 カイホスルーの傍に座るのは『底無し穴(ボトムレスピット)』の情報屋チャコ。

 女の膝枕くらい貸してもよい状況だったが、猛悪な腐毒の塊に触れるのは、只人の彼女には荷が重すぎた。

 

「何だかさ、せっかく出張ったのに何やってんだーって感じ?

 もうすぐココ、消えちゃうんでしょ?看取ってあげるのもあたしだしさー。

 王サマなら、もっとうまくやれたんじゃないの?後悔とか無いのかな?」

 

 現在の『底無し穴(ボトムレスピット)』は、カイホスルーの理によって保たれていた。

 カイホスルーが消える以上、彼の世界も連座して消える。無限の生命を甘受していた堕天の住人もそのツケを払うのだ。

 チャコが見渡す限りでも、絢爛だった世界の色彩が褪せて、崩壊が始まっているのが見て取れた。

 

 旺盛を極めた果てに待つのは衰退と滅亡。

 そんな結末を象徴したような光景は、欲望の魔王の敗北を意味するのではないか。

 欲のままに宝を集めて、その総てを失おうとしている。あれほど浪費を嫌った男にとって屈辱でしかないはずで。

 

「決まっている。俺のやることに無駄骨なんぞあり得ねえ。

 全ては布石だ。途中で敗けようが、要は最期に勝てばいい。俺はまだ諦めちゃいねえんだ」

 

 悲惨な末路を辿りながら、カイホスルーは変わらない。

 豪胆に、快活に、彼は己という器を信じている。己が挑めば勝つべくして勝つのが必然だと。

 選択などそれ自体が無粋。王者の道とは一つでよい。神座を握れなかった身でありながら、その信条を棄てていない。

 もはや誇大妄想でしかない。馬鹿にしても度が過ぎている。しかし同時に、常人では真似できないのも確かだった。

 

「前から訊きたかったんだけどさ。根拠もないのに、王サマのその自信はなんなわけ?

 やっぱりそれも神サマだから、あたしたちとは違うものが見えてるってことなの?」

 

 だからチャコは知りたがる。

 常人とはかけ離れた超越者。彼らの見ている景色とはどんなものなのか。

 情報集めは彼女の趣味。娯楽はいつだってその中に眠っているから。

 身の程知らずの自覚はある。けれど欲望の魔王に見出された女として、猫を殺されようと好奇心に従おう。

 

「ハハ、何だそりゃ。もしや思し召しでも信じてるのか?だとしたら馬鹿を見るぜ」

 

 そんな少女のなけなしの疑念に対し、せせら笑ってカイホスルーは答えた。

 

「俺もガキの頃は信じていた。星という神サマの絶対をな。そして失望させられた。

 神は、俺が思っていたほど絶対じゃなかった。他人の器に期待したところでな、結局は肩透かしを喰らうハメになる。そして悟ったんだよ。俺の欲望に応えられるのは、俺自身をおいて他にはいない」

 

 それは肥大した自我。やがては神威に至る欲望の前兆だった。

 その思想に共感するのは常人では無理だろう。通常、人はそこまで自分を信じられない。

 自分に自信が持てないから、その根拠を他所に求めるのだろう。この世界の至るところで宗教が乱立しているのを見れば、それがあらゆる人間にとっての常識だと理解できる。

 

 そこから外れてしまった心は、人のカタチをしていない。

 偶像の神では、同じ神の祈りに応えられない。故に彼らの渇望は天を貫き座へと届く。

 

「神座が頂点だと言われるが、さてどうだかな。

 もしかすれば真我だって分かっていない、悟った気になって誰もが見落としている“階層(レイヤー)”があったとしても驚かねえ。

 世界だとて俺が期待するほどの器はない。そうなったら前提から崩れる神の力なんざ根拠にしてどうするよ」

 

 社会には階層があり、機構の根本に近いほど力を持つ。

 平等を謳ったところで現実にはあり得ない。深きを占める者が特権を独占し、不平等をもたらすのは世の常だ。

 そして神座も、その構造は変わらない。深淵に座す神は己を真理と認識し、それ以上の底があるなど発想自体が生まれない。

 傲慢と矜持は紙一重だ。黒円卓がそうだったように、このバランスを保つことは実力者ほど難しい。

 

「だが俺だ。俺が信じる俺だけは唯一絶対。世界がどう変わろうが、それだけは覆らない真実だ」

 

 生命が無いと告げられた時も、カイホスルーは崩れなかった。

 彼もまた強者であり自尊と自負がある。その在り方は傲慢以外の何物でもない。

 しかし他と違うのは、カイホスルーが何の根拠も持っていないことだ。彼の自信を支えるのは彼自身の思いのみ。

 己が何者であったとしても、どう在りたいかを決めるのは己自身。望むがままに己を変えていけば済む話だ。

 

「悲劇は要らん。辛酸の味も後悔の涙も必要もない。あるのは大団円だ。

 俺の人生には完全無欠のハッピーエンドしかあり得ねえ。俺が信じてるのはそれだけなんだよ。

 なあ、チャコ。これは俺だけに限った話じゃない。お前らにだって言える事なんだぜ?」

 

 無邪気な瞳でカイホスルーは訴えている。

 どうして俺と同じようにしないのか。こんなことは当たり前のはずだというのに。

 

「強いも弱いも関係ない。人も神もあるもんかよ。

 どんな奴であれ、他人がどうこうよりも自分を信じられんことには始まらんだろう。

 てめえでてめえ自身を見限ったら終わりだ。何がしたくて生きてるんだ、そんなもん」

 

 それもまた強者の傲慢、弱者の視点を持たない理論なのだろう。

 だが否定は出来ない。どんな者であれ、自分を信じられないでどうやって幸福になれるという。

 言い訳は通じない。自分を救うのは、誰よりも自分自身なのだから。境遇を卑下し、自分を誤魔化しても道は決して開かれない。

 程度の差はあれ、カイホスルーのしていることは誰もがやらなければならないことなのだろう。たとえ根拠がなくたって、可能性を信じることは出来るのだから。

 

「……そっか。うん。そうなんだろうね。

 じゃあさ、王サマは次もあるって信じてるわけ?」

 

「当然だ。一度はあったんだ。二度目がない道理もあるまい。

 ここで起きたことも巡り巡って、最終的な勝利に繋がっている。

 そう思えば恐れる意味もない。お前もせいぜい愉しんでみろよ」

 

 カイホスルーと同じ境地に達するのは、流石に無茶が過ぎるだろう。

 しかし心が軽くなったのも確かだった。信じ抜くことは困難でも、開き直りの手段としては悪くない。

 魔王なりの励まし方なのだろうか。そう考えると少しおかしく思った。

 

「あたし、王サマの世界は好きだったよ」

 

 日常に退屈していた少女。

 刺激を求めて踏み込んだ『底無し穴(ボトムレスピット)』。奇縁は巡り巡って、彼女を龍の覇者へと引き合わせた。

 

「毎日がお祭り騒ぎで、サイッコーに刺激的だった。娯楽をくれるって意味ならあなたは一番の“(キング)”だよ。

 でも、でもさ。ノリの悪いこと言っちゃうけど、今は少しだけ日常が恋しいかな。会えるなら、お父さんとお母さんにも会いたいよ」

 

 何もおかしなことじゃない。

 少女は元々、白にも黒にも染まっていない。色分けなど無い第四天の、当たり前の人間なのだ。

 たとえ刺激を欲しても刺激ばかりが溢れれば、真逆の平穏が欲しくなる。ごく自然な心理である。

 持たざることこそ欲望の源泉。隣の芝生は青く見えるもので、今のチャコは失くした日常をこそ求めていた。

 

「ねえ。どうしてあたしは、みんなみたく酔わせてくれないの?」

 

 そしてその不具合は、彼女が未だに堕天の色に染まり切っていないことを意味する。

 この『底無し穴(ボトムレスピット)』で、カイホスルーの最も近くにいたのは彼女だというのに。

 本来ならば何もせずとも彼の覇道に変革させられていただろう。そうなっていないのは、龍王自身の意図しかあり得ない。

 

「前にも言ったろう。皆が皆、揃って右に倣えではつまらねえ。誰もが欲にギラつくなら、清貧ってやつにこそ希少価値がつくだろう。

 美しきも醜きも、価値あるものは等しく俺の宝だ。どれも欲しい。諦める気は毛頭ない。

 お前の欲は一歩引いたところでこそ輝く。俺の色一色よりも、どっち付かずな今の方が多くが見えるだろうよ」

 

 チャコという少女は情報屋だ。

 彼女はいつだって、裏方からの観測者の立場に徹してきた。

 主役を張るのではなく、主役たちの行動を特等席で観ていたい。彼らの命題(テーマ)が何であれ、面白ければそれでいい。

 ならばこそ、その立場は中立が相応しい。様々な角度から物語を眺め見るには思想を偏らせるべきではない。

 

「お前の気持ちは俺には理解できん。つまり俺が持っていないものを持ってるってことだ。失くすのは惜しいだろ」

 

 付け加えられた一言に、思わず胸が高鳴った。

 相手は破格。本来なら関わり自体があり得ない。そんな男が、こちらの意を汲み尊重している。

 例えるならトップアスリート、国民的アイドル、高名な文化人など。どこかの国の大統領に敬われるようなものか。

 無論、彼はそんなものたちよりも遥かに上。まるで主役級のような扱いに戸惑い、このままでいいのかと恐る恐る手を伸ばそうと――

 

「やめておけ。腐毒(こいつ)はお前程度を腐り落とすのに秒も掛からん。

 まあ、無理はするな。お前にはそれくらいの位置がいい。程を弁えるのも長所だぜ?」

 

「……ねえ?最初の質問だけどさ、看取るのがあたしなんかでいいの?」

 

「それこそ訊くまでもねえことだな。

 お前も俺の宝の一つだ。孤高なんぞ趣味じゃねえ。連れ添い無しじゃあ立つ瀬がねえよ」

 

「でも、あたしだって“ついで”なんでしょ?」

 

「そんな甲斐性のない男と俺を一緒にするなよ。序列はつけるが、与える愛に貴賤なんざねえよ。

 危なっかしいとも言われるだろうが、お前はそれが魅力だ。俺のためにもそのままのお前でいな」

 

「~~ッ!ていうかさ、やっぱり不純すぎだって!

 あっちこっちにコナかけてさ。そんなんだから敗けたんでしょ!」

 

「ハッ、馬鹿言え。それが俺だ。もしも不純と言うなら、その生き方を曲げた時がそうなんだよ」

 

 崩壊が加速する。終わりの刻が近づいていた。

 己の世界の終焉を眺めながら、しかし龍の王に悲壮さは無縁。

 彼は信じている。あらゆる展開も敗北すらも、未来の勝利に繋がる布石だと。

 この舞台で結ばれた縁。やがてはそれが己を高みへと導くのだと、稀代の馬鹿者は理屈無用に信じていた。

 

「あばよ。また会おうぜ、リザ。

 今度の時には憂いを晴らした笑顔を捧げてくれ」

 

 崩れる世界に合わせて塵となっていく『蒼褪めた死面(パッリダ・モルス)』。

 所有権が移っている聖遺物に元の担い手との連座は発生しない。いいや、この男がそうはさせないだろう。

 女は宝だと豪語する男は、見出したその価値を信じながら舞台から退場していった。

 

 

 

 

 こうして一つの決着を迎えたわけだが、果たしてこの結果はどうなのか。

 

 この戦いの目的とは、ベアトリスが己の剣を取り戻すことにある。

 確かにそれは果たされた。だが激戦による酷使の末、既に聖剣は耐えられない状態まで追い込まれている。

 ベアトリスの魂を形成具現させたまでで限界だろう。これ以上は本当に砕け散る。

 結果として得られたのは最低限の体裁のみ。彼女を愛する青年の奮闘も、成果がこれでは報われないのではないか。

 

「――いいえ。そうはさせません。

 善なる祈りを、無価値なままで終わらせるようなことは、決して」

 

 たとえ、愚か者の誹りを受けようと。

 振り返れば、私の行動とはどれもこれも感情論。

 器物のくせに、論理的な行動がほとんどない。そんなことだから間違いも数多く犯してきた。

 直情的にぶつかって、的外れな期待を向けては拒絶され、何度も何度も繰り返して。ああ、本当に、こんな様では愚か者としか言い様がない。

 

 視点が低い。至らなかった後悔はいくらでも。

 けどそれでも、これまでの歩みを改めようという気にはどうしてもなれないのだ。

 集めてきた祈りを、紡がれた絆を、何よりも代え難い宝物だと思っている。大義の言葉を名分として、それらを取り零すような在り方には惹かれない。

 

 私が最も感銘を受けた在り方。

 真我(アヴェスター)という大義の糸に繰られる世界で、大義に依らず目の前の総てを救おうとする祈り。

 愛を奪われ白痴の泥に沈んでも、義者(アシャワン)の王は自身の不変を失ってはいなかった。結果としてその祈りは闘争に向いておらず、“零”との戦いを控える時点では完成させるわけにはいかなかったけれど。

 だからといって、無価値となったわけではない。世界はこのようにして救われるべきであり、あの御方こそまぎれもない救世主だったと今となっても信じている。

 

 目の前の小事から目を背けない。

 助けたいと思う心に従う。それは私が私に課す“命令(オーダー)”。

 道具の領分からはとっくに逸脱している。扱いづらいことこの上ないだろうけど、私はそれでいい。

 私の担い手も、小事の一つ一つを無視できない人だから。彼が人としての心を棄てるなら、私がそれを補おう。

 果てに目指すのは完全無欠のハッピーエンド。所詮は感情論でしかないけれど、愚かな私は信じ抜くことを譲らない。

 

 私はクイン。冥府魔道を征く凶戦士の剣であり、そんな彼の無慚無愧に真っ向から異を唱えるお節介焼きの母である。

 

 

 

 

 周辺地形は、既に焦土と化していた。

 焼かれ、刻まれ、原形を留めた部分など何処にもない。闘争の苛烈さを物語っており、それは今も尚続いている。

 

 黒円卓第九位・大隊長。エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ。

 魔操砲兵(ザミエル・ツェンタウァ)と魔名を戴いた彼女の攻め筋に穴はない。

 大隊規模の魂群の一子乱れぬ統率。それは合理性の権化めいた殲滅劇。残虐さとは真逆をいく暴力装置としての本懐だ。

 即ち、如何に首尾よく敵を仕留め、かつ己は生き延びるか。冷酷無慈悲な鉄の掟を、揺らぐことなく己に課していられるか。

 最高の効率と最大の火力。シンプルな理屈であり、故に真理である勝利への方程式。鋼の自制は決して計算を狂わせない。

 

 正攻法。最も単純であり最も効果的な最善の手段。

 奇を衒った一撃など、所詮は一発限りの初見殺し。そうした手段を用いる輩とは、得てして正攻法を選べなかった者たちなのだ。

 その手の輩にとって、エレオノーレは最悪の相性だと言っていい。能力全般が高水準。手数も豊富で、選べる手段はいくらでもある。

 使い手が未熟なら器用貧乏と揶揄もされるが、極めてしまえば難攻不落だ。一度限りの有効打では後が続かない。

 一撃で殺らせるほど緩くはなく、二撃を許すほど甘くもない。王道の強者を前に邪道の使い手は成す術なく敗れるだけ。

 彼女を攻略するなら総合力で上回るか、より上の霊格でもって捩じ伏せるしかない。尋常な闘争の土俵ではエレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグこそ最優に相応しい。

 

 今の戦況も、その闘争原則から外れてはいない。

 剣の常道を無視した変則機動も、大火力で上から畳み掛ければ関係ない。

 剣で応じれば不意も突かれようが、軍人たる女傑はその状況自体を許していない。無限の火器群による集中砲火。間合いは完全に潰されて、成す術のない蹂躙の様相を呈している。

 素人目にも分かる。より戦巧者なのはエレオノーレの方だ。()()()()()()()()()()()、軍配は彼女の方にこそ上がるだろう。

 

 しかし、マグサリオン。

 凶戦士が弄するのは奇策などではない。王道、邪道からもかけ離れた冥府魔道。

 剣に敗れて傷つく誇りなど端から無し。彼が用いるのは大前提さえ無視した異形の手段。

 例えるなら競技の中で、まったく別の競技で競っているようなもの。そんなものが罷り通れば反則以前に試合(ゲーム)自体が破綻する。

 卑怯卑劣ともまた別種。天地をも捩じ伏せる凶念を持ちながら、強度や熱量で凌駕しようという気が一切無いのだ。

 祈りの力が強さに変わる神座の宇宙で、その図式を徹底して認めていない。屑のやり方には付き合えんと凄絶な否定の念を叩きつけている。

 侮辱というならまさしく。彼が向けるのはいつだって殺意であり、総てを根絶させたいと願う絶滅意志だけなのだから。

 

 だからこそマグサリオンは強く、そして弱い。

 強さが上下し安定しない。宇宙最強を滅ぼしたかと思えば、格下相手に追い詰められたりもする。

 勝負をする土俵が違う。既存の格付けは意味を為さず、最強も最弱も等しく無慚の剣に晒されるのだ。

 

「ご苦労なことだな。狂人の振りとは」

 

 よってその口撃も、相手が誰であっても緩むことはない。

 真実を解体し、信仰に致命の痕を入れるマグサリオンの凶眼。それが鋼の女傑にも同様に向けられた。

 

「狂った振る舞いをしていれば真性とも大差はない。その通りだろうがな。

 ここまで徹しているのは畏れ入る。盲いた女の愚かさは世界が変わろうと共通らしい」

 

 そこに敬意は存在しない。

 あるのは否定と殺意。それは戒律に定められた絶対原則。故に逆鱗であろうとも躊躇なく踏み抜いた。

 

「よほど飼い主に尻尾を振るのが好きなようだな。そんなに可愛がられたいかよ、売女」

 

 その手の侮辱を、エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグは絶対に許さない。

 彼女が主に懐く敬愛を、女の情愛と一緒くたにされること。女の在り方への嫌悪を持つ彼女にとって、それは赫怒の炎に火種を注ぐ行為だ。

 

 紅蓮が、世界を被った。

 あえての挑発だとしても見過ごさない。高い代償を支払わせる。

 展開された焦熱地獄(レーヴァテイン)は、臨界点を突破して比類ない域にまで出力を上昇させている。

 懐いた赫怒を燃料に変えて。神座の闘争において怒りとは抑えるものではなく、起爆剤として燃え上がらせるものなのだ。

 逃げ場の大紅蓮がマグサリオンを呑み込んだ。それのみでは終わらない。更に更にと限界を突破していく熱量が行き場を失い、収縮し、遂には超々規模の自己崩壊(メルトダウン)へと至った。

 

 それは見せた者も少ない彼女の創造(切り札)の、更なる奥の手だった。

 言ってしまえば世界を使った自爆特攻。砲身の中で砲弾を爆破させるようなもので、当然ながら負荷は甚大。彼女にとっても無視できない損傷を負っている。

 しかし、こと破壊力で見れば間違いなく最大だ。逃げ場の無い世界では破壊の熱量も外に逃げることがなく、臨界を超えた灼熱の総てを敵へと注ぎ込める。

 傷を負って繰り出すからにはどんな相手も必ず仕留めると自負している。それが同格でも、格上でも。忠義を捧げる黄金、その敵を滅ぼす剣として。

 

「――怒り狂えば強くなる。貴様らはそればかりだ」

 

 だが、それは同時に、通用しなければ打つ手がなくなる背水の陣でもあった。

 

「どいつもこいつも、我が心象華々しきと。強い己は特別なんだと思い上がっている。

 俺とてその一端には違いない。俺は無慚無愧だ。総ての屑を殺し尽くすまで俺は止まらん」

 

 何もかもを灼き尽くした破滅の奥より響いてくる呪詛の声。

 エレオノーレが見せた赫怒さえも上回る、奈落の底にて煮詰めた忿怒。

 怒りは決して尽きることはなく、あまねく世界の総てへと向けられている。恐らくは自分すらも含めて、抜き放たれた凶剣は滅ぼし尽くすまで止まらない。

 

 炎獄の絶界を断ち割り、滅びすらも捩じ伏せた無貌の怪物が踊り出た。

 

 対峙する女傑の赤騎士もまた然る者。

 凶戦士の殺意に当てられれば、たとえ歴戦でも平静ではいられない。

 発狂か、あるいは絶望か。いずれにしろ闘志を折られるのが常であり、ならばこそ冷静沈着を保つ自制心は特筆に値する。

 迎撃にも動揺による翳りは見られない。反応、精度、威力、どれを取っても芸術と呼ぶに相応しい超一級。その手際に不足は無かったが。

 悉くが捩じ伏せられる。エレオノーレの知る闘争原理では理解できない不条理。理不尽の権化である魔人の業を超越する荒唐無稽で。

 

 それを目の当たりにしたエレオノーレは、心の片隅にある冷静さで自らの敗北を悟っていた。

 

 戦意は滾っている。彼女の誇りにかけても闘志は折れていない。

 しかし、やはりエレオノーレは凡人だった。神威に至れる器ではない。狂信的に振る舞いながら、心には人間らしさを残している。

 人間の範疇では最高峰。だが外すべき最後の箍が固すぎる。それは彼女の素晴らしさでもあったが。

 どうやっても馬鹿に成り切れない。殺戮の土俵では凶戦士には勝てない。最優であるからこそ先の展開も予測がついてしまう。

 

 予測は程なく現実となって突き付けられた。

 赤騎士の迎撃を叩き落とし、あるいはその身で受けながら、凶剣の刃が迫ってくる。

 これは躱せない。数多の手段で迎え撃ちながら、眼に映る殺意の深度に諦観が充ちてくる。

 凶戦士は孤高。そしてエレオノーレもまた孤高だった。黄金の近衛たる赤騎士に甘えは許されない。彼女は誰より自分にこそ厳しい人だから。

 己に味方はいない。それはマグサリオンの言である。修羅道を奉じる黒円卓でもそれに近いことが言えるだろう。

 仲間の助力は期待できない。それを弱さと切り捨てたのは己自身。ツケの支払いは自分でやるしかなく、敗者に垂らされる糸は無い。

 

 最後によぎったのは、この結果が主の失望を買いはしまいかということ。

 敗けの屈辱でも、相手に向けた怒りでもなく。恐らくはこれも勝負の趨勢を分けた要因なのだと納得して──

 

 だからこそ、この展開はエレオノーレにとって完全な想定外だった。

 

 姿を目の当たりにしても、俄かには信じられない。

 その胸中は、まさか、という思いで満ちていた。鋼の自制でさえ動じるほどの慮外の事態。

 可能性だけなら想定も出来たかもしれない。しかし理屈以上に感情があり得ないと切り捨てていた。

 “この小娘”とは敵同士なのだから。シャンバラという舞台である以上、道を同じくするはずが無いと。

 対峙したならその時は、即ち殺し合いしかあり得ない。自分たちはそういう間柄であり、結ばれた縁の深さ故に確信は揺らがなかった。

 

「ご無事ですか、少佐」

 

 そんな相手が、今こうして自分の窮地を救い、護るように背を見せている。

 これにどんな感情を懐けばいいのか。屈辱か、拒絶か、それともまさか謝意を懐けとでも?

 いずれにしろ不確かな思いでは何も変えられはしないだろう。それだけの決意を覚悟を思わせる凄みが、その背中には宿っていたから。

 

 その手に『神剣(クイン)』を携えて。

 善なる祈りを背負う勇者の如く、ベアトリス・キルヒアイゼンがそこにいた。

 

 




 櫻井戒というキャラクターについて、印象として強いのは理知的で大人びているといったものだと思います。
 限られた描写の中で、頼りがいのある姿を見せて、続編でも強者としての風格が示されてきました。
 なので、今話ではあえてその逆の面、当時の年齢なら螢ともほぼ変わらない少年としての姿を描写してみました。
 独自の所感ではありますが、これも二次創作の醍醐味と見てもらえれば幸いです。
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