無慙無愧が巡る怒りの日   作:ヘルシーテツオ

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文字数が増えて、添削が遅れました。
一話に一万前後を心がけていますが、これからは難しいかもしれません。


第四章『両雄激突』①

 

 嵐が、吹き荒れていた。

 

 響き渡る轟音は鳴り止まず、宙には無数の瓦礫が舞っている。

 それらは人の創意工夫が生み出した建造物。娯楽のために造られた巨大遊具だ。

 それが今、人間大の暴力によって蹂躙されている。冗談のような光景はいっそ喜劇的とさえ言えるだろう。

 常識なんて言葉は、この場において意味を為さない。入り乱れて渦巻く二つの超級の暴力が、うねり巻き上げ吹き荒れる様は天災としか形容できない。

 

 ヴィルヘルム。そしてバフラヴァーン。

 死闘を繰り広げる二者。しかしてその破壊は同等ではない。

 より凄まじい災害と化しているのは、ヴィルヘルム。白貌の吸血鬼こそ、この場所に破滅をもたらす元凶だった。

 全身より生やし、撃ち出される黒赤の杭。バルカン砲の連射性と、パイルバンカー級の破壊力を兼ね備えた魔性の弾丸の一斉掃射は、周辺環境に甚大な被害をもたらしている。

 杭が放たれるのはヴィルヘルムの身体ばかりではない。大地から、大気から、果ては闇夜に浮かぶ朱き月より降り注ぐ、血棘の洗礼。

 もはや安全圏など何処にもない。かつて遊園地だった風景は一変し、暗色の剣山を築く地獄絵図と化した。

 

 ここはまさしく薔薇の夜。

 滴る獲物の生き血を以て、大輪の花を咲かせる化生の薔薇園。

 ヴィルヘルム・エーレンブルグの聖遺物とは、その身に流れる血液そのもの。人器融合を果たし一体となった『闇の賜物(クリフォト・バチカル)』。

 かつて数万の串刺しで荒野を満たし、祖国の腐敗に鉄血の秩序を敷いたヴラド三世。結晶化した公の血こそが聖遺物。

 凄惨が過ぎる血の偉業は、彼本人の善性を無視して怪物へと仕立て上げる。年月を経て、それは吸血鬼という怪物伝承の象徴となった。

 その幻想を受け継ぎしヴィルヘルムこそ現代の“串刺し公(カズィクル・ベイ)”。己は夜に住まい、獲物の血を啜る者なのだと、渇望を具現する栄光の赤薔薇なのだ。

 

 対し、バフラヴァーンには何もない。

 あるのは己の五体のみ。徒手空拳、ただそれのみで薔薇の夜と相対している。

 丸太じみた剛拳を放ち、しなやかさを併せ持つ剛脚を振るう。その迫力は凄まじいが、あくまで等身大の暴力の範疇に収まっている。

 破壊規模で劣るのは当然だろう。いわば爆撃機と拳闘士の戦いだ。少なくとも影響の広さではヴィルヘルムの圧勝だといっていい。

 

 だが無論、両者の死闘なそんなところでは決まらない。

 周囲の破壊など、所詮は力の余剰。彼らは闘う者であり、その眼には己と死合う相手のことしか映っていない。

 古今東西、時代が如何に巡ろうとも闘争の決着は決まっている。敵の屍を踏みしめて、拳を突き上げ勝利の雄叫びを轟かすこと。修羅たる者が心得るその真理は、互いにとっての自明の理。

 

「てめえ、カマトトぶってやがんのか?」

 

 そう心得ているからこそ、ヴィルヘルムは激しい憤りを露わにする。

 

 ただの一駆けで間の距離を踏み殺し、猛然と突貫してくるバフラヴァーン。

 放たれた拳の一打がヴィルヘルムを捉え、直撃した威力がその身体を撥ね飛ばす。

 魔人と比較しても決して見劣らぬ強力。瓦礫の山に衝突して埋まり、あるいは決着をと予感させるものだったが。

 

「だぁから、効かねえんだよ。馬鹿力だけでどうにかなると思ってんのか?」

 

 腕の一振りで瓦礫の山を薙ぎ払い、無傷のままのヴィルヘルムが姿を現した。

 如何に人外の腕力を誇ろうと、バフラヴァーンの拳は所詮、物理的な破壊でしかない。

 聖遺物の使徒が備える霊的防御。現代のあらゆる兵器を無効化し、黒円卓を無敵の頂点に君臨させる絶対要因。

 その護りを突破できなければ、どれほどの怪力も無意味。バフラヴァーンはヴィルヘルムの脅威とはなり得ない。

 

「分かってんだぜ。てめえの力はそんなもんじゃねえだろ。

 さっきから吸ってんのに、衰えるどころか逆に強くなっていきやがる。どういうつもりだか知らねえが。

 萎えるんだよ。ヤるならとことんまで派手にイこうや」

 

 だというのにヴィルヘルムの勘は、その結論を否定する。

 直感的な根拠だけではない。既に起きている異常もまた、考えを強めていた。

 

 ヴィルヘルムの夜が持つ吸精能力。

 異界の内部にいる者は何人であれ逃れられない。闘争の中で血の気を滾らせていけば、猶更に効力は強くなる。

 体力の簒奪。強化と弱体化の両方を兼ね備える異能。その負担は軽いものでは断じてない。

 それなのに敵の拳に衰えは見られず、それどころか一挙手一投足ごとに強度が増していく不可解さは何なのか。

 順当に考えるなら様子見の手加減、温存していた力の後出しが考えられるだろう。

 決して理が無い行為ではない。敵の全力を誘い、いなしていくことで消耗を強いる。戦術としては間違っていないのだろうが。

 

「あんまりつまんねえ態度決めこむつもりならよォ、このまますぐに潰しちまうぞ」

 

 気に入らない。

 己の創造(ルール)を展開したヴィルヘルムの理性はひどく薄まっている。

 表に出るのは猛々しい獣性。牙獣のごとき殺意に染まった魂が、相手の態度に憤りを覚えている。

 期待があるのだ。半世紀もの永き時、つまらない倦怠感に苛まれていた。この相手ならばそんなものを感じる必要もなくなると。

 期待が大きければこそ、裏切られた時の反動も大きい。文句を言う筋合いもないかもしれないが、相手の都合を慮るなど今のヴィルヘルムには無理な話だ。

 

「ふぅむ。そんな風に思われるのは初めてだが、これはちと辛いな」

 

 対して当のバフラヴァーンは、不本意そうに嘆息した。

 相手の気持ちはよく分かる。そんな風に感じさせて申し訳ないとさえ。

 殺し合いというにはあまりにも場違いな感情。相手の憤りに対する詫びの気持ちをバフラヴァーンは抱いていた。

 

「だがまあ、あと少しだけ待っていろ。多分もう、そろそろいける頃合いだ」

 

 そんな言葉で納得するなど、当然ながらヴィルヘルムにはあり得ない。

 御託はいい。期待に応えるというなら力を示せ。不甲斐なければ言った通り潰すのみだと。

 全身から枝分かれしながら生え伸びる血杭の森。針鼠の如く自身の身体を覆いつくし、己自身を一個の巨大な魔弾と化してヴィルヘルムは突撃した。

 

 殺意を込めた全霊の一撃。直撃すれば魔人とて致命は必至。

 選択は回避が妥当どころか必然だ。だがバフラヴァーンは逃げようとしない。

 迫り来る脅威の程を知り、微塵も怯まず、瞳には挑戦者たる気概の炎が燃えていた。

 燃える男が選んだのは拳。人が手に持つ原始の武器が、ヴィルヘルムの魔弾と正面から激突した。

 

「――がぁっ!?」

 

 真っ向からの激突の果て、あがった苦悶はヴィルヘルムのもの。

 それの意味するところは痛撃。単なる肉の塊に過ぎないはずの握り拳でダメージを受けた事実。

 霊的に所有者への害圧を撥ね退ける聖遺物の護り。それが突破されたことを意味していた。

 

「うむ。やはりこうだな」

 

 納得し、快活に頷いてみせるその声はバフラヴァーンのもの。

 激突の結果は、彼自身とて無傷ではない。それどころか無数の杭に全身を穿たれた様は、ヴィルヘルムよりも遥かに重傷だといえるだろう。

 傍から見れば痛々しいことこの上ない。しかし当の本人だけがまったく意にも介していなかった。

 その顔に浮かぶのは成長の実感と喜び。砕けなかったものが砕けるようになり、また一段と強くなった己へと達成感だ。

 

()()()()()()

 馴染みのない手応えだったんで、ちと時間が掛かってしまったがな」

 

 メルクリウスという超越者の手により練り上げられた魂の加護。

 その護りを、あろうことか慣れという、理屈にもなっていない理由で以て。

 不条理だろう。道理に合わない。信じてきた絶対を打ち砕かれて、ヴィルヘルムは瞠目するしか対処がなく。

 

「これまでノリが悪くてすまなかったな。ここからが面白いぞ」

 

 そんなヴィルヘルムに向けて、バフラヴァーンは獰猛に、されど朗らかに笑いかけた。

 まるで友へと向けるように。親愛の情さえ抱いてヴィルヘルムへと話しかけている。

 

「一応、言い訳をさせてもらうとだ。俺は決して手を抜いていたわけじゃない。

 俺はいつだって全力だ。誰が相手だろうと、対峙したのなら尋常に臨むと決めてるし、そうやって生きると俺自身に課したんだよ。

 そうしなければ分からなくなるだろう。果たしてどちらが強いのか、余分なものが混じると結論まで曖昧になってしまう」

 

 『戒律』という法則(ルール)がある。

 それは遠い、途方もないほど遠い昔、宇宙がこの形になる前の更に更に前の宇宙にあった法。

 善と悪とに分かたれた二元論。誰もが“真我(アヴェスター)”に縛られた世界にあって、己はこうだと天上に向かって謳い上げるもの。

 自身の行動、生き様に縛りを設け、その対価として異能の力を得るという。それは力の代償であり、自身の存在を証明する矜持でもある。

 

 バフラヴァーンが定めた戒律の名は『殲くし滅ぼす無尽の暴窮(ハザフ・ルマ)』。

 縛りは出遭った総ての者と全力で戦うこと。対価は体力・持久力が消耗しない永久機関となること。

 ヴィルヘルムの勘違いの原因はそこにある。いくら吸ったところでバフラヴァーンの生命力は無尽蔵。加えて彼は飽くなき闘志によって、戦闘中にもどんどん強くなっていく。

 故に、吸精されながら衰えず、強くなっていくという異常が起きた。何ら裏など無い、バフラヴァーンはただ全力で戦っていただけである。

 

「ようやくお前に追いつけた。さあ、ここからが本当の殺し合いだ」

 

 闘争とは、それ即ち互いの命の奪い合い。

 命と誇りの重みに懸けて、全身全霊で臨んでこその価値がある。

 だというのに、これまではその土俵に自分だけが上がれなかった。殺せるのは向こうだけで、こちらが殺すためには強さが足りない。

 なんともつまらない思いをさせてしまったと、心苦しく思う気持ちは紛れもない本心だ。その自責の念すら覚醒のための起爆剤に変えられる闘争生物。

 

「おいどうした。まさか怖気づいたんじゃあるまい。

 ノれる奴なんだろう。俺が限界を超えてみせたんだから、お前だって俺の予想を超えてみろ。

 簡単には死ぬないいや死ねぇ!俺が殺すんだから死なねば嘘だ。そんな不愉快な事態を招いたお前には、俺の愉しみになって償う義務がある!」

 

 後半につれ支離滅裂となっていく言動は、それだけ興が乗っている証明だろう。

 元より口喧しく理屈を述べるなんて性に合わない。必要なのは互いの闘志と殺意のみで、言葉なんて不要なのだ。

 それこそ闘争。それでこその修羅場だろう。戦いの魅力に憑かれ、もはやその概念の権化といっても過言ではない男は、漲る闘争心でもってそう告げる。

 

「カハ――」

 

 そんな男と対峙するヴィルヘルムもまた、その同類。

 彼らは共に修羅の徒。相手の存在を認め、愛すればこそ壊さずにはいられない。

 不条理だからどうした。理屈なんぞどうでもいい。己の無敵を脅かす許されざる敵、すべきことなど初めから決まっていた。

 

「ボケが、いきなりラリってんじゃねえよ。

 俺を()るだぁ?俺に勝てるのは“あの人”だけなんだよォ!」

 

 暴発する鬼気の放流。その流れに身を任せ、放たれるのは血杭の掃射。

 その数も、速度も、威力も、先までのそれを大きく凌駕する。理性を蒸発させた獣性のまま、人器融合型としての真価を発揮する。

 降り注ぐ杭の豪雨と対峙して、バフラヴァーンは一歩も退かない。踏み留まり、両拳のラッシュによって総てを叩き落していく。

 

「夜の俺は不死身だ。この地上で唯一無二の吸血鬼なんだよ。そんな俺を殺せると思うなぁァッ!」

 

「知らんな。そもそも吸血鬼ってなんだ?」

 

「あァん?ったくものを知らねえ野郎だぜ」

 

 杭と拳。互いの持てる暴力をぶつけ合わせ、目の前の敵を滅ぼそうとしながらに彼らは語らう。

 まるでそれこそが、言葉よりも雄弁にものを語る手段だというように。両者とも向ける殺意は減らすことなく、殺し合いの中での対話を成立させていた。

 

「忌々しい陽の光に見切りをつけた夜の不死鳥。箱を這い出し、闇の中で有象無象どもの血肉を啜る。そういうもんだと、俺は俺を知ったんだ。

 何処ぞの誰かの設定拾った眷属(パクリ)じゃねえ。こういう生き様を俺自身で見つけた俺は真祖(オリジン)だ。

 だから俺は死なねぇ。何があろうが世界が変わろうが、何時までだって俺は不滅だ。邪魔な奴らもそうでないのも吸い殺して、無限に拡がっていくんだよ」

 

 最底辺の生まれであるヴィルヘルムに教育を受けた記憶はない。

 当然、ブラム・ストーカーの小説など読む機会はなく、それに類似する知識とて持ち合わせることはなかった。

 日光から逃れるために箱の中で隠れ潜み、夜になってから自身の食い扶持を探して回る。そんな幼少期の体験が、やがて彼に一つの答えを導き出させた。

 己は夜に住まう者。太陽という世界の半分と見切りをつけ、月光の下に捕食する狩人。吸血鬼という呼び名こそ後付けではあるものの、確かにそれは彼自身のオリジナル。

 

 救いがないと言われた。その生き方は畜生のもので、人が行くべき道ではないと。

 ああ、それがどうしたよ?道が健全ならみんなが褒めてくれるって?いらねえんだよそんなもん。

 俺は壊す。邪魔なもんがあったならぶっ殺して排除する。それしか選べねえし他を選ぼうとも思わねえ。

 つまりはそれが一番性に合ってるって話。言ったように俺はこういう生き物だから、それを前向きに受け取って生きているだけなんだと。

 

 ヴィルヘルム・エーレンブルグこそ吸血鬼。業のままに喰らい、膨れ上がる覇道を体現する不死不滅(メトシェラ)だった。

 

「なるほど。それがお前にとっての“最強”か」

 

 そうしてヴィルヘルムが語った言葉を、バフラヴァーンは彼なりの価値観で呑み込んだ。

 要は幻想、偶像の類いであると。自分がこう在りたいというイメージに型を当て嵌め、信じる強さの概念を体現している。

 

 それを指して軟弱だと非難する気は、バフラヴァーンには無い。

 己にとっては性に合わずとも、そういう強さもある事は経験上知っている。

 偶像に懸ける祈りでもって力を成すのは“白”の連中の常套手段。みんなの祈りを動力にして駆動する決戦兵器とも言い換えられる。

 たとえば、ある星にて信仰されていた御神体。その名は民間で広く浸透し、脅威に対しての救いの祈りの受け皿として機能した。

 結果、神体は祈りの化身となって、みんなを護る守護者として剣を振るった。星の意思体ともまた異なる、祈りの象徴たるみんなの“勇者”。

 

 それらは実に強かった。

 “白”の強者とは往々にしてその性質を持つ。ならばバフラヴァーンに対戦経験が無いわけがなく。

 己を愉しませるのならそれは強敵(とも)。自分とは違うから認めないなんて狭量な器ではない。

 祈りの方向が他人だろうが自分だろうが大差はあるまい。どちらも同じ、信じている祈りの力が“最強”を形取っているのだから。

 

 戦う相手は強ければ強いほどいい。極論、それ以外は何も要らないとも言える。

 如何に友誼を示そうと、結局のところ彼は殺すのだ。総ての命を鏖しにするまで『殲くし滅ぼす無尽の暴窮(ハザフ・ルマ)』に終わりはない。

 

「ならば俺は、最強(ソレ)に勝たねばならん」

 

 無限に溢れる戦気のままに、バフラヴァーンは我執の拳を振るう。

 その二つ名を暴窮飛蝗アエーシュマ。絶滅の荒野を征く戦狂い、あらゆる命を貪り喰らう絶対悪だった。

 

 

 

 

 魔女と殺人姫。

 少女の形をした二つの災厄。呑み込まれた学園は惨劇の坩堝へと落とされた。

 

 教員、生徒たちに逃げ場はない。

 図らずも仕掛けられた暗示によって、その選択肢は思考から除外されている。

 結果、具現するのは阿鼻叫喚の堂々巡り。理性と尊厳を崩されながら逃げ惑う哀れな虜囚たちの姿がそこにあった。

 

 魔女ルサルカが扱うのは拷問器具。 

 回転する車輪。針に鎖、それに毒物。一見しただけでは用途が分からない奇形な小道具まで、その他にも様々な。

 これら全てが、人間に苦痛を与えるために創造されたもの。一つ一つがルサルカにとっての聖遺物であり、またそうでないとも言える。

 聖遺物の名を『血の伯爵夫人(エリザベート・バートリー)』。悪名高き殺人貴族が獄中にて書き記した拷問の記録本こそが本体。

 彼女が蒐集し、犠牲者たちに試した多種多様の拷問について網羅された血塗られし呪書。その記録情報を媒介にして、ルサルカは様々な拷問器具を召喚し操っている。

 

 器具に刻まれた鮮血の歴史は、常人なら直視するだけで正気をかき乱される。

 囚われれば末路は悲惨。拷問の苦痛の中で嬲り殺しとなる結末が確定する。

 彼らは皆、学友同士。互いに知り合う間柄の、そんな有り様を見せられてまともでいられるわけがない。

 恐怖は伝播し、尚も加速して止まらない。惨劇を演出するルサルカは、まさしく魔女の業の面目躍如といったところか。

 

 では、今この場における最大の恐怖が彼女かと言えば、そこははっきり否だと告げよう。

 

 殺人姫フレデリカ。

 彼女が殺しに用いているのは、とても凶器とは呼べないものばかりだった。

 例えば鉛筆やボールペン、鋏やカッター、時には教科書の類いまで。どれもその場で調達した日常の備品である。

 殺人鬼という人種は得物に頓着しない。効率や武術の如何、そういった発想が存在しないのだ。

 彼らにとって殺人とは生体活動の一環だから。鳥が飛び方を考えないのと同じ理屈で、工夫や研鑽の必要性を認めていない。

 だからこそ凶器にも、日常に即した物品こそをよく使う。およそ殺人行為とは結びつかない道具の数々、それらはフレデリカが手にした瞬間、世にもおぞましき殺人凶器に変貌するのだ。

 

 ルサルカの殺人は、あくまで巻き添えの結果に過ぎない。

 拷問器具が標的としているのはフレデリカで、生徒らの死はそこに巻き込まれたが故の哀れな犠牲である。

 対し、フレデリカの殺人は能動的なもの。彼女の姿を目にした者は例外なく、彼女自身が手ずから殺して回っていた。

 天真爛漫な姿のまま、あたかも天使を思わせる邪気の無さで、どんな拷問よりも凄惨な死を創り上げていく。

 その存在が耐え難い。まともな感性では想像し得ない絶対悪、理性の世界を冒涜する異形がそこにはあった。

 中には発狂の末、拷問器具に自ら飛び込む者まで。器具はあくまで人の手によるものだから、理解が及ぶ死にざまの方がまだ救いもある。

 

 理解不能な存在にこそ、人は真の恐怖を抱く。この場の者たちにとって、フレデリカこそ恐怖の権化に他ならない。

 

 とはいえルサルカからしてみれば、それは自ら隙を晒しているようなもの。

 如何に冒涜的だろうと、それだけで臆するほど魔女の魂はか弱くない。

 フレデリカを襲った拷問器具。それらはただの一度も外れることなく、無垢で可憐な少女のカタチを執拗なまでに蹂躙した。

 

「まあお姉様。横やりだなんて上品とは言えませんよ?」

 

 だが死なない。

 轢き潰されて、刺し貫かれて、引き裂かれて、体内に毒液を流し込まれても。

 まったくの無傷。場違いな天真爛漫さは相変わらず、ふりまく笑顔に陰りは微塵も見られない。

 

 攻撃を通さず、無力化しているのではなかった。

 ルサルカの攻撃は確かにフレデリカを損壊させている。飛び散る血と臓物はただの人間のそれと変わらない。

 だが次の瞬間には再生を果たしていた。破れた衣類なども一緒に、どんな損壊からでも元の状態へと復活してしまう。

 その速度も尋常ではない。刃を通しても、斬れた端から即座につながり、傍目には通り抜けていったと錯覚してしまうほどの超速再生。

 果たして痛みはどうなっているのか。少なくとも、フレデリカ自身に痛痒を受けた様子はなく、今も屈託のない笑みをルサルカへと向けていた。

 

「ですけど、それはわたしもですか。目移りしてばかりで申し訳ありません。堪え性の無い性分でして、こればっかりはどうにも。

 けれど、ええ。今のお相手はお姉様なのですから、ちゃんとそのように応じなければなりませんよね」

 

 そう言って、その手に持った凶器を振りかざして、フレデリカは踊るように駆けだした。

 今度の手にあるものは、ある意味で凶器とも呼べるだろう。生徒の誰かの所持品だったらしい金属バット。

 舞うように華麗なステップを踏みながら、振り下ろされた硬質の一打がルサルカを打ち据える。

 

「あら?」

 

 そして当然の結果として、バットはルサルカの身に弾かれる。

 現代のあらゆる兵器でさえ受け付けない聖遺物の護り。たかが金属の塊程度で貫けるなら苦労はない。

 ルサルカにとってもそれは当然の認識。むしろこの後にどうしてくるのか、警戒しながら相手の出方を窺っていた。

 

 フレデリカは動かない。

 表情からは笑みが消え、虚空のような眼差しが手にある凶器に向いている。

 やがてそれにも興味が失せたのか、呆気なく金属バットを手放して新たな凶器へと手を伸ばす。

 

 フレデリカが取ったのは、黒板だった。

 何気なしに、本当に何ということもない仕草のまま、長く大きな長方形の物体を軽々と持ち上げる。

 どんな怪力の持ち主でもそうはなるまい。まるで紙きれでも扱うような、それを見た目華奢な少女がやっているという異常。

 

「わたしが殺そうとしてるのですから、ちゃんと死なないと駄目ですよ?」

 

 そう言って振るわれた一閃を、明確な危機意識をもってルサルカは跳び退いて回避した。

 

 警戒は怪力に対してではない。あれくらいの真似ならば自分にだって出来る。

 今更人外の膂力程度では驚くには値しない。ルサルカの戦慄は、それとは別の脅威に向けられたもの。

 理屈ではない。本能が感じ取った脅威である。あんなものでいくら殴られたって効くわけがない。そう考えていても、直感でそれは違うと断じた。

 きっと、まともに受けていたらこの命にだって届いていた。それこそ、ただの人間がやられるのと同じように。

 

 我力、と呼ばれる概念(ちから)がある。

 読んで字のごとく、我を通して貫く力。つまりは意志力による世界の改竄。

 ある意味、黒円卓の永劫破壊(エイヴィヒカイト)とも同種の力だといえる。彼らが生み出す異法もまた、彼ら自身の渇望より生じているのだから。

 

 フレデリカの我力は、透明な殺意だ。

 単に強度だけで問うのならバフラヴァーンの方が上。

 しかしこれは種別が違う。猛り狂う闘志も、相手を貶める悪意も、彼女の内には無い。

 ただ純粋に、自分は人を殺すものだという常識があるだけだ。疑問に思う余地すらない事実であり、ならばこそ罷り通らないのはおかしい。

 よって自然の道理としてそれを正す。それを妨げる法則(ルール)なんて知らない見えない聞こえない。わたしが無いと思っているのだから、それは何処にも無いのだと。

 フレデリカの殺意は聖遺物の護りを突破する。強い力で壊すのではなく、透過して護りの先にある命へと届かせてしまうのだ。

 

「なかなかおやりになりますね、お姉様。ではこちらも少々、趣向を凝らすといたしましょう」

 

 彼女の殺人に理由はいらない。

 発せられる感情の全てが殺意の奇形。怒りも喜びも哀しみも、どれもこれも空虚ながらんどう。

 信念なんて見せかけだけの虚装に過ぎない。故に、まるで季節毎の衣替えのような感覚で脱ぎ捨ててしまえる。

 

虚装戒律(パランギーナ)――――」

 

 それは使い捨ての戒律。

 虚ろなる殺人鬼の魂だけが可能とする虚構の生き様である。

 例えば、盲目となる代わりに攻撃が必中する。例えば、脚での移動の一切を禁じる代わりに高速での飛翔を可能にする。

 その場その場で、都合の良い見返りだけを求める縛り。戒めと言うのも烏滸がましい欺瞞の力が、ここにその猛威を――――

 

「あら、あらあら?」

 

 発揮、しなかった。

 空虚な誓いは何処にも届かず、空しく響いてそれで終わり。

 虚ろな中身そのままに、何の効果も及ぼさない無意味なものとして消えたのだ。

 

 不思議そうに首を傾げるフレデリカ。だがそれは何てことはない、考えれば当然とも言える結論である。

 

 戒律とは、神が与える力の取り引き。

 己が人生の一部を差し出すことを神へと宣誓し、承認を得る事で異能としての形を得る。

 今は亡き宇宙の法。当然、それを聞き届けるべき真我(カミ)もここにはいない。

 生涯を懸けて貫き通した確固たる誓約ならばともかく、空虚な誓いにもたらされる力など何処にも無いのだ。

 

「どうしたことでしょう。どうして上手くいかないんでしょうか?」

 

 そんな当たり前の結論に、しかしフレデリカは辿り着くことが出来ない。

 頭がいい悪いの問題ではない。空虚な心には、物事は総じて取るに足らないものだから。

 真剣に何かへ取り組んだ覚えなど無い。そもそも真剣という言葉自体が実感できない。

 不死身である殺人鬼にとって、命とは自他共に軽いもの。恐怖の感情が端から欠落している。

 信念さえ欺瞞に満ちた在り方は浮遊していた。自身の危機に際しても、彼女は浮ついたままで変われない。

 

「ねえお姉様。これはどういうことなんでしょうか?よろしければ教えてくださいまし――――」

 

「……はあ。もういいわ」

 

 今も場違いに尋ねてくるフレデリカの言葉を遮って、ルサルカは嘆息した。

 その顔には疲労の色が見て取れる。肉体的なものではなく、精神的な疲労である。

 

「わたしだってこの半世紀で結構な数を殺ってきたつもりだったけど、こういうのと同じに見られるのはなんだかなーって思っちゃうわ、ホント。

 やっぱり見るに堪えないわ。狂った獣なんて相手にするもんじゃないわね」

 

 ルサルカは魔女である。数多の非道に手を染めてきた生粋の魔性である。

 しかし狂人ではない。人道を外れはしても、人としての価値観まで壊れているわけではなかった。

 殺人による魂の収奪は肯定するし、殺しの際に悦楽に浸ることも否定しない。元より聖遺物とはそういう性質を持っているし、魔女たる自分にとって殺しは甘味だ。

 

 しかし殺人鬼ではない。何の意味もなく、こうまで破綻した所業を繰り返すケダモノと一緒にされるのは不本意だった。

 

「ねえ。どうして今まで、あなたにこたえなかったか分かる?」

 

 初めてルサルカの方からフレデリカに声をかける。

 初めて、そう初めてだ。ここまでただの一度も、ルサルカはフレデリカの言葉に応える事をしなかった。

 相手はそれでも勝手に喋っていたが、ともかくコミュニケーションの一切を拒絶してきたといっていい。

 

「あなたに関心を持たれたくなかったからよ。どうせあなたたちみたいな人種って、何を言ったって殺しに繋げちゃうでしょう。

 変に興味を持たれたってロクなことになりゃしないわよ。だからこの際、人間性については全部無視してきたわ」

 

 ルサルカは知っている。

 倫理も常識もまともに機能していない狂獣にとって、好意も敵意も同じもの。

 所詮、貪ることしか知らない。たとえ窮地にあったとしても、絶対に助けを求めてはならない手合いである。

 

「で、あくまで能力を見た上での結論だけど」

 

 そういう存在だと知識の上で理解すればこそ、ルサルカは冷静に対処できる。

 人物について考える必要はない。どうせ伽藍の中身に意味なんてほとんど無く、考慮すべきは敵としての戦力だろう。

 

 透明な攻撃性もそうだが、やはり際立つのはその不死性。

 およそ試せる手段は試してみたが、一切が無力に終わったのは異常の一言。すり抜けたとか耐え抜いたとかではなく、すべて受け切った上で再生したというのが異質すぎる。

 あれは恐らく、不死身という概念そのもの。何が起ころうとも絶対に死なないという法則(ルール)の具現。

 能力の詳細は分からないが、ともかくそういうものだと理解する。そう容易く破れるものではないとも。

 

 相手は少女の姿をした狂獣。

 こちらの攻撃はどれも通じず、向こうはこちらを殺し得る。

 そんな自らの現状を把握して、魔女ルサルカ・シュヴェーゲリンは結論をくだした。

 

「安心したわ。あなたとは相性がよさそう」

 

 ルサルカの言葉を聞きながらフレデリカは動かない。いいや、動けなかった。

 足元に伸びるルサルカの影。それに触れた途端、一切の動きを封じられていた。

 

「影踏み遊びはご存知?」

 

 己の影に触れた者を停止させる。それがルサルカの異能。

 その渇望は他人の足を引っ張りたい。前へと進んでいく者の足を止めて、自分と同じ場所に落ちてほしい。

 地を這う魔女としての卑しき祈り。恵まれない生涯だからこその願いのカタチを、しかしルサルカは誇る。

 妬みや恨み、数多の悪感情を一身に受けて、果てに名乗るのが魔女の称号。

 泥に塗れた女だとは百も承知。綺麗な祈りを、邪まな願いで穢してこそ本懐である。

 

 相手を止める。ただそれのみの効果はシンプルで、故に強力。

 また範囲が限定的だからこそ応用も効きやすい。元より本物の魔術師であるルサルカは、選べる手段の多さこそ真骨頂。

 

 むしろ獲物の拘束に特化しているからこそ、その後の“愉しみ”が捗るというものだろう。

 

「あなた本人に興味は全然ないけど、あなたの能力は魅力的よ。

 それをわたしのものに出来るだなんてすっごい楽しみ。繰り返すけど、相性がよくて本当によかった。

 ベイやヴァルキュリアならきっとあなたを殺せなかった。わたしだからこそ出来るのよ」

 

 変化が生じたのは、ルサルカの足元から。

 影が、まるで泥のようにせり上がってくる。ただの影絵ではない、確かな肉感、質量を伴ったものとして。

 ギチギチと刃が擦るような異音をたてて、闇より這い出るのは影と血と歴史の集合体。無数の拷問器を合成させて創造された異形の怪物。

 シンプル故に創造(ルール)への味付けを可能とするのも、魔術師であるルサルカならばこそ。魔女の歩みの集大成、その牙がフレデリカへと向けられる。

 

Briah(創造)――――Csejte Ungarn Nachtzehrer(拷問城の食人影)

 

 怪物を構成するもので、中心となった素体の名は鉄の処女(アイアンメイデン)

 その残酷性の有名度は拷問器具の代表格ともいえる。棺桶に閉ざした者を無数の針で貫き、生き血を滴らせて酷死させるという性質は、変貌させられた今でも何ら変わらない。

 

 大口を開けた怪物の顎が、動けないフレデリカを貪り喰らい、少女の血肉を影の底へと引き摺り込んだ。

 

 

 

 

 死闘を繰り広げる肉体の内で、変化が起きていた。

 それは胎動。脈打ち、粟立ち、今か今かと解放の時を待っている。

 

 心象世界、といっていいのだろうか。

 物理的にはあり得ない空間。魂が霊視させる虚構ならざる精神世界。

 ヴィルヘルム・エーレンブルグの中身。命を喰らい魂を啜る鬼の胎とは、その評価を違えることなく血染めの狂気に満ちている。

 

 彼の夜に相応しい、そこはまさしく薔薇園だった。

 見渡せる限りに敷き詰められた深紅の花弁。それらに養分として行き渡るのは、噴水から噴き出る血の水流。

 まさしくそれは、鮮血を吸って育つ血染花。その正体は、彼が今までに喰らってきた他者の魂。ヴィルヘルムという大輪の薔薇を彩る色素たちだ。

 

 そんな庭園で唯一人、一心不乱に薔薇の手入れに精を出す女性の姿がある。

 

 聖遺物とは、呪われし臓物である。

 数多の血と畏怖を浴びたことで、呪物は独自の意思さえ持つに至る。ただの道具で甘んじることを良しとせず、理想の相手を自ら探し求めるのだ。

 それは効率的な餌の供給源にして、自らを咲き誇らせてくれる至高の伴侶。要は気難し屋の女のように、気に入った相手にしか靡かない。

 その点、聖遺物との相性において、黒円卓中でもヴィルヘルムは最高だった。闇の賜物は彼を愛し、彼を咲き誇らせて、彼の魂を貪りたいと願っている。

 

 わたしを愛して、わたしを見てよ、わたしがいればいいじゃない。

 その情動を言い表すならそんなところ。よって聖遺物(かのじょ)がその姿を形取ったのも必然といえる。

 ヘルガ・エーレンブルグ。ヴィルヘルムの母にして姉。彼を愛して、彼に喰われた最初の女。魂の記憶より写し取ったその姿が、聖遺物の意思の代弁者としてそこにある。

 

「キャハハハハハハハハハハハハ――――!!」

 

 女は笑っていた。

 彼がわたしを求めている。もっと、もっと寄越せと訴えている。

 冥利に尽きるというものだろう。わたしは彼を愛しているから、彼にいくらでも与えられる。

 彼を彩る血染花となりたいのだ。故に彼へと捧げる贄として、次々と庭に咲く薔薇どもを貪っていく。

 

 それは狂母の愛。

 彼女は与える。望まれるまま、ある限りを際限なく、自分自身さえも例外ではなく。

 我が身を捧げることさえ至上の幸福と謳うのは、それが一つの完成といえるからだ。

 愛する者の糧として一つとなれば、もう決して離れない。相手が如何様に変わろうとも、その関係は不変なまま、置いていかれる心配はなくなるのだ。

 愛した相手に自分の存在を縛り付けたい。唯一無二の共方向となり、永遠の絆を結びたいのだ。

 故に、無二の相関を誓った男と女の間に、割って入る他人など許されない。

 

「――――許さない。よくも、よくもォッ!

 わたしのヴィルヘルムに、手をあげたなぁぁぁぁァァッ!!」

 

 今ここに、愛しい男を勝利へと導くために、魔血の咆哮が響き渡った。

 

 

 

 

Wo war ich schon(かつて何処かで そして)einmal und war so selig(これほど幸福だったことがあるだろうか)

 Wie du warst! (あなたは素晴らしい)Wie du bist!( 掛け値なしに素晴らしい)

 Das weiß niemand,(しかしそれは誰も知らず ) das ahnt keiner!(また誰も気付かない)

 

 呪言が紡がれる。

 それは世界を犯す唄。ヴィルヘルム・エーレンブルグの抱く渇望が異法となって顕現していく。

 

Ich war ein Bub', (幼い私は)

 da hab' ich die noch nicht gekannt.(まだあなたを知らなかった) 

 Wer bin denn ich?(いったい私は誰なのだろう)

 Wie komm' denn ich zu ihr?(いったいどうして)

 Wie kommt denn sie zu mir?(私はあなたの許に来たのだろう)

 

 既にこの場は薔薇の夜。

 創造のルールは元より敷かれ、更に重ねて仕掛けるその意味とは?

 それは自己の変質。既存の自分を超えて、新たな領域へと至る進化の誓いだった。

 

Wär' ich kein Mann,(もし私が騎士にあるまじき者ならば)die Sinne möchten mir vergeh'n.(このまま死んでしまいたい)

 Das ist ein seliger Augenblick,(何よりも幸福なこの瞬間)

 den will ich nie(私は死しても ) vergessen bis an meinen Tod.(決して忘れはしないだろうから)

 

 認めよう、この敵は難物だ。

 今のままの己では足りない。業腹だが受け入れる。

 だが、それで膝を屈するほど殊勝でも惰弱でもない。勝てぬのなら、勝てる自分へと変貌しろ。

 変われないのなら、そんなものは時代と共に淘汰される過去の遺物。最先端で、最新鋭で在り続けるのだ。

 未来に勝る過去なんて存在しない。常に己を変革させられる強者こそが自分たちだと信じているから。

 

Sophie, Welken Sie(ゆえに恋人よ 枯れ落ちろ)

 Show a Corpse(死骸を晒せ)

 

 そのためにも、もっと血を寄越せ。

 この俺を咲き誇らせろ。不滅の薔薇の糧となれ。

 なあ賜物(ヘルガ)よ。お前の愛に応えてやるよ。

 

Briah(創造)――――Der Rosenkavalier Schwarzwald(死森の薔薇騎士)

 

 ここに闇の詠唱は完了し、ヴィルヘルム・エーレンブルグは新生を果たしていた。

 

「これは……?」

 

 そして対峙するバフラヴァーンは、その変化を奇妙だと受け取った。

 強くなること。それはいい。むしろ望むところだといった具合で、文句をつけようとは思わない。

 これが力や圧が強くなるといった分かり易い変化なら、特に何も思わなかったはず。

 

 バフラヴァーンが疑念を持ったのは、弱くなったと感じたから。

 昼の空を覆った朱い月夜。その闇の色が薄まっている。

 それを証明するように、身にのし掛かる吸精の効果も薄まっていた。闘いにも密接に関わる感覚を、他ならぬバフラヴァーンが読み間違えるはずもなく。

 

「まさか諦めたわけじゃあるまい。どういうことだ?」

 

 昼の光と夜の闇が混じり合う、中庸の空の名を白夜。

 白と黒が交錯する灰色の境界線。分け隔てた二つの世界が共存する魔法の時間(マジック・アワー)

 そんな空の色を怪訝な表情で見ながら、バフラヴァーンは率直な疑問を投げかけた。

 

「教えてやるわけねーだろタコ。テメエで受けて感じろやァッ!」

 

 疑問に対する返答は、血杭を生やした凶拳の一撃。

 大気を震わし唸りをあげて、ヴィルヘルムの一打がバフラヴァーンに炸裂する。

 

「ムゥッ!?」

 

 巌の面貌に表れた驚愕は、バフラヴァーンの予想を上回った証。

 

 その威力。その重さ。

 明らかにこれまでの比ではない。意思の如何だけでやれる覚醒を、軽く四、五段階は飛ばしている。

 そして強化されたのは、単純な性能面ばかりではない。敵の力を奪い、己の糧とする吸精の能力。それもまた劇的な飛躍を遂げていた。

 

 ヴィルヘルム・エーレンブルグの薔薇の夜。

 この世界は戦争を前提にしている。何十人、何百人と巻き込んで、纏めて殺す大量殺戮兵器。

 一対多数。それこそが薔薇の夜の前提だ。絡めとられた者は命を奪われるのみならずヴィルヘルムの糧とされる。

 敵が多ければ多いほどに自己強化を果たす異能。こと乱戦においては無類の強さを発揮するだろう。

 

 しかしその反面、一対一という状況では真価を発揮するとは言い難い。

 夜という形で殺意を全周囲へと拡散させている以上、特定の誰かに殺意を絞るというのが不得手である。

 とかく創造位階となれば本能のみでの戦いとなる。それが悪手だと分かっていても、根本にある思想が剥き出しになってしまうのだ。

 己以外は総て敵。他人など信じるには値しない捕食対象に過ぎず、その価値観故の薔薇の夜。

 

 よって練り直すならば戦術ではなく、この夜そのもの。

 簡単な所業ではないだろう。半世紀に渡りこの形として在り続けた己の渇望の具現。

 状況次第で容易く変えられるのなら、そんなものは信念なんて呼べやしない。殺人鬼の虚装と同じく、欺瞞だらけの紛い物に落ちるだろう。

 だが言ったように、環境に適応し、進化してこその強者。己にとっての芯は曲げず、その上で新たなるカタチを獲得するのだ。

 

 夜に無敵の吸血鬼になりたい。

 その渇望は覇道だが、同時に求道としての側面も孕んでいる。

 自分がこう在りたいという願望。故にヴィルヘルムの創造には自他影響の特性と共に、自己変質の特性が多分に備わっていた。

 そして新生した薔薇の夜は、より求道の特性に比重を置いたものだといっていい。夜そのものは薄める代わり、自身という闇の深さをより濃くする。

 

 戦争用から、決闘用に。

 結果、空間内への影響力は激減し、閉ざした夜に外の光が染み出て白夜の空となっている。

 創造範囲内に取り込んだ者を問答無用で吸精する効果も弱まり、杭群を生やすことも今までのようには出来ないだろう。

 だがその分、自己強化の度合は比較にならぬほどはね上がっている。攻撃の多角性が無くなったといえるが、それもさしたる問題ではない。

 この相手は逃げない。雑多な攻撃など意味はなく、ならば真っ向からの最大威力をぶつけてやることが最善手。

 

 己の拳でぶん殴る。これに勝る暴力の発露なんてありはしないのだから。

 

「堪えてねえとは言わせねえ。オラ、このまま逝っとけやアァァァッ!!」

 

 新生した薔薇の夜。ヘルガからの狂愛。

 二つの要素による超強化。その牙は闘神をも凌駕する。

 如何にバフラヴァーンが成長しようと、ヴィルヘルムはそれを奪い、己の糧にして強くなってみせよう。

 成長と略奪。二つの要素に揺れていた勝負の天秤。それは再びヴィルヘルムの方へと傾いていた。

 

 そうして劣勢に立たされた渦中で、バフラヴァーンは考える。

 勝負の流れは敏感に察している。ことに歴戦という土俵にあって、バフラヴァーンに勝る者はまずいない。

 このままいけば己は敗ける。そう予感しているし、そこにつまらぬ疑心を抱いてもいなかった。

 

 その上で、仮にも戦いの最中にバフラヴァーンが考えるのは、目の前の相手のことではなかった。

 

 別に、敗北を予感したからと、それで怯むような彼ではない。

 むしろそんな事態こそを歓迎している。生粋の戦狂いたる男は、いつだって得難い強敵を求めているから。

 敗北を感じさせるほどの相手なら、その強さを褒め称えつつ、漲らせた無限大の闘志を以て上回ってみせればいいだけ。

 それでこそ純闘争生物(バフラヴァーン)。何も思い悩むことはない。彼にとってはごく自然な、当たり前の行動に過ぎず、いつもの通り心の赴くままにやればいいはず。

 

 にも関わらず、その闘志の点火に待ったをかけるのは、ある一つの疑問。

 ああ、そもそもどうして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 第三魔王バフラヴァーン。

 その来歴は、千八百年にも及ぶ一心不乱の闘争行。

 一時足りとも休まず強くなり続けた彼の拳は()()()()()。物体だろうが、概念だろうが、委細構わず打ち砕く最強の我力。

 もはや強さのスケールが違っている。そんな彼が、こんなちっぽけな街一つの、更にその一角での戦いに収まっているのは何故か。

 

 直感ではあるが、当たりはついている。

 これは思うに、ノリを合わせろということだろう。

 郷に入っては郷に従え。こちらはこういう舞台なのだから、そちらも相応しい標準規格を身に着けろと。

 今のバフラヴァーンは、まるで陸にあがった深海魚だ。本来、その生態は環境にまったく適応していない。

 一級以下の魔将であれば、恐らく息をすることも儘なるまい。崩界の影響なども重なり、結果として今のパワーバランスが出来上がっている。

 

 ああ、実際のところ、そう不満があるわけでもなかった。

 深海魚に例えたが、別に息苦しさがあるわけじゃない。彼自身の感覚では、そう違和感なくやれている。

 戦いに関しても概ね満足で、ともすれば感謝してもいい。そう思っていたのだが。

 

「俺は“最強”に拘っているはずなのに、こうも納得してしまっているのはおかしくないか?」

 

 そう、考えてみればそれはおかしい。

 本来あったはずの力が振るえない。自らの預かり知らぬ所で強さの規制を受けている。

 強さとは、それまで辿ってきた道の証明。成長と共に獲得してきた最強への道筋だ。

 そんな大切な勲章に、勝手に制限をかけられて憤らないはずがない。怒りを抱くのが自然な場面で、自分の反応は筋が通らない。

 

 ああ、おかしいというのなら、今の自分こそそうだ。

 戦いの最中に、何をあれこれと考えている?こんなのはまったくらしくない。

 何であろうが、ぶつかり戦いそして勝つ。理屈など知らぬ、この拳と闘志があれば全てが事足りる。

 それがバフラヴァーンという男。宇宙にその名を轟かせた暴窮飛蝗。己はそういうものであったはず。

 

 そう、これはまるで、自分ではない他の誰かの姿をなぞっているかのような――――

 

 

 

 

「むう」

 

 暗黒の中で、どこか危機感に欠けた声が響く。

 閉ざされた鉄の処女(アイアンメイデン)。血塗られた棺桶の中にフレデリカは囚われていた。

 

 鉄の内部に備え付けられた何本もの釘が犠牲者を刺し貫く仕組み。

 決して即死はしない。身の毛もよだつ苦痛と共に、じわじわと失血死に至らせるのだ。

 扉が閉じれば悲鳴も外には届かない。光も射さない闇の中、ましてこれは魔女の業による改造品。

 責め苦の残虐性は原典の比ではあるまい。常人の精神ならとうに狂い果てていただろう。

 

「困りましたねぇ。動けません」

 

 そんな中でも、まるで堪えた様子が見えないのは流石というべきか。

 彼女は不死身。如何なる辛苦をもってしても、フレデリカを曇らせることはかなわない。

 

 とはいえ封じられた現状、打つ手が無いのも事実。

 殺人鬼を制するにあたり、最も有効とされる一つが封印術。殺しても死なないのなら、動けなくしてやればよい。

 破壊力や殺傷性よりも、停止・束縛という属性に極振りしているルサルカの影は覿面の相性といっていい。

 

「こんな時、バフラヴァーンお兄様なら……」

 

 封じられる中でフレデリカが思い返すのは、同じ“黒”の魔王(きょうだい)のこと。

 

 第三魔王バフラヴァーン。

 闘争の権化たる彼ならば、封印されようが力ずくで破ってみせるだろう。

 彼は成長の怪物。窮地と苦難は、約束された覚醒への導き故に。今の自分を飛躍させ、限界突破を果たすのは火を見るよりも明らかだ。

 

 しかしながら、そんな兄のやり方を踏襲するのは、フレデリカには無理な話である。

 彼女は空虚な殺人鬼故に。虚ろな信念しか持ち合わせない種の共通項として、覚醒などの要素とは致命的に相性が悪い。

 意志の力で飛躍を果たすのは真剣であるからだ。いい加減な心持ちで覚醒など望めるはずもなく、出来たとしてもそれは単なる素養だろう。

 ただ、出来ることが出来ただけ。現状で無理ならばどうやっても無理であり、総じて爆発力に欠けるのだ。

 

 元よりフレデリカには強さに対する執着が無い。

 彼女にとっての重大事とは殺人行為のみ。星を一刀両断できる我力があろうと、些末なこと。

 むしろ人間以外の命を無闇矢鱈と手に掛けるのは殺人鬼の矜持(ルール)に反する。やり方に沿わない強さなんて邪魔なだけだ。

 大事なのは、好みに合うかということ。鍛練や修行といったものにもとんと縁がない。現状の自身の力の規制にもほとんど実感がわいていなかった。

 

「どうしましょうか。冴えた一手というのも思いつきませんし、結局は力ずくということになるんでしょうけど」

 

 そう、必要なのは情熱の火。

 伽藍の殻を破り、その心の赴くままに燃え拡がる爆発が求められる。

 それは空虚な殺人鬼では決して手に入らないもの。フレデリカ自身、重々承知の上であるはずだったが。

 ()()()()()()()()()、何故か理屈を超えた先で叫んでいる思いもまたあって。

 

 空虚なこの胸を満たすもの、わたしにとっての情熱の答えとは、一体何だったか――――

 

 

 

 

 そうして黒の魔王たる二柱は、その答えへと行きついた。

 

 笑みが、噴きこぼれた。

 そこにあるのは歓喜と興奮。抑えられない感情が図らず表に出てしまっている。

 

 ほんの一時だけとはいえ、失念していたのが信じられない。

 何故ならあの瞬間こそが生涯の最高地点。見果てぬ道の先で辿り着いた楽園だと確信している。

 答えを知った。熱を知った。何よりも凄絶な生き様に魅せられて、己という存在が意味を持った瞬間なのだと自負していた。

 それを無かったことにされるなんて、耐え難いし許せない。何人であれ、神であれ、我が理想を穢すのならば断固抗うし粉砕してみせよう。

 

 両者、至ったまったく同じ答えに、黒の兄妹は大いに笑っていた。

 

 ならば、さあ。いつまでもみっともない様ではいられない。

 我らは人形にあらず。定まらない価値観の中で揺蕩う木偶ではない。

 確固たる己自身の何たるかを見定めて、この天地にしかと両の脚をつけて立ち上がるのだ。

 

「黒でも白でもない。俺にとっての“不変”をここに謳いあげよう――――」

 

「黒でも白でもない。わたしにとっての“不変”をここに謳いましょう――――」

 

 

 

 

 そしてここに、修羅たちの饗宴から取り残されてしまった女が一人。

 

 諏訪原市内でも最大の規模を誇る総合病院。

 本城と、一族の姓を冠しているのは、そのまま彼らの所有物であることを意味している。

 元より医療関連の事業によって発展を遂げた諏訪原。その分野の利潤を握る者が、即ち権力をも握ることになるのは道理であり。

 

 同時に事が起きれば何の意味も無くなるだろう、この場所の背景などを考えながら。

 打ちひしがれた、という表現がぴったり当て嵌まる姿で、リザ・ブレンナーは独り佇んでいた。

 

「無様よね……こうも蚊帳の外だなんて」

 

 そう、ここの来歴と同様に、自分の存在に意味なんてない。

 黄金の獣という天上の意思にとって、地に住まう人の思惑など塵にも等しい。

 分かっていたことだったが、改めて思い知る。前提から何まで覆った舞台、自分程度では何かを洞察するなんて土台無理な話。

 

 ただ分かるのは――――どうやら自分の願いは叶いそうにないということだけ。

 

「もう少しくらい、取り乱すと思ってたんだけど……」

 

 半世紀を懸けた悲願、他人を殺して回ってまで取り戻したと思ったもの。

 それらが全て無為となったのに、こうまで落ち着いているのはどういうわけか。

 

 強がってるわけじゃない。そんな意地はとうに枯れはてた。

 願いに懸けた思いは断じて軽くない。そこだけはなけなしのプライドにかけて反論しよう。

 そこを不純にしたら、取り戻したと願ったものの価値まで下げることになる。それだけは決して認めることは出来ないから。

 

 愛する私の子供たち。私が殺してしまった子供たち。

 大切だった。大切だったのだ。愛していたし慈しんでいた。そこに嘘は誓ってない。

 私は愚かで、それを全て浪費してしまったけれど。だからこそ気付いたのなら、取り戻すために走らなければならない。

 黄金錬成。不死創造。ラインハルトの提示した幻想に、脇目も振らずに飛び付いたのは否定しようのない事実であり。

 

 ああ、つまるところ、これも自らが招いたツケということか。

 所詮は打算。恩恵だけを賜りたいという下世話な思考。そんな考えが精神を腐らせたのか。

 ラインハルト・ハイドリヒは修羅の王。戦う者にとっての覇者。黄金の獣がもたらす奇跡が、自分のような者にそぐわないのは自明でしかない。

 

「本当に、今更すぎるわよね。そんなこと、初めから分かっていたはずでしょうに」

 

 見たくないものから目を背けて、時間だけが過ぎていった果てが、この結果。

 狂ってしまうべきなのか。怒って掛かるべきなのか。きっとどちらもリザ・ブレンナーには正しくて、そしてどちらも選べない。

 後悔の資格なんて無く、自業自得と言われればその通り。けれどそんな一言で納得することも出来ずに、ただただ懊悩を繰り返す。

 

 要は老いてしまったのだろう。願いを求めることも、狂って絶望することも、既に自分の中にそんな元気は無いというだけだ。

 

「嫌よね、ほんと。歳は取りたくないわ」

 

 リザは自嘲する。何の意味もない自責の念を。

 よくシュピーネが言っていた。創造位階なんて代物は狂人の業だと。

 ならば未だに形成位階に留まっている自分たちは、常人の範疇にいる。

 思うに、人が人を超えて生きていくには、ベクトルが必要なのだ。何か一つの“不変”を抱いて、突き進むしか超人への道はない。

 時と場合によって右往左往、状況に流されるような不確かさでは、きっと自らの強度に耐え切れず自壊してしまうのだろう。

 

 惑わない強さが欲しい。

 そんなことを思ったのは一度や二度じゃない。自分のような風見鶏には、喉から手が出るほど欲しいもの。

 それでいて、実際に手を伸ばせば尻込みしてしまう。決して後戻りがきかない在り方に、それでいいのかと迷いが生じてしまうのだ。

 そこを踏み越えるか否か、きっとそれこそが超人と人間を分ける境目。半世紀あっても越えられないのなら、それが自分だと諦めもつくというもの。

 

「ああ、そういえば、もうすぐ誕生日(クリスマス)なんじゃない」

 

 そして超人ならざるリザ・ブレンナーは思い至る。

 自分にとっては娘のような存在。産まれた時から面倒を見て、世話をし育て、そして最期には生贄に捧げる。

 まさしく偽善と葛藤の象徴で、あらゆる意味で忘れられるはずのない“あの子”。ああ、そのはずなのに。

 

 何故か、■■■■の顔も名前も思い出せないことに、今の今まで気が付かなかったなんて。

 

 何たる愚鈍、呆れるほどの薄情ぶりだと、自責するのは簡単だ。

 しかし此度のこれは、流石に度が過ぎているだろう。自分の問題ではなく、外から何らかの手が加えられているとみるべきだ。

 前提から覆った、カール・クラフトのいない舞台。ならばきっと、異なっている部分は他にもある。

 

「ねえ、カイン。あなたは――――」

 

 そうしてリザが目を向けたのは、己の傍らに侍る巨漢の屍だった。

 聖槍十三騎士団第二位トバルカイン。この生ける屍こそ、リザ・ブレンナーの武器にして兵器。

 偽槍に魅入られ呪われた一族。その集合体ともいっていい屍は、リザに運用されるのを前提としている。

 死体操作。それがリザの持つ異能。この物言わぬ哀れな屍は、それ故にリザの操り人形として使い尽くされる宿命(さだめ)にある。

 

 そのはずだったが、しかしそれだけで割り切れないのがリザ・ブレンナーという女。

 物言わぬ屍体。もはや意識なんて残っていないだろう“彼”。あるいはそこに、自分でも気付けていない何かがあるのではと当たりをつけて。

 

 何かをしようとした刹那、床を鳴らす脚の音を聞いていた。

 

 音の出所は背後。小さい音は、しかし静寂の中ではよく響いた。

 聞き間違いではない。それが意味するところは、自分以外の何者かの存在が現れたこと。

 気配もなく、仮にも魔人であるリザに悟らせずに背後を取る。常人にできることではない。

 警戒を抱きつつ、ごく自然な反応として、後ろにいる何者かへとリザは振り返った。

 

 そこで彼女は、とても■しいものを見た。

 

「――――ッッ!!??」

 

 声が出ない。息がつまり、動悸は荒く波打っている。

 それは衝撃から。攻撃を受けたわけではない。自分はただ、その姿を目撃しただけ。

 そう、たったそれだけのことなのに。これほどまでに揺さぶられ、取り乱している。諦観の中で弛緩していた心が一気に叩き起こされた。

 “これ”が一体何なのか、詳細なんてリザには分からない。言える事はたった一つだけ、はっきりと断言できる事がある。

 

 ――――この存在は、毒だと。

 

「ふむ」

 

 そんな、何気なく漏らした呟きの一つにさえ、途方もない危険が孕んでいた。

 重ねていうが攻撃ではない。恐らくは向こうにそんな意図は露ほども無いのだろう。

 だって、これは“善”なる者だから。清く正しい聖者の如き御方であり、悪性なんて持ち合わせない。

 それは理屈を超えた真理。言葉なんていらない。ただ彼の魅せる■が、総てを雄弁に語っていた。

 

 だからこそ言える。これは在ってはいけないものだと。

 清く澄み切った真水の中では魚は住めない。良薬の類いとて、過ぎれば毒へと転じるのだ。

 この存在の■と比較すれば、それこそこの世の全部が汚濁に堕ちる。彼の■しさと比した自らの醜悪ぶりに死にたくなる。

 森羅万象を隔絶する絶世の■。とても人が耐えられるものではない。あらゆる醜さをかき消して拡がっていく光なのだと理解する。

 

 しかして、いったいリザ・ブレンナーに何が出来るというのか。

 魔人としての力?物理をはね返す霊的防御?そんなものが何の役に立つ?

 トバルカインをけしかける、なんて選択肢はあげることさえ不可能だ。

 人は、あまりに■しい存在を目の当たりにした時、そこに畏敬の念を抱く。感動に打ち震える心が全ての活動を停止してしまうのだ。

 ならば神域と称するべき■を前に、遍く人々は膝を折って平伏する以外の道はあり得まい。

 

 認めてはならない。

 この存在を■しいと、頷いてしまえば全てが終わる。

 リザ・ブレンナーの人間性。その一切は無価値となり、忘却の彼方へと追いやられてしまうだろう。

 

 そんな相手の視線、それのみでも罪業の一切を浄化して祝福を授ける神気を宿した彼の眼差しが、リザの方を向いた。

 

 脇目も振らずに駆け出した。

 走る。走る。少しでも遠くに、この相手から離れなければ。

 ともすれば屈してしまいそうになる心に渇を入れて、差し迫った危機感から逃れるように。

 

 そんなリザの行動を無駄な足掻きと嘆くように、その存在は言葉を紡ごうとしていた。

 

 ああ駄目だお願いやめて。

 大切なものなんです。こんな私に残ったちっぽけな、だけど失ってはならない証なの。

 お前は醜いと、色んな人たちに言われてきた。確かにそれはその通りで、けれど醜い者にも醜いなりの意地がある。

 取るに足らないと思えるかもしれないけどどうか、どうか私からそれを奪わないで――――

 

「その有り様は“美しく”あるまい」

 

 リザの切実な懇願は、聞き届けられることはなく。

 それも当然。彼は元よりそのような存在。人に斯くあるべしと覇を吐き出す理の化身。

 たとえ善性でも悪性でも、地を這う人々には大差ない。まかり間違っても人らしい情緒など期待してはならないのだ。

 超越したベクトル。右へ左へと惑う常人の意思では、その意向の絶対値に抗えない。

 それは不変なる真理故に。不純の一切を交えぬ色彩を以て、己の中の理想を世界へ拡げる者。

 

 栄光、希望、輝ける光輪(クワルナフ)。あるいは破滅工房、第一魔王と。

 称する名は数あれど、その存在を形容するのならただただ()()()

 善も悪もない。ひたすらに美しいものに闘争など無用。ただそのように在ればいいのだと。

 ラインハルトを表現するのが“破壊”ならば、彼という存在を表すのは“美”。不浄なる世界を洗い流し、調和の楽土を築き上げる救済者だから。

 

 ――――ここに、リザ・ブレンナーは敗北した。

 

 

 

 

 




最初は黒円卓勢のターン。
パワーバランスについては意見が違う人もいるとは思いますが、なるたけ納得してもらえるよう描写を入れていくつもりです。

聖遺物の霊的防御について。
正直、格の違いだけでも突破されそうな気もしますが。
せっかくの設定がそれだと勿体ないと思うので、少し個性を入れてみました。

バフラヴァーン:慣れ
フレデリカ:殺意
クワルナフ:そもそも攻撃する意味がない

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