君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆── 作:キビタキ
桜並木をかすかな月明かりが照らしている。
肌寒さを取り戻しつつある学院の中で、何もかもを忘れさせてくれるほど鮮やかな光景。昼間の麗らかさとは打って変わり、夜桜は妖しい魅力を放っていた。
桜の花は不思議な魅力を持っている。これほどまで国民的に浸透し、支持されている花は他に無いだろう。
その美しさにあやかり、名前に"サクラ"を冠するウマ娘が何人もいるほど、馴染み深い存在だ。
桜の木が植えられていない学校や公園は無いと言っていい。卒業式、そして入学式といえば、真っ先に桜の花を思い浮かべる人も多いだろう。
当然、トレセン学院の広大な敷地にもたくさんの桜の木が植えられていて、大勢の目を楽しませてくれている。
だが、決して良いことばかりではないようにも思う。
(これだけ植えてたら掃除も大変だろうな…)
桜の花びらがちらほらと散り始めている。掃除の時間になれば、ほうきで花びらを掃く生徒や職員の姿が見られるだろう。
しかも、予報によると明後日は本格的な雨らしい。散り始めの桜が雨に打たれれば、一気に寂しい姿へと様変わりしてしまうはずだ。
(見頃は明日までか…そういえば、明日高架下でライブだっけ)
潔く散っていく花びらに、なぜかファル子の姿が重なって見えたような気がした。
選抜レースは日が沈んでからもしばらく続いた。数十回にも及ぶレースが続けざまに行われたのだ。目を離せるタイミングも少なく、終始張り詰めた空気にさらされ続けたことで、疲労感が凄まじい。
何とか数人の生徒と会う約束を取り付けたが、正直その娘たちのことはあまり印象に残っていない。彼女たちに話しかけたのは、半ば滑り止め感覚だったかもしれない。
ファル子との一件からずっと浮足立っていた。彼女のことが気がかり過ぎて、それ以降のレースはほとんど上の空だった。漫然とレースを眺め、ひたすら集中力を欠き、真剣に向き合えなかった。
これではもう、トレーナーとして失格だ。
全てのレースが終わったのは、空一面が完全に夜の色に染まってからだった。
数時間にも及んだそれは、あくまでトレーナーからの視点。生徒たちにとっては、ほんの数分の出来事。
たった一度のレースで決まる明暗。練習、努力、才能、運、たとえ人生の全てを凝縮して挑んでも、望んだ結果が得られる保証はない。最悪の結果であろうと、それは一瞬のうちに終わってしまう。さながら散り際の桜のように、儚く、無情のものに思えてならなかった。
(ファル子、今頃どうしてるだろう…)
人気のない桜並木の下をとぼとぼと歩く。
あの時からずっと喪失感が渦巻いて、何をするにも動きが緩慢になっていた。
選抜レース終了後、ファル子に会えないかと、食堂や生徒寮の近くをうろついた。
同じタイミングで、一般客や忘れ物が残っていないかの巡回が行われていたので、その職員に声をかけられてしまった。顔もまだ知られていない新人だから仕方ないとは思ったが、トレーナーバッジを身に着けていなかったら、本当に不審者扱いされていたかもしれない。
いよいよ生徒寮の門限が近づき、ファル子が思い詰めて何か起こしていないだろうかと不安に駆られた。念のため、寮長に彼女の所在を問い合わせてみたところ、既に自室に戻っているとのことだった。
全くの杞憂。安堵したことよりも、独り相撲をとっていた自分がただ空しく思えた。
あらゆることに打ちひしがれた心境で今、重い足取りのままトレーナー寮へと向かっていた。
その時、前方からジャージ姿の男性が歩いてきた。
「どうした? 今にも死にそうな顔して」
すれ違いざま、俺を不意に呼び止めた聞き覚えのある声。
どうやらとてつもなく暗い顔をしているらしい。
「初めての選抜レースどうだった? 結構疲れたろ」
わずかな街灯に照らされて、そこには頼りがいのある大先輩の顔。
「お疲れ様です。丸一日レースを見るとへとへとになりますね…」
「慣れないうちはそんなものさ。お疲れのとこあれだが、ちょっと話でもしていくか。君が良ければだが」
「いいんですか…?」
「死にそうな声して」と言われるかもしれないか細い声が漏れた。
正直に言えば嬉しい。「俺なんかのために」とは、さすがに付け加えなかったが、声をかけてくれたこと自体が願ってもいないことだった。
一人ではどうすることもできない倦怠感も、誰かと話せば少しは紛れるかもしれない。
「気にしなくていい。新人を気にかけるのも先輩の役目なんだから」
鳥林さんは気さくにそう言うと、俺の肩をぽんと叩いた。
次いで、連れていかれるように近くの自販機までやって来た。
「コーヒーはホットで構わないか?」
「いえ…冷たいのがあれば」
特にこだわりは無かったが、喉の乾きが本能的にそちらを選択させた。
「そうか、アイス派だったか」
心なしか寂しそうな声を響かせて、おもむろに小銭を投入する。
がこんと音が鳴った場所からそれをひょいと拾い上げると、労いの言葉と共に差し出してくれる。
「今日はご苦労様」
「ありがとうございます…」
手渡されたそれは適度に冷たく、炎症を起こした心を癒やしてくれるような気がした。
「それじゃ、私もたまにはアイスにするかな」
ホット派の気まぐれに驚いたのか、さっきよりも少しだけ大きな音が辺りに鳴り響いた。
すぐ近く、というか自販機の隣に設置されたベンチに二人して腰を下ろす。じっとしていると意外に寒さが身に染みる。アイスを選んだのは失敗だっただろうか。
生徒たちの門限を過ぎた学院内はただただ静かで、光が漏れる校舎の窓もほんのわずかだ。他に光を放っているものといえば、夜空に浮かぶ天体、街灯、自販機くらいである。
「意中の娘はスマートファルコンだったんだな」
缶コーヒーの蓋がぱかっと開く音がする。
何も言わず驚く顔をした俺に、トレーナー長は構わず語りかけてくる。
「選抜レースの日、君たちは生徒を見るのが仕事だが、私はトレーナーを見るのが仕事だ。特に新人には目を光らせてるつもりだ。もちろん…悪い意味ではなくてな」
言い終えて、冷たいそれに口をつける。
「何もかもお見通しなんですね」
「まぁ、あんな目立つところで盛大にどやされてたら、さすがにな」
いかにも意地悪そうにほくそ笑む先輩に、ただ苦笑いしながら視線を落とすことしかできなかった。
「恥ずかしいところをお見せしました…」
「いや、そんなことはないさ。言いたいことはいつでも言えて、ぶつかり合えるくらいがちょうどいい」
大先輩はまた缶コーヒーを口に運ぶ。
一方、俺のそれは、まるで親鳥が卵を温めるかのごとく両手で抱え込まれ、日の目を見ない。
「あの娘は難しいぞ」
厳かな声でぽつり、どこか遠くを見つめながら鳥林さんは言った。
「スマートファルコンのことは、君ら新人以外は皆知ってる。今まで何人も説得を試みたが、結局その決意を覆すことはできなかった」
「そういう過去があったんですか…」
彼女の「他の人と同じことを言うんだね」という嘆きが、鮮明に想起されると同時に心を締めつける。
手元のそれは相変わらず、無機質な冷たさをじんわりと伝え続けてくる。
「誰もあの娘に鉛の靴を履かせたくはないんだがな…」
三度、缶コーヒーを口にして、まじまじとそのパッケージを見つめる。
「…たまには冷たいのもいいものだな」
さっと立ち上がると、空になったそれを缶専用のゴミ箱へと放り込む。
その合間に、俺はようやく蓋を開けて最初の一口を流し込んだ。乾き切った喉が心地良く潤う。少しだけぬるく感じた微糖のそれは、絶妙な苦さと甘さを口の中に広げる。
「どうすれば彼女を導いてあげられるでしょうか…」
鳥林さんが再び隣に腰掛ける。
「さぁな…あの娘が芝にこだわる理由が分かれば、もしかしたらそれが糸口になるかもしれないが…逆に三行半になるかもしれない。それがあの娘にとって譲れない夢ならな」
ファル子が芝にこだわる理由、それはまだ明確には分かっていない。ただ、彼女ははっきり言った。ダートではトップウマドルになれないと。その真意はどこにあるのだろう。芝とダートの違い、そこにヒントが隠されているのだろうか。
「彼女には何か走りたいレースがあるわけではないみたいです。ただ、自分の夢を叶えるためにダートでは駄目だと…」
「そうか。それなら難しいかもしれない…だが、もしダートで走れば…きっと化けるだろうな、あの娘は」
「ええ。俺もそう思います」
砂塵舞う茶色の大地を駆け抜ける強靭な脚力。あの娘はダートを走るために生まれきた。そんな気さえするのだ。
(ダートで走るファル子は、きっと誰よりも…)
そんな姿を思い浮かべながら、残りのコーヒーを一気に飲み干した。
「それとだ。一つ気になったんだが…」
「…?」
「スマートファルコンの前のレースに出てた白毛の新入生。あの娘に話しかけにいったみたいだが、何か感じたのか?」
一瞬何のことか思い出せず、記憶の海を模索する。
確かにそんな娘がいた。ふわふわとした印象の、不可解な走りをしていた少女。
「えっと、その…最終直線の尻尾の動きに不自然さを感じたんです。よく見たら、手足と連動していないみたいで…なんというか、一見すると全力疾走なのに、わざと力を抑えているように見えました。何か理由があるのかなと、そう思って話しかけにいったんです」
とつとつとした拙い説明を、鳥林さんは腕を組みながら静かに聞き入っていた。
わざわざそのことを尋ねてきたということは、何か知っているに違いない。
「彼女の走りの理由を知ってるんですか?」
どうしても知りたくて、それは自然と口をついていた。
「…あの娘はちょっと特別でな。どんなバ場でも、どんな距離でも走れるんだ」
「それって本当ですか…?」
思わず耳を疑った。
それはつまり適性の壁が無いということだ。芝とダートの両刀使いが少なからず存在しているバ場適性はともかく、距離適性というのは全てのウマ娘に向き不向きという形で、時に重くのしかかる。
鉛の靴と無縁のウマ娘なんて、これまで一度も聞いたことがない。
「私も詳しいことまでは分からないが、それが尻尾の動きと関係してるらしい」
(尻尾の動かし方一つでそんなことが…?)
とても信じられない話だった。
もしその能力をファル子に分けてくれたら…そんなことを思ってしまう。
というか、そんな凄い娘がいたのなら入学前から騒がれていそうなものだが…。彼女の前評判は無きに等しく、無名な新人の一人だったはずだ。それとも、あくまで"走れる"というのは最低限レベルのことであって、逆に突出したものが無く、意外に器用貧乏ということなのだろうか。
あごに手を当てて考え込む俺に、トレーナー長の精悍な視線が向けられる。
「何にしても、あれに気が付くとはな…さすが理事長の推しトレーナーといったところか」
昨日も同じことを言われたような気がする。
「あの、前も気になってたんですが、その推しっていうのは一体何なんですか?」
その問いに、鳥林さんはやはり意地悪そうに微笑んだ。
「理事長のお気に入りって意味だな。まぁ、そのうち分かる、そのうちな」
「はぁ…」
理事長に気に入られているというのは悪くないが、その理由が分からないのは不気味だ。あんな破天荒な人に注目されるというのも、それなりに危うい気がしないでもない。
「理事長のご期待に沿えたら良いんですけどね…」
「なぁに、君ならできるさ。そういえば知ってるか? 理事長の帽子に乗っかってる、あの八割れ猫なんだが、実は…」
「え、本当ですか…?」
そんな他愛のない会話が、夜の静寂を拭い去るように、もうしばらくだけ続いた。
◆
目の前には、ただ白いだけの天井が広がっていた。
(そういえば夕食も食べてなかったな…)
空腹感すら感じないほど忙しい一日だった。
自室に帰ってくるなり、何も食べず、シャワーも浴びず、ただ大の字に寝転んでいた。そう、本当に色々なことがあったのだ。
天井を空白の手帳に見立てて、今日あったことを思い出していく。
午前には身体テストが、午後には選抜レースが行われた。
今朝のうちに鳥林さんからその説明を受けて、桐生院さんからはトレーナー白書の大事な部分を少しだけ教えてもらった。トレーナーは担当ウマ娘の夢を背負う存在であることを、強く認識することになった。
身体テストで、ファル子は素晴らしい脚力を見せてくれた。ただ、芝の上では全く力を出せなくなってしまうことを知った。
彼女がウマドルを目指す理由を聞くこともできた。レースとライブ、両方に全力を尽くすその姿に感動したからだという。サイレンススズカへ向けていた眼差しは、そんな憧れに満ちていた。
そして、ついに迎えた選抜レース。結果は振るわず十着。芝は彼女に容赦なく鉛の靴を履かせたのだ。ターフの上では素質を活かすことはできない。そう確信した俺は、不用意にも彼女にとってのタブーを口にしてしまい、大きく傷つけてしまった…。
それから彼女には会えずじまいだ。
(どうしてファル子は芝のレースにこだわるんだろう…)
並々ならぬ芝への思いが、彼女を固く縛っていた。
残念ながら、適性の壁は相当に厚く、簡単に越えられるものではない。その証拠に、彼女の芝のタイムは入学時から全くといっていいほど向上していなかった。
しかし、ダートのタイムは良くなっている。脚力が着実に成長しているからだろう。砂の上ならば、彼女はきっと活躍できる。
三年後には、URAファイナルズという光明もある。適性に縛られ、出たいレースに出られないウマ娘がいる現状を憂慮し、秋川理事長が提唱した新レース。
そこにはもちろん、ダートレースも含まれているはずだ。
(そういえば、理事長の記者会見って今日だったんだよな)
URAファイナルズ開催を宣言する記者会見は、今日の午後に行われる予定だった。ちょうど選抜レースに忙殺されていた時間帯だ。
完全に忘却していたし、先日の入学式で既に大まかなことを知っていたので、トレーナー間でもことさら話題に上がることはなかった。
ポケットからスマホを取り出し、UmaTubeのURA公式チャンネルから記者会見の動画を再生する。
入学式の時と何ら変わらない、威風堂々とした振る舞いと豪胆さ。まるでデジャヴだ。
内容自体は先日のものとほとんど同じだったが、違うのは記者からの質問があったことだ。画面には映らない女性記者から、あるひとつの質問が投げかけられた。
『「全ての距離」、「全てのコース」を用意すると仰られましたが、具体的にはどういったレースを想定しておられますか?』
『解答ッ! まだ未確定ではあるが、《芝》は距離別の四種類で「短距離」、「マイル」、「中距離」、「長距離」。そして《ダート》の「短距離」「マイル兼中距離」。以上の六つを考えている』
(ダートは二種類だけか…)
納得いかないわけではない。いたって妥当と言える内訳だろう。
国内ではそもそもダートレース自体が下火である。それゆえ、芝とダートには格の差というか、一線が引かれているのは紛れもない事実だった。
人気でいえばダートは確実に一段劣る。URA管轄のG1ダートレースがたったの二つしかないことが、それを如実に表している。
距離別に見ても、そもそも存在しない長距離は考えなくていいが、短距離とマイルを中心として、それらが全体の九割近くを占めている。URA管轄でいえば、中距離の重賞ダートレースは年に一つあるかないかだ。だからこそ、「短距離」と「マイル兼中距離」の二種類なのだろう。
もし、ダートがもっと人気であれば、中距離の重賞ダートレースが豊富なローカル・シリーズの現状を汲んで、ダートの「中距離」が明確に分離して含まれていたはずだ。
「ダートじゃトップウマドルになれない」、その一言がずっと引っかかっていた。
そして、彼女はこうも言っていた。ウマドルとは、レースとライブ、その両方できらきら輝き、皆に希望を与える存在なのだと。
となれば、より多くの人に自分を見てもらいたいと思うのは当然のこと。もしかしたら、この芝とダートの格差に思うところがあるのかもしれない。
スマホの画面を消し、再び白一面の天井を見やる。
明日の高架下ライブで、彼女の真意を確かめられるだろうか…。
(でも…ライブに来てくれるのか…? もしかしたら俺のせいで来ないんじゃないか…?)
表情が曇っていくのが自分でも分かる。
いや、思い悩んだって仕方がない。明日約束通り彼女に会いにいくだけだ。
嫌なことを振り払うよう勢いよく体を起こし、音が鳴るくらい強く両頬を平手打ちする。ひりひりとした痛みが、弱気な自分をにべもなく追い払う。
視線の先には、白いテーブルの上にぽつりと置かれた、ファル子お手製のフライヤーがあった。
お疲れ様でした。
第3話は今回で終了です。
次回から(ほぼ)ずっとファル子ちゃんのターン!(の予定)
2021/09/27:誤字修正