君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆── 作:キビタキ
【第2話】始まりの日 ①追憶と三女神像
…
……
………
朝だ。
目覚まし時計の音が聞こえる。俺を眠りから起こさんとするけたたましい騒音。
それを左手で叩き、目をこすりながら飛び起きる。枕の側に置いていたスマホに目をやると、そこには目覚まし時計と同じ時刻が表示されていた。
「よし…」
両頬をパチンと叩く。今日から憧れの仕事が始まろうとしていた。
『トレーナー』、それはウマ娘を活躍させるために教育や指導、管理などを行う者。もう少し夢がある言い方をすれば、彼女たちと苦楽を共にし、その目標を達成するために全力を尽くす者。
きっかけは子供の頃の出来事だった。
そう、幼かったあの日、テレビ画面に映し出される光景に、心を奪われたのを覚えている。
そっと目を閉じ、思い出す。
(…凄い…!)
一面に広がる青々とした芝。それを取り囲むように建つ大きな建物と、たくさんの人たち。
芝の上には、派手やかな衣装に身を包む何人もの女の子。皆、逆立つ耳と長い尻尾を生やしている。そういう女の子を普段見かけないわけではなかったけれど、こんなにも着飾って、しかもたくさん集まっているのは初めて見た。
テレビからは男の人の声が聞こえてくる。女の子たちについて話しているみたいだけど、それはちょっと難しすぎてよく分からなかった。
しばらく見ていると、女の子たちが何かゲートのような物に入っていく。
一体何が始まるんだろう。初めて見るそれに、ワクワクが止まらなかった。
ほんのわずかな静けさ。
次の瞬間、一斉に飛び出す女の子たち。物凄い速さで駆け抜けていく。
分かった、これは競走なんだ。皆が一番を目指しているということだけは、すぐに理解できた。
相変わらず、聞こえてくるのは男の人の声。女の子の名前だろうか。聞いたことのない言葉を、しきりにしゃべっている。
気が付くと、先頭の女の子からビリを走る女の子まで、とてつもなく長い距離が開いていた。きっと、先頭を走っている女の子が一番速いに違いない。何の疑いもなくそう思った。
赤茶色の長い髪、同じ色の尻尾を大きく揺らして、他の皆を引っ張るように走っている。知らず知らずのうちに、その子を応援していた。
女の子たちは何度か大きなコーナーを曲がると、いつしか長い長い直線に差し掛かっていた。先頭はずっと変わらずあの子のままだ。
男の人の声が、徐々に熱く激しい物に変わっていく。女の子を見守るたくさんの人たちの声と、地面を力強く蹴り出す音も聞こえるようになった。
もうそろそろゴールなんだ。それだけははっきりと感じ取れた。
テレビは常に先頭のあの子を映している。さっきまでは他の女の子も後ろの方に映っていたのに、次第に見えなくなっていく。
不意に、テレビの動きが止まった。真っ先にテレビの外に消えていくあの子。後ろから他の女の子たちも続々と同じように駆け抜けていく。
かけっこで使うゴールテープみたいなものを想像していたけれど、そんなものはなく、真ん中に映る看板のような物がゴールの目印だったようだ。
男の人が同じ言葉を何度も何度も叫んでいた。それがきっとあの子の名前なのだろう。赤茶色の髪の女の子は、結局最初から最後まで先頭を走り抜けたのだった。
一番になったあの子が大きく映し出されている。にこやかに笑いながら、多分あそこにいるたくさんの人に向かって手を振っているようだ。もしテレビの中にいたら、喜んで手を振り返していただろうなと思った。
しばらくして、あの子のインタビューが始まった。満足げな表情、生き生きとした声。青色の目は、その笑顔と同じくらい輝いていた。そんな可愛らしい姿をずっと見たくて、テレビに食い入っていた。
ほどなくして、インタビューは終わってしまった。もうあの子を見れないのかと、ただただ寂しさを覚えた。
名残惜しくてテレビを消せずにいたけれど、これで終わりではなかった。
唐突に真っ黒に染まるテレビ。暗闇に浮かぶ、無数のカラフルな光。
突然、女の子たちがスポットライトに照らし出される。きらびやかなステージの真ん中に立っているのは、さっきの競走で一番になったあの子だ。
不思議な静けさの中、呪文のような言葉をそっとつぶやいたと思うと、大音量で音楽が流れ始める。あの子はそれに合わせて、華やかな歌とダンスを披露する。ウサギのようにぴんと立った耳を大きく揺らし、触り心地の良さそうな尻尾をたおやかになびかせる。
その姿に思わず釘付けになる。
眩しすぎる笑顔が、そこにはあった。
ただ、とにかく、素敵だった。
(あの娘に会ってみたい…)
ゆっくりと目を開く。
あの日から、俺はトレーナーを目指していた。恋も知らない子供が、それでも確かに恋い焦がれるような強い衝撃を感じたのだ。それはいつしか、憧れのような気持ちへと変わっていった。
ひたむきにゴールへと駆ける彼女たちの力になりたい。そして、いつかあの娘に会ってみたい。それが俺の夢になっていた。
スマホを手に取り、さっとベッドから降りる。今日は待ちに待った出勤初日。そんな大事な日に寝坊だけはまずいと、新品の目覚まし時計と、万が一に備えてその五分後にスマホのアラームという二段構えで眠りについたが、さすがに杞憂だったようだ。
その時、第二弾が手の中で大きな振動と音を奏でる。それを反射的に止めると、気持ち軽やかに仕事支度を始める。
(もうすぐスタートするんだな…)
ようやく、ついに、やっと訪れたこの瞬間。
テーブルの上に置かれたまっさらな三年手帳には、これから何が記されていくのだろう。高まる期待に気もそぞろになる。
顔を洗い、朝食を済ませ、服を着替える。これから毎日繰り返すであろう工程も、どこか上の空だった。
◆
四月の朝。昼間こそ春らしい暖かさを感じるようになってきたとはいえ、この時間の空気はまだひんやりとしている。自室を出た瞬間、顔を冷えた手で撫でられたように感じた。
ここはトレーナー寮の五階。だから風が強く吹いているのかもしれない。
動きやすい服装で出勤するよう通達されていたので、上下共に薄手のジャージを決め込んだものの、予想以上の寒さに少し不安になる。数秒迷ったが、動いていればその内温まるだろうと判断して、階段を足早に駆け下りる。
一階の出入り口からトレーナー寮を出て、真っ先に目に飛び込むそれを見上げる。その大きな建物こそ新天地。
日本ウマ娘トレーニングセンター学院、通称トレセン学院。URA(Uma-musume Racing Association(ウマ娘レーシング協会))が運営するウマ娘養成機関の最高峰で、国内外トップクラスのウマ娘が集い、在籍している。最速を夢見るウマ娘にとって、トレセン学院への進学は登竜門だ。そしてそれは、トレーナーにとっても同じ。ここにたどり着くまでの道のりは平坦ではなかった。
トレーナーとして働くには、URAが実施する試験に合格し、ライセンスを取得する必要がある。試験の合格率は決して高くない。少なくとも人並み以上の努力はしたと思う。何とかそれをパスして、更にトレセン学院の契約試験にも合格し、ようやくこの夢舞台に立つことを許された。
トレーナーの証であるトレーナーバッジが、胸元できらりと光る。それだけで誇らしげな気分になった。だが、ここはまだ単なる通過点に過ぎない。自分自身の夢を叶えるため、研鑽を積む日々がこれから始まるのだと思うと、否が応にも気合が入る。
俺は視線を前へと向け、新天地へと足を進めた。
新生活の門出に相応しい晴天。今日は初出勤日であると同時に、始業式を兼ねた入学式の日でもあった。
(ちょうど見頃だな…ここで花見とかしていいんだろうか)
学院内のそこかしこに桜の木が植えられている。満開のそれは、通りかかる者の目をごく自然に奪っていく。きっと新入生たちも、この桜のような晴れやかな期待に胸を膨らませていることだろう。
さっきまで感じていた肌寒さも、いつの間にか意識の外へ追いやられていた。
目的地に近づくにつれ、制服を着た生徒たちの姿をちらほら見かけ始める。トレーナーや職員と思しき人の数も増えていく。
そうして学院の中庭にある噴水へと差し掛かった時、何となしに歩みを遅めた。
そこにあったのは、ウマ娘の始祖とされ、彼女たちを導くと信じられてきた存在。
(これが三女神像か…思ってたより神秘的だな)
今にも止まりそうなほどゆっくりとした足取りで、その周りをぐるりと歩く。
円形をした小池の中央にたたずむそれは、生徒たちの健やかな成長を願って造られたという。見る者を優しく包み込むような柔らかな表情。肩に抱える水瓶からはこんこんと水が湧き出し、その清流の音は安らぎを感じさせる。
以前、契約試験で訪れた時にちらっとだけ見かけたが、間近で見るのは今日が初めてだった。
「おはようございます! 三女神像が気になるんですか?」
若い女性の声に呼び止められる。振り返ると、そこには見覚えのある姿があった。焦茶色のロングヘアに、キャビンアテンダントを彷彿とさせる緑色を基調とした服装。
俺は急いで記憶を掘り起こした。
「おはようございます。えっと…契約試験の時にお会いしましたよね?」
「はい。あの時はお疲れ様でした。試験合格おめでとうございます」
唐突な祝いの言葉に、慌てて会釈を返す。彼女は女神像のような笑みを浮かべた。
「私は駿川たづなと申します。理事長の秘書として、トレセン学院の総務課で働いています」
名前を聞くのはこれが初めてだった。
契約試験の際、彼女に学院内を案内してもらった記憶が思い出される。人事か総務か、そういう部署の人とは思っていたが、理事長秘書と聞いて少し驚いた。
「秘書さんだったんですね。試験の時はお世話になりました」
「いえ、こちらこそトレーナーの皆さんにはお世話になっています。皆さんの的確な導きがあってこそ、生徒たちは輝けます」
まだ誰一人として担当したことのない未経験の新人にかけるには、不相応な言葉だと思った。ただ、そんなトレーナーにならなければならないことは確かだ。
「そう…導きといえば…!」
何か思い出したように両手を合わせたと思うと、三女神像へと視線を向ける。
「この三女神像もウマ娘たちを導くと言われています。トゥインクル・シリーズを駆け抜けた歴代ウマ娘たちの想いが託されていて、その想いを受け取り力に変えるという儀式を毎年行っているんですよ」
まるで観光案内のような口ぶり。その見た目と合わさって、さながらバスガイドのようだ。
彼女は他にも女神像にまつわる逸話をいくつか紹介してくれた。そんな興味深い話に耳を傾けていると、その声が不意に申し訳なさそうなものに変わる。
「聞いてくださってありがとうございます。この前は時間が無くて、きちんとご紹介できなかったのものですから…」
契約試験の合間、彼女は見学と称して受験者たちに学院内を案内してくれた。その際、三女神像は割愛されてしまったのだが、それは時間が無かったというより、敷地が広大すぎて回りきれなかったというのが正しい。
ウマ娘のための学校なのだから当然といえば当然なのだが、校内は全てウマ娘基準で設計されている。トラックは実際のレース場と比べても遜色ない広さで、体育館、ジム、プールなども一般的なものより大きめに設計されている。
これに加え、ダンススタジオ、野外ステージ、図書室、食堂、更には生徒とトレーナーの寮まで完備し、それら各施設までの距離もそこそこある。つまり、そんじょそこらのテーマパークなどよりも遥かに広い敷地面積なのだ。
俯き加減の彼女を見て、とっさにフォローを入れた。
「とんでもないです。この学院を一度に見て回るなんて難しかったでしょうし」
「いえ、私も少し無計画過ぎました。将来有望なトレーナーさんたちを前にして、ついテンションが上がってしまって…」
「途中からかけっこみたいになってましたからね…」
時間が押していたのか、終わりの方が文字通り駆け足になっていたのは、さすがに苦笑いするしかない。しかも、当の本人は呼吸一つ乱さず平然としているのだから恐ろしい。
よくよく考えると、トレセン学院に勤める者として、体力の重要さを身を持って教えてくれたのかもしれない。
いや、ひょっとすると、あれも試験の一環だったのでは、とすら勘ぐってしまう。
照れ隠しなのか、彼女はこほんと咳払いした。
「あんなこともありましたけど、おかげさまで、今年も夢と希望にあふれる多くのトレーナーさんをお迎えすることができました。皆さんのご活躍を期待しています」
そしてまた、女神像のように微笑んだ。
「良い娘に巡り会ってくださいね」
「ええ。今からとても楽しみです」
俺はどんな娘を担当するのだろう。近い未来、もしかしたら今日にも出会うかもしれないその娘に思いを馳せると、心が弾んだ。
たづなさんの穏やかな声が響く。
「私の仕事は、夢に向かって駆ける生徒とトレーナーさんの力になることです。何かあったら、気軽に相談してくださいね」
言い終えると同時にお辞儀をする彼女。お礼の言葉を返すと、顔を上げてにこりと目を細める。
次いで、以前の見学を想起させる軽やかな足取りで校舎の中へと消えていった。
(何だか不思議な人だな…)
彼女の屈託のない笑顔に、ささやかな安らぎを覚えていた。
◆
たづなさんと別れて数分後、目的の場所であるトレーナー室へとたどり着いた。そこは教室三つ分くらいの広さで、所狭しとデスクやパソコンが並べられていた。一見するとオフィスのようにも見える。
入学式の直前だからか、何十人ものトレーナーが慌ただしく動き回っていた。
(あの人は見覚えあるな…)
その中にはテレビや雑誌で見たことのある顔もあった。重賞制覇のベテラントレーナーが、当然のことながらここには何人もいるはずだ。
トレーナーには二種類ある。
一つは、ウマ娘養成機関、ここでいえばトレセン学院と契約し、担当ウマ娘を受け持つことができる"専属トレーナー"。俺はこちらに当たる。
もう一つは、ウマ娘養成機関の職員として、まだスカウトされていないウマ娘たちの指導を行う"教官"。
一般的に、トレーナーとは前者のことを指す。トレセン学院には、それらをひっくるめて百人近いトレーナーが在籍しているそうだ。
また、例年でいえば、新人は十名くらい入るという話を聞いた。つまり、同僚になる人だけでも百人を優に超えるのだ。まずは名前を覚えることに苦労するかもしれない。
近くにいた人に初出勤であることを伝えると、パーテーションで仕切られた応接間のような場所に案内された。膝くらいの高さのテーブルを、四方から囲むように横長いソファーが置かれている。おそらく来客用のものだろう。
(先にもう誰か来てたのか…)
結構早く来たつもりだが、新人の中では二番目の到着だったらしい。既に一人の女性トレーナーが、こちらに背を向けて姿勢よく座っていた。どこに座ればいいか迷ったが、特に理由もなく彼女から見て右側面のソファーに座ることにした。
すると、次の瞬間、元気な挨拶が飛んできた。
「おはようございます!」
思いのほか大きな声にたじろいでしまったが、何とか挨拶を返してソファーに座る。無意識に距離を保とうとして、当初の思惑とは違う対面に腰を下ろしてしまった。
そんな俺の動揺を悟ったのか、彼女はおそるおそる問いかけてくる。
「突然すみません…私と同じ新人トレーナーさんですよね?」
その質問に肯定の返事をしつつ、彼女を真正面から見やる。ハーフアップにした紺色のショートボブに、白のシャツと黒のベスト。見た目はとても清楚で落ち着いた印象を受けるが、実際はもっと活発的な感じがする。
「私、桐生院葵と申します。どうぞ、よろしくお願いします」
「桐生院さん…?」
普通は聞かない珍しい名字。それが意味するものは一つだった。
「もしかして、名門トレーナーの?」
トレーナーを目指す者でその名を知らない者はいない。担当ウマ娘を何度となく勝利へと導いてきたトレーナーの名家。今でこそトレセン学院に一人も所属していないらしいが、それは更なる高みを目指すため、あえて海外へと活躍の場を求めたからだそうだ。
「はい。"一応"その一族の者です。でも、今はまだ新米です。何の実績もありませんし、普通に接していただければと思います」
"一応"と断っている辺り、謙虚さが垣間見える。とはいえ、その瞳には確かな自信が宿っているように感じられた。
そこに、三人目がやって来た。彼女はやはり元気な声で、挨拶と自己紹介の先制パンチを繰り出す。続々とやってくる他の新人トレーナーが皆、二つの意味で驚かされたのは言うまでもない。
当たり前の話だが、トレーナーは同僚であると同時に、ライバルでもある。たとえ同期であっても、いざレースが始まれば打ち負かすべき相手となる。そして、栄光を掴むことができるのはたった一組。
思わぬ好敵手の登場に、一層気が引き締まる思いがするのだった。
お疲れ様でした。
たづなさんと桐生院さんには、どちらもゲームで大変お世話になっています。
2021/09/08:誤字修正