君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆──   作:キビタキ

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主人公不在時の描写は三人称となります。


【第5話】泥だらけの夢 ⑤新芽と決意

 湿った空気が漂う駅構内。

 乗り換えのため、乗るべき電車がやって来るであろう三番線に向かう三人。時刻は午後九時を回っているが、門限には何とか間に合う計算だ。

 まだまだ宵の口なのか、駅を行き交う人々の波は衰えることを知らない。ここが国内有数の主要駅ということもあるだろうが。

 

「トレーナーさん、時間大丈夫そう?」

 

 先頭を歩く俺に届いたのは、明るく朗らかな少女の声。後ろをちらりとだけ見やる。

 

「ああ、ウマ娘の足ならトレセンまでお釣りが来るくらいだ」

 

 人混みに飲まれるように上りのエスカレーターに乗る。階段でも良かったが、足にまとわりつく疲労感がそちらを選択させた。

 真後ろにつけた少女は、今度は不安げな声を発する。

 

「ファル子たちじゃなくて、トレーナーさんが間に合うの?…ってことなんだけど」

 

 その言葉の意図が分からず、思わず首を傾げる。どういうことかと尋ねる前に、更にその後ろに立つ少女が口を開いた。

 

「もしかして先輩、事前申請してないの?」

 

 マスク越しの少しくぐもったその声は、先頭に立つこちらにも確かに届いた。

 

「うん、してないんだよね…トレーナーさんがいるし、大丈夫かと思ってたから」

 

 事前申請という言葉を聞いて、全てを理解した。

 トレセン学院の生徒たちには門限が定められている。午後十時がその時間なのだが、それは事前申請して許可を得ていた場合の話。通常は午後八時までで、それを過ぎる場合は事前申請を通しておくか、トレーナーや教員などトレセン関係者の同伴が必要となる。

 つまり、午後十時までにファル子と二人で駆け込めば問題はない。

 エスカレーターが途切れ、再び足を前へと動かす。

 

「確か最寄り駅到着が九時四十七分だから…」

 

 すなわちタイムリミットは十三分。ウマ娘の足なら余裕だが、人の足では…。

 

「ぎりぎりになりそうだ…」

 

 自分が招いたこととはいえ、思わぬ誤算に頭を抱える。

 

「な〜んだ☆ 間に合うんなら心配ないね。良かったらファル子が手引っ張ってあげるけど?」

 

 前向きというか楽観的というか、この明るさは才能のようにも思える。

 

「…手を引くのだけは勘弁な」

 

 もちろん、その提案だけは即座にお断りしておいた。見てはいないが、彼女は多分、俺の後ろでくすくすと笑っているのだろう。

 そうこうしているうちに、三番線へとたどり着いた。目的の電車が来るまで、まだ十分ほどある。

 

「ここまで来たらもういいかしら」

 

 朱色の髪の少女が独り言のようにささやいた。

 マスクを外し、帽子も折り畳んで、肩からかけたカバンにひょいとしまい込む。続き、結っていた髪をさっとほどくと、さらさらとした美しい一本一本が解き放たれ、彼女の頭の動きに合わせあでやかに波打つ。

 これまで窮屈そうにしていた反動か、つま先から両耳、果ては尻尾の先まで大きく伸ばし、ふうっとため息をつく。

 

「慣れないことはあまりしない方がいいわね…」

 

 朱色の髪を手櫛でときながら気品を漂わせる。それは見慣れたいつものスタイル。

 

「おおっ! やっぱりスズカちゃんはこうじゃないとね☆ さっきまで違和感ばりばりだったよ〜」

 

「まぁ、たまにはいいのかもしれないけどね。先輩は髪をほどいたりしないの?」

 

「う〜ん、ファル子はやっぱりツインテールがトレードマークだし…」

 

「結わない方が大人っぽくて素敵に見えるんじゃないかしら」

 

 その提案に、人差し指を頬に当てながら本気で考え込んでいる様子のファル子。

 

「そうなのかな…トレーナーさんはどう思う?」

 

 急に話を振られて戸惑う。回答によっては禍根を残しかねない気がして、角が立たない返答を模索する。

 

「今のままでいいんじゃないか? 何か特別な時にだけほどいてみるのはありかもしれないけど…」

 

「えへへ…やっぱり今のままがいいよね♪ でも、特別な時ってどんなの?」

 

「さぁ、そこまでは…」

 

 お茶を濁すようにそう答えると、やはり彼女は真剣な面持ちで考え込むのだった。

 何にしても、髪をほどいた彼女を見ることは当分なさそうだ。

 

(個人的な好みで言えばスズカ派なんだけどな…)

 

 しばらくして、彼女の中でその話題が一応の決着を見たのか、その視線は後輩へと向けられる。

 

「そういえばさ、ライブの時のスズカちゃん、結構激しかったよね」

 

「あら、そうかしら…」

 

 澄ました顔で受け流すも、その声はわずかに戸惑いの色を帯びていた。一番激しかったであろうファル子にそれを言われるのは、さぞかし不思議な気分だろう。

 観客としてのサイレンススズカを見るのは、もちろん今日が初めてだった。ファル子と比較すると控えめに見えたが、それなりにエキサイトしていたようには思える。

 

「久しぶりの観戦だったからかしらね。誘われでもしないとなかなか見に行く機会がなかったし…」

 

 彼女は一瞬だけちらりと俺を見て、そのまま続けた。

 

「びっくりしたんだけど、先輩っていつもペンライトを持ち歩いてるのね」

 

「もっちろん☆ いつどんな時でもライブに対応できてこそ、ウマドルだからねっ!」

 

 得意げにツインテールを揺らしている。

 まるでどこかの空想作品のごとく、どこからともなくライブグッズが出てくるのには驚きを禁じ得ない。ことライブに関しては彼女の右に出る者はそうそういないだろう。

 

「それじゃあ、ここからが本題」

 

 にこにこしながら、ファル子は唐突に人差し指を立てた。

 対面の四番線では、電車がブレーキ音を響かせながら停車態勢に入っている。

 

「お二人は一体どういう関係なのか、お話を聞かせてもらおうかな?」

 

 かしこまった尋ね方に棘みたいなものを感じるが、その表情は逆に怪しく思えるほど妙に清々しい。単なる好奇心による質問には思えないが…。

 

「別にやましい関係じゃないからな?」

 

 とにもかくにも身の潔白を主張する。すると、そっぽを向いてぷくっと頬を膨らませる。

 

「そうじゃないよ。トレーナーさんはファル子に首ったけって知ってるから何も心配してない。ただ…いつの間にかスズカちゃんと仲良くなってるんだもん。一人だけずるいよ…」

 

 その視線の先で、まばらに客を乗せた電車がおもむろに発車する。

 そこまで嫉妬されるとは思っていなかった。だが、よく考えてみればサイレンススズカはファル子にとって憧れの存在。そう思われてしまうのも仕方ないことかもしれない。

 

「それじゃ先輩、今日から私とも仲良くなりましょ」

 

「え…?」

 

 助け舟を出すように口を開いたサイレンススズカ。時を止める魔法にでもかけられたように、ファル子は目を見開いたまま固まった。

 しばらくして、その封印からぱっと解かれると小さな声を漏らす。

 

「でも、スズカちゃん人気者だし、普段のトレーニングも忙しそうなんだもん。私なんかと付き合う時間もったいないかなって…」

 

「そんなことないわよ。ついこの前だって、私が新入生たちに言い寄られて困ってたら先輩が助けてくれたじゃない。『プライベートはそっと見守る。それがファンの鉄則でしょ』って…」

 

「あはは…そんなこともあったよね」

 

 頭をかきながら照れ笑いする彼女。その見た目以上に面映いと感じているか、尻尾はとめどなく左右に揺れている。

 

「それに、先輩といると楽しいってことが分かったし…またどこかお出かけする時は誘ってね」

 

「うん…分かった。今日誘ったのはファル子じゃないけど、今度また声かけるね☆」

 

 ファル子は普段からサイレンススズカを強く意識していたが、あまり交流自体は無かったようだ。それは彼女の存在が高嶺の花のように感じられて、自然と距離感を保っていたからだろう。プライベートはそっと見守るという、ファンの鉄則を守っていたがゆえに違いない。

 そんな二人の仲を取り持つことができただけでも、サイレンススズカに話しかけたのは無駄ではなかったと思える。

 

「…そういえば、今日観戦に来たのはトレーナーさんに誘われたからだよね?」

 

「ええ。そうよ」

 

「どうしてそんなことになったの?」

 

 疑問の矛先はこちらへと向けられる。

 

「ああ、スズカにたまたまお昼頃に出会って声をかけたんだ。それから…」

 

 さすがに袖を縫い合わせることになった原因までは話さなかったが、事の顛末を掻い摘んで話していく。

 それは学院の面談室で二人きりになった後、彼女に頼みごとをしたところから始まる──

 

 

「君に頼みたいことがあるんだ」

 

 斜め前に座する朱色の髪の少女。そこへ真剣な眼差しを向けながら、続けざまにこう問いかける。

 

「今夜、その娘と一緒にレースを見てくれないか?」

 

「レースを…?」

 

「ああ、今夜行われる、大井レース場のメインレース」

 

 正直に言えば、それはただの思いつきだった。

 ファル子の憧れの存在であるサイレンススズカ。彼女と楽しい時間を過ごせば、もしかしたらそれがきっかけになって考えが変わってくれるかもしれない。ひょっとしたら彼女の言葉に心動かされるかもしれない。

 そんな何の根拠もない淡い期待。いや、期待と呼ぶにはあまりにも心許なく、ただの自分勝手な願望に過ぎなかったが…。

 

「本当に一緒に見るだけでいいんですか…?」

 

 その胸中を写すように、彼女もまた自信なげに疑問を投げかける。

 

「うん、それだけでいい。もしどうしてここにいるのって聞かれたら、正直に俺に頼まれたって答えてもらって構わない」

 

 不安げな面持ちで、どこか納得いかない様子の彼女。次いで発せられた言葉に息を呑んだ。

 

「あの…勘違いだったらごめんなさい。気になってる娘って…もしかしてファルコン先輩のことですか?」

 

 一瞬の静寂。言い当てられたことに驚きを隠せない。

 

「その通りだけど、どうしてそれを?」

 

「ダート嫌いのファルコン先輩を説得しようとしているトレーナーがいる…そんな噂を小耳に挟んだので」

 

「そうか…いつの間にか俺も有名人の仲間入りしてたんだな…」

 

 思わず自らを皮肉った。

 ファル子がトレーナーや生徒の間で、ダートの素質があるのに芝にこだわる変わり者として名を馳せていることは知っていた。ただ、それを説得し始めたのは一昨日からだ。

 選抜レースの時に鳥林さんにも気づかれたし、ダートの本を借りただけでゼンノロブロイにも当てられた。そして今、サイレンススズカにも大井レース場の名前を出しただけで推察されてしまった。

 既に噂が立っているということは、それを知る誰かが話したか、あるいは一緒にいるところを見られたからか…。

 

(まぁ、後者だろうな。食堂とかライブショーとか、色んなとこで一緒だったし…結構見られてるもんだな)

 

 噂の出どころなんてもちろん分からない。だが、彼女を説得しようしていること、それは紛れもない事実だ。

 

「先輩の気持ち、変えられそうですか」

 

 不意に発せられたそれは、ストレートに俺の心に突き刺さる。物静かな空気をまとわせているのに、それすら割いてしまうような鋭い視線。それはファル子のことを案じているがゆえなのだろうか。

 

「ああ、きっと変わってくれると信じてる。彼女の夢がダートでも叶うってことを、今日見せてあげたいんだ」

 

「私が一緒にいることで、そのお手伝いになるんですね」

 

「…ごめん。正直、それは分からない。君に説得してもらうわけでもないし、彼女自身がそのことに気づかないと意味がない。ただ、それでも…」

 

 一旦呼吸を整え、ゆっくり息を吸い込む。

 

「ファル子にとって君は憧れの存在なんだ。もし今日が残念な結果に終わるとしても、せめて彼女には楽しい時間を過ごさせたい。それと、できれば…彼女の友達になってあげてほしい」

 

 仲良しだった友人が先月辞めてしまい、それが少なからず影を落とす場面が何度か見受けられた。気丈に振る舞ってはいるが、ああ見えて弱い部分も結構ある。それを少しでも和らげてあげたいとは思うが、トレーナーが同年代且つ同性の友人の代わりになることは難しい。

 

「プレッシャーをかけるようでごめん。全部俺のわがままってことは分かってる。急な話で無理かもしれないけど、もし来れるようだったら…」

 

 無意識に語尾がすぼむ。身勝手なお願いをこれでもかとまくし立ててしまったのだ。そのことがただただ申し訳なく、気づけば頭を下げていた。

 間を置かず、一際静かな声が面談室に響いた。

 

「分かりました。確約はできませんが…行けるよう調整してみます」

 

 気のせいだろうか。その表情はとても優しく、穏やかに感じられた。

 

 

 ──話し終えた時には、ホームに並ぶ人が少しずつ増え始めていた。

 

「なるほどね。それでスズカちゃんが来てくれたんだ」

 

 合点がいったのか、うんうんと頷いている彼女。

 もちろん、話したのは「ファル子が喜ぶだろうから一緒見に来てほしいと頼んだ」という、あくまで表面的なの部分だけ。ファル子の気持ちを変えたいとか、友達になってほしいとかの話は、さすがに言えるわけがなかった。

 

「私もトレーナーさんにいきなり頼まれてびっくりしたわ。『ファルコン先輩と三人でレース観戦でもどう?』って…たまたま時間はあったし、せっかくだから見に行ったのよ」

 

 それを察しているのか、サイレンススズカも上手い具合に話を合わせてくれる。ただ、それだと軟派な男に聞こえるのが少しばかり気になるが…。

 案の定、ファル子はあからさまに肩を落としてみせた。

 

「トレーナーさんがそんな軽い人だったなんて知らなかったなぁ…」

 

「別に軽いつもりじゃなかったんだが…」

 

 強く否定できないのがもどかしい。

 どうにもいたたまれなくなり、逃げるが勝ちと一時撤退を試みる。

 

「電車が来るまでもう少しあるし、ちょっとお手洗い行ってくるよ…」

 

「あ〜っ! 逃げちゃうなんてずるいぞ☆」

 

 生き生きとした声と軽快な足音が駅のホームに響き渡る。

 ちらっとだけ振り返ると、そこには俺に元気を与えてくれる、いつもの明るい笑顔があった。

 

──

 

 ホームに残された二人のウマ娘。

 トレーナーを笑顔で見送ったツインテールの少女は、ストレートヘアの少女へすたすたと歩み寄る。

 

「もうっ…! トレーナーさんってば恥ずかしがり屋さんなんだから」

 

 子供のようなふくれっ面。両の拳は固く握られている。

 

「ふふ…もしかして先輩、焼き餅焼いてるの?」

 

「そ、そんなんじゃないよ! ただ、私に黙って色々してたのが、ちょっと悔しかったっていうか…嬉しかったっていうか…」

 

 あけすけに語り合う二人。

 慌てたような声を出した少女は、何かを紛らわすように、俯きながらホームの黄色い線を片足でなぞっていた。 

 

「あの人、口ではあんなこと言ってるけど、本当はもっと色々考えてくれてたのよ」

 

「うん…分かってるよ。トレーナーさんって私に一途だから、意味もなくスズカちゃんを呼んだりなんかしないもん」

 

「そうね…一途かどうかはともかく、先輩のことを真剣に思ってたことは確かね」

 

「…ふ〜ん」

 

 優しい声に元気を取り戻したのか、つややかな栗色の尻尾は上機嫌に揺れていた。

 

「ところでスズカちゃん、昨日のライブ見たよ〜☆ とってもきらきらで素敵だった! ファル子、心の底から感動しちゃった☆」

 

「ありがとう。たくさんの人に楽しんでもらったみたいで嬉しかったわ。レースがなくてもあんなに人が来てくれるなんて、正直驚いたもの」

 

 静やかな笑みを浮かべながら、自らの朱色の髪をさらりと撫でる。

 

「でも、今日のライブも凄かったわね。初めてダートのライブを生で見たけど感動したわ。皆とても輝いていて…私なんかよりずっと素敵だったんじゃないかしら」

 

 それを聞いた少女の耳がぴくりと揺れ動く。

 

「…スズカちゃんよりも?」

 

「ええ。芝のレースは砂を被ることもないし、悪天候でもあそこまで汚れることもないでしょ? それでも全力で走り抜けて、泥だらけのまま笑顔でパフォーマンスして…芝では絶対に見られない光景だもの」

 

「ファル子もダートレースは初めて見たけど、凄く感動しちゃった☆ スズカちゃんの華やかなライブと違って、何かこう…全身全霊な感じがするきらきらだったよね」

 

 言い終えると、その時の感動が鮮明に想起されて、思わずその余韻に浸ってしまう。二人はしばらく黙ったまま、対面のホームで電車を待つ人たちの姿を見つめていた。

 

「一つ…聞いていいかしら」

 

 しじまを割いた少女は、それが聞いていいことなのか迷いながらも、おそるおそる問いかける。

 

「あんなにライブが好きな先輩が、どうして得意なダートで走らないのか、ずっと気になっていたの。ステージに立つためなら、それが一番の近道でしょ…?」

 

 思い詰めたような顔をしながら、先輩と呼ばれた少女はそっと答えを告げる。

 

「それは…スズカちゃんを目指してたからだよ」

 

「私…?」

 

 首を傾げる彼女に、憧憬の眼差しが向けられる。

 

「スズカちゃんのライブ、いつ見ても素敵だもん。きらきらで、わくわくで、どんな時も太陽みたいに皆の心を魅了して…」

 

 足元の線路へ目を落とし、小さな声を絞り出すようにして続ける。それは声量に反して、確かな力強さを秘めていた。

 

「だからあのステージに立ちたいって、ずっと憧れてた。それはターフじゃないとできないことなんだって思い込んでた。でも、今日のレースとライブを見て、分かったの…私にも輝ける場所があるんだって」

 

 ふっと顔を上げると、隣に立つ少しだけ背の高い少女へと向き直る。

 その凛とした面持ちには、一欠片の迷いも存在していない。

 

「だからね…私、ダートで頑張ってみる。私の本気のきらきらでたくさんの人を楽しませて、希望を与えられるようなトップウマドルを目指すよ!」

 

 先輩の清々しく吹っ切れた姿に、後輩は涼やかに微笑んでみせる。

 

「ふふ…先輩なら絶対にできる気がするわ。芝と砂、レースでは同じステージには立てないけど…いつの日か、ウマ娘ライブショーで一緒のステージに立ちたいわね」

 

「うん…! ファル子、ぜ〜ったい立てるように頑張る! だから、約束ね♪」

 

「ええ。楽しみにしてるわね」

 

 にこやかに笑う二人の少女。二本の尻尾はいかにも楽しげに、春の日の蝶のごとくふわふわと舞い続けていた。

 

 

 街灯もまばらな薄闇の道路を進む三つの影。

 雨は止んでいるものの、水分を含んだままの稍重アスファルトの上を駆ける、尻尾を持たない走者。

 

「ほらっ! トレーナーさん頑張って!」

 

 電車の扉がスターティングゲートとなった今日の最終レースは、いよいよ終盤に差し掛かっていた。

 ゴールに向かってハイペースで走る俺を、軽いジョギングのようなスローペースで牽引する二人のウマ娘。まるで大人と子供のかけっこだ。

 

「大丈夫ですか? 後もう少しですから…このペースなら十分間に合います」

 

 発破をかけるだけのファル子と違って、こちらを気にかけてくれるサイレンススズカが女神に見えてくる。俺の傘を代わりに持ってくれているのも彼女だ。

 ただ、その気遣いに答える余裕はなく、グーサインを出すくらいしかできない。後はがむしゃらに走り続けるだけだ。

 

(生徒が毎日必死に走ってるんだ…トレーナーだって頑張らなくちゃ駄目だよな)

 

 自らの戒めのため、彼女たちの苦しさを身をもって体感しよう。そんな風に考えながら、最後の坂路も何とか踏ん張って進んだ。

 

「やった〜☆ 到着だねっ!」

 

 ファル子の歓声でゴールの瞬間を悟る。

 到着は午後九時五十五分。走破タイム約八分。自己最高記録誕生の瞬間であった。

 意外にも、正門で出迎えてくれる人影があった。そこにいたのは、今朝見たのと何も変わらないたづなさんの姿だった。

 申請手続きにかかる時間のことを考えると、渡りに船とはこのことだろう。

 

「休み明けからお忙しいですね。お二人が最後ですよ」

 

 遅く帰ってきた生徒を少しも訝しむ様子もなく、たづなさんはにこりと微笑んでいた。それが逆に怖くもあるが…。

 

「スズカさんは事前申請が出ていますが、ファルコンさんは…トレーナーさんと同伴ですね」

 

 垂れる汗を手で拭いながら、息も絶え絶えに頷く。

 全てを知り尽くしていたかのように、たづなさんはぱっと書類を取り出してこちらに手渡す。そして、促されるままにサインを書き込む。

 

「ファルコンさんはここに名前と日付と、そしてこの理由の欄も簡潔にお願いしますね」

 

「トレーナーさんより書くとこ多くない…? ファル子活字苦手なの〜」

 

 そうは言いながらも、押し迫るリミットにせっつかれ、急いでそれを書き進めていた。

 記入に追われる彼女を横目に、サイレンススズカの方へさっと向き直る。次いで、まだ整わない呼吸のまま感謝を伝える。

 何せ時間はあまり残されていない。

 

「今日は…ありがとう。君のおかげで、ファル子を導くことができたよ」

 

「いえ、先輩のことは私も気になっていましたし…少しでもお役に立てたのなら幸いです。それに、私がいなくても、先輩は決心していたと思いますよ」

 

「そうかな…?」

 

「ええ。先輩は他でもない、トレーナーさんの真剣さに心を打たれたんですから」

 

 物知り顔に含み笑いを浮かべると、サイレンススズカは青い傘を俺へと手渡す。

 その時、彼女の視線が俺の腕へと注がれた。申し訳なさそうな顔を浮かべて、ただ一言「それ…ごめんなさい」と静かに言った。

 いつの間にか、閉じていたはずのクレバスが復活していた。ファル子に手を引っ張られた時だろうか、それとも自己ベストを叩き出した代償だろうか、破けた直後よりも大きな口を開けて。

 しかし、今の俺にはそれが誇らしくさえ思えた。そう、あの時意を決しなければ、きっとこんな素敵な日は迎えられなかったのだから。

 

「気にしなくていいよ…大切な思い出になったから」

 

 その言葉に、彼女はただ優しげに目を細めながら、一足先に生徒寮へと去っていった。

 火照る体に夜風がそっと駆け巡ると、汗ばむ肌に涼しさがほとばしり、存外に心地良かった。

 そこに、書類を書き終えたファル子がやって来る。

 

「あれ? スズカちゃんは?」

 

「ああ、先に帰ったよ」

 

「そっか…お礼言いそびれちゃったなぁ。まっ、明日でもいいよね」

 

 ふと、後ろでがちゃんと大きな音がした。反射的に振り返ると、たづなさんが重そうな正門を一人で閉じていた。彼女の言う通り、ファル子とサイレンススズカが最後の帰宅者だったようだ。

 何を言うでもなく、たづなさんは柔らかな笑顔と物腰で一礼すると、校舎の闇の中へと消えていった。

 残された時間は、あとわずかだ。

 

「トレーナーさん、聞いて」

 

 真っ直ぐな眼差しをこちらへと向ける彼女。

 しんと静まり返る二人だけの世界。

 彼女の真摯な声が、そっと奏でられていく。

 

「トレーナーさん言ってたよね。太陽が好きな人もいれば、月が好きだっていう人もいるって。今日のレースで分かったの…ダートでも、トレーナーさんやミサキちゃんみたいに素敵なファンがたくさんいるんだって」

 

 ぴんと逆立つ両耳。それは彼女が張り詰めている証。

 

「ダートじゃ夢を叶えられないって言ってた自分にがっかりだよ…大事なのは、私自身がどれだけ頑張れるかなのに。だってそうでしょ? ファル子にしか出せない輝きを、トレーナーさんも、ミサキちゃんも、皆が待ってるはずだもんっ!」

 

 振り上がる尻尾。それは彼女の気が高ぶっている証。

 

「私、ダートで頑張ってみるっ! そして、ダートの良さをたくさんの人に知ってもらって、ダートをトップの世界に変えてみせるの…!」

 

 輝く金色の瞳。それは彼女がきらめいている証。

 

「だから…明日から私のトレーナーさんとして、スカウトよろしくお願いします♪」

 

 どんな宝石さえも霞んでしまうような美々しさが、そこにはあった。

 見慣れた笑顔と、聞き慣れた明るい声。これからもすぐ側で、何度となく見聞きすることになるのだろう。それはとても幸せなことに違いない。

 

「ああ、ダートでトップウマドルになろう!」

 

 手を突き上げながら力強くそう答えると、彼女は手を口に当ててきゃははと笑い出す。そんなにおかしかっただろうか。

 そして、最後はいつものコーレスで締めくくる。

 

「ファル子が逃げたら〜?」

 

「追うしかな〜い!」

 

「泥だらけになっても見ていてね☆ スマートファルコンでした〜♪」

 

 律儀に決めポーズまでやり遂げた彼女。

 次いで、目にも留まらぬ速さで、生徒寮へと駆けていった。

 その途中、一度だけこちらに振り返って見せた笑顔が、とても眩しく見えた。

 

(これからずっと、ファル子を追いかけることになるんだな…)

 

 何か熱いものが胸の奥で湧き上がるのを、ひしひしと感じていた。それはきっと、まだ見ぬ未来への希望。トレーナーとしての一歩を踏み出した喜び。そして、ファル子と同じ道を歩まんとする、誰よりも強い決意。

 

 閉じた傘を片手にトレーナー寮へと向かう帰り道。桜並木の地面は、雨で散ってしまった桜の花びらでいっぱいだった。少し前の満開の姿から一転して、寂しさを感じさせる姿だ。

 だが、実際はそうではない。散った花の先から、生命力たぎる新葉が芽生えているのだから。

 それはまるで彼女の姿。彼女の心にはたくましい思いが芽吹き、未来を切り開かんとする熱意に満ちあふれている。

 その夢が花開くのは、この桜の新芽のようにまだまだ先かもしれない。しかし、どんな困難が待ち受けていようとも、やれることは一つだけ。ただひたむきに、ただ懸命に、彼女と向き合い、そして、その夢を背負っていく。

 それこそが、トレーナーとしての使命なのだから。

 

(きっと…夢を叶えてみせるからな)

 

 心の中で、得意げに満面の笑みを振りまく少女。

 彼女の名はスマートファルコン。砂の大地を隼のように駆ける、可愛らしい素敵な女の子だ。




お疲れ様でした。
これにて第5話終了です。
物語的には区切りのいいところですね。
ここまで読んでくださった方、お気に入り登録してくださった方、ありがとうございます!
次話からはメイクデビューに向けての二人三脚が始まる予定です。
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