君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆── 作:キビタキ
【第6話】ターフの代償 ①白毛の後輩
トレーナーとしての生活が始まって、早くも三週間が経過しようとしていた。
日が沈み、夕闇に包まつつあるトレセン学院。遠くに見えるのは、橙色とくすんだ紫色の鮮やかなグラデーション。
少しひんやりとした空気が漂う中、砂に覆われたトラックを一人の少女が駆けている。
ストップウォッチを片手に、二百メートルごとのタイムを計測する。それは千六百メートルを一定のペースで走るトレーニング。
(12.4秒、12.6秒、12.9秒…)
目の前でスタートした彼女は、トラックをほぼ一周してまたここへと戻ってくる。
目標タイムは一分四十秒。
ほどなくして、人間には考えられないスピードで、少女はゴールラインを通過した。そう、彼女は人ならざる耳と尻尾と身体能力を持つ、ウマ娘であった。
そのあまりの速さのため急に止まることはできない彼女は、ゴール後もしばらくペースを落としながら走り続ける。体勢が安定するまで減速してから、くるりと踵を返し、こちらへと走り寄る。
「タイム…どうだった…?」
白と赤のツートンカラーのジャージに身を包んだその少女は、大きく肩で息をしながら手を膝についている。その呼吸に合わせて、つややかな栗色のツインテールが揺れる。
「一分四十一秒だ。後半になるにつれタイムが落ちていった。ちょっと前半飛ばし過ぎたな…」
「う〜ん、ダメかぁ…同じペースで走るのって、難しいね…」
「こればっかりは体で覚えるしかないからな…一回ストップウォッチを持って走ってみるか?」
その提案に、彼女は即座に首を横に振った。
「ううん、本番はそんなことできないでしょ。何回も練習して覚えるよ」
気づくともう通常の呼吸に戻っている。ウマ娘の息の入る早さにはいつも驚かされる。
「それじゃ、十分後にもう一回計ろうか」
「オッケー☆ それまでちょっと軽く走ってくるね」
「無理しないようにな」
「心配ご無用っ! ファル子まだまだ元気だもん☆」
ピースサインを決めると、ふんわりと尻尾をなびかせて走り出していった。
ついさっき千六百メートルを走ったばかりなのに、もうぴんぴんしているように見える。あの体のどこにそんなエネルギーが隠されているのだろう。
白い照明が灯され、トラックの砂の凹凸が作り出す影が浮き彫りになる。大勢のウマ娘たちが駆け抜けてできたそれが、日々のトレーニングの激しさを物語る。
自らのことをファル子と呼ぶその少女も、今また新たな凹凸を刻みつけていく。
半月ほど前、俺は彼女と契約を結んだ。
出勤初日に高架下ライブを偶然目撃して、それが運命の出会いとなった。それからは濃密な三日間。選抜レースがあり、ライブショーを楽しみ、ナイターレースを観戦し…。
芝にこだわっていた彼女を、鉛の靴から解き放とうと尽力した。そう、全ては彼女の夢を叶えるために。
今思えば、出勤初日に祈りを捧げた三女神像が、俺を彼女に引き合わせてくれたのだと思う。それ以来、トレーナー室へ出勤する途中、中庭の噴水で感謝を捧げるのが日課になった。
そして今、ダートレースを見据えたトレーニングを日々繰り返している。
彼女の脚質は"逃げ"。適性的にもそうだし、本人もそれが得意と言っている。ライブのコーレスでも「逃げ」や「追いかけて」という単語を連発していることもあり、誰かに追いかけられることに特別な思い入れがあるようだ。好きこそものの上手なれという言葉があるように、もしかしたらそれが彼女の適性を"逃げ"たらしめているのかもしれない。
スタート直後に先頭にさえ立つことができれば、後はゴールまでの最短距離を最速で走り切ることに集中すればいい。そういう意味で、逃げは自分の走りをいかに実践できるかが重要だ。
そのためペース配分を意識することが大事になるが、それは練習を積めば確実に身についていく。ただ、本番では他の娘と走ることになるため、レース展開や精神的プレッシャーによって、自分の走りができないことの方が多い。
更に言えば、レースのレベルが高くなると同じペースで走り続けるだけでは足りなくなってくる。複数の逃げウマがいる場合や、先頭を走るがゆえの後続へ与えるプレッシャーなど、様々な駆け引きが必要になってくるからだ。
とはいえ、それは重賞競走クラスでなければ見られない高度なテクニック。まだそこまでは考えなくていい。
今はまず、一度飛び抜けて誰にも邪魔されず最速でゴールへ向かうという、その基本的なスタンスを体に覚えさせることだ。普段の単独走できっかりペース配分をこなせないようでは、当然レース本番でもできるわけはないので、そこはひたすら練習あるのみである。
いつの間にかトラックを一周してきた彼女が、走りながらこちらに手を振っている。同じく手を振り返して、その可愛らしい姿に顔を綻ばせる。
他の生徒たちに紛れて、彼女はまたトラックの向こう側へと駆けていく。
トレーニングを繰り返すうち、他にも分かったことがある。
彼女の距離適性は、マイルから中距離にかけて、具体的には千六百メートルから二千メートルであること。それはスタミナやトップスピードの維持など、総合的に俯瞰しての結論。
それでは短距離が駄目なのかというとそうでもなく、そちらも十分力を発することができる。ただ、混戦での瞬発力よりも長丁場での持続力の方が優れている点で、マイル、中距離には一歩及ばないと判断した。
いずれにせよ、ダートの主戦場となる距離帯はほぼカバーできるポテンシャルは持っていた。
彼女の並外れた脚力と天性の走り方は、砂の上を駆けるのに適している。後は基礎体力をつけつつ、芝に慣れてしまったその走りをダートへと順応させていけば、自然とタイムも上がっていく…そう思っていた。
「ただいま〜☆」
トラックの向こう正面へと走り去ったと思っていた彼女が、知らぬ間に戻ってきていた。計測開始まではまだまだ時間があるはずだが。
「ちょっと喉乾いちゃった」
ベンチに置かれたスポーツドリンクをひょいと手に取り、ごくごくと音を立てながら四分の一ほどを飲み干す。
ぷはぁと息を漏らす表情は満たされているように見えたが、刹那。
「ねぇ、トレーナーさん…」
キャップを締めながら、静かな声を響かせた彼女。わずかにしおれた耳が不安げな心境を物語る。
「最近タイム伸びてなくない?」
それは確かな事実だった。同時に、結果が出ていないことへの疑念でもあるだろう。
その心配を取り払おうと、すかさず返答する。
「そりゃ、最初はダートに慣れてなかった分の伸びしろがあったからな。それで一気に良くはなったけど、ある程度形ができてきたら、急には伸びないさ」
「そうなの…? これで頭打ちってわけじゃないよね?」
「心配しなくて大丈夫さ。基礎体力もきちんとつけていけば少しずつ伸びるよ。ダートでトレーニングを始めてまだ半月くらいしか経ってないんだから、焦らなくてもいい」
それでもなお、彼女の尻尾は垂れたままだ。
「メイクデビューって六月でしょ? 後二ヶ月もあるかないかで勝てるくらいにもっていけるのかなって…」
「ダートを走り始めてこれなら十分速いさ。もう少ししたら結果が目に見えてくるよ」
ようやく彼女の両耳に鋭気が宿る。
「そっか…それならいいんだけど。それじゃあ、また走ってくるね☆」
スポーツドリンクを元あった場所に戻すと、鼻歌交じりに砂上へと戻っていった。
(このままでいいんだろうか…)
彼女の不安を拭うために気を使う日々が続く。
いくらダートに適性があるといっても、一朝一夕で速く走れるわけではない。毎日の鍛錬の積み重ねによって、少しずつ良くなっていくものである。
(そうだ、タイムは少しずつ上がっていくはず…そのはずなんだが…)
ただ、それでも払拭できない違和感は確かにあった。全部が全部、彼女の杞憂というわけではなかった。
身体テストのダート千メートル走では平均を上回るタイムだった彼女も、それはダート適性のない生徒の記録もひっくるめての話。本番レースと比較した場合、標準タイムをわずかに下回っていた。
距離を千六百メートルに伸ばすと、コーナーが含まれることもあり、標準タイムを更に下回る結果となる。
とはいえ、それはまだダートに走り慣れていないがゆえのことであったし、彼女がダート適性を持っていることは紛れもない事実だった。
実際、何度かダートを走らせると、タイムは見る見るうちに改善していった。
しかし、それは最初の数日間だけで、そこからぴたっと記録が伸びなくなったのだ。それは最初、誤差や偶然かと思われたが、どうやらそうではないらしい。結果としてタイムの向上が見られないということは、どこかに問題があることに他ならない。
ただ、それが何なのか分からない。彼女自身はとても走りやすそうにしているし、見た限りそのフォームにマイナス要素は見受けられない。
主な原因として思い浮かぶものといえば、足の出し方、腕の動き、走る際の体勢などだが、足抜きは悪くないし、腕の振りもしっかりしていて、体の角度も理想通り。どれも悪くなく見える。
しかし、いざそれぞれの歯車を組み合わせたら、上手く噛み合わない。そんな走りになってしまう。
(やっぱり原因はあれなのか…)
明確に思い当たることが一つだけあった。
以前、図書室で借りたダートに関する数冊の本。それらは隅から隅まで読んだが、特に芝からダートへのコンバートに関する本は、穴が開くほど目を通した。
そこにあった気になる一文。
『芝で走った期間が長いほど、ダートに適応するのに時間がかかったり、困難になったりする傾向がある』
ファル子は入学してからの数年間、ずっと芝にこだわり続けてきた。授業はもちろん、選抜レースや自主トレも全てだ。
(芝で走った期間が長すぎたのかもしれない…)
その推測が脳内をよぎった瞬間、思わず首を横に振った。
それは正直受け入れがたいものだった。せっかく芝の呪縛から解き放たれダートに光明を見出した彼女が、また芝によってがんじがらめにされる…そんなことは毛ほども想像したくなかった。
そう、これはあくまで推測。まだ原因がそれと決まったわけではない。もしかしたら全く別の何かがあるのかもしれないし、やはり走り方に問題があるのかもしれない。
改めて、砂上をゆっくりと駆ける彼女の姿を見やる。
ピッチ走法でもない、ストライド走法でもない、その中間のような足の出し方、そして腕を横に振るという独特な走法。
そこはかとなく天性の才を感じるあのフォームが、本当はダートに適していないのだろうか。
「お疲れ様です! トレーニングに精が出ますね」
後ろから聞こえた快活な女性の声。それを聞いたのは久々だった。
振り向きざまに挨拶を返す。そこには紺色の髪をしたトレーナーが立っていた。
「お疲れ様です。桐生院さんもダートでトレーニングですか?」
その傍らでは、ファル子と同じくジャージを着込んだ白い髪と尻尾のウマ娘、ハッピーミークがてくてくとついてきている。
ハッピーミークは今年入学したばかりの新入生で、選抜レースであの不可解な走りをした娘だ。桐生院さんと契約を結んだことを知ったのは、ちょうどファル子とトレーニングを始めた日、ジムでトレーニングに励む二人を見かけた時だ。ハッピーミークが誰と契約したのか気になっていただけに、まさかそれが桐生院さんだったとは驚きだった。
「乾いたダートは脚力を鍛えるのに最適ですからね。頻繁にではないですが、メニューに組み込んでいます」
自信たっぷりにそう語る彼女。
ファル子をスカウトしてから何かと忙しく、面と向かって話すのは久しぶりだった。
「ミーク、軽くトラックを走ってアップしてきて」
「…はい」
つぶやくように返事をして、ハッピーミークは白い髪…正確には象牙色のミディアムヘアを揺らしながらトラックへと向かう。
その途中のことだった。
「あっ! ミークちゃ〜ん! こんばんは☆」
「…こんばんは…先輩は今日も元気そうですね」
白毛の後輩を見つけたファル子が、明るい声と共に彼女へと駆け寄っていた。
以前、何かの授業で一緒になる機会があったらしい。
「今度の春のファン感謝祭なんだけど、ファル子ダートリレーのアンカーになったの☆」
「…そうなんですね。実は、私も…」
ファル子が一方的にまくし立てて、ハッピーミークがのほほんと相槌を打ったり、時たまつぶやいたりする。なんとも他愛のないやり取りだが、二人とも楽しそうに見える…と思いたいものの実際はどうだろう。
少なくともファル子はそうなのだろうが、ハッピーミークの何とも言えない表情の真意は分かりかねる。
(迷惑になっていないだろうか…)
そんな胸中が顔に出てしまっていたのか、桐生院さんのフォローが飛んできた。
「ファルコンさんはいつも明るいですね! ミークも楽しそうです」
「ははは…そうだといいんですが…」
頭をかくことしかできない俺を尻目に、二人のウマ娘は砂のトラックへと向かっていった。
図らずも、ずっと気になっていたハッピーミークの走りを間近で見ることができそうだ。それは、鳥林さんから聞いたハッピーミークの特殊能力。以前から聞きたいと思っていたそれを、おそるおそる口にする。
「あの…鳥林さんから聞いたんですが、ミークがどんなバ場や距離でも走れるって本当ですか?」
それを聞くやいなや、寝耳に水といった感じで驚く彼女。
「もう、鳥林さんたら…他は何か聞きました?」
「えっと…尻尾の動きがそれに関係あること…くらいですかね」
彼女の反応に逆にたじろいでしまい、とつとつとした返答になってしまっていた。
「なるほど…分かりました。結論から言うと、その話は本当です。といっても、これはミークの天性の能力なので、彼女にしかできません。他の娘も、効果はわずかながら真似事くらいならできますが…」
何から何まで知り尽くしている様子に思わず舌を巻く。やはり自分と同じ新人トレーナーとは思えない。
「いつからその能力を把握していたんですか?」
ハッピーミークは新入生。選抜レース開始前に契約の約束をしていたのならば、入学式初日か身体テストのタイミングしかないはずだ。あるいは、入学前からそのことを知っていたか。ただ、当日の朝やその前日にそんな素振りは見せなかったが…。
「それは…」
不自然に言葉を詰まらせる彼女。聞いてはいけないことを聞いてしまったのか。
そんな時、二人のウマ娘がそろそろと戻ってきた。
「トレーナーさん☆ そろそろ計測の時間だと思うんだけど」
「…トレーナー、次はどうしますか」
お互いのトレーナーへ指示を仰ぐ二人。
とりあえず、さっきの質問は忘れよう。今、桐生院さんに聞くべきことはそれではない。
このタイミングで出会えたことに導きみたいなものを感じ、ある提案を持ちかけた。
「せっかくですし、タイムを決めて併走しませんか?」
それは、ハッピーミークの走りを見てみたいと思ったのと、ファル子の気分転換に良いと思ったからだ。
「ミークちゃんと走るの? すっごく面白そうっ☆」
耳をぴんと逆立たせ、真っ先に反応したのはファル子だった。基本的に彼女は誰かとトレーニングすることを拒まない。特に併走は大がつくほど好きだった。
「ええ、構いませんよ。ミークも平気?」
「…はい。喜んで」
ふわふわと白い尻尾を揺らしながら、のどやかに答えるハッピーミーク。そこには気合や覇気といった類はほとんど感じられない。
担当ウマ娘の返事を聞くやいなや、桐生院さんははきはきと言葉を紡ぐ。
「千六百メートルでいきましょうか。参考までにファルコンさんのタイムを教えていただけます?」
「えっと、一分四十…一秒ですね」
少し言い淀んでしまったのは、本番レースの標準タイムを、一秒も下回っていたからだ。
その脚力からダートの逸材と目されていたファル子が、まだそこにすら達していないことが負い目のように感じられてしまう。新人ゆえに、彼女の才能を殺してしまっているのではないかという不安が日々募っていた。
「分かりました。ではミークもそれに合わせて…」
ハッピーミークをちらっと見やり、二人は何やら目配せしている。白毛の少女がぱちぱち瞬きをすると、それを見た桐生院さんはくすくすと頷いた。
「そうね。それじゃ…」
彼女はこちらに顔を向けて、はっきり宣言した。
「ミークは一分四十秒で走りますね」
それは言うまでもなく標準タイム。たとえ適性があっても、入学して間もない新入生が走るには厳しいはずのタイム。
とはいえ、桐生院さんが冗談でそんなことを言うはずもない。おそらく本当にそのタイムで走れるのだろう。もしそうであるなら…。
不安げな顔に、後輩の走りに合わせられるのかと心配そうに書いてあるファル子へ、そっと耳打ちする。
「追いかけるのは性に合わないだろうが、ハッピーミークにぴったりついて走ってみてくれ」
その瞬間、毛並みのいい尻尾がびっくりしたように波打ったが、「うん、分かった☆ たまにはそれもいいかもね」と強気に頷いた。
二人のウマ娘がスタートの位置につく。トラックに他の走者がいないことを確認し、スタートの掛け声を発する。
砂を蹴って駆け出す二人。指示した通り、ファル子はハッピーミークの真後ろについた。
ストップウォッチの画面は、十種類の数字が入れ代わり立ち代わり顔を覗かせ、忙しない。
(12.5秒、12.5秒、12.5秒…)
まるで精密機械のように、寸分の狂いもなくタイムを刻んでいく白毛の少女。
以前、違和感を抱いた尻尾も、今回は手足の動きに逆らうことなくスムーズに揺れているように見える。進行方向に対して真っ直ぐ、水平に、そしてたおやかになびいている。
その走行フォームの何と美しいことだろう。既に完成形に達しているようにすら見える。
がむしゃらに砂を蹴るのではなく、必要最低限の力を効率よく地面に伝導させている。その証拠に蹴り上がる砂の量はごくわずかだ。
ダートコースでは誰かの真後ろを走るのは常に砂が飛んでくるリスクがあるが、あの走りならその心配もなさそうだ。
残り二百メートルを切る。先頭を行く少女は表情ひとつ変えず、呼吸のため口こそ開けているが澄ました顔で走っている。
一方、その真後ろにあるのは歯を食いしばって苦しそうな顔。何とか食らいついているといった感じだ。
二人のウマ娘がほぼ同時にゴールラインを通過した。ストップウォッチのタイムは一分四十秒ジャスト。必然、ファル子のタイムもそれとほぼ同じということになる。
しばらくのクールダウンの後、汗を拭いながら戻ってきたファル子に、嬉しい報告をする。
「やったな、今のが一分四十秒だ。しかもずっと同じペースだ」
「ほんとに…!? だからなのかな…苦しかったけど、何とか最後までついていけたみたい」
真後ろを走ることで空気抵抗の軽減効果も少なからずあったのだろう。ペースメーカーとしても完璧な役割を果たしたハッピーミークのおかげで、自己ベストを一秒近くも短縮できたのだ。
一方、白毛のウマ娘は、やはりこれっぽっちも疲れた様子を見せない。まだまだタイムを縮められる余裕すら垣間見える。秘められたポテンシャルの大きさに、驚きを禁じ得ない。
「ねぇ、もう一回走ってもいい?」
ファル子の闘志に火がついたのか、その金色の瞳にはやる気がめらめらと宿っている。
「ああ、俺は構わないが…」
おそるおそる桐生院ペアに視線を送る。
「ファルコンさんが望まれるのでしたら、いくらでも」
「…はい。何回でも付き合います」
ありがたいことに、二人は快く受け入れてくれた。
「ありがと〜☆ よぉし、気合い入れていくからっ! ファルファルスイッチ、オン♪」
そうして、ハッピーミークとの併走は何度か繰り返された。回を重ねるごとに0.2秒ずつタイムを縮めてゴールする白毛の少女。ついには一分三十九秒ジャストに到達する。さすがにそれにはついていけず、そこが今のファル子の限界だった。
しかし、そんなことでめげない彼女。今度は一分三十八秒台になるであろうその走りに、必死に食らいつこうとしている。
ファル子の頑張りと成長に心打たれる一方、恐ろしくすらある事実に驚きの色を隠せない。
「ミークは今年デビューさせるんですか?」
その疑問は自然と口をついて出ていた。
既に標準タイムを上回る走りを見せるハッピーミーク。その行末が気になって仕方がない。
一度メイクデビュー戦に出走すると、その年がジュニア級と認定され、以降は何があろうとその翌年をクラシック、更にその翌年をシニアと進級しなくてはならない。つまり、メイクデビューした時点で後戻りできないということである。
それゆえ、新入生がスカウトされるのは、青田買いのような側面が強い。新入生は年齢的に体の発育もこれからだし、それに伴って成績の向上が見込まれる。となれば、最初の一、二年は出走させずトレーニングに打ち込み、体が出来上がってきた頃合いでメイクデビューさせるというのが一般的だからだ。
もちろん、中には入学した年にメイクデビューを果たす生徒もいるが、それは鳴り物入りで入学した"超逸材"くらいなものだ。
「はい。そのつもりです」
自信に満ちた表情を浮かべ、何の迷いもなく堂々と断言した。
次いで、申し訳なさそうに頬をかく。
「それとすみませんが、さっきのミークについての質問ですが…今は答えられません」
すっかり忘れていたそれ。ハッピーミークがとんでもないウマ娘ということが分かった今、そんな些細なことはもうどうでもよかった。
「いえ…答えにくいことはスルーしてくださいね」
「ありがとうございます。その代わりといってはなんですが…トレーニングのお手伝いや情報交換は喜んでお受けします。同期のトレーナーとして、気軽におっしゃってください!」
両手を合わせながら、その眩しい笑顔にはやる気がたぎっている。願ってもないありがたい申し出に、すかさず感謝の言葉を返していた。
「こちらこそ、ありがとうございます。ファル子のことでまた相談させてください」
「いつでもどうぞ…! ただ、ファルコンさんのことは鳥林さんにも聞いてみてはいかがでしょう? 多分、あの方なら伸び悩みの原因も分かるはずです」
早速アドバイスまで頂いてしまった。彼女の言う通り、育成やトレーニングについては、やはり大ベテランに聞くのが一番良いだろう。
(それにしても嘘が苦手だな、桐生院さんは…)
伸び悩んでるなんて一言も言っていないのに、それをもう見抜いてしまっているのだ。
彼女の持つ能力や雰囲気は、間違いなく新人のそれではない。名門トレーナーの桐生院一族出身であることを考慮しても…である。ただ、その理由や根底には触れてはいけない気がした。
すぐ側で繰り返される追いかけっこに、乾いた砂が何度となく舞い上がっている。
見上げる空が、桐生院さんと同じ髪色にすっかり染まった、晩春の夜のことであった。
お疲れ様でした。
今回から、春のファン感謝祭〜メイクデビューに向けてのストーリーとなります。
次回、久々のあの娘と、新たなウマ娘が登場します。