君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆── 作:キビタキ
雲一つ見当たらない晴天の下、目の前で今、二人目の走者の持つバトンが三人目にしっかりと渡された。
砂埃を舞わせながら、全力で駆けるジャージ姿のウマ娘たち。時速六十キロメートルというトップスピード下で行われるバトンパスは、まさに壮観の一言だ。
(次はメイショウドトウ…)
向こう正面には、駆け出す瞬間を見計らう褐色の髪の少女。ここからではよく見えないが、多分そわそわと落ち着かない様子なのは想像に易い。
一人当たりの距離は千メートル。それはトラック半周の距離。すなわちトラック二周半を五人で走り切るのがこのリレーだ。
三人目がメイショウドトウへと近づく。頃合いを見計らい、絶妙なタイミングでスタートを切る彼女。バトンパスも成功し、後はアンカーにそれを託すだけだ。
(最後はファル子…)
目の前のメインストレートでその時を待つ担当ウマ娘。その顔は気合に満ちているというより、そこはかとなく不安げだ。
コーナーを抜け、徐々に大きくなるメイショウドトウの姿。その右手にはしっかりとピンク色をしたバトンが握られている。
ここしかないというタイミングで、ファル子は左手を差し出しながら駆け出す。お互いスピードに乗ったまま接近し、それぞれの手が交わされた瞬間。
目の前でバトンがこぼれ落ち、走者の勢いそのままに跳ねて転がった。とはいえ、それは一瞬のこと。クッション性の高い砂上では、バトンもすぐに動きを止める。
失敗を悟ったように、ファル子は力無くスピードを緩める。メイショウドトウも燃え尽きたように減速し、頭を抱える。
誰かに指示されたわけでもなく、何も言わずそこへと集まるメンバーたち。一様に、落ちたバトンに目を注いでいる。
トラックから少し離れたこのベンチからでも感じ取れる、ぴりぴりとした空気。業を煮やしたように、一人のウマ娘が不満そうに語気を強めた。
「すみません。ドトウ先輩、これ何回目なんですか?」
それは三人目の走者。メイショウドトウよりも年下のようだが、そこにはかつてあったはずの先輩への敬意はほとんどなく、敵意さえ込められているように見える。
リレーの順番は学院の在籍期間で決められていて、短い順にスタートし、最年長がアンカーを務めることになっている。それゆえ、先輩たちの度重なる失敗に、今まで強く言えず溜まっていたものがあったのだろう。
その一言が呼び水となったのか、二走目の娘も同じような不満を口にする。「もう見ていられません」、「いい加減にしてほしいです」、見ているこちらにもぐさりと刺さる言葉が、二人の後輩からとつとつと飛び交う。
しかし、それも無理ないことかもしれない。さっきのリレーが五回目のチャレンジだったが、それを含めて今日のチャレンジは全て失敗に終わっているのだ。しかも、いずれもファル子へバトンが渡るタイミングで。
聞いた話では、普段からそこの成功率は三割もないという。特に今日はひどく、未だに成功していないという有様。確かに、これで本番に挑むのは正直厳しい。
誰が見ても険悪な雰囲気。ファル子も「まあまあ」となだめにかかってはいるが、やはり自らにも負い目があるのか強く言い出せないでいる。
一走目の娘は今年入ったばかりの転入生らしく、もう止めようよと顔には書いてあるものの、さすがに声を上げることはできない様子。
そして、メイショウドトウはひたすら謝り続けていて、その耳はもうこれ以上なく垂れ下がっている。
「ファルコン先輩の晴れ舞台なんですよ」
そんな一言が聞こえてきた。
否が応でも注目される最終競技ということもあり、各人かなりプレッシャーを感じているのだろう。大一番でパスミスという呆気ない終了は許されない。何とか最年長の先輩に花を持たせたい。そんな思いもあるのかもしれないが、それにしても…。
「ご、ごめんなさいぃ…わ、わわ、私のせいでぇ…」
後輩二人の集中砲火にさらされ、針のむしろ状態のメイショウドトウ。それは普段からドジを踏む姿を見られていて、きっとそのせいでパスミスの犯人と決めつけられているからだろう。
気弱な彼女のことだ、平謝りに謝るしかないし、もし自分の非ではないという心当たりがあったとしても、とても言い出せないのだ。
それに、先輩二人のうち、どちらかといえば最年長のファル子には文句を言いにくい。となれば、その矛先がメイショウドトウに向けられるのは自然な流れだった。
「うぅ…ごめんなさい…ほんとに…ごめんなさいぃ…」
顔を手で覆い、今にも泣き出してしまいそうな彼女。
冷静に考えれば、現時点ではパスミスの原因がどちらにあるのかは分からないし、もしかしたらどちらにもそれがあるのかもしれない。メイショウドトウだけ責められるのは、さすがに見ていられなかった。
仲裁に入ろうと思った、その時。
「皆、待って! それは違うの…ドトウちゃんのせいじゃない…!」
後輩たちを温和になだめるばかりだった先輩が、突然叫ぶように声を上げたのだ。とげとげしかった空気が一転、重苦しい雰囲気に包まれる。
「私のせいなの…私の手が走る時に動いちゃってるから…だから上手くいかないんだよ」
胸に手を当てながら、沈痛な面持ちでうなだれるファル子。耳もぱたりと倒れ、しょげてしまっている。
「だからドトウちゃんは悪くない…責められないといけないのは私なんだよ…! だから…ほんとにごめんなさい!」
深々と頭を下げながら彼女は謝っていた。
誰も口を開かない、いや、開けない。あまりにいたたまれない鬱屈した空気。
このままではまずいと、手を差し伸べるべく立ち上がった。
その瞬間だった。
「さっきから見てたら何? アンカーの娘の体勢がぶれぶれなだけじゃない」
少し離れた場所から聞こえたそれは、呆れたような嘲りを確かに含んでいた。
予想だにしない出来事に、俺も生徒たちも、声のした方を見ながらぽかんとしている。
どこからともなく現れた謎の女。砂上を歩くには厳しそうな赤いヒールを履いているのに、それを全く感じさせない歩調でつかつかと割り込んでくる。
堂々と口を挟んできた闖入者に唖然とするしかない一同。あまりに唐突すぎて、どうしていいか分からずまともに反応できないでいた。
それをいいことに、謎の女はさらに続けた。
「四走目の娘を寄ってたかって責め立てて、何がしたいのかさっぱりだわ」
片足に体重を乗せながら、見下すように吐き捨てる。生徒たちは立ち尽くしたまま、その女の容姿と口調に気圧されていた。
真っ先に目につくのは奇妙なサングラスのような仮面。腰よりも長く伸ばした金髪。グラマラスな赤のボディコンスーツに白衣をまとう、あまりにド派手な風貌。
それなのに、今そこに現れるまで全く気づかなかった。
ただ、どう見ても不審者にしか見えない。職員ではないし、もちろんトレーナーにこんな奇抜な女はいない。
得体の知れない不気味さに身構えながら、ゆっくりと距離を詰める。
「あなた、一体誰ですか」
怪訝の声をもって牽制する。さっとこちらに顔を向ける謎の女。入念にトリートメントしていそうな金髪が、さらりと揺れる。それに乗って癖の強い香水の香りが鼻を突く。
わずかに上がる口角が俺をあざ笑っていることを教えてくれるが、サングラスの奥に潜ませる瞳の感情までは分からない。
「あなた…新顔ね。"ガチの"新人トレーナーかしら」
多分、じろりとこちらを見たに違いないような陰湿な響き。
質問に答える様子は全くなく、不敵な笑みを浮かべるばかりだ。飄々としたその態度に怒りが湧いてくる。
「練習の邪魔をするなら帰ってください」
丁寧な言葉遣いを維持していたのは、生徒たちの目の前だったからだ。もしそうでなければ、もっと厳しい口調と剣幕で迫っていたと思う。
「別に邪魔するつもりなんてないわ。ただ、あんまりにも下手すぎるんで黙ってられなかっただけだもの」
赤く染められた色っぽい爪を、同じく赤で彩られた妖艶な唇へと当てながら、謎の女はファル子の顔をぬっと覗き込む。
「ど下手なアンカーが誰か見に来たら…ふーん、あなた"今回は"ダートに挑むのね」
ファル子は思わず後退りする。侮辱されていることなんてどうでもよく、身の毛のよだつ外見と鼻を突く香水から逃げるように顔を引きつらせている。
そして、絞り出すように放った一言。
「あなた…仮面アイドル…? じゃないよね…」
それしか言えなかったのか。破裂しそうなくらい膨れていた緊張感の風船に、少しだけ穴が開いたような気がした。きっとそれは、謎の女に気圧されまいという精一杯の抵抗だったに違いないが。
もちろん、金髪の不審者はそんなことを意に介しない。
「あなた、今までずっと芝を走ってたでしょ。そのせいで地面を蹴り出す角度が曲がってるのよ。おまけに脚力だけはいいから、行き場を失った力が体を不安定にさせてる。ま、原因はそんなとこでしょ」
早口にそれっぽいことをのたまう女。その自由奔放な空気に飲まれて、誰も口を挟めない。
俺はといえば、謎の女の言うことに息を呑んでいた。今言ったことが嘘か本当かは分からない。はっきり言って眉唾物、信用に値しない戯言にしか思えない。しかし、妙に説得力のある推察にも聞こえたのだ。
「…って、別にアドバイスしに来たわけじゃないんだけど。でも、まぁ…"今回の"あなたには、また会うことになるかもしれないわね」
ファル子にそう告げるや、体重を乗せていた左足を軸に体を反転させ、華麗に踵を返す。金髪と白衣がふわりと舞い上がり、きつい香水の香りが立ち込める。
「それじゃ、せいぜい頑張ることね。ワォ、たいさ〜ん☆」
振り返りながら生徒たちを一瞥すると、そう言い残して謎の女は立ち去っていく。春の暖かな昼下り、優雅に散歩をするかのごとく、ただ悠然と。
(何だったんだ、今の女は…)
嵐が去ったように静まり返るダートトラック。この場にいる皆が同じことを思っているだろう。
残されたのは、言葉では言い表せない重々しい空気感。謎の女が刻みつけた不気味な余韻と、これからどうしたらいいのかという迷いが混然となって、頭の整理が追いつかない。俺も、生徒たちも、しばらく何も言えないでいた。
とはいえ、ずっとこうしているわけにもいかない。少しでも空気を入れ替えようと、さっき思いついたことを提案してみることにした。
「皆…残りの時間はバトンパスだけの練習に充てようか」
こちらへと顔を向ける生徒たち。その表情は狐につままれたようものもあれば、憂いを帯びたものもある。やはり落ち着く時間をもう少し取るべきだったか。
(いや、今はとにかく何かに集中させた方が良いだろうな…)
自らの逡巡を振り払うように、明るい声を意識する。
「まぁ、気分転換みたいなものさ。本番ではやらないことだけど、ドトウ以外の娘はファル子にバトンパスしてみてくれないか」
それを聞いて、顔を見合わせる後輩たち。ファル子は眉一つ動かさず、ただぴくりと耳を逆立てた。それは動揺の証。
担当ウマ娘の耳や尻尾の反応が何を示すのか、だいたいもう分かっていた。
「ファル子、やれるな?」
真っ直ぐな眼差しを彼女へと向ける。
「うん…分かった」
彼女もまた、迷いのない実直な視線を俺へと返した。つややかな栗色の尻尾は、覚悟を決めたように大きく揺れていた。
今度は褐色の髪の少女へと視線を移す。
「ドトウはいつもと逆に、ファル子以外にバトンパスしてみてほしい」
言い終えた途端、「えっ…」と声を漏らし、体を震わせながらまごまごするメイショウドトウ。その震えは不安から来るものなのか、それとも、その真実が浮き彫りになることをためらっているのか。
そんな心優しい少女へ、穏やかに語りかける。
「大丈夫、自信を持ってやってごらん」
「はい…分かりました…」
少しだけ上向いた両耳。いつの間にか、体の震えはぴたりと止まっていた。
そうして、リレー本番とは違う組み合わせのバトンパス練習が何度か行われた。
その結果、ドトウのバトンパスは渡す相手に関係なくほぼ成功した。一方、ファル子へのバトンパスは、渡そうとするのが誰であってもそのほとんどが失敗してしまった。
練習を終え、一箇所に集まるメンバー。良い天気のはずなのに、そこには湿っぽい空気が流れていた。
いちいち説明する必要もない。それが意味することを、皆分かっていた。分かっているからこそ、何も言えずにいた。
「…ドトウ先輩、すみませんでした」
物憂げな静寂を割いたのは三走目の後輩。さっきメイショウドトウへの苦言を最初に発した娘である。
深々と頭を下げて、精一杯の謝意を伝えようとしている。つられるようにして他の二人も頭を下げる。
「あ…その…気にしてないから、頭を上げて…ね?」
その姿に戸惑うばかりのメイショウドトウだったが、その顔には安堵の色が見えた。後輩たちの信頼を取り戻せたし、それはきっと彼女の自信にも繋がるだろう。
それは一見微笑ましい光景だった。そう、その裏で明確になった課題に知らんぷりできるのなら…。
「……」
再び訪れてしまった重苦しい沈黙。そこにあるのは暗い表情だけ。誰も知らん顔などできるはずもない。
こうなると、いよいよいたたまれなくなるのがファル子だった。重たすぎる尖った空気は、まるで鋭い矢のようにその心を容赦なく射抜かんとするだろう。
おそるおそるその顔を窺う。耳も尻尾も微動だにせず、無表情のまま俯いている。それはこれまで何度か見たことがある、涙腺崩壊の前触れ。
正直なところ、彼女の泣き顔を見るのはもうごめんだ。
「ファル子のことは俺に任せてほしい」
落ち着いた声で、ただそう言った。
ファル子は目を見開きながらこちらへと向く。後輩たちも同様に、驚きと不安が入り混じったような表情を浮かべる。
何か妙案があるわけでもない。何か当てがあるわけでもない。ただ、それでも前に進むため一緒に足掻くしかないのだ。なぜなら、俺は彼女のトレーナーなのだから。
「次の練習はいつ?」
「…明後日の夕方ですね」
明後日は春のファン感謝祭の前日。もちろん最後の練習となるだろう。
「オッケー、ありがとう」
答えてくれた生徒にお礼の言葉をかける。その娘は一走目の生徒だった。
さらりとした焦茶色のショートボブと、前髪にはピンクホワイトのメッシュ。
今月入学したばかりの、明るく元気で、ファル子より年下の前途洋々な転入生。
(ファル子にもっと早く出会えていたら…)
なぜかそんなことを考えてしまった。もしかしたらそれは、彼女が伸び悩んでいる原因を分かっていながら、それを認めたくないからなのかもしれない。
ふと、メイショウドトウが一際心配そうな顔をして問いかけてくる。
「…先輩のこと、お任せして大丈夫ですか…?」
俺とファル子だけに負担をかけたくないという、彼女なりの気遣いだろう。嬉しい反面、担当ウマ娘の活路は俺自身が指し示さなくてはいけないことも承知していた。
「ああ、大丈夫。心配しないでほしい。俺はファル子のトレーナーなんだから」
それはメンバー全員に向けた言葉だった。
授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。その軽やかな音色とは裏腹に、それぞれの心には大きな不安がのしかかっていた。
お疲れ様でした。
安心沢は忘れた頃にやって来ます。多分…(ゲームアプリでもそんな感じ)
原作ではファル子は高等部と明記されていますので、チーム最年長として書き進めています。