君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆── 作:キビタキ
「良かった…私だけのせいで」
彼女がぽつりつぶやいたその言葉が、頭の中を離れない。
安堵とも違う、落胆とも違う、ただ虚ろな瞳をさらに曇らせて、彼女はこうも言った。
「トレーナーさんの提案してくれたこと、なんだか犯人探しみたいで、今までできなかったの。ドトウちゃんが余計に責められるのが、怖かったから…」
耳をしおれさせ、尻尾を垂れ下げて、そして天を仰ぐ。
「でも、ほんとはね…こうなることが怖かっただけなんだよ…私、最低だよね…」
信じられなかった。いつもポジティブで、元気と明るさが取り柄の彼女が、ここまで思い詰めていたなんて…。
放課後を迎えたトレセン学院。鮮やかな夕日が砂の大地を照らしている。橙色に染まる校舎と、トレーニングに励む何人もの生徒たち。
彼女の見つめる先には、肉眼でも直視できるようになった真ん丸の太陽。金色の瞳も今だけはその色に染まり、儚げな光をたたえている。
(さて、どうしたものか…)
彼女と同じものを見つめながら難しい顔をする。
ファル子がここまで気落ちしてしているのは、原因が明確になったことに加え、練習を重ねれば上手くなると信じていたそれが、逆に成功しにくくなってきたからだろう。
おそらくだが、昨日のハッピーミークとの併走で速く走るコツを少なからず掴んだのだ。それが逆に、彼女が言うバトンを受け取る際の手のぶれを増長させてしまったのだと思う。
速くなったのは良いことのはずなのに、別のところにひずみを生じさせてしまった。そうであるなら、自分にも多少の非があるように思われた。
「トレーナーさん…今日はごめんね。私がダメダメなだけなのに…」
今日何度目かも分からない静寂に痺れを切らしたのか、沈痛な面持ちで声を落とすファル子。メイショウドトウの謝罪癖が乗り移ったかのようで、とても見ていられない。
「今はそのことは忘れよう。俺が必ず良い方法を考えるから、な?」
それでも彼女の表情はかげったままだ。「どんな時もウマドルは笑顔なんだろ」とはさすがに言えなかった。
ファル子は笑顔を作るのが得意だ。とても眩しくて、元気をもらえる笑顔。でもそれは、心の底から生み出されたものだからそう感じるのだ。張り付けただけの偽りの笑顔なんて、ただ空しいだけだ。
落ち込む時は落ち込めばいい。悲しみたい時は悲しめばいい。彼女が思うがままの感情をさらけ出せる空間を、俺が奪ってはいけない。
「ファル子!」
その名を力強く叫ぶ。
はっとしたように体をびくつかせ、両耳を逆立てる担当ウマ娘。
「約束だ。絶対に良い方法を見つける。だから、今はトレーニングに集中するんだ。いくらダートに適性があっても、今のファル子じゃバトンパスが上手くいったって勝てるかどうか分からない。今は練習に打ち込んで、少しでも速くなろう…違うか?」
「そうだよね…今できることって、それしかないもんね」
彼女は片方の拳をぎゅっと握りしめていた。もう片方の手は胸に当てられ、自らの迷いを抑えつけているようだった。
「それじゃ、まずはウォームアップしておいで」
「うん…行ってくるね」
心なしか抑揚に欠けた返事。やはりまだぎこちなさが残っているように感じる。トラックへと向かう足取りも、どこかとぼとぼとしていて、力無い。
おそらく薄々気づいているのだ。全てを解決する奇跡的な方法なんて無いことを。
現実的な案としては、バトンパスのスピードを遅くして成功率を上げるくらいだろうか。というか、それしか思いつかない。その方法だと、減速した分遅れを取るわけだから、もちろん勝率は下がってしまう。パスミスするよりは遥かに"マシ"ではあるのだろうが。
安全策を取って順位を落とすくらいなら、いっそ、このまま強行して一か八か成功を祈る方がいいのだろうか。
煮え切らない胸中に、自らの無力さを痛感する。
(後で鳥林さんに相談してみるか…)
今日のトレーニングを見てもらう約束を鳥林さんとしている。光明を見出だせるか分からないが、バトンパスのことはそのアドバイスを聞いてからでも遅くはないかもしれない。
鳥林さんがダートトラックにやって来たのは、ファル子がウォームアップを済ませて戻ってきたのと同じタイミングだった。
「あっ、教官さん! お久しぶり〜☆」
トレーナー長を見つけるやいなや、いつもの笑顔を振りまく彼女。
久々の再会に、沈んだ心も少し晴れたのかもしれない。
「おお、ファルコン。新人君と上手くやってるか。ここでは君の方がずっと先輩なんだから、手取り足取り教えてやってくれよ」
子供のような扱いに思わず苦笑いする。とはいえ、学院にやって来て一ヶ月と経っていない新人トレーナーより、何年も在籍する生徒の方が遥かに達者だろう。実際、学院のことはファル子の方がよほど詳しい。
「もうっ、呼び方はファル子でいいのに…トレーナーさんのことは大・丈・夫☆ 指導は毎日バッチリだよ! ファル子に任せといてね♪」
「ははは、元気そうで何よりだ。ファルコンがスカウトされてから、授業もすっかり静かになってしまってな」
どことなく憂愁の色を含ませながら、大先輩はフェイスタオルを首にかけ直していた。
トレーナーと契約済みの生徒は、午後の授業を教官による指導か、担当トレーナーによるトレーニングか選択することができる。とはいっても、十中八九後者が選ばれることになるが。
教官は何十人もの生徒を一括で指導するため、一人ひとりに適したトレーニングとはいえず、効果的ではないからだ。
「皆でやるトレーニングも楽しいんだけどなぁ…でも教官さんのとこに行くと、トレーナーさんが寂しがっちゃうから…」
独り言のようにつぶやきながら、トラックで練習に励む夕焼け色のウマ娘を見やる彼女。
ファル子が大勢の生徒たちに紛れ、賑やかにトレーニングする光景は、容易に目に浮かんだ。
「別にたまになら鳥林さんのところに行っても構わないんだぞ」
反撃の意味も込めて、ちょっとだけ冷たくあしらってみる。
「ダメだよ。ファル子はトレーナーさんのお目付け担当だから。ね? 教官さん」
「その通りだ。ファルコンを心配させないようにな」
「はぁ…」
そこにはタッグを組まれての倍返しが待っていた。何とも言えない悔しさが込み上げてきたが、さっきまでの沈んだ空気より断然良い。
一度咳払いして、改まる。
「鳥林さん、今日はよろしくお願いします」
「ああ、よろしく。早速見せてもらおうかな」
「分かりました。ファル子、千六百メートルを一分四十秒で周回。いけるな?」
「任せといて☆」
ピースサインを決めると、彼女は颯爽とスタート地点へと向かう。
鳥林さんとの再会が、思いがけず彼女にとって清涼剤となったようだ。それだけでも、今日見てもらう約束を取り付けたのは正解だと思った。
ファル子の準備が整ったのと、他の生徒がトラックにいないことを確認して、スタートの合図を出す。
つややかな栗色の髪と尻尾を揺らしながら駆け出す彼女。隣に佇むトレーナー長は、腕を組みながら、瞬き一つせず、精悍な眼差しで彼女を凝視し続けている。
それは無言のまま続くと思われたが、不意をつくようにして厳かな声が発せられた。
「君がファルコンとの契約書を提出した日、ベテラントレーナーたちは皆驚いた。そして、しばらくその話で持ち切りになった」
向こう正面をひた走るファル子。鳥林さんの目はそれを捉えて決して離さない。
「これまで結構な数のトレーナーや教官が説得を試みたが、あの娘の決意は変えられなかった。だが、君にはできた。そのことに皆が敬意を払っていた」
説得を試みたという教官の中に鳥林さんもいたのだろうか。まだ結果を残せたわけでもないのに、褒められたようで何だか嬉しかった。
いつしか第四コーナーを抜けて、ファル子は眼前の直線へと差し掛かっていた。どこか余裕そうにも見えるその顔。ゴールラインを通過したのと同時にストップウォッチを止める。
結果は、ほとんど同じペースを刻んでの一分四十秒だった。昨日の併走の成果が、如実に現れた。
と、思った直後、トレーナー長は淡々と言い放った。
「コンバートには苦労するぞ」
その言葉は鼓膜すら通り越え、頭の中で重々しく響いた。
ほどなくして、足早にこちらへと戻ってきたファル子。
「教官さん。ファル子の走りどうだった?」
「そうだな、もう一回走ってみてくれないか? 今度は…持久走がいいんだが」
意味ありげなことを口にしつつ、それとなしにこちらへと目配せする鳥林さん。
俺には分かっていた。それはファル子をこの場からしばらく遠ざけたい意図があるのだと。
「それじゃ、ファル子。今度はトラックを五周。一周は二分二十秒以内で」
「うん☆ 行ってきま〜す」
今度は手を振りながら、やはり軽やかに砂上を駆けていった。
ウマ娘の聴力は鋭敏だ。彼女が第一コーナーを抜けた辺りで、鳥林さんは口を開いた。
「あの娘の伸び悩みについて、君はどう思ってるんだ?」
見慣れた精悍な眼差しをこちらへと向ける。
「自信はありませんが…」、そう前置きした上で、自分なりの結論を述べた。
「多分、芝を走る期間が長すぎたんだと思います」
最初に借りたコンバートに関する本。そして先日借りた同様の本。いずれもその記述がなされていた。
(そういえば、あの謎の女も同じようなことを言ってたな…)
信じたくはないが、おそらくその見立ては合っているのだろう。
しかし、本音を言えばそれは信じたくないことだった。芝を走れば走るほど生み出される弊害。ファル子の場合、それはあまりにも大きすぎる。できればこの推察は間違っていてほしい。大先輩が、きっと別の原因を言い当ててくれる。そんな淡い期待が無かったわけではない。それはきっと叶わぬことだと、心の底では分かっていながら…。
無情にも、鳥林さんは何も言わず頷いた。
夕日がついに見えなくなるまで沈むと、それを見計らったように、トラックの照明に白い明かりが灯された。
「あの娘は頑なに芝で走り続けてきた。それも入学してから数年間、ずっとだ。その結果、自然と芝に適した走り方になってしまっている。元に戻すにはどれくらいかかるか…もしかしたら入学してから経った時間と同じだけの時間が必要かもしれない」
担当ウマ娘が第四コーナーを越えて、目の前を横切っていく。
ひそひそ声の一歩手前くらいの声量で鳥林さんは言った。
「ほら、あれを見てみろ。本当にごくわずかだが、地面を蹴り出す時の足の向き、あれが外側に向いてるんだ」
そう言われて目を凝らす。しかし、気づくことはおろか、言われても正直分からなかった。そんなわずかな違和感を、鳥林さんは一目見ただけで看破していた。
ずっと眉間にしわを寄せてばかりの俺に気づいたのか、気さくな感じに声をかけてくる。
「まぁ、分からなくても無理はないさ。角度でいえば二、三度。全体の姿勢をじっと見てやっと気づけるレベルだ。教官としてあの娘のトレーニングを見てきたってこともあるが、これはもう経験だな…新人が気づくにはちょっと難しすぎる」
それは仕方ないこと、そんな風にフォローしてくれたのかもしれない。
しかし、いくら経験不足とはいえ、彼女を間近でつぶさに観察していながら気づけなかったことは紛れもない事実。そのことがただただ悔しく、唇を噛むしかなかった。
「その角度のズレはどうして起こるんですか?」
コンバートの本にそれについて多少の記述はあったが、その確認も兼ねてあえて問いかけていた。
「芝は砂と比べると滑りやすい。ずっと芝を走っていると、地面を蹴る時のスリップを防ごうと、蹴り出す角度が開いていくんだ。そうすれば安定感が増すことを、体が自然に覚えてしまう。それこそ、水滴が長い年月をかけて岩を穿つように、少しずつ、そして無意識のうちにな…」
「やっぱり、芝を走り続けたことが原因なんですね…」
「そうなるな。まれにいる芝と砂両方に適性がある娘は天性の感覚でその使い分けができるんだが…そんな娘はごくわずかだしな」
鳥林さんの視線の先で、眩い白の照明が目の前を駆ける彼女の影を、くっきりと黒く描き出している。
「今の走りは芝では最適だが、ダートでは砂を蹴り出す力が逃げてしまうことになる。その結果、体が左右にぶれて安定しなくなる。特に、彼女のような腕を横に振る走りだとなおさらだ。自慢の脚力も悪い意味でそれに拍車をかけてるな」
その後も鳥林さんによる説明が粛々と続いた。
砂地を蹴り出す角度が、進行方向に対して真っ直ぐの時を百パーセントとした場合、角度がたった一度ずれるだけで二、三パーセントほど力が逃げてしまうというのだ。
ファル子の場合、少なくとも五パーセントは推進力が落ちてしまっているらしい。しかし、それは裏を返せば、今より五パーセント速く走れるということでもあった。今のタイムは一分四十秒。すなわち、適切な走りをすることができれば、一分三十五秒にまで縮められるということだ。
「そのタイムなら十分トップ争いに食い込める速さだ。といっても、それはあくまでどんぶり勘定。一気にそこまで縮まることはないだろうが…」
そう言いながらも、大先輩の目にはダイヤの原石を見るような、うきうきとした輝きが見て取れた気がした。
そして、それは俺も同じだった。たとえ根拠に乏しい推測であっても、期待に胸が膨らむのを確かに感じていた。
しかし、それはあくまで彼女の走りが変わればの話。その最大の壁を打ち崩せなくては、机上の空論に過ぎない。
「鳥林さんは…これからどうしたらいいと思いますか?」
組んでいた腕を解いて、名前を呼ばれたその人はそっとあごに手を当てる。そこにあるきちんと整えられた髭が、ジャージ越しも分かる筋肉隆々とした見た目を、武骨なものではなくスマートに見せていた。
「手は二つだ」
ファル子が目の前を通り過ぎてから、静かな声でそう切り出した。
話に集中し過ぎて、彼女が今何周目なのかも分からない。
「一つは、芝を走っただけの時間と同等の時間、ダートを走らせる。これなら全体のフォームを崩さず、自然と適した形になる。自分の走りを見失うリスクは低いが…難点は時間がかかること、そしてその時間が読めないことだ。運が良ければ数ヶ月で直るかもしれないが、数年かけても直らないかもしれない」
続き、あごに当てていた手を腰に持っていき、向こう正面を駆ける彼女の姿を見据える。
「もう一つは、フォームを一から作り直すことだ。ダートを走る前提で組み立てるわけだから、上手く型にはまれば確実にタイムは改善する。運が良ければ習得期間も短く済む可能性もある。ただ、リスクはかなり高い。今のフォームを失うばかりか、体に合わなければ最悪の場合、スランプに陥る」
言い終えるや、首にかけたフェイスタオルをおもむろに手に取り、きれいに折り畳んで再び首にかけ直す。その動作に何か意味が込められているのか、俺には分からなかった。
なおも鳥林さんは続けた。
「フォーム改造の成否は半々ってところか…ただ、それを試みる娘ってのは、いわば崖っぷちだ。このままではどうにもならない、あるいは故障明けでにっちもさっちもいかない、そこまで追い込まれた娘が取る最後の手段だ」
軽やかに語られたその言葉に、口調に似つかわしくない重みを確かに感じた。それはきっと、これまでのトレーナー生活でいくつもの明暗を見てきたゆえの深み。
ウマ娘のレースに限ったことではない。どんなスポーツでも、些細なフォームの崩れが成績不振につながることは多々ある。一からフォームを作り直すということは、相当に大きなリスクを孕んでいるといえる。下手をすると博打に近い。
いずれの方法にしろ、ダートに適したフォームにすることができれば、彼女はきっと速くなる。鳥林さんは俺にそう告げた。「もしかすると、頂点を狙えるかもしれない」と、自信ありげに付け加えながら。
ファル子は黙々と走っている。何周目かも分からないその周回を、砂煙を巻き上げながら、ただ悠然と駆けていた。
「この後どうするかは、トレーナーである君が決めるんだ」
その姿を見やりながら、トレーナー長は一段と厳かな声を響かせた。
(そうだ…俺が決めることなんだ…でも、一体どうしたら…)
全てがたちどころに解決する妙案なんてあるわけがなかった。リスクの多寡はあれど、それはどちらも茨の道。簡単に選べるわけもない。
それが顔に出てしまっていたのだろう。鳥林さんは諭すように言った。
「まぁ、迷ったなら二人でじっくり相談することだ。彼女に決断を委ねるも良し、君が説き伏せるも良し。担当ウマ娘を夢へと導くことさえ忘れなければ、どちらでも構わない」
そして再び腕を組むと、さっとこちらへと向き直った。
「ところで、覚えているか?」
「何をですか?」
「選抜レースの日、私に質問したろ?」
その一言をきっかけに脳内の海を探ると、海底にかすかな記憶が見つかった。それをすぐさまサルベージして、言語に変換する。
「鳥林さんが初めて担当した娘…のことですね」
「ああ、君が担当を持った時に話す約束だったからな」
実を言うと、そのことはすっかり忘却の彼方へと置き去りにしていた。言われなければ、多分思い出すこともなかったかもしれない。
鳥林さんも俺の反応からそのことには気づいたようで、どことなく鼻白んでいるように見えた。
「それで、どんな娘だったんですか?」
その空気を何とか取り繕おうと、興味のあるように振る舞う。いや、実際に興味があるのだから、振りでも何でもないが…。
ただ、返ってきた答えは意外なものだった。
「もったいぶって申し訳ないが…結論から言うと、ほとんど覚えていないんだ」
それは最初、俺のつれない反応を見て、適当に話を終わらせようとして言った冗談かと思った。
しかし、そうではなかった。その話はこう続いたからだ。
「私にとって最初の教え子は、トレセン学院にいたわけじゃないんだ」
「どういうことですか…?」
その問いかけに、鳥林さんは宵闇に染まりつつある空を見上げた。
「今の君よりも若い頃だ。私はある幼いウマ娘と出会った。どうしてそうなったか覚えていないが、彼女に走りについて教えることになった。当時の私の知識など、陸上競技に明け暮れた程度の拙いものだったが、彼女は見る見るうちに速くなった。将来トゥインクル・シリーズに出走するんだと意気込んでいたな」
優しげに思い出を語るその顔は、いつもの頼りがいのあるそれではなく、孫娘の自慢話に目尻を下げる祖父のようなそれだった。
「担当ウマ娘…と言っていいのか分からないが、少なくとも私にとってはそうだった。だが、彼女といられたのはごくわずかな期間だった。どこかに引っ越してしまったのかもしれない。あるいは飽きたのかもしれない。いつからかぱったりと現れなくなった」
「その娘のことは他に何も覚えていないんですか?」
「ああ、名前も、顔も、声も、何もかもな。そういう娘がいた、それだけしかもう覚えてない」
そして、最後にぽつり、こうつぶやいた。
「以前は確かに覚えていたんだがな…」
憂いを帯びた声が密やかに響く。
その忘れ去ってしまった姿を投影しているか、鳥林さんはいつしかファル子を目で追い続けていた。
「あの時の娘がトゥインクル・シリーズを目指してどこかの学校に入学したかは分からない。もしここに入学していたとして、私に気づいたのかも分からない。ただ…間違いなく言えるのは、彼女が私にとって最初の担当ウマ娘で、トレーナーを目指すきっかけだったということだ」
その目はやはりファル子を捉えて離さない。彼女が目の前を横切った一瞬、大先輩はほんの少しだけ微笑んだような気がした。
「そういえば、君はどうしてトレーナーを目指したんだ?」
不意に向けられた視線。とっさには反応できず、少し間を置いてから答えた。
「…子供の頃に初めて見たレースとライブに感動したからです」
「一番印象に残ってるのはどんな娘だ?」
その質問にかすかな違和感を覚えた。レースとライブを見たとしか言っていないのに、そこに俺の憧れのウマ娘がいるのを分かっているような聞き方だったからだ。
「赤茶色の長い髪と、青色の瞳…その娘が印象に残ってますね」
「そうか、ちゃんと覚えているんだな。まぁ、当たり前か…」
「…?」
「私みたいになるなよ。決してその娘を忘れないようにな」
意味深なことをさらりと言ってのけると、続けざまにほくそ笑んでみせる。
「こんな言葉がある。『トレーナーは担当ウマ娘の最初のファンであれ』。私が言うのも滑稽かもしれないが…」
そう言い終えた時、「ファン第零号は最初のファンになりますか?」と、心の中だけで質問していた。
それにしても、トレーナーを目指すきっかけになった娘を忘れるなんてこと、あるのだろうか。
何か言いたくないことを隠すために、嘘をついているのではないか。そんな風に思ってしまうほど、信じられないことだった。
自分に置き換えれば、何十年後かに憧れのあの娘を忘れてしまうということである。そんなこと、真冬に桜の花が満開になるくらい、あり得ないことのように思われた。
しばらく続いたしじまを、おそるおそる割いていく。
「ところで、話は変わるんですが…」
「ん、何だ?」
「実は、春のファン感謝祭でファル子がダートリレーを走るんですが、バトンを受け取るのがどうしても上手くいかないんです。これってやっぱり…」
考える素振りも見せず、鳥林さんは断言する。
「そうだな。さっき言ったように、ダートに適さない蹴り出しの角度で左右のぶれが増し、バトンを受け取る手が定まらないんだろうな」
(やっぱりそうだったか…)
話を聞く中で何となく察してはいた。
そしてそれは、練習中に突如として現れた謎の女が言っていたことと同じだった。つまり、あの女はベテラントレーナーレベルの経験と洞察力を持っているということになる。
その時、少女の不安げな声が遠くから聞こえた。
「やっぱりあの女の人が言ってた通りなんだね…」
周回を終えたのか、そろそろとこちらへと歩み寄るファル子。
おそらく、さっきの会話がその鋭敏な耳にも届いたのだろう。
「あの女の人?」
鳥林さんはあからさまに訝しんでいる。
「うん、あのめっちゃ怪しかった女の人。ね? トレーナーさん」
「ああ…その、実は午後の練習中に金髪の謎の女が現れまして…」
彼女の言葉に促されるように、今日の出来事を話そうとする。
刹那、鳥林さんの目の色が変わった。
「そいつは変な仮面をしてた白衣の女か?」
明らかな変貌に思わずたじろぐ。その表情は強張り、いつもの気さくさなど欠片もない。鋭すぎる目がわなわなと、憤怒か、憎悪か、それに類する感情をたぎらせている。
「はい…そんな格好をした女でした」
「理事長からのメールを見ただろう? あいつがその笹針師だ」
「…あの女が?」
予想だにしない言葉に、目を丸くするしかなかった。
ちらりとファル子を見やると、耳をぴんと張り詰めたように逆立て、どうしたらいいか分からず怯えているようだった。
次いで、鳥林さんは今まで見たこともない厳しい目つきで、ただ一言、冷たい声を響かせた。
「あの女には絶対関わるな」
それ以上は取り付く島もないといった様子で、近づきがたい鋭利な空気をまとわせる。とても話しかけられる雰囲気ではない。
鳥林さんとあの女の間に、ただならぬ何かがあったことは確かなようだった。
「ファルコン…絶対だぞ」
彼女への一瞥と共にそう言い残すと、にべもなく足早に立ち去ってしまった。
残されたのは、俺と、ファル子と、重苦しい空気。
おそるおそる口を開く彼女。
「ファル子、教官さんを怒らせるようなことしちゃったのかな…」
「いや…ファル子は何も悪くないさ」
なだめるように優しく言葉をかける。
(そう、何も悪くない。ただ…)
色んなことがありすぎた。上手くいかないバトンパス、ターフの代償、そして、謎の笹針師。
悲しいかな。濃霧立ち込める胸中、それを晴らす術を、俺は何一つ持ち合わせていなかった。
お疲れ様でした。
これにて第6話は終了です。
鳥林さんの初担当のくだりは、作者も忘却の彼方へと置き去りにしてしまうところでした(汗)