君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆── 作:キビタキ
春のファン感謝祭まで後二日。
全く気分の優れない目覚めだった。若草色のカーテンから差し込む日差しは明るく、朝の肌寒さも日々薄れてきているのに…である。
天気は昨日と変わらず晴れ。それどころか、春のファン感謝祭までずっと降水確率零パーセントの良い天気らしい。きっと今年の新入生は晴れ女が多いのだろう。
昨日突きつけられた厳しい現実。ファル子に課せられたターフの代償は、あまりにも無慈悲だった。
そのことを本人に話すのは気が引けたが、もちろんそういうわけにはいかない。話し終えた時には、かなりショックを受けていたようだった。
「どうにもならなかったら、デビューを一年遅らせてもいいよ」
気丈に振る舞いながら、彼女はそうも言った。ただ、それが本音ではないことは明らかだった。
学年的なことに加え、体が年齢的にピークを迎えつつあることも考えれば、これ以上のデビューの遅れは避けたかった。
彼女は「今後の方針はもう少し考えさせて…」と言い残すと、夜の帳が下りた生徒寮へと力無く帰っていった。
一方、俺自身も、昨日からずっとこれからのことを考えているが、全く煮え切らないでいた。
出勤の準備を整え、トレーナー寮を後にする。いつもより少し早い出発だったのは、確かめたいことがあったからだ。
目的地は桜並木にほど近い自販機。朝礼の三十分前、その人が必ずホットコーヒーで一服することを、俺は知っている。
それは今日も変わらなかった。
「おはようございます」
その人はちょうど、腰を曲げて自販機から缶コーヒーを取り出しているところだった。
「おはよう」
拾い上げながら、こちらへとゆっくり振り返る。
素手でずっと持つには熱いであろうそれを、お手玉のように両の手で行ったり来たりさせている。
その顔と声には昨日のような厳しさはなく、いつもの頼りがいのある安心感を漂わせていた。
「昨日はありがとうございました。それと…ファル子が心配してました」
「そうか…ファルコンには悪いことをしてしまったな。大人気ない姿を見せてすまない」
手に持つそれをぱかっと開けると、鳥林さんは軽く喉へと流し込んだ。
「あの娘には私からひと声かけておこう。ちょっと話でもしていくか。あの笹針師のこと、気になるだろう? 君はアイス派だったな」
「あっ…はい」
自販機が大きな音を立てる。そこまでしてくれることは想定していなかった。自分の浅慮を少しばかり後悔した。
夜桜が美しかったあの選抜レースの日のように、すぐ隣にあるベンチに並んで腰掛ける。
「あの女の名は安心沢刺々美。天才笹針師だ」
「天才…ですか?」
「ああ、天才だ」
思わず聞き返したのは、それが褒め言葉にしか聞こえなかったからだ。とても嫌悪の対象へと向ける言葉とは思えない。
笹針とは元来、疲労回復や凝りの改善を見込んで施される針治療のことだ。
現代医療の発達した現在はあまり聞かれないが、一昔前まではウマ娘に対しても人間に対しても、どこでも普通に行われたポピュラーな医療だったという。
「安心沢の笹針は普通のとは違う。悔しいが、もはや神の領域だ」
コーヒーを一口含みながら、腹立たしげな声を響かせていた。
鳥林さんいわく、安心沢の施術は通常の笹針とは異なり、体のどこかにあるという"ツボ"を狙い澄まし、それを刺激して活性化させるのだという。その結果、体の不調を劇的に改善させたり、飛躍的に潜在能力を向上させたりできるという、夢のようなものであった。
「そんなこと、可能なんですか…?」
さすがに耳を疑うしかない。まさに世紀末のような話だ。
「ああ、実際に怪我で伸び悩んでいた生徒が、あいつの施術によって様変わりした。選抜レースで上位に食い込めるほどにな」
手に持つアイスコーヒーの冷たさも忘れて、ただただ話に食い入っていた。
もしその話が事実だとしたら、怪我に苦しむ生徒たちの救世主になるのではないか。そんなことを毛ほども思わなかったわけでもない。ただ、それは大前提として、安心沢が聖女でなければならないが…。
あの不気味さ、そして不敵な笑み、あの女が持つそれは、聖女のそれとは似ても似つかない。
「安心沢に生徒を治療する気は無いんですか…?」
おそるおそる問いかけると、鳥林さんはすかさずふんと鼻を鳴らした。
「そうだと良かったんだがな…それはあいにく不可能だ。今のあいつは悪意の塊だからな」
そう吐き捨てると、缶コーヒーの残りをぐいと飲み干し、ベンチの片隅に叩きつけるように置いた。
次々に発せられる新事実が気になり過ぎて、自らのそれを開栓するタイミングを完全に見失っていた。
「安心沢は、ウマ娘の力を見抜く眼力もベテラントレーナー並みに優れている。おまけに、笹針師としての技量も天才的。成功するも失敗するも、意のままだ。そう、施術はあいつにとって遊び。成否はその時の気分で決まるといっていい」
「それって…わざと失敗してるってことですか…」
恐ろしい想像に身の毛がよだつ。
「…そういうことだ。労なくして力を得られる魔法のような施術。それに伴うのはハイリスクだ。選手生命が一瞬で潰えてしまうほどのな」
「そんな…」
言葉を失うしかなかった。もし昨日あの場所に俺がいなかったら…そう思うと背筋が凍った。
「あいつはそうやって生徒の人生をもて遊んでいる。これ以上、不幸になる娘を増やすわけにはいかないんだ」
淡々とした口調には、確かな怒りが含まれていた。
はっきり言って、そんなことをする安心沢の気が知れないし、昨日の鳥林さんの反応も当然のことに思える。
あの女に、大手を振って学院を闊歩させるわけにはいかない。
「思ったんですけど…トレーナーだけじゃなくて、全校生徒にも安心沢のことを通知するというのはどうでしょう? そうすれば…」
皆が安心沢の恐ろしさを知っていれば、誰も悲しい目に遭わなくて済む。
即座に思いついたそれが口をついていた。
「そう思うだろ? だが、それはできないんだ」
けんもほろろに一蹴され、トレーナー長はその理由を、腕を組みながら諭すように語り出す。
「勝ちたい、速くなりたい、そう思って必死に努力しても叶わない。残念だが、そういう娘はこの学院には何十人…いや、何百人もいるだろう。もしそういう娘に光明が差したら…? たとえそれがどんなリスクを孕んでいようと、藁にもすがる思いで首を縦に振るんじゃないか?」
その言葉に、ファル子の現状が思い浮かんだ。もし彼女のターフの代償をすぐさま取り払えると誘惑されたら…心が動かされないという保証はない。
「トレーナーもそうだ。もしこれ以上負けられないところまで追い込まれていたら、担当ウマ娘にそれをさせないと言い切れるか?」
鳥林さんは厳しい眼差しをこちらへと向けていた。
もう後がないほどの焦燥に駆られた者がいる限り、安心沢は熱望される。そんな者たちへの説得は詮無いことだと、その目で訴えかけてくるようだった。
「だから安心沢の詳細は公にできない…できるわけがない。君たちトレーナーに『謎の笹針師を信用するな』と伝えるのが精一杯なんだ」
「…俺にそのことを話したのは問題ないんですか?」
一呼吸置いて、素朴な答えが返ってきた。
「君は…信用できる。私のトレーナーとしての勘だ。それに、理事長の推しトレーナーだしな」
「はぁ…ありがとうございます」
苦笑いしながら、三度目の理事長推し発言に肩をすくめた。謎の選考基準だが、何にしても大先輩に認められているようで嬉しかった。
ふと、鳥林さんは空き缶を掴みながら立ち上がった。
「いいか。あいつは忘れた頃に姿を現す」
まだ中身が残っていたのか、今度こそ最後の一口を体に注ぎ込んで、こちらを一瞥する。
「気をつけるんだ。担当ウマ娘の悩みや不安、そこにつけこまれないように」
次いで、空き缶をゴミ箱へ放り込みながら、おもむろにその場を立ち去っていく。
その声にはあらん限りの悔しさが込められていたように感じられた。
おそらく、今まで何度か事件が起きたのだろう。それも、悲劇的な結末を迎えてしまった何かが…。
後味の悪い空気に視線を落とす。手元のそれは、ついぞ冷たいうちに開けられることはなかった。
それからほどなくして、トレーナー室でいつものように朝礼が行われた。
トレーナー長の隆々とした声が響き渡る。
「昨日、謎の笹針師に注意せよと理事長からメールがあったと思うが、早速その日に目撃情報があった。十分注意するようにな」
とても簡潔に、そして厳かに、トレーナー長は後輩たちへそう告げた。
さっき言っていた通り、詳細を話すことはしなかった。理事長メールが要領を得ない不明確な文面だったのも、そういう意図があるからだろう。
「…以上だ。今日も事故なく、怪我なく、気をつけること。では、解散」
その言葉と同時に、トレーナーたちはまばらに散って各々の業務にあたり始める。もちろん、俺も例外ではなく、今日のトレーニングメニューを練るため自席へと戻り、いつものように手帳を開く。
安心沢のことが気がかりではあったが、今すべきことに意識を向ける。
今はただ、何でもいいから気分を紛らわしたかった。
すっかり常温になった缶コーヒーを開け、口に含む。以前と同じ、バランスの取れた苦味と甘味が、微糖の素晴らしさを教えてくれた。
(自販機って常温販売ないよな。これはこれで美味いのに…)
ソムリエにでもなったつもりか、意外な美味しさの発見にひっそりと口元を緩ませていた。
そんな時、すぐ近くで同期の女性トレーナー二人の話し声が聞こえてきた。どうやら担当ウマ娘のことらしい。
別に盗み聞きするつもりはなかったが、やはり聞こえてくるものは気になってしまう。それがトレーナーの仕事に関する事柄ならなおさらだ。
というか、向こうがここにまで届く声量で話しているのだから、これは盗み聞きではなく不可抗力だろう。自身の無実を決め込みながら、それとなく聞き耳を立てる。
「担当してるあのメジロ家の娘、調子どう?」
メジロ家。それは由緒正しい歴史ある名家で、多くの実績あるウマ娘を排出してきたことで有名だ。その名前を聞いたことがないというトレーナーはいないだろう。
「なかなか良さそうかな。さすがはメジロ家のお嬢様って感じで。どうして新人の私なんかにスカウトを頼み込んできたのか分かんないけど…」
「過去の身体テストや選抜レースの成績、全然良くなかったみたいだしね。だから三位になっても先輩たちには敬遠されたんじゃない?」
「かもね…足にちょっと不安があるみたい。走りは凄くしとやかで綺麗なんだけど。まぁ、学年的なのもあるよ。あの娘、今年デビューしないと最終年にシニアが間に合わないし…」
今年デビューしないと間に合わないということは、きっとファル子と同学年だろう。もしかしたら彼女も、俺と同じ悩みを抱えているのかもしれない。
(新人トレーナーは皆、苦労してるんだな…)
どこか他人事のように俯瞰したのも束の間、自らに課せられた苦難としばらく格闘を続けた。
一限目の終了を告げるチャイムが鳴って、しばらく経った頃だった。
「失礼します!」
授業と授業の合間。少女の明るい声が、トレーナー室の入り口で発せられた。
ファル子の声ではない。すぐにそう判断すると、ちらっと見やることさえせず黙々と作業を続ける。
生徒がトレーナー室に訪ねてくることはよくあるが、そのほとんどは担当トレーナーを探しに来たか、トレーナー長への報連相である。
以前、デスクワークに集中していた時に、ファル子に真後ろからコーレスの不意打ちを食らったことがある。トレーナー室に響いた「追うしかな〜い」に、彼女は大変ご満悦だったが…。
条件反射でそれが出てしまうほど調教されてしまったことはまだ許せるし、それどころか大歓迎だ。ただ、問題は時と場所だったのだ。あの時の周囲の視線といったら、それはもう痛々しく、顔から火が出る思いとはまさにこのことだった。
それ以来、生徒の入室…いや、ファル子の侵入にだけは警戒していた。といっても、音を立てず入ってこられて、しかもその姿が目に入らなければ、やはり無防備のままではあるが。
ふと、立ち上がりざまにトレーナー室の入り口へと目をやると、先ほどの声の主と思しき生徒が立ち尽くしている。誰かを探しているようだが、見当たらないのかしきりにきょろきょろしているようだった。
(あれ? あの娘は確か…)
見覚えのある顔に記憶の水面が波打つ。それと同時に、その娘の視線は確かに俺を捉えた。
こちらへの最短距離を、すたすたと迷いなく歩む焦茶色の髪の少女。それは昨日の練習で顔を合わせた、リレーメンバーの第一走の娘であった。
「おはようございます! 昨日はありがとうございました!」
ファル子と同じくらいの背の高さ。近過ぎず遠過ぎず、そんな距離感で発せられた元気なそれは、担当ウマ娘のものとはまた違う快活さを秘めていた。
「えっと…おはよう。何かお礼を言われるようなことをしたかな…?」
「はい! ぎすぎすしてたチームを、トレーナーさんがまとめてくださったじゃないですか。私も何とかしたいと思ってて、でも何も言えなかったから…その…ありがとうございました!」
言葉を選びながら、とつとつとそう話してくれた。
確かこの娘は、昨日メイショウドトウが詰め寄られていた時、悲しげな顔をしながら何か言いたそうにしていた。
ただ、転入生という立場もあり、結局何も言い出せなかったようだ。それは仕方のないことだろう。
「うん、まぁ…チームをまとめたというか、課題を明確にしただけだからね。後はファル子の頑張り次第だ」
「そんなことないです。私たち後輩も頑張らなきゃ…それと、あの香水きつきつ女を追っ払ってくれてありがとうございました!」
「ん…そうだったっけ?」
目の前で、少女は笑顔のまま耳をぴょこぴょこと動かしている。
確かにあの女に厳しく声はかけたものの、向こうが勝手に消えただけだったと思う。もしあれが勇ましく見えたというのであれば、存外悪くない気分ではあるが。
「ファルコン先輩のことを悪しざまに言ってましたし、トレーナーさんがいなかったらどうなっていたか…都会にはあんな恐ろしい人がいるんですね」
「うーん、都会は関係ないかもしれないけど…」
人の絶対数が多い分、そういう連中も多かれ少なかれいるのかもしれない。地方からここへとやって来たであろう転入生には、あの女のインパクトは確かに強すぎたように思える。
「君の地元はどこ?」
「えっと、"どさん娘"です…!」
どこか誇らしげにそう答えてみせる。
年端もいかない少女が、親元から遠く離れたこの地で寮暮らしをしている。それだけで十分立派だ。
「北海道か…ほとんど行ったことがないな。何年か前に札幌と函館のレース場を見に行ったくらいかな」
「実家は札幌から少し離れたとこですね。海が近いところに住んでました」
そう言われたものの、北海道の地理には疎いためどの辺りか想像がつかない。ただ、北海道の広大でのどかな環境は、生まれながらにして走ることが大好きなウマ娘にとって、何だかとても過ごしやすそうなイメージはある。
海もきっと自然豊かで、東京とは全然違う光景が広がっているのだろう。
「海か…久しく見てないな」
「私もです…そういえば、夏合宿って海辺でやるんですよね? 海が好きだからすっごく楽しみで…」
「聞いた話ではそうらしいね。俺も新人だから夏合宿がどんな感じなのかはよく知らないけど」
夏合宿とは、トレセン学院恒例の夏の行事である。七月から八月にかけて、海辺近くのトレセン学院保有の施設にて泊まり込みで行われる。
普段とは異なる環境でトレーニングに打ち込むことができ、肉体面、精神面、その両方から大きな成長が見込まれる。そのため、参加は任意ではあるものの、ほとんどのウマ娘とトレーナーが積極的に利用しているという。
両の手を握りしめながら、目の前の少女はいそいそと尻尾を揺らす。
「友達が言うには、ビーチフラッグとかビーチバレーとか、とっても楽しいみたいですよ〜!」
「へぇ、それは待ち遠しいね」
修学旅行にも似た感覚だろうか。夏の熱い日差しの下、海辺で行われるトレーニングは非日常感にあふれていて、想像するだけで確かに心が弾む。
(砂浜のトレーニングか…ダートが得意な娘の方がトレーニング効率は良いんだろうか)
もしそうなら、ファル子にはうってつけの環境に違いないだろう。
そんなことを何となしに思った時だった。
(…待てよ、確かファル子の過去の身体テストの記録って…)
不意に思いついたそれ。
まだ生徒と相対しているのに、無意識のうちにタブレットに手がかかっていた。
「それじゃ、そろそろ私は戻りますね」
そんな俺の姿を見たからなのか、それともたまたま同じタイミングだったのか、彼女は一礼するとくるりと体を翻した。
「あ、待って! 君の名前は何ていうの?」
思わず呼び止める。もしかしたらそれは、ファル子の恩人になるかもしれない娘の名前。
「はい! スペシャルウィークです!」
振り向きざま、元気よく自己紹介をしてくれた焦茶色の髪の少女。もう一度ぺこりと頭を下げると、尻尾を楽しそうに振るわせながらトレーナー室を後にした。
その純真な笑顔と春風のような残り香に、心が癒やされるような気がした。
(スペシャルウィーク…特別な週か…)
今週は好天に恵まれ、準備や練習も滞りなく進んでいる。そして、春のファン感謝祭も良い天気で迎えられそうだ。もしかすると、それは彼女の晴れやかさのおかげなのかもしれない。
そんなことを思いながら、タブレットに表示される数字の羅列に目を凝らすのだった。
お疲れ様でした。
投稿し始めて早くも二ヶ月経ちました。
冬場は繁忙期なのですが、投稿ペースが落ちないよう頑張ります。
2021/11/01:誤字修正