君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆── 作:キビタキ
「え〜っ! 自由時間!? ほんとに…?」
昼休み明けのトレセン学院に、担当ウマ娘の素っ頓狂な声が響き渡る。
昨日と少し違う服装の彼女。上はいつものジャージだが、下は短パンに白のニーハイソックスという涼しげな格好だった。それはおそらく、初夏を思わせる暖かさに合わせたものだろう。
「ああ、本当だ。自由に過ごしていい」
ファル子は午後からフリーであり、今から門限までの時間を全てトレーニングに充てることも可能だった。そんな彼女に、俺はただ一言「今から自由時間だ」と告げたのだ。
「それは嬉しいけど…ほんとにいいの?」
さすがに予想外過ぎたのか、いまだに目を丸くしている。
それもそうだ。打開策を考えると言っていたトレーナーが、何を血迷ったのか突然そんなことを提案すれば、面食らってしまうのも無理はない。
もちろん、このままでは意味が伝わっていないので、要点を補足する。
「正確には"ここ"で自由に過ごすんだ。ファル子の好きなように」
視線の先には広大なダートトラック。今日はまだ誰も走っていないそこは整備された直後の状態を保っており、波が引いた後の砂浜のように滑らかだ。
「好きなようにって…全力疾走でも、ジョギングでも、何でもいいの?」
静かに頷くと、彼女はますます困惑したような顔になった。
さすがにもったいぶり過ぎただろうか。最も肝心な点を最後に伝える。
「ただし一つだけ条件がある」
二つの耳がしゃきっと、一語一句聞き逃さないように逆立つ。
「靴の着用は禁止。裸足で走るんだ」
「えっ…裸足で?」
自由時間と聞かされた時よりは落ち着いた反応だったが、それでも驚きの声を出させるほどには想定外のことだったようだ。
「どうして裸足なの?」
当然湧き出る疑問。それに対する答えを、俺は一つしか持ち合わせていなかった。
「走れば分かる」
自信を持ってそう告げた。
相変わらずきょとんとしたままの彼女。ただ、途中で何かを悟ったのか、少し不安そうではあるものの、にこりと微笑してみせた。
「うん…分かった☆ トレーナーさんがそう言うなら。でも、裸足で走って怪我しないかな」
「夏合宿ではいつも砂浜でトレーニングしてるんだろ? 砂浜よりここの方がよっぽど綺麗に整備されてるよ」
そう言いながらダートトラックを見やる。滑らかに整備された砂地はとてもきめ細やかな土質で、肌触りもさらさらとしている。
それは来る日も来る日もトラックを整備する職員たちの賜物。食堂の調理師などもそうだが、彼女たちを支えているのは決してトレーナーや教員だけではない。
「トレーナーさんは夏合宿行ったことあるの?」
「いや、他の人から聞いた話だけどな…ビーチフラッグとかビーチバレーとかもあるって聞いたな」
「そうだね☆ ファル子、ビーチフラッグはかなり強いんだから☆」
得意げにそう語る彼女は、いつもの明るい彼女だった。
「それじゃ、早速準備しないとだね☆」
言い終えるや、最寄りのベンチに座り込み、まずは蹄鉄シューズを脱いだ。
次いで、足を真っ直ぐに伸ばしながら、純白のニーハイソックスを片方ずつ、両手を使ってゆっくりと外していく。徐々にあらわになる健康的な肌が、陽光を眩しく反射している。
なぜだろう。どこか艶めかしいその仕草に、何とも言えず胸が騒いだ。
「準備完了☆ ファル子裸足モード、オン!」
ツインテールを激しく揺らし、気合十分に立ち上がる彼女。やけにテンションが高い気がする。自由時間ということもあるのだろうが、昨日の落胆が嘘のようだ。
「えへへ…実はね、裸足で走るの好きなんだ」
こちらの心を読んだかのように微笑むと、肩で風を切りながらトラックへと歩んでいく。
裸足が好きであることまでは想定していなかったが、そうであるなら好都合だ。
コースを裸足で走ることは特段禁止されているわけではない。だが、周りを見ても靴を履いていない生徒は一人もいない。
本番のレースでは蹄鉄シューズの着用が義務付けられているし、肌の露出による怪我のおそれもあるからだろう。
そもそも蹄鉄シューズは、強靭な脚力を一身に受ける足裏の保護が主目的である。その他にも、足全体の衝撃を吸収したり、足元のバランスを整えたりする役割も兼ねている。長期間に渡り競技生活を送る上で欠かせないものとなっている。
それでは、裸足は忌むべきものなのかといえばそうではない。あまりにも無茶な全力疾走を繰り返すなどしなければ、足にかかる負担はさほど変わらないとされている。
実際、二ヶ月間に及ぶ夏合宿において、海辺のトレーニングは裸足で行われている。きちんと負荷を考慮したトレーニングメニューであれば、裸足の方が効果が高いとの検証結果もある。
そこは昨今、育成学における熱い議論の場となっているとかいないとか。
ダートトラックへの入口、そこは砂地との境界線。ぴたりと立ち止まるファル子。ここからその顔は見えないが、きっとわくわくしているように思う。
体が上下にゆっくり動いているのは、深呼吸しているからだろうか。
耳は適度に立ち上がり、尻尾は小刻みに揺れている。とてもリラックスしているようだ。
そして、おそるおそる右足を踏み出す。
さらっというわずかな音を立てて、まるでふわふわのクッションのように吸い込まれる足。
想像に過ぎないが、きっと足全体が心地良い感触に包まれているように感じる。その証拠に、耳の先端、そして尻尾の先までもが身震いしている。
続き、左足を踏み出すと、全く同じような反応をする。
「や〜ん…トレセンのダート、初めて裸足で歩いたけど、こんなにさらさらなんだ…☆」
嬌声のような吐息を漏らすファル子。今まで見たことのないような恍惚の表情を、その可愛らしい顔に浮かべているのだろうか。
「トレーナーさんも来ない? すっごく気持ち良いよ!」
上半身だけをこちらによじらせて、彼女は俺を手招きする。残念ながら、そこにあったのはいつもの見慣れたそれだった。
「ああ、そうするよ」
彼女と同じように靴を脱ぎ捨て、靴下もほっぽり出し、ジャージの裾を乱雑にまくる。
足の裏を駆け巡るどこか懐かしい感覚。室内以外で裸足になること自体、かなり久しぶりのことだった。
そして、ファル子と同じように境界線で立ち止まり、一歩ずつ、人生初の境地へと足を踏み入れる。
(あっ…これは)
たとえるなら、生娘のようなうぶな声が心の中で漏れていた。もし声に出ていたら、ファル子にずっとからかわれていたかもしれない。
想像した通りの感覚だった。砂浜のそれよりさらさらとした砂は、弾力性に富むベッドのように優しく全体重を受け止める。
一つ予想外だったのが温かさだ。陽光に照らされていたこともあり、砂の中は気持ち良さを感じる程度にじんわりと熱を帯びている。
「ちょっと一緒に走ってみるか?」
「オッケー☆ トレーナーさんのペースに合わせちゃうよ」
「それじゃ…よーいどん!」
掛け声と共に、軽いペースで足を前に出していく。ファル子にとってはジョギング以下のペースだろう。
いざ走ってみると、思いの外足の力は吸収されないように感じる。といっても、それは砂浜と比べたらの話。アスファルトや陸上トラックなどと比べたら、その走りにくさは半端ではない。
振り返ると、ランランと鼻歌交じりにスキップする彼女がいた。のろのろペースの俺に合わせるには、もはや走りすら必要ないらしい。
「あはは! トレーナーさん激遅〜☆」
あおり運転のごとく、ぴったり真後ろにつけて笑い声という名のクラクションを鳴らす彼女。
いや、ここでは俺のペースこそ法定速度未満で走る車のようなものだから、はた迷惑なあおらせ運転をしているのは俺なのだろう。
とはいえ、アクセルペダルをベタ踏みしても、これ以上の速度上昇は見込めない。となれば、ハザードを点滅させて進路を譲るだけだ。
減速して彼女の真横につける。とても楽しそうな顔が、そこにはあった。
「もう好きなように走っていいんだぞ」
そう切り出したのは、その顔がもっと速く走りたくて、うずうずしているように見えたからだ。
「うん! 思いっ切り走ってくるね♪」
強靭な大腿エンジンを積んだその車体は、瞬く間に加速して第一コーナーを駆け抜けていく。
俺はといえば、別にここで走るのを止めてもよかったが、せめて一周はしようと決めていた。それは、実際に彼女たちが走るコースを体験しておきたかったことと、意外にも裸足で走ることが気持ち良かったからだ。
三分と経たないうちに、彼女は俺を容赦なく周回遅れにした。横切る時、わざわざ減速して手を振ってくれるおまけ付きで。したり顔、ドヤ顔、満面の笑顔、もし言い表すのならこれらを足して三で割ったような…つまりこの上ない得意げな顔をしていた。
まるで小学生のプールの授業のようなはしゃぎよう。いや、ダートを砂浜に見立てるなら、海に来たような感じかもしれない。実際、ダートコースの土は国内の海砂を搬入したものだという。
そんなことを考えている間に、何度も何度も周回遅れにされる。
「トレーナーさん、五周遅れ〜☆」
ゴール手前でついに五回目の追い抜きを許してしまう。
直後、ゴールラインで二人は立ち止まった。
「おつかれさま☆ ファル子の圧勝だね!」
「そりゃ当たり前だ…」
ピースサインを決めながら、にんまりと笑う彼女。
汗がじとりと吹き出し、ジャージに張りついて不快感を催す。こんなにも走りにくいコースを軽々と走り抜けるウマ娘たちには、心の底から恐れ入る。
ポケットからスマホを取り出し、彼女へと向ける。
「写真撮っておかないか?」
「おお〜、いいね☆ 撮って撮って!」
尻尾を大きく振るわせながら、文字通り二つ返事が返ってきた。
最近になって、ファル子はSNSを始めた。投稿写真のうち、自撮り以外のファル子の写真は全て俺が撮ったものだ。
といっても、まだまだ無名のウマ娘。フォロワーはまだまだ少ないが。
投稿頻度も彼女の気分次第によるところも多く、こちらが手伝ったり促したりして、何とか続けてもらっている感じだ。フォロワーが増えて結果が出始めたら、本人も今よりやる気になってくれるとは思うが…。
何にしても、今日のトレーニングは投稿ネタにはもってこいだ。
スマホを構え、「はい、チーズ!」と声を上げる。その度、彼女は色んなポーズを決める。もちろん、お得意の決めポーズも。さすがはウマドル、どれも文句のつけようのない笑顔である。
「もうっ! さっきから足元ばっかり撮ってない?」
「いや、裸足のところが映ってないと意味がないんだが…」
「もっと顔の部分が映る感じでお願いね☆」
撮れた写真を確認しては、こんな風に何回か撮り直しをさせられる。だが、それもいつものことだった。彼女が納得のいく写真が撮れるまで粘るのも、トレーナーとしての仕事だ。
(…って、それはカメラマンの仕事じゃないか?)
などという疑問が湧かないでもないが、彼女のためなら苦ではなかった。
長かった撮影会もようやく終わり、ダートトラックを後にしようと歩き出した時だった。
「トレーナーさんはもう走らないの?」
「ああ、さすがにな…」
そう答えた途端、小悪魔のような上目遣いであのフレーズをコールする。
「ファル子が逃げたら?」
彼女のファンとして、答えないわけにはいかなかった。
「追うしかな〜い!」
「もう一周だけ追いかけて☆ スマートファルコンです♪」
まんまと言質を取られた。彼女のしたり顔が炸裂している。
しかし何も悔しくはなかった。彼女と過ごせる時間が楽しくて、気分がとても晴れやかだったからだ。
「今度は十周遅れにしちゃおうっと☆」
事もなげに宣言すると、彼女はさっきよりも明らかに速いスピードで駆け出していった。
(楽しそうで何よりだ…)
そのうち、海水をばしゃばしゃかけ合うかのごとく砂をかけてくるんじゃないか。いや、もしここが砂浜だったら絶対そうしていただろう。そんな風に感じてしまうほど、彼女は笑顔を弾けさせていた。
「よし、追いかけるか」
さらさらとした砂を踏みしめながら、もう一踏ん張りだと奮起した。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
彼女が退屈しないこと。それだけに気を遣いながら、自由時間に付き合った。
もちろん、彼女もずっと遊んでいたわけではない。コースを何十周もジョギングしたり、一周を全力疾走したり、通常のトレーニングで行うことにもチャレンジしていた。
興を削いだらいけないと思い、ストップウォッチは持ってきていなかった。見た感じ、速さはいつもとそんなに変わらないだろうか。
一つ確実に変わったのは、終始リラックスした笑顔を浮かべていることだろう。
(多分だけど、砂の上が楽しいんだろうな。これも適性のおかげなんだろうか…)
水を得た魚のごとく、砂を得たファル子は生き生きとしている。生まれつき、砂地に愛されているのかもしれない。
逆に、芝に適性がある娘が裸足でターフに踏み入ったら、あんなにも嬉しそうになるのだろうか。
時間が経つにつれ、少しずつダートトラックへトレーニングにやって来る娘も増えてきたが、ファル子が裸足で走っていることに気づくと例外なく目を見開いていた。
走り始めてから数時間。さすがに休憩を促そうと声をかける。
「そろそろ休憩しようか」
ゆっくりと立ち止まる彼女。足は爪の先からくるぶしまで砂まみれで、肌色との境目が綺麗なグラデーションを描いている。
「うん☆ 後一周だけさせて」
「ああ、無理せずにな。少しでも違和感があったらすぐに言うんだぞ」
「ぜ〜んぜん平気だよ! 裸足で走るのが楽しくてたまらないだけだから」
そう言い放つと、ふっと真剣な表情を浮かべてスタート体勢になる。おそらく、二千メートル走をイメージしているのだろう。
次の瞬間、勢いよく砂塵を巻き上げながら駆け出していった。
素晴らしい加速力に舌を巻きながらベンチへと戻ろうとする。その時、五人組の生徒がやって来るのが見えた。
(ん? 彼女たちは…)
そのうちの一人の手に真っ白なバトンが握られていた。別のチームのダートリレーメンバーだろうか。これから練習を始めるのかもしれない。
「あの娘裸足で走ってない?」
「え? 本当だ。足痛くないのかな」
「靴も無しに走るなんて…怪我でもしたらどうするんでしょうか」
俺とすれ違う間際、彼女たちの会話が少しだけ聞こえた。
どうやら裸足のファル子を訝しんでいる様子。普段そんな娘を見かけないのだから、それも仕方のないことだろう。
ただ、その中で一際目を引いた一人の少女。「怪我でもしたら…」と、丁寧にしゃべっていた娘だ。といっても、それは単に見た目だけの話ではあるが。
ウマ娘はそのほとんどが、茶色か黒色の系統の髪をしている。ハッピーミークのような白毛も珍しいのだが、全く見ないというわけではない。
しかし、今すれ違った少女のそれは、おそらく人生で初めて見る。
さらりと伸びた長い水色の髪。それはサイレンススズカのものより長く、尻尾の付け根の下辺りにまで達している。柔らかな陽光を受けて、アクアマリンのような輝きを放っていた。
遠く離れたベンチに腰掛け、無意識にその少女を目で追っていると、その先の第四コーナーの奥からファル子が姿を現す。何のぎこちなさも感じさせない軽快な走りで、今ゴールラインを通過した。
直後、そろそろと減速し、こちらへと帰ってくる。
「ただいま〜☆」
「お疲れ。結構速かったな」
「でしょ? ファル子的にはベストタイムだったかも☆」
用意していたスポーツドリンクのキャップを開け、ごくごくと喉に注ぎ込む。
彼女もタイムを計測していないことは知っているが、それでも手応えを感じるほどに調子は良いらしい。
「今から別チームのメンバーがリレーの練習するみたいだぞ」
中身が半分ほどに減ったペットボトル片手に、彼女は汗を拭う。
「そうなんだ。やっぱり上手いのかな」
それはバトンパスのことだろうか。
どこか不安げな表情。せっかくそのことを忘れていたのに…と、顔に書いてあるようだった。いずれ目に入ることだったとはいえ、失言だったと後悔した。
ファル子は脱力したようにベンチに座り込んだ。
「せっかくだし、ちゃんと見てみようかな。参考になるかもだし」
凛とした表情から発せられた前向きな言葉。現実を受け止める気概はきちんと残っているらしい。そのことに人知れず安堵した。
ファル子が走り終えてから間を置かず、別チームのリレーの練習が始まった。
それは昨日見たものと全く変わらない光景。一人目が向こう正面の二人目にバトンを繋ぎ、二人目がこちら側の三人目にバトンを繋ぎ…。そうやって半周ごとに繋がれていく純白のバトン。
これまで何度も練習を重ねているのだろう。スタートのタイミングも適切だし、バトンパスもスムーズだ。
そして、四人目からアンカーへのバトンパスの瞬間が迫る。
(あの水色の娘がアンカーなのか…)
目の前で長い髪を砂煙に揺らす少女。
刹那、完璧なタイミングでスタートを切ると、その手にがっちりとバトンが渡る。そのままの勢いでゴールである向こう正面へとひた走っていく。
(あの娘、なかなか速いな…)
あのチームで最年長と思しき彼女は、おそらく今のファル子よりもスピードがある。もし同じタイミングでバトンが渡ったら勝てないかもしれない。
ほとんどの娘が不得意なバ場を走ることになるであろうこのリレー。それでも速いということは、彼女はオールラウンダーなのだろうか。
ファル子は何も言わず、時折スポーツドリンクを口に含ませながら、黙ってその光景を見守っていた。
何度か繰り返された練習。一度のパスミスもなく、彼女たちは皆手応えありの表情。第三者から見ても調整は完璧に見える。
余裕さえ感じさせる雰囲気の中、彼女たちは引き上げていく。
その途中、水色の髪の少女と確かに目が合った。すかさず彼女は目を逸らしたが、今度は砂にまみれたファル子の両足へと、怪訝な視線を送っていた。
彼女たちが去り、秒針がコースを半周したくらいだろうか。静寂を割いたのはファル子だった。
「悔しいけど、めちゃくちゃ上手いね、あの娘たち…」
相手の実力を目の当たりにして、絞り出すようにつぶやいた。
幸いにも、その声は悲観的なものではなく、めらめらと反撃の機を窺う挑戦者のそれであった。
「よ〜し! ファル子だって負けないぞ〜!」
そう息巻くと、血気盛んにダートトラックへと駆けていくのだった。
その後も続いた砂地での自由時間。もちろん、食堂で夕食を済ませてからも続く。
今日もまた、ダートトラックは日没と同時に白い照明が焚かれた。
黙々と走り続ける彼女。とはいえ、さすがにその顔には疲労…いや、退屈の色が浮かび始めていた。いくら裸足で走るのが好きで自由に走れるといっても、何時間も続けていては飽きてくるのも仕方ない。
そろそろファル子からも言い出してきそうだ。
(さすがに潮時か…)
ベンチに座りながら、濃藍に染まりつつある空を見上げた。
もし俺にウマ娘の足があれば、退屈を紛らわすために併走してあげられるのに。
そんな時、後ろから聞き覚えのある声が不意をついた。
「こ、こんばんは…」
はっと振り返る。
ふわりとした褐色の髪と、薄桜色のくせ毛が微風に揺れている。ほぼ水平に垂れ下がる耳は、彼女のチャームポイントでもある。
「どうしてドトウたちがここに?」
そう、よく見るとメイショウドトウだけではなかった。その後ろには今朝トレーナー室に訪れた転入生、スペシャルウィークの姿もあった。
彼女は焦茶色の髪を揺らして一歩前に出る。
「ここでファルコン先輩が裸足で走ってるって聞いたんです! リレーのための特訓ですよね? それで居ても立っても居られなくて…途中でドトウさんと鉢合わせしたんです」
「…わ、私たちにもお手伝いできること…ありませんか…?」
裸足で走っているという先輩の異変を聞きつけ、駆けつけてくれたようだった。
「二人ともありがとう。でも自分たちのトレーニングは大丈夫なのか?」
彼女たちは既にスカウトをされ、担当トレーナーがついているはず。本来であれば、それぞれのトレーナーの下で練習をしているか、あるいは練習が無い日なら休みのはずだ。
「心配ないです! トレーナーから許可はもらってます」
「私の方も大丈夫です…」
すかさず二つの力強い言葉が返ってきた。
良い後輩がいるんだなと、心底彼女が羨ましく思った。
「そうか…ありがとう。それならファル子と併走してあげてくれないか」
「併走ですか…?」
不安げな声を上げる彼女たち。
リレーに関係することを予想していたのだろうか。そんな簡単なことでいいんですかという顔をしている。
だが、それこそ今必要としていることなのだ。
「なるべく長い時間、裸足で砂地を走らせたいんだ。どんなペースでもいい。おしゃべりしながらのジョギングでも、本気の競走でも、何でもいいんだ」
「それが先輩に必要なことなんですね」
「ああ、多分…いや、きっとそのはずだ」
大きく頷くと、彼女たちも同じように首を縦に振る。
「行きましょう! ドトウさん!」
「はわっ、スペさん待ってぇ…!」
勢いよくファル子の下へ駆け出していく二人。
思いがけない来訪者に、担当ウマ娘はびっくりしたように尻尾を振り上げていた。その嬉しそうな反応が遠目からでも分かるほどに。
何を話しているのだろう。きっと他愛のない、けれど楽しいものに違いない。
チームメンバーと過ごす時間は、和やかに、そして忙しなく過ぎ去っていった。
いよいよ門限も迫り、メイショウドトウとスペシャルウィークにも別れを告げた頃、彼女はベンチに座りながら足についた砂を取り払っていた。
とはいえ、長時間走り続けたそれが簡単に取れるわけもなく、あくまで応急処置的な対応。寮に帰ってから何とかすると、当の本人は涼しい顔で笑っていた。
「今日はどうだった?」
「すっごく楽しかった☆ ドトウちゃんとスペちゃんも来てくれたし! さすがにへとへとだけどね…♪」
疲れを見せながらも、満足げなその表情に安堵する。
足はもちろんのこと、幾度となく舞い上がった砂煙で髪や尻尾まで砂塵にまみれている。シャワーを浴びたらきっと凄いことになりそうだ。
ニーハイソックスは履かず、そのまま蹄鉄シューズを両足にはめていく。ちょっとだけ残念に思った。
「今日はしっかり休んで疲れを取るようにな」
「もちろん☆ でもまだまだ走り足りないかなぁ」
「よっぽど裸足が好きなんだな」
「何ていうのかな…足が軽くなっていく気がするの」
心は充足感に満たされつつも、足は物足りなさを感じているようだ。それが良い意味での変化だといいのだが…。
白い明かりに照らされる凸凹だらけの砂地。それを見やりながら、彼女はぽつりとつぶやいた。
「明日の練習…上手くいくかな」
そこはかとない緊張感。明日は本番前の最後の練習。残されたチャンスはその一度きりだ。
「大丈夫。きっと上手くいく」
正直に言えば、それは虚勢だった。今日一日だけで俺が思い描いている効果があったかは分からない。
ただ、少なくとも彼女の気分転換にはなったし、メンバーとの関係も良くなった。俺にとっては、それだけでも十分な成果だった。
「もし駄目だったら…俺も一緒に謝るからさ」
「うん…ありがと☆」
何か冗談めかしたことを返すわけでもなく、ただ神妙な面持ちでしおらしく頷いた彼女。そこから垣間見えるのは確かな不安。明日、それを拭うことができるだろうか。
(後は三女神像に願うだけだな…)
俺をファル子に会わせてくれた三女神様。図々しくも、今度はターフの代償を打ち払ってほしいと願っている。そう、流れ星に祈りを捧げる純真な少年のように。
「ねぇ、トレーナーさん」
「どうした?」
「あれ見て。すっごく綺麗」
指差す先には満天の星空。
幾重にも散りばめられた輝きが、夜空を見上げる二人を静やかに照らしていた。
お疲れ様でした。
運動会の競走は必ず裸足で走る人がいましたよね。
水色の髪の少女はもちろん、メジロ家のあの娘です。