君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆── 作:キビタキ
「あれだけ練習した後で悪いけど…練習の時より気持ち遅めにスタートした方がいいかもしれないぞ」
それは先日、サイレンススズカとの併走を終えた後のことだった。
確実に速さの増したファル子のタイムを計るべく、ダートトラックで千六百メートルを走らせた。
裸足で走らせる前の、単独での最速タイムは一分四十秒。ゴールを駆け抜ける前からタイム更新は確実視していたが、予想外だったのはその上がり幅だった。
「え…? 本当なのかこれ…」
ストップウォッチに刻まれた数字に目を疑った。あまりの出来事に、ファル子が俺の下へ戻ってくるまでの間、微動だにできなかった。
彼女がおそるおそる俺の顔を覗き込んで、結果を催促する。
「何秒だったの…?」
「一分三十八秒ジャストだ…二秒も縮まってる」
「え〜っ! 嘘でしょっ!?」
天を衝く勢いで尻尾が逆立ったのも無理はない。
コンマ一秒を削るのに心血を注ぐこの世界で、短期間に二秒も縮むなんて常識では考えられないことだった。もちろん、靴の重さがないことによる軽量化効果もあるのだろうが、それを抜きにしても信じられないことだった。
鳥林さんの言っていた通り、外に逃げていた蹴り出す力が推進力に変わったことで、速さを増してきているのだろう。
「こんなに速く走れるなんて、ファル子思ってなかったなぁ…」
感慨深げに瞳をきらめかせる彼女の姿が印象的だった。
今のファル子は裸足で走れば走るほど速くなっている。きっと足の蹴り出す角度が矯正されてきているからだ。
そして、それはまだ直りかけている途中。どこまで伸びしろがあるか分からないが、リレー後のサイレンススズカとの併走でさらに速くなってしまったかもしれない。
そうなっていた場合、メイショウドトウのバトンが届かなかった失敗がリレー本番で起こらないとも限らない。
「ぶっつけ本番になるかもね…」
彼女にしては深刻そうな顔をして、つぶやくように言った。幸いなことに、その瞳には不安ではなく、そこはかとない自信がたぎっていた。
当日は他のチームと同時に走ることもあり、そこでの駆け引きも出てくる。どのチームもそういう意味でぶっつけ本番なのだ。
やれるだけのことをやろう。再びダートトラックへと駆け出した彼女の背中には、確かにそう刻まれていた。
──
スマートファルコンは大きく息を吸った。それは清々しい春の陽気を体に取り込みたかったのと、武者震いするほどみなぎる高揚感を落ち着かせたかったからだ。
砂煙舞うダートトラック。心地良い春風と少しだけ傾いてきた日差し。
最後の競技、ダートリレーが今まさに行われようとしていた。
八つのチームがここまで競い合い、総合ポイントは近年稀に見る僅差となった。どのチームにも優勝の可能性が残っており、特に、白鳳、黒鉄、桃花チームは、一着で自力優勝を決めることができる大一番であった。
大勢の観客が勝負の行く末、そして最後の勇姿を目に焼き付けようとひしめき合い、ただならぬ雰囲気を醸し出している。
それを熱い実況がさらに盛り上げている。
『さぁ、ついにこの瞬間がやって参りました、最終競技のダートリレー! 一体どのチームに優勝の栄誉がもたらされるのでしょうか…!』
リレーの本番は、実際のレースさながらスターティングゲートが用いられる。
その周辺に集まり、話し合うそれぞれのチームメンバーたち。遠目からだと、あたかも八色の花が咲いているようにさえ見える。
「一着で優勝が決まりますね!」
桃色のゼッケンを身につけた焦茶色の髪の少女が、一際明るい声を響かせた。
「そうっ☆ ファル子たちでスイーツ引換券ゲットしちゃお☆」
元気よく相槌を打ったのは、つややかな栗色の髪、それをツインテールにしている少女だった。
優勝チームには有名お菓子店やカフェなどで使えるスイーツ引換券が配られるとあり、それは彼女たちを突き動かすのに十分すぎる魅力を秘めていた。
『ここで出走者の紹介と参りましょう! まずは白鳳チーム、一走目…』
実況が気合いの入った声で名前を読み上げていく。
それをBGMにしつつ、アンカーを務める彼女はメンバーたちに円陣を促しながら掛け声を発した。
「よ〜し、皆頑張ろう! 全力前進☆ 桃花チーム! ゴールの果てまでレッツゴー♪」
五人の手を一箇所に合わせて、団結を確かめ合うチームメンバー。その瞳にはあふれんばかりに自信が満ち満ちている。
ただ、本番を前にして各々落ち着かない様子も見せていた。ある者はその場でぴょんぴょんと跳ね、またある者は前屈や屈伸でウォームアップし、またある者はいつものようにおろおろとしている。
「スペちゃんはお母さん来てるんだよね?」
スターティングゲートを真っ先にくぐることになる彼女へと、スマートファルコンは生き生きとした眼差しを向ける。
「はい! ちょっと分かりにくいかもですけど、あそこら辺で見てますね」
そう言いながら、彼女は観客席に向かって右手を振った。今実況に読み上げられている娘と勘違いされてしまいそうなほど、大げさな動きで。
観客席の最前列、ここからでは顔すらよく見えないほど遠いが、金髪の女性が右手を振り返していた。
その人にウマ耳も尻尾もないことは皆知っていた。もちろん、そんな些細なことは誰も気にしていない。
大切な家族が見に来てくれている。その事実は、それが叶わなかったメンバーにとって、ただただ羨ましくてならなかった。
「他に家族が見に来てる娘いる?」
最年長の問いかけに、二走目のケイマフリがどことなく誇らしげに言った。
「両親が見に来てくれてますね」
次いで、合わせるように三走目のミユビシギも口を開いた。
「兄が来てるみたいです。リレーが終わったらすぐ仕事みたいですけど」
素っ気なく感じる口調だったが、その表情には確かに微笑みが含まれていた。
「そっかぁ…それじゃ皆、頑張らないとだね☆ もちろん、ドトウちゃんもね?」
「はうぅ…頑張ります…けど、やっぱり皆さんが羨ましいです…」
四走目を担当する垂れ耳の少女は、鼻の上の絆創膏を触りながら、悲しげに震える声を響かせた。彼女とスマートファルコンの二人は、この日家族の来訪は叶わなかった。
すっかりしょげてしまった彼女へ、チーム最年長の少女は慰めるように優しく話しかけた。トレーナーからミサキちゃんの来訪を知らされていただけ、まだ自分は恵まれている方だと感じていた。
「あはは…こればっかりは仕方ないよ。だったら代わりにさ、担当トレーナーさんのために頑張ってみない?」
メイショウドトウも、スマートファルコンとスペシャルウィークと同じように今年からスカウトされていた。
「そ、そうですねぇ…トレーナーさんのために…!」
彼女にしては耳をしゃきっと伸ばして答えていた。普段の猫背もこの時ばかりは鳴りを潜め、薄桜色のくせ毛はゆらゆらと微風に揺れている。
鼻の上というあまりにも目立つ箇所の絆創膏は、借り物競争で転倒した際の名誉の負傷である。結果こそ失格となってしまったが、それ以上のものを彼女は手に入れていた。
「そういえば…ファルコン先輩と、担当トレーナーさん…とても仲良しですよねぇ…」
「そ、そうかな…?」
戸惑う先輩を尻目に、すかさず相槌を打ったのはスペシャルウィークだった。
「ですです! 凄く頼りがいがあって、先輩のこと大切に思ってるのが伝わってきます!」
「それに…優しいですし、先輩いっつも楽しそうにしてて…」
一様にうんうんと頷く後輩たち。まるで自分のことのように思えて、チーム一番の先輩は思わず顔を赤らませていた。
「そんなに褒めたって何も出ないよ☆ でも…ありがとね♪ トレーナーさんもそう言ってもらえて、きっと喜んでくれてると思う」
はにかみながら言い終えると、彼女は無意識にトラックを一望できる小高い場所へと視線を向けた。
そこに担当トレーナーの小さな姿を捉えると、穏やかな顔でじっと見つめる。本番が始まる前に、そこでずっと見ているという話をトレーナーとしていたのだった。
自らの担当トレーナーをそこまで評価してくれる後輩たちに、彼女は感謝の気持を抱いていた。そして、その声をすぐにでもトレーナーへと伝えたかった。残念なことに今それは叶わないが、見つめることで心の中だけでもその気持ちを送り届けたかったのだ。
『…続きまして、これが八チーム目となります。桃花チーム…』
いつの間にか、メンバー紹介が彼女たちのチームへと到達していた。これが最後のチーム紹介である。
『一走目、スペシャルウィーク』
読み上げられた彼女は、両手を使ってその存在を再びアピールした。もちろん、母親と慕う女性に向けて。
鏡のように、金髪の女性も両手で答えていた。
『二走目、ケイマフリ。三走目、ミユビシギ』
スペシャルウィークにつられるように、名前が読み上げられる度、メンバーは観客席へと両手を振る。いつしか、大勢のお客さんを巻き込んでのエールの送り合いへと成長を遂げていた。
『四走目、メイショウドトウ。五走目、スマートファルコン…以上となります!』
八チーム、合計四十名の紹介を全て終えた。
いよいよスタートの瞬間が訪れる。会場全体がそんな雰囲気に包まれていた。
『それではこれより、ダートリレーを…えっ…あ、はい…失礼しました。ここで秋川理事長より皆様にお知らせがあるとのことです』
突然の事態に顔を見合わせる出走者たち。理事長を知る者は全員、第一声に身構えた。
『諸君ッ! 理事長の秋川やよいである! 後から揉めてはいけないので、このリレーにおける特例措置を発表する!』
快活な声がスピーカーを通じて全体に響き渡る。
途端、水を打ったように静まり返る会場。彼女の声には、人をすくめる迫力が確かにあった。
『実際のレースではご法度だが、出走者の服装と、靴の着用不着用は各々自由とする! 学院内だけのローカルレース、固いことは言わず楽しもうではないか!』
そう発せられたと同時に、チームメンバーの視線がスマートファルコンの足へと向けられる。そこには生まれたままの健康的な肌色と、それを覆い隠さんとする砂色のグラデーションがあった。
裸足で出走する生徒はスマートファルコンただ一人だが、服装に関しては、どのチームもゼッケン以外統一感に欠けていたのも事実だった。これ以前に出場していた競技の兼ね合いもあったからである。
普通に上下ジャージの娘もいれば、選抜レースのように体操服の娘もいる。中にはG1出走者にしか支給されない一張羅、すなわち勝負服に袖を通している者さえいた。
桃花チームはその中でも統一感がある方だった。白と赤のツートンカラーをした、長袖の上下ジャージ姿が四人。スマートファルコンは上こそ同じだが、下だけが赤一色の短パンという、唯一裸足で走るスタイルを貫き通していた。
ざわつく会場の雰囲気を一喝するように、理事長は音割れ寸前の声量で檄を飛ばす。
『追伸ッ! 今年はいつになく接戦で、大変素晴らしい限りである。私の独断で恐縮だが、優勝チームの賞品は二倍とし、このリレーで最も素晴らしい走りをした生徒にはMVPを進呈したいと考えている! 是非ッ! 一同頑張ってくれ!』
その宣言に生徒たちが大きくどよめく。出走者たちはなおのことであった。
MVPになることができれば特別なご褒美が贈られる。それは周知のことだったからだ。
そのチャンスが降ってきたとなれば、より一層気合が入るのも無理はない。あのメイショウドトウでさえ、高々と耳を逆立てるほどである。
「絶対勝って優勝しよう!」
どのチームからも同じ声が聞こえてくる。当然、桃花チームも例外ではない。
「よ〜し! 頑張ろうっ☆ どんなに負けてても、最後はファル子が逆転してみせるから…諦めずに走り切ろうね♪」
アンカーの力強い一言に、メンバー全員が大きく頷いた。
次いで、スピーカーから流れる音声。マイクは元の実況者に戻っていた。
『えー、盛り上がってまいりました! 優勝するチーム、そしてMVPは誰になるのか、注目です! それでは改めまして、ダートリレーの開始をここに宣言いたします!』
その言葉と同時に、改めて固く目線を交わし合いながら、それぞれの場所へと駆け出していくチームメンバーたち。
出走するゲートとバトンを受け渡しするラインは、各走者によって事前に定められている。それは走る総距離が不公平にならないようするための措置であった。それゆえ、バトンパスは他チームの走者の影響を受けることなく行うことができる。
桃色のゼッケンをつけた五人のうち二人がスタート地点付近へ、別の二人が向こう正面へ、そして、スペシャルウィークはスターティングゲートへと向かっていった。
その途中、彼女は観客席を一瞥した。
「お母ちゃん…私、けっぱるべ…!」
誰にも聞こえないほど小さな声。それを確かにつぶやいて、彼女はゆっくりとゲートの中へ身を沈める。扉の隙間から見える砂地を見据えながら、人知れず深呼吸していた。
一方、スマートファルコンは、焦茶色の髪の後輩へ心の中で声援を送っていた。遠方から駆けつけてくれた母親へ、その走りを、そしてその頑張りを遺憾なく発揮してもらいたいと、チームの誰よりも願っていた。
『各生徒、ゲートイン完了! その瞬間を待ち侘びる八人の走者たち。一体どんな結末が待っているのでしょうか…!』
次の瞬間、ランプが赤い光を灯す。会場全体が息を呑むと、一斉に砂地への門が開け放たれた。
チームの色に染められたバトンを握りしめ、八人のウマ娘は乾いた地面を蹴り上げていく。
一人当たりの距離はわずか千メートル。それはウマ娘にとってほぼ全力疾走で駆け抜けられる距離。時間にするとわずか一分ほどである。
最初は横並びだった集団も、第一コーナー手前には縦に長く伸びていく。最初に飛び出したのは黒のゼッケンをつけた白毛のウマ娘、ハッピーミークであった。
軽やかに波打つ尻尾に、新入生とは思えない整ったフォーム。普段は芝のレースを走る娘しか選抜できないルールにおいて、オールラウンダーである彼女はそれだけで大きなアドバンテージを持っていた。
『第一コーナーを抜け、黒鉄チームがトップをひた走ります! その後方には白鳳、緑星、赤帝と続きます!』
そこからさらに後方、五番目の位置にピンクのバトンを持った少女はいた。
焦茶色の髪を揺らしながら、彼女は歯を食いしばっていた。
何度も練習を繰り返したとはいえ、適性的に見ればダートはやはり鉛の靴。ターフと比べればスピードの乗りは悪い。強く踏みしめるとバネのように力を返してくれる芝も、砂地では暖簾に腕押しとなって手応えがまるで無い。
おまけに、時折体を打ちつける蹴り上げられた砂。練習の時は単独で走るがゆえに影響はなかったが、いざ本番で他チームと走り合うと予想以上にペースを乱される。
それを防ぐため前へ行こうにも、今の走りが精一杯でスピードアップもできない。砂が目に入らないことを祈るしかなかった。
『桃花チーム! 先頭集団に何とか食らいつきます!』
それでも彼女は奮起した。全力で走ること。バトンを繋ぐこと。それが彼女の使命だったからだ。
アンカーの先輩が必ず巻き返してくれると信じ、ただかしゃらに走り続けた。
そして何よりも、母親にみっともない姿を見せられなかった。どんなに砂を被っても怯まず、その手にあるバトンを強く握りしめて、両足に力を込めた。
『第二コーナーを抜けたところで、桃花が赤帝に並びかけた!』
鉛の靴だった砂地も、彼女の中で少しだけ軽くなっていた。
一方、澄ました顔で先頭を行くハッピーミーク。一番に千メートルを走り切り、二走目へとバトンを渡した。
続々とそれを繋いでいく各チーム。もちろん、その中にはピンクのバトンもあった。
焦茶色の髪の少女は、四番目にその意思を繋いだのだった。
二走目で各チームの順位変動はなく、三走目へとバトンパスが行われていく。
ところが、ここでアクシデントが発生した。
『おおっと! 緑星チーム、タイミングが合わなかったか! バトンが手からこぼれ落ちてしまいました!』
三位という好位置を走っていた緑星にパスミスが起きてしまったのだ。慌てて拾い直しリスタートするも、当然のことながら大差の最下位に沈んでしまう。
言わずもがな、パスミスは事実上の敗退を意味していた。
アクシデントで出遅れた緑星の三走目が駆けていくのを確認して、アンカーの選手たちは所定のスタート地点へと歩を進める。
そのほとんどが、自らと同じ色をしたバトンの行方を不安そうな面持ちで見つめている。しかし、その少女は自分の足元に目を注いでいた。
砂にまみれた両足。それは指の隙間、爪の中までも。
日に照らされ熱を帯びた地面は、活力を与えるようにじわじわと温かさを伝えてくる。
まるでゆりかごのように、優しく足を包み込んでくれる砂。彼女にとってそれは、震えるほど心地良い感触であった。
もう一人、彼女の足を見つめる少女がすぐ隣にいた。その少女は、水色の髪を微風になびかせながら、ささやくように話しかけた。
「はじめまして、スマートファルコンさん。メジロアルダンと申します」
顔を上げ、裸足の彼女へと発せられた言葉は、とても丁寧な口調だった。
二人は同学年ということもあり、これまで何度か顔を合わせたり、挨拶を一言交わしたりすることはあった。しかし、まともに話をするのはこれが初めてであった。
メジロ家のお嬢様という、どこか浮世離れした存在に距離を置いていたスマートファルコン。まさか話しかけられるとは思っておらず、少しびっくりしたような顔をしながら返答した。
「はじめまして〜☆ 私のことはファル子でいいよ☆ アルダンちゃん…って呼んでいい?」
「ええ、構いませんわ。裸足で走られるんですね」
「えへへ…今はこれが一番走りやすいの」
素直な気持ちを口にするツインテールの少女。
借り物競争の時に、メジロアルダンが担当トレーナーに裸足で走る理由を聞いたということは知っていた。それに特に深い意味はないと思っていた。次の言葉が聞こえてくるまでは。
水色のロングヘアを上品な手付きで撫でながら、メジロアルダンはそっとつぶやいた。
「私は…あなたが羨ましいです。当たり前のように裸足で走れるあなたが…」
突然の言葉にスマートファルコンは思わずたじろいだ。実況の声さえ耳に入ってこなくなる。
メジロアルダンの体が丈夫でない噂は、彼女も聞いたことがあった。
恵まれた体格と四肢を持ちながら、たった一つの難点を抱えて生きてきたメジロアルダン。彼女は生まれつき体があまり強くなく、その足は『ガラスのように繊細な足』と称された。それゆえ、足に負担のかかりやすい裸足でのトレーニングなどもってのほかであった。
そんな彼女でもトレセン学院に入学できたのは、ひとえにメジロ家の看板のおかげであった。そのことは本人が一番良く分かっていた。しかし、その重圧に耐えられるほど学院生活は甘くはなかった
名門のメジロ家というだけで皆が一目置く。そして必要以上に期待し、注目する。勝って当たり前、速く走れて当たり前。そのプレッシャーたるや一生徒が背負うには重すぎた。
当然、ガラスと称された繊細な彼女の足が耐えられるわけがなかった。
入学した年はメジロ家であることと将来性を買われスカウトされたが、トレーニング中の怪我が原因で、結局メイクデビューに至ることなく契約解除となってしまった。
それ以降も成績は振るわず、選抜レースでも下位を右往左往し続けた。
そして、今年メイクデビューしなければ最終学年がシニア級に間に合わないという、もう後がない状況にまで追い詰められた。
そんな彼女であったが、前回の選抜レースで三位に入り、契約を勝ち取ることができた。
それは必死の努力と、人生を賭けたある決断。どん底の、まさにその深淵に見た光に彼女は救われた。
メジロアルダンに羨ましがられたことに、スマートファルコンは恥ずかしさでもなければ、申し訳なさでもない、対抗心のようなものを抱いていた。それはこれから競い合うという緊張感によって、より鮮明に感じられていた。
また、そこには少なからず、担当トレーナーを借り物競争で取られたことの悔しさと、楽しそうに話していたことへの嫉妬心も働いていた。
「アルダンちゃんは、今日誰か見に来てくれてるの?」
メジロ家の人間がイベントに必ず駆けつけることを彼女はよく知っていたが、言質を取るためにあえてそう問いかけていた。
一方、水色の髪の少女は、予想だにしていなかった切り返しに一瞬だけ目を丸くした。
「…ええ、一族の者や執事が訪れているはずです」
「お父さんとお母さんも?」
「そうですね。両親はいつも必ず来てくださいます」
「ふ〜ん、いいなぁ。お父さんとお母さんが見に来てくれることの方が、よっぽど羨ましいよ」
どこか言い捨てるように、それでいて穏やかに彼女は言った。
スマートファルコンにとって、それは何よりも大切なことだった。
彼女の両親は仕事のため各地を転々としていた。それゆえ、幼少期から転校を何度も何度も繰り返していた。
トレセン学院で数年間根を張った生活を送れているのは、彼女にとって新鮮で喜ばしいことであった。
両親はまず滅多にイベントに来られない。来てくれたのは今までたった一度だけである。しかし、それは仕方のないことだと彼女は納得していた。
トレセン学院に通いたいという希望を聞いてくれた両親。その費用を捻出してくれたのも両親。仕事が多忙であることは誰よりも分かっていたし、それ以上何も望んではいけないと思っていたからだ。
そんな彼女にとって、家族が見に来てくれるのは、それだけでかけがえのないことだった。スペシャルウィークのように、遠方から家族が赴いてくれた友人のことが、本当は羨ましくて羨ましくてたまらなかった。
だからこそ、メジロアルダンの他人の足を羨む発言が気にかかっていた。
生まれ持ったものは仕方ない。けれどそれは本来感謝するべきものだと信じていたからだ。
ターフには鉛の靴を履かされる彼女だったが、自らの足を恨めしく思ったことは一度もなかった。芝のレースで活躍する娘たちに憧れることはあっても、その足を羨んだこともなかった。
皆が持つそれは、紛れもない両親からの贈り物だからだ。程度の差こそあれど、どの娘も競走できるほどの健康的な足を育んでもらったのだから。
「私、負けないよ。だって、お父さんとお母さんがくれた大切な足だから。砂が好きで好きでたまらない足を、私にくれたんだもん」
それは水色の髪の少女に対してではなく、自らに向けて発した言葉だった。
昔から砂の上を駆けることが好きだったことを思い出していた。
公園の砂場、海水浴場の砂浜、学校のグラウンド、いつも裸足で遊んだり、走ったりしていた。足の裏が砂粒で擦り切れても、それでも楽しさが勝るくらい好きだった。
しかし、トレセン学院に来てからはそれを封印した。芝のレースでなければ夢のトップウマドルになれない。そう思ったからだった。
それから数年間、夏合宿以外は裸足で走ることはなくなった。
しかし、それは好きな自分を抑えつけているに過ぎなかった。すっかり忘れていた感覚。友人たちと併走しながら裸足で走り尽くし、その楽しさを思い出した彼女に、砂地で怖いものなど何もなかった。
それに気づかせてくれたのは他でもない、あの人だ。
祈るように胸に手を当て、ただ遠く一点を見つめるスマートファルコン。そこには担当トレーナーの姿があった。
その頃、ピンクのバトンを引き継いだ四走目、絆創膏が目立つ垂れ耳の少女は、必死に前方を行く白いゼッケンのウマ娘を追いかけていた。
『依然トップは黒鉄チーム! その後ろにぴったりとつける白鳳、少し離れて桃花と続いていきます!』
しかし、全く差が縮まらない。やはり彼女にとっても本来ならばダートは鉛の靴。練習の時からそうではあったが、思うようにスピードが出せなかった。
見に来てくれた家族は誰一人いない。実家は遠方のため仕方のないことではあったが、家族が来訪している他のメンバーを目の当たりにして、寂しい気持ちを隠し通せるほど彼女は強くなかった。
『桃花チーム、前との差が開いてきたか! 熾烈なトップ争いは黒鉄と白鳳の一騎打ちの様相です!』
足を引っ張りたくない。今まで彼女はその一心で走り続けていた。たくさんのドジでメンバーに迷惑をかけてきた。それを払拭するために何かしようとするとまた別のドジを踏んで…そんなことを繰り返してきた彼女。
ただ、今回は純粋な気持ちとして負けたくなかった。たとえ地味な走りであっても、使命を全うすることが大切だった。
先輩に言われた通り、自らのトレーナーの姿を思い浮かべながら彼女は走った。優勝を一緒に喜んでくれると信じて。
『おっと! 離されそうになりましたが、ここで踏ん張る桃花チーム! 白鳳との差は五バ身。まだ十分に一着を狙えそうです!』
第三コーナー、そして第四コーナーも必死に足を前に出して突き進む。
後はこのピンクのバトンを無事に先輩へと渡すこと。ドジの神様がいるのなら、どうか今だけは何もせずそっとしておいてくださいと、彼女は祈りながらひた走った。
『リレーもいよいよ大詰め! アンカーへとバトンを繋いでいきます! トップは黒鉄、すぐ後方に白鳳、そして少し離れて桃花。優勝は勝ち取るのはどのチームか!』
奇しくも、自力優勝を狙える三チームがトップ争いを繰り広げる展開となっていた。
スタートを切る十数秒前。白いゼッケンを身につけたアンカーは、桃色のそれをまとう少女へ鋭い眼差しを向けた。
「私だって負けません。もう両親の前で不甲斐ない走りはできませんから…ファルコンさんはどん底を見たことがありますか?」
一見するとしとやかな雰囲気。水色の尻尾は一定のリズムで揺れている。
そこに隠された確かな対抗心を、スマートファルコンはひしひしと感じていた。
「どん底って…?」
その言葉に、メジロアルダンはやはり慇懃に問い返した。
「両親の期待に応えられず、何年も結果を出せず、ただくすぶっていくだけの学院生活のことです…ファルコンさんなら私の気持ち、分かってくださいますよね?」
その口調は同類を哀れむようなそれではなく、どことなく憂いを帯びつつも微かに挑発的なものであった。
「そうだね…そういう意味ではアルダンちゃんの気持ち、分かるよ。だって、私もどん底だったもん。芝で夢を叶えることができないってこと、嫌っていうほど突きつけられたから…」
一度深呼吸して、彼女は両耳をぴんと逆立てた。
「でも…トレーナーさんがダートに光を見せてくれた」
「私もです。どん底で光に出会いました。ですから…もう二度とくすぶりたくありません」
次の瞬間、さっきまでの空気が嘘のように、水色の髪の少女はしとやかに微笑んだ。
「ふふ、おしゃべりが過ぎましたね。それでは…」
言い終えるや、バトンパスに備えて瞬時に駆け出したメジロアルダン。
スマートファルコンもスタート態勢に入る。湧き上がる歓声も、テンションの上がってきた実況も、今は何も聞こえなかった。
あの娘に負けたくない。その強い思いが渦巻いていた。メジロアルダンに負けることは、自らを否定されるような気がしたからだ。
近づいてくるメイショウドトウ。トレーナーのアドバイス通り、スマートファルコンはワンテンポ遅らせてスタートを切った。
とはいえ、先んじたメジロアルダンに追いつきたい思いとの板挟みになり、彼女が思うほど遅れてのスタートになっていなかった。
バトンの受け手は、一度スタートを切ると後ろを振り返ることをしない。目の前でスムーズに繋がれていく黒と白のバトン。ぐんぐんと加速していく中、差し出す左手にバトンがなかなか収まらないことに、彼女は徐々に焦りを覚え始めていた。
彼女のすぐ後ろには、右手を伸ばしてバトンを渡そうと賢明に走るメイショウドトウがいた。
しかし、スタートがやや早かったことに加え、トレーナーの読み通り彼女自身の走力の向上で、ぎりぎり届かないでいた。
よもやの事態に会場がざわつく。それを察知して、スマートファルコンは減速すべきか迷った。
刹那、怒涛のごとき叫び声が彼女の耳をつんざいた。
「先輩っ!! そのまま走ってくださいぃ!!」
このままではバトンが繋がらない、そう思われた瞬間。メイショウドトウは最後の力を振り絞って加速し、腕をめいいっぱい伸ばした。倒れ込んでしまうぎりぎりの態勢で、絶対に繋ぐんだという強い意思をその瞳に宿して。
トップスピードに乗る直前、アンカーの左手は、確かにその熱い思いを受け取った。
『なんというぎりぎりのバトンパス! 桃花チーム、かろうじてアンカーに繋ぎました!』
大役を果たした垂れ耳の少女は、千鳥足のようなステップでふらつきながらも、なぜか転倒だけは防いでコース外へと難を逃れた。
両手を上げて喜び、ピンクのバトンの行方を見守ろうと振り向いた瞬間。
「あ、あっ、あわわっ…!」
激走により足の力が残っておらず、顔面から地面にダイブした。ドジの神様は、最後の最後で彼女へと微笑みかけたのだった。
ピンクのバトンを左手に握りしめ、つややかな栗色の髪を揺らしながら全力で駆けていくスマートファルコン。
気持ち良い。それが走り出して真っ先に抱いた感想であった。砂地のきめ細やかさ、柔らかさ、温かさ、まるで母親に抱きしめられたような感触にさえ思えた。
彼女にとって追いかける走りは性に合わないが、三番手でバトンを受けた以上そうも言っていられない。目の前の二つの影を追い抜く。それが彼女に課せられた使命。ただ猛然と、生まれたままの足で砂地を駆け抜けていく。
一方、メジロアルダンはトップを走る黒のゼッケンを眼前に捉えていた。勝負服を着たアンカーではあったが、それは本来の適性であるターフでの話。ガラスと称された足で力強く砂を蹴り上げ、第一コーナーを抜ける辺りで真横に並ぶ。
芝よりも脚力を要するダートで、彼女は周りの想像以上のスピードを出してみせた。過去の彼女を知る者には、足が壊れてしまうのではないかと不安になってしまうほどパワフルに。
『白鳳チーム、ここでついにトップに躍り出ました! このままトップで駆け抜けるのでしょうか!』
白鳳の勝利を予感させる展開に、誰もがその未来を思い浮かべていた。後方から迫る桃色の影に気づくまでは。
『おおっと! 桃花チームアンカー! な、何というスピードでしょうか! これはまさかの展開となるか…!』
選抜レースの時とは真逆だった。
砂地は他の大半の娘には鉛の靴を履かせるのに、彼女には風の翼、いや、疾風迅雷の翼を与えていた。
目の前を行く二人を追い抜くこと。それは造作もないことのように彼女には思えていた。
まるで隼に標的にされた小鳥のように逃げ惑うターゲット。今の彼女にとって、白と黒の二人はまさにそれであった。
第二コーナーを曲がり終え、最後の直線。ゴールまで二百メートルを切ったところで、スマートファルコンは黒いゼッケンを難なく追い抜き、既に先頭の白いゼッケンを捉えていた。
猛追を知る由もないメジロアルダンは勝利を確信していた。それは、以前スマートファルコンが裸足で練習している姿を見て、自分よりも遅いと感じていたからだ。
しかし、会場の雰囲気や人々の視線で気づいてしまう。いや、気づかざるを得ない。
その歓声が自分に向けられたものでないことを悟った瞬間、彼女は戦慄した。すぐ真横にピンクのバトンを持つ少女の姿があったのだから。
追い抜きざま、スマートファルコンはこれ以上なくにんまりと微笑んだ顔を、メジロアルダンへと向けていた。
砂地に解き放たれた裸足の隼は、誰よりも速く、強く、そして美しく舞った。
お疲れ様でした。
だいたい主要キャラが出揃った感じですね。
今後もファル子ちゃんが走る時は三人称視点になると思います。