君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆── 作:キビタキ
わずかな街灯に照らされる薄暗い夜道を、軽やかに歩む一人のウマ娘。
「ついにデビューかぁ…☆」
周りに誰かいたらきっと聞き取られていたであろう声量。誰かに聞いてもらいたいと思っての発言だったのかもしれないと、彼女は内心感じていた。
「〜♪」
鼻歌交じりにルンルン気分で進んでいく。その歌は彼女にとって特別な歌。母がよく歌ってくれた、彼女が好きで好きでたまらない歌だ。
上機嫌な時、それは無意識に出てしまう。この歌を口ずさむと、どこか落ち着いた気分になるのだった。
しばらくして見えてきたのは生徒寮。たくさんの窓から漏れる光が、ほとんどの生徒たちの在室を示していた。
生徒寮は二棟あり、それぞれ栗東寮と美浦寮と呼ばれている。スマートファルコンは栗東寮所属であった。
生徒寮には原則生徒しか立ち入ることができない。その代わり、寮内の自治や管理は生徒たち自身で行われている。
トレセン学院に入学した生徒は、ごく稀にいる自宅通学者を除いて、基本的には入寮することになっている。日本全国からはもちろん、海外からも有望なウマ娘が集まる学校ゆえ、それは必然であった。
入寮後は、一室を生徒二人で共有して過ごすことになる。それは協調性を養うという学院の方針であり、一つの特色でもあった。
ただ、スマートファルコンのように、同室者が何らかの理由で不在となり、その後別の生徒をあてがわれないまま結果的に一人部屋になることはあった。
「あっ! スズカちゃん!」
栗東寮の入口前で、彼女は見覚えのある姿を視界に捉えていた。それは、たまたま別の方向から帰寮しようとしていたサイレンススズカであった。
「あら、先輩。お疲れ様。MVPおめでとう」
淡々としていながらも、確かに礼賛を含ませた静やかな声。
上下ジャージ姿で、下衣の裾には芝生がところどころくっついている。
「えへへ…ありがと☆ よく分かんないうちになっちゃってた感じだけど」
「でも皆納得してるわよ。最後の走り、本当に凄かったもの。裸足っていうのも、私たちからするとインパクトがあったわね」
そう言いながらちらりと見やる足元は既に裸足ではなかったが、蹄鉄シューズを履くのが当たり前の彼女たちにとって、裸足で走るというのは強烈な印象を残していた。
話しているうちに寮の入口にたどり着いた二人。夜間にはオートセキュリティとなる厳かな扉に手をかけ、ゆっくりと引き開けるスマートファルコン。
エントランスには靴箱がずらりと並んでいる。入寮して間もない生徒は、どこにあるかも迷ってしまうほどだ。
もちろん、手練の二人は迷うことなく自らの領域へとたどり着き、さっとスリッパに履き替える。
基本的には寝泊まりする空間であるため、生徒寮の中は実に質素である。
二階から上は生徒たちの部屋しかない。さながらビジネスホテルの様相である。
唯一、一階に設けられた憩いのスペースだけは広々と開放的で、誰が持ってきたのかオシャレなテーブルと椅子が何組か設置されている。今こそ電源が入っていないが、六十インチほどある液晶テレビは時たま取り合いになることもある。部屋の傍らでは自販機が稼働しており、本棚とマガジンラックには漫画本や雑誌、新聞が所狭しとひしめき合っている。さらにトランプや将棋といった簡易なインドアゲームも用意されていて、娯楽のバラエティはそれなりに富んでいた。
今日も何人かの生徒たちが雑誌を読んだり、談笑したりしている。
特に何を言うでもなく、自然な流れでそこへと赴き、向き合うように椅子に腰掛ける二人。
途端、オシャレなテーブルに軽く突っ伏し、ため息交じりに疲労感を吐露するツインテールの少女。
「はあぁ、今日は疲れたね…」
「ええ、本当に。先輩は特にね」
一方の後輩はきちんと整った姿勢で返事をする。その言葉に、スマートファルコンは耳をぴくぴくと倒して相槌を打っていた。
年に数回ある一大イベントでは、常にお客さんの目もあり、意外に気が張ってしまう。生徒寮という完全に外部から遮られた空間で、緊張の糸が今ようやくふっと緩んだのだった。
傍から見るとだらしないその突っ伏した姿勢も、彼女からしたらここだけでしか見せない仕草。気の許せる友人を前にしての甘えでもあった。
とはいえ、それもほんの少しの間だった。ウマドルとしての理性が、不意に彼女の背筋と耳を真っ直ぐに伸ばさせる。
続き、目の前の少女に負けないほど整った姿勢で語りかけていた。
「芝千メートル走見たよ☆ さすがの一着だったね!」
「ありがとう。短距離はそんなに得意じゃないのだけれど…まぁ、ツイてたわね」
彼女は赤帝チームの一員として、芝千メートル走に出場していた。
数ある競技の中でも、出場選手を自由に決められるそれはいつも強者によるガチンコ対決になり、間違いなく競技大会の華であった。必然的に出走者の熱烈なファンも数多く詰めかけることとなり、ある意味では最も熱気にあふれている競技といえた。
彼女はその異様な雰囲気の中で実力を遺憾なく発揮し、見事にそれを制していた。
「スズカちゃんのトレーナーさん…見てくれたかな?」
つややかな栗色の髪の少女は、おそるおそるそう問いかけていた。
サイレンススズカのトレーナーのことは、昨日併走した時に話を聞かされていた。
以前から彼女がトレーニングしている時はいつも一人で、近くにトレーナーの姿が見当たらないことを、スマートファルコンは不思議に思っていた。その疑問を口にすると、普段は姿を見せられないということを教えてくれたのだ。
その話を聞いた時はさすがに目を丸くしたスマートファルコンだったが、理由までは尋ねなかった。ただ、「トレーナーさんはどんな人?」と問いかけると、「とっても頼りがいのある人。先輩のトレーナーさんみたいに」とだけ返ってきた。その返答で、互いに尊敬し合っているのだと彼女は感じ取っていた。
「どうかしらね…どこかで見てくれてたかもしれないけど。もう慣れっこだから」
寂しさの欠片もない澄ました顔で、ささやくようにそう言った。言わずもがな、サイレンススズカにとってそれは納得尽くのことだったからだ。
「でも、いつも気にかけてくれてるんだよね?」
先輩はすかさず問いかけていた。それは後輩の思いを知りたかったからだ。
「ええ、それは間違いないわ」
「そっか☆ だったらきっと見てくれてたよ」
後輩の自信にあふれた言葉に、先輩は安堵しながらにこやかに微笑んだ。二人がお互い尊敬し合っているという直感は、やはり正しかったのだと一人心の中で頷いていた。
「やっぱり見てくれると嬉しい?」
「そうね。見てくれないよりは…」
次いで、両耳をくるりと半回転させながら、続けざまにつぶやいた。
「ただ…本当に見てもらいたい人は来てくれなかったけど…」
視線を落として、少しだけ耳をしおれさせる。いつもの涼やかな表情も、この時ばかりはどことなくかげっていた。
「それって、家族?」
自らの両親が来られず、寂しい思いをしたことを重ね合わせるスマートファルコン。
「ちょっと違うけど、そんなところかしらね…私にとって、一番大切な人よ」
朱色の髪の少女は、ただぽつりとそう漏らした。その意味深な響きに、聞いてはいけないことを聞いてしまったのではないかと、問うた少女は不安になっていた。
そんな先輩の胸中を察してか、後輩は静やかな声を響かせた。
「大丈夫よ、気にしないで。今のトレーナーが私にはいるもの。急に変なこと言ってごめんなさいね…」
「ううん…ファル子も家族が来られなかったから気持ちは分かるつもりだよ。ただ、スズカちゃんっていつもたくさんのファンが見に来てくれててとても眩しいから、ちょっと意外だなぁって…」
「ええ、たくさんのファンの声援はとても嬉しいわ。でも、やっぱり…ね?」
「そっか…そうだよね」
デビュー前でファンもほとんどいない彼女にとって、サイレンススズカは常に雲の上の太陽のような存在であった。そんな憧れの少女の思わぬ告白に、スマートファルコンは複雑な気分を抱いていた。異次元にいると思っていた後輩が、実は自分とあまり変わらないのだという、親近感に似たそれであった。
「ファル子も家族が来てくれた方が絶対嬉しいし…あっ、もちろんウマドルとしてファンのことを蔑ろにしてるわけじゃないけど…!」
急にミサキちゃんの姿が思い出されて、とっさに付け加えていた。ウマドルを目指す彼女にとって、ファンの一人ひとりも大切な存在であり、そこに優劣をつけられるわけもない。
やはり自分は後輩とは違う、一転してそんな感情が彼女の中に満たされつつあった。
朱色の髪をさらりと撫でながら、サイレンススズカはふっと目を細めた。
「先輩らしいわね。私もファンのことは大事よ? いつだってあの声援は力になるもの」
「スズカちゃんのファン、凄い数だもんね…! この前のライブの時なんかスズカコールに圧倒されちゃったもん」
今月初めに東京レース場で行われたウマ娘ライブショー。そこでサイレンススズカは大トリを飾っていた。そのきらめきと会場の熱気たるや、スマートファルコンにとってまさに夢にまで見た情景に他ならなかった。
「ファンの人たち、スズカちゃんの活躍が見れて喜んでたよ☆」
自信満々にそう言ったのは、彼女自身、朱色の髪の少女の大ファンであったからだ。
「ふふ…そう言ってもらえるとウマ娘冥利に尽きるわね。でも、きっと今日一番喜んだのは先輩のトレーナーさんとファンじゃないかしら。だってMVPに選ばれた娘の担当なのよ」
「そうだね♪ ファンの女の子はとっても喜んでくれてた☆ トレーナーさんはべた褒めしてくれたし、もうファル子に首ったけで困ってるの♪」
満面の笑みでおどけてみせる彼女。それは帰り際に感じていた嬉しさを、会話の中で不意に思い出したからであった。
「それでさ、さっきメイクデビュー出走届を提出するって決まったの☆」
「やったわね。先輩の走りなら絶対に活躍できると信じてるわ」
「スズカちゃんはデビュー戦、どうだったの? やっぱり圧勝?」
「ええ、勝ったわ。先輩もきっと…そうなるでしょ?」
微笑しながら答えた朱色の髪の少女。それは確信による発言だった。
「えへへ…だといいんだけど☆」
「ふふ、大丈夫よ。先輩は砂に愛されてるもの」
いつもより温和な声を響かせて、後輩は凛とした眼差しを対面に座する先輩へと向けた。
思わずはにかんで、いそいそと耳を上下させるスマートファルコン。それはぎこちない照れ隠しの成れの果てであった。
出し抜けに彼女は立ち上がり、マガジンラックから一冊の雑誌を選び出して戻ってくる。その手に握られていたのはグルメ情報誌であった。
「スイーツ引換券使えるとこ一緒に探そうよ☆」
「え…でもそれは桃花チームの賞品でしょ?」
「うん、そうだけど…スズカちゃんと行きたいなって」
嬉しそうに話しながら、ページをぺらぺらと定め無くめくっていくスマートファルコン。
これが先輩なりのお礼なのだと、サイレンススズカは悟っていた。
「それじゃ…お言葉に甘えさせていただくわね」
そう答えながら、彼女もまた、小さめの耳をいそいそと半回転させていた。
目移りが止まらない写真の数々に黄色い声を上げるスマートファルコンと、静やかに相槌を打つサイレンススズカ。
仲の良い先輩後輩のお出かけ計画考案は、それからしばらく続いたのだった。
◆
大きな両開きの窓ガラスの外には、月明かりに支配された夜空が広がっている。そこに浮かぶ満月はいつになく妖しく輝き、学院全体を照らしている。
「メジロアルダンは白のようです」
理事長室に響く隆々とした男性の声。もちろん、それは所属チームのことではない。
「安堵ッ! "今回"ここに来たばかりで読めなかったが、単なる偶然だったのだな」
そう力強く答えたのは、書類がうず高く積み上げられた机の奥に佇む小柄な女性。
続けざま、彼女はあごに手を当てながら、目の前の男性へと問いかけるように言う。
「ということは、噂で流れているのは別の娘か…」
そう問われた彼は、質問者の動きに触発され、無意識に整えられたあご髭をさすりながら答えた。
「これで該当者全員に探りを入れましたが、全員白のように感じました。上手く隠しているだけかもしれませんが…」
「いや、百戦錬磨の君がそう思うのなら間違いないだろう」
そこへ、唐突に響いたのは柔らかな女性の声。
「単にデマの可能性もありますね。ここではどんな噂もまことしやかに広がりますし…スズカさんの噂なんかもそうでした」
その言葉にすかさず反応したのは、整えられた髭を持つ彼であった。
「あれは私も油断していた…申し訳ない」
「いえ、初めてのことでしたし…"次回"からは手を打ちましょう」
事務処理をこなす時と同じように、彼女はただ淡々と答えた。
落ち着いた声が飛び交う理事長室には、いつになく厳かで重々しい雰囲気が漂っていた。
部屋の中には四人いた。
一人は筋骨隆々とした男性、トレーナー長である鳥林。一人はトレセン学院理事長、秋川やよい。一人は緑色を基調とした制服を身にまとう理事長秘書、駿川たづな。そして、扉近くに佇むもう一人、彼女は鈍色のウマ耳と尻尾を生やしている。
ずれてしまった論点を引き戻そうと、理事長はこの場にただ一人の生徒へと視線を飛ばした。
「質問ッ! いつ頃からあの噂は流れ出していたのだろうか?」
「はい…一週間ほど前から生徒たちに流れているのは確かです。それも、学年の高い生徒たちだけのようです。出どころまではさすがに分かりませんでしたが…」
黒縁眼鏡を片手で抑えながら、鈍色の髪の少女は申し訳なさそうに語った。
あの噂とは、それまで成績が振るわなかったある生徒が突然選抜レースで上位になり、その実力向上が笹針師によってもたらされた…というものであった。
彼女自身が所属する低学年クラスの生徒はもちろん、この日保健室に同伴したメイショウドトウをはじめ何人かの生徒に水を向けたものの、学年の低い生徒たちの間にその噂はほとんど広まっていなかった。
逆に、食堂での会話や、図書室でのひそひそ話に聞き耳を立てていると、その噂話をしているのは専ら高学年の生徒ばかりであった。
彼女の聴力は、耳が良いとされるウマ娘の中でも人一倍優れており、どんな小さな独り言でも聞き逃すことはなかった。
相槌を打つように、理事長秘書は冷静に分析した。
「高学年の方が焦っている娘は多いでしょうからね」
一様に頷く面々。
もう後がない、残されたチャンスが少ない、そうやって追い詰められた生徒ほど、藁にもすがる思いになるのは当然のことであった。
「私見ですが…」
そう前置きして、鳥林はおずおずと顔をしかめた。
「アルダンに関しては、今後標的にされそうな境遇のように思います。やはりメジロ家の娘にかかるプレッシャーは強いかと…」
「うむ…そうか」
同じく眉をひそめて、難しい顔をする理事長。唯一、頭上の八割れ猫だけは、すやすやと穏やかな空気をまとっている。
その顔のまま、彼女はいかにも高級そうな掛け時計に目をやった。
「定刻ッ…! ゼンノロブロイ、引き続き身の回りの動向に目を光らせておいてくれ。今日はもう帰ってよろしい」
「分かりました…!」
言い終えるや、体を翻しながら扉に手をかけ、「失礼しました」と一礼する鈍色の髪の少女。
次いで、がちゃりと小さな音を立てて閉まる厳かな扉。それは門限の数刻前のことであった。
直後、わずかに続いた静寂はすぐに終わりを告げた。
「あの、スズカさんが先日仰っていたのですが…」
そう切り出した理事長秘書に、二人の視線が注がれる。
「場合によっては退学も辞さないと…」
「断固ッ! 拒否ッ!」「それは駄目だ」
同時に発せられた否定の言葉。
理事長は勢いよく机に手をつきながら、トレーナー長は組んでいた腕をさっとほどきながら、反射的に声を出していた。
返答がそうなることが分かっていたこととはいえ、たづなは思わずたじろいだ。
「当然ッ! 彼女はこれまで学院のために尽力してくれた。そしてこれからもだ」
「それに、それで収まるとは限りません」
それを聞いた理事長秘書は、ただただ肩をすぼめていた。
二人の反論はもっともであった。たづな自身もサイレンススズカの申し出を受ける気などさらさら無く、二人と同様の意見だった。
とはいえ、サイレンススズカの悲痛な葛藤を黙ったままにしているわけにもいかず、今こうして伝えるしかなかったのである。
「現状ッ…打つ手なしか」
鬱屈とした空気を形容するかのように、理事長は重々しく言い放った。
「申し訳ありません。私が異変にもっと早く気づいていれば…」
「いや、元はといえば、彼女を登用した私の責任だ」
それはあらん限りの感情が込められた声。
トレーナー長をなだめる顔は、苦難に立ち向かうと覚悟を決めた司令官のそれであった。
「結論ッ! 彼女の動向に細心の注意を払いつつ、今の私たちにできることをするだけだ」
その言葉に、はっとしながらも即座に頷く二人。
まなじりを決して理事長はまくし立てる。
「摂理ッ! 誰かの夢を叶えるということは、誰かの夢を蹴落とすこと。それはどこに行っても変わらない。たとえこの"学院"でも…それでも彼らは諦めない。なぜなら夢を叶えるためにここにやって来たのだから。"今回"も、"次回"も、"それ以降"も、いつまでも不変ッ…! それを導くことが我々の使命だ!」
いつの間にか広げられていた扇子。そこには『不屈』の二文字が悠然と掲げられていた。
お疲れ様でした。
これにて第8話(第6話〜第8話に渡りました春のファン感謝祭編)は終了となります。
次回こそメイクデビューに至る話なので、いつも通りのペースではありますが、お楽しみいただければ幸いです。