君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆──   作:キビタキ

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【第9話】梅雨空の願い ②望まぬ軋轢

 白みがかった灰色の空に覆われ、小雨降りしきるトレセン学院。六月に入り、いつしか梅雨を迎えていた。

 眼前には坂路でのトレーニングに励む数多くの生徒。それは脚力を培い、パワーを向上させるための鍛錬。

 何度も何度も坂を登る彼女たちに紛れて、つややかな栗色の髪の少女がひた走っている。最も傾斜のきつい最後の区間でラストスパートをかけ、青い傘をさす俺の側を駆け抜けていったその少女。

 リボンのようなヘアゴムで結ったツインテールがふわふわと宙を舞って、微かな残り香を漂わせる。だが、それは間違いなく気のせいだ。

 嗅覚が感じ取っているのは湿った生暖かい空気だけ。彼女との距離もそれなりに離れている。実際、雨とそれに濡れた敷材の匂いしかしない。

 それなのに、彼女が横切る度、愛用の洗髪剤の香りがするように感じてしまう。それはベルの音を聞いただけでつばを出すパブロフの犬のように、反射的にそう思うようになってしまったからかもしれない。

 

(出会って二ヶ月経ったんだよな…)

 

 "もう"二ヶ月と言うべきか、"まだ"二ヶ月と言うべきか、正直なところ迷う。少なくとも、その芳しい香りを好きと思えるようになるには、十分すぎる時間だった。

 そして、これから彼女と過ごす時間は、それよりももっと長いことも確かだ。

 

 規定の回数を走り終えた彼女が、俺の下へと戻ってきた。

 半袖のジャージに短パン。雨に濡れた髪と服を見ると寒そうに見えるが、運動により火照った体にはちょうどいいくらいなのだろう。まだまだ元気いっぱいといった感じで、その金色の瞳に映るやる気の炎はめらめらと燃えている。

 

「どうだった? 前よりは速くなった気がするけど」

 

 自信ありげな表情を浮かべながら、彼女は両方の蹄鉄シューズのつま先をとんとんと地面に叩いていた。

 それは先月新調したばかりのダート用シューズ。春のファン感謝祭の日に約束した、「表参道で靴を新調して撮影会」によって選ばれた靴だ。

 約束通り、休日の表参道で彼女の納得のいくまで撮影会をして、SNSにしっかり投稿することとなった。

 砂地を走る以上、買ったその日はぴかぴかだったそれも、あっという間に砂や泥にまみれて汚れてしまう。その代わり、ウマ娘の激しい走りに耐えられるようかなり丈夫に作られている。

 使い始めて約一ヶ月、彼女の足にすっかり馴染んできていた。

 

「ああ、良い感じだ。タイムも0.2秒縮まったし、確実に力がついてきてるな」

 

「えへへ…ファル子絶好調! でも、やっぱり砂の上の方が走りやすいかな」

 

 坂路の敷材にはウッドチップが用いられている。クッション性に優れ、足への負担も軽く、天候の変化によるバ場への影響も少ない。実際のレースでは使用されない敷材ではあるものの、トレーニングで何度も走るには最適であるといえる。

 しかし、彼女にはやはりどこか物足りないようだ。

 

「本当にファル子って砂が好きだよな…良バ場と重バ場だったらどっちがいい?」

 

「う〜ん…究極の質問だね、それ。走るんだったら乾いた砂も、びちょびちょになった砂もどっちも好き☆ 服が汚れにくいって意味なら良バ場の方が良いけど…」

 

 頬に人差し指を当てて、真剣に考え込んでいる様子。砂地を走ることに関しては、どんなバ場でも好き嫌いしないようだ。

 

 春のファン感謝祭以降、ほぼ毎日続けていた裸足でのトレーニングも、今では週一程度の頻度に落としている。

 さすがに毎日は足への負担が怖いのと、芝の癖がもうほとんど抜けたからだ。少し前に鳥林さんにも見てもらったが、これなら大丈夫だとお墨付きをいただいた。鳥林さんは「そんな方法があったとはな」と、舌を巻いていた。

 とにもかくにも、今はメイクデビューに向けて、蹄鉄シューズでの走りに慣れなければならなかった。

 芝の癖が抜けてきたのに合わせて、トレーニングを積めば積むほどその結果が目に見えて出るようにもなってきていた。成長を実感できるというのはやはり嬉しいし、モチベーションアップにも繋がる。

 今ではお互いにトレーニングが楽しくて仕方がない、そんな気持ちすら抱いていた。

 

「十分くらい休憩したら再開しようか。傘はいる?」

 

 彼女愛用のピンクと白のツートンカラーの傘を差し出す。

 

「大丈夫☆ 涼しくてちょうどいいくらいだから」

 

 ピースサインを決めて余裕を見せる彼女。

 晴れた日ならつややかな栗色の髪を揺らしたであろう生暖かい風も、この日はそっと優しく撫でるだけだった。

 そこへ、赤い傘をさした一人の女性トレーナーが、担当ウマ娘と思われる五人ほどを引き連れて悠然と現れた。

 彼女たちの放つオーラは、明らかに有能トレーナーとそれに率いられた精鋭といった雰囲気。

 とはいえ、たくさんの生徒たちが行き来するトレーニング施設では、そういった集団はよく見かけるし特段目立つわけでもない。ただ、彼女たちの姿に思わず目を見張ってしまったのは、そこに見慣れた焦茶色の髪の少女がいたからだ。

 

「あ…スペちゃん」

 

 ファル子もそれに気づき、その名をぽつりと口にする。

 張り詰めた顔をしたスペシャルウィークが集団の後方に位置していた。いつもなら笑顔で駆け寄ったであろうファル子も、この時ばかりは自重する。女性トレーナーを筆頭に、近寄りがたい雰囲気を醸し出していたからだ。

 スペシャルウィークもよほど緊張感を持って臨んでいるのだろう。こちらに気づくこともなく、絶えず自身のトレーナーへと熱い眼差しを向けている。

 

「まずは軽くウォーミングアップ。十分後にいつもの順番でスタート。雨だからいつもより蹴り出しを意識して、ラスト二百メートルは十二秒台を維持すること。わかった?」

 

 器用に赤い傘を脇で固定しながら、左手にバインダー、右手にボールペンを持って指示を出すその人。担当ウマ娘たちは声高な返事と共に、言われた通りに各々ジョギングやストレッチを開始する。

 ふと、体を伸ばすスペシャルウィークと目が合った。彼女は確かにこちらに気づいて一瞬だけその表情を緩ませたが、すぐさま真剣なそれへと戻っていた。

 

「スペちゃんのトレーナーさんってことは…」

 

 ふっと小声でささやいた彼女は、まじまじとその女性を見つめていた。

 

「ああ、あの人が江永トレーナーだ」

 

 同じように小さくそう答えた。

 

 赤い傘の奥で、ポニーテールにした明るめの茶髪が肩甲骨辺りに垂れている。

 ゆったりとした半袖の黒いスポーツウェアを着込み、浅葱色のカプリパンツと運動靴の間には健康的な素肌が露出している。いかにもジムで見かける若い女性といった印象を受ける。

 これから一緒に担当ウマ娘たちと走り出してもおかしくない、そんな格好だ。

 

「あの人がそうだったんだ…たまに見かけるけど、スペちゃんの担当ってのは知らなかったなぁ」

 

「まぁ、スペが来たのは四月からだしな。スカウトされて二ヶ月も経ってないだろうし」

 

 基本的にファル子とはダートトラックでトレーニングしていたからだろうか、こんなにも間近に江永さんのトレーニングを見かけることは、今日まで不思議となかった。

 

「それで…あの人と昨日の人ってライバル同士なんだよね?」

 

 いつしか彼女は、俺の持つ傘の中に入らんばかりに近づいて、より一層声を潜めた。ウマ娘の聴力をもってしても、一メートルも離れれば聞き取れなくなるほどの小声。それはもはや耳打ちであった。

 昨日、メイショウドトウが図書室を去った後、ファル子にはその二人の先輩トレーナーが普段から競い合っていることだけは伝えていた。

 

「そうだな。ライバルというか…一言で言えば犬猿の仲だ」

 

 ファル子にしか聞き取れない声で静かにつぶやいた。それは多分、傘を叩く小雨の音よりも小さかった。

 

 掛巣トレーナーと江永トレーナーは同期で、好敵手であると同時に水と油の関係であった。トレーナー長の鳥林さんですら手を焼くほどの軋轢。何かにつけて二人は競い合い、そして反目し合っていた。

 最近では、四月の皐月賞では掛巣さんの担当が掲示板入りを果たしたが、五月の日本ダービーでは江永さんの担当が入着した。

 まるで示し合わせたかのように、お互いの担当ウマ娘が同じレースに出走する。そんなことが頻発しているようだ。

 それが繰り返された結果、二人はお互いを因縁の相手として認識し、常に火花をばちばちと散らしていた。

 

「ふ〜ん、そういうことだったんだ」

 

 一通り説明し終えると、昨日から続いた疑問にようやく終止符が打たれたのか、ファル子はどことなく冷ややかな声と共に頷いた。その表情は納得というより、呆れの色が濃く見えた。

 

「トレーナー同士で競い合うのは分かるよ。でもさ、生徒を巻き込むのは違くない?」

 

 金色の瞳に微かな怒気をにじませて、彼女は口を尖らせていた。

 ほとんど相合い傘のようになっている俺とファル子。細かな耳の動きが見て取れて、その感情の機微を鮮明に察知できた。

 

「昨日のドトウちゃん、普通じゃないくらいショック受けてたもん…きっとスペちゃんとぎすぎすしなくちゃいけなくなるのが分かって、それが嫌だったんだよ」

 

「だろうな…でも、トレーナーやチームの雰囲気的にそうもいかないんだろう」

 

 その言葉に、彼女は物憂げな面持ちで怪訝な声を漏らす。

 

「でも、今さらじゃない? リレーの練習してる時は何ともなかったのに…」

 

 わずかにしょげた耳は、悲しみと憂いを確かに投影していた。

 

「あれはトレセンの行事だし、トレーナーもあんまり目くじら立てなかったんじゃないか? 今回のはデビュー戦で同じ組になったから、さすがにスイッチが入ったのかもな…」

 

 言い終えて、目の前の女性トレーナーをちらりと見やる。いかにも温和な掛巣さんと比べると、その鋭い目つきは少し厳しめな印象を受ける。

 スペシャルウィークがライバルの担当と同じ組と知った時、彼女は一体どんな反応をしただろうか。

 

(普通に考えたら、絶対に負けてなるものか…ってなるよな…)

 

 やはり好戦的なイメージしか浮かばない。千載一遇の機会と見て、いつも以上に気合を入れていることは間違いないだろう。

 その証拠に、江永さんがスペシャルウィークへと向ける眼差しと声には気迫がみなぎっている。あの中で最も加入歴が浅いということもあるのだろうが、より厳格に接しているのはひしひしと伝わってくる。

 また、チーム全体が打倒掛巣という雰囲気であれば、スペシャルウィークのいたたまれなさは計り知れない。それは間近でリレーの練習を見てきたからこそ分かることだった。

 

「…っていうか、カヤちゃんもあの女の人の担当だったんだ」

 

「カヤちゃん?」

 

 不意にファル子が発した言葉によって、スペシャルウィークに向けられていた意識が引き戻される。

 

「うん、カヤクグリちゃんのこと」

 

 その視線は目の前でウォーミングアップしている、黄褐色の髪の生徒に注がれている。

 

「カヤクグリ…? ああ、大井レース場で勝った娘か」

 

 一瞬何のことか分からなかったが、しばらくしてその答えに行き着いた。ファル子をダートに転向させるべく観戦した、あの日のナイターレースで勝利した娘だ。

 名前は微かに覚えていたが、顔の方は記憶の海底の奥深くに沈んでしまっていた。

 

「よく彼女のこと覚えてたな」

 

「えっへん☆ だってファル子ウマドルだよ? 顔と名前を覚えるのは得意なの☆」

 

 尻尾を高く振り上げながら、にんまりとドヤ顔を決める彼女。いつもならさしてどうとも思わないそれが、今日だけはとても憎たらしく見える。

 それはきっと、その得意技が羨ましくてたまらないから。

 

(俺ってすぐに人の顔と名前を忘れるからな…)

 

 小中学校の同窓会に行くと、やたらクラスメートのことを覚えていて、顔を一目見ただけでその記憶と直結できる人間が一人はいるが、あの記憶力には脱帽するしかない。

 こんな薄弱な記憶力だから、夢にまで見る憧れのあの娘の名前が思い出せないのだと思う。髪や瞳の色、顔だけはしっかり覚えているのに。

 そんなことを考えている内、眼前のウォーミングアップは一区切りついたようだ。

 

「そろそろ時間よ。一人ずつスタートしてきなさい」

 

 江永さんの号令がかかり、五人のウマ娘たちは一斉に同じ方向へと駆けていく。その足元で、大小様々な水たまりが飛沫を上げる。

 ここは坂路の頂上付近。スタート地点へはここから一キロメートルほど離れた場所にあった。

 

「トレーナーさん、ファル子もそろそろ行ってくるね」

 

 それを見て、張り詰めた表情で両耳を逆立てるファル子。

 こちらの返事も待たず、彼女たちを追いかけるように行ってしまった。

 

(後輩思いだな…ファル子は…)

 

 きっとスペシャルウィークと話すつもりなのだろう。

 心配げに揺れる彼女のツインテールと尻尾が、誰よりもそう語っていた。

 

──

 

 坂路は約一キロメートルにも及ぶ直線で、ICチップとセンサーによる精密なタイム計測が行える。それゆえ、生徒たちは手首にICチップ付きのリストバンドを装着している。

 ただし、同時に複数がスタートすると計測に誤差が出ることがあるので、間隔を開けて一人ずつスタートすることになっていた。

 スマートファルコンが彼女たちに追いついた時、スペシャルウィークはスタートの順番を待っているところだった。

 普段通り気さくに明るく、そして朗らかに、彼女は後輩へと声をかけた。

 

「スペちゃん☆ 元気してる?」

 

「あ…ファルコン先輩」

 

 先輩の来訪に微かな笑みを浮かべる後輩。ただ、そこにいつもの元気はなかった。耳は若干しおれ、びくびくとすらしている。それはすぐ近くにチームメンバーの目があるからだった。

 今しがた、二人目が坂路のトレーニングをスタートさせた。スペシャルウィークは五番目。すぐに順番は回ってくる。

 焦茶色の髪の少女は、先輩に伝えたいことを手短に話すべく、耳元に近づいてささやいた。

 

「すみません…今度見に行くって約束してたライブ、行けなくなりそうです…」

 

 ひそひそ話の声量ではあったが、そこに含まれる申し訳なさをスマートファルコンは痛切に感じ取っていた。

 たった今、三人目が坂路へと駆け出した。

 

「え、そうなんだ…でも仕方ないよね。レースの前日だし」

 

 同じ大きさの声で答える彼女。

 約束したタイミングでレースの日程までは読めなかったため、それは仕方のないことだった。

 数日前、スペシャルウィークとメイショウドトウの三人で昼食を楽しんでいた時、スマートファルコンは高架下ライブのフライヤーを配り、二人から見に来てくれる約束を取り付けていたのだ。

 四人目であるカヤクグリが、訝しげな表情で後ろをちら見しながらも勢いよくスタートを切った。

 ようやく訪れた、本当にごくわずかな二人だけの時間。

 しとしとと打ちつける雨が、彼女たちの露出した肌を冷たく濡らしている。

 

「いえ、それもあるんですけど…ドトウさんもライブに来られますよね?」

 

 発せられたのは普通の声。そこにメイショウドトウの名前があったのは、誰にも聞かれていない安心感によるものだった。

 

「うん、その予定だけど…」

 

「ですよね…ドトウさんがいると」

 

 その時、後輩のリストバンドからアラームを鳴り、スタートを促す。

 

「すみません! また後でメールします…!」

 

 言い終えるや、慌てて尻尾を揺らしながら駆け出していく彼女。

 その姿を、スマートファルコンは心配そうにただ見つめることしかできなかった。

 結局、その日後輩に話しかけるタイミングは訪れなかった。

 

──

 

 予定していたトレーニングを終えすっかり暗くなった頃、雨はさらに勢いを増していた。あたかも、暗雲立ち込める彼女の胸中を具現化するように…。

 ざあざあと打ちつける雨音が絶え間なく響く。そこは校舎の入り口。

 生暖かい風が吹きつけると、風に乗った雨が屋根の下にまで入り込んでくる。

 二人の手には閉じた傘が握られている。後はこれを開いてそれぞれの寮に帰るだけなのだが、そうもいかなかった。それは、つい先ほど後輩から送られてきたメールを確認するためだった。

 彼女の持つピンクのスマホに、白い吹き出しに囲われた文字が表示されている。後ろから覗き込むようにしてそれを黙読する。

 

『今日はライブを断ってしまってすみませんでした。私のトレーナーがドトウさんのトレーナーさんに対抗心を燃やしてて、とても行けそうな雰囲気じゃないんです。本当にごめんなさい! また今度誘ってくださいね』

 

 泣いた顔文字や汗の絵文字を多用した、スペシャルウィークなりの謝罪のメール。

 そうなってしまったのは彼女のせいじゃないだけに、胸がつかえる思いがした。

 

「スペちゃんのせいじゃないのに…」

 

 俺の気持ちを代弁するように、ファル子は悲しみを帯びた声を喉から漏らしていた。

 その時、メールの着信を告げる音が鳴った。今見ている連絡アプリ特有の耳に残る通知音だった。

 

「あっ…! ドトウちゃんからだ…」

 

 何という偶然だろうか。ほぼ同じタイミングでメイショウドトウからもメールが届いたのだ。

 指を軽やかに動かし、おそるおそるメールを開くファル子。

 

『ごめんなさい! 約束してたライブ行けなくなりました…次の日がレースなので練習することになったんです。もし良ければ、スペシャルウィークさんには私が行かないことを伝えてください。多分私がいると行きにくいと思うので…』

 

 スペシャルウィークと比べると、絵文字も少なくしっかりした文面。いつものとつとつとした話し言葉に慣れていると余計にそう見える。

 ただ、内容からは複雑な心境が見て取れた。

 立て続けに届いた葛藤にあふれたメール。それは彼女の心に確かな影を落としていた。

 

「ドトウちゃんもライブ来れないなんて…」

 

「レースの前日だから仕方ないんだろうけど、そもそも雰囲気的に厳しいのかもな…」

 

 無機質な雨音が心の奥底にまで響いてくる。まるで心臓に直接雨が打ちつけているよう。

 ぱたりと倒れた耳。だらんと垂れた尻尾。それが彼女の全てを物語っていた。

 

「トレーナーさん…ほんとにこのままでいいのかな?」

 

 真っ暗になったスマホの画面を見つめながら、ぽつり、彼女はつぶやいた。途端、まとう空気が瞬時に張り詰める。

 

「二人のことか? かち合ってしまったのは確かに不運だけど…でも乗り越えなくちゃいけないことでもある」

 

「うん、そんなこと分かってるよ。これからレースで当たることなんていくらでもあるだろうし…私の同級生でもそんな娘たくさん見てきたもん」

 

 スマホをポケットにしまい込み、顔を上げる彼女。

 

「だけどさ、リレーで一緒に走った仲間だよ? このまま放っておけないよ」

 

 儚げな面持ちで、それでもなお、さっきとは別の生き物のように天を貫かんとする両耳。その瞳には、何か熱い思いがたぎっているように見えた。

 

「私はさ、ダートだから多分あの娘たちと当たることないって、正直に言えば高をくくってるところも…ないわけじゃないよ。でもさ、メイクデビューは一度しかないんだよ? そんな大切なレースを、仲の良い友達と険悪な雰囲気のまま走るのって…嫌でしょ?」

 

 彼女は自問自答のように問いかけていた。それはきっと、芝と砂の壁に遮られ、本当の意味で二人に寄り添えないことが悔しいから。

 しかし、その声に秘められた思いは、この雨さえもはねのけてしまうほどに強いことは確かだった。

 なぜなら、あんなに降っていた雨が急に弱まったのだ。頭上に広がるそれは、まさに彼女の心そのものなのかもしれない。

 いつしか、彼女はまなじりを決して、暗雲を射すくめるように睨んでいた。

 

「今度のレースでどちらかは負けちゃうし、悔しい思いだってする。だけど、終わった後に笑い合えるようにはしておきたいの。だって…スペちゃんもドトウちゃんも、ファル子の大切な友達だもん」

 

「そうか…そうだよな。いがみ合って後味悪く終わるより、そっちの方がずっといいよな」

 

 本当は仲が良い二人が、それぞれのトレーナーの板挟みにあっている。確かにその現状は見ていて可哀想だし、何よりいたたまれない。

 たとえどんな真剣勝負になろうとも、終わった後にはお互いを尊敬し、そして称え合う。それが本当のライバルのはずだ。

 ファル子はやはり空を見つめながら、毛づやの良い尻尾を高々と振りかざす。

 

「明日二人とちゃんと話してみる」

 

 両の拳を握りしめて、力強くそう言い放っていた。

 

 彼女の言う二人が、メイショウドトウとスペシャルウィークではなく、掛巣トレーナーと江永トレーナーになることを、この時まだ誰も知らなかった。




お疲れ様でした。
公式設定でもファル子ちゃんの得意なことは「名前と顔を覚えること」になっています。
ちなみに、苦手なことは「勉強」です(そこが可愛い)。
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