君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆──   作:キビタキ

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【第9話】梅雨空の願い ③決意のプールサイド

 高架下ライブ、そしてメイクデビュー。手に持つそれに、隣り合ったスケジュールが記されている。

 数日前にはなかった二重線がそこには引かれていた。スペシャルウィークとメイショウドトウ、来るはずだった二人の名前の上に。

 手帳をぱたんと閉じて視線を上げる。

 窓の外にはほんのりと灰色の空が見える。しばらくはぐずついた天気が続くらしい。

 水色の揺らめく絨毯と高い天井。

 塩素の匂いが漂うその空間は、水が弾ける音がとめどなく残響している。

 足の裏に伝わる硬い感触。濡れたその上を歩く度、ぴちゃぴちゃと水滴がまとわりつく。裾をまくり上げて露出した足は、常に湿っぽさと涼しさを感じ続けている。

 そこはトレセン学院の屋内プールだった。競技用規格で設計されているそれは、スポーツ中継などで見るようないわゆる本格的なプールで、どことなく厳かな雰囲気を漂わせている。

 

「やっぱり皆泳ぐの速いな…」

 

 プールサイドに設けられた椅子に腰掛けながら、水面を大きく揺らす生徒たちの姿に舌を巻く。

 地上のようにはいかないまでも、人間よりも身体能力に優れた彼女たちは水泳もパワフル且つスピーディーだ。心肺機能も優れているため、潜水できる時間も人間のそれより長い。一度飛び込んで、プールの端から端まで息を入れずに泳ぎ切れる生徒もざらだ。

 一方、残念なことに"カナヅチ"のウマ娘も稀にいるようだが。

 

「トレーナーさんは泳ぐの上手いの?」

 

 隣に座る担当ウマ娘が、同じく他の生徒たちを眺めながら口を開いた。純粋に好奇心による問いかけであることは、声の調子で何となく分かった。

 

「うーん、人並みかな。泳げはするけど大して得意でもない」

 

「そうなんだ。ファル子は水泳苦手だから…トレーナーさんもそう思うでしょ?」

 

 少しだけ萎えた耳が、彼女の自信の無さを際立たせている。

 

「まぁ、ビート板ありで泳いでるわけだからな…」

 

「だよね…昔から泳ぐのだけは下手なの…」

 

 カナヅチとまでは言わないが、彼女はあまり水泳が得意ではなかった。それゆえ、ビート板を使わないと安定して前に進めない。

 とはいえ、俺から言わせてもらえば彼女の泳ぎはなかなか様になっていると思う。ビート板ありきではあるが、スピードは十分速いし、泳ぐ姿勢も綺麗だ。それでもウマ娘の中では下手なレベルなのかもしれないが…。

 

 プールでのトレーニングは、全身の筋肉の鍛錬、そして心肺機能の向上が主な狙いだ。いわゆるスタミナと呼ばれる持久力を鍛えるのに効果的と言われている。

 ファル子の場合、ダートの主戦場である短距離からマイルをカバーできるだけのスタミナは十分有している。

 しかし、それはあくまでたった一人で走った場合。実際のレースでは複数のウマ娘と同時に走るわけだから、そう簡単にはいかない。得意の逃げに持ち込むまでに、バ群をかき分けるパワーとスタミナは想像以上に必要となる。

 また、先頭を行く者の宿命として、ペースメーカーもいなければ他者の後方に張り付いての空気抵抗の緩和もできない。それゆえ、最もスタミナを消費するのが逃げという走りなのだ。

 短距離はともかく、長めのマイルや中距離になれば今のスタミナではまだ心許ない。それがトレーナーとして率直な意見だった。

 もちろん、それはファル子にも伝えてあるし、トレーニングを積めば確実にスタミナは向上する。

 問題点や課題を指摘すると、彼女はしょげることなく俄然やる気を出してくれる。その心意気は頼もしかったし、それは紛れもなく彼女の長所だった。

 

 ふと、何となしに真横へと視線を向ける。そこにあったのは、プールの対岸を見つめるどことなく不安そうな横顔。先ほどトレーニングの一区切りを迎えたばかりの彼女は、全身湿り気を帯びていた。

 水気を含んだ濃藍のトレーニング用水着。いつも以上に光を反射するつややかな尻尾。水滴を滴らせる健康的な肌。

 もちろん、トレードマークのツインテールも同様だ。いつもならふんわり宙を舞うそれも、水を含んだ重みでいつも以上に垂れてしまっている。

 ただ、本人はそれを全く気にしていない様子。たとえプールのトレーニングでも、お気に入りの髪型を貫き通す姿勢は決して崩さない。

 

(よっぽど思い入れがあるんだろうな…)

 

 初めてファル子とプールに訪れた時、髪を結っていない彼女を見ることができると期待したのだが、盛大に肩透かしを食らったのを思い出す。そこにはウマドルとしての矜持があるのかもしれない。

 それと、彼女はここへ来るとテンションが低い…というか急に大人しくなる。泳ぎに自信がないこともあるのだろうが、小学校のプールの授業のようにはしゃぐこともなく、待ち時間はプールサイドでしおらしく待機し、真面目な顔で粛々とトレーニングをこなす。

 ダートトラックでにこにこしながら過ごすのとは全然違う姿に、正直面食らっていた。

 来月からは、海辺近くの施設に泊まり込みながら行われる夏合宿がスタートする。ファル子はとても待ち遠しくしているが、それは海が好きというより砂浜でのトレーニングが楽しみで仕方がないのだろう。

 

「どうしたの?」

 

 こちらに気づいて彼女はきょとんとした。顔に何かついてるのと言いたげな表情。金色の瞳の奥でそこはかとなく戸惑いが揺らめいている。

 いつもなら根負けして先に目を逸らしてしまうところだが、なぜかこの日はいつになくいじらしく見えて、容易に目を離せなかった。

 その理由は自分でもよく分からなかったが、自身のメイクデビューを間近に控えてもなお、後輩たちを案ずる彼女が健気に見えたからかもしれない。

 その証拠に、彼女はさっきからずっと浮かない顔をしている。もちろん、それはプールのトレーニングということもあるが、一番の理由は彼女がさっきまで見つめていたその場所。

 

「いや、ドトウのことが心配なんだろうなって…」

 

 そう言って、プールの対岸を見やる。

 そこには掛巣トレーナーの姿があった。この前見た時と変わらない、白のラフなワイシャツに群青色のジーンズ。

 五人の担当ウマ娘を率いて、今まさに準備体操を行わせているところだった。

 その中には褐色の髪の少女、メイショウドトウも混じっている。

 

「当たり前だよ…今はさすがに話しかけられないけど」

 

 彼女は静かにささやいた。

 午前の授業の合間や昼休みにも二人の後輩を捜したそうだが、残念ながら捕まらなかったらしい。それがふと、プールのトレーニングに姿を見せたわけである。そのもどかしさは何とも言えず悔しいに違いない。

 

「あれ…ドトウちゃんの隣にいるの、ハジロちゃんかな?」

 

「ハジロちゃん?」

 

「うん、キンクロハジロちゃんのことだよ」

 

 デジャヴだろうか。昨日に引き続き、ファル子はまたしても見覚えのある子をそこに見出していた。それも、大井レース場のナイターレースで走っていた娘を。

 垂れ耳の少女の隣で体を伸ばしている、真っ黒な髪に混じる真っ白なメッシュが目立つウマ娘。その特徴的な容姿はさすがに覚えていた。

 あの日、猛烈な差しでカヤクグリに迫ったが、後一歩届かなかった娘だ。

 

「ということは、この前のナイターレースも二人は競ってたわけか…」

 

 二人とはもちろん、掛巣トレーナーと江永トレーナーのことである。つくづく因縁の相手なのだと思う他なかった。

 

「二人は仲が悪いのかな…それとも仲が良いのに競い合ってるのかな…」

 

 彼女の言った二人とは、カヤクグリとキンクロハジロのこと。

 落ち着いた声を響かせたその横顔は、微かな儚さを宿していた。

 

「どうだろうな。そればっかりは本人たちにしか…」

 

 言い終えて、プールの出入口の方へと顔を向けた。それは何か意図があったわけではなく、本当に無意識の動きだった。

 噂をすれば影がさすという言葉がある。人の噂をすると往々にして他ならぬ当人が現れるという、先達が残した偉大なことわざの一つだ。

 実際、人生の中で何度か経験したことがあるそれは、いつだって不意に訪れてしまうものだ。今まさに、現実のものとなったように。

 目に入ってきたのは江永トレーナーとその担当ウマ娘たち。昨日と同じように、悠然とした立ち居振る舞いで現れたのだ。

 違うところいえば、生徒たちの服装がトレーニング水着であることと、江永さんのカプリパンツが浅葱色から葡萄色になっていることくらいだった。

 

「さくっとウォーミングアップ。レーンが空いたらスタートしていくわよ。最初の五十メートルは潜水したまま、折り返し後はスピードと効率的な息継ぎを意識すること。わかった?」

 

 遠くからでも聞こえる指示がプール内に響いた。昨日坂路に現れた時と全く変わらないそれ。こちらもデジャヴのように感じられた。

 もしかしたら、対岸にいる好敵手の存在に気づいて、当てつけのように声を大きくしたのかもしれない。

 その声に気づいたのか、掛巣さんはライバルの方へと振り向いた。

 視線が交錯し、広大な水面を挟んで睨み合う二人。それはほんの一瞬のこと。すぐさまその視線は担当ウマ娘たちへと戻される。表情は変えないまでも、火花が散っているのを確かに垣間見た気がした。

 

「何か…嫌な空気だね」

 

 ファル子がつぶやくように言った。

 ぴりぴりとした雰囲気、ぎすぎすとした気配、その両方を感じ取っていたのかもしれない。

 その物憂げな眼差しは、準備体操をするスペシャルウィークの姿を捉えていた。

 

 成り行きを見守るように、ただ黙ったまま時間だけが過ぎていく。

 不意に、プール内がしんと静まり返る。わずかな話し声と、プールサイドをぴちゃぴちゃと歩く音だけが密やかに残響している。

 急に静けさを覚えたのは、さっきまでずっと聞こえていた、水しぶきを生み出す音がしなくなったからだ。

 それはすなわち、全てのレーンが空いたということであった。

 使用可能なのは九つのレーン。本来ならば十レーンあるのだが、最も左端の第十レーンのみ修繕中のため使用不可となっていた。

 その時を待っていたのか、対岸の掛巣トレーナーの担当ウマ娘たち五人が右側の第一レーンから一人ずつ、対する江永トレーナーの担当ウマ娘たち五人が左側の第九レーンから一人ずつ、順番に占有してプールに飛び込んでいく。

 唯一残された真ん中の第五レーンに向かう、メイショウドトウとスペシャルウィーク。全く同じタイミングで、二人は鉢合わせてしまった。

 おそらくこれは目論んだわけでも、示し合わせたわけでもないと思う。ただ偶然にも訪れてしまったのだ。ライバル同士の担当ウマ娘が、椅子取りゲームのように残されたそれを取り合うという状況が…。

 傍から見れば、はっきり言ってそれは狙い澄ましたとしか思えない。あるいは、好敵手の因縁が引き寄せた運命とでも言うのだろうか。

 

「スペさん…あ、あの…」

 

「ドトウさん…えっと…」

 

 固まる二人の動きと表情。もしトレーナーがいない状況なら、お互い譲り合ったのだと思う。いや、本当は譲りたいと思っているはずだ。

 しかし、この状況では行かざるを得ない。担当トレーナーの手前、ライバルに先んじて優位に立たなくてはならない。相手に譲るなどもってのほか。

 でも本当は円満に解決したい。リレーの時みたいに仲良く接したい。

 二人はきっと相反するそんな思いに苛まれて、機先を制することをためらっているのだ。

 その状況に業を煮やし、先に声を上げたのは江永さんだった。

 

「スペちゃん、何してるの? そのレーン空いてるんだから使っちゃいなさい」

 

 当然のようにすかさず反論する掛巣さん。

 

「ドトウさんが先にそのレーンにたどり着いていましたよ? スペシャルウィークさんには悪いですが…」

 

 お互いの担当トレーナーに挟まれて、相変わらずまごつくしかない二人のウマ娘。

 そして、それをただ見守ることしかできない俺。割って入る勇気もない自分が、ただだだ情けなかった。

 しかし、ファル子は違った。わなわなと揺れる金色の瞳が、一瞬だけ俺へと向けられる。

 

「トレーナーさん、ごめんね」

 

 言い捨てるようにつぶやいて、矢も盾もたまらないといった様子で飛び出す彼女。一目散に第五レーンに駆け出したかと思うと、何食わぬ顔で二人の前につかつかと入り込む。

 

「やっほ〜☆ スペちゃん、ドトウちゃん、トレーニングお疲れ様☆」

 

 呆気にとられたように目を白黒させる二人の後輩。ファル子はにんまりと微笑みながら構わず続ける。

 

「このレーン空いてるの? ファル子が使っちゃおうかな〜」

 

 わざとらしく、いや、当てこすりとすら感じるような口調と共に、飄々とした態度を取る彼女。

 二人のトレーナーが黙っているわけもない。

 

「悪いわね、ファル子ちゃん。そこはスペちゃんのレーンなの」

 

「いえ、残念ですがドトウさんのですね」

 

「そうなんだ☆ いきなり割って入っちゃってごめんなさ〜いっ! それじゃあさ、一つだけ言わせてもらっていい?」

 

 笑顔が一転、その顔から表情がふっと消え失せた。

 その顔は一度だけ見たことがある。選抜レース直後、ダートを走ってみてくれないかと声をかけた、あの時と全く同じものだ。悲しみと諦めが入り混じったような、暗い感情を内包した虚ろな瞳。

 

「もうこんなの止めにしない?」

 

 全ての感情が失われたような無機質な声が、プール内にいかめしく残響する。それはあらん限りのやるせなさが込められた悲痛な叫び。

 

「スペちゃんもドトウちゃんも、リレーで一生懸命練習して絆を深めてきたんだよ。私たち、親友同士なの。それなのに…チームが違うってだけでいがみ合うなんて、絶対におかしいよ」

 

 そしてすぐさま後輩へと振り返る彼女。その表情は穏やかなそれに戻っていた。

 

「二人がよそよそしくする必要なんて、どこにもないはずでしょ?」

 

 安心感に満ちた声は、まさに頼りがいのある先輩のそれであった。

 ほんの少しの間を置いて、そこに響いた優しげな男性の声。

 

「それは君のトレーナーの意見ですか?」

 

「えっ?」

 

 ファル子の言葉に全く動じることなく、掛巣さんは深緑色の眼鏡を抑えながら淡々と問いかけていた。

 その落ち着きぶりと思わぬ返答に、さすがのファル子もたじろぐしかなかった。

 

「スカウトされるまでだったならただの一生徒の意見で済みます。しかし今の君はトレーナーとトレーニングをしにここにいて、その上で物申しているわけです。トレーナーの意見を代弁していると取られても仕方ありませんよ?」

 

 誰に対しても見せる穏やかな笑み。それは対岸に佇むライバルさえ例外ではない。清々し過ぎるそれは、この状況ではかえって不気味に思えてならなかった。

 

「別に脅しではありません。そのつもりで意見しているのかと聞きたいだけですから」

 

「それは…」

 

 思わず口をつぐむ彼女。尻尾は定め無く動き回り一定しない。

 二人の後輩は、ただ息を呑んでファル子を見つめている。

 このままではいけない。担当ウマ娘に全てを押しつけて、自分は何をぼけっとしているのだ。そう自らを強く叱咤した。

 全員がこちらに気がつくよう、プールサイドの水たまりをわざと強く踏んで水音を立てながら駆け寄った。

 

「ええ、そのつもりです。ファル子の言ったことは俺の意見です」

 

 そこには一片の迷いも逡巡も無かった。ファル子が身を挺して二人の後輩を救おうとしているのだ。それを黙って見ていることなんてできなかった。

 彼女の言動の責任は全て取る。そう固く決意して、

叫ぶように声を荒らげていた。

 プールに一頻り残響する声。水色の絨毯を真っ直ぐに縫う生徒たちが、波紋と水しぶきをひたすらに生み出している。

 

「分かりました…それではこうしましょう」

 

 しばらくして、掛巣さんは眼鏡を抑えながらある提案をした。

 

「ファルコンさんはダートを走るんでしたよね? いえ、望むなら芝でも長距離でも何でもいい。一番得意と思うコースと距離を指定してください。それに合わせて僕のチームから精鋭を一人選びます」

 

 その言葉に、沈黙を守っていた江永トレーナーがわずかに口角を上げながら反応した。

 

「なるほどね。私のチームからも一人選ぶというわけね」

 

「さすが江永さん。察しがいいですね」

 

 好敵手へ泰然とした眼差しを送る掛巣トレーナー。

 次いで、その視線はこちらへと向けられる。

 

「三人で一度レースをしてみませんか? 順位が良かった順に、今後トレーニングで何か揉めた時に優先権を得られる…ということでよろしいですかね」

 

 茶髪のポニーテールを不敵に揺らしながら、江永さんはふふんと鼻を鳴らす。

 

「オッケーよ。喜んで受けて立つわ…というか、この前のリベンジに燃えてるってわけ?」

 

「さぁ…ファルコンさんがダートを選ぶか決まったわけじゃありませんから」

 

 この前のリベンジとは、カヤクグリがキンクロハジロを下した、あのナイターレースのことだろうか。

 普段から競い合うこの二人にとって、雪辱戦は日常茶飯事なのだろう。

 

「ファルコンさん、いえ…お二人もそれで構いませんか?」

 

 これから勝負するとは思えないほど丁寧な問いかけ。

 それに答えたのはファル子だった。

 

「私、ダートで走るよ。千六百メートルがいい」

 

「分かりました。コースと距離は決定ですね」

 

「それと…優先権なんていらない。私が勝ったら、ドトウちゃんとスペちゃんが今まで通り仲良く過ごせるようにして」

 

 ここまでで最も強い口調で訴えるファル子。

 その傍らで名前を呼ばれた二人は、一瞬だけ耳をぴくりと反応させた。しかし、相変わらず不安そうな面持ちのまま俯いている。

 ファル子の言葉に、二人の先輩トレーナーはしばらく黙り込み、お互い目配せしていた。

 意味深な静寂。プールの水をかき分ける音だけがばしゃばしゃと響いている。

 それを割いたのは江永さんの余裕に満ちた声だった。

 

「いいんじゃない? ファル子ちゃんが私たちを納得させる走りを見せてくれたんなら」

 

「そうですね。ファルコンさんの提案を受け入れましょう」

 

「で、時間はどうするの? 今日はさすがに無理よ」

 

 あごに手を当て、黒髪の男性トレーナーは代案を提示する。

 

「それでは明日の午後六時はどうでしょう?」

 

「私はそれでいいわ。あなたは?」

 

 茶髪の女性トレーナーがじろりと視線を向ける。それに臆することなく、睨み返すように目に力を込める。

 

「ええ、それで大丈夫です」

 

「決まりですね。それでは明日の午後六時、ダートトラックで落ち合いましょう」

 

 その一言が終着点となり、三人のトレーナーによる一悶着はひとまず区切りを迎えた。三人のウマ娘の胸中に、いまだ晴れることのない暗雲を漂わせたまま…。

 

 ようやく終わったその日のトレーニング。息の詰まるようなプールからようやく解放され、疲労感がどっと押し寄せてくる。

 そこは誰もいないプールのエントランス。

 更衣室から戻ってきたファル子が、駆け寄ってくるなり申し訳なさそうにうなだれる。それも、しおれた両耳をおずおずとひくつかせながら。

 

「トレーナーさん…ごめんなさい…」

 

「どうして謝るんだ?」

 

「だって…ファル子のせいでトレーナーさんも巻き込んじゃったし、きっとあの二人から冷たい目で見られ続けるよね…」

 

 彼女がそのことを気にしているのは分かっていた。けれど、それを咎めるつもりもなければ、謝ってもらう必要もありはしない。

 俺の心に刻み込まれたのは、彼女の勇気への称賛と誇らしい思いだけだからだ。

 

「そんなことはないさ。ファル子の言ったことは間違ってない。友達のためにあそこまでできるなんて、とても凄いことだよ。他がどう言おうが、俺はファル子を誇りに思う…そんな娘を担当にできて、誰よりも幸せ者なんだって」

 

「てへ…☆ ちょっと褒め過ぎじゃない…?」

 

 不安に満ちていた耳に、ほんのちょびっとだけ鋭気が戻っていた。

 柄にもなく、長々と語ってしまったとは思う。だが、それは紛れもない本心だった。

 

「褒め過ぎも何も、全部本当のことだからな」

 

「あはは…ありがとね、トレーナーさん☆」

 

 照れ隠しに紛れた感謝の言葉。頬を紅潮させながら、ツインテールを嬉しげに揺らす彼女がそこにはいた。

 

「でも、勝てるかな…私…」

 

 それも束の間、不意に弱気な声が漏れていた。

 明日のレースの相手は、おそらくカヤクグリとキンクロハジロ。あのナイターレースで見せた力強さには、生半可な走りでは太刀打ちできないだろう。

 しかし、本来の走りを取り戻したファル子なら…。

 

「大丈夫。ファル子なら勝つ可能性は十分あるさ」

 

 それは虚勢ではなく、トレーナーとして自信を持って言えることだった。

 これは決して勝てない無謀なレースではない。日々のトレーニングから、その手応えは確かにあった。

 

「だから明日は自信を持って挑もう。スペとドトウのためにも」

 

「うん…そうだよね。私から言い出したことなんだもん…! 絶対勝って、スペちゃんとドトウちゃんに仲良くなってもらわなきゃ!」

 

 拳を握りしめ、尻尾も高らかに振り上げ、気合に満ち満ちているファル子。

 彼女自身も分かっているはず。決して自らの走りが二人に劣っていないことを。

 静寂のエントランスに響く二人によって紡がれた決意の言葉。それを叶えるべく、力強い一歩を同時に踏み出し、後輩のために戦うと誓ったプールを後にするのだった。




お疲れ様でした。
ファル子ちゃんがビート板を使うのはゲームアプリ準拠です。
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