君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆── 作:キビタキ
終わりの見えない雨。
分厚い黒雲と白い薄雲のコントラストが空を覆う放課後のトレセン学院。その一角で、一人のウマ娘が自身のトレーナーに話しかけようとしていた。
ウマ娘の名はスペシャルウィーク。焦茶色の髪を持つ彼女は、雨に打たれながらも意を決してそれを切り出していた。
「あの、トレーナー。お話があるんですが…今大丈夫ですか」
その言葉に、彼女の担当トレーナーである茶髪の女性、江永は赤い傘をさしたまま向き直る。
そこはダートトラックの片隅。もうすぐ始まるレースに向けて、ウォーミングアップ中のカヤクグリの走りを遠目から観察していたところだった。
「別に大丈夫よ。どうしたの、急に改まって」
「デビュー戦前日のダンスレッスンの時間なんですが、ファルコン先輩の高架下ライブに参加してもいいですか?」
このタイミングでその話をすることの不自然さを、スペシャルウィークは重々承知していた。それでも切り出した理由は他でもない。自分のために身を挺してくれた先輩に、少しでも報いたいという思いがあったからだ。
「ファル子ちゃんのライブ?」
その怪訝な声に一瞬臆してしまいそうになったが、彼女は畳みかけるように言った。
「はい、先輩が不定期に開催してるライブで、お客さんもそこそこいるらしいんです…! そこで『Make debut!』の練習を兼ねて披露してみたらって…結構前からそんな話をしてたんです」
「結構前っていつ頃の話?」
「六月になる前ですね…」
「デビュー戦の日程が決まる前ってことね…でもその日は調整とダンスレッスンでいいわねって聞いたら、スペちゃん了承したじゃない。元々休日だったんだから、言ってくれれば融通くらいきかせたわよ」
その言葉に申し訳なさが込み上げてきた彼女は、ただ謝ることしかできなかった。
「すみません…」
「もしかして遠慮した? レースの前日にプライベートを挟むのは良くないって」
尻尾を弱々しく揺らしながら、少女はとつとつと打ち明ける。
「それもありますけど…レースの日程が決まってすぐの時、ライブに行くべきじゃないって思ったんです」
「それはどうして?」
「えっと、その…」
その質問に思わず窮する彼女。
ライブに来るであろう親友と、自身のトレーナーの存在がちらついて行くのがためらわれた…というのがその理由だったが、そのことを伝える勇気は彼女にはなかった。
「ふふ、言わなくてもいいわ。その顔に答えが書いてあるもの…ドトウちゃんも来るんでしょ、そのライブ」
スペシャルウィークの目がはっと見開かれる。次いで、観念したように肯定の声を漏らす。
「はい…そうです」
「ドトウちゃんはああ見えて強い娘よ。間違いなくスペちゃんのライバルになる。だって、掛巣君がスカウトしたウマ娘なんだから」
ポニーテールをふわっと揺らして、遠く彼方に見えるその影、緑の傘を睨むように見据える。
「スペちゃんは日本一のウマ娘になるのが夢だったわよね。もしドトウちゃんが同じ目標、いえ、スペちゃんよりも強い信念を持って挑んできた時、勝つ自信はある?」
俯き加減だった焦茶色の髪の少女は、力強い声と共に顔を上げた。
「はい! それだけは絶対に譲れませんから…! ただ…」
「ただ?」
「とっても大事な親友なんです。勝っても負けても、ずっと…」
瞳にたぎる二つの光。夢を叶えんとする熱い炎と、大事なものを守らんとする静かなる炎。
江永は確かに、担当ウマ娘の瞳の中にその二つを見出していた。
「そう…分かったわ」
容赦なく打ちつける雨が、赤い傘の上でぽつぽつと不規則な音楽を奏でている。
それと同時に、スペシャルウィークの髪、衣服、肌、それら全てを梅雨色に染め上げていた。
「ファル子ちゃんのライブに行きたいって話、このレースが終わるまで返事はちょっと待ってね」
温かな眼差しで少女を見やりながら、その女性トレーナーはどこか嬉しげな声でそう告げたのだった。
一方、そこから遠く離れた、こちらもダートトラックの片隅。ここでも、一人のウマ娘が自身のトレーナーと話をしている最中だった。
「あ、あの…トレーナーさん。今相談しても、大丈夫ですか…?」
そう口火を切ったのは、垂れ耳が印象的な少女、メイショウドトウであった。その視線の先には、緑の傘をさす黒髪の男性がいた。
「ええ、大丈夫ですよ。どうかしましたか?」
彼女の担当トレーナーである掛巣が、深緑色の眼鏡を抑えながら優しげな声で応答する。
レースを控えたキンクロハジロの周回をつぶさに確認しているところだったが、メイショウドトウの改まった態度が気になり、意識を彼女へと集中させた。
「あの…デビュー戦の前日なんですけど…ファルコン先輩の高架下ライブに、参加してもいいですか…?」
唐突な申し出に、面食らうとまではいかないまでも、掛巣はその顔に戸惑いの色を含ませた。それは、相談の内容ではなく、彼女のたどたどしい口調の中に決意のようなものを感じ取ったからだった。
「その日は確かダンスレッスンの予定でしたが…」
「はい、そうなんですけど…お客さんの前で『Make debut!』を披露する練習になると思って…本当はずっと前から約束してたんです」
いつもなら垂れる耳も、この時ばかりはほんの少しだけ上向いていた。
今するべき話ではないということを理解しながらも、彼女は言わずにはいられなかったのだ。
そこにあるのは、身を案じてくれた先輩の思いに応えたいという一心。このレースが始まる前に聞いておくべきことだとも感じていた。
「そうでしたか。それならトレーニングを提案した時に教えてくれれば行けるよう調整したのですが…」
「ご、ごめんなさい…!」
「謝らなくて大丈夫ですよ。すぐに『ごめんなさい』と言ってしまうのが君の悪い癖です」
「ごめ…あっ…! はい…」
やはり耳をしおれさせて、メイショウドトウは黙り込むように俯いた。
彼女の自信の無さや謝罪癖を何とかしたいと、普段から腐心していた掛巣であったが、それには長い時間がかかると彼のトレーナー勘は告げていた。
「自分を責めないでください。君の予定をちゃんと聞かずに、良かれと思って断りにくい提案をした僕にも非がありますからね」
「あの…違うんです」
「…?」
「ライブに行っちゃいけないって決めたのは…私なんです。トレーナーさんに、嫌な思いをさせたくなかったから…」
とつとつと、それでいてはっきりと、彼女はしっかりとトレーナーの目を見て言った。
ふわりとした褐色の髪が、雨に打たれてしっとりと重みを増している。
掛巣は内心驚いていた。彼女がここまで言葉を紡ぐこと自体、珍しいことだったからだ。
「嫌な思いとは? 提案に意見されたくらいでへそを曲げたりはしませんよ。むしろ気になることは遠慮せず言ってください」
「そうじゃないんです。あの…その…」
「ドトウさん…?」
押し黙る担当ウマ娘を心配そうに見守る掛巣。しかし、待てど暮らせどメイショウドトウは完全に俯いて、沈黙を守り続けた。
それ以上は言えないことなのだと、彼は自ずと察した。
緑の傘に衝突する雨音。初夏の薄暗い静寂の中で、それは一際大きく鳴り響いているようだった。
「ドトウさん。これは叱っているわけではありませんから、安心して正直に答えてください。そのライブ、スペさんも来られるんですね?」
足元へと向けられていた彼女の顔と耳、そして尻尾が、びくりと反応して上を向く。
しばらくして、おずおずと絞り出すように漏れたのは震えた声だった。
「あ…うぅ…来ます…」
「そうですか…」
つぶやくように答えながら、彼は遥か向こう、ある一点を凝視した。そこには、赤い傘をさした好敵手の姿が確かに見えていた。
「もう一つ質問です。今の素直な気持ちで答えてください。ドトウさんは、スペさんに勝ちたいですか?」
彼女を萎縮させないよう、より一層穏やかな声でそう問いかけていた。
数秒の空白を経て、メイショウドトウはおそるおそる口を開く。雨にかき消されてしまいそうなほどか弱さに満ちた声は、その声量に反して確かな強い思いが込められていた。
「勝ちたいです…でも、それ以上に…仲良しでいたいです…」
「分かりました」
初めて強い意思を見せた担当ウマ娘の姿に、彼は自らの至らなさを痛感していた。勝敗よりも大事なものを、彼女はその先に見出していたのだ。
にこりと微笑みながら、彼はゆっくりと告げた。
「このレースが終わったら、ファルコンさんのライブに行っていいか、お答えしますね」
その穏やかな顔を見て、メイショウドトウは胸を撫で下ろしていた。まだ了承を得られたわけでもないものの、自分の思いを無事伝えられたことに安堵したからだった。
打ちつける雨を跳ね返すように、彼女の耳はいつになく逆立っていた。
秒針が時計という真円のコースを十周した頃。ダートトラックには照明が焚かれることとなった。
どんよりとした雲に支配されたその空間は、時間の割にとてつもない暗さをもたらしていたからだ。
あの時のナイターレースと同じように、水浸しになった砂地が白い光を乱反射している。そのきらびやかさと走りやすさはまさに反比例の関係。眩しく光れば光るほど、快適な走りとは無縁となっていく。
重バ場か、それを通り越して不良バ場か。そんな様相を呈する今日のダートトラックは、連日の悪天候によって生み出されたものだった。
蹄鉄シューズは少し走っただけで泥だらけになる。ぐちゃりという音と共に跳ね上がる泥と、沼地のようにぬかるんだ地面。それでもまだ足りないと言わんばかりにざあざあと降り注ぐ雨。
はっきり言えば最悪のコンディション。しかし、砂地が大好きな彼女にとって、バ場状態の差異は些細な問題だった。
スタートラインにはつややかな栗色の髪を持つ少女、スマートファルコンの姿があった。
もう間もなく始まるレース。武者震いのように、ツインテールを揺らしながらその場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。柔らかな感触と共に泥が跳ね、足の形をくっきりと残す。その凹凸にすぐさま泥水が流れ込んで、水溜りへと姿を変える。
このレースに後輩の思いが懸かっていると思うと、とてもじっとなどしていられなかったのだ。
ふと、彼女は左右を見やる。左には黄褐色の髪のカヤクグリ。右には真っ黒な髪のキンクロハジロ。一様にスタートを待ち切れない様子で、尻尾を盛んに動かしている。
ただ、それは浮き立つ思いからではなく、本能的な動きだった。
ウマ娘は尻尾が濡れるのを嫌う傾向にある。それは一度水分を含むとなかなか乾きにくいのと、単純に重量を増してしまうからだ。少なからずスピードにも影響を与える要素にもなる。
それゆえ、彼女たちは無意識のうちに尻尾を大きく揺らし、遠心力で水分を飛ばしているのだった。
「スタート三十秒前」
黒い傘をさした教官、トレーナー長の鳥林が雨にも負けない大きな声を響かせた。
スターティングゲートなんて大層なものはないそのレース。スタート位置はじゃんけんで決めた。出走の合図は第三者の彼によって行われる。
まさかあの時の二人とこんな形でレースをするなんて…彼女は険しい表情のまま心の中でつぶやいていた。もしこんな状況でなければ、きっと「よろしくね☆」と話しかけていたに違いないと、一人自問自答する。
しかし、張り詰めた緊張感はそんな余裕すら奪っていた。
本来ならべっとりと肌にまとわりつくはずの汗も、この強い雨できれいさっぱり洗い流されていく。
「五秒前」
残されたわずかな時間。スマートファルコンはコースの外側へと視線を送った。そこには青い傘をさす担当トレーナーの姿。真っ直ぐな眼差しが向けられていることを、彼女はその金色の瞳で確かに捉えていた。
つややかな栗色の髪の少女は、ふっと笑顔を浮かべる。それは誰も気づけないほど、本当に一瞬のことだった。
刹那の微笑みの直後、鳥林の持つスタートブザーがけたたましく鳴り響いた。
その瞬間、一斉に駆け出す三人のウマ娘。雨を裂き、大地を蹴り、泥にまみれたトラックへと放たれたそれは、あたかも三本の矢。
最初は横並びだった彼女たちも、それぞれの脚質に合わせて見る見るうちにその立ち位置を変化させる。
逃げのスマートファルコン、先行のカヤクグリ、差しのキンクロハジロ。まさに三者三様のレース。
第一コーナーに入る時点で先頭に立っていたのは、もちろんスマートファルコン。
彼女は既に頭の中で時間を刻んでいた。自らの力を最大限出し尽くしてゴールラインに到達するタイム。それを基準に、残りの距離を均等にペース配分して走り切る。それは何度も練習した逃げの走り。
カヤクグリは先頭から三バ身ほど離れている。ラストスパートの足は残しつつ、逆転を狙える絶妙な位置取り。
キンクロハジロはそこからさらに三バ身離れて、前を行く二人を虎視眈々と狙う。最も足を溜めて、最後の爆発力で勝負を決めにいくスタイル。
この三バ身というのは、前方の走者によって蹴り上げられた泥土がかかるリスク、それがほとんど無くなる境界線であった。先頭を行くスマートファルコンは気づかなかったが、ダートの走りに慣れた二人はそのことを熟知していた。
第二コーナーを抜けてバックストレッチ。誰もいない真正面を半開きの目で見据えながら、スマートファルコンはその表情を徐々に歪ませていた。
打ちつける雨が痛い。それが今の彼女の心境の大部分を占めていた。
時速六十キロメートルで叩きつける大粒の雨。それは思いの外体力を消耗させる。
雨の日に走る練習は普段から行っていた。しかし、本番のプレッシャーにさらされる中での雨は想像以上の厳しさだった。
目もまともに開けられない状況。それに加えて足元も最悪だ。
どこを走ってもぬかるんでいて、踏み込む度に水しぶきが飛ぶ。膝から下に茶色ではない部分はどこにも見当たらない。靴の中に泥が入らないようにしているが、泥の冷たさは確実に足首から先へと伝っていた。
彼女はどんなバ場であってもダートを走ることは好きだった。もちろん、今日のような不良バ場も例外ではない。しかし、それは嫌悪感を抱いていないというだけで、走りにくさは別問題だった。
いつもなら風の翼を与えてくれるダートも、この時ばかりは足首をぐっと掴んでくるような錯覚に陥っていた。
コースには残りの距離を示すハロン棒が設置されている。それを目安に最適なペースを刻むのだが、頭の中で思い描く時間通りに進めなくなってきていた。
前に進まないといけないという思いに反して、荒れたコンディションは確実に彼女の冷静さを乱しつつあった。
第三コーナーに突入しても変わらない位置関係。
嵐の前の静けさのように、不気味さをひしひしと感じさせる時間帯でもある。
大きく口を開けながら先頭をひた走る彼女。いずれ訪れるであろうその時が不安でたまらなかった。それまでに少しでもリードを広げようと、彼女は無意識にペースを上げてしまっていた。
後輩たちのためにも絶対に負けられない。その強い思いが余計にそうさせたのだった。
第四コーナーに差し掛かった辺りで、スマートファルコンは異変を察知した。それは後方から迫る影。タイミング的にも勝負を仕掛ける絶好の場所である。
心の準備はできていたが、逃げにとってこの瞬間ほど恐ろしいものはない。
走りながら振り向くことはできない代わりに、ウマ娘は両耳を後方へと半回転させることによって、その気配を感じ取ることができる。後ろから聞こえる地面を蹴り出す音で、だいたいの距離感を掴むのだ。
びちゃびちゃという激しい音が迫ってくる。この日は音を立てずに走ることなど不可能。嫌でもそれが鼓膜を突き抜けてくる。
そして、いよいよホームストレッチ。残りは二百メートル。
半開きの目でも、そのゴールははっきりと捉えることができた。
時間にすると十二秒程度。逃げる側にとっては悠久にも思える時間。追う側にとっては刹那としか思えない時間。勝負はいつもここで決まるのだ。
残された力を振り絞って、スマートファルコンは足を前へ前へ突き出す。しかし、ここに来るまでにほとんど使い切ってしまってそれは、もはや風前の灯火であった。
あまつさえ、信じたくない現実を彼女の耳は聞き逃さなかった。
規則的に泥を蹴り上げる音が二つ、真後ろから迫りくるのだ。二バ身、一バ身…絶望の淵に触れた時、彼女は自らの足から力が抜けていくのをまざまざと感じたのだった。
一閃。両脇を二人のウマ娘が横切っていく。取り残された者の姿など一瞥もせず、ただ猛然と。
次の瞬間、高速の二本の矢が、スマートファルコンの目の前でゴールラインを射抜いていた。
──
レース前、ファル子はかなり緊張していた。MVPに選ばれた時、全校生徒を目の前にしても全く物怖じしなかった彼女が…である。
それは明らかに自らに課したプレッシャーのため、肩肘張っていたことが原因だった。
ファル子は言葉少なに「大丈夫。すぐに慣れるから」と口にしていたが、震えるようにびくびくと揺れる尻尾だけは嘘をついていなかった。
そして、その緊張と焦りはレースにも出てしまった。
最悪のコンディションと、絶対に勝たなければならないという強い思い。その二つが合わさり、なかなかペースが上がらないことにやきもきしたのだろう。その焦燥感から掛かってしまったのだ。
その結果、最後の直線で息が続かず失速。逆転負けを喫してしまった。
他者との駆け引きに不慣れなことも、それに拍車をかけていた。
ファル子はレースに関しては絶対的に経験値不足だ。一方、カヤクグリとキンクロハジロは何度も本番に出走し、レース勘が冴えている。
それも決定的な差となって、敗北という現実を突きつけられることとなってしまったのだ。
(やっぱり気負い過ぎてたんだな…)
奇しくも、それは鳥林さんが言った「気楽にいけよ」とは対極にある走りだった。
もしこれがただの模擬レースだったら勝敗は分からなかっただろう。一着のストップウォッチのタイムも、このコンディションでは断言こそできないものの、彼女なら十分走り得るタイムに思えた。
ゴール直後、力無く失速した彼女がとぼとぼとこちらへと歩んでくる。
しょげた耳と、水を含んでだらんと垂れたツインテールと尻尾が、この距離からでも見て取れる。雨に打たれるその姿はあまりにも弱々しく、見ているこちらが身につまされるほどだった。
(結局、俺は何もしてやれなかった…)
ただただ無力感に苛まれる。
結果的に、彼女の不安感を拭ってあげることができなかったのだ。それはトレーナーである俺の責任に他ならない。
何と声をかければいいのだろう。傘に降り注ぐ大粒の雨が、無情な音をにべもなく叩きつけてくる。
今の心境は、選抜レースで惨敗したファル子を迎えた時のそれに似ていた。
一方、ゴールライン付近では、何百回かに一回しか起こらない稀な事態に、一同困惑していた。それは、一着で駆け抜けたウマ娘が誰かという、このレースにおける最も重要な点である。
ゴールラインに陣取っていた掛巣トレーナーが、先んじて静かに口を開く。
「同着…ですか。ハジロさんがわすがに早かったと言いたいところですが」
それに呼応するように、江永トレーナーも残念そうな声を漏らす。
「同着みたいね。カヤちゃんが先にゴールしたように見えなくもなかったけど」
そして、このレースを第三者として見届けていたトレーナー長もこう言った。
「…どうやら同着のようだな」
ゴールラインでその瞬間を見ていたトレーナー全員が同じ意見を口にし、そして納得していた。
きちんと写真判定を行えばどちらかに軍配が上がるのかもしれないが、このレースにそんなものはなく、あくまで目視による判定。複数人で見ても見分けがつかないのであれば、それはもう同着であるのと同意だった。
大雨の激走は、カヤクグリとキンクロハジロの同着という結果で幕を下ろした。
トップを飾った二人のウマ娘が、意気揚々とそれぞれのトレーナーの下へと駆け寄っていく。
二人の顔にはどっちが勝ったんですかと書いてあったが、結果を知るなり驚きの表情へと変わった。特に、キンクロハジロは前回の雪辱を後一歩のところで果たせず、より悔しがっているように見えた。
「優先権はお互いお預けのようね」
江永トレーナーのその言葉に、ライバルはため息交じりに頷く。
「そのようですね。不本意ながら引き分けということですか」
お互いを労うわけでも称えるわけでもなく、二人はただ淡々と言葉を交わしていた。
「それにしても…あの娘」
「ええ、もしあのままいけば…」
両者の視線は、重い足取りで歩む一人の少女を捉えていた。
二人の勝者から少し遅れて、ファル子は俯いたまま帰ってきた。
泥だらけの足、びしょびしょのジャージ、そして沈痛な面持ち。その金色の瞳は潤んでいて、きっと雨とは別の液体が頬を伝っている。そう思えてならなかった。
彼女は戻ってくるなり、悲しみ満ちた弱々しい声を喉から漏らした。
「ごめんね…私…負けちゃった…」
「ファル子…気にしなくていい。お疲れ様…」
今の自分には、彼女を労うことくらいしかできなかった。
ただ、さっきの言葉は俺だけではなく、二人の後輩にも向けられたものだった。
掛巣トレーナーと江永トレーナー、それぞれの傍らには彼らのチームメンバーが寄り添っている。
泥だらけで落胆する先輩を前にいたたまれなくなったのか、後輩二人はたまらずファル子の下へと駆け寄った。
「ファルコン先輩…」
しかし、かける言葉が見つからないのだろう。ファル子と一緒になって、ただただ暗い表情を浮かべるばかりだ。それは俺も全く同じだった。
ふと、掛巣トレーナーがゆっくりとした足取りでこちらへと歩み寄る。そのすぐ後ろには江永トレーナーも。
(ファル子だけは守らないとな…)
あれだけ啖呵を切って挑んだレースで負けたのだ。もう二度と口出しするなと吐き捨てられる覚悟はあった。
この一連の騒動は俺の責任。たとえ何と言われようと、彼女だけは庇うつもりでいた。
しかし、意外にもその視線はそれぞれの担当ウマ娘へと注がれていた。
「ドトウさん、ファルコンさんのライブに行きたいというお願いについての答えですが」
「え…は、はい」
あまりに唐突な話題に、あの垂れ耳のメイショウドトウが耳を尖らせていた。
「予定の変更を許可します。その日はライブを楽しんできてください」
「え…? ええーっ!! いいんですかっ!?」
その言葉に、耳だけではなく尻尾までもが、天を衝く勢いで跳ね上がっていた。
「もちろんです。君は少しあがり症なところがあるから、ファルコンさんの揺るぎない自信を間近で感じてもらえればと思います。それと、もしできればある生徒と同伴していただきたいのですが…」
そう言いながら、すぐ側に佇む女性トレーナーに目配せする。
「スペちゃん」
「は、はいっ…!」
「あなたもレース前日のダンスレッスンは中止よ。その代わり、ドトウちゃんと一緒にファル子ちゃんのライブに行きなさい。リハーサルと息抜きを兼ねてね」
「本当ですかっ!?」
暗く沈んでいたはずの表情に光が灯り、その瞳はきらきらとした輝きを取り戻していた。
「ど、どういうこと…? 私、負けたのに…」
急にライブの話が出てきて、当の本人は目を白黒させていた。俺も何のことかとついていけず、ただ黙って行く末を見守るしかなかった。
そんな俺たちを茶化すように、江永さんはしたり顔でこう告げる。
「昨日プールで話してた時、ファル子ちゃんが勝ったら…なんて一言も言ってないでしょ」
次いで、眼鏡を抑えながら、同じく物知り顔で口を開く掛巣トレーナー。
「ええ、ファルコンさんが我々に納得のいく走りを見せたら…そういう条件でしたからね」
「で、でも、あんな走りだったのに納得なんて…」
そう食い下がるファル子に、江永トレーナーはこわごわと肩をすくめた。
「デビュー前の娘が"あんな走り"よ? 正直冷や汗だらだら。さすがは、トレーナー長が『ダートの頂点を取れるかもしれない』って言ってただけのことはあるわ」
いつの間にか側に来ていた鳥林さんを、彼女はちらりと見やった。
「そうだろう? 伊達に何年もトレーナーを続けてないんでな」
黒い傘から得意げな笑顔を覗かせる大先輩。
続き、精悍な眼差しを後輩トレーナーへと向ける。
「まぁ、君たち二人も見直したよ。プライドの塊で絶対に折れないと思っていたが」
「ファル子ちゃんにあそこまで熱弁されたらさすがに…ね。それも後輩のために、たった一人で」
「少々僕たちも熱くなり過ぎていました。教え子に必要以上のプレッシャーを与えてしまったのは不覚の至りです。猛省いたします」
はきはきと反省の弁を述べると、不意にこちらへと視線を送り、こう付け加えた。
「それと、彼の一蓮托生の覚悟も汲んであげようと思いましてね」
「俺のこと…ですか?」
この場に三人しかいない男性。聞くまでもなくそういうことになるが、思わず聞き返していた。
「担当ウマ娘のために全てをなげうてるトレーナーというのは、なかなかいませんから」
優しげな声を響かせて、掛巣さんは確かに微笑んでいた。
いつしか彼らの担当ウマ娘も全員集まっていた。
自らの教え子たちに、掛巣さんは諭すように語りかけていた。
「皆さん、聞いてください。明確化されていなかったので、改めてお伝えします。レースでは、たとえ相手が誰であれ真剣に挑んでください。ただし、それ以外は別です。同じ道を目指す友人として、尊敬と共に接してあげてください」
江永さんもそれに続く。
「先に言われちゃったわね。二番煎じで悪いけど、こっちも同じよ。競うべきところでは本気でぶち当たりなさい。それ以外のところは好きに付き合えばいいわ…まぁ、できれば仲良くね。もちろん喧嘩や悪口なんかもってのほかよ」
顔を見合わせる両チームの生徒たち。カヤクグリとキンクロハジロ、スペシャルウィークとメイショウドトウ。レースではライバル同士であろう彼女たちが、今まさに穏やかな表情で向き合っている。
わだかまりという名の雪が溶けて、友情の新芽が顔を出したかのように。
「それでは、僕たちは別のトレーニングがありますので」
「ファル子ちゃん、ライブの日はスペちゃんをよろしく頼むわね」
素っ気なくさえ聞こえる簡単な一言と共に、緑の傘と赤の傘が見る見るうちに遠ざかっていく。それに追随するファル子の後輩…いや、二人の親友。
名残惜しそうにこちらへと振り返った二人の顔は、とてもにこやかで、そして嬉しさに満ちあふれていた。
残されたのは俺と、ファル子と、トレーナー長。
「これで一件落着…か。ファルコン、風邪を引かないようにな」
そう告げると、黒い傘の持ち主もまた、おもむろにダートトラックを後にした。
ファル子はただ、呆然と立ち尽くしていた。何も言わず、顔を濡らす雨も拭わず、遠ざかっていく彼らの姿を見つめている。
「お疲れ様」
青い傘で全身ずぶ濡れの彼女を覆う。ぽつぽつと叩きつけるような音に紛れて、ファル子はそっとつぶやいた。
「トレーナーさん…」
「どうした?」
ぴんと張り詰めた顔と耳。いつもと全く違う様子の彼女。無理もない。わけも分からぬまま、あっという間に最高の形で終わってしまったのだから。
「私ね…」
「ファル子…?」
「嬉しいの…ほんとに…良かったって…」
緊張の糸がようやく緩んだのだろう。そこにあったのは、もう二度と見たくないと思っていた泣き顔。両手で顔を覆いながら、こらえていたものを一気に放出する。
今は思う存分泣けばいい。彼女はやり遂げたのだから。親友を助けたいというただその一心で、二人のトレーナーの心を動かしたのだ。
(でも、やっぱりこたえるな。ファル子の泣き顔は…)
彼女の嗚咽にじわじわと胸を締めつけられる。それでも、無言のまま優しく見守り続ける。彼女が泣き止むその時まで…。
あたかも彼女の涙のように、雨足は衰えることを知らない。
いくつもの波紋が生み出される水浸しの砂地を、眩い照明が雪を欺く大地へと染め上げていた。
お疲れ様でした。
これにて第9話は終了となります。
今回で投稿数40&文字数30万文字到達となりました。
いつも読んでくださる方に感謝ですm(_ _)m