君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆──   作:キビタキ

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今回はちょっと文字量多めです。


【第10話】それぞれの門出 ①ライバルという名の…

「〜♪」

 

 傍らで担当ウマ娘の鼻歌が聞こえる。時折奏でられるこのメロディは、彼女が上機嫌であることの証だ。何度も聞かされるうち、すっかり耳に残り覚えてしまっていた。

 ふと、思いがけず途切れたメロディ。歌い終わって満足したのか、大層ご機嫌な声を響かせる。

 

「何か久々に雨降ってないね〜☆」

 

 空一面の白鼠色を見上げながら、にこにこと微笑むファル子。

 あんなに降り続いた雨がぴたりと止んだのは、高架下ライブを明日に控えた、この日の朝になってからだった。

 一気に晴れて日が差し込めば、おそらくむしむしと不快指数を急増させるのだろう。しかし、太陽はここ一週間ほど雲隠れして一向に姿を現さない。そして今後一週間も第一線を退いて雲に天を任せるらしい。当分は涼しさの方が勝りそうだ。

 デビュー戦の天気予報は曇り時々雨で、降水確率は五十パーセント。雨が降ったとしても、この前のような激しいものにはならなさそうだ。

 おそらく本番のバ場は稍重か重となるだろう。

 

(ちょうど今くらいの状態だろうな)

 

 目の前に広がるのは、毎日のように訪れるトレセン学院のダートトラック。整備直後である午後一番の練習ということもあって、じとりと水分を含んだ真っ平らな砂地が広がっている。

 いつもなら広げっぱなしの青い傘も、梅雨時の連勤を経て久しぶりの休暇。折り畳んだ状態で持ち歩いている。

 

「傘をさしてないトレーナーさんを見るのも久々かも☆」

 

 同じことを思ったのか、彼女はこちらを見やりながらいそいそと尻尾を揺れ動かしている。久々に雨に邪魔されず走れることが、単純に新鮮で嬉しいのかもしれない。

 見慣れた半袖ジャージに短パン姿。着替えたばかりのそれは汚れ一つなく、清潔感にあふれている。

 この時期は毎日泥だらけで洗濯が大変だと、般若のごとく愚痴っていたのを思い出した。もしかしたらダートトラックメインのトレーニングメニューに不満があるのではないかと不安がよぎり、正直びくっとした。そのことを打ち明けると、「そんなことあるわけないでしょ☆」と冗談めかしつつ笑い飛ばしてくれたが。

 やはり連日の雨というのは気分が晴れないし、どこか恨めしく感じてしまう。

 

「一週間くらい前からずっと雨だったもんな」

 

「たまにならいいけど、毎日だと気が滅入っちゃうよね…メイクデビューの日は晴れるかな?」

 

「予報では曇り時々雨だそうだ」

 

「そっか…降らない方がミサキちゃんも来やすいかなって思ったんだけどね。ファル子ほんとは雨女なのかなぁ」

 

 しょんぼりと耳をしおれさせる彼女。言われてみれば、ミサキちゃんが初めて高架下ライブに来た時は雨だった。

 

「いや、でも春のファン感謝祭の時は晴れてたぞ」

 

「あ、そうだったね。でもあれは皆のイベントだったからちょっと違うかもだけど」

 

「まぁ、この時期の天気は読めないし…今日みたいに止むことを祈るしかないな」

 

「そうだね☆ 三女神様にお願いしてみる!」

 

 無邪気な笑顔の花を咲かせながら、彼女はツインテールをふわりと揺らす。

 

「三女神様か…それならきっと叶えてくれそうだな」

 

 中庭の噴水に佇む三女神像。今までいくつもの願いを叶えてくれたその存在は、いつだって俺とファル子を見守ってくれている気がしていた。

 

「えへへ、実はファル子、三女神様に毎日お祈りしてるんだ☆」

 

「へぇ、奇遇だな。俺も出勤がてら毎日祈ってるよ」

 

「えっ、意外すぎるんだけど…! トレーナーさんが毎日お祈りとか、全然そんな感じしないもん」

 

 褒められているのか、からかわれているのか、どちらとも取れる口調に困惑する。

 とりあえず苦笑いしてその場は乗り切ることにした。

 

「はは…こう見えて信心深いからな」

 

 そう、彼女と初めて会ったあの日。高架下へと誘ってくれたのは、その直前に祈りを捧げた三女神像だった。

 運命とか神とか、目に見えないものを全く信じてこなかった俺が、初めて心を揺れ動かされた出来事。今なら言える。あれは導きだったのだと。

 ただ、その話はあまりに恥ずかしくて言えなかった。今さらそのことを話したところで、軽く茶化されそうな気がするからだ。

 

(多分喜びはするんだろうけどな…)

 

 きゃははと笑いながら、「すっごくドラマチックな展開☆ ウマドル的〜☆」と嬉しがり、「トレーナーさんって意外にロマンチストなんだね〜」とこぼす姿が容易に想像できた。俺にそんなつもりや自覚はこれっぽっちも無いのに。

 どうにも女の子が喜びそうなシチュエーションというのは苦手…というか奥手だった。

 学生時代に付き合っていた後輩の彼女にさえ、別れ際にもう少しデートらしいデートがしたかったと言われたくらいだ。

 確かに、初デートでトゥインクル・シリーズの観戦に行ったのは、今考えるとさすがに相応しくなかったと思える。トレーナーを目指していた真っ只中ということもあったが、レースに何の興味もない彼女との初デートの場所としては、やはり不適当だろう。

 この前訪れた夜の大井レース場のように、きらびやかな七色のイルミネーションでもあれば、多少はムードも出たのかもしれないが…。

 限りなく黒歴史に近い過ちへと向けられていた意識は、ファル子の声によって不意に呼び戻された。

 

「どんなお願いごとしてるの?」

 

 興味津々に問いかけてくる彼女。それは俺が三女神像に何を祈っているのかという、ごくごく自然な流れの質問。

 その答えを早く知りたくてうずうずしているのか、その瞳はいつになく輝きを放っている気がする。まるで「いっつもファル子のこと考えてるんでしょ?」と言いたげな得意そうな笑顔。

 実際、彼女のことばかり祈っている。怪我なく過ごせますようにとか、デビュー戦で勝てますようにとか。

 ただ、あんな風に待ち構えられると素直にそのことを伝えるのが恥ずかしくて、代わりに飛び出していたのはひねくれた答えだった。

 

「そうだな。ファル子がもっとおしとやかになりますように…とかかな」

 

 冗談と伝わる口調で言った途端、彼女は一瞬だけぷくっと膨れつつも、すぐさま不敵な笑みを浮かべる。

 

「ファル子おしとやかだからそんなことで怒りませんわ☆ 他にお願いごとは無いのかしら?」

 

 どこのお嬢様を参考にしたのだろうか。あまりにもぎこちなさすぎるテンプレな語尾に、思わず吹き出しそうになってしまう。

 何とかそれをこらえながら、意地悪が過ぎたと反省して、今度こそ本音を伝える。

 

「ごめんごめん。そういえばとっておきのがあった。ファル子と幸せに過ごせますように…って」

 

 静かな声で、そして真っ直ぐにそう伝えた。それは本当に願っていることだった。

 もちろん、トレーナーと担当ウマ娘としての関係性の話で、他意はない。ちょっと意味ありげな表現で言ったのは、彼女の反応を見てみたかったからだ。それは決して意地悪ではなく、彼女の気持ちを知りたいがゆえの揺さぶりだった。

 いや…もしかしたら、自分の中にもそんな気持ちが少し芽生えていたのかもしれないが。

 

「今は幸せじゃないってこと?」

 

 返ってきたのは意外にも冷静な反応。

 

「いや、別にそういうわけじゃないが…」

 

「だったらもう願い叶ってるってことだよね? トレーナーさん、さっきから変なことばっかり☆」

 

 残念なことに、容易く一笑に付されてしまった。しかし、彼女らしい反応に思えて安心でもあった。

 

「それじゃ、ファル子は何をお祈りしてるんだ?」

 

 これ以上の追及から逃れようと、さっと攻勢に転じた。

 動じる様子もなく、彼女は落ち着いた声を響かせる。

 

「ファル子のは普通だよ。ファンが増えますようにとか、速く走れますようにとかさ」

 

 それは普段俺が祈っていることとさほど変わらない願い。彼女の言う普通こそが、単純でありながら難しく、そして最も望まれていることだった。

 不意に曇天を見上げて、付け加えるように彼女はつぶやいた。

 

「ちょっと前までは、スペちゃんとドトウちゃんが仲良くできますように…って祈ってたかな」

 

「無事に叶って良かったな」

 

「えへへ…さすがでしょ☆ でもそれはトレーナーさんがいてくれたからだよ」

 

 急にこちらへと顔を向けて微笑する彼女。両手を後ろに回してもじもじと、どこか恥ずかしそうな面持ちで。

 

「今だから言えるけどさ…プールで揉めた時、正直何も考えてなかったの。もうイラッと来ちゃってさ。どうにでもなれって、そんなつもりで乗り込んじゃって…」

 

 あの時のことを思い出す。全ての感情が消え失せ、失望感に満たされた虚ろな瞳。よほどのことがない限り、彼女はあんな顔を見せない。

 

「あれは仕方なかったと思うぞ。さすがにいたたまれなかったし、ファル子が飛び出したのも無理ないさ」

 

「それはそうなんだけど…トレーナーさんを巻き込んだらいけないなって思ってたのに、眼鏡のトレーナーさんにそこ突っ込まれちゃったでしょ?」

 

 手を解いて、人差し指で頬をかきながら苦笑いする彼女。尻尾はゆらゆらと不規則に動いている。

 

「あっ…何やってんだろ私って、気づいた時には手後れでさ。頭の中真っ白だったの」

 

「あんまりそんな感じには見えなかったけどな」

 

「そう? あの時結構テンパってたんだよ。取り返しのつかないことしちゃったんじゃないかって…だからトレーナーさんは関係ないって言おうとしたの」

 

 じっくりと噛みしめるように、彼女はあの時のことを話していく。穏やかな顔つきで、そこはかとなく恥ずかしさのようなものをまとわせながら、ぽつぽつと。

 

「そしたらトレーナーさん、駆けつけてくれたでしょ? ファル子の言ったことは自分の意見ですって…」

 

 つややかな栗色の髪が湿った微風に揺れる。

 にこりと目を細め、目の前の少女はゆっくりとささやく。

 

「ほんとに嬉しかった…私のこと庇ってくれたんだって」

 

 彼女らしくない密やかな笑みをたたえて、金色の瞳は俺の目を射抜いていた。

 なぜだろう。いつもならドキッとしてしまうそれも、今だけは自然に受け入れられて、不思議と心地良かった。

 あの時、ファル子を庇ったというより、二人の後輩を守ろうとしていた彼女を放っておけなかったというのが正しい。だからあれは俺の意思だし、むしろ当たり前のことだと思っていた。

 ただ、彼女なりに感謝を伝えようとしてくれていることだけは分かる。嬉しくもあったが、正直に言えば違和感の方が勝っていた。彼女がこんな風に落ち着いて話すこと自体、珍しいことだったからだ。こういう時、どう反応すればいいのだろう。

 そんな俺の迷いに気づいたのか、彼女はふっと顔を綻ばせて、いつものようににんまりと微笑んでみせた。

 

「あは☆ トレーナーさん、もしかして照れちゃってる?」

 

「え、いや…まぁ、少しは…な」

 

 唐突な問いかけに、思いがけず肯定してしまった。それを聞くやいなや、彼女はとても満足そうに尻尾を跳ね上げた。

 

「別に隠さなくてもいいのに…こう見えてもすっごく感謝してるんだぞ☆」

 

 そこにあったのは見慣れた決めポーズ。両手をハートの形のように合わせ、満面の笑みを浮かべながらウィンクをする。これまで幾度となく見てきたそれは、いつになく華やかに見えた。

 実は彼女がそれをするシチュエーションには共通点がある。高架下ライブでステージに立った時と、いつにもまして上機嫌な時だ。

 

「ファル子にそう言ってもらえると嬉しいな」

 

 素直に思ったことを口にする。それはさっきまでの彼女には多分言えなかっただろう言葉。元気で快活な彼女を相手にする方が慣れていたし、自然体でいられた。

 時折見せるしおらしい彼女はとてもいじらしくて可愛いが、同時に相対するこちらにも恥ずかしさが込み上げてくるのも確かだった。

 

(…どっちも同じファル子なのにな)

 

 まだまだ知らない彼女の一面を見る度、まごついてしまう自分がいる。もっと長い時間一緒に過ごせば、やがて慣れていくだろうか。

 

「えへへ…ありがと☆ トレーナーさんのおかげで、スペちゃんとドトウちゃんが遠慮なくライブに来られるようになったんだもん」

 

 俺の素直な言葉に、彼女はやはり聞き慣れた朗らかな声で答えていた。

 

「俺のおかげとは少し違う気もするけどな。ファル子の頑張りと走りがあったからこそだと思う」

 

「えっへん☆ もちろんそのつもりだよ。だけどファル子一人じゃダメだったことも間違いないもん。トレーナーさんは縁の下の力持ちポジションだからよく分かってると思うけど」

 

 耳をぴょこぴょこと上下させて、彼女はくすくすと笑っている。

 

「そうだな。ファル子のことはだいたい分かってる」

 

「さすが模範的なファン第零号さん! あっ、でもあのことは秘密にしておいてね♪ ファル子との約束だぞ☆」

 

 飄々と語るその瞳の奥に、ほんのわずかに心配げな輝きが見えた気がした。

 

「ああ、絶対に誰にも言わないさ」

 

 泣いたことは誰にも言わないでねと、強く言い含められていた。彼女いわく、「ウマドルはファンに涙を見せちゃいけないから☆」ということらしいが…。

 

(ファン第零号は例外なんだろうか…)

 

 明らかな矛盾に困惑しつつも、彼女と秘密を共有している唯一のファンであるという事実に、何となく優越感のようなものを感じていた。

 この世にたった一つしかないサイン入りグッズを手に入れたような、そんな尊さにも似た喜び。

 彼女が先日のレース直後に流した幾千の涙を知っているからこそ、余計にそう思えるのかもしれない。自分のためではなく、友人のために流す涙はとてつもなく激しく、そして切なかった。

 彼女が後輩たちの力になれたことは本当に良かったし、その切なる気持ちが報われたことに心から安堵していた。

 

「というかトレーナーさん、のんびり話してていいの?」

 

 辺りを見渡しながら彼女は言った。

 気づけば他のトレーナーや生徒たちが練習をし始めている。さっきまでは真っ平らだったダートトラックにもたくさんの凹凸が刻まれ、その数を現在進行形で増やしていた。

 思いの外長い時間、トレーニングそっちのけで話し込んでしまっていた。

 

「それじゃ始めようか」

 

 すると、彼女はやにわに人差し指を立てて言い放つ。

 

「今日の三女神様のお願いごとは、メイクデビューでセンターに立てますように…だから、たっくさんトレーニングしないとだね♪」

 

 奇しくも、いや、むしろ当たり前の話だろう。それは今朝捧げた祈りと全く同じものだった。

 

「その通りだな…よし、まずはウォーミングアップからだ」

 

「オッケー☆」

 

 軽やかな返事と共に颯爽と風を切る彼女。

 ようやく始まったその日のトレーニングは、いつになく清々しい幕開けとなった。

 デビュー戦は明後日。明日は高架下ライブと軽い調整メニューを予定しているため、本番前の本格的な走り込みは今日が最後だった。

 

 しばらくトレーニングを続け、頃合いを見計らってインターバルを挟むことを繰り返す。

 幸いにも、天気は現状を維持して雨粒一つ降ってこない。

 

「今の走り…どうだった…?」

 

 千六百メートルを走り終えたばかりの彼女が、大きく呼吸をしながら駆け戻ってきた。靴は泥だらけだが、足首より上はほとんど汚れていなかった。

 

「一分三十七.二秒…誤差もほとんどなしだ」

 

「あはは…だいぶ様になってきた…かな?」

 

「そうだな、かなり安定してきてる。この調子だ」

 

 同じペースで走り続けるトレーニングもしっかり板について、単独走であれば二百メートルごとの誤差は0.2秒以内に収まるようになった。

 千六百メートルのタイムも、こちらも単独走ではあるが一分三十七秒台前半をコンスタントに出している。

 蹄鉄シューズを履いた状態でも安定して走れるようになってきたのは、確かな進歩だ。

 

「ただ、尻尾の動きを変えるのを最近忘れてるな」

 

「あっ…! そうだった」

 

「まぁ、それはまだ優先順位が低いし、覚えてたらでいいけど」

 

 手足にスタミナがあるように、実は尻尾にもスタミナがある。彼女の場合、自ずと身についた尻尾の動きはコンパクトで、手足のそれと比べるとそのスタミナは走り終えてもかなり余ってしまう。

 尻尾の動きは推進力に直結する。単純に大きく振れば振るほどそれを増すことができ、結果的にスピードが上がるのだ。

 つまり、余ってしまう尻尾のスタミナを効果的に使う切ることができれば、タイムの向上が見込まれるということである。

 ただ、尻尾の動きは意識しなければ変えられないし、他のことをこなしながら実行するには、彼女の練習や経験値はまだまだ足りない。

 

(もしこれができるようになれば、もう少しタイムも上がるんだけどな…)

 

 もちろん、そんな高度な技術を明日のレースまでにマスターできるわけもない。しかしそれでも構わない。まずは安定して走れることが最優先だからだ。

 それは今後の課題ということで、一旦間を置くことにした。

 

「ここらでちょっと休憩しよう」

 

「大丈夫だよ…ファル子まだまだ元気だもん」

 

 全然走り足りないのか、その表情にいつも以上のやる気をたぎらせるファル子。乱れていた息も、早々と整いつつある。

 

「休むのも立派なトレーニングだからな」

 

 初のレースということで、あまり無理はさせたくないと思っていた。自らのトレーナーとしての経験不足により、そこの感覚が未熟であることも要因ではあるのだが…。

 

「え〜っ、さっきから休憩ばっかりだもん。いつもならガン攻めなのに…休憩の代わりに軽く走るのはダメ?」

 

「うーん…まぁ、それくらいなら」

 

「や〜ん☆ さすがトレーナーさん、話が分かる〜っ☆」

 

 嬉しそうに言い終えるや、再び砂地へと駆け出していった彼女。

 結局熱意に押し負けてしまった。だいたいいつもこんな感じである。絶対に止めるべきところは止めるが、基本的には彼女の意思を大切にする方針でいた。

 

(俺ってファル子に甘いんだろうか…)

 

 たまにそうやって不安に思ってしまう。ただ、とても居心地が良さそうにしている彼女からそれを奪うのも気が引けて、現状を維持してしまっていた。

 

(前に付き合ってた彼女も、これくらいぐいぐい来てくれたら良かったんだけどな…)

 

 今となってはどうでもいいことに思いを馳せる。

 そして、ふと疑問を抱く。ファル子は主導権を握るのと握られるのではどちらが好みなのだろうか…と。おそらく前者だとは思う。追いかけられることが好きなのは間違いないが。

 

 そんな時、あるペアがダートトラックへと訪れたのが、偶然にも目に入った。あまりにも珍しい髪色から、それが誰なのか遠目からでもはっきり分かる。

 腰より伸びた水色の髪を優雅になびかせる、メジロアルダンの姿がそこにはあった。その隣には烏羽色の髪をした女性トレーナーが寄り添っている。

 もちろん、デビュー戦に向けてのトレーニングのためやって来たのだろう。

 

(あの二人と明後日ぶつかることになるんだよな…)

 

 そう思った途端、妙な緊張感がまとわりつく。

 彼女たちとはこれまでダートトラックや他のトレーニング施設で顔を合わせることは何度もあった。しかし、メイクデビューの組み合わせが決まってからは、これが初めてだった。

 ファル子がメジロアルダンとリレーの時に言い争ったという話も、組み合わせが決まった直後に聞いた。借り物競走での一件が発端らしいが、彼女自身が「バチバチしちゃってたかも」と言うほどにはやり合ったらしい。それを聞いた後では、どうしても不安にならざるを得なかった。

 

(まぁ、今まで平気だったし、今さら何も起こらないだろうけど…)

 

 今立っているこの場所から五十メートルほど離れた場所に、彼女たちは陣取った。

 ウォーミングアップを開始するメジロアルダン。アクアマリンのような光を放つロングヘアをたおやかに揺らし、ファル子と同じようにゆっくりと砂地を駆けていく。

 そのしとやかな動きはいつ見ても高貴で、指先まで気品にあふれている。ファル子のきらきらとは違う、精巧に作られたガラス細工のような魅力を確かに内包していた。

 その時、首筋に寒気を及ぼす視線を感じた。それと同時に「しまった」と心の中で大きな声が漏れた。

 そう、ジョギング真っ最中のファル子に見られてしまったのだ。メジロアルダンの美しい所作に、思わず見惚れていたところを…。

 不意に立ち止まり、ジト目でこちらを射すくめる担当ウマ娘。しばらくして、ふんっとそっぽを向いてまた駆け出していった。

 

(後でこってり絞られるかもな…)

 

 見ただけでへそを曲げられるというのもなかなかシビアな話だが、仮にも次のレースでライバルとなる娘に目を奪われたことは紛れもない事実。

 人知れず、ファル子に詰問される悪い未来を想像していた。

 そして、焦燥感にあふれた心は注意力を散漫にさせる。誰かがこちらへと歩み寄っていたことにさえ、気づかぬほどに。

 

「ちょっといい?」

 

 俺の真横で、抑揚のない声が不意をついて響いていた。こちらが反応する前に、続けざまこうも言った。

 

「一つ聞きたいんだけど」

 

 ぼそぼそと鼓膜を撫でたのは若い女性の声。それだけでは生徒のものかそうでないか分からないが、話し方からしてトレーナーや職員に思われた。

 中には平気でタメ口で話しかけてくる生徒もいないわけではないが…。

 ゆっくり振り向くと、そこにいたのは案の定トレーナーだった。

 彼女はメジロアルダンを担当する、俺と同期…つまり新人トレーナーの三砂さんだった。

 上下ともジャージという、いかにもトレーナーらしく見える質素な格好。俺と並ぶと、色合いこそ違うもののある意味ペアルックにも見えてしまう。

 

「ファルコンさんのベストタイムって、今何秒なの?」

 

 烏羽色のなまめくセミロングヘアが湿った風に揺れている。それはメジロアルダンのさらさらとした水色の髪を、そのまま黒く染めたような美しさがあった。

 

「えっと…一分三十七秒ジャストだね」

 

「ふ〜ん、そう。めちゃめちゃ早いね」

 

 物憂げな表情をこれっぽっちも変えることなく、つぶやくように彼女は言った。

 どことなくふてぶてしさを覚えるしゃべり方や態度は、今に始まったことではない。他の人と話す姿を見ても、どうやらこれが彼女の自然体らしい。さすがに目上の人と対した時は敬語だが。

 

「それって蹄鉄シューズ履いてのタイムだよね?」

 

「もちろん。裸足なら多分もうちょっと早くなるだろうけど」

 

「そっか。シューズありでそれか…」

 

 やはり変わらないその面持ち。ただ、淡々とした口調は少しだけ張りを失っていた気がした。

 彼女には何となく特別な印象を持っていた。それは顔を見る度、記憶の海が大きくざわめくからだ。

 初めて見た時から感じていたのだが、学生時代に付き合っていた後輩の彼女、その面影がどことなくあったのだ。とはいえ、泰然とした性格やクールな雰囲気は似ても似つかない。裏を返せば、容姿が似ている、ただそれだけでしかなかった。

 

「アルダンのベストタイムは?」

 

「一分三十八秒ジャスト。そっちには全然かなわないや」

 

「いや、でも十分早い方じゃないか?」

 

「私もそう思ってるよ。デビュー戦勝利もあるんじゃないかなって、ちょっとばかし夢見てたけど」

 

 東京レース場のダート千六百メートル。その未勝利戦の標準タイム、すなわち勝ち時計はほぼ一分三十八.五秒から一分三十九.五秒くらいに収まる。

 そこから考えれば、メジロアルダンのベストタイムは十分勝ちを狙えるほどの実力を示唆していた。

 もちろん、それよりも早いファル子の方が、今の力を出し切ることさえできれば最も一着に近いわけだが。

 ただし、それは"全てが"ダートであればの話。東京レース場のダート千六百メートルは、その意味において一つ不安な点がある。

 そんな俺の胸中を知る由もなく、三砂さんは淡々とした口調で続ける。

 

「まぁ、くじ運がなかったよね。よりにもよってファルコンさんと当たるなんて」

 

「でもレースは終わってみるまで分からないよ」

 

 そう、昨日のレースのように、バッドコンディションや焦りで自らの走りを失い、自滅することもある。九人同時にスタートを切る本番なら、なおさら不測の事態が起こる可能性は十分にある。

 

「だから諦めずに全力を尽くすべきじゃないかな」

 

「もちろん諦めてなんかないよ。そうじゃなきゃ練習に来ないし…ただ厳しいレースにはなるんだよね」

 

「枠番は悪くないし、そんな悲観しなくてもいいんじゃないか?」

 

「枠番ねぇ…」

 

 一般的に、外枠が不利とされる芝とは逆に、ダートは外枠が有利と言われている。それは外側ほど砂をかぶりにくいということと、直線距離が短い傾向にあるダートでは、内側で脚をためるよりも外側でスピードに乗った方が前に出やすいからだという。

 逆に内側は砂をかぶりやすく、短めの直線ではバ群がばらけにくいため詰まりやすいとされている。

 メジロアルダンは大外の九番。逆にファル子は最も内側の一番。そういう意味では、メジロアルダンの方に分があるといえた。

 

「まぁ、それは統計的に見たらの話で、実力差があれば枠番なんて関係ないけどね」

 

 まるで他人事のように無気力な声を発して、彼女はトラックを周回するファル子を見つめていた。

 果たしてこれはライバルとなるトレーナーと、レース前に話すような内容なのだろうか。掛巣さんと江永さんを間近で見た後では、何とも言えず不思議な気分になってしまう。

 

「というか、アルダンがダートで走るとは思ってなかったな」

 

「そう? そんなに意外なことじゃないと思うけどね。やっぱりあの娘がメジロ家だから?」

 

「そうだな…あの名門出身だから芝に挑むのかなって、勝手に思ってた。選抜レースだって芝だったし…」

 

 デビュー戦の組み合わせを見た時、最初に思い浮かんだことを何の脈絡もなく口にしていた。思ったことをすらすらと言えてしまうのは、きっとタメ口で話しているからだろう。

 同期でも桐生院さんとしゃべる時はお互い敬語だが、それは彼女の俺への第一声が敬語だったから。

 三砂さんは逆に第一声がタメ口だった。初めての会話は、確かトレーナー室でちょっとした頼みごとをされたように記憶しているが、あまりよく覚えていない。何にしても、ただそれだけのことだった。

 

「これからダート路線でいくのか?」

 

「さぁ、それはまだ分からないけど…」

 

 ここまで俺の質問に淀みなく答えていた彼女が、この問いかけには明らかに語尾をすぼめた。

 ほんの少しだけ間を置いて、彼女は烏羽色の髪をおもむろにかき上げた。

 

「…メジロ家だから芝を走るのが当たり前。クラシック路線へ進むのが当たり前。そんなこと本人が聞いたら、多分嫌な顔するよ。表には出さないだろうけど」

 

 どこか虚無感すら漂わせて淡々と言い放った。

 次いで、その視線は向こう正面をひた走る水色の髪の少女へと向けられる。

 

「ダートをデビュー戦に選んだのは、彼女の希望だったから。ダートの方が走りやすいんだって。あの娘、生まれつき足が丈夫じゃないらしいし」

 

「そうか…話には聞いてたけど、それならダートの方がいいかもな」

 

 メジロアルダンの足が丈夫でないこと。それはファル子や先輩トレーナーを通じて聞いたことがあった。

 走るのにパワーが必要なのは芝よりもダートだが、その一方で砂地そのものはクッション性に優れている。それゆえ、固い地面に根差す芝に比べると、足への負担はダートの方が長期的に見れば軽い傾向にあった。

 

「それに、私の名前に『砂』って入ってるでしょ。だから私にもお似合いなんだよ。ダートの方がさ」

 

 それは冗談のつもりで言ったのだろうか。情緒に乏しい彼女の表情からそれを判別するのは、あまりにも困難だった。

 まごつく俺を尻目に、間髪入れず質問が飛んでくる。

 

「そっちはもちろんずっとダート路線だよね? ファン感謝祭であんな宣言したんだし」

 

「そうだな。俺も彼女もそれで覚悟を決めてるよ」

 

 覚悟という言葉を使ったのは、ファル子の不退転の決意を強調したかったからだ。

 眉を訝しげにひそめながら、彼女はさらに問いかけた。

 

「聞いた話だけど、ファルコンさんずっと芝にこだわってたんでしょ。どうやってダートに引き込んだわけ?」

 

「…それは話せば長くなるな。簡単に言えば、ダートでも夢を叶えられるってことに気づかせてあげたからかな」

 

「なるほどね。でも数年続いたこだわりを覆すほど説得するなんてよっぽどだよね。もしかして一目惚れでもした? 肉食系でもないと無理な気がするんだけど」

 

 初めて肉食系と言われた気がする。

 確かに思い返してみれば、出勤初日にファル子と出会ってからの四日間、彼女をダートの世界に導いてあげるまでは特にぞっこんだった気がする。もちろん、今でもそうだが。

 

「さすがに惚れてはないけどな。強いて言えば、出会いが運命的だったから…かな」

 

「ふ〜ん、運命か。どうやって出会ったかは知らないけど、意外に乙女チックなのね」

 

「…そうかもな」

 

 ファル子にも話せないようなことをずかずかと話せてしまうのは、三砂さんから悪意も好意も一切感じないからだろう。

 多分彼女の問いかけは興味本位だ。質問に特に深い意味はなく、発する言葉にも棘が含まれていそうで別にそういうわけでもない。「乙女チック」なんて言葉は一聴すると煽りに聞こえるが、それは単純に適当な言葉が思いつかなかったからだろう。

 もちろん根拠なんてないが、少なくともそう感じるほどに、彼女が掴みどころのない性格をしていることは確かだった。

 

「三砂さんはどうしてアルダンと契約を?」

 

 話の流れのままに、今度はこちらから質問した。

 

「ぶっちゃけると、熱意に押されたから…かな」

 

「熱意?」

 

「うん、熱意だよ。実はあの娘から頼まれたんだよね。スカウトしてくださいって。最終学年でシニアになる学年だから、なりふり構ってられなかったんだと思う」

 

 淡々と語る三砂さん。その顔つきはやはり憂いを帯びているが、何となく声にメリハリがついてきたような気がする。

 彼女はなおも続けた。

 

「選抜レースで三位になっても、あの娘の足のことを知ってる先輩トレーナーたちは警戒して目もくれなかった。それでもレース直後には何人か取り巻きがいた。もちろん皆新人だったけど。でもそれを押しのけてわざわざ私のところに来たわけ。それも、別の娘にアタックしようとしてた私にね」

 

「それはどうして?」

 

「さぁ、私にも分かんない。でも、覚悟に満ちた目をしてたんだよ。もう後がないような、必死で、悲しげな目をね。何か…放っておけなくてさ」

 

 それまで微動だにしなかった彼女の表情が、ほんの一瞬だけ綻んでいた。まるで、夜にしか咲かない花が宵闇を迎えた時のように。

 

「理由を聞いてみたらいいのに」

 

「どうして?」

 

「どうしてって…気にならないのか?」

 

「あの娘が私を必要としたってこと以外、理由なんていらなくない?」

 

 それが当たり前と言わんばかりに語気を強める彼女。否定するつもりはないが、どうにも理解しにくい感覚ではあった。

 

「それはそうだけど…トレーナーはその娘の夢を背負うものだと俺は思ってるから」

 

 担当ウマ娘の夢を叶えることがトレーナーの使命だ。生徒たちから必要とされることは当然嬉しいが、目標を成し遂げる自信がなければ、それはただの安請け合いでしかない。

 

「夢?」

 

「そう、ファル子だったらトップウマドルになることみたいにさ」

 

 言った後に気づいたが、すっかり聞き慣れたその単語は、普通は伝わらない言葉だった。

 案の定、彼女はさらに首を傾げていた。

 

「ウマドルって何なの?」

 

「ファル子の作った言葉だな。分かりやすく言えば、自分のきらきらで見る人を幸せにする存在…ってとこか」

 

「ふ〜ん」

 

 本当に無関心な時に出す声を、彼女は何のためらいもなく大きく漏らしていた。

 

「アルダンにも何か夢や目標があるだろ?」

 

「さぁ…」

 

「さぁって…」

 

 予想だにしなかった返答に思わず窮してしまう。さっき言っていた通り、本当にただ単純に頼まれたからスカウトしたということなのだろうか。

 少しだけ考え込んで、彼女はぽつりと口を開いた。

 

「両親を安心させたい…とは言ってたかな。夢かどうかは分からないけど」

 

「そうか…それは立派な夢だと思うよ」

 

「まぁ、本人にしか分からないけどね。それと、メジロ家として期待されたくないとも言ってたかな。だから走るレースは私に決めさせてくださいって。デビュー戦後もどうするか決まってないし。でも、敷かれたレールを走るのが嫌ってことは、何となく分かるよ」

 

 抱いていたトレーナー像が瓦解していくような事実を、彼女はさらりと言い放っていく。

 普通は目標を設定し、それを見据えてトレーニングを組むものだ。だが、彼女たちのペアはそれすら決まっていない。さながら『明日は明日の風が吹く』を体現しているようだ。

 

「何というか…風みたいな娘だな」

 

「風…ね。案外そうなのかもね、彼女」

 

 もしかしたら、メジロアルダンが三砂さんをトレーナーとして望んだのは、似たような雰囲気を感じたからかもしれない。

 

「三砂さんも風みたいなものだと思うよ」

 

「そう? そんなこと言われたのは初めてかな」

 

 我関せずといった様子で淡々と答える彼女。その手応えのなさは、まさに風のように感じた。

 

(意外に相性ばっちりのペアなのかもな…)

 

 そんなことを考えながら、彼女が見つめるダートトラックへと視線を向けた。

 つややかな栗色としとやかな水色が、一際綺麗に見えた気がした。

 

「ファル子と併走してみないか?」

 

 それは、かつて後輩の彼女をトゥインクル・シリーズ観戦に誘った時と同じくらい、軽いトーンだった。

 

「併走って…仮にも次のレースで争うんだけど。こちらの手の内を探ろうってこと?」

 

「いや、そういうわけじゃないけど」

 

「それじゃどういうわけ?」

 

 思いの外拒絶反応が強いと感じた。もちろん、すんなり応じてくれるとはこれっぽっちも思っていなかったが。

 返答するよりも先に、彼女は畳み掛けるように続けた。

 

「ファルコンさんの方がずっと強いんだから、そんな小細工いらないでしょ。別に今度のレースで負けたって私は何とも思わないよ。気を悪くしたり、ましてや根に持ったりもしない。走った本人は悔しがるだろうけどね」

 

「うん、そのことだよ。そうなるとファル子がきっと悲しむ」

 

「は? どういうこと?」

 

 俺の言葉に、彼女はあからさまに鼻白んでいた。

 

「ファン感謝祭のダートリレーの時、ファル子とアルダンがスタート前に言い合った話は本人から聞いた?」

 

「…初耳だね。あの娘、プライベートなことは自分から言い出さないから。というか、他の娘と言い争いなんてそもそもしなさそうだし」

 

「俺も詳細までは知らないけど、『お互い負けないよ』とか、『どん底だよね』とか話してたらしい」

 

 三砂さんは烏羽色の髪を揺らし、ここぞとばかりに鼻を鳴らした。

 

「どう聞いても争い合ってるライバル同士の台詞だと思うけど。併走なんてもってのほかだよね」

 

「アルダンはどう思ってるか分からない。だけどファル子は違う」

 

 先日の三人で行ったレースの後、泣き止んだファル子はこう打ち明けた。「アルダンちゃんとはちょっと言い合っちゃったからさ…何か話せるきっかけがあればいいんだけどね」と。

 メジロアルダンとレースではライバルでも、それ以外では仲良くしたい。掛巣さんと江永さんが最後に見せた決断に感化され、彼女はそう思うようになっていた。たとえ今すぐは無理でも、いつか必ずそうしたいと願っていたのだ。それができないようでは、きっと後輩たちに示しがつかないから。

 

「ファル子はアルダンといがみ合ったまま終わりたくないと思ってる」

 

「…なにそれ、どうせファルコンさんが勝っちゃうから今のうちに慰めてあげるって言ってるようにしか聞こえないんだけど。強者の余裕? それとも驕り? いくら私でもキレるよ?」

 

 言葉の割に迫力にかけた口調ではあったものの、その目は確かに怒気を含んでいた。

 苛立たせるつもりはなかったが、あまりにもストレートすぎる物言いに腹を立ててしまったようだ。さすがに迂闊過ぎたと、黙り込んだままほぞを噛んだ。

 その時だった。

 

「私は構いませんよ」

 

 少女の落ち着いた声が静寂を割いた。

 

「ファルコンさんとお話したいことがあるので、是非併走させていただきたいです」

 

 いつの間にか戻ってきていたメジロアルダン。おそらくその鋭敏な耳で、会話の一部を聞き取っていたのだろう。

 その上品な眼差しは確かに俺へと向けられていた。

 

「話聞いてたのね…あなたがそう言うなら止めはしないけど、本当にいいの?」

 

「はい、速い娘と走ることは良いトレーニングになりますし…」

 

「まぁ、確かにそういう考え方もあるね。やってみたらいいんじゃない」

 

 しぶしぶといった様子…ですらなく、三砂さんはいつもの物憂げな表情で首を縦に振っていた。

 さっきの怒気がまるで嘘のように柔和な声。担当ウマ娘を見る目はとても優しげで、さっきまでと同じ人物とは思えないほど穏やかな光を帯びている。

 おそらく、何をおいてもメジロアルダンの意思が最優先なのだろう。その気持ちはよく分かるのだが…。

 

(トレーナーとしての意思はないんだろうか…)

 

 ふと、そんなことを考えてしまう。トレーナーの数だけ様々な方針や意見があるとはいえ、彼女の考え方は雲を掴むような感覚に思えてならなかった。

 

「トレーナーさ〜ん!」

 

 そこへ、ファル子も声を上げながら戻ってきた。メジロアルダンには既に気づいていたようだが、彼女が俺の元へやって来たのを見て慌てて駆け寄ってきたのだろう。

 

「皆で何話してるの?」

 

 メジロアルダンとは違い、彼女は本当に何も聞いていなかったようだ。混じりっけなしにきょとんとしている。ただ、俺たちが話している姿が気になって仕方がないという様子だ。

 

「アルダンと併走しないかって話をしてたんだ」

 

「えっ…! アルダンちゃんと併走!?」

 

 口に手を当て、一気に跳ね上がる両耳と尻尾。

 併走と聞いて最も驚いたのは、他の誰でもなくファル子だった。話すきっかけがほしいと言っていたとはいえ、レース本番を明後日に控えたタイミングでのそれは、さすがに目を丸くする他なかったようだ。

 

「ファルコンさん、よければ一緒に走りませんか」

 

 水色の髪の少女が婉麗な声を響かせる。優美に揺れる尻尾と両耳。まさに淑女のような余裕が感じられた。

 

「本当にいいの? ファル子的には全然オッケーだけど…」

 

 不安げな面持ちでおずおずと声を漏らす彼女。

 それは相対する少女だけではなく、全員に対する問いかけだった。

 

「はい、是非よろしくお願いします」

 

 にこりと微笑みながら肯定するメジロアルダン。俺も小さく頷いた。

 三砂さんは何を言うでもなく、ただ黙って行く末を見守る態勢に入っているようだった。少なくとも、その目に否定的な輝きは見受けられない。

 

「こちらこそよろしくお願いします…☆」

 

 丁寧な物言いに対するファル子なりの返答だろうか。いつもの元気さは鳴りを潜め、落ち着いた声で応じていたように思う。あるいは、わだかまりが残っているがゆえの覚束なさなのかもしれないが。

 二人のウマ娘は駆け出していった。どこかぎこちない笑顔と、余裕に満ちたしとやかな笑顔。ファル子の望む未来が、その先に待っているのだろうか。

 気を揉みながら、三砂トレーナーに向き直る。

 

「ありがとう」

 

「は? 何のこと?」

 

「併走を許可してくれたお礼だよ」

 

「それはあの娘に言って。私はその提案を拒もうとしてたんだから」

 

 にべもなくあしらわれてしまう。沈んだ声で彼女は続けた。

 

「まだまだあの娘のこと分かってあげられてないね、私」

 

「それは俺も同じだよ。いまだに知らないことがたくさんある」

 

 ファル子の新しい一面を知る度、嬉しい気持ちになる。そしてもっと仲良くなりたいと思う。トレーナーとして、いや、一人の人間として。

 絆を深める方法はたった一つ。それは話すことだ。どんなことでもいい。思っていることを口にし合うだけで、自ずと分かり合えていくものだ。

 

「もっと三砂さんの意見をアルダンにぶつけてみればいいんじゃないか?」

 

「余計なお世話だよ、それ」

 

 伝えた矢先、ほぼ反射的に返ってきたその答え。怒りこそ感じないが、不愉快そうに烏羽色の髪を勢いよくかき上げていた。

 

「…まぁ、その方があの娘のことを分かってあげられるんだろうけどね」

 

 ささやくように言うと、彼女はすたすたとその場を離れていった。

 その背中は、どことなく憂愁の色を帯びていた。

 

──

 

 ダートトラックを駆ける二つの影。水を含んだ砂地は足跡をくっきりと残す。それが幾重にも連なり、同じものは一つとしてない凹凸を作り出している。

 

「ファルコンさん。明後日のレース、よろしくお願いしますね。胸を借りるつもりで走らせてもらいます」

 

 滑らかにそう発したのは水色の髪の少女。

 

「うん…こちらこそ、よろしくね」

 

 それとは対照的にとつとつと答えたのは、彼女よりも少し背の低いつややかな栗色の髪の少女。

 お互い話すのはあのダートリレー以来だった。それは決して相手を無視していたからではない。ただ、話しかける理由がなかったからだ。少なくとも、ダートリレーの一件が尾を引いていたのは事実だった。

 そのまま続くかと思われた会話は、二人の予想に反して沈黙へと姿を変えていた。聞こえるのは湿った重い地面を踏みしめる無機質な音だけ。走り出してもう一周もしたのに、交わされた言葉はあれだけだ。

 先に痺れを切らしたのはメジロアルダンだった。正確には、切り出すタイミングが見つからなかったゆえの止むに止まれぬ選択であった。

 

「もしかして、この前のこと怒ってます?」

 

 ぴんと逆立つ耳。スマートファルコンは首を横に振った。

 

「ううん、そういうわけじゃないけど…」

 

 彼女はためらっていた。それは謝ることではなく、どんな言葉をかければいいのかという迷いであった。明るさが取り柄の彼女も、この時ばかりは以前のやり取りを負い目に感じて、尻込みしてしまっていたのだ。

 先日、掛巣トレーナーが自らの担当ウマ娘たちにかけた「同じ道を目指す友人として、尊敬と共に接してあげてください」という言葉が、頭から離れなかった。

 だから、あの時衝突してしまったメジロアルダンと話し合いたい。そう強く思ったのだった。

 絶え間ない逡巡を経て、彼女はようやく口を開いた。

 

「あの時はごめんね」

 

 やっと出たその言葉。それはきっと心のダムをせき止めていた堤防。決壊したダムからは、溜まりに溜まった言葉が紡がれていく。

 

「ほんとのこと言うと、アルダンちゃんに嫉妬してたんだよ。私のトレーナーさんを借り物競走で取られちゃったことと、あの時も言ったけど家族が見に来てくれてたこと。羨ましくて…悔しくて…」

 

 一呼吸置いて、最後にこうささやいた。

 

「こんなことでへそを曲げてごめんね…」

 

 水色の髪の少女は前を向いたまま、そしてその表情も変えぬまま、スマートファルコンの懺悔に聞き入っていた。

 言葉が途切れたのを確認すると、今度は自分の番とばかりに口を開いた。

 

「謝るのはこちらもです。私の方こそごめんなさい」

 

 張り詰めた面持ち。精一杯の謝意がそこには含まれていた。

 

「私の足が丈夫ではないことはご存知ですよね。それが原因でこれまで全く良い成績を残せませんでした。だから、裸足で走れるファルコンさんが羨ましかった…いえ、いつも笑顔で楽しく走るファルコンさんに嫉妬していたんです。昔からずっと」

 

「昔から…?」

 

「はい、入学した時から」

 

「でもその頃って私、芝で走ってたよね。あの時はダメダメな走りだったのに?」

 

 驚きを隠せないスマートファルコンの問いかけに、水色の髪の少女は慇懃に答える。

 

「教官さん指導の合同トレーニングの時、ファルコンさんはいつも注目の的でした。どんな失敗をしても気にせず、いつも笑顔で周りを元気にして…体が弱くて、友達と外で遊ぶことも少なかった私には、とても新鮮に…そして眩しく映りました」

 

「私、そんな注目されてたっけ…普通に過ごしてただけなんだけど、そう言われると何だか恥ずかしいね…☆」

 

「私にはそう見えていましたよ。適性がない芝でも諦めず前を向いて走るファルコンさんは、まるで太陽みたいに輝いていました。私にとって、憧れの的でした」

 

「そうだったんだ…」

 

 人知れず太陽のように思われていたことに、彼女はこの上ない嬉しさを覚えていた。それは、自身がサイレンススズカに抱いていた憧憬の感情そのものだったからだ。

 

「ありがとね…初めてそんなこと言われたから、とっても嬉しい。アルダンちゃんはメジロ家の娘だから、何か近寄りがたいって勝手に思ってた。私のことなんて目もくれないんだろうなって…」

 

「そんなことないですよ。たとえメジロ家に生まれても、単なる一人のウマ娘ですから」

 

 風を切りながらひた走る二人。

 薄雲を突き抜ける微かな陽光に照らされ、メジロアルダンの髪はアクアマリンの輝きを放っている。

 

「それと…ファルコンさんに負けたくないとも思っていたんです。だってそうでしょう? それまで全然駄目だった私たちが、同じタイミングで新しい道を見出して、トレーナーと契約して…まるでライバル同士みたいに」

 

「新しい道って…?」

 

「ファルコンさんはもちろんダートに転向したこと。私は…」

 

 不意に言い淀むメジロアルダン。刹那、意を決したように真実を打ち明ける。

 

「今年になって最新手術を受けたんです。メスを使わない特殊な医療でした。メジロ家の伝手で、優秀な先生を紹介してもらって…」

 

「ほんとに…? 手術大変じゃなかった?」

 

「メスを入れない分、そこまでは…手術のおかげで以前よりは走れるようになりました。でも完璧に治ったわけではありませんし、もし無理をすればいつか爆発するだろうって、お医者様からも言われています」

 

 まるで他人事のようにメジロアルダンは淡々と語っていた。

 スマートファルコンは何かを察したように顔を強張らせた。

 

「もしかして、デビュー戦にダートを選んだのって…」

 

「ええ、ダートの方が足の負担が少ないですから。まさかファルコンさんと当たってしまうとは思ってませんでしたけどね」

 

 にこりと微笑む彼女。そこに後悔の色は微塵もなかった。

 

「メジロ家に生まれたウマ娘は、皆期待を寄せられて育てられます。将来どんな結果を残すのか、一族全員が楽しみにしています。たとえ幼少期はぱっとしなくても、いざトレセン学院に入学すると、めきめきと頭角を現す娘はたくさんいました。でもそれは、体が丈夫な娘に限ってのことです」

 

 穏やかな口調で紡がれるそれは、さながら童話の語り聞かせのようだった。

 隣を走る少女はただ黙ったまま、文字通り耳を傾けていた。

 

「生まれつき体が弱かった私は、正直に言えば…爪弾き者でした。せっかく良い足を持っているのに、それを活かすことができない残念な娘。それがいつまでも変わらない私への評価。私はともかく、両親に矢が向けられるのが一番悔しかった…」

 

 かげりのある表情から発せられた辛く悲しげな声。そこにはスマートファルコンの知り得ない生まれの苦悩が、ひしひしと伝わるほど含まれていた。

 

「だから、どんな形でも私は結果を残したいんです。私を慈しんで育ててくれた両親に、勝利をプレゼントしたい…それが私の夢です」

 

「ファル子も同じだよ。トップウマドルになる夢のために頑張ってるけど、お父さんとお母さんに、いつか走る姿を見てもらいたいって思ってるもん」

 

「その夢、叶うといいですね。いえ、ファルコンさんなら叶えられます。きっと…」

 

「アルダンちゃんもだよ。お父さんとお母さん、安心させてあげられるといいね」

 

 お互いを励まし合う二人。今まで自分たちを育ててくれた両親への感謝に、優劣などありはしなかった。

 

「私、今度のレース、全力で走るから。私の夢のために…私を信じて送り出してくれたお父さんとお母さんのために。だから…アルダンちゃんも全力で走ってね」

 

「ええ、私も両親のために全力を尽くすつもりです」

 

「勝っても負けても恨みっこなしだよ☆」

 

「もちろんです。よろしくお願いしますね」

 

 朗らかな声としとやかな声が飛び交い、そして消えていく。ぎこちなさもわだかまりも、そこにはこれっぽっちも残っていない。

 打ち解けあった二人に、もうこれ以上の言葉は必要なかった。

 足にぐっと力を込めペースを上げる。その先に待つ、それぞれ夢見た未来を掴み取るために。




お疲れ様でした。
元々二分割する予定だったのですが、切りが悪いのでひとまとめにしたらかなりの文字量に…。
三砂という名前は例によって野鳥のミサゴから取っています。
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