君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆──   作:キビタキ

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【第10話】それぞれの門出 ③後輩たちの決勝線

 何気なしに手帳を開く。

 今日の日付に大きく書かれたメイクデビューの文字。その少し先には次の高架下ライブ。さらに進んで夏合宿の文字が現れると、それ以降は空白だ。

 トゥインクル・シリーズに挑むウマ娘としてのステップアップには、デビュー戦及び未勝利戦での勝利が必要だ。それを経て初めて、新たなレースへ出走する権利を得ることができる。

 すなわち、このスケジュールに書かれる内容は、今日の結果によって全く変わってくるということであった。

 

 手帳をゆっくりと閉じて顔を上げる。

 目の前に広がるのは広大なトラック。マルチ画面ターフビジョンにはウマ娘が映し出されていて、第三コーナーの内側には立派な大ケヤキが見える。

 そう、ここは東京レース場。トレセン学院からさほど離れていないそこは、大小様々なレースが一年を通じて何度となく開催されている。

 大勢の観客が熱い視線を送る先で、何人ものウマ娘たちが走り抜けてきた。その度に、数多の歓喜と涙、そして感動が生み出されていった。

 それはいつだって変わらない。そう、今日もまた新たな歴史が、記憶と共に刻まれようとしていた。

 

 2021年六月十三日。小雨滴る東京レース場の第三レース。それは芝二千メートルのメイクデビュー戦である。

 

「もうすぐ始まるね…」

 

 ひっそりと声を響かせた体操服姿のファル子。そこは屋根付きの観客席の一つ。前のめりに座り込み息を呑んでいる。

 

「そうだな…」

 

 抑揚のない相槌を打って、彼女が目を注いでいるターフへと視線を飛ばす。

 出走予定時刻三分前。九人のウマ娘たちが、スターティングゲートの前で各々過ごしている。走ったり止まったりを繰り返す者、屈伸や開脚で体を伸ばす者、微動だにせず深呼吸を繰り返す者。

 それはきっと彼女たちにとってのルーチンワーク。少しでも緊張から逃れるための大切な手段なのだ。

 

(知っている娘が走るってだけで、こんなにもはらはらするものなんだな…)

 

 それは自身にとって初めての感覚。見ているこちらの緊張も徐々に高まっていくのを確かに感じていた。

 レースを直前に控えた本人たちのそれは、それはもう想像を絶するものに違いない。

 

「どっちが勝つのかな…」

 

「さぁ…それは何とも言えないな。どっちにも勝ってもらいたいけど」

 

 もちろん、それは無理なことだと分かっている。どちらかが涙を呑まなければならない。非情だが、それが勝負事の定めだった。これがライバル同士の熱い戦いであるなら、なおさらだ。

 二人のトレーナーである掛巣さんと江永さんも、この会場のどこかで担当ウマ娘を見守っているのだろう。

 辺りを見渡すと、観客席にはウマ娘たちの初陣を一目見ようと詰めかけた大勢の人々。ざわざわとレース場特有の喧騒を生み出している。

 次いで、顔を上げると、そこには白鼠色と鉛色の雲が織り成すキャンバスが広がっていて、天の恵みたる雨をしとしとと降らせている。

 雨の行方を目で追うと、湿った匂いを漂わせる草色と砂色のバ場。それは涼しげな空気を生み出し、そこはかとない緊張感と絶妙に溶け合いながら、不思議な雰囲気となって会場全体を包み込んでいた。

 

「ファル子も後少ししたら、あのダートの上に立つんだぞ」

 

「う〜ん、そう思うと待ちきれなくなってきちゃうね。あそこから見たら、ここってどんな風に見えるのかな? すっごく楽しみ☆」

 

 先ほどまでの張り詰めた空気はどこへやら。楽しみとすら言ってのけるほどの余裕を見せながら、彼女はぴくぴくと両耳を上下させている。自分のレースのことはあまり不安に思っていないようだ。

 ライブの時のように、本番には滅法強いのかもしれない。

 

(俺の方が緊張してるんだろうな、多分…)

 

 ファル子がスターティングゲートに入る瞬間は、きっと心臓が飛び出しそうなほど、どきどきしているに違いない。

 

 人生で何度となく見てきたであろう、東京レース場での熱い戦い。

 しかし、それは観客としての視点。レースに挑む者として臨むのは、もちろん今日が初めてだった。当日の流れはもちろん、出走者専用の地下バ道の出入口さえろくに把握していない。そんな覚束ない状況である。

 一応、先輩トレーナーや出走経験のある生徒からだいたいのことは聞いてはいるが…。

 もちろん、ファル子も俺と同じ状況であった。これまで東京レース場に幾度となく足を運んでいるが、それはただの一ファンとしての話。これから出走者として、見るもの、聞くもの、触るもの、全てが初めての体験となる。

 

「でも、本当にここで観戦するのか…?」

 

 今さら言っても仕方ないことだが、それは思わず口をついて出ていた。

 

「当たり前だよ! 二人の晴れ姿は生で見ないと!」

 

「まぁ、気持ちはよく分かるけどな…」

 

 実は、この観客席に至るまでには紆余曲折があった。

 

 出走者には一人一部屋ずつ控室が割り当てられている…らしい。らしいというのは、出走者として受付を終わらせた直後、部屋には向かわず真っ先に後輩二人が登壇するパドックへと駆け込んだため、入室していないからだ。

 普通、出走を待つウマ娘とトレーナーは控室で過ごすそうだが、そこはあのファル子である。後輩二人の晴れ姿を、部屋に設置されているという小さなテレビ画面で見ていられるわけもない。

 

「トレーナーさん! 行くよ!」

 

 言い終える前にがっちり手を掴まれていた。

 そこに俺の意思が介入する余地は微塵もなく、有無を言わさず手を引っ張られた。腕を掴む握力は、標的をかぎ爪で捕らえた隼のそれを思わせるほど強力で、もちろんか弱い獲物が逃げられるわけもない。

 彼女いわく、良い場所を確保したいから急いでいたとのことだが、やはりそこはウマ娘の尋常ではないスピードとパワー。まさになすがまま、必死に食らいつくしかなかった。

 

「とうちゃ〜く☆ トレーナーさん走るの速くなった?」

 

「…ああ、素晴らしいエスコートのおかげでな…」

 

 唯一の救いは、こちらの出せる速さに合わせてくれたことだろうか。息一つ乱さない彼女の横で、肩で息をする俺が皮肉を飛ばせるほどの余裕はあった。

 あのナイターレースでの惨劇を教訓にしてくれたことは確かなようだ。

 

 命からがらたどり着いたパドックで、二人の後輩はいつもの姿を見せていた。小雨とはいえ、初夏の生暖かい気候に似つかわしい体操服姿のウマ娘たち。

 出走者は枠番及びウマ番によって着衣の色が決まっている。

 一方、ゼッケンの配色はレースの種類によって定められていて、重賞競走及び特別競走以外の一般レースは白のゼッケンに黒文字でウマ番と名前が印字されている。

 『2』と記されたゼッケンと、黒の短パンで現れたのはメイショウドトウ。いかにも落ち着かない様子で、ぶるぶると体を震わせていた。

 象徴的な垂れ耳は当然のように倒伏し、アピールらしいアピールといえば、壇上で華麗且つ盛大にずっこけたことくらいであろう。それはおそらく…いや、十中八九ドジっ娘ゆえのアクシデントだったのだろうが。

 『7』と書かれたゼッケンと、橙色の短パンを着用して登壇したのはスペシャルウィーク。純真な笑顔を振りまきながら、観客に向けて両手を大きく振っていた。

 緊張の色はおくびにも出さず、かなりリラックスしているように見えた。まるで、昨日の高架下ライブの彼女を、服装だけを取り替えてそのまま連れてきたようだった。

 パドックでの顔見せを終え、後輩二人が地下バ道に消えた瞬間。

 

「トレーナーさん! 次は客席だよ!」

 

 同じことが繰り返された。ただ、今回は身構えていたので、さほど驚きはしなかった。

 よくよく考えると、もはや腕を掴まれる必要はないように思えたが、そこは多分突っ込んだらいけないような気がして口をつぐんでいた。

 

 そうして到着した観客席で、スタート前の二人を眺めながら今に至る…というわけである。

 もちろん、ファル子はずっと本番の体操服姿のまま動き回っていた。果たしてそれが許される行為なのかも分からぬままに。

 

(第四レースが終わるまで自由にお過ごしくださいって言ってたし…いや、でもそれって控室の中だけって意味か…?)

 

 一抹の不安を覚えながらも、隣に座る担当ウマ娘を見やる。

 『1』と書かれたゼッケンと、白色に限りなく近い灰色の短パン。いつものショートソックスではなく、珍しく白のニーハイソックスを身に着けている。短パンと靴下の合間に覗く肌色がなければ、あたかも白装束にさえ見える。

 少なくとも言えるのは、誰がどう見ても出走者とすぐに分かる格好ということだ。

 周辺のお客さんも、こちらに気づくとあからさまに目を丸くしていた。どうしてこんなところにいるんだろう、そんな眼差しを漏れなく向けられる。

 

(人気のウマ娘だったら絶対にできないやつだ…)

 

 例えば、もしこれがサイレンススズカだったら、今頃とんでもないことになっているだろう。まだファル子がほとんど無名だからできること。そのように思われた。

 そんな時、実況の声が流れてきた。

 

『第三レース、芝二千メートル。バ場状況は重と発表されております。メイクデビューを迎えました九人のウマ娘たち。デビュー戦を華々しく飾るのは一体誰でしょうか…! 間もなくゲート入場となりますが、ここで出走者を紹介しましょう!』

 

 力の入った声で読み上げられる出走者たち。そこには当然、後輩たちも名を連ねている。

 

『二番、メイショウドトウ。九番人気です。レースではこの評価を払拭できるでしょうか…!』

 

 それが聞こえた瞬間、困惑の表情と共に頭を抱えるファル子。

 

「あちゃ〜…ドトウちゃんは九番人気かぁ…」

 

「まぁ、あれだけ派手にすっ転んだらさすがにな…」

 

 ウマ娘の人気順は観客の投票によって決められる。それはずばり、"一着になる娘は誰か"という単純明快な投票である。

 通常のレースでは、出走者の過去の成績や本人の人気などが反映されるため、当たり前だがいわゆる実力者や本命と称されるウマ娘が一番人気となる。

 一方、メイクデビュー戦は生涯で初めて出走するウマ娘しかいない。それゆえ、よほど前評判がある娘でもない限り名が知られているということはまずないし、過去の成績を参考にしての投票はできない。

 となれば、観客たちにとって一番の指標となるのはパドックである。調子が良さそう、元気がありそう、この娘なら勝ちそう、そんな第一印象で人気順が決まるのだ。

 メイショウドトウの場合、ステージで豪快にずっこけたことが、緊張でがちがちに固まっていると受け止められたのだろう。確かにインパクトはあったが、勝てるかどうかと聞かれたら、やはり一票を投じにくかったに違いない。

 

『七番、スペシャルウィーク。一番人気です! 期待に応える走りを見せられるでしょうか…!』

 

 耳をぴくりと反応させ、ファル子は喜びの声を上げた。

 

「すごいすご〜い☆ スペちゃん一番人気だって☆」

 

「納得の一番だな。パドックでも堂々としてたし」

 

 メイショウドトウとは対照的に、スペシャルウィークは元気ある力強い姿を見せていた。つまり、彼女はパドックで最も注目を浴びたということである。

 

(とっても明るい笑顔だったもんな…)

 

 緊張していない娘ほど実力を発揮しそうに感じるのは、やはりごく自然なことだった。

 

 出走者の紹介が終わったのと同時に、ゲート入場が始まった。

 降り続く小雨は、走りにあまり影響しない程度には弱まっているように見えた。

 

「いよいよだね…!」

 

 期待と不安が入り混じった眼差し。同じものをスターティングゲートに向けて、睨むように目を凝らす。

 滞りなく入場が終われば、後は目の前のゲートが開き、スタートを切るだけ。この瞬間だけは、いつどんなレースでも息詰まる思いがした。

 

『各ウマ娘、ゲートインが完了しました! 生涯たった一度のメイクデビュー! 芝二千メートルの旅路を制するのは果たして…!』

 

 ランプに赤い光が灯ると、刹那の空白を経て鳴り響いたそれ。九人のウマ娘が解き放たれことを知らせる、ゲートのけたたましい開閉音だ。

 初のレースという緊張もあるのだろう。綺麗に横一列のスタートとはいかず、出遅れる者も何人かいた。幸い、その中に後輩二人は含まれていなかった。

 

「二人ともがんばれ〜!」

 

 早くも声援を送るファル子。口に手を当て、今にも立ち上がらんばかりの勢いだ。

 東京レース場の芝二千メートルに第一コーナーはなく、スタートしてすぐに迎えるのは緩やかな第二コーナー。

 

『二番メイショウドトウ、スタート直後の混戦を抜けて先頭をいきます! その後ろには五番ニュウナイスズメ、四番ムギマキ、七番スペシャルウィークと続きます』

 

 意外にも、先頭に立ったのは垂れ耳の少女だった。

 

「ドトウの得意な脚質って先行だったよな?」

 

「うん、そのはずだよ」

 

 逃げのウマ娘がいないのか、それとも出遅れてしまった娘がそうだったのか。先行のメイショウドトウが早々にトップに躍り出るという展開。

 

(焦ったり気負ったりしなければいいが…)

 

 ファル子の走りを見ているから分かるが、先頭を走るというのは存外難しい。指標となる相手が見えないからだ。いつものペースで走っているつもりでも、自覚しないまま掛かってしまうことも珍しくない。

 先頭集団は第二コーナーを抜け、バックストレッチを突き進んでいく。

 

『二番メイショウドトウ、ぐんぐんとスピードに乗ります! 五番ニュウナイスズメと四番ムギマキとの差はどんどん広がり…おっと、七番スペシャルウィーク、ここで二人を抜いた!』

 

 ペースを上げたメイショウドトウにスペシャルウィークが食らいついていく。

 最初、メイショウドトウが掛かってしまっているのかと思ったが、そうではない。おそらくあれが彼女の普段のペース。ついていけるのはどうやらスペシャルウィークだけ。

 元々のレベルが違ったのだ。あの二人だけが、出走者たちの中で頭一つ飛び抜けている。あるいは…。

 

(ライバルの存在がそうさせているのかもな…)

 

 親友でもあり、そして今はライバルでもある二人。それは二人のトレーナーが好敵手同士だからではない。トゥインクル・シリーズという同じ道を進みつつも、尊敬し合うかけがえのない存在だからだ。

 誰にも負けない闘志がお互いの胸の中で今、めらめらと燃え盛っているのだろう。

 

『間もなく第三コーナー。七番スペシャルウィーク、先頭との差は現在三バ身。依然この位置ですが、展開を窺っているのでしょうか』

 

 既に三番手はスペシャルウィークから五バ身以上離れている。トップはこの二人のどちらかで間違いないだろう。

 

「スペちゃんはやっぱり差し狙いだね」

 

「そうだな。だとするとレースが動くのは大ケヤキを越えた辺りか…」

 

 第三コーナーの内側に鎮座する大ケヤキ。この付近はレースの局面が変わるターニングポイントとして知られている。

 東京レース場に限った話ではないが、ホームストレッチに至るまでのコーナーは随一の勝負の仕掛けどころだ。

 

『二番メイショウドトウ、悠然と先頭をひた走ります! 大ケヤキを抜け、七番スペシャルウィークとの差は変わらず…いや、少しずつ差が縮まっていきます!』

 

 まさにそれを目印にしていたように、加速を始めた焦茶色の髪の少女。

 そのままの流れで第四コーナーへと突入し、ゆっくりと、それでいて確実にその差は埋まっていく。

 

「ドトウちゃん逃げてっ! スペちゃん負けないでっ!」

 

 どちらも応援しようと声を張り上げる担当ウマ娘。居ても立っても居られず、立ち上がってしまっている。つられて俺も足に力を込める。

 徐々に強まっていく歓声。それはレースが終盤に近づいている証。

 

『第四コーナーを抜けて、残すは約五百メートルのホームストレッチ! 差は一バ身! もう真後ろに来ているぞ!』

 

 この位置からではほぼ横並びにさえ見える二人。

 差はわずかに一バ身。時間にして約0.2秒。それは時に容易く、時に分厚い、明暗を分ける圧倒的且つ決定的な差。

 前半飛ばした分、このまま追いつかれてしまうのではないかと思われたメイショウドトウだったが、それ以上差を縮めさせることは許さなかった。

 加速して追い抜きを試みるスペシャルウィーク。しかし、終盤の加速力はメイショウドトウも引けを取らない。

 同じ速度と差を保ったまま、残されたホームストレッチの距離は半分。

 風を切り裂き、雨をはねのけ、歯を食いしばり、大きく手と尻尾を振って突き進む二人。

 

『メイショウドトウが逃げ切るか! それともスペシャルウィークが差し切るか! 残り二百メートル!』

 

 目が離せない熱い展開に、気がつけば観客は総立ちになり、一様に声援を送っていた。

 

「二人ともがんばって〜!! もう少しだよ〜!!」

 

 そこにファル子の朗らかな叫び声も加わり、会場全体を揺らす大歓声へと姿を変える。

 会場のボルテージが、目の前で全力疾走するウマ娘たちのように目にも留まらぬ速さで上がっていく。この瞬間はいつどんな時もたまらなく興奮する。

 

『スペシャルウィーク上がってきた!』

 

 残り百メートルを切ったところで、スペシャルウィークがさらに加速をかけた。

 少しずつ詰まるその差。四分の三バ身、二分の一バ身、そして…。

 

「いっけ〜!!」

 

 それはラスト六秒の出来事。二人は横並びでゴール板を駆け抜けていた。

 

『ほぼ同時にゴールイン! 一着はメイショウドトウか! それともスペシャルウィークか!』

 

 歓声が飛び交ってはいるが、そのどよめきは歓喜に沸くそれではなく、はっきりとしない結果への戸惑いによるものだった。

 それを具現化したように、ファル子の表情にも困惑の色が浮かんでいる。

 

「どっちが一着か分かった?」

 

「いや…ほとんど同じに見えた。写真判定じゃないと分からないだろうな」

 

 掲示板には三着以下の番号、そして勝ち時計が表示されているが、一着と二着は空白のままだ。

 ゴールを走り抜けた二人はといえば、きょろきょろと辺りを見渡しながら第一コーナーを駆けていた。どっちが勝ったのか、もちろん本人たちも分からない。

 ざわざわと落ち着かないのは会場全体の空気。実況も現在写真判定が行われていると伝えて以降、続報がない。

 いつしか一周し終えた後輩二人はコース上、掲示板の目の前でその瞬間を待っていた。小雨に濡れた体を震わせながら、片方は祈るように手を合わせ、もう片方は両手で顔を覆って。

 ゴールしてから、既に分針は自身のコースの四分の一を駆け抜けていた。それでもなお、掲示板に『確定』の二文字はまだ現れない。

 そわそわともどかしげに尻尾を揺らしながら、痺れを切らしたのはファル子だった。

 

「あ〜もうっ! じれったいよ。まだ分からないのかな」

 

「確かに時間がかかり過ぎだな。いや、でもこれはひょっとすると…」

 

 希望にも似た光明を心の奥に見出した瞬間、場内アナウンスの声が響き渡った。

 

『お待たせいたしました。第三レースの結果をお知らせいたします』

 

 そうアナウンスされるやいなや、水を打ったように静まり返る会場。誰もが固唾を呑み、そして息を呑み、次に発せられるであろう声に耳を傾ける。

 

『目視による判定が困難だったことから、厳正に写真判定を行いました。その結果、決勝線通過時に差は確認できず、ゴールは同じタイミングであったと判断いたしました』

 

 色めき立つ観客席。それが意味するところはただ一つ。

 

『したがいまして、二番メイショウドトウ選手と、七番スペシャルウィーク選手を、同着の一着といたします』

 

 それは滅多に起こらない事態。

 アナウンス終了と同時に、掲示板の二着表記である『Ⅱ』が『Ⅰ』に変わり、二つの『Ⅰ』の隣にはそれぞれ『2』と『7』が、差を示す箇所には『同着』と表示される。加えて『確定』の二文字も間違いなく灯っている。

 発表に身構えていた観客たちは、一瞬何が起こったのか理解できなかったようにざわついていた。

 しかし、掲示板に燦然と輝く二つの『Ⅰ』と『同着』の意味を理解するや、徐々に声を飛び交わせ、いつしか静かなる歓声へと変転させる。こんな展開は初めて見た。

 まだ状況を飲み込めていないのか、ファル子は未だに目をぱちくりさせている。

 

「同着の一着って…二人とも勝ったってこと…?」

 

「ああ、そうだ」

 

「それって、二人ともステップアップできたってことだよね…!?」

 

「もちろん」

 

 頷いた途端、金色の瞳を輝かせて「やった〜☆」と大歓声を上げるファル子。まるで自分のことのように、両手を高々と上げて喜びを爆発させていた。

 どちらかが負けなくてはいけないと思っていたレース。それが何百回、何千回のレースに一回しか起こらない同着という結末によって最高の結果となったのだ。

 もしかしたら、二人の仲を取り持とうと奮戦したファル子を、三女神様が祝福してくれたのかもしれない。

 コース上には、掲示板の真ん前で手を取り合って喜ぶ二人。ここからでも分かるほどに眩しい笑顔を浮かべている。

 遠く離れたここへ声なんて届かないはずなのに、嬉しさにあふれた言葉の応酬が聞こえてくるようだった。

 そんな二人を潤んだ目で見つめながら、ファル子はひっそりと頬を緩めていた。

 

「良かった…本当に良かったよ」

 

 次いで、両の拳を握りしめたかと思うと、一段と力強く言い放った。

 

「よ〜し! 次はファル子の番☆ 頑張らなくっちゃ!」

 

「ああ、二人に負けてられないな」

 

「うんっ! ファル子も勝っちゃうんだから☆」

 

 にこやかに微笑むと、彼女は唐突に横一面に広がる観客席を見やった。

 

「ミサキちゃんもどこかで見てくれてるのかな?」

 

 昨日、ミサキちゃんは母親と見に来ると言っていた。

 もちろん、この広大な観客席から見つけ出すのは容易ではない。しかし、これだけは確信があった。

 

「きっと見てるはずさ」

 

 ミサキちゃんは必ず来てくれている。なぜなら、あの子はファル子のファン第一号だから。

 

(ファン第零号よりもよっぽど凄いんだからな…)

 

 以前からファル子を慕っていたあの子こそ、真のファンだと思う。担当トレーナーといえど、ミサキちゃんにはとても頭が上がらない。

 

「トレーナーさん! 今度は控室だよ!」

 

 思いがけない言葉と共に、がしっと掴まれる腕。今日三回目となるそれは、意外にも癖になりそうな感覚を俺にもたらすのだった。




お疲れ様でした。
ファル子ちゃんに手を引かれたい…(願望)。
しれっと出てきたモブウマ娘の名前はもちろん野鳥です。
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