君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆── 作:キビタキ
弱々しい水滴が空から舞い落ちている。微妙ともいえるその空模様は、雨男でなくても傘を用意せずにはいられないだろう。
ただ、それを使うかどうかは別の話。パドックを囲う観客たちも、傘をさす人は半々、まばらである。
愛用の青いそれも、今はお役御免と畳まれた状態で握られていた。
第五レースに臨む九人のウマ娘たちが、バスケットコート二つ分ほどのパドックをぐるりと周回しながら、ありのままの姿を見せつけている。
笑い顔、真面目な顔、堅苦しい顔、張り詰めた顔。様々な思いをにじませて形作られる色んな表情。
その中で、最も明るさを放っているのは、間違いなくファル子だった。
毎日のように見る眩しすぎる笑顔。それと全く同じものを臆することなく振りまいて、本当に楽しそうに歩いている。いや、よく見ると上機嫌にスキップを刻んですらいた。
ウマ番が一番の彼女は、もちろん先頭を切っての登場だった。後ろを歩く娘のことを気にかける様子もなく、一人ウマドル道を突き進んでいる。最前列で見守るこちらへウィンクする余裕さえ見せつつ、さながらファッションショーのように堂々と振る舞っていた。
ふと、最後尾のウマ娘の姿が目に留まる。そこにいるのは、しとやかな雰囲気をまとう少女、メジロアルダン。
透き通った晴天をそのまま編んだような美しい水色の髪。雅やかな微笑みを浮かべて、小さく手を振る姿はまさに三女神様が遣わした清純な天使のよう…。
(おっと、まずいまずい…)
すかさず視線を逸らし、何食わぬ顔をする。ファル子がいる場所で彼女に見惚れるのはご法度だ。
一昨日、ダートトラックでトレーニングしていた時、メジロアルダンに目を奪われていたことをファル子に厳しく追及されていた。
「トレーナーさん、今日こそはファル子だけ見ててよね。パドックもレースも全部だよ☆」
それはいつもと変わらないにこやかな顔と口調だった。しかし、真顔よりも笑顔の方がより怖さを強調させる効果がある。
「今度目移りしたら、承知しないぞ☆」
たづなさんが時折見せる笑顔の裏に隠された威圧感のようなものを、この時のファル子からも確かに感じていた。
その戒めを破ったら一体どうなってしまうのだろう。好奇心と恐怖心を天秤の上に乗せると、地面を突き抜けんばかりの勢いで後者が下方へと傾いていた。
すぐ目の前をメジロアルダンが通過しようとする。慌てて遥か先を行くファル子へと視線を向ける。
水色の髪の少女がその時どんな表情をしていたか、ついぞ見ることはできなかった。
出走者たちの周回が終わり、次はパドック中央にそびえるスタンドでの顔見せが始まる。
ワインレッドの幕で仕切られた半円の出入口。頂点にはトゥインクル・シリーズのロゴマークがどでかく掲げられている。
スタンドにはグリーンカーペットが敷かれ、ワインレッドとの昂然たる対比が、より一層荘厳さを演出していた。
『一番、スマートファルコン』
その声を導に、ワインレッドの幕の奥からウマ娘が元気よく飛び出してくる。
つややかな栗色の髪を結ったツインテールをふわふわと揺らし、高架下ライブの時と何ら変わらないテンションで両手を振る。
着衣がほぼ白色に統一されたその姿は、ダートリレーで競い合ったメジロアルダンのチームカラーをどことなく彷彿とさせた。
学院以外でこんなにも大勢の人を前にするのは、きっとこれが初めてだろう。それなのに、一切怖気立つこともなく、むしろ楽しんですらいる。あたかも、ここが本来の居場所のように生き生きとしていた。
パドックでの発声は禁止されてはいない。ただ、観客との距離がかなりあるため、よほど声を張らなければ伝わらない。
しかし、そこは普段から発声練習を繰り返しているであろうファル子。大きく酸素を吸い込んだ肺から、胆力にあふれた声を解き放ってみせる。
「トップ目指して華麗にデビュー! スマートファルコンです☆」
壇上で声を出すということ自体珍しい中、ファル子のアピールは間違いなく観客の目を引いた。
「元気がいいね、あの娘」、「すっげぇ可愛いじゃん」、そんな言葉がまばらな傘の隙間からこぼれる。
高感度の耳でそれを聞き取ったのか、より一層得意げな表情で去り際にポーズを取る彼女。それはもちろん、両手をハートの形に合わせてウィンクをする、お得意の決めポーズ。
パドック中の視線を集めて、彼女はワインレッドの幕の奥へと消えていった。
(あれなら大丈夫そうだな…)
いつも通りの姿に安堵する。
もちろん、あのファル子があがってしまうとは微塵も思っていない。ただ、本番の雰囲気は実際に体験してみないと分からない。もしかしたら、あの彼女でさえ平静さを失うことが…。
(あるわけないよな…)
すぐにその結論に至った。
おそらく今感じている不安は彼女に対してではなく、自らの心がそわそわと落ち着かないから。
多分、いや、間違いなく彼女よりも俺の方が緊張している。考えてみればおかしな話だ。トレーナーはあくまで影の存在。表に立ってその姿をさらけ出し、必死に走り抜けるのはファル子本人なのに。
ウマ番に沿って行われていくスタンドでの顔見せ。気がつけば最後の出走者が姿を見せていた。
『9』のゼッケンに桃色の短パン。その色はファル子がダートリレーで繋いだバトンと同じで、まるで二人はお互いのチームカラーを交換したかのようだった。
白の膝下ソックスの上には健康的な肌色がふんだんに露出していて、その見るからに強靭な大腿は足の弱さとは無縁に思えた。
ファル子は別にして、他の娘が手を振ったり会釈したりといった無難なアピールに終始する中、メジロアルダンもご多分に漏れず頭を下げ一礼する。
他の娘と明らかに違ったのは、その所作からあふれ出す優美さだ。決して派手ではないものの、一挙手一投足が洗練されていて、誰よりも楚々たる雰囲気をまとっている。
あのメジロ家ということもあり、元々注目度が高かったこともその印象付けに拍車をかける。
「やべっ、めっちゃ綺麗」、「さすがお嬢様って感じ」、称賛の声が至るところから聞こえてくる。
極めつけがあの微笑みだ。ファル子の持つ明るさと眩しさに満ち満ちた笑顔も魅力的だが、メジロアルダンのそれは全くの別物。見る者を思わず釘付けにしてしまうほどの妖艶さと婉麗さを兼ね備えている。
とはいえ、そんな彼女も初のパドックで張り詰めている様子。柳眉を八の字にして、今まさに緊張の色を帯びつつ浮かべた微笑。その初々しい姿はあまりにもいじらしく、こちらの庇護欲を容赦なくかき立ててくる。
(これはずるいな…)
戒めを忘れさせるほどの破壊力。いや、これは見惚れているわけではなく、敵情視察なのだ。
そう決め込んで、まじまじと彼女の微笑みを見つめていた。
やがて、本物のファッションモデルのように優雅な動きで反転し、綺麗な歩き方で幕の奥へと消えていくメジロアルダン。アクアマリンのような美しいロングヘアをさらさらとなびかせて…。
「…って、のんびりしてる場合じゃないや」
彼女の姿が完全に消えるや、それは思わず口をついて出ていた。
恍惚感に浸っている場合ではない。パドックでの顔見せを終えた出走者たちは、地下バ道を通って本バ場へと向かうのだ。
担当ウマ娘と合流すべく、観客をかき分けて急ぎ足で駆け出した。
普段は近づくことすらない、レース場スタッフ専用のひっそりとした出入口。トレーナー証を提示し、関係者のみ立ち入りが許されるそのエリアへと足を踏み入れる。
鍾乳洞のようにひんやりと湿った空気が漂うそこは、もちろん人生で初めての場所。一見トンネルのようだが、照明がこれでもかというほど焚かれているため閉塞感はほとんどない。案内標識も設置されていて、一本道ではなく枝分かれしているところもあるようだ。
パドックのある方角に目をやると、見覚えのある少女が歩んでくるのが見えた。
軽やかな足取りでこちらへと駆けてくる。声をかけられるのかと思いきや、出し抜けに明後日の方向へ手を振るファル子。笑顔の先にはガラス張りの壁。
そう、そこはウマ娘プレビューと呼ばれる、地下バ道をいく出走者をガラス越しに見られるポイントだった。ウマ娘たちの裏側を一部ではあるが見られるということで、ファンに人気のエリアである。
ガラスの向こうには無数のファンの姿。ファル子につられて手を振り返している人もいる。
いつもならあちら側にいるわけだから、逆から見るこの光景はとかく新鮮だった。
ファンとのほんの一時の交流を終え、彼女は見るからにルンルン気分で歩み寄る。パドックにいた間に濡れたであろう髪が、明る過ぎるほどの照明を反射してきらきらと光沢を放っている。
「えへ☆ パドックのファル子、どうだった?」
それはまさに自信にあふれた顔。「凄いでしょ?」と言わんばかりに頬の端を吊り上げている。
トンネルのような地下バ道では、発せられた声は例外なく跳ね返って残響する。
「ああ、凄く良かったぞ」
初めてのパドックであれだけのアピールを堂々とやってのけるというのは、なかなかできることではない。もし時間に追われていなければ、もっと丁寧に褒めてあげたいくらいだ。
ファル子の後ろから続々と出走者がやって来る。足を止めずに本バ場へと向かわなければならず、もたついている暇はない。
ウマ娘プレビューを後にして奥へと進んでいく。この長い通路の先に夢にまで見たコースがあると思うと、自然と胸も高鳴っていく。
「ファル子何番人気になるかなぁ?」
そんな俺の高揚感をよそに、彼女は人差し指を頬に当てて真剣に考え込んでいた。
「見た感じ、一番元気が良かったのはファル子だったな。周りのお客さんも『可愛い』って言ってたし」
「でしょでしょ〜♪ ファル子の可愛さはピュア系だから、皆から好かれちゃうの☆ 特に男の人は"いちころ"なんだから☆」
ウィンクを決めながら得意げにそう語る彼女。それが本気なのか冗談なのかかはともかく、パドックの反応に手応えがあったことは確かだ。
「二番以内に入るのは間違いないだろうな」
何気なしにそう言うと、彼女のまとう空気が一変した。
「スタンドのアピール全部見たの?」
落ち着いた声を響かせるファル子。上がっていたはずの口角はいつの間にか下がり、真顔に近い表情へと変わっていた。
「まぁ、一応な」
嘘はつけなかった。その研ぎ澄まされた鋭い視線は、偽りを簡単に見破ってしまうように思えたからだ。
「アルダンちゃんも見たってことだよね」
「もちろん…ファル子の良さを再確認するためにな」
これも嘘ではない。全てをきちんと確認してこそ、その良さが分かるというものだ。
取調室の警官のようにファル子の尋問は続く。
「ふ〜ん、それで二番以内っていうのは、一番がアルダンちゃんになるかもしれないってこと?」
「そうだな…アルダンはメジロ家だし、その可能性は十分あると思う」
「…確かにアルダンちゃんはメジロ家のお嬢様だし、とっても綺麗だもんね」
そっぽを向くとまではいかないが、どこか不機嫌そうに目を合わせようとしない彼女。
続き、毛づやの良い尻尾を勢い任せに振り上げたかと思うと、ぷくっと頬を膨らませる。
「トレーナーさんって正直過ぎだよね。そこはお世辞でもいいから『ファル子が一番だよ』って言うところだよ」
いつもの冗談めかした口調ではなく、それは割と本気で機嫌を損ねた時の振る舞いだった。
途端に剣呑な雰囲気が立ち込める。
「…そうだよな。気が利かなくてごめんな」
何とかなだめようと頭を下げる。こうなると下手に回ることしかできない。
「ファル子だけを見ててねって言ったのに…どうせアルダンちゃんに目移りしてたんでしょ」
「そんなことはないさ」
「ううん、絶対そうだよ。仕方ないよね。あんなにおしとやかで綺麗なんだから」
「だから違って」
他人からすれば痴話喧嘩にも聞こえる会話が、地下バ道を恥ずかしげもなくこだまする。
最後尾のメジロアルダンには届いていないだろうが、ここでする話題としてはさすがに相応しくない。
しかも、出口の光はまだまだ遠い。
重賞競走の放送では、よくここにテレビカメラが控えていてお馴染みの地下バ道を進む場面が映し出される。幸いにも、ただのメイクデビューの一戦にそこまでは用意されていないようだが。
その代わりか、記者と思しき人たちがスマホやペンを片手に、出走者たちを遠巻きに追いかけている。
「あんまり変なこと言ってると記事にされるぞ」
思わず声のトーンを低くしてそう伝える。たとえ小声でしゃべっても聞き取られてしまいそうなくらい、ここは音の逃げ場がない。
「だって大事なことだもん。本番前にファン第零号に目移りされたら、私だって怒りたくもなるよ」
「だから…」
否定しようとしたが、余計にこじれてしまいそうで言葉が出なかった。目移りとまではいかないが、メジロアルダンに見惚れたことは紛れもない事実。何のやましさも感じず、胸を張って否定できないことも確かだったからだ。
きっと彼女は"女の勘"で見抜いているのだ。俺が水色の髪の少女に、よりにもよってレース前に心惹かれたことを。
屈服して黙した方がいい。この状況ではそれが最善に思われた。
「ごめん…もう二度としない」
浮気を追及され観念した彼氏と何ら変わらないそれを、周りに聞き取られない程度にぽつりつぶやく。
「本当に?」
「ああ」
「三女神様に誓って?」
「誓うよ」
レースを直前に控えているとは到底思えない言葉が飛び交う。
俺の誓いを最後に、会話はぷつりと途切れてしまった。彼女は黙り込んだまま、怪訝の光をその金色の瞳にたたえている。こちらを決して見ようとせず、張り詰めたように耳をぴんと伸ばし、明らかに向かっ腹を立てていた。
(やらかしてしまったな…)
本来であれば出走前の緊張感に満たされているはずの時間で、まさかの喧嘩である。多分、彼女もこんなことをしている場合ではないと内心では思っているはずなのに。
しかし、なぜだろう。得てして些細なすれ違いや衝突は、大事な時にふとしたきっかけで起きてしまう。
それが起こること自体は決して悪くないことだと思う。喧嘩は相手のことをよく知り、もっと仲良くなるきっかけにもなるからだ。ただ、今回はタイミングが最悪だった。元はと言えば、自身の不注意から起きたことではあるが…。
だが、正直に言えばファル子にそこまで束縛されるのもおかしな話だとは思っている。俺だって他の娘が気になることはある。それはファル子に飽きたからとかではなく、トレーナーとして、ごくごく自然なことのはずだ。
(…って、口が裂けても言えないけど…)
本音を口にしたところで、それでもファル子は私だけを見てと言うだろう。
よくよく考えてみれば、彼女は他のトレーナーに目を奪われることはない。俺の考えたトレーニングに文句一つ言わず取り組んでくれるし、困ったことがあれば俺に頼ってくれる。
そう、いつだって俺だけを信じてくれているのに…。
(何やってんだろ、俺…)
そう思うと、急に申し訳なさが込み上げてきてしまった。
鳥林さんが以前言った、「トレーナーは担当ウマ娘の最初のファンであれ」という言葉が思い出される。今日の行いが、その言葉に、そしてファン第零号として相応しかったか自問自答する。
気がつけば、遠いと思っていた出口の光がすぐそこまで来ていた。この坂を登れば本バ場が広がっているという。トレーナーが付き添えるのはここまでだ。つまり、担当ウマ娘の力になってあげられる最後の瞬間でもあった。
「…ファル子は俺の中でいつだって一番人気だから」
そう言って坂の直前で立ち止まる俺。しかし、彼女は歩みを止めなかった。
まだ見ぬ憧れの空間へと一歩ずつ進んでいくファル子。人生で一度きりのそれを、晴れ晴れとした気持ちで迎えさせることができなかったことに、ただただほぞを噛むしかなかった。
「ファル子のこと!! ずっと追いかけるからな!!」
せめてそのことだけは伝えたい。力の限り決意を叫んだ。
すると、しゅんと垂れていた尻尾が元気を取り戻したように跳ね上がり、彼女はゆっくりと振り返った。そこには穏やかな表情があった。
一拍のしじまの後、彼女はにこっと微笑んでみせた。今まで一緒に過ごしてきたからこそ分かる、決して作り物ではない本物の笑顔。出口から差し込む逆光に照らされて、それはまるで純白の天使のように…。
長くは続かなかった至福の時。見えない翼をはためかせ、彼女は晴れ舞台へと消えていった。
後続のウマ娘たちも次々と眩い本バ場へと繰り出していく。その最後尾に水色の髪の少女がいたが、視界に入りこそすれ、一切目もくれなかった。
「どうしたの? 嬉しそうな顔して」
不意に真横から声をかけられる。そこにはメジロアルダンのトレーナー、三砂さんの姿があった。
「そんな顔してた?」
思わず聞き返してしまう。
「そうだね、まるで誰かと仲直りできて安心したって顔だよ。もしかしてファルコンさんと喧嘩でもしてた?」
「まぁ…ちょっとな」
「ふ〜ん、意外だね。聞き取れはしなかったけど、前の方がやたら騒がしかったのはやっぱりお二人さんの仕業だったんだね。まぁ、私には関係ないけど」
まさにどうでもよさそうな態度で、三砂さんは烏羽色の髪をかき上げていた。
彼女の耳にも届いたということは、多分色んな人に聞かれていただろう。それも、ウマ娘の耳なら容易くだ。もしかしたら、最後尾にいたであろうメジロアルダンにも…。
正直顔から火が出る思いがしたが、今さらどうしようもない。
何とか恥ずかしさを忘れようと、聞きたいと思っていたことをとっさに口にした。
「ファル子とメジロアルダンが仲直りしたってのは知ってる?」
「一応知ってる」
「それは良かった」と心の中だけでつぶやいて、さらに質問を続けた。
「アルダンから話してくれたのか?」
「そうだね。それがあの娘の望んだことだから私はもう何も言わないけど」
「自分からは聞かなかったんだな」
「あの娘が話したがらないことを無理に聞いてもね」
物憂げな表情のまま淡々と答える彼女。
やはり受けの姿勢は変わっていないらしい。その方が彼女らしくもあるが。
「今日のレース、お手柔らかにな」
「お手柔らかにって…それはこっちの台詞だよ。だいたい走るのは私じゃないし」
眉一つ動かさず、三砂さんはすげなく言い放った。続けて、呆れたように肩をすくめてみせる。
「普通にやり合ったら余裕でファルコンさんの勝ちでしょ」
「思ってるほどこっちに余裕はないよ。ここのダート千六百メートルには"あれ"があるからな…」
「"あれ"…?」
物憂げな顔が当惑したそれへと瞬時に変わる。"あれ"の意味が伝わるよう、その正体をほのめかす。
「ああ、他の距離には無い、ここの千六百メートルにだけある"あれ"だよ」
「…なるほど、"あれ"ね…」
合点がいったのか。難しい顔がほんの少しだけ綻んだように見えた。
「確かに、ファルコンさんには厳しいかもね、"あれ"」
「それもスタート直後だからな。逃げにははっきり言って厳しい」
「でも対策は練ってるんでしょ?」
「ファル子の足でそんなものは練りようも無いさ。本人にも頑張るしかないぞって伝えてる。もどかしいけどな」
出口の光を見つめながら発したその声が、空しく地下バ道に響く。
トレーナーとして、そのことは誰よりも分かっているつもりだった。
「ふ〜ん、こっちの負けかと思ってたけど、案外面白いレースになるかもね」
「ははは、その意気だ」
「…どういうこと?」
「アルダンを信じてあげるんだ。絶対勝てるって」
虚を衝かれたように目を見開く彼女。しかしそれは一瞬だけで、すぐさま訝しげに眉をひそめる。
「それ、ファルコンさんに聞かれたらまた喧嘩になるんじゃない?」
まさか彼女に心配されるとは思ってもおらず、内心面食らった。
「かもな…でも俺はそれ以上にファル子を信じてる。"あれ"だって乗り越えてきっと勝つんだって」
「一途ね」
「三砂さんほどじゃないさ」
「褒めても何も出ないよ」
とつとつと繋がる言葉のラリー。それはところどころ対抗心の見え隠れする、掴みどころのないやり取り。そんな彼女との会話は、本音を打ち明けられる分、どこか心地良くさえあった。
思いがけず訪れた静寂。それがまるでチャンスボールのように見えて、ここぞとばかりにスマッシュを放つ。
「せっかくだし、一緒に観戦するか?」
「…遠慮しとく」
かつて付き合っていた彼女へと話しかけるように放ったそれは、ひらりとかわされた上にアウトラインの外側に落ちてゲームセット。
三砂さんはやはり歯牙にもかけなかった。ただ、即答ではなかったところに、ほんの少しだけ距離が縮まったことを感じていた。
「変なこと言ってないで、さっさと見に行ってあげたら? ファルコンさん、待ってるんでしょ」
「ああ、そうするよ」
そう言って踵を返す。振り向きざま、静かにこう伝えた。
「…勝っても負けても、恨みっこなしでよろしくな」
「心配しないで。あの娘からちゃんと聞いてるよ。私も端からそのつもりだから」
「ありがとう」
柄にもなくにこりと笑い、グーサインをする。それを見た彼女は、鼻を鳴らしながら烏羽色の髪をぷいっと揺らしていた。
その姿に微笑ましさを感じつつ、光を背に受けて走り出す。
(絶対に勝つって信じてるからな…)
長い長い地下バ道に、俺の駆ける音だけが力強く響き渡っていた。
お疲れ様でした。
パドックでのメジロアルダンの描写に力を入れました(作者が目移り)。
実際の競馬場に行ったことがなく、調べながら書いているので多少変なところがあってもご容赦ください。