君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆── 作:キビタキ
空一面が橙色に染まる頃。うっすらと伸びた雲の中へ、そっと身を隠していく夕日。
鳥林さんの隆々とした声が飛ぶ。
「よし、皆お疲れ様! 他の状況を確認してくるから、それまでの間休憩しておいてくれ!」
最後のイベント用テントを組み立て終わり、班員は一様にため息をつく。作業としては単純で、ひたすらそれを組み立てたり、必要な物を運搬していくだけだったのだが、その数が半端ではなかった。
使用用途としては、雨や直射日光を避けるための機材置き場。実況やカメラマン、記者などのメディア関係者用のスペース。各テスト及びレースの受付及び進行管理の拠点。来場者の休憩所やグッズ販売など多岐にわたり、一部は今月下旬に行われる春のファン感謝祭に転用されるそうだ。
さっき運んだダンボールの中には、昨年の有馬記念覇者のグッズが入っていたらしい。おそらくキーホルダーやプリントタオルなどだろう。
もちろん、グッズ化されるのは重賞競走、それもG1クラスで活躍するスターウマ娘たちがほとんどで、聞いた話では、彼女たちは自らのグッズをプロデュースできるそうだ。
トレセン学院限定のグッズもあるらしく、それ目当てで訪れるファンも多い。
つまり、それが意味するところは、この広大な学院の至るところに販売用スペースを配置しなくてはならず、そのための物の運搬に最も苦労したということである。
こういう力仕事が必要な時、ウマ娘だったら軽々とやってのけるのだろうなと思う。
「トレーナーの中にウマ娘がいてくれたら心強いんですけどね」
近くにいた桐生院さんにそう話しかけていた。彼女は額の汗を腕で拭っていた。
「確かにそうですね。でも、ウマ娘のトレーナーは私も見たことないです」
「トレーナーは人間がやるのが慣習になってますからね…」
遠くに目をやると、そこには坂路を駆け上がるジャージ姿のウマ娘たち。トレーニングに励む声が、環境音のように耳に流れ込んでくる。
ふと、普段から抱いている疑問が、ひとりでに口をついていた。
「でも、よく考えてみると不思議じゃないですか? たとえそれが昔からの慣習だとしても、同じウマ娘の方が彼女たちのことをより分かってあげられそうなのに…」
ウマ娘自身がトレーナー且つレースの経験者であれば、人間よりも彼女たちの心に寄り添えそうな気がするが、トレーナーを目指すウマ娘というのはほとんどいないのが現状だ。
実際、ウマ娘がトレーナーとして大成した話を聞いたことがない。決してルールとしてウマ娘がトレーナーになれないわけではないのだが、連綿と続く習慣や風潮として、人間がトレーナーをする向きがあるのは事実だろう。
通常、プロスポーツの世界において、監督やコーチなどといった指導者はその競技の経験者であることが常だ。
しかし、ウマ娘たちを指導するトレーナーは、そのほとんどがいわゆるヒト族と呼ばれる普通の人間である。もちろん、彼らに実際にレース場で競走した経験は無いし、そもそも出走資格もない。
それなのに人間がトレーナーを務めるのは、古来より人間とウマ娘の間に生まれる絆が不思議な力を持つと信じられているからだそうだ。
科学の発展した現代において、その不思議な力というものが科学的に立証できるものなのか、それとも単なる迷信であるのか…。
「私も疑問には感じています。人間とウマ娘の絆が不思議な力を生み出すからとは聞きましたが…」
あごに手を当て真剣に考え込む様子に、変なことを聞いてしまったかもしれないと少し後悔した。
「いえ、ちょっと疑問に思っただけですよ。ただ、代々トレーナーをされている桐生院さんなら、何か知っているかなと思って…」
「トレーナーとしての心得や技術は色々教わってきましたが、人間でなければならない理由は聞いたことないですね。私の一族の生まれであれば、おそらく性別や種族は関係なく、トレーナーの技を受け継がせるとは思います」
「そういえば…ご兄弟はいるんですか?」
彼女の瞳が、不意に儚げに揺れる。
「実は私、一人っ子なんです。だから否も応もないですよね。昔は兄弟がいたらしいんですけど…」
「あっ…その、すみません…」
また余計なことを聞いてしまったと、今度こそ本気で後悔した。
「あっ、気にしないでください…! 私が生まれる前のことらしいので…」
いつの間にかかくれんぼを終えていた夕日。彼女はそれを遮るように手を目の辺りにやる。
「それに、トレーナーが嫌だなんて少しも思ってませんよ。私、自分がトレーナーであることに誇りを持ってますから」
それは今までの姿を見たらよく分かる。彼女のトレーナーに懸ける熱意は、掛け値なしの本物だ。
ほんのわずかなしじま。
移り気な夕日がまたかくれんぼを始めると、微風が彼女の紺色の髪を揺らす。
「…さっきの話の答えですけど、種族を超えた信頼関係が尊ばれたからではないでしょうか」
「種族を超えた信頼関係?」
「はい…一見すると異なる種族が、その垣根を超えて紡ぐ信頼関係。その尊さというか…気高さみたいなものを、先人たちは不思議な力と表現したのかもしれません」
桐生院さんの言う通りかもしれない。信頼関係の大事さは、いつの時代であっても尊く、そして不変のはずだ。
その時、鳥林さんの掛け声が唐突に響き渡った。
「おーい! 集合!」
それが聞こえるや否や、二人一緒に声の下へと急いだ。
班員が全員揃ったのを確認すると、班長は現在の状況を事細かに説明した。それによると、まだ終わっていない作業があるらしく、これからその応援に向かうらしい。
「もうすぐ五時だ。六時までの一時間を休憩時間とする。その間に夕食など済ませておくように。六時には体育館に集合すること、以上!」
まばらに解散する班員たち。これからどうしようかと考えがまとまらず、その場に留まっていた。桐生院さんも同じく居残っていた。
「まだまだかかりそうですね」
先に口を開いたのはこちらだった。彼女は相槌を打ちながらこっちへと向き直る。
「鳥林さんが仰っていたように、選抜レースは一大イベントですからね」
「もしかして、見たことあるんですか?」
「はい。観客として一度だけ。実際のレースとは違った迫力がありますよ。今度はトレーナーとして臨みます…明日ほど楽しみな日はありません」
再び真横から差し込み始めた光が、彼女の希望に満ちた瞳を明るく照らし出す。いかにも待ち遠しくてたまらないといった様子だ。
そこへ、不意ににじり寄る長い影。
「ご苦労様、初日から慌ただしくてすまないな」
鳥林さんがこちらへと歩み寄っていた。夕日を背景に伸びる影は、彼の身長を軽く凌駕している。
健康的な色黒の肌。雄々しい顔つき。長年トレーナーとして従事してきた証だろう。ジャージ越しでも、たくましい体躯であることがはっきりと分かる。
「例年なら朝早く準備に取り掛かって夕方頃には終わるんだが、今年は日程の都合上、入学式の翌日に選抜レースだ。だから猫の手…いや、新人の手も借りたいくらい忙しいわけだ。まぁそれを、君たちをまともに歓迎できない理由にしちゃいけないが…」
汗をフェイスタオルで拭いながら、深くため息をついている。
ただ、それはごく僅かな時間だった。
「桐生院、久しぶりだな。ご両親は元気にしてるか?」
フェイスタオルを首にかけ直しつつ、精悍な眼差しを彼女へ向けた。
「お久しぶりです。両親は海外で元気にやっています。相変わらず、梨のつぶてですが」
「だろうな。君たちの家系は、仕事に没頭すると他のことはまるで目に入らんからな」
「その…面目ありません…」
俯き加減の彼女を見て、「君が気落ちすることはないじゃないか」と、鳥林さんは笑い飛ばしてみせた。
彼女の言う通り、二人は旧知の仲のようだった。再会を果たした彼らを邪魔しないよう、じっと息を潜めた。
「鳥林さん、私よりも…」
彼女がそれとなく水を向ける。あろうことか、その視線は俺へと向けられていた。
必然、精悍な眼差しはこちらへと注がれる。
「そうか、君が…」
全身を撫で回すようにまじまじと見てくる。どうして話が振られたのか理解できず、おずおずと目を白黒させるしかなかった。
「あの…俺が何か?」
「いや、特に用事は無いんだ。ただ、秋川理事長の推し新人トレーナーを近くで見てみたいと思ってね」
「…?」
理解が追いつかず、何も答えることができなかった。普通に考えれば、今年の新人で最も有望なのは桐生院さんのはずだ。ぽっと出の俺が推される理由が、まるで見当もつかない。そもそも、何に対しての"推し"なのかもわからないが…。
「なに、別に深い意味はないさ」
俺の心境を悟ってか、トレーナー長は意地悪く微笑んでみせた。
「もう彼女から聞いたかもしれないが…これでも昔は専属トレーナーとしてばりばり腕を鳴らしたものだ。後輩の指導も私の仕事。分からないことや悩みはいつでも相談してくれて構わない」
「私も指導してくれるんですか?」
茶目っ気さを含んだ声で横槍が入る。彼女の顔は不敵に綻んでいた。
「君には一族秘伝のトレーナー白書があるだろう?」
「いえ、あれだけではまだまだ…私は鳥林さんからも技を盗む気でいますよ」
トレーナー長はあからさまに鼻を鳴らした。
「まさか、前線を退いてから、今度はご息女の相手をせねばならんとは…」
やれやれと肩をすくめてみせる姿を見て、桐生院さんはじっと含み笑いしていた。
「…さて、ご両名、時間があれば食堂で夕食でもどうだろうか」
唐突な提案に対し、彼女はすぐさま「ご一緒させてください」と前向きな返事をした。となれば、二人の関心はこちらの回答へと集まる。
お誘いは願ってもないことだったが、それを答える前に気になっていたことを尋ねた。
「えっと、すみません。今日の作業、何時頃までかかるか分かります?」
「そうだな…はっきりとは言えないが、多分九時は過ぎるだろうな」
その返答に、これからどうすべきか迷った。
昨日から寮に引っ越したのだが、いざ、始まってみると色々と足りてない物にも気づく。今日退勤してから、それら日用品の買い足しをするつもりでいたのだ。
しかし、この状況だと、仕事が終わる頃に商店街が開いているかもわからない。別に、閉まっていてもその場しのぎにコンビニで済ませてしまえばいいのだが…。
頭の中で様々な観点から思案した結果、この休憩時間に買い物を済ましておこうという結論が下った。明日こそまとまった時間が取れるとは到底思えなかったからだ。
食事はパンやおにぎりでも買って適当に済ませよう。
「お誘い頂いたのにすみません。ちょっと買い物を済ませたいので…食事はまたの機会に」
「ああ、構わないよ。また今度な」
その言葉に軽く一礼して、俺は足早に駆け出した。
断ってしまった申し訳なさみたいなものが、じとりと肌にまとわりつく。それを振り払うように、意識を走ることに集中させた。
トラックを抜け、食堂を抜け、満開の桜並木を抜け、たづなさんの見学案内の時のような駆け足で進む。トレーニングに励む娘、食事にありつく娘、友人と談笑する娘。放課後の生徒たちは、各々好きなように過ごしているようだ。近い未来、彼女たちの誰かが、同じ夢を目指すパートナーになるのだろうか。
そうして走り続けていると、三女神像の佇む中庭に差し掛かった。
思わず足を止めた。今朝とちっとも変わらない柔らかな表情。いや、むしろこの時間帯の方が、夕日に直接照らされて、より神秘的に見えるかもしれない。
ぐっと目を閉じて心の中で祈った。
(良い娘に巡り会えますように…)
傍から見たら、さぞや奇妙な光景に見えるだろうなと、気恥ずかしさを覚えていた。果たしてこの願いは届くだろうか。
ぱっと目を開けると、再び走り出して商店街へと急いだ。
お疲れ様です。
鳥林さんの名前の由来は、単純に筆者が鳥好きだからです。
次回、ようやくファル子ちゃんが登場します…!
2021/10/17:誤字修正