君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆──   作:キビタキ

55 / 56
【第11話】北の大地で ⑥違和感の逃亡者

『暫定ながら一番人気。九番、サイレンススズカ。前回の出走は宝塚記念で、三着という結果でした』

 

『宝塚記念では惜敗しましたが、調子自体は悪くないようですねぇ。今日のウイナーズサークルに最も近いのは、間違いなく彼女でしょう』

 

 実況と解説が落ち着きを払った声で語り合っている。

 テレビ画面に映し出されているのは札幌レース場のパドックの様子。体操服姿のサイレンススズカが、静やかな微笑みと共に小さく手を振り、さらりと伸びた朱色のロングヘアは、夏の日差しに照らされてあでやかな光を放っている。

 

「スズカちゃんって、パドックでも素敵だよねっ☆」

 

 担当ウマ娘が食い入るようにそれを見つめている。

 メインレースの出走者たちによる、ステージ登壇の真っ最中であった。

 

 観客席でスペシャルウィークたちと喜びを分かち合った後、控室へと戻ってきていた。

 一着で終えたファル子を心から祝い、褒め称え、そして労った。

 

「トレーナーさん、ちょっと褒め過ぎだよ…☆」

 

 彼女がそうはにかみ、顔を赤くしてしまうほどに称賛した。多分、ファル子以上に俺の方が喜んでいたと思う。

 それは、彼女の力が本物で、前回の勝利が決して偶然ではなかったことを改めて証明できたからだ。ウマ娘の勝利は、同時にトレーナーにとっても最高の瞬間であった。

 後はウイニングライブでセンターを飾り、晴れ晴れしく遠征を締めくくるだけ…と言いたいところだが、今日はそれだけではなかった。

 そう、サイレンススズカの札幌記念出走という大きな見どころがまだ残っていた。

 

「ファル子ちゃんってスズカちゃんの大ファンなんだねー!」

 

 担当ウマ娘の隣で元気な声を響かせたのは、ファル子に次いで二着に甘んじたミコアイサ。レース後もファル子の控室で一緒に過ごしていた。

 二人のまとう空気に勝負の余韻は既になく、漂わせるのは仲睦まじい親友同士のそれであった。

 

「そうだよ〜! ファル子の憧れの存在なの☆ ウマ娘ライブショーも見に行ったし☆」

 

「それって東京レース場で春にあったやつだよね!? 羨ましいなぁ…」

 

「えへへ☆ チケット取るのも一苦労だったんだよね〜。スズカちゃん、ライブの最後を飾ってさ、とってもきらきらしてたの☆ ね? トレーナーさん」

 

 さっと振り向いて同意を求めるファル子。いきなりの事態に少なからず戸惑う。

 

「…ああ、ファンのスズカコールも凄かったよな」

 

 当時一番印象に残っていることを口にする。ついでに言えばその日はファル子の誕生日でもあったが、そのことには触れなかった。

 彼女は親友へ向き直って続けた。

 

「あの時はトレーナーさんもトレセンに入ったばかりでさ。まだ契約もしてなかったんだけど、来れなくなった友達のチケットで一緒に見に行ったの」

 

「そうなんだー! ってか契約してないのにライブ一緒に見に行くってめちゃめちゃ仲良しじゃん!」

 

「仲良しっていうか、トレーナーさんが私にぞっこんだったっていうか…☆ あの時はスズカちゃんみたいな娘を目指してるって伝えたくて誘ったの。懐かしいなぁ…」

 

 感慨深げに思い出を語る彼女。

 トレーナーに成り立てで初々しかった自分が、ファル子を改心させようと苦心していた時だ。今思い返すと、少しばかり恥ずかしくもあった。

 

「それがきっかけで契約したの?」

 

「えっとね…その翌日にレース観戦に誘われて、どうしても担当になってくれって口説かれちゃったの☆ ファル子じゃなきゃダメなんだって…その熱意に押し負けちゃった感じかな」

 

 小悪魔のような笑みを浮かべてこちらを見やるファル子。

 つられるようにミコアイサもこちらを向いて、その瞳を輝かせる。

 

「すごーい! 情熱的な方なんですね!」

 

 色々と話が盛られて…いや、改変すらされているような気もする。補足説明したいことは山ほどあるが、それはおくびにも出さず、ただ一言「ありがとう」と頷いた。存外悪いようには聞こえなかったからだ。

 

『パドックを次々と後にします、十四人のウマ娘。レースの舞台、日本最北のターフへと向かっていきます。いよいよ、本バ場入場です』

 

 実況がパドックの顔見せの終了を告げていた。もう二十分ほどすれば出走だろう。

 

「あ〜あ、控室でしかレース見られないんだよね。すぐそこでスズカちゃんが走るのに…」

 

 唐突に顔をしかめ、不満げな声と共にぶんむくれる彼女。テレビ画面をジト目で睨みつけている。

 

「仕方ないさ、そういう規則なんだから」

 

 出走者は一般のお客さんが出入りする箇所への入場が禁じられている。もちろん、他のレースのパドックや本バ場への立ち入りもである。

 となれば、サイレンススズカのレースを見る手段はたった一つ。控室の小さなテレビで我慢するしかないのだが…。

 

「私服に着替えたらばれないかな?」

 

 ぱっと明るい表情を浮かべて、ファル子は大胆な作戦を提案した。機嫌を損ねないよう丁重に…いや、持ち上げながらそれを却下する。

 

「一着を取った可愛い娘がうろついてたらすぐばれるだろうな。服装を変えたところで、ファル子の笑顔は皆の目に焼き付いただろうし」

 

「ウマドルの宿命ってやつだね…嬉しいけど悲しいなぁ。どこでも観戦できるトレーナーさんが羨ましいよ」

 

 それでも彼女は抑えられない不満を容赦なく当て擦っていた。

 彼女の言う通り、トレーナーは自由に動くことができる。出走者のように注目を浴びる存在ではないからだろうが、その不平等さに対して不平を鳴らしたくなる気持ちもよく分かる。

 もちろん、ファル子を差し置いて観客席へと行けるわけもないので、愚痴聞き役として残るつもりではいたが。

 

「へへへ、ファル子ちゃんに朗報があるよ」

 

 そんな時、じっと黙していたミコアイサが物知り顔に指を立てた。

 俺とファル子の視線が期待と共に寄せられる。

 

「出走者でも観戦できる場所、教えてあげよっか?」

 

「えっ!? そんな場所あるの!?」

 

「勝手知ったる札幌レース場だよ? レースがオフの時期は、普段のトレーニングでもここを使ってるんだよねー。だから秘密の穴場くらいいくらでも知ってるよ」

 

 得意満面に語るミコアイサに、ファル子は自らの両手をぎゅっと握りしめながら、神様でも見るような眼差しを向けた。

 

「わぁ〜、その場所教えてほしいな☆」

 

「もちろんそのつもりだよ! ファル子ちゃんは高いところ大丈夫だったよね?」

 

「うん、平気だよ」

 

「よし! 早速行こう!」

 

 嬉しそうに指を鳴らし、すっくと立ち上がる純白の髪の少女。すぐさま控室の出入口へと向かい、ドアに手をかける。

 それについていくファル子が、すれ違いざまに声をかけてきた。

 

「あっ、トレーナーさんはどうする?」

 

 トレーナーはどこでも観戦することができる。スペシャルウィークたちと合流することも考えたが…。

 

「そうだな…ついていっても構わないか?」

 

 ミコアイサの言った、"高いところ"という言葉が気になっていた。本当に大丈夫なのだろうかという不安もあり、ファル子たちに同行することにした。

 

 関係者のみ立ち入りを許される通路といくつかの扉、そして登り階段を抜けた先にその場所はあった。

 

「ここってまさか…」

 

 頭上には遮るもの何一つない空一面の青。熱を帯びた微風が少女たちの髪を揺らしている。

 そう、そこはスタンドの屋上であった。

 

(絶対アウトな場所だよな…)

 

 関係者以外立ち入り禁止の表示も何のその、華麗にスルーし続けてたどり着いたその場所。不用心にも無施錠で、あっけないほど簡単に。

 他の人影はない。関係者であっても滅多に訪れることはないであろうそこは、まさに穴場であった。

 確かにここならコースを一望することができるが…。

 

「あ、コースを見に行く時は身をかがめてね。見つかるとヤバいから」

 

 ここまで案内してくれた少女は、しかつめらしい面持ちでそっとしゃがみ込んだ。ただ、その言葉の割には、口調はうきうきとしている気がした。

 続き、コースを一望できる先端部へとおそるおそるにじり寄っていく。ついには匍匐前進で。

 下にいる人たちから絶対に見つからないよう、頭だけぴょこっと出している状態だ。ウマ耳もメイショウドトウのごとく倒伏させ、息を潜めている。

 いつの間にか、ファル子もミコアイサと同じプロセスで前に進み、親友の隣に陣取っていた。

 

「トレーナーさんも早くおいでよ。すっごく良い眺めだよ〜☆」

 

 こちらへと振り返り、うつ伏せのまま手招きする担当ウマ娘。

 不安の方が勝っていたが、ここまで来て無理だとも言えず、郷に入っては郷に従えの精神で真似をした。

 腹ばいでファル子の真横を目指す。背面に照りつける日差しが暑い。

 三人がスタンドの屋上でうつ伏せ状態で並んでいるという、傍から見たら異様な光景だろう。

 

「…これは凄いな」

 

 匍匐前進で徐々に見えてきた光景に、ファル子の言ったことがすぐに共感できた。

 眼下には広大な二色のトラック。青々とした方のトラックを、豆粒大のウマ娘が各々自由に走り込んでいた。

 歓声も実況もよく聞こえる。スタンド三階の特等席よりも優雅な眺めかもしれない。

 出走者がかなり小さく見えてしまうのは仕方がないが、普段は味えない高さからレースを鳥瞰することができることは間違いなかった。

 しばらくして、ばらばらに動き回っていたウマ娘たちが、スターティングゲートの前へと集まり始めた。そこはホームストレッチの最端。ファル子のスタート地点よりもさらに後方に位置である。

 

『本日のメインレースとなります、第五レース。芝二千メートル、札幌記念! 晴天にも恵まれ、バ場状況は文句なしの良。最北のターフで最も栄誉あるこのレース。ウイナーズサークルに立つウマ娘は一体誰なのか! 出走者を紹介していきしましょう!』

 

 実況が次々とその名を読み上げていく。

 

「一着はスズカちゃんとして…二着は誰になると思う?」

 

 ミコアイサが何の前触れもなく口にした問いかけ。真っ先に反応したのはファル子だった。

 

「やっぱり副会長さんじゃないかな?」

 

「副会長?」

 

 純白の髪の少女が訝しげな声を上げる。しかしそれも無理もない。副会長というのはトレセン学院の生徒会における肩書きだからだ。札幌の学校に通う彼女に伝わるわけもなかった。

 

「あっ、ごめんごめん。副会長じゃ分かんないよね」

 

 彼女がそう言った途端、実況がそのウマ娘の名を読み上げた。

 

『八番、エアグルーヴ。二番人気です。昨年の札幌記念の覇者が今年も舞い戻ってきました。相性の良いこの最北の地で連覇を果たせるでしょうか』

 

『パドックからそうでしたが、今日は特に気合が入っていますねぇ。二番人気ではありますが、実力は一番人気に引けを取りませんよ。宝塚記念の雪辱にも燃えているかもしれませんね』

 

 重賞競走になると、実況に加え解説も加わる。テレビ観戦がメインの人は、こちらの方が馴染みがあるかもしれない。

 

「副会長さんは今呼ばれた娘だね。エアグルーヴさんのことだよ。こっちのトレセンで生徒会の副会長やってるの」

 

 ファル子も先輩に対してはきちんとさん付けをする。とはいえ、ファル子自身の学年が高いので、なかなか聞く機会は少ないが。

 

「あー、なるほど。あの二番人気の娘ね。この前の宝塚記念でも入着してたよね」

 

 エアグルーヴは宝塚記念でサイレンススズカに次ぐ四着につけていた。解説の言っていた通り、彼女にとってこのレースは雪辱戦でもあるだろう。

 次いで、聞き慣れた名前が実況から放たれた。

 

『九番、サイレンススズカ。堂々の一番人気です。大逃げの走りで誰にも先頭を譲らず決勝線を駆け抜けるでしょうか』

 

『得意の二千メートルですので、早い段階から一気に勝負をかけるかもしれませんねぇ。"異次元の逃亡者"と呼ばれた走りに期待です。ただ、エアグルーヴをはじめ他の娘も簡単にそれを許しはしないでしょうから、そこの駆け引きも見どころですねぇ』

 

 解説の冷静な分析。おそらくその予想通り、サイレンススズカがマークされる展開は必至だろう。

 奇しくも、一番人気と二番人気が隣り合っていること、そしてそれぞれの枠番の色、これらはファル子のレースと全く同じだった。

 

 十四人の出走者の紹介が終わり、重賞競走でしか流れない荘厳なファンファーレが鳴り響く。録音していたものではあるが、レース直前の重々しい雰囲気を演出するには十分だった。

 ようやく始まったゲートイン。

 樺茶色のミディアムヘアのエアグルーヴと、朱色のロングヘアのサイレンススズカ。隣同士、一瞬だけ顔を合わせてゆっくりとゲートへと入っていく。

 刹那に灯る赤いランプ。息詰まる瞬間はほんのわずかだ。

 無機質な音を立てて開け放たれた扉。二分程度で決するレースが、今まさに始まった。

 

『ついに幕を切って落としました札幌記念! 各ウマ娘、ホームストレッチを綺麗に駆けていきます! 真っ先に飛び出したのは…やはり九番サイレンススズカだ!』

 

 大方の予想通り、サイレンススズカが先陣を切った。両隣のウマ娘もプレッシャーをかけようとはしたが、彼女の一切無駄のない完璧なスタートダッシュの前には意味を成さなかった。

 

『直線でぐんぐんと加速していきますサイレンススズカ! その差を見る見る引き離していきます』

 

『完全にサイレンススズカの得意の形になりましたねぇ。こうなると後続は辛いですよ』

 

 第一コーナーに差し掛かった時には、既に五バ身以上開いていた。

 

「さっすがスズカちゃん☆ このままゴールまで行っちゃいそうだね♪」

 

 伏せていた耳もいつの間にか大きく逆立てて、この時点でファル子は大興奮の様子だった。

 それもそうだ。憧れの少女の活躍に胸が踊らないはずがない。しかも、逃げにとって最初の難関である序盤を難なく切り抜け、得意の流れに持ち込んだのだ。一着の期待は高まる。

 

「初めて生で見たけど、綺麗な走りだねー! アタシも憧れちゃうよ」

 

 同じく逃げを得意とするミコアイサも、その華麗な走りに魅了されているようだった。

 俺自身、サイレンススズカの実戦を生で見るのは初めてだったが、トレーニングで見せる以上に洗練された走りだと感じていた。

 

 このままサイレンススズカの独壇場かと思われたレース展開。向こう正面、バックストレッチに差し掛かった辺りから違和感を覚え始める。

 

『レースも中盤です。九番サイレンススズカ、集団を牽引していきます。二位との差は…あまり変わっていません。ちょっと抑えているように見えますが、どうですか?』

 

『やや外枠の九番スタートでしたし、他者のブロッキングを警戒して思いの外スタミナを消費したのかもしれませんねぇ。無理せず足を溜めているのだとは思いますが…』

 

 逃げのサイレンススズカを先頭に、二位から六位が先行の集団、エアグルーヴを含む七位以下の集団が差し狙いという状況を形成していた。

 全体的に見てバ群があまり縦に伸びていない。それはすなわち、逃げのペースがあまり早くないことを意味していた。

 

『たった今先頭が千メートルを通過。タイムは一分一秒です』

 

『やはり遅めのペースですねぇ。後半の追い上げ勝負になりそうです』

 

 札幌記念の勝ち時計はだいたい一分五十九秒から二分一秒の間に収まる。そう考えると、千メートルのタイムはかなり抑えめだ。後方に位置するウマ娘ほど余力を残しているということでもある。

 

「スズカちゃん、どうしたんだろ…いつもならもっとびゅーん! って行っちゃうのに…」

 

 怪しい雲行きに顔をしかめるファル子。

 

(確かにスズカらしくないな…)

 

 サイレンススズカの過去のレース映像は何度か見たことがある。その走りはまさに"異次元の逃亡者"の名に恥じないダイナミックなもので、芝二千メートルであれば千メートルの時点で一分は切っているはずだ。

 スタートダッシュは完璧だった。ブロッキングによるスタミナ消費はほとんどなかったように思う。

 もしかすると夏合宿の疲れだろうか。連日の暑さは確実にコンディションに悪影響をもたらしているはず。それとも何らかのアクシデントがあったのか。

 

(いや、違和感の原因はきっと何か別の…)

 

 そこまで考えたところで、ファル子がこわごわと口を開いた。

 

「やっぱりスズカちゃんおかしいよ…」

 

「だよね。抜け出してから全然ペース上がってないし」

 

「ううん、そうじゃなくて…何て言えばいいのかな。きらきらを感じないの…」

 

「…きらきら?」

 

 怪訝の声で問い返すミコアイサ。しかしファル子は何も答えず、レースの行く末を静かに見つめていた。

 一方、俺はといえば、ファル子の言葉で違和感の正体を掴んでいた。

 彼女の言うきらきらとは、応援したくなったり、元気や感動をもらえたりする感覚のこと。その娘のひたむきさや健気さによって生み出されるものだ。

 それを感じないということ。それはすなわち、サイレンススズカから必死さを感じないということだ。

 サイレンススズカの手足の動き、尻尾の動き、体の姿勢、確かにどれも美しくあでやかだ。まさに一つの完成形ともいえるフォーム。

 だが、それだけだ。そこには勝ちたいという意欲が希薄に見えた。

 高いところから見下ろしているからだろうか。より客観的、俯瞰的にレース全体を観察することができるゆえの気づきなのかもしれない。

 とはいえ、それはただの直感でしかないが…。

 

『九番サイレンススズカ、ちょっとペースが乱れ始めたでしょうか…?』

 

『そうですねぇ。ちょっと掛かり気味かもしれません。アクシデントの可能性もありますが…これは意外です。綺麗なスタートを切っただけにもったいない』

 

 第三コーナーの辺りからさらに異変が増してきた。一時的に二位との差が開いたものの、すぐにペースが落ちてそれは徐々に縮まっていく。典型的な掛かりと失速のようにしか見えなかった。

 

(あのスズカがそんな単純なミスを…?)

 

 逃げを極めているであろう彼女にしてはあまりにも初歩的な失策。とても信じられなかった。

 そう思っているのはファル子もミコアイサも同じようで、口に出さないまでも引きつった表情がそれを物語っていた。

 勝負どころの第四コーナーを抜ける頃には、二位との差がわずか二バ身にまで縮まっていた。

 

『前回覇者、エアグルーヴ! やはり札幌レース場の仕掛けどころを熟知しています! 無駄のない走りで一気に順位を上げていく!』

 

 後方の集団でじっと息を潜めていたエアグルーヴが、急加速して一気に前へ出た。

 その驚異的な末脚から"女帝"という二つ名を冠する彼女。その名に違わぬ終盤の追い上げでじりじりと朱色の髪の少女に迫っていく。

 他のウマ娘も仕掛けるが、女帝の末脚には遠く及ばない。サイレンススズカ自身も加速しており、エアグルーヴ以外はその差を縮めることができなかったのだ。

 

「あわわ…スズカちゃん! 頑張れ!」

 

 場所が場所だけに大きな声を出せないでいたファル子も、思わず声を荒らげて声援を送っていた。尻尾は鞭打つように激しくしなっている。そのうち立ち上がって応援しだすのではないか、そんな勢いですらあった。

 ホームストレッチで繰り広げられる、異次元の逃亡者と女帝の一騎打ち。会場のボルテージは見る見るうちに急上昇していく。

 沸き立つ大歓声。それは夏の日差しよりも熱く、あっという間に会場を支配する。

 

『サイレンススズカ、逃げる! 逃げる! しかし外側からエアグルーヴも迫る! 残り二百メートル! 意地のぶつかり合いだ!』

 

 そこからゴールまではわずか十二秒程度。おそらくそれは、彼女にとって順位をひっくり返すには十分すぎる時間だった。

 樺茶色の髪と尻尾をなびかせ、猛然と突き進む女帝。残り百メートルでついに追いつき、そして最後の百メートルで容赦なく突き放す。

 希望と絶望が反転するその瞬間。それは勝負の無情さと魅力を、見る者全てにまざまざと突きつける。

 

『エアグルーヴが来た!! 意地を見せたのはエアグルーヴ!! 華麗なる逆転劇!! 勝利への執念が実を結びました!!』

 

 女帝は見事に異次元の逃亡者を差し切っていた。

 

「あぁ…負けちゃった…」

 

 耳も尻尾も力無く萎えてしまったファル子。その声は弱々しく、失望感にあふれていた。

 それは多分、サイレンススズカが負けてしまったことではなく、彼女らしからぬ走りに落胆してしまったからのように思われた。

 勝敗は二の次。全力を賭した激闘に胸を膨らませていたのに、それが叶わなかったかのような感覚。今の俺が抱いているのと同じものを、ファル子も感じているに違いなかった。

 

『見事に札幌記念を連覇いたしましたエアグルーヴ。宝塚記念の雪辱も果たしたことになりました。これは本人にとってもかなり良い影響を与えるのではないでしょうか』

 

『そうですねぇ。得意のレース場とはいえ、あのサイレンススズカに二千メートルで競り勝ったわけですから。これからの活躍にも大いに期待できますね』

 

 栄枯盛衰。どんなウマ娘もいつかは成績を残せなくなるし、この世界では世代交代も日常茶飯事だ。

 だが、それにしても…。

 

「どうしたんだろスズカちゃん…宝塚記念の時もそうだったけど、今年のレース全然ぱっとしないね…」

 

 俺の気持ちを代弁するように、ファル子は一際沈痛な声を漏らしていた。

 彼女の言う通り、宝塚記念の走りも今日と同じように精彩を欠いていた。調子自体は悪くないように見えたのに、後一歩のところでトップを逃す、そんなもったいない走りだった。

 

(何か思い悩んでいるんだろうか…)

 

 眼下に広がるトラック。そのターフの上で悠然とウイニングランをこなすエアグルーヴ。威風堂々とした覇気と喜びがその身からあふれている。

 一方、サイレンススズカは女帝の後ろを淡々と走っていた。気のせいだろうか。その背からは悔しさや無念さは不思議と感じ取れなかった。

 負けたのに満足しているような、あまりにも寂しすぎる姿に見えた。




お疲れ様でした。
久々の投稿です(汗)
超スローペースですが続きます〜。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。