君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆──   作:キビタキ

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【第11話】北の大地で ⑦祝宴の夜明け

「先輩、ごめんなさいね。ウイニングライブの後は取材もあるし、さすがに今日はちょっと…」

 

 ステージの舞台裏。レースの時と何ら変わらない服装のウマ娘たちが集う空間で、朱色の髪の少女は申し訳なさそうに両耳を倒していた。

 

「あはは…そうだよね。スズカちゃん引っ張りだこだもん。レースの後だって忙しいよね…」

 

 対するつややかな栗色の髪の少女も、残念そうにそのしなやかな尻尾を垂らしていた。

 

 大音量の音楽と少女たちの歌声が絶えず耳に届いてくる。舞台裏にいるとややくぐもって聞こえるが、その奥に聞こえる歓声だけはストレートに鼓膜を突く。

 第二レースの出走者たちによるウイニングライブが、ちょうど始まったところだった。

 ウイニングライブの順番を待つ二人。その合間に、スマートファルコンは後輩へと話しかけていた。

 親友のミコアイサが美味しいお店を紹介してくれるというので、ウイニングライブが終わったら一緒にどうかと誘ったのだが、それはサイレンススズカの都合で叶わなかった。

 

「せっかく誘ってもらったのに、本当にごめんなさいね」

 

 後輩の寂しげな声に、先輩は慌てて俯き加減だった顔を上げた。

 

「ううん! 気にしてないよっ☆ スズカちゃんの都合の良い時にまた行こうね♪」

 

「ええ、いつでもまた誘ってね。本当は私もレース後はゆっくり過ごしたいのだけれど…先輩もたくさん勝ち進んでいけば、いつかきっとこんな日が来ると思うわ」

 

 穏やかさを含ませた眼差しと共に、サイレンススズカはにこやかに微笑んでいた。

 

「あは☆ 重賞に出走できたら、ファル子にもい〜っぱい取材が押し寄せるかな☆」

 

「きっとそうなるわ。先輩はウマドルでしょ? 皆が放っておくわけがないわ」

 

「えへへ、ありがとう…☆」

 

 いそいそと耳と尻尾を揺らして、彼女は頬を赤らめていた。憧れの少女がかけてくれた言葉がとても嬉しかったからだ。

 

「今日で無傷の二連勝だもの。ふふ、多分あっという間なんじゃないかしら」

 

 サイレンススズカはいつもスマートファルコンを褒めていた。そして、期待と励ましの言葉をかけていた。

 それは、スマートファルコンがダートで走ると決意したあのナイターレースの日、友達になりましょうと提案した時からだ。あれ以降、いつ、どんな時でも、朱色の髪の少女は先輩を気にかけていた。

 ターフの代償で苦しんでいた時も、高架下ライブに誘われた時も、今朝のウォーミングアップの時も。

 その理由は他でもない。先輩が自身の素質を受け入れて、ダートで夢を叶えると決意したからだ。そう、"その時"がついに訪れたからだった。

 だが、一方のスマートファルコンは後輩の行動に違和感を覚えていた。いつも自分のことを気にしてくれていることは単純に嬉しかったが、今年に入ってから走りにかげりが見え始めたように感じていたからだ。

 それなのに、自分やスペシャルウィークへの気遣いには余念がない。自らのレースのことなど度外視で、周りに尽くしているようにしか見えなかった。

 その原因は全く見当がつかなかったが、何か思い悩んでいることでもあるのではないか。スマートファルコンは思わず問いかけていた。

 

「ところでさ、一ついい? 私の気のせいだったらごめんね…スズカちゃん、もしかして何か悩んでる?」

 

 一瞬の間を置いて、朱色の髪の少女は問い返した。

 

「…どうして?」

 

「今日の走り、全然らしくなかったから…」

 

 うら寂しさをたたえた瞳を、憧れの少女へと向けるスマートファルコン。

 薄暗く、金属でできた骨組みや機器に満たされた無機質な空間には、出番を待つウマ娘たちが所狭しと屯している。普通なら周りに聞こえてしまうところだが、現在進行系のライブの音で二人の会話の秘密は守られていた。

 

「今年の夏は暑かったから、夏バテ気味なのかもしれないわ…はっきり言って私の調整不足ね。ファンに心配かけて、本当に情けないけれど…」

 

 肩をすぼめながら、サイレンススズカは静やかな声で答えていた。

 

「…そうだったんだ。でも、何ていうのかな…全力を出せてない感じがしてさ」

 

 その返事にどこか納得いかない様子のスマートファルコン。夏合宿や今朝のウォーミングアップでは、そんな感じは一切受けなかったからだ。

 しかし、本人がそう言うのだから、それ以上聞き返すわけにもいかなかった。

 スマートファルコンの怪訝な表情とは裏腹に、後輩は涼やかな笑みを見せていた。

 

「心配してくれてありがとう。次のレースまでにはしっかり調整していくから、安心して」

 

「うん…分かった。その頃には多分涼しくなってるだろうし、大丈夫だよね…♪」

 

 後輩の曇りない瞳を見て、心配のし過ぎだったと彼女は判じた。それと同時に込み上げてきた恥ずかしさで、無意識に左手の人差し指で頬をかいていた。

 

「あら…そのラバーバンド、先輩の?」

 

 左手首にはめられていたそれに、サイレンススズカの目が留まった。

 

「あっ、これ?」

 

「ええ、先輩っぽいカラーリングだったから」

 

 白とピンクと茶色に彩られたそれ。手書きで『Smart Falcon』と記されている。公式グッズであるサイレンススズカのラバーバンドと、構成自体は非常に似通っていた。

 

「これね、トレーナーさんのお手製オリジナルグッズなの☆ 世界に三つしかないんだよ」

 

 得意げに見せつけながら、彼女は尻尾を大きく振り回した。

 

「そうだったのね。それをつけてライブするの?」

 

「大切なファンが作ってくれたファングッズだもん☆ ライブの時はいつもつけることにしてるんだ☆」

 

 朗らかな声をいつになく弾ませる彼女。あふれんばかりの嬉しさが顔からこぼれ落ちていた。

 

「先輩のトレーナーさん、優しいものね。二人を見てたらとっても仲良しなんだなって伝わってくるもの。何だか羨ましいわ」

 

「えへへ…トレーナーさんがいなかったらダートにも挑んでなかったしさ。何だかんだでいつもファル子のこと見てくれてるし…☆」

 

「先輩を見かける時は、だいたいトレーナーさんとセットだのものね」

 

「そうかな? 確かに最近は毎日会ってるかも。たまには会わない日くらいあっても…あっ…ごめん」

 

 スマートファルコンははっとした様子で口に手を当てた。自身のトレーナーと普段顔を合わせられないサイレンススズカに対して、その発言は無神経過ぎたと思ったからだ。

 

「いいの。気にしないで」

 

 涼やかに取り澄ますサイレンススズカ。緑色の耳カバーに隠れた耳が、意味ありげに上下している。

 次いで、静謐な面持ちで声だけを微笑ませた。

 

「あのトレーナーさんはきっと先輩の夢を叶えてくれると思うわ。信じてあげてね」

 

 悲しげとも嬉しげとも取れる所作に、つややかな栗色の髪の少女は頷きながらも、確かに戸惑っていた。

 

「スズカちゃんは…」

 

 一呼吸置いて、こう尋ねた。

 

「自分のトレーナーのこと、信じてるんだよね?」

 

「ええ、信じてるわ。いつかきっと…トレセンに…」

 

 そこまで言って、唐突に口をつぐんだ朱色の髪の少女。やにわににこりと微笑んで、その時を告げる。

 

「先輩、ライブの時間よ」

 

 いつしか観客の拍手が鳴り響いていた。それはライブパフォーマンスの終焉を告げる合図に他ならない。

 同時に、後ろから親友の声が飛んできた。

 

「ファル子ちゃん! センターがいないと始まらないよー!」

 

 駆け足でステージへと向かっていったミコアイサ。

 

「うん! 今行く!」

 

 親友の背中にそう叫ぶや、後輩へと向き直って小さく手を振った。

 

「またね♪」

 

「いってらっしゃい」

 

 その温かさを帯びた言葉に、彼女はこの上なくにんまりと微笑んでみせた。

 続き、自身の左手首をちらりと見やり、眩しすぎるセンターへと歩んでいく。

 超満員の観客のほとんどが札幌記念目当てであることは重々承知していたが、それでも彼女の金色の瞳をきらめかせるには十分だった。

 

──

 

「かんぱーい!」

 

 掛け声とともに五つのグラスがぶつかり合う音が響く。

 それは一着を成し遂げたファル子への祝杯だった。

 

「おめでとう。よく頑張ったな」

 

「ファル子ちゃんおめでとー! 二着だったけど全然悔しくないよ」

 

「さすが先輩! 二連勝おめでとうございます!」

 

「おめでとう、ファル子ちゃん。にんじんカステラをお裾分けした甲斐があったね」

 

 今日の主役に労いと祝いの言葉をかける一同。

 

「ありがと〜っ! これからも声援に応えてめいっぱい頑張ります☆」

 

 座ったままの状態で、彼女は両手でハートの形を作っていた。言わずもがな、それはファル子の決めポーズ。その左手首には、デビュー戦の日に贈ったラバーバンドが光っていた。

 

 黄昏時のような、橙色を帯びたやや暗めの照明。そこは居酒屋テイストのテーブル席。和気あいあいと美味しい食事と飲み物を口に含ませながら語り合っている。

 もちろん、未成年の少女たちはソフトドリンクである。

 一方、二十歳を過ぎている二人のジョッキには、白泡の浮いた黄金色の液体がなみなみと注がれている。その後やって来るドリンクも、入れ物が異なったり色が違ったりするものの、いずれもアルコールを含んでいた。

 トレーナーの飲酒は禁止されてはいないが、遠征の場ということもあり最初は遠慮していた。

 ところが…。

 

「今日くらいパーッと祝ってあげましょうよ」

 

 鶴の一声ならぬ、スペシャルウィークの母の一声でそうもいかなくなった。

 お店の雰囲気もまさに飲み屋であり、ミコアイサいわく「ファル子ちゃんはもちろん、トレーナーさんも祝ってあげたいからこのお店を選んだ」とのことだった。その時は深く考えなかったが、どうやらその選考基準はお酒の有無だったらしい。確かに、祝いの席にアルコールは付き物だが…。

 他にも、トレセンでの生活で飲酒機会がほとんど無くアルコールに飢えていたこともあるし、せっかくの祝福ムードに水を差したくなかったというのもある。

 それに何より、ファル子の二連勝が今にも舞い上がりそうなほど嬉しく、心の底から湧き上がる高揚感が自制心を緩ませていたことが大きかった。

 

 話題の中心はもちろんファル子で、おしゃべり好きのミコアイサ、酒の入ったスペシャルウィークの母と共に盛り上がっていた。それはさながら女子会の様相を呈していた。

 

「二人はさ、小学校で同級生だったんだね?」

 

 親友の母の問いかけに、ファル子は得意げに答えてみせた。

 

「そうっ! 札幌の公演が決まって転校したの。ミコちゃんはその時の同級生なんだ」

 

 同じくその名を呼ばれた純白の髪の少女も呼応する。

 

「めっちゃ明るい娘が入ってきたなぁって思ったら、隣の座席にファル子ちゃんが来たんだよね」

 

「そうそう! 確かたまたま隣が空席だったから」

 

「へー、転校生あるあるだね。それで仲良しになったんだね」

 

 コークハイをごくごくと飲みながら、金髪の髪の女性はうんうんと頷く。

 対して、似て非なるただのコーラを一口含みつつ、ミコアイサは当時を懐かしんだ。

 

「まだこっちに慣れてないだろうし、何か話してあげないとなぁって考えてたんだよね。でも休み時間になった途端しゃべり倒すもんだからびっくりしちゃった。どっちが転校生か分かんなかったよねー」

 

「あはは☆ ミコちゃんが聞き上手だったからだよ☆ それに何回も転校してきたから慣れっこだったし」

 

 そうおどけてみせると、ファル子はメロンソーダの入ったグラスを口元に運んだ。

 

「そう言えば、ファル子ちゃんのご両親って、旅一座って言ってたね」

 

 その言葉に真っ先に反応したのはミコアイサだった。

 

「ですです! ファル子ちゃんのお父さんが座長してて…一度公演を見に行ったよねー」

 

 親友に笑顔を向けられ、ファル子は自身のツインテールを揺らした。

 

「うんうん! クラスの友達にも何人か来てもらってたっけ☆」

 

「ファル子ちゃんのお母さんの歌に合わせてパフォーマンスしていくんだけど、この歌がめちゃめちゃ綺麗でさ! 本当にうっとりしちゃった」

 

 恍惚感にあふれた表情。ファル子とミコアイサしか知らないその情景に、スペシャルウィークも目を輝かせて食いついた。

 

「聞けば聞くほど気になりますね…! 私も一度見てみたいです」

 

「俺も一度見てみたいな。できればファル子が出てるとこも」

 

 ファル子の両親が切り盛りする一座の話に、皆が興味津々だった。機会があれば是非見てみたい。いや、ファル子のレースを見てもらう時に、併せて公演にも立ち会えるのではないか。そんなことを考えていた。

 

 その後も色々な話に花を咲かせた二人の大人と三人の少女。ただ、はっきりと記憶があるのはさっきの会話までだった。

 そう、酒の力は偉大であると同時に、背筋が凍るほどに恐ろしい。

 自制心のたがが緩むのはすぐだった。気が大きくなって、それはさらなるアルコールを欲する。

 スペシャルウィークの母がお酒に滅法強いことも悪い意味で影響した。決して煽られたわけではないが、もしかしたら終盤では飲ませ合いに発展していたかもしれない。

 飲み過ぎの末路といえばお決まりのパターンだ。強烈な頭痛と眠気。そして記憶の亡失。

 この店が宿泊するホテルのすぐ側だったことが、唯一の救いだった。いや、その安心感がむしろ油断を招いたともいえる。

 そこから先は、買ったばかりのジグソーパズルのごとく記憶のピースが散乱し、断片的にしか思い出せない。

 

「これくらいならお母ちゃんは全然大丈夫です! ああ見えて町で一番の酒豪ですから…! ちゃんと連れて帰るので心配しないでくださいね」

 

 店を出た後のスペシャルウィークのその一言を何となく覚えている。あまりにも相手が悪すぎたと、重すぎるまぶたに抗いながら敗北の味を噛み締めていたように思う。

 彼女の傍らにはまだまだ余裕そうな母の姿。上機嫌に臙脂色のキャップを持った手を振っていたような気がする。

 微かな記憶にはミコアイサの声も残っていた。

 

「ファル子ちゃん、今日は本当にありがとう! それと…ごめんね。最後こんなことになっちゃって」

 

「ううん! 平気平気! ホテルはすぐそこだし、最悪担いで運べばいいし」

 

 この言葉に「俺は荷物じゃない…」と文句を言ったような気がする。

 何という暴言だろうか。担当ウマ娘に面倒を見させてしまっているのに…今思うと最低な男でしかない。

 一人で歩けたのか、それともファル子に手伝ってもらったのか、それすら定かではない。ただ、彼女の洗髪剤の良い香りがどこかでしたような…。

 

(もしかして肩に担がれて…いや、まさかおぶられていたのか…?)

 

 とんでもない事態に総毛立つ。しかし、はっきりと思い出せないもどかしさ。

 

(三女神様…どうか俺の過ちをお許しください…)

 

 そんなことを頭の中で口走りながらも、ホテルの自室に何とかたどり着いたことは確かだ。

 いまだ異空間にたゆたう意識の中で、時間だけが過ぎ去っていく。まどろみにはっきりと浮かぶ勝利の余韻と安寧。夢心地の中で、ただ本能に身を任せていた。

 

 

 コーヒーの香りがする。それもティーバッグで入れたホットコーヒーだ。

 いや、気のせいだろう。俺しかいないはずなのに、一体誰がコーヒーを入れるというのか。

 きっと体がコーヒーを欲していることによる幻覚だ。そうに違いない。

 

(朝か…)

 

 まぶたを透かす白い光。それは紛れもない朝の光だ。

 そっと目を開ける。白い天井は一瞬トレーナー寮の自室を思い出させたが、そこはホテルの一室。昨日から宿泊していた自室のベッドの上だ。

 上半身を起こして腕を伸ばす。頭痛も眠気もどこへやら、快適な目覚めだ。

 そう思った瞬間、そこにあってはならない存在が目に入った。いや、正確には起きる前にまず耳へと届いていた。

 

「〜♪」

 

 聞き覚えのあるメロディ。その歌を口ずさむ人物を俺は一人しか知らない。

 それは最初、気のせいだと思っていた。さっき感じたコーヒーの香りと同じで、酔った影響で五感がおかしくなってしまったのだと、そう決め込んでいた。

 だが、視覚までは疑えなかった。双眸に映り込んだのは、ホテルの寝巻きに身を包んだ担当ウマ娘。テーブルの側に座り込んで、鼻歌交じりにコーヒーを入れている。

 

「おっはよう☆」

 

 虚を衝かれて挨拶すらまともに返せなかった。そんな俺を、彼女は何か面白い物でも見るような顔で見つめている。

 

「そろそろ起こそうと思ってたけど、もう大丈夫そうだね。飛行機の時間にはまだ余裕あるよ☆ あ、部屋の鍵はテーブルの上に置いてるから」

 

 その手にはいつしかスプーンが握られ、コーヒーカップの中身をかき混ぜていた。

 できたてほやほやの香り高いそれは、ほんのり湯気を漂わせている。

 

「コーヒーできたから置いておくね♪ トレーナーさん、微糖で良かったよね? ほんの少しだけ砂糖入れてといたよ」

 

「ああ…ありがとう」

 

 ようやく紡ぎ出したその言葉も、まだぎこちなくたどたどしい。

 そもそもここは一人部屋だ。担当ウマ娘が同じ部屋にいるという状況に、いまだに呆気にとられていた。

 よほど俺の姿が愉快に思えたのだろう。彼女はついにくすくすと笑い出していた。

 

「トレーナーさん、もしかして昨日のこと覚えてないの?」

 

「そうだな…ほとんど覚えてない…」

 

「もうっ☆ ふらふらだったからファル子が付き添ってあげたんだぞ☆」

 

「ごめん…迷惑かけたな。俺、一人で歩けてたか?」

 

「う〜ん、ヤバいくらい千鳥足で何回かこけそうになってたけど、何とか自力で歩いてたよ…ってか、遠征中に記憶無くすまで飲むなんて面白すぎでしょ☆」

 

「面目ない…」

 

 ただただ申し訳なく、頭を下げるしかなかった。

 大の大人が、それもトレーナーである自分が、あろうことか担当ウマ娘に迷惑をかけてしまった。いくら勝利に浮かれていたとはいえ、猛省するしかない。

 

 その時だった。ふっとしおらしい顔つきになったかと思うと、もじもじと上半身をくねらせ始めたファル子。彼女にしてはあでやかな所作に見えた。両耳もどこかつやっぽくしおれている。

 次いで、何気ない動きで肩をしどけなくはだけさせると、上目遣いをしながらなまめかしい声でささやく。その可愛らしい顔を赤らめながら、とても恥ずかしそうに。

 

「でも…知らなかったなぁ。夜のトレーナーさんがあんなに激しいなんて…」

 

「え…?」

 

「とってもすごかったよ…ファル子のこと全然眠らせてくれなかったもん。私、驚いちゃった…」

 

「ちょ…それって…」

 

 慌てて自らの服装を確認する。昨日のジャージ姿のままだ。多分この部屋に帰った後、そのままベッドで熟睡してしまったのだと思う…というか、そう思いたい。いや、きっとそのはずだ。

 だが、待ってほしい。その過ちには服装など何ら関係ないのではないか。酒に酔って理性を失った獣が、部屋まで送り届けてくれた少女を本能に身を任せて…そんな可能性を、記憶を失った俺が否定できるわけもない。

 脳内で活発な論争が繰り広げられるが、記憶が曖昧な時点で結論が出るはずもなかった。

 顔から血の気が引き、どんどん青くなるのを感じる。

 

(もしかして俺は…とんでもない過ちを…?)

 

 不安と焦りが最高潮に達した瞬間、ファル子はこちらを指差してここぞとばかりに笑い出した。

 

「きゃはは☆ 今変なこと考えてたでしょ! いびきだよ、い・び・き☆」

 

「いびき…?」

 

「トレーナーさんを部屋まで見送ったんだけど、部屋に入るなり地べたで寝始めてさ。心配だったからとりあえず部屋の鍵だけは借りたの。それでしばらくして大丈夫かなぁって見に行ったら、あのまま同じ場所で熟睡してるんだもん。それも大いびきかいて☆ 風邪引いたらいけないなって、ベッドまで運んであげたんだぞ☆」

 

 はだけた寝巻を着直しながら声高に言い募る彼女。その顔はまさにしてやったりの表情だ。

 

「それからしばらく様子見てたけど、いびきだけは止まんなくてさ。これは絶対隣で寝られないなぁって…☆」

 

「ごめん…全然記憶にないや。重かったろ、俺」

 

「ううん、軽い軽いっ♪ ジムのトレーニングに比べたらわけなかったよ」

 

 二つの拳を握りしめて余裕のポーズを取る彼女。

 成人男性をも持ち上げてしまうパワーには舌を巻かざるを得ない。その一方で、この上ない申し訳なさも込み上げてくるが…。

 微かに記憶に残る彼女の洗髪剤の香りは、ベッドに運ばれた時に感じたものだろうか。

 

「俺、本当に何にもやらかしてないよな?」

 

 一抹の不安に駆られ、念押しで問いかける。

 

「そこは安心してっ☆ もしそんなことがあったら、今頃トレーナーさん無事じゃないから♪」

 

 いつもなら心癒やされる満面の笑みも、この時ばかりは畏怖の念を抱かざるを得なかった。

 

「そうか…良かった…」

 

 それと同時に、心の底から安堵した。人生で一番大きな溜め息だったように思う。

 二つの意味で救われたのだ。一つは、とんでもない過ちを犯していなかったこと。もう一つは、強靭な脚力で蹴飛ばされなかったこと。

 

「酔っ払ったトレーナーさん、とっても面白かったなぁ。あんまりにもすごいから動画も撮っちゃった☆ 後で見てみる? ってか見せてあげる☆」

 

「そんなにひどかったのか…いや、そうだよな。記憶が無いくらいだから」

 

「俺はファル子をトップウマドルにしてやるんだとか、ず〜っと追いかけるつもりなんだとか、頼もしいこと言ってたよ☆」

 

「…よっぽど飲み過ぎてたんだな…俺」

 

 そんなことをうそぶいた記憶はもちろんない。酔っていたとはいえそこまで言うだろうか。記憶喪失に乗じた彼女の冗談という可能性も…いや、もうそんなことはどうでも良かった。少なくとも、それが俺の本心であることは間違いないのだから。

 

「それじゃあ、そろそろ部屋に戻るね」

 

 そう言って立ち上がる彼女。

 

「ファル子」

 

 思わず呼び止めてしまう。何も言わずこちらへと振り向いた彼女へと、真っ直ぐな眼差しを送った。

 

「ありがとな」

 

 それは昨日のことだけではなかった。そう、これまでの全てに対して。

 

「どういたしましてっ☆」

 

 にこりと微笑んで、つややかな栗色の髪の少女は部屋を後にする。

 軽やかに揺れる尻尾。その後ろ姿は、いつになく嬉しさに満ちていた気がした。




お疲れ様でした。
これにて第11話完結です…が、この作品は未完という形で一旦区切ろうと思います。
理由はモチベ不足と最後まで書き切る自信が無くなったことです。
続きを楽しみにしていた方には申し訳ありません…。
第12話の途中までは書き溜めているので、そのうち体裁を整えて投稿するかもしれません(もちろん完結には至りませんが)。
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございましたm(_ _)m
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