君と夢見た明日へと ──トップウマドルを目指して☆──   作:キビタキ

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お待たせしました。ファル子ちゃん初登場回です!


【第2話】始まりの日 ⑤金色の瞳

 思わぬ誤算だった。

 俺は今、道に迷っている。辺りを見渡すと、そこは閑静な住宅街。

 

「参ったな…」

 

 方向音痴ではないはずと信じていたが、その自信が脆くも崩れ去る音がした。

 まずは落ち着こうと、ゆっくり、そして大きく深呼吸した。

 

 遡ること数分前。不覚にもスマホをトレセン学院に置き忘れてしまったことに気づくも、取りに帰るのを面倒に思い、おぼろげな記憶を頼りに強行した。

 そう、以前に地図で見たうろ覚えのルートで商店街を目指したのだ。だが、どこかで道を誤ったのだろう。いくつかの交差点を経てたどり着いたのがここだった。

 途中、道に迷った気配を察知して、通行人に道を尋ねた方が早いと思った時には、既に人気のない道に入ってしまっていた。

 

 思案に暮れ、頭をかきながら空を見上げる。夕空は徐々に薄い紫色に侵食され始めていた。建物ひしめくこの場所で、日の光が直接差し込む余地は全く残されていないほど、太陽は傾いている。

 スマホが無く、腕時計も身に付けていないので、今の時刻さえ分からない。感覚的には、残り時間は三十分から四十分の間くらいだろうか。

 

 とりあえず、これからどうするかを考える。ここで引き返すと、何だか負けを認めるみたいでばつが悪い。真っ先に思ったのがそれだった。

 気づけば、前に向かって走り出していた。

 

(ここまで来たら、毒を食らわば皿までだ…)

 

 最悪もと来た道を戻ればトレセン学院には帰れるのだ。もしたどり着けなくても、その時はその時、道に迷う運命だったと諦めよう。

 出勤初日、今日だけで色んなことがあった。同期が名家のトレーナーだったり、新レース開催に夢が膨らんだり、初めて相席した生徒と談笑したり、思いもよらないことの連続だった。

 だから、たとえこれから何が起きても、それさえ楽しんでしまおう。そんな不思議なテンションになっていたのだと思う。

 

 猪突猛進を決意してから数分経った頃だろうか。いつしか川沿いの道にたどり着いていた。川の水量は少なく、水の流れる音は一切しない。清流とは程遠い人工的な河川だった。

 すぐ近くには高架橋が架けられている。それを見て、商店街は橋を渡ってすぐのところにあったことを思い出す。おそらく、あれを使って向こう岸に行けば、そこが目的地に違いない。

 意気揚々と駆け出し、高架橋の近くに差し掛かった。

 その時だった。

 

「……♪」

 

 歌声が聞こえた。かすかな、本当にかすかな女の子の歌声。

 ぴたりと動きを止め、全神経をもって耳を澄ます。鼓膜をくすぐるような、甘く、朗らかな声。決して幻聴ではない。高架下の方から確かに聞こえてくる。

 引き寄せられるように土手を降りて、声がする方へと歩む。近づくに連れ、その歌声は鮮明になっていく。それは何度も聞いたことがある曲。

 

(この曲は…『Make debut!』だ…)

 

 メイクデビューを果たしたウマ娘たちが、ウイニングライブで初めて披露する楽曲。輝く未来への第一歩を踏み出し、自分の信じた道を駆け抜けることを決意する、そんな希望にあふれた歌だ。

 

 さらに近づいていく。足音を立てないように、ゆっくりと。

 トンネルの中のような高架下、残響する歌声はさながらライブ会場のよう。いや、そこは確かにライブ会場だった。土手沿いの小高い場所で、『Make debut!』を歌いながら華麗なステップを刻む、トレセン学院の制服を着た一人の少女。観客もいなければ、マイクやライブ衣装さえないけれど、それは紛れもないライブパフォーマンス。

 

 もっと近づく。蝶が野花に惹かれるように、即席のステージで舞う彼女を最も近くで見られる、最前ドセンへと。

 つややかな栗色の髪。ダイヤ柄をしたリボンのようなヘアゴムで、高い位置でまとめたツインテール。右耳の近くには、カラフルなリボン型の髪飾りをあしらっている。

 

 ふと、彼女の歌声がぴたりと止む。そう、ここからは間奏の部分だ。

 スピーカーはおろか音源すらも無いライブ会場。軽やかなステップの音だけが響く中、二人の中ではしっかりと曲が流れ続けている。

 ダンスに集中しているのか、彼女は目をつぶっていた。髪と同じ色の尻尾が、新体操のリボンのようにあでやかに舞い続ける。そして、最後のサビに入る瞬間、ぱっと開かれた瞳。

 確かに交錯する視線。ただ見惚れるしかなかった。

 大きくつぶらな金色のそれが、満月のように妖しくきらきらと輝いている。いつまでも見ていたい、そう思わせるほどに…。

 

 突然現れたであろう観客の存在に、彼女は驚くこともなければ、恥ずかしがることもなく、ただひたすら眩しすぎる笑顔を振りまいていく。

 最後のフレーズを歌い終えると同時に、両手をハートの形のように合わせ、満面の笑みを浮かべてウィンクをしていた。きっとこれが彼女の決めポーズなのだろう。

 無意識のうちに手を叩いていた。二人しかいない高架下に、拍手の音が残響する。

 薄暗くひんやりとした場所なのに、それと対照的な明るくぽかぽかとした気持ちになっていた。

 

「拍手ありがと〜☆」

 

 彼女はとても嬉しそうに手を振りながら、センターステージから駆け下りてきた。そして俺のすぐ側までやってきて、にこりと微笑んでみせる。その距離感の近さに思わずどきっとした。

 

「あなたが初めてのお客さんだよ〜、ファル子感激☆ フライヤーを見てくれたの?」

 

 フライヤーとはチラシのことだろうか。もちろん見たことはない。

 

「いや…たまたま通りかかっただけなんだ」

 

「あれあれ? たまたまなの〜? そっか…たまたまか〜…」

 

 しおれた花のように垂れる耳。

 

「君は…ファル子っていうの?」

 

 それはすぐさま元通りに逆立った。

 

「そうっ! 私、ウマドルのスマートファルコン! ファル子って呼んでね♪」

 

「ウマドル…?」

 

 初めて聞く言葉の波状攻撃に振り回される。完全に彼女のペースに飲まれてしまっていた。

 

「ウマドルとはアイドルの新定義☆ ウマ娘としてレースを駆け抜けて、ウイニングライブで華麗に踊りまくり、きらきら輝いていて皆に希望を与える存在なの!」

 

「それって普通のウマ娘がしていることとは違うの?」

 

「あ〜、もしかして適当なこと言ってるって思ってるでしょ? ウマドルは普通の娘とはぜ〜んぜん違うんだぞ☆」

 

 膨れたと思ったら、一転して笑顔で決めポーズをとる彼女。

 どこがどう違うのかと聞きそうになってしまったが、余計分からなくなりそうなのでやめておくことにした。詳細はともかく、彼女なりにウマドルの理想像というものがあるようだ。

 

「なるほど…それで、ファル子はそのウマドルの頂点を目指してるわけか」

 

「おお〜、当ったり〜! ファル子はトップウマドルを目指して、日々努力している真っ最中なのだ☆…まぁ、トレーナーさんがついてないから、ライブどころかレースに出たこともないんだけど…」

 

 人差し指同士をつんつんと突き合わせながら、語尾をすぼめていた。

 不意に、彼女の尻尾が大きく揺れる。

 

「あれ!? あれれれれ!? もしかして…!?」

 

 彼女はある一点を凝視していた。

 

「あの…あなたって…トレーナーさん? だったり?」

 

 目をぱちくりさせてこちらの顔色を窺っている。どうやら胸元のトレーナーバッジに気づいたようだった。

 

「ああ、そうだよ。今日入ったばかりの新人だけど」

 

「それじゃ、担当してる娘は…」

 

「まだ一人もいないね」

 

 彼女は口に手を当て、驚きのリアクションを取っている。それも束の間、さっきのダンスのようにくるりと一回転してみせると、うっとりとした顔で頬を染める。

 

「何てことでしょう! ファル子のファン第一号がトレーナーさんになるなんて、これが運命の出会いかしら☆」

 

「えっ…!?」

 

「きっと三女神様が私に…いえ、二人に微笑んでくれたのね♪ これからよろしくお願いします☆」

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

 慌てて待ったをかける。ファン第一号に認定されるのはともかく、勝手に契約させられるのは困る。

 さっき三女神像に祈りを捧げたが、まさかそれが本当に叶ったとでもいうのだろうか。いや、たとえそうだとしても、あまりにも突然過ぎるし、判断材料が少なすぎる。

 

「悪いけど、君のことをよく知らない状態で契約は難しいな…」

 

「そ、そんなことないとファル子は思うけど…」

 

「明日ちょうど選抜レースもあることだしさ、それまでは…ね?」

 

「う〜…さすがに勢いだけじゃ無理か…」

 

 しゅんと垂れ下がる尻尾。さっきまでの元気はどこへやら、その声は消え入りそうなほど弱々しい。

 

「私、小さい頃からトップウマドルになるのが夢だったんだ。だからどうしてもライブに立たなきゃダメなの。でも、このままじゃ一度もレースに出られず終わっちゃうかも…」

 

 彼女の悲しそうな表情に、少しだけ心が揺れ動く。しかし、情に流された安請け合いはできない。

 

 彼女の言う通り、レースに出走するためにはトレーナーと契約しなければならない。すなわち、トレーナーの運営するチームに所属し、競走者登録を受けなければならないのだ。

 チームといっても、その人数に制約や規定は無いので、トレーナーによっては十人以上の担当ウマ娘を持つ大集団だったり、一人だけしか担当しない代わりにその娘に最大限注力したりなど、方針は様々だ。いずれにせよ、ウマ娘はトレーナーと契約しなければ出走すらできない。

 そうなれば無論のこと、トレセン学院に入学したものの、一度も出走が叶わず卒業や中退してしまう生徒も出てくる。とはいえ、それは決して珍しい話ではない。現状として、トレーナーがついていない娘が大多数なのだ。

 

 そういう娘に光を当てたいと個人的に思う一方、トレーナーからすれば、おいそれと契約を結ぶわけにはいかないのが本音だ。理由は単純、結果を残さなければ自らの進退に関わってくるからだ。最悪の場合、トレセン学院から契約解除を言い渡されることもあるらしい。

 仮にもここはスポーツの世界、綺麗事の通用しない厳しい一面もある。その根底はやはり、実力主義、結果主義なのだ。

 だからこそ、ウマ娘との契約はシビアにならざるを得ないし、そういう意味で明日の身体テストと選抜レースは重要な日なのである。

 

「ごめん、さすがに何も分からない状態で契約はできない…せめて、明日の結果を見せてほしい」

 

「…だよね。ごめんなさい、いきなり無茶なこと言って。トレーナーさんにも選ぶ権利あるもんね」

 

 彼女は両方の拳をぐっと握りしめて、気合いを入れ直すような動きをした。

 

「よ〜し! 明日はめちゃくちゃ頑張っちゃうからっ! 絶対にファル子から目を離しちゃダメだぞ☆」

 

 気持ちの切り替えの早さは、さすがはトップウマドルを目指す者といったところだろうか。

 彼女の笑顔は見る人を元気にする笑顔だ。

 

(他に気になっている娘がいるわけでもないしな…)

 

 明日はなるべく彼女に注目してあげよう。無言でそう決意する俺に、彼女は相変わらずこちらを覗き込むような上目遣い。まさに私から目を離さないでと訴えかけているようだ。

 考えてみれば、人気のない場所で可憐な少女と二人きりというシチュエーション。意識してしまうと、急に恥ずかしさみたいなものが込み上げてきてしまった。

 思わず視線をそらして、周辺を見渡す。先に根負けした俺に、彼女は膨れてしまうだろうか。

 気づけば、少しずつ暗くなってきていた。日没まで後わずかといったところだろう。

 

「いっけね、のんびりしてる場合じゃないや」

 

 急に大事なことを思い出す。そう、用事の途中だったのだ。彼女との出会いの中、仕事や買い物のことなんてすっかり頭から抜け落ちていた。

 

「今何時か教えてくれる? 時間が分かるものを持ってなくてさ…」

 

 「オッケー☆」と爽やかに答えながら、彼女はスマホを取り出す。

 

「えっと、今は…五時四十分かな」

 

「まずいな、そろそろ戻らないと…」

 

 今から買い物を済ませて六時に間に合わせるのは、さすがに無理だろう。トレセン学院にすぐ戻らなければならない。

 「どうかしたの?」と言いたげな彼女に、ここまでの経緯をかなり簡潔に話した。

 

「…というわけで急いで帰るよ。今日はありがとう」

 

 別れを惜しむ暇も無く淡々とそう告げたが、間髪入れず返ってきたのは、いたって単純な疑問。

 

「一人で帰れそう?」

 

 体がぴくりと反応し、駆け出そうとするのをためらわせる。一番不安に思っていることを突かれてしまった。正直に言えば、もと来た道をノーミスで引き返せる自信は無い。

 何も言わないでいる俺に、彼女はにんまりと微笑みかけてきた。

 

「ファル子と一緒に帰らない? とっておきの近道を教えてあ・げ・る☆」

 

 思ってもいなかった提案に、渡りに船とはこのことかと、二つ返事で頷いていた。

 すると、彼女は両手を後ろに回し、もじもじと体を揺らしながらまた上目遣いになる。

 

「その代わり、ひとつだけお願いを聞いてほしいかな〜って」

 

 正直、あまり良い予感はしなかった。だが、背に腹は代えられない。彼女が言い出しそうなことを想像して、山を張った。

 

「ファル子ファンクラブの会長になってほしいとか?」

 

「ん〜、ちょっと惜しい。でも、いくらファル子でもそこまでお願いしないよ。なってくれたらトラック十周しちゃうくらい嬉しいけど…」

 

 それから一呼吸置いて、彼女は背筋を伸ばす。いかにも改まった様子で、金色の瞳をこちらへと向ける。

 

「ファル子のファンになってくれたか、教えてほしいの」

 

 意外な問いかけに思わず首を傾げる。

 

「さっき、ファン第一号に認定されてたような気がするけど…それとは違うのか?」

 

「あれは言葉の綾っていうか…勢いで言ってみただけ。本人がそう思ってないのにファンだって決めつけても、それってただのわがままだもん」

 

 彼女のまとう空気は、どことなく張り詰めていた。

 

「『Make debut!』の歌とダンス、とっても自信あるんだ。いつ披露できるかわからないけど、その日を夢見て何度も何度も練習したから」

 

 落ち着いた声が、静かに、それでいて力強く残響する。

 

「ほんとのところ、さっきのライブどうだった? 拍手してくれたけど、ファンになりたいって思うくらい楽しんでくれた?」

 

 その儚げな表情は、彼女には似つかわしくないように思えた。

 さっき見たばかりの光景を思い出す。ほんの一時、真夜中の満月みたいに美しくきらめいた瞳。

 刹那、不思議な高揚感に満たされた。彼女のきらきらと輝く姿に、確かに心を奪われていた。できれば本物のウイニングライブで、彼女の晴れ姿を見てみたい。

 そう思っている自分がいる。だったら俺はもう、紛れもなく彼女のファンに違いない。

 

「うん、とても楽しかった。また見たいって思ってる」

 

「それじゃあ…?」

 

「俺がファン第一号になるよ」

 

「…ほんとに!?」

 

 天を衝く勢いで跳ね上がる尻尾。一回転したり、決めポーズをしたり、そういう演技じみた動きは一切ない。ただただ無邪気に喜んでいるようだった。

 

「ありがと〜☆ ファル子、初めてファンができたかも! ファン第一号さん、これからもよろしくね♪」

 

 満面の笑みを浮かべながら、その場で飛び跳ねる彼女。リアクションが少し大げさのようにも思えたが、それは至極当然のことなのかもしれない。

 

 さっき、彼女は俺のことを初めてのお客さんと呼んでいた。おそらく、これまで何度もたった一人のライブをしてきたのだろう。フライヤーを配って、それでもお客さんが入らなくて、けれどめげずに、ひたむきに、あきらめずライブを続けてきたはずだ。

 そして今日、偶然通りかかっただけとはいえ、立ち止まってもらって、しかもその人がファンになってくれたのだ。もし彼女の立場だったら、俺も飛び跳ねるほど嬉しかったと思う。

 ひとしきり喜んでみせた後、彼女は絡めた両手を高く上げて体を伸ばしていた。

 

「それじゃ、トレセンに行こっか☆ ファル子が逃げたら〜?」

 

「…?」

 

「あっ、説明不足! てへへ、ファル子うっかり屋さん☆ コーレスって知ってる?」

 

 コーレスとは、ライブで行われる演者と観客との掛け合い。ステージからの掛け声に、ファンが決められた言葉で応えることだ。

 

「『ファル子が逃げたら〜?』って言ったら、『追うしかな〜い!』って応えてね♪ ライブはコーレスが命なんだぞ☆」

 

 彼女に促されるまま、教えてもらったフレーズを口にする。ただ、恥ずかしさを捨て切ることはできず、かなりぎこちないものになっていた。

 

「お、追うしかなーい?」

 

「そうっ! その調子、その調子!」

 

 それでも彼女には及第点だったらしく、軽やかに走り出した。

 文字通り彼女を追いかけていく。俺にとってはハイペースなランニングだが、彼女にとってはほんの軽いジョギングみたいなものだろう。

 

 つややかな栗色の尻尾が目の前でたなびいている。彼女はランランと鼻歌を奏でながら、時折こちらへ視線を送った。

 細い路地を抜け、急な階段を登り、民家の隙間を縫うように進む。途中、人様の庭と思しき場所を何のためらいなく横断したことには、さすがに不安がよぎったが…。

 いかにも裏道といったルートをたどると、ものの数分でトレセン学院の正門にたどり着いたのだった。

 そして、ここが二人の分かれ道だった。俺は体育館へ向かうが、彼女は自分の寮へと戻るという。

 

 別れ際、彼女はフライヤーを手渡してくれた。カラフルなポップ調のデザインに、丸っこく柔らかな文字。可愛いイラストも散りばめられている。それらは全て手書きだった。

 日時に目をやると、明後日の午前十時になっている。その日は授業も無い休日だ。

 

「今度は休日ライブだよ! 場所はさっきと同じ高架下。最初から見に来てね♪」

 

「ああ、きっと見に行くよ。その前に、明日のテストとレースもよろしくな」

 

「あっ…そうだった。そっちも頑張らなくちゃ!」

 

 薄紫の空へ視線をやりながら意気込む彼女。自信があるのか無いのか、微妙な反応に見えた。

 

「どっちも最後まで見届けて☆ スマートファルコンでした〜!」

 

 ふわりと一回転して、今日三回目となる決めポーズ。

 人通りは決して少なくないこの場所。何をやってるんだろうという奇異の目に少なからずさらされる。そんな視線が気になる俺とは対照的に、彼女は全く気にする素振りさえ見せない。

 どうにもいたたまれなくなり、「それじゃ」と別れの挨拶を淡々と告げて、あっさりその場を離れた。

 

(ちょっと素っ気なさ過ぎたかな…)

 

 一歩、二歩、三歩、歩く度にそんな不安が増してきて、おそるおそる振り向いた。

 「また明日ね」と大きく手を振る彼女がそこにはいた。どうやら考えすぎだったようだ。

 同じように手を振り返すと、彼女はスキップしながら寮へと向かっていった。その姿は、いつしか生徒たちの波に飲まれて消えた。

 

「スマートファルコンか…」

 

 その名をぽつり、一人つぶやく。

 個性的な振る舞いにペースを乱されることも度々あったが、物怖じしない活発的で元気な娘という印象だった。確かな夢を持っているけれど、相応の悩みも抱えている普通の女の子。できることなら力になってあげたいとは思う。

 もちろん、明日の結果を見てからにはなるが、もしこれが、彼女があの時冗談めかして言った、三女神様の導きだったとしたら…。

 

 フライヤーに目を落とす。可愛らしい文字やイラストに心が和む。彼女からもらったファン第一号という肩書きに、まんざらでもないのかもしれない。

 手帳にフライヤーを折り畳んで挟み込むと、自分でも感じるほど軽やかな足取りで体育館へと駆け出すのだった。

 

 

 風呂場から出た俺は、着の身着のまま一目散に台所へと向かった。

 棚からガラスのコップを取り出し、蛇口を勢いよく捻る。水をなみなみと注いで、喉から音を立てて一気に飲み干す。大きな息をもらすと同時に、体中が求めていたそれが隅々まで浸透していくのが分かる。

 今度は半分くらいのところまで入れて、寝部屋へと足を踏み入れる。何の音もしない、ほんの少しだけひんやりとする部屋。

 白い床と壁、そして白い天井。家具や家電も最低限のものしか置かれていない。未開封のダンボールもいくつかある。引っ越してきて間もないその部屋は、まだあまりにも無機質で、生活感に乏しい。

 

 テーブルの前に腰を下ろし、手に持っていたそれをゆっくりと置く。

 静かに波打つ水面。テーブルの色が透けて、白く染まって見える。白いテーブル、白いダンボール、白いベッドとシーツ、布団の色まで白である。

 ことごとく白に染まるこの部屋で、若草色のカーテンだけが唯一の造反者。ただ一人抗ってみせるそれに、俺は密かに敬意を表していた。

 視線を下に向けると、無造作に置かれた手帳とボールペン。

 

(さて、何から書こうか…)

 

 いきなり迷ってしまい、頭をかく。乾かしきれていない頭髪は、少しだけ湿気と冷たさを含んでいる。ドライヤーをかける時間を惜しんだからだろう。

 まとまらない考えに嫌気が差し、上体を倒して仰向けになる。白い天井には白い照明が吊り下げられている。この色のせいなのか、どうにも目が冴えて仕方がない。体力を消耗しているはずなのに、不思議と疲労感も希薄だ。

 

 正門でファル子と別れてから、全速力で体育館へと走った。到着は五時五十九分。何とかぎりぎり間に合ったのだった。

 当たり前だが、他のトレーナーは既に全員集合済みだった。何となく冷たい彼らの視線に、少し顰蹙を買ったかもしれないなと不安になりながら、決して遅刻ではないと自分に言い聞かせていた。

 鳥林さんが「やけに時間がかかったな」と、心配半分冗談半分といった顔で声をかけてくれたが、道に迷ってライブを見ていましたとはさすがに言えなかった。

 その横で、くすくすと微笑んでいた桐生院さんの顔が、妙に頭に焼きついて離れない。なぜかは分からないが、彼女には全部見透かされている、そんな気がしてならなかった。

 

 残りの作業が完了した時、時刻は午後九時を回っていた。トレーナーとしての初勤務が、ようやく終わりを告げた。

 次いで、ひとまず最寄りのコンビニで買い物を済ませ、帰り道にパンをひとかじり。自室に戻り、シャワーを浴びた。そして、今日の出来事と明日以降の予定を、今から書き込もうとしている。

 

 再び体を起こして、眼前のそれを直視する。

 新品の三年手帳。まだ傷一つない表紙が、ぴかぴかと光沢を放っている。

 今年の四月を起点とするそれは、俺にぴったりの手帳だった。

 ウマ娘にとって、デビューから最初の三年間が一番大事な期間といわれている。今年デビューした娘がジュニア級として、来年はクラシック級として、そして、再来年はシニア級としてトゥインクル・シリーズを駆け抜ける。階級によっては、一生に一度しか出走できないレースもあり、まさに熾烈で過酷な一発勝負の連続になるだろう。その長く険しい、それでいて夢にあふれた三年間を書き記すための手帳。

 

 ぱらぱらとページをめくっていく。開いたのは三年後の一月のページ。ここに『URAファイナルズ出走予定』と書くことができたら、どれだけ嬉しいだろうか。

 理想の未来に思いを馳せつつ、ページを戻して今年の四月。いとも簡単にそのページを開けたのは、ファル子からもらったフライヤーが栞代わりになっていたからだ。

 思い出したようにコップを手に取り、周りの色を透かす液体を一気に飲み干す。

 

(とりあえず、今日あったことを思いつくまま書いていくか…)

 

 手帳というステージの上で、ボールペンが華麗にステップを刻む。思い返せば、本当に目まぐるしい一日だった。

 契約試験の時にお世話になったたづなさんに、三女神像の逸話を教わった。彼女が理事長の秘書だったことが意外だった。

 それよりも驚きだったのが、同期に名門出身の桐生院さんがいたことだ。真面目でひたむきな性格で、お互いの夢を応援し合う友人になれそうだ。

 始業式を兼ねた入学式では、秋川理事長から重大発表があった。夢の新レース、URAファイナルズの新設に、学院中が沸いた。

 トレーナー長の鳥林さんの下、初めての仕事に取り組んだ。彼は桐生院さんと顔見知りだった。

 昼食の時、たまたま相席した図書委員のゼンノロブロイは、図書室や本のことをとても楽しそうに話していた。彼女がおすすめしていた本を、いつか借りにいこうと思う。

 高架下でたった一人のライブをしていたスマートファルコン。トップウマドルを目指しているという彼女の演じた『Make debut!』。きらきらと輝くその姿に思わず魅せられ、彼女のファン第一号になっていた。

 

 その日の欄に収まらないほどの内容が、記憶の海から滝のように降り注ぐ。仕方なく前日のスペースを拝借するが、それでも足りず、前々日と更にその前日も借りて、窮屈ではあるが何とか書きまとめることができた。

 

 続いて、明日以降のスケジュールを書き進める。

 明日の午前は身体テスト、午後は選抜レース。ファル子は一体どんな結果を残すだろう。楽しみにしてはいるが、これまでトレーナーがついていないということは、つまりそういうことなのだろうとも思う。もし他に気になる娘を見つけたら注目したい。

 

(ただ、少しでも目を離すと膨れてしまいそうなんだよな、ファル子…)

 

 明後日は午前十時からファル子のライブ。この日は間違いなく全力で注目してあげられる。前日から彼女との関係がステップアップしていれば、それが一番良いのかもしれない。

 明々後日は…。

 ぴたっと右手が止まり、ゆっくり手帳を閉じた。

 そう、ここから先はまだ誰にも分からない。

 

 立ち上がって照明を消すと、真っ白な部屋はその正反対へと姿を変える。それは期待と不安が入り混じった心を、段々と落ち着かせてくれる。

 明日は人生を左右するかもしれない大事な日。

 目覚まし時計がしっかりとセットされているか確認し、布団の中に潜り込んだ。




お疲れ様でした。
第2話はこれにて終了です。
ストーリーの大筋はゲームアプリを参考にして、ところどころアレンジを加えています。

2021/09/13:誤字修正
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