ある時期、シンオウのトバリシティを中心に、とある噂が流れたことがあった。
そしてその噂は背びれ尾ひれをつけまくりながら、都市伝説的に広まっていった。その噂はしばらくすると立ち消えたが、それらの話をまとめると、こうなる。
あるとき、この近辺に一人のポケモントレーナーが現れた。トレーナーはコートを羽織った女性で、ポケモン勝負が許されている公園や施設に出没し、頻繁に戦いを持ちかける。ときには、どこかの道路で通り行く他のトレーナーを捕まえて勝負を仕掛けることもあったという。
そして、自ら戦いを持ちかけるだけあってそのトレーナーは強く、勝負に乗ったトレーナーの多くが、彼女に敗北する。
その強さの程度については、地元で有名な腕自慢のトレーナーが負けたとか、ジムリーダーをも圧倒したとか、チャンピオンを打倒しただとか、誇張の入ったような評判が多い。
しかし少なくとも、友人との戯れに勝負をするような人間では、手も足も出ないのだろう。
さて、ここまでの内容であれば、特別珍しい話のようには思えない。勝負を好む強力なトレーナーなど、探せばいくらでもいるだろうから。
だが、彼女たちの戦いは強さ以上に、そのうつくしさを周りに印象付けた。
周りで観戦していた人間や、どころか彼女の対面に立ったトレーナーの何人かですらもが、彼女たちに見とれていた。
ブースターの吹き出すかえんほうしゃの炎がうねる様や、ミミロップが繰り出した、一見華などなさそうなメガトンパンチも、拳が打ち出されるまでの身体の動きに、まさにその身に攻撃を受けようとしているポケモンでさえ目を奪われていただろう。
また、そんなポケモンたちの司令塔である彼女の仕草もまた見事で、肩にかからない程度に切りそろえられた黒髪を揺らし、白いコートをはためかせ、ときに大きく、ときに小さく腕を振るう。指示を伝える芯の通った声は、冷たいシンオウの空の下で小さく響いた。
このような不思議な戦いを終え、未だ現実に引き戻されない相手に、その勝敗に関わらず、彼女は必ずこう問うのだ。
「私たちは、綺麗でしたか?」
女性の問いに、ほとんど全てのトレーナーが同じ答えを返し、それを聞いた彼女は満足げに頷いたという。
「どうしよっかあ、どこなら見てもらえるかなあ」
トバリシティのとあるビジネスホテルの一室、上体をベッドに横たえた女が、隣で壁にもたれかかって立つミミロップに話しかけていた。
ミミロップはそれに相槌はおろか、表情を変えることもせず、目を合わせるのみだ。そうやって、今自身のしていることが『あなたの話を聞いている』だけであることを示す。
それは自分が考えることではないからと無視を決め込むほど突き放さず、かといって、頷き、相槌を打つほど親身になってやるわけでもない。
今パートナーに求められているであろう距離感を、正確に表していた。女性も、それに不満を示すことはない。
「コンテストはなしでしょ」
手を広げ、親指から指折って候補を数え始める。もっとも、彼女の頭には五つも候補が浮かんでいるわけではないのだが。
「気まずすぎる」
夢を追うため、周りの人間から引き留められながらも、彼女はコーディネーターの登録を削除し、きっぱりとその道を捨てたのだ。
地方も違うのだから、ちょっと隣町のヨスガでコンテストの舞台に立ったとて、すぐさま知人にバレるようなことはないだろうが、別れを告げた場所にすぐ帰ってくるようでは示しがつかない。
コーディネーターカードは返却したため、再登録もしなければならないだろう。
今彼女の手元にある身分を証明するものは、『ツユリ』という名が刻まれたトレーナーカードだけだった。
「路上でパフォーマンス、は、怒られそう、うん」
人差し指が半分ほど曲がり、そこで止まる。
女、ツユリはなにも、金に困っているわけではない。旅立つ前に用意しておいた資金は十分にあるし、この現代社会、いざとなれば、自分たちでもどうとでも稼げるだろうという大雑把な考えもあった。
今彼女が悩んでいるのは、どうすれば、多くの人間を感動させられるかという、その方法だ。
「怒られるだけで済むなら一回やっちゃう?逮捕とかされないよね?」
少し声色を明るくしたその発言を聞かされたミミロップは、無言で、じとっとした半目で返す。
おかしな方向へ思考が進んでいる様子のパートナーに対する、呆れているというポーズだ。
「あっはーい。だめですよねー」
ミミロップの意図を察し、ツユリも考えを改める。
人々にうつくしいものを見せつけ、その瞳を焼くような衝撃を与える。
ツユリがようやく見つけた夢は、如何せん抽象的すぎた。
似たような前例はないか、あるいは少ないのか。とにかく参考になりそうな方法は見つけられない。
コーディネーターという、真っ先に思いつく候補は、ついこの間捨てた身分だ。
今の彼女は、ただのポケモントレーナーのツユリである。
ただの、ポケモントレーナー。
「そうじゃん!」
そう声を上げるとともに、彼女はベッドに預けていた上体をがばりと起き上がらせ、こちらを見つめるミミロップと目を合わせる。
表情は特に普段と変わりないが、考えていることはたぶん『ようやくか』とか、そんなところだろう。
「戦えばいいんだよ!」
そうだった、自分の最初は何だ。夢の始まりはどこだった。
「私、トレーナーなんだから」
ヨスガシティの西からテンガンざんへと伸びる208番道路を、ツユリは歩き回っていた。
普段はトバリシティのスタジアムに入り浸っている彼女だが、毎週この曜日は、ポケモンリーグの公式試合が行われるため、別の場所を探すことになる。
トバリから比較的近く人の集まりそうな場所として、ヨスガシティに目を付けたというわけだった。
しかし、コンテスト会場のあるヨスガの街中では、知人や関係者に見つかる、もしくわ出くわす可能性があり、気が乗らない。ゆえに、その付近の道路をぶらつくことを選んだ。
それに、最近はこの曜日ここに来る楽しみもできていた。
ツユリは、2つのモンスターボールを腰の左右に1つずつ身に着けて、標的を探してキョロキョロと周りを観察し、ときにこちらを伺う野生のポケモンを追い払う。
野生のポケモンの相手は、幼いころからの父の教えのおかげで手慣れている。
そして、遂に標的を見つけると、白いコートの裏に隠した4つのモンスターボールが見つからぬよう注意しながら、偶然見つけましたという風に近づき、勝負を吹っ掛けた。
そして、彼女は自らが仕掛けた勝負の、そのほとんどに勝利した。
戦略的な動きと、戦いとはかけ離れたうつくしさの二つは、相手を圧倒し、己の主張を流し込んだ。
そして、経験したことのないような戦いに衝撃を受け、呆けている様子のトレーナーを見て、尋ねて、満足していた。
もちろん、負けるときもある。相手にぶつけたいものを、思うようにぶつけきれないときもある。
それでもツユリは、戦いに負けようとも、最後までできる限り、ぶつけきろうとした。
「すっごいなあ…」
今、彼女の対面で疲弊したギャラドスをボールに戻す男は、その主張を受けきった人物だった。
彼らは、確かにツユリたちに勝利した。エリートともベテランとも呼ばれる彼は、自身らを飲み込まんとするツユリたちの世界観を、その技術でもっていなしきってみせた。
しかし、そのどこか現実離れした戦いの余韻に浸されながら、思わず感嘆を漏らす。
「あの、私たち、綺麗だったでしょうか…?」
「あ、うん…」
少しの不安を声に滲ませるツユリの問いに、未だ地に足付かぬ心地の男は生返事をする。
「綺麗、だったんだろうなあ。なんだこれ…」
続く男の言葉に、ツユリはほっと息をつく。
出せるものは出しきったが、それが相手に届いているかどうか、敗北という形では、いまいち感じ取りにくい。
少しして、現実味を取り戻した男が口を開く。
「君はリーグ目指してないの」
「今はまだ、考えていないですね」
「へえ、もったいない」
ツユリの返事に、男は惜しさを示す。
この手の言葉は、今まで何度か投げかけられた。不満を笑顔の裏に隠して受け流すことには慣れている。
もっとも今では、その感情に理解は示せるようになった。今さら不快に思うこともない。
「目指したくなったら目指しますから」
「ああ、いつでも待ってるよ」
その言葉を区切りに去ろうとした男は、途中で足を止め、彼女に向き直る。
「何してるのかはよくわからんけど、まあ、応援してるよ」
男はそう告げると、歩みを進め今度こそその場を去っていった。
取り残されたツユリは、男の言葉にぽかんと呆け、次いで意味を理解しきり、頬を緩ませる。
自分がやりたいことを素直に応援してくれたのは、今までは家族ぐらいのものだった。
それを、たとえ事情を知らない他人であっても、肯定してくれる人間がいるのだという事実は、確かに彼女に熱を与えた。
「ありがとうございます」
届かない感謝を口にしてから、ツユリは手持ちの治療を始める。日が傾き始めているが、終わるのはもう少し先だ。
自分もポケモンたちもまだ頑張れるし、何より、今日のお目当てがまだだ。
「もういいか」
キズぐすりを使い終えた丁度そこへ、後ろから声がかかる。先ほどのトレーナーとは違って、若い男の、それもほとんど少年のものといっていい声だった。
考えていれば早速、いつもの彼のお出ましだ。
「待ってくれてたんですか?ごめんなさいね、ロウ君」
「いいから、さっさとやるぞ」
彼女が振り返れば、右手に一つだけ、モンスターボールを構えた少年が、今にもポケモンを繰り出さんと構えていた。
ツユリもまた、ボールを手に持ってロウと呼んだ少年から距離をとる。
「ぶっ飛ばして、今日こそ本気出してもらうからな」
「ロウ君だって、今日こそちゃんと見てもらいますよ」
年の離れた少年に啖呵を切り返すツユリの姿は、事情をよく知らない人間が見れば、大人げないようにも映るものだろう。
しかし、それを正面で受け止める少年は、怯むでも呆れるでもなく、真剣な眼差しで彼女を睨みつけていた。