「ありがとうございます」
ヨスガシティ、ポケモンセンターの職員からモンスターボールを受け取りながら、ロウは軽く頭を下げて礼を言った。
以前、野生のユキノオーたちに襲われて以来、彼は回復施設が無料で利用できるという有難みを再認識し、それまでは口にしなかった感謝を述べるようになっていた。
受け取ったボールをポケットに押し込んだ彼は、ポケモンセンターを出てまっすぐに208番道路を目指す。
ツユリからの宣戦布告以来、彼は四戦四敗で負け越していた。彼女の本気はロウの望んだ素晴らしい力の塊だったが、当然負けるたびに悔しさが残った。
だが今日は、勝つたびに大人げなくニヤニヤと笑うあの女を打ち倒す秘策も用意してある。同級生との対戦も通して、十分ツユリに通用するであろう手ごたえもあった。ロウは意気込みを胸に道を歩く。
「どうも」
「うおっ」
そんな彼の背中に、突如声がかかった。ロウが反射的に振り向けば問題の相手であるツユリが、ニコニコと笑いながら立っている。
ロウは彼女に、思ったままに口にする。
「なんでここにいるんだよ」
ロウの疑問はもっともであった。
この曜日、ツユリはいつも先に208番道路へ着いており、通りすがるトレーナーに試合をふっかけまくっているはずだ。
その彼女がヨスガシティでロウに背中から声をかけるというのは、普段ならばないことだった。
「いやちょっと、子どもには早いかなー…」
「…ちっ」
『子ども扱いすんなよ』という言葉が一瞬ロウの喉元まで出かかったが、彼はそれを抑えて舌打ちをする。この言葉がツユリの子ども扱いをますます加速させるギアであることを、それまでの付き合いから学習していた。
また、ツユリが少し小さな声で言いながら目を逸らしたことも、舌打ちの理由になる。
よくわからないが、たぶんあまり追及されたくないらしいことを察したのだ。小さい頃から、何かしでかしたコリンクが似たような行動をするのを見てきたロウには、何となく理解できた。ゆえに、彼は舌打ちでその話題を切り上げる。
「どうします?せっかくですし、このままヨスガのバトルコートに行きますか」
「うん、そうだな…待って、何それ」
そのまま所在地の知らないバトルコートへ向かおうと足を動かしたツユリは、ロウに引き止められて立ち止まる。
彼がこちらに向けている指をたどれば、小さく膨らんだ上着のポケットがあった。そこからは、青い何かが一部を覗かせている。
ロウの意図を察した彼女は、その青いものを取り出して言った。
「ああこれ。オレンです」
「いや、それはわかってんだけどさ。何でそんなもんポケットに入れてんの」
ツユリの手にあるオレンのみは、ロウの知るそれより小ぶりで、いくつか傷も目立つ。
「途中で採って来たんですけど、市販のものより渋いわ皮も固くて剝きにくいわで途中で飽きちゃって」
「…食ったの?」
「あ、畑から盗んだりはしてませんよ!道路に自生してた木から頂戴したもので」
「マジかよ…」
呆れるロウの耳にツユリの的外れな弁解は入ってこない。
オレンのみそのものを人間が食べることは、珍しいがないわけではない。ロウの叔父などは好物だったと彼は記憶している。
問題なのは、そのへんに生えていたそれを彼女が食べたらしいということだ。
オレンの木はたくましく、子どもが庭に実をポンと植えてもそれなりに大きく育つ。そしてそれは当然、自然界でも幅広く分布しうるということでもあるし、実際様々な場所で育つことが出来る。
またオレンは、万人受けする味ではないが腹持ちがいいことでも知られている。
そのような理由から、野生のオレンの果実を摘まむという行為は、おおよそ貧乏人のとるものだというイメージがあったのだ。
ロウも、バラエティ番組でタレントが下積み時代に金がなくオレンを摘んでいた話をするところや、映画などで浮浪者になった主人公がまずそうに小さなオレンのみを食べて飢えをしのぐシーンを何度か見ていた。
「あんた、金あんの」
突然投げかけられた直球の質問に、ツユリは一瞬硬直する。
適当に誤魔化すという選択肢も頭に浮かんだが、本気で心配しているらしいロウの目を見て考えを改める。
「大丈夫ですよ、当面生きていけるだけのお金は用意してありましたから」
「じゃあなんでオレンなんか採ったんだよ」
「いやあ、最近出費がかさんじゃいましてね?お金も限りがありますから、ここでちょっと節約をと」
「仕事しろよ」
「返す言葉もないです…」
ヨスガシティの往来の端で、その成人女性は少年に叱られ項垂れていた。
子どもに真剣に心配されているという事実と周りから向けられる若干の視線を感じて、ツユリは羞恥で顔を赤くする。
「今無職なのか?」
「い、いや、無職のつもりはない、のですが」
「じゃあなにやってんの」
聞かれて、ツユリは即座に答えることができなかった。傍から見れば自分も立派な無職なのだろうか。一応やることは決めたが、それで収入を得られるかはまだわからない。
トレーナーカードは持っているしコンテストでの再登録も済ませてあるが、トレーナーやコーディネーターと名乗る気にはなれなかった。
彼女は少し悩んで、とりあえず今、思いつく限りもっともふさわしいであろう言葉を見つけた。
「花火職人…?」
「はあ?花火作るの?」
「たぶん」
答えたツユリ本人もよくわかっていないため、二人そろって首を傾げる。
ロウはこれ以上話しても無駄だと思いため息をつくと、さっさとバトルコートへ案内しようと一歩踏み出した。
そこへ、二人のどちらでもない第三者の声がかかった。男の低い声だ。
「ツユリさん、ですか」
ロウがその方を見れば、スーツ姿の男がすらりとした体をのばして立っていた。
ツユリはそれにだいぶ遅れて、ゆっくりと、見たくないものを見るかのように振り向いた。
男から眼鏡越しに突き刺さる視線を受けて、彼女は口を開く。
「うわあ」
「その反応はいかがなものでしょう」
じっとツユリを見つめる男と、困ったようにその目線から逃げようとするツユリを見て、ロウはなんとなく事情を察する。
このツユリの知人らしい男は、彼女が少なくとも今ここでは会いたくなかった人間らしい。
ツユリの過去について、ロウが詮索をしたことはなかった。彼女は自身の過去について大っぴらな態度をとらなかったし、それを掘り返すほどロウという少年は悪趣味ではなかった。
しかし、自ら踏み込むならばともかく、目の前で勝手に繰り広げられる話に耳を傾ける程度の興味はある。
「しかし、トバリにいるはずでは。というかそのオレンのみはなんですか。何故街中でそんなものを片手に」
「べ、別になんでもいいでしょう!ヒグチさんには関係ないんですから!」
ロウは、ここまで狼狽えた様子のツユリを見たことはなかった。
もう少し面白くなることを期待して、会話に口を挟む。
「その辺に生えてたオレン食ってた余りだって。金欠らしいっすよ」
「ロウ君!何チクって、あ、待ってヒグチさん。金欠なんかじゃありませんから。ほら、私、大丈夫」
悪戯が成功した子どもそのものとなって笑うロウと、そんな少年の口を抑えながら焦るツユリの姿に、ヒグチと呼ばれた男は眉間を抑えて俯いた。
かつて自分の前に立ちはだかり、全てをぐちゃぐちゃに踏み荒らして去った女が、街中でオレンを片手に少年とじゃれ合っている。片言な声で発せられた弁解は、先の少年の言葉と合わせてマイナスのアピールにしかなっていない。
過去に宿敵と定めた人間のあんまりと言えばあんまりなその姿に、彼の頭は痛みを訴える。
だが、今のままでは話が進まない。湧き上がる頭痛を抑え込んで彼は告げた。
「とりあえずどこか喫茶店にでも入りましょう。そこの少年の分も含めて、お代は僕が払いますから」
道の端ではあるものの、それなりの大声でありながら話している内容が内容だ。彼らは周りから結構な数の視線を集めていた。
「それぐらいは払えます、バカにしないでください!」
「バカではあるだろ。あ、俺はお金持ってるんで大丈夫です」
「なっ、それ以上言うと後で容赦しませんよ!」
「ツユリさん、本当に黙ってください」
ヒグチが強めに発した注意の声に、ツユリは不満げな表情で黙りこむ。
その隣でクスクスと笑う子どもを軽く睨む彼女の様子に、彼はまた大きくため息をついた。
喫茶店のテーブル席に座った三人は、メニューを受け取るなり手早く注文を終えた。
そして、注文した飲み物が届くまでの間に少し話して、ヒグチが三人分の支払いを引き受けることが決まる。
しばらく、三人の間に沈黙が流れた。話を持ってきたヒグチにとって、ロウは単に部外者の子どもだったからである。そのような少年の前で話したい内容を口にするのは憚られた。
だからといって彼を追い出すのは、成り行きとはいえ巻き込んでしまった以上申し訳が立たない。
しかし、ロウが三人の中で一番最初に届いたモモンジュースを一口飲んでから言った「あ、俺いるだけなんで。無視して話してください」という言葉を皮切りに、ヒグチは話を始めることにした。
ロウはツユリの過去への興味、ヒグチはツユリとの接触ができたという興奮から、二人とも自己紹介をすっ飛ばしている。逆に当のツユリは、時間をおいて冷静になっていた。
「何故立ち去ったのかは、もう聞きません」
「ええ」
「しかし先日、ミナモでコンテストに出たという話を聞きました」
「そうですね、出ました」
ロウは二人の会話を聞きながら、とりあえずツユリが元コンテスト関係者らしいことを察する。これについては、ツユリの言動や戦いでの動きから、何となく予想していたことだった。
そして彼女の対面に座るヒグチは、今でもコンテストに携わっている人間ということだろうか。
「どうして、また戻って来て、舞台に立ったんですか」
「ミクリさんが見たいと言ってくれましたから」
隣から突然出てきたビッグネームに、ロウは目を見開いた。
以前知人であるとは言っていたが、ここでその名前が出るということは、まさにその言葉が本当だったということだろう。
しかしヒグチは『ミクリが見たいと言ったから』という彼女の発言に眉をひそめる。
「ミクリさんが言ったから、なんですか」
「はい。あの人から聞いていませんか?私、そうやって生きてみることにしたんです」
彼女がそう言い終えたところへ、店員が二人のコーヒーとカフェオレを持ってきた。
店員に軽く会釈しながら、ツユリがコーヒー、ヒグチがカフェオレを自分の前に持っていき、それぞれが一口だけ飲んだ。
伏せられた伝票を少し覗き見るロウの隣で、会話が再開する。
「では、僕もあなたにそう言えば、またコンテストに帰ってきてくれるんですか」
「見たいものがあるなら、精一杯見せに行きますよ。でも、帰るのは、ごめんなさいね」
「どうして」
「それはあのとき言ったでしょう?」
何やら、ツユリがコンテストを去る理由があったらしい。それを理解しているのか、ヒグチも少し押し黙っている。
しかし、事情を知らなければ男女関係の縺れにでも見えそうだな、とロウは何となく思った。家を出る前にテレビに映っていた、ドロドロとした恋愛ドラマの影響が残っているのだろうか。
黙っていたヒグチが口を開く。
「それについてはわかりました。では、なぜホウエンに帰ってこないんですか」
「それは、その、気まずいでしょう?知人もいますし」
「しかし、それで生活難に陥っていては仕方ないでしょう」
「あれは本当に違いますから。ヒグチさんが心配するようなことは何もありませんよ」
ヒグチはその言葉に、わかりやすく不服の表情を浮かべた。
これまでの受け入れ難いものを受け入れようとしていた表情とは違う、正面から受け止めた上での不服である。
「…納得してもらえなさそうですね」
「心配するなと言う方が無理がありますよ」
それはロウの知らぬ過去のツユリを思い起こしての発言か、今の彼女の有様を見てのものか、あるいはその両方か。
とにかく、ヒグチのそのような心情を理解したツユリは、コーヒーを何口か飲みながら考え、一つ案を思いついた。
「ではこの後ヒグチさんに、今私がやっていることを見てもらいましょう」
「今、ツユリさんがやっていることですか」
「はい。ミクリさんから聞いていないのでしょう?じゃあ見てもらって、それで納得してもらいます」
彼女はそう言うと、コーヒーに付いてきた簡単な菓子に手を伸ばしながら隣へ顔を向ける。
「というわけでロウ君、今日もぶっ飛ばされてください」
「ほざけ。今日は俺が勝つんだよ」
そう言って顔を合わせる二人を見ながら、ヒグチは軽く困惑する。
わけのわからないツユリの提案はもちろん、菓子を齧りながら彼女が浮かべた表情を見たからだ。
隣の少年と笑い合うその表情は、彼が見たことのない獰猛なものだった。コンテストには似つかわしくない、本職のリーグトレーナーが試合中にするようなものだ。
訳の分からないものを一度に取り込み未だ考えのまとまらない頭を整理するために、彼は一口でカフェオレの半分程を飲み込んだ。