その日のヨスガシティバトルコートは、多くの利用者で賑わっていた。特に、祝日で時間のできた子どもたちの騒がしい様子が目立ち、その付き添いで来たらしい親の姿もちらほら見られる。
そして、受付を済ませた彼らのほとんどは、目の前にある二つの入り口のうち、右側の方へと向かうことになる。左の入り口を通ろうとする人間は稀だった。その前を通ったある子どもが、入ったことのないゲートの先に好奇心を働かせ、軽く覗き見た程度だ。それでも、それ以上足を踏み入れるようなことはない。「左の入り口は危ないから入っちゃダメ」という母親の言いつけを、その子どもが破ることはなかった。
どちらの入り口の先にも、その先に設けられているのはポケモンが戦うための対戦場だ。しかし、これらの対戦場の間には、その規模について大きな差があった。
右の入り口を通っていけば、そこには4つの対戦場がある程度の間隔を空けて並べられている。その一つ一つは、ポケモンリーグ公式戦でテレビの画面に映っているものに比べれば、かなり狭いものだ。
利用者のほとんどは、そのスケールの小さい対戦場に不満を覚えていない。彼らが友人と戯れにするような勝負ならば、この程度の規模で十分だからだ。戦うポケモンも、本職のリーグトレーナーが使うわざに比べれば、そう大した攻撃を放てるわけでもない。多少スペースが狭くても、トレーナーやポケモンの技量が未熟でも、人間が怪我をするようなことなど早々ないのだ。限られたスペースを交代で使いながら、彼らは勝負を楽しんでいた。
一方、左側の入り口の先に用がある人間は、小規模の対戦場では怪我をすることが考えられるようなトレーナーだった。ブーバーンがだいもんじを全力で以て放とうとも、対面に立つトレーナーが薄い熱気を感じる程度で済むように、大きく余裕を持った広さをしている。そしてこの対戦場は、毎週決まった曜日にポケモンリーグの公式戦が開催されている場所でもあった。
また。今繰り広げられている戦いは、この舞台に見合うだけの激しいものだ。目の前の相手を打ち倒すためだけに打ち込まれたその攻撃に、周りへの影響を考えた手加減などは一切見られない。
ましてや、狂暴なドラゴンポケモンとして知られるボーマンダの攻撃である。市民向けの小さな対戦場で同じものが放たれれば、被害はトレーナーだけに収まらなかっただろう。
「『じしん』!」
ツユリの指示を受けたボーマンダは、目の前のレントラーを仕留めきるため、雄叫びとともに力強い一撃を加える。
『いかく』の影響でその威力が幾らか下がっていることを加味しても、先にくらった『りゅうのはどう』のダメージと合わせれば、とても耐えきれるものではない。
隙を晒したところに弱点であるじめんタイプのダメージを受けたレントラーは、残されたわずかな力で足を立たせようとするも、もはや限界であった。ぐらりと体が傾き、そのまま横に倒れる。
明らかに戦闘不能だ。
「はい私の勝ち」
「あークッソだめか」
レントラーをボールに戻しながら、ロウは素直に悔しさを表に出す。
大人げなく勝ち誇るツユリは気に食わないが、もう見慣れたものである。それよりも、今日のために用意していた対策を通せなかったことに、彼は後悔と反省を抱いていた。
一方、勝者であるツユリは、ポケットからオレンのみを取り出し、ボーマンダに与えようとしていた。
普段からそうしているわけではない。たまたまポケットに入っていたから、まあ労い程度にと思ってのものだった。
形のわるいそれを差し出されたボーマンダは、『別にいらん』とツユリに視線で訴える。しかし、ツユリのにこにことした笑顔のままであり、同様に変わらず差し出されているオレンのみを見たボーマンダは、諦めたようにそれを口の中へ放り込んだ。
彼女に視線を向けたままのボーマンダの首を撫でながら、ツユリが話し始める。
「結構危なかったですよ?ボーマンダにとって『こおりのキバ』はシンプルですが十分な脅威ですし」
ロウたちはこの、宣戦布告以来ツユリが繰り出してくるボーマンダにやられ続けていた。成長途中のポケモンであるルクシオと相棒の少年にとって、その強大なドラゴンとトレーナーは、あまりに圧倒的な暴力であった。
それまで通じてきた小工は簡単に踏みつぶされ、負ける。途中、ルクシオがレントラーに進化することもあったが、しかし歯が立たない。
そんな状況を打破するためにと用意した対策が、ボーマンダにとって最大の弱点であるこおりタイプのわざだった。ツユリの言う通り対策としては単純だが、効果は十分期待できるものだろう。
そして彼らは、子どもらしく考えなしに、それを最初から披露することもなかった。
「チャンスが来るまで待たれていたのも恐かったですねえ」
「思ってた感じのチャンスは来なかったけどな。なんだあの最初の『りゅうのはどう』」
「何か狙ってる風だったので」
「バレてたんかい」
それでも、ロウはまだ若い少年だ。隠し技を仕込んで来た状態で、全く普段通りに振舞うことはできていなかった。
そのようなトレーナーの緊張は、当然ポケモンにも伝わる。ましてや、目標を共にしてこの機会のために一緒に準備をしていたのだ。隠しきれない雰囲気は確実にあった。
ロウの年齢や経験を考慮すれば、よく平静を保てている方だったと言ってよい。しかしツユリは、彼らから漏れ出たそれを察知した上で、特殊な攻撃で遠距離から様子見するという行動をとった。
ツユリはこれまで、初めから真っ先に、相手を仕留めに行かせていた。だからロウはじしんなどの攻撃へのカウンターとして、こおりのキバを差し込もうとしていたのだ。
だが彼女はそれをきらった。ボーマンダに踏み込ませ過ぎないことで、逆にレントラーの方から仕掛けざるを得ない状況を作った。
「例えば私なら」
「待って、もうちょっと自分で考えたい」
「はいはーい」
ロウの制止によって、ひとまず二人の会話は終わった。
口元に手を当てながらぶつぶつと呟き始めたロウを見て、ツユリはボーマンダをボールに戻す。そして考えに耽る彼を背に振り向いた。
幸い、他の利用者は見当たらない。今すぐに対戦場を去る必要はないだろう。
「さて」
対戦所の脇の方へと歩き出す。彼女の視線の先では、ヒグチが怪訝そうにこちらを見つめている。
歩きながら、ツユリが口を開いた。
「どうでした」
「どう、と言われても」
ヒグチの声は、わかりやすく彼の困惑を表していた。
頭の中の混乱が解けない状態で、彼はなんとか言葉を紡ぐ。
「あなたは、戦いがしたかったのですか」
ここには、ツユリが今やっていることを見せる、という名目で連れて来られたはずだ。だから、彼女がやりたかったことは勝負だったのかという疑問を、そのまま投げかける。
しかしこれは、質問したヒグチ本人も納得しがたいものであった。彼の知るツユリという人物がそれを望むかと言われると、どうも腑に落ちない。だからこその疑問でもあった。
「いいえ、戦うのは嫌いじゃありませんが」
そしてツユリはそれを否定する。ヒグチも、それはそうだろうな、とどこか安心感を覚えた。
だが、彼女の意図が余計に理解できない。混乱の極まったヒグチは、素直に問うた。
「では、僕に何を見せたかったんですか」
その言葉に、ツユリは目を光らせる。待っていましたといわんばかりに、少し得意げに、彼女は語り始めた。
「ロウ君がね、本気で戦ってほしいと言ってくれたんです。だから本気でやりました」
「まあ、はい。大人げないぐらい本気でしたね」
バッジを八つ持ったトレーナーが、その技術と己の最高戦力であるドラゴンの力で以て、若い少年トレーナーをねじ伏せた。傍から見ようが傍から見まいが、これが今行われた戦いの内容だ。
ヒグチ自身は、対戦についてそう詳しいわけではない。それでも、ツユリが遠慮なしにロウという少年を負かしたということぐらいは理解できた。少年の方も、彼女を相手に多少食らいついているように見えたが。
「ミクリさんには、舞台に立つ私が見たいと言われました。だから見せに行きました」
続くツユリの言葉に、ヒグチは眉をピクリと動かす。その件が、今回のきっかけとなったのだから。
彼の様子を見てツユリは小さく笑みを作り、また続ける。
「目を奪うほど綺麗なものって、人によって違うんじゃないかって思ったんです。単純ですけど、最近やっと」
そこまで聞いて、ヒグチは何となく、彼女の考えていることが理解できた気がした。
「他にもいろいろ試しているんですよ。今日だってトバリのスロットに行ってきたり」
「それはどういう考えがあって…?」
わかりかけたところで放り込まれた新情報に、ヒグチは再び困惑させられる。
また、若干の焦りもあった。かつての宿敵が落ちぶれてスロット通いなど、受け入れられたものではない。
「スロットに入っていく人って、すごい目をしているんですよ。だから何かあるのかもしれないと思って」
「それは、たぶん、ツユリさんの思うような目ではないかと」
「はい、何かどんどんお金が減っちゃいますし、結局よくわかりませんでした…」
思い出して落ち込むツユリの様子に、ヒグチは安堵のため息をついた。少なくとも、ギャンブルにハマるような人間ではないらしい。
そこに、横から声がかかる。
「遅刻の理由それかよ。何が子供には早いだ」
「あっロウ君、まあその、あはは」
いつの間にかいこちらへ来ていたロウが、冷たい目をツユリに向けていた。それを受けた彼女は、バツの悪そうな顔で苦い笑みを浮かべる。
少年からの冷ややかな視線から逃げるように、ツユリはヒグチに向き直り、一歩ヒグチに近寄った。
「そっそれで、ヒグチさんは私にしてほしいこととかありますか?コンテスト復帰以外で」
ヒグチはその言葉に、一瞬硬直した。
あの時自分がどうやっても意志を曲げられなかった彼女が、限定はあれど言うことを聞いてくれるというのだ。
彼の脳裏に、一つ、二つと願望が、自然に浮かび上がる。
しかし、彼はそれらのほとんどを振り落として、最も言葉に出しやすいものを選んだ。
「たまにでいいですから、ちゃんとホウエンに顔を出してください。貴女を心配している人はたくさんいるんですから」
「まあまあ、そのぐらいは全然しますよ。でもそういうのじゃなくて、もっとこう、見たい私とかないですかね?」
また体ごと顔を寄せてそう尋ねるツユリに、ヒグチは再び、先ほどよりも少し長く硬直した。それから顔をだんだんと紅潮させながら、二番目に口にしやすいものを選び終える。
一つ大きく息を吐いて、片言になりながら早口に告げた。
「変なことじゃないなら、僕も助けになりますから、頼ってくれて構いませんので」
横で聞いていたロウが『それ質問の答えになってるか?』と口に出しかけたところで、ヒグチがベンチにかけてあった上着を手に取った。
「あれ、帰るんですか」
「まだ向こうに用が残っているので」
頷きながら彼は上着を羽織ってしまうと、そのまま別れも告げずに足早に出口へと向かっていく。顔は見えないが、耳まで赤くなっているのが見て取れた。
引き止めなくていいのかとロウは思ったが、微笑みながらヒグチの背に手を振るツユリを見て、何も言わないことにした。隣に倣って、無言で手を振る。
背中が見えなくなってしばらくしてから、ツユリが口を開いた。
「さて、他に人はいませんけど、私たちもそろそろ出ましょうか」
「ん、ああそうだな。回復どこだっけ」
「出てすぐ右のドアです。私は小さい方のコートでちょっとブースターと遊んできますけど、ロウ君も来ます?」
「うーん、見てるだけ見てるわ。戦って加減できる自信ねえし」
「いいですねえ。ロウ君はいいトレーナーになりますよ」
「おかげさまでな」
ロウが皮肉気に笑う。そのまま片付けと先の試合の振り返りを始めた。圧倒的な戦力差があったとはいえ、技術的な反省点は確かにあった。
そして、話と片付けが終わりかけたところで、ロウが別の話題を出した。
「あの人、すぐいなくなっちゃったな」
「ねえ、何か気に障ることでも言ったかしら」
「いやお前、え」
首を傾げるツユリを見てロウは少しヒグチを不憫に思った。
ロウはあのときヒグチの一通りの動きから、ヒグチはツユリに好意を抱いているのだと考えていた。それが恋愛感情なのか、ライバルに対する対抗意識の裏返しなのか、ロウにはっきりと判断することはできないが。
しかし、ツユリはまるで察していない様子だ。彼女が鈍感なのだと思ったが、所詮ロウがそう感じたという程度である。もしかしたら単に自分が子どもなだけで、そのような好意など存在しないのかもしれない。
そう自分を疑い始めたロウの耳に、空気の漏れ出る音が聞こえた。口から笑いが漏れ出た音だった。
「んっふふふ、いや、いや、冗談ですよ、わかってますよちゃんと」
「えっ、え?」
先ほどまでのとぼけたような空気を霧散させて、ツユリは笑いをかみ殺しながら話していた。
「あんな分かりやすい人ですよ?まあまあ長い付き合いですよ?わかりますよそりゃあ」
「え、わかってやってたのお前?」
「当たり前でしょう!見ましたかあのときの彼」
「いや見たけど」
「あんなので真っ赤になって、愛の告白でもするのかって、どこの、どこの生娘だよってふふふふふふ」
「お前…」
遂に笑いを抑えなくなったツユリに、呆れと恐れが半々に混じった目を向ける。
また、ヒグチのことがより気の毒に思えた。わざわざシンオウにまで足を運ぶほど彼女に執着しているというのに、果たして彼は報われるのだろうか。
彼がツユリに見とれ、他が目に入らなくなってしまわないことをただ願うばかりだった。
「ふーっ。それにまあ、ヒグチさんがハッキリ言葉にしたこともないですし?勝手にあれやこれや察するのも、ねえ?」
「向こうも向こうだとは思うけどさあ」
「まあずっとあの調子じゃあ相手にする以前の問題ですけど」
ロウの目には今のツユリが、どんなゴーストポケモンやドラゴンポケモンよりも恐ろしく映っていた。ボーマンダを出されたとき以上に恐ろしい。尊敬したことはあれど、彼女に恐怖したのは今日が初めてかもしれない。
そこでツユリがこちらへ振り向いたので、ロウは身体をビクつかせた。
ようやく笑いを収めたツユリは、ヒグチの去っていった出口を指さして言った。
「ロウ君はあんな風になっちゃダメですよお」
「最低だよお前、マジで」
「素直に言葉にすればいいってもんじゃありません!」
他の利用者もいなければ、観客席の方にも人影は見えない。どれだけ騒いでいてもよかったが、二人はさっさとそこを離れた。