赤信号でやむなく止まり、その場でステップを踏みながらそう呟く。あの病院だと多分十分もかからないだろうと予想していたけど、足が妙に重たく、このペースだと十五分はかかるかもしれない。
信号が赤から青に変わるや否や、バ道を蹴って再び疾走する。
「着いた時に死んでたら絶対に許さない」
ボソッと呟いたその言葉が聞こえたのか、猛スピードで走るアタシに驚いたのか、歩道を歩く人がアタシの方をじっと見る。本来ならファンサとやらをするべきなのかもしれないけど、今はそんなのに構っていられる余裕はない。それを一瞥して、さらにスピードを上げて病院に向かった。
「はぁっ……はぁっ……」
病院にたどり着くなり座り込んで空気を求めて喘ぐ。いくら体が頑丈で体力のあるウマ娘とはいえども、15分以上全力疾走するのはさすがに体にくる。
おまけに、何故か走るスピードがやけに遅かったのもあって、倦怠感が凄まじい。重りを括り付けられたかのように足が動かし辛かったのには思わず怒りの声を上げそうになったが、ちゃんと睡眠をとっていないからだろう。一時間くらいしか寝ていないのだから仕方ないだろうと、自分で納得する。
「タイシンさん!」
エントランスで待っていたたづなさんがアタシを見るなり駆け寄ってきた。大丈夫ですか!? と焦りながら手を差し伸べてきたけど、アタシはそれをパシッと払って尋ねる。
「アタシのことはどうでもいい!! アイツはどこ!? 早く教えて!!」
「……ついてきてください」
辛そうな表情を浮かべてアタシに背を向けて歩き始めるたづなさん。アタシはおぼつかない足取りでそれについて行く。アイツがどうなったのか、救急車で運ばれたというのを聞いた時点で大体察しがついている。どうせ無茶が祟ってぶっ倒れたんだろう。最近のアイツの様子を見ていればわかる。
だけど、危篤な状態になるっていうのは一体どういうことなんだろう。栄養失調だったら足りてない栄養を点滴か何かで無理矢理にでも体に入れられるだろうし、別にそれだけで死にかけるなんてことはないだろう。
何度か曲がった後、一つの病室に辿り着いた。たづなさんがアタシに向き直って、その病室を手のひらで指し示す。
「こちらがトレーナーさんの病室になります。入るか入らないかはタイシンさんにお任せします」
その言葉を聞き終える前に病室の扉に手をかけて、すうっと息を吸って覚悟を決めて、中に入った。
「な……に、これ……」
目に入ってきた光景にアタシは思わず言葉を失った。トレーナーがベッドに横たわり、その体には何本かチューブが付けられている。多分、点滴と心電図のためのものだろう。ピッ、ピッ、という音が規則的に鳴り続けている。医療ドラマでしか見たことのない光景が今、アタシの目の前に広がっていた。
「なんで君がここに……」
掠れた声でアタシに話しかけてくるトレーナー。目を見開いていて、相当驚いているんだろうと言うことが見てわかる。アタシはトレーナーの横たわるベッドのそばに駆け寄ると、コイツを鋭く睨んで
「アンタ……一体何をやったの?」
と尋ねた。それに対してトレーナーは頭が痛むのか、手で抑えながら苦笑いして言った。
「わからないな……。部屋で作業してたと思ったら気がつけばこの有様さ」
情けない姿になったもんだ、と自嘲するように笑う。わからない? 本気で言ってるの? 口から出そうになった言葉を飲み込んで、そう、と返す。あまり深く追求していいものじゃないだろう。少なくとも無茶苦茶な生活してたのは間違いない。
トレーナーは小さなため息を一つ吐くと、アタシの後ろに立っているたづなさんの方を見て問いかける。
「お医者さんは……なんて言ってました?」
アタシも後ろを振り返って目線で教えろと訴える。アタシのトレーナーのことだ。今後のことにも関わるし、知る権利は……いや、知る義務がある。たづなさんは落ち着いて聞いてくださいね、と前置きしてから説明し出す。
曰く、トレーナーは栄養失調だの睡眠不足だのからきた疲労によってぶっ倒れたそうだ。それによる病気とかも併発させているらしく、今こうして起きていられることが奇跡なんだとか。詳しい話はわからないから大半は聞き流したけど、大体そういうことらしい。
「つまり、コイツはいつ死んでもおかしくないってこと?」
端的にそう聞くと、たづなさんはゆっくりと頷いて顔を俯かせる。そんなバカなこと、と一瞬思ったが、今のコイツの状態を考えると確かにそうなってもおかしくないというのは素人目線でもわかる。
それを聞いたトレーナーは狼狽するでも困惑するでもなく、そうでしょうねと静かに受け入れる。アタシにはその反応が信じられなかった。自分が死ぬんだ。もう少し焦ったり絶望したり、何かあって良いはずだ。
「死にたくないーとかなんでこんなことにーとか、なんかないわけ?」
私の口から出た純粋な疑問。トレーナーは少し考えてそれに答えた。
「いや……。ないわけじゃないけど、君の前で不甲斐ない姿を見せるわけにはいかないから」
「もう遅いし。倒れてる時点で手遅れでしょ」
辛辣にそう返すとそれもそうだと笑うトレーナー。なんで倒れたんだかねぇ、とうそぶいて自分の心電図モニターを見つめるトレーナーに、アタシは静かに言う。
「こんなところでアンタが死ぬかもなんて……想像もしてなかった」
「俺もしてなかったさ。おかげで俺が必死こいて組んだ出走予定だのトレーニングのメニューだのが全部水の泡だ」
トレーナーはそう言い、お手上げだとでも言いたげに腕をあげる。アタシはその様子だと大丈夫なんじゃないの? と茶化す。けど、心なしか心電図の音が不規則になり始めている気がする。嫌な予感が背筋を走ってモニターを見ると、さっきまで七十辺りの数値を示していたのに気付けば九十を超えていた。容態が急変したというやつだろうか。しかし、トレーナーの顔を見ても大したことはなさそうだ。対応に困る。ナースコールをした方がいいの? と腕を組んで考えていると、ゆっくりと口を開いて
「次のトレーナーの言うことはちゃんと聞くんだぞ、タイシン」
と呟くトレーナー。後ろでどこかに向かって走り出すたづなさんを無視し、アタシはそれを聞いて
「……それどういう意味?」
とその言葉の真意を尋ねる。それじゃあ、まるでもうすぐ死ぬと言っているようなものだ。いやいつ死んでもおかしくない状態だから、それを考えての遺言みたいなものなのかもしれないけど、流石に受け入れ難い。
トレーナーはふう、と早まる心臓を落ち着かせるように一つ息を吐いて言った。
「多分もうすぐ俺死ぬんだろうからさ。言わなくちゃいけないこと……言わなきゃなって思って」
「……つまり遺言ってわけ?」
少し顔を俯かせてそう聞くと、トレーナーはアタシの頭に手を置いて
「んまぁ……それに近いんじゃないかな」
と言いながらゆっくりと頭を撫でる。いつもなら拒否するけど、今回ばかりはできなかった。腫れ物を触るように、そっと撫でるそれの感触はとても気持ちいい。
「俺は君に夢をいっぱい見させてもらったよ。俺を担当にしてくれてありがとう」
「勝手に見てただけでしょ。アタシはただ走ってただけで……」
「それでも、君が夢を見せてくれたのは事実だ」
そう言い切ってアタシの頭から手を離し、真っ直ぐアタシの目を見つめるトレーナー。どう返すか迷っていると、さらに続けて謝辞を述べる。
「俺みたいな新人のスカウトを受けてくれてありがとう……。途中で放り投げるようなことになってごめんな、タイシン。願わくば、君がもう一度あの舞台で笑っているところを見たかったな……」
その純粋な願いを聞いて、アタシは思わず目を背けて、
「こんな時にそういうの言わないでよ」
柄にもなく泣きそうになるじゃん、と言いそうになって口を噤む。なんで散々振り回された相手に、夢を見せてくれたなんて歯が浮きそうなセリフを言えるのかと一瞬思ったけど、そんなことはどうでもいい。
「アタシを一人にしないでよ」
不意にアタシの口から漏れた言葉。それはアタシの本心で、それを聞いたトレーナーはえっ? と少し驚いたような表情を見せた。
「アンタがいなきゃホープフルも皐月賞も勝てなかった。アンタがいたから、アタシを馬鹿にしてきた連中を黙らせることができたんだよ」
トレーナーの寝そべるベッドのシーツを握り締めながら、震える声でそう言った。トレーナーはそれに買い被りすぎだと言ってそれを否定し出す。
「違う。それをできたのはタイシン自身の実力で、俺はその背中を押しただけにすぎないんだ」
「その一押しがなきゃアタシは今でもバカにされてるまんまだって言ってんのよ!!」
自分でもびっくりするくらいの大声で叫び返した。珍しくトレーナーも驚いた顔を見せる。
「アタシの末脚の鋭さを見抜いたのは誰!? 捻くれたアタシを信じてレースに送り出してくれたのは!? 体調を崩したアタシをなんとか菊花賞に間に合うように調整したのは!?」
勢いのままに、感情のままに、目から零れる涙を隠すことなく捲し立てた。
デビュー前、先行争いに無理に加わって消耗し、結果順位を落とすことが多かったアタシにキレる末脚がある、後ろからいけば全員ぶち抜けると言ってアタシの知らなかった才能を目覚めさせたのはコイツだ。それがなければホープフルも皐月賞も沈んでいたことだろう。もしかしたら出走すら叶わないかもしれない。
どれだけレース前にささくれ立っていても、必ず勝つと信じて送り出してくれたのもコイツで、普通に考えたら回避するしかないような状態だったのにとりあえず走れるようになったのも、コイツが必死に調整してくれたからだ。
コイツがいたから世間のバカにしてくる連中に目に物見せてやれたんだ。
今のアタシを作ったのは間違いなくコイツだ。それがいなくなったらなんて、恐ろしくて想像もできない。したくないのに。
「アンタがいなきゃアタシは……! アタシは何もできないんだよ!!」
ポロポロと零れる涙がシーツを濡らす。泣くなんてアタシらしくないような気もするけど、どうも一度決壊したら止まらないらしい。何度拭っても目から溢れてくる。
「アタシを置いていくな!! このバカ!!」
「……ごめん」
トレーナーは俯いて小さく謝った。でも、それで何かが変わるわけではなかった。心電図から響く音は徐々にペースを落としていて、トレーナーの顔もどんどん青ざめている。もうそろそろなのかもしれないな、と呟いてアタシの方を見る。何よと問いかけると、トレーナーはこんなことをうそぶいた。
「まぁ、でもタイシンに看取ってもらえるんなら悪くない最期、かもな」
「……冗談でしょ」
「いや割と本気だぞ」
アタシはそれにうっさいバカと返してまたそっぽを向いた。
「ごめんってタイシン、悪かった。……最期くらい笑ってる顔見せてほしいなぁ」
「笑顔ならいくらでも見せるから生きてくれ……ってのはナシ?」
「うーん、とても魅力的な提案だけど、ちょっと無理そうかな」
力なく微笑むトレーナーにそっかと言って向き直り、なんとか涙を堰き止めて笑顔を作る。多分、とてつもなくぎこちない笑顔だったと思う。トレーナーはその笑顔を見てうん、と言って頷くと、アタシの頬に手を添えた。
「いい笑顔だ……。今の俺の夢は……君がもう一度あの舞台で、あの二人と競って。そして勝って笑う姿を見ることだ……。この夢、叶えてくれるか?」
「もとよりそのつもりだったでしょ、アタシたちは」
トレーナーのその願いを聞いてアタシはそう返答した。トレーナーはそれを聞いてそうだったなと言うと、少し息を吐いて、
「それなら安心していける。ゴール板の先でいつでも君を待ってるから……」
頑張ってね、掠れた声でそう言ったのを最後に全身から力が抜けた。アタシの頬に添えていた手がゆっくりと落ちていく。
「……ふざけてるの?」
トレーナーが死んだという現実を否定したくて、トレーナーにそう問いかけたけど、返答はなくて、代わりと言わんばかりに、心電図のピーという音が無慈悲に部屋に響き渡る。
震える手でナースコールを押して、トレーナーの顔に触れた。
「……満足そうに寝ちゃってさ」
とても、とても満足そうに眠っていた。そして眠るトレーナーに息はなく、アタシに残酷な現実を突きつける。
「置いていくなって……言ったのに……!!」
そう叫んでトレーナーの胸に頭を乗せた。当然、心臓の鼓動は聞こえてこない。
「あ、あぁ……うあ……うっ……」
トレーナーが死んだ。
それを理解したアタシは、ただひたすらに泣きじゃくった。泣いてトレーナーが生き返るわけじゃないのはわかってる。けど、泣かずにはいられなかった。
「うあああああ!!!」
一生分の涙を流したんじゃないかと思うくらい大泣きして、喉が枯れ声が掠れて、それでも嗚咽は止まらなくて。気が付かないうちに寝ていた。多分泣き疲れたんだろう。
そしてアタシはまた、目を覚ます。
カタカタとキーボードを打つ音だけが、静かな部屋に響く。気づけば朝の三時を回っていて、眠気もかなり襲ってくる。ここ数日間はこんな生活を送っているから別になんとも思わないが、他の人に見られたら生活習慣はどうなっているんだと怒られること間違い無しだ。
「それでもこうするのが俺の務めだ。もうひと頑張りしますかね……っと」
そう言って眠気覚ましのためのエナドリを探そうとした時だった。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。こんな時間に誰なのだろうか。どうせろくでもないような奴に決まってるけど、これで無視したところで居留守しているのはバレるだろう。部屋に散乱しているエナドリやサプリの空き缶を避けながらフラフラとインターホンまで向かって、それに出た。向こう側を映している画面を見ることなく俺は尋ねる。
「誰ですか?」
そして向こうから聞こえてきたのは、
「アタシだこのバカ。……早く開けろ。さもなくば蹴破るよ」
俺の担当で相棒の、ナリタタイシンの声だった。