苦手な人は気を付けて拝読下さい。
時は止まる。
時間は止まる。
一時は雪崩のように突き進んできたゴブリンとオーガの進行も今では誰一人ピクリとせずその場で静止していた。
胸に占める想いは困惑であり。
場に満ちる想いは混乱であった。
人も亜人も差別無く不可解なものの前には思考も行動も奪われる。
彼等の動作を奪ったのはサティアの放った悲鳴であり、あるものは身構え、あるものは静観する。
だが大半の予想とは反して、その『叫び』自体に込められた能力は無い。
むしろそれは、これからだった。
「ーー!!大変。魔物に取り囲まれちゃった!先生、こんな時、何か良い物は無いのでしょうか?」
突然、サティアは普段しないような大袈裟な身振りで驚くと、キリっと顔をマイクに向けて問いかける。
その声もまた普段の大人しげな口調から想像できないようなキャピキャピしたものだ。
「うむ、良く聞いてくれたサティア君」
それに答えたのは当然マイクだ。
待ってましたとばかりに片方の肩を竦める。
こいつはいつもそんなだが、その演者のような振る舞いに、辺り一面『なんか始まった』的な空気が流れる。
「そんな時はコレだよ」
困惑が広がる周囲の空気も何処吹く風で、何処からともなく持ち出した大瓶を一本。
まるで周囲の観客に見せ付けるかのように掲げた。
誰もが顔を見合わせる。
誰もが「これ攻めていいの?」と言う具合に困惑の余り傍観者と成り果てた中で、ただ一人、人間であるシルフィーナだけが驚愕に顔を歪ませた。
何故なら知っているからだ。
何故なら見た事すらある。
これ路上販売で良く見るアレだああーー!!
最早塞いだ口が塞がらないとはこの事で、正に戦場のド真ん中、いやむしろ虐殺の場とも言っても過言ではない渦中の中で、この男は実演販売を行っているのである。
実演販売とは、街頭や店頭で巧みな口上を操りながら、往来の前で実際に商品を扱い、性能を説明しながら販売する形態のことを指す。
だが取出した商品たる大瓶の正体は、とんでもないの一言に尽きる。
半透明の瓶から透かして見える緑の葉、枝のような茎から茂る緑のソレは、この森にいる亜人であれば誰もが恐れるものだった。
その瓶詰めにされたナニカに気付いた者は、『まさかっ』と顔を引き攣らせる。
そんな周囲の疑問に代表したように、マジマジと眺めるような動作を見せ付けサティアは問い掛ける。
「何ですかソレ」
「これは両刃草を瓶詰めにしたものでね。これにはパラサイト・ビーと言う寄生虫がわんさか入っているんだ。これを地面に投げつけ破裂させる事によって予め砕いた葉っぱが飛び散り魔物に寄生させると言う訳さ」
ーーー
ーー
ー
「両刃草は衣服を切り裂けない?」
それは川を渡って直ぐの事。『嫌な気配』だと言うグロプの指摘を受けて調べた茂みの中に刃物のような葉を付けた草を見付けた。
見渡す限り生茂る草木に混じり、至る所にソレが紛れていると分かった時、ではどうやってここを突破しようと言う話しになるのは必然だった。
そんな時に、戸惑いがちに口を開いたのは、それまで空気を貫いていたヘロヘロだ。
「しっかり服を着込んでいたら大丈夫だと思います」
まるで銅像が急に喋り出したらこう言う反応になるんだろうなと思うぐらい全員から真ん丸の目を向けられて、萎んでいくヘロヘロを横目に、マイクは「ふむ」と顎に手を当てーー。
ガサリと茂みに突入。
時間が止まったように固まる皆を他所に茂みを抜けてUターンして、そして戻ってきた。
「なるほどね」
と一人納得の顔を浮かべるマイク。
刹那に全力で駆け付けてきたサティアに両肩を掴まれて、
「ちょ!何考えてんですか!!先生!!」
と、ガックンガックンと揺らされていた。
血なまこになって衣服のキズを探すサティアを他所に、当の本人のマイクは涼しい顔で指を立てていた。
「シルフィーナ君を診察した時、その衣服に付いた刃物傷は腹部や肩等の上半身で、下半身のソレはむしろ破れたものに近かったんだ。そして寄生虫がいたのは最初から破れて露出していた脹脛。つまり両刃草で付いた衣服の傷は無かったと言う事になる。…じゃ無ければ行きしに感染して3日も籠もっていた洞窟で虫を吐き出しても可笑しく無いしね?」
己の立てた仮説を武器に笑うマイクは、
「だからって」
と尚食い下がるサティアを掌で制してヘロヘロを見た。
「ヘロヘロ君。その事を、何故君が?」
問われてヘロヘロもまた慌てた。
ユグドラシルにおいて両刃草とは初期のトラップであり、対象は主にちゃんと装備を付けていないプレイヤーだ。
一部、露出があるのにトラップを防げるのは仕様上可笑しいと言う事で、装備の種類によってはダメージを受ける仕様になってはいるが、基本的に露出さえ無くせば紙防具でも問題無く防げるようになっているのだ。
これは『ニャルちゃん測定』にて自分で調べた事ではあるのだが、だからと言って正直に話した所で『ニャル測って何?』となるのが関の山だろう。
だからこそヘロヘロは知人に聞いたことにした。
その知人がたまたま両刃草もといパラサイト・ビーについて詳しかったと言う都合の良い話しをでっち上げ、あくまで自分は聞いただけと言うスタンスを貫き通した。
その話しを信じたかどうかは別にして、マイクはそれを終始興味深そうに聞いていた。
だからこそヘロヘロは知っている事を全て吐き出したのだ。
例えば、
「スライムや獣人、アンデットや精霊も種族特性として無効です」
「なるほど、スライムとアンデットと精霊はそもそも寄生するには向いていない。獣人は…。ひょっとして両刃草は体毛を切ることが出来ないのかな?だとすると狼や鹿などの獣を森で見かけられる事も頷ける」
例えば、
「感染して数分から数時間体内に籠もった後、飛び出すパラサイト・ビーですけど、条件によっては直ぐに飛び出るんですよ。例えばポーションを使った時とか」
「ほう。シルフィーナ君のアレはポーションに誘発されたと言う訳か。元来寄生虫は宿主の危機を察知すると脱出を図ると言うが…。ポーションに反応するのは何故なんだろうね?」
これにはヘロヘロも根拠を示せなかった。
ただ乾いた声で、
「何故なんでしょうね?」
と笑う。
ただパラサイト・ビー等の寄生虫がポーションで誘発出来るようになったのはパラサイトを使った戦略が囁かれ始めた頃のアップデート後の事だ。
関係あるかどうかは定かでは無いが、その時のガチャの目玉商品は乱戦時にこそ効力を発揮するタイプの指輪であり、パラサイトを使った戦略にド適性であった。
「ちなみにその知人はパラサイトに感染した時はどう対処してたのかな?」
「そりゃ勝手に出ていくまで放置で……あっ…。」
「先生大丈夫何ですか!?コレの話を鵜呑みにして!!」
………
……
…
マイクはあの時、両刃草の茎を摘んでいた。
もしも魔物に取り囲まれた時に、切り札になると踏んでいたからだ。
村長は昔から村の近くに魔物が出ることは無かったと言っていた。
今現在自分達を取り囲むゴブリンもオーガもトロールも、成程両刃草にとって相性の良い肌をしている。
詰まるところ、あの村は両刃草の群生地によって護られていたのだ。
重要なのは両刃草でパラサイト・ビーに感染させられる事ではない。
この森の魔物が両刃草を恐れていると言うことだ。
一方。
グロプとシルフィーナは突然始まった実演販売のソレに終始啞然としつつも、内心穏やかとはいかなかった。
当たり前である。
なんと言っても絶体絶命の窮地に立たされている状態で頼りの綱とも言えるマイクが理解不能な行動を取り始めたかと思うと、胡散臭いにも程があるアイテムを切り札として掲げたのである。
当然ながら正気すらも疑った。
正に今破産寸前に追い込まれた者が、金運の御守を片手に賭博へと向かうような、破滅への道に救いを信じて下る狂人を見たような想いだった。
理屈は分かる。
あの両刃草の葉で敵を傷付ければパラサイト・ビーの幼体も寄生するだろう。
だが追い詰められた身からすれば縋る命綱としては頼りない。
彼の言う両刃草を瓶詰めにして投げた所でそんなに上手く行くとは思えなかった。
そしてなにより、それが切り札だと言うのなら何故それをこうも公表するのかが分からない。
黙って投げれば良いのである。
ただでさえ成功率に疑問のアイテムだ。
対策などされれば目も当てられない。
だからこそグロプもシルフィーナも思わずマイクへと詰め寄りーー。
ガッ…とサティアに両肩を掴まれた。
死にたくなければ合わせろ。
と…。
時には笑顔すら振りまきキャピキャピとした動作でマイクと茶番を演じていたとは思えない殺意すら感じる真剣な眼差しがそこにはあった。
その眼差しに気圧されるまま、グロプとシルフィーナは凍りついた顔でマイクの掲げる大瓶を見詰め。
「す、すげーアイテムだぜ」
「でもー。お高いんでしょ?」
本当、自分何言ってんだろ?と心の中で憂いつつ、効能について胡散臭い大瓶を褒めちぎる。
一方。
マイクの芝居掛かった説明に、既に何割かのゴブリンやオーガが動揺していた。
グロプやシルフィーナにとって命綱とするには頼りないアイテムであっても、使われる側からしてみれば、非常に厄介なアイテムを取り出された気持ちだった。
一度感染すれば命に関わるパラサイト・ビーである。
薬師の説明のように投げて割れる反動で飛び散った両刃草の葉が上手い具合に身体に刺さるかどうかは半信半疑だが、それでも可能性は0では無いのだ。
追い詰めた窮鼠が噛み付くどころか牙には致死性の高い細菌がウジャウジャいると分かれば、迂闊に手を出せなくなるのは当然だ。
既に所々で、
「止めろ」
だの、
「ひぃ、両刃草」
だの、動揺の動きは見て取れた。
その動揺を間近に見て、大瓶を掲げるマイクは密かにほくそ笑む。
「良いかい?皆。気を付けるんだよ。パラサイト・ビーに寄生された者は他の人にも感染するんだから、絶対に近付いてはいけないよ」
まるでその説明を合図にしたように、
彼の手から大瓶は放たれる。
「おっと、手が滑ったー!」
およそ手が滑ったようには見えない完璧なフォームで振りかぶり、野球選手さながら、全力投球ならぬ全力投瓶。
悪魔のような笑みを浮かべたマイクから放たれたソレは上空を舞い、頭上の岩盤に接触すると高い音を発して粉微塵に割れた。
割れた瓶の破片と共に両刃草の砕いた破片と液体がゴブリンやオーガの頭上に降り注ぐ、刹那にして、阿鼻叫喚の大混乱がオーガ達を襲った。
「ぎゃああああ!!」
「ひぃぃぃ!!」
気持ち良い程に騒ぎ立てるオーガとゴブリンによる騒乱。
だがそれを見やるグロプは見落とさなかった。
マイクが投げた瓶は三本だ。
一つは両刃草の瓶詰め。
そして一つはポーションだった。
だが最後の一本は分からない。
そんなグロプの疑問を他所に突然の怒号が洞窟内を響かせた。
「鎮まれえ!!騙されるな!!全てはこの男の詭弁だ!!」
それは正に咆哮であった。
発したのは先頭にいた歴戦のツワモノを思わせるオーガであり、流石に経験を詰んでいると言うべきか、喚いてばかりの他のオーガとは違い、実に冷静であった。
事実、マイク自身、投瓶でパラサイトを感染させられるとは思っていない。
と言うか無理だろうとすら思う。
刃物みたいに鋭いとは言え、所詮は葉っぱ。一枚の重量などタカが知れている。
見れば一度は混乱を見せたオーガ達も疎らに正気を取り戻しつつあるのが分かる。
本来ならここで詰むのだろう。
彼らを混乱の極みに陥らせるには、実際に虫を吐き出す所を見せ付ける他にない。
ーーだから仕込んだ。
サティアに摘み取った両刃草の葉を持たせ、敵陣に切り込ませた際に何体かの魔物に仕込ませた。
軽い葉っぱも指で挟めば刃物としての役割を全う出来る。
「いでえ!」
早速効果は現れた。
マイクの投げた瓶の一つはサティアが仕込んだパラサイトを成体へと誘発させるポーションだ。
恐らくだが、パラサイト・ビーは宿主の血肉を吸って成体に変態していると言う訳ではない。
勿論、ポーションを栄養にしてと言う訳でもないだろう。
最初から成体に変態可能なのだろう。ただ変態条件が宿主の体内だと言うだけで…。
「ぎゃああああ!!」
「いでえ!いでえ!!」
「ぢくぢょー!」
喚き、騒ぎ、蹲り、転がり。
それぞれがそれぞれの手段でパラサイトによる苦痛を訴えた。
人間であるシルフィーナに泡を吐かせて意識を朦朧とさせた激痛だ。さぞかしオーガにも効くだろう。
やがて、あるものは腕から、
あるものは足から、
あるものは腹から、
もがき苦しむオーガは例外無く虫を吐き出し羽音を響かせた。
その光景を前に戦意が戻りつつあったオーガの顔に再び恐怖が宿り始める。
如何にマイクの実演販売のソレが如何わしかろうが胡散臭がろうが、現に苦痛にもがき苦しみ虫を吐き出した同胞を前に完全否定は難しい。
それが本当は事前に仕込まれたものだとしても、見るものから見れば投瓶によって寄生されたと目に映る。
ならばその場にいる誰もが恐れる。
誰もが疑う。
自分にも寄生したのではないかと言うことを…。
投瓶の際に、降り注ぐその破片を身に浴び、痛みを感じたのならば尚更だ。
だからマイクはソレを一緒に投げた。
マイクが投げた最後の一本。
その正体は『強酸』だ。
酸によるダメージを期待して等と言うチャチなものではない。
痛みを与える事が目的だ。
両刃草の破片が降り注げば感染する訳ではない。
両刃草の葉っぱが傷を付けることにより感染するのだ。
都合よく自分も感染したかも知れないと思わせるには痛みを与えてやるのが一番手っ取り早い。
だから酸なのだ。
硝子の破片も多少傷ぐらいは付けるだろうが、より広範囲に確実に痛みを届けるなら液体の方が都合がいい。
その際、痛みの種類は対して重要ではない。
これで傷が付けば死にますと告げられ、現に周りがバタバタもがき苦しんでいる中で、
「あ、この痛みは別物だな」
なんて、楽観視出来る奴などまずいない。
痛みがあればそれだけで、人は疑う。恐怖する。
そして恐怖は伝播する。
そして最後にマイクは毒を盛る。
そのパラサイトは感染するのだと嘘を混ぜ混んだ。
災害時に根も葉もないデマが広がるように、混乱時に嘘を嘘と見抜くのは困難だ。
それこそ正に悪魔の証明で、今このような場で絶対に感染しないと言う証明は難しい。
ーー結果。
「お前!!こっち寄るなああ!!」
「来るな!来るなあ!!」
至る所で同士討ちをするオーガの姿が見られ始めた。
その他にも転がるもの。
洞窟の入口へと駆け逃げるものなど。
最早挟み撃ちの片翼を担っていたオーガとゴブリンの連合に戦意は無く。
阿鼻叫喚の地獄絵図を嘘と小細工で導き出したそれは正に、詐欺師の手腕であった。
「さて、今のうちに脱出だ」
ーーー
歴戦のオーガは戦慄する。
混乱の極みに達したオーガとゴブリンの連合も最早軍としては機能せず、同士討ちを抑える事すら儘ならぬ。
蜘蛛の巣に掛かった獲物とばかり思っていたが、たった一本の瓶詰めと口八丁でこうも見事に掻き乱されたとあっては、ただの雑魚等と侮る方が愚かであった。
歴戦のオーガはこの時初めて、マイクと言う男を脅威と認識した。
だがそれは最早遅き事。
男の号令を受け、薙刀の女が地を駆けた。
躊躇も戸惑いも無い弾丸のような突撃に歴戦のオーガは嗤って女を迎え撃つ。
最早、油断も侮りもそこには無い。
機能しない軍を背に、ならば渾身の一撃をもって撃滅せんと棍棒を振り上げる。
だがそれは第三者の横槍によって阻止される事となる。
振り上げつつある棍棒を真横から飛び込んできた緑の腕が掴むと、力任せに抑え込む。
それは死角から飛び込んできたグロプの渾身の突撃だった。
グロプはこの機を逃さない。
この絶体絶命の窮地の中で、唯一の活路はここだと決すると、前方の敵の中で唯一戦意を維持していた歴戦のオーガに飛び込んだ。
「ぬぅ。此奴」
気配を隠して意表を付くと言うのも、長年狩猟班として生きてきたグロプにとって得意分野の一つであった。
オーガの棍棒の尖端を握りしめ、ここから先は『単純な力比べ』と渾身の力をその手に込める。
「トードマンの腕力を舐めんじゃねーぞ!!」
単純な腕力勝負はグロプの土俵では無いものの、それでも自分は沼地を征したトードマンなのだ。
その意地がオーガの腕力と拮抗し、互いに譲らぬ力比べはお互いを硬直状態へと持ち込んだ。
そしてそれは、同時にオーガの敗北を意味していた。
硬直状態となり動くに動けぬ無防備な状態のオーガをサティアが見過ごす訳がないのだから。
一閃を描く薙刀の刃先がオーガの喉元を滑り、長年死地を生き続けてきたであろう首と身体に今生の別れを押し付けた。
転げ落ちる首に習って膝から崩れ落ちるオーガの身体を蹴り倒し、混乱続くオーガとゴブリンの群衆の中を風穴開けんとばかり突っ込んでいく。
先陣を駆けるサティアとグロプが道を切り開き。
道筋をなぞる様にマイクとシルフィーナが追走する。
最早、逃走を図る人間を妨害するものなど何も無い。
まるで無人の野を駆けるが如く。
一時は袋小路に陥った洞窟を突破する。
──筈だった。
「待て!人間!!此奴を助けに来たんじゃろ?」
嗄れた老人の叫び。
ナーガ特有の半身人間半身蛇の姿。
その手に鷲掴まれた満身創痍の少女の姿。
その口が僅かに動く。
タ……スケ…テ…。
「セラーーーン!!」
刹那に悲痛な叫びが響いた。
地を駆ける足を止め出入り口へと完全に背を向けたのはシルフィーナだ。
如何に混乱した軍とは言え敵陣の只中で足を止める愚行に命運が尽きたのか、横から飛び掛かったゴブリンの一体により押し倒された。
ーーー
胸騒ぎを覚えた。
洞窟の出入り口まで最早目と鼻の先とまで迫ったサティアの耳に届いたのは嗄れた老人の声。
そして誰かの名を呼ぶ悲痛な叫び。
耳を塞いで目を背けたい衝動に駆られながらも、そう出来ない理由がそこにはあった。
そうしないであろう人間がいるからだ。
振り返るサティアの目に飛び込んで来る光景は、少女を鷲掴むナーガの姿と、押し倒されるシルフィーナ。
そして薬瓶に手を伸ばすマイクの後ろ姿だった。
「先生!」
反射で身を翻す。
この人は見捨てない。
見捨てられない。
そんな場面をこれまで何度も見てきたし、何度も窮地に陥った。
だから不安だった。
いつか自分の手の届かない所で無謀な善行に走って命を落とすのではないかと常に思っていた。
直ぐにマイクの元へと駆け付けようと慣性の法則に抗い大地を滑る。
そして、勢い付いた身体がようやく止まった時だ。
「バカ!前!」
隣を併走していたグロプの怒号が耳を突いたかと思うと、視界の端に棍棒を振り下ろすオーガの姿が目に映る。
回避不可能。
防御不能。
対処行動に匙を投げた脳が代わりに是迄の思い出をフラッシュバックさせたその瞬間。
メキメキと、とても不愉快な音を発しながらサティアの右肩から先を在らぬ方向に折り曲げた。
衝撃のまま地面に叩きつけられ肺が呼吸を拒絶する。
身体中を駆け巡る激痛よりも先に耐え難い吐き気が彼女を襲い。ぐわんぐわんと揺れる視界は彼女から意識を削ぎ落とす。
「ちくしょー!」
なんかそんな声がすぐ近くで聞こえたと思うと、ガコンと鈍器で岩でも殴ったような音。
そしてボヤけた視界に落ちてくる大きな何か。
それが倒れたオーガの身体だと分かった時には、
「おい!しっかりしろよ!おい!」
自分の身体がグロプに揺さぶられている事に気付いた。
揺さぶられる度にひしゃげだ腕が悲鳴を上げる。
てゆーか、普通に痛い。
「グロプ君。サティアを頼む!」
そしてその声が届いた。
嫌です。
声は出なかった。
そして自分の身体が浮く感覚、直ぐに緑の背中が視界に映り自分をおぶさっているのが分かる。
先生が遠くなる。
嫌だ。
声は出ない。
視界の半分を塞ぐ緑の背中の端から斑に点在するゴブリンやらオーガやらを掻き分け出口へと走っている光景が拡がっている。
出口を抜ける。
日が傾きつつある空から夕陽が照り付ける。
先生は未だ洞窟の中だ。
戻らなければ、きっともう会えない。
ドクンと鼓動が聞こえる。
動悸が早くなる。
嫌だ。心が吠える。
「降ろ…して、下さい」
なんとかそれを口にする。
「馬鹿言うな!そんな身体で何が出来るってーんだ!」
右腕が折れていた。
もうしばらく使い物にはなりそうもない。
もう戦えない。
そんな事は分かっていた。
「降ろして」
グロプは降ろしてくれない。
先生からはどんどん離れて行く。
今すぐ駆け付けなくてはいけないのに。
今すぐ守らなくてはいけないのに。
あの人が死んでしまう。
だからサティアは肩からダガーを抜いた。
ーーー
「!!」
突然激痛が背中を襲いグロプはバランスを失い地面に身体を投げ出した。
勢いのままに地面を転がり、なんとか顔を上げるとヨタヨタと洞窟の方へ歩いて行くサティアの後ろ姿があった。
「先生、先生…。」
譫言のようにその言葉ばかりを繰り返し彼女は歩く。
その手にはダガーが握られていた。
背中を刺された事は直ぐに分かった。
「知らね。もうオイラ知らねーかんな!!」
グロプはそう吐き捨て、サティアに背を向けた。
相棒も死んだ。
これ以上人間達の為に危険を冒す義理は無い。
あの村だってもうおしまいだ。
新しい住居を探そう。
グロプはそう決断して走り出すと、森の中へと姿を消した。
ーーー
ーー
ー
神様は何時だって意地悪だ。
物心付いた頃からそう思っていた。
サティアは親の顔を知らない。
生まれた時から奴隷であり商品だった。
不衛生な寝床と最低限の食事。そして幼い身には不釣り合いな労働環境。
ノルマを熟せない者から罰を与えられ、倒れて動かなくなった者は端から燃やされ捨てられた。
飼い主の気分一つで殴られ、晒され、踏み躙られて…。
周辺には幼い奴隷以外にも沢山の大人達がいたが、見て見ぬ振りをする大人やその光景を見て楽しむ大人など、助けてくれる大人なんて誰もいなかったし、そもそも誰かが薄汚い奴隷を助けてくれる等と言う発想すら無かった。
その中で奴隷は奴隷らしく媚び、従い、跪く、まるで二足歩行の家畜のような、そんな唯一の生き方を学んでいった。
そんなある日の事。
比較的に他の奴隷よりも上手く生きてきたサティアだったが、それでも幼い身体に無理な重労働が重なり大変な失敗を犯してしまった。
主人が経営する店の一つが人手不足になったとの事で、臨時的にその店の店員として、接客をさせられていた時のことだ。
その日一日体調が悪かった事もあり、あろう事か御茶を運んでいる最中に手を滑らせ大切なお客様の身体に御茶を掛けてしまったのだ。
「この野郎!火傷したじゃねーか」
と逆上したお客様に殴られ蹴られ、無抵抗のまま暴力を受け続けるサティアは、「ああ、このまま殺されるんだ」と思いそれを受け入れた。
だけどその時に、意地悪だった神様が気まぐれを起こした。
「火傷をしたのか?どれ直してあげよう」
突然そう言う男はお客様の頭にダボダボとポーションを振り掛けて、お客様もお客様で凄く剣幕な様子で男の胸倉を掴んでいた。
「てめぇ!喧嘩売ってんのか!?」
「ふむ、それは心外だが…。そう思った根拠を提示してもらえるかな?」
今にも殴りかかろうとするお客様にあっけらかんとした様子で肩を竦める男は、素で問いてるのか煽っているのか判断に困る態度を取っていた。
「俺がそれなりに名の知れた傭兵だって分かって言ってんだろーな?てめえ一人殺すことなんて訳無いぜ?」
「それは衛兵の前でも同じことが言えるのかな?悪いが先に衛兵を呼ばせてもらったよ」
男が店の入口を指差し不敵に笑う。それを見てお客様は男の顔に唾を吐いて店を出る。
「まぁ、嘘なんだけどね」
と、お客様の出ていったドアを見詰めてポツリと一言。
兎にも角にも、男は顔をハンカチで拭いながら、『やれやれ』と言った具合にサティアの前に立つと、
「酷い大人がいたものだね。立てるかい?お嬢さん」
男は優しく微笑みながら手を差し出した。
サティアはその手を握りしめた時に初めて、この世には自分を助けてくれるような大人がいる事を知り。
「怪我をしているみたいだね」
あのお客様同様に頭からダボダボとポーションを振り掛けられて、初めてこの男がどう言う人間かを大体察した。
男は店に薬を卸す商人だったらしく、やがて商売も終わったのか背を向けて店を出て行き、サティアは黙ってその背中を見送った。
そしてその日、その時に。
サティアは初めて運命に抗うと言う選択肢を取った。
今考えてもあれば本当に無謀な賭けだった。
もしも店の人間に取り押さえられたら、もしも男に受け入れて貰えなければ…。
きっと悲惨な最期を遂げていた。
だがサティアは店を飛び出し男を追い掛け、そしてその背中を握り締めた。
「私も連れて行ってください」
男は面食らった様に目を丸め、そして困った様に顎に手を当て、そして微笑んだ。
「丁度、助手が欲しいと思っていた所だ」
それがサティアとマイクとの出合いであった。
その日から奴隷は…。
一人の薬師の助手となった。
人が所有する奴隷を連れ出したと言う事もあり、トラブルとなる前にその街を捨てるかと思いきや、詐欺師も真っ青な手口であれやこれやと色々やって、何かよく分からないうちに元飼い主の男から財産騙し取って店の権利書奪い取って、多額の借金だけ押し付け破産へと導いて合法的にサティアを買収すると言う、ちょっと意味分かんないスーパープレイを見せられたりとまぁ色々あった訳だが…。
当時のソレは今でもまだ色褪せずに胸の中でキラキラと輝いている。
サティアにとってマイクとは幼い自分を救ってくれた恩人であり、生きる為の手段を教えてくれた師であり、愛情を注いでくれるの親であり、生まれてはじめて意識した異性であり…。
剥き出しの心臓だった。
彼は狂しい程に善良だ。
助けを求めて来る者を、彼は見捨てられない。
見捨てない。
誰かの為に是迄数え切れない程の危険を犯してきた。
その度に命の危険に晒された。
それでも彼は生き方を変えない。
彼は生まれついてのヒーローだった。
だけど神は何時だって意地悪だ。
そんなヒーローに不可欠な物理的な強さは与えなかった。
だから彼はハッタリと言う名の虚栄の武具を纏って綱渡りを渡り続ける。
さも当然のように…。
余裕の笑みすら浮かべながら…。
ー
ー
彼は地に沈む。
ただ呆然と見ている事しか出来ない自分の目の前で、ピクリともせず彼はただただ横たわる。
流れる血が、そこから出来た血溜まりが、千切れた腕が、折れ曲がった足が…。
最早全てが手遅れだと雄弁に語る。
そんな彼を取り囲む複数のオーガは、ゲラゲラと愉快そうに嗤っていた。
「何だコイツ弱ぇ」
だの、
「雑魚だ雑魚!」
だの…。
彼を踏みつけオーガは嗤う。
神は彼に物理的な強さは与えなかった。
そう言う意味では弱者であることは間違いない。
だけど彼は戦ったのだ。
最後まで救おうとしていたのだ。
「……うな」
許せなかった。
何も知らない癖に。
彼の事を何一つ知らない癖に…。
「私のヒーローを笑うなああああ!!」
サティアはオーガに飛び掛かる。
その反動すらも身体は悲鳴を上げ激痛をもってサティアに反旗を翻す。
多分もう二度とこの脚は走れない。
構わなかった。
多分もう二度とこの腕は武器を振るえない。
構わなかった。
例えここで次の瞬間血反吐を履いて倒れようとも、最愛のヒーローを嗤ったオーガに一閃の報いを受けさせる事が出来るのであれば、サティアはそれで構わなかった。
左手一本に握ったダガーを逆手に持ち、玉砕の想いで最後の特攻をけし掛ける。
『ーー立てるかい?お嬢さん』
刹那に見えた走馬灯は幼い自分に手を差し伸べてくれたマイクの微笑み、あの日の想いで手を握り締める幼い自分を幻視した直後。
振り下ろされる棍棒によって、サティアの意識は永遠の闇へと呑まれて消えた。
状況まとめ
ヘロヘロ→ペッタンペッタン
マイク→瀕死
サティア→死亡
シルフィーナ→囚われ
グロプ→逃走
見せ場からの壊滅回!
なんとか一話にまとめきれたので次回はヘロヘロ回ですね。
私はもう眠いです。