トレセン学園。日本中のウマ娘たちの憧れの場所であり、トレーナーたちにとってもまた同様である。言ってしまえばウマ娘に関わる者全ての聖地である。数多のウマ娘たちがコンマ一秒でも速く走るため、日々トレーナーと一心同体で進んでいる。
そんな施設ゆえ、設備も一流の物が揃っている。トレーニング器具はもちろんのこと、寮の大浴場やトイレに至るまでその全てが最新式だ。外部から見れば大袈裟とも呼べるほどに。だがそれはこの国が、人々がそれだけウマ娘のレースに熱狂しているということと同義であり、故にこの設備の豪華さに文句は出ない。
中でも食堂はその代表例だろう。大食漢、いや健啖家の揃ったウマたちを満足させるため、常に大量の人員と食材が置かれ、栄養学に基づいた食事が毎日多彩な調理によって用意されている。卒業後、多くのOBがその味と手軽さを懐かしむほどに。
ぐぎゅるるるる、とそんな食堂に腹の音が響く。日ごろの訓練でカロリーを多く消費するウマ娘たちにとっては食事も訓練だ。栄養学とスポーツ医学が直結するように、正しい食事なしに正しい肉体は有り得ない。だからこそ、トレーニングの後はウマ娘の誰しもが空腹で食堂へやってくる。昼の食堂は火が付いたような大騒ぎだ。
「あの、トレーナーさん」
「何かなスペ」
「お腹の音が爆音で流れてますけど大丈夫ですか?」
しかし、現在腹を空かせているのは練習を終わらせたウマの方ではなく、人間のトレーナーの方だった。自分のパートナーであるスペシャルウィークの食事を親の仇を見るような目で見ている。これでは箸を進めるのは不可能だ。
トレセン学園にぶっちぎりのトップの成績で入り、その後多くのGⅠウマ娘を送り出した名伯楽。まだ二十代でありながらも伝説と呼ばれるようなほどのエリート。それが今スペシャルウィークの前にいるトレーナーだ。
が、目の前で涎を垂らしながらこちらを見つめている男と同一人物だと誰が信じるだろう。
入学してスカウトされたときは嬉しかった。田舎から出てきて右も左も分からないスペシャルウィークに全てを教えてくれた優しいトレーナー。練習の指示も的確で、そのおかげでいくつかのトロフィーを取ることもできた。
しかし、しかしだ。スペシャルウィークが彼とタッグを組んでからこの食事状況が毎日だ。彼女が食事をしている間、トレーナーは腹の音を鳴らしながら向かいに座る。彼女の食事による栄養を管理しながらも、なぜか自分自身は食事をしないのだ。
「何度も言いますけどお腹が減っているのなら頼んできたらいいじゃないですか!」
ほら! と食堂のおばちゃんを指さす。あそこに行けばご飯はいくらでも食べられる。わざわざ空腹でいる必要はない。食べたいのなら好きなだけ食べたらいいのだ。
スペシャルウィークの何度目かも分からない提案に、トレーナーは仏像のように柔らかく微笑んだ。アルカイックスマイルとはこういうものなのだと例示しているような笑み。
「僕はね、人が食べている所を見るだけで幸せなんだ。だからスぺが食べているのを見ながら霞を食べるよ。気にしないで」
「無理ですけど!?」
今にも餓死しそうな人間の前で食事を摂れるほど、スペシャルウィークの肝は太くない。罪悪感が膨れ上がってまともに食事ができない。餓えている人間の前で存分に食事ができるのは、よほどの人でなしかウマでなしだけだ。
「ちゃんと食べた方がいいですよ!」
今にも死にそうで不安になってくる。トレーナーは明らかに血色が悪い。毎日まともな食事をしていないのだから当たり前だ。土気色の顔色は若い男の顔色ではない。
「いやほら、僕はダイエット中だから」
「ダイエットじゃなくて絶食だと思うんですけど」
マックイーンがダイエットをしているのを見たことはある。だがちゃんと最低限の食事を摂っていて、ここまでではなかった。少なくとも目を血走らせて茶碗に盛られた白米を見つめるようなことはしていなかった。戦後の子供だってここまで餓えた目はしていないだろう。
「大丈夫、ほら。この食堂は水が飲み放題なんだ」
コップに並々水を注ぎ、それを口に運ぶトレーナー。それで腹が膨れるとはまったく思えない。
「水じゃカロリーは摂れませんよ!?」
「水にはミネラルが含まれてるから大丈夫。それにほら、角砂糖も入れてるから」
コーヒーに使う砂糖を大量に紙コップに放り込むトレーナー。糖分と水分以外何一つ接種できていない。その目は大丈夫な人間がする目じゃないとスペシャルウィークは思った。餓えた狼、いや子犬の目だ。というかミネラルが含まれているから何が大丈夫なのだろう。
「ほら、気にしないで」
瞳孔が開いている。スペシャルウィークは昔見たゾンビ映画を思い出した。今のトレーナーの顔はあのゾンビの顔だ。ショッピングモールの前でバリケードを突破しようとしている奴だ。ババアが血迷う前に殺しておかないといけないタイプだ。
スペシャルウィークはできるだけトレーナーの方を見ないようにしながら食事を始める。
ぎゅるぎゅるるる~、と大きな音が鳴った。それはトレーナーの胃から出た爆音だ。
「トレーナーさん?」
「いや、僕じゃないよ」
他に誰がいるんだ。ゴギガガガギゴ、とトレーナーのお腹が音を立てる。
「あの、水属性モンスターみたいなお腹の鳴り方してますけど」
「大丈夫。痛みで誤魔化すから」
トレーナーは手の甲を抓っていた。減量前のボクサーだってここまでしないだろう。そもそも痛覚で空腹を誤魔化そうという考えが間違っているのではないだろうか。痛みのシグナルで空腹信号を誤魔化すのは無茶が過ぎる。
このままでは昼食が終わらないのでスペシャルウィークは箸を持ち、食事を始める。今日は人参の野菜炒め定食だ。かかったタレは匂いだけで絶品である。
「おえっ!」
「人がご飯食べてる時に吐こうとしないでください!」
「ごめん、空腹の所に食べ物の匂い嗅ぐとこうなるんだよね。あるあるじゃない?」
そんなあるあるを人生で日常的に経験するほど日本の社会福祉は崩壊していない。北斗の拳の世界じゃないのだから。
結局、空腹のトレーナーを前にスペシャルウィークは何もできなかった。涎を滝のように流すトレーナーの前で食事をするという、どっちが拷問しているのか分からない昼食であった。
×××
「はぁ~~」
スペシャルウィークが大きく溜息を吐いた。脳内を占めているのは自分のトレーナーのことだった。しかしそれは青春の甘酸っぱい物ではない。純粋な興味と心配によるものだ。
トレーニングも集中できず、何度もトレーナーに怒られた。「(原因は)お前じゃい!」と言えたらどれだけ楽だっただろう。
「どうしたのスぺちゃん?」
「スズカさんは気にならないんですか? トレーナーさんの事」
「私はほら……慣れたから」
チームに入るのがスペシャルウィークよりもずっと早かったサイレンススズカにとって、もはやトレーナーの腹の虫は慣れたものだった。今更騒ぎ立てるほど、トレーナーとの関係は短くない。人はそれを麻痺とも言うことを、サイレンススズカは知らない。
「私も今日はご飯を十五杯しか食べられなかった」
同じチームのオグリキャップが溜息を吐く。スペシャルウィークと揃ってトレセン学園の二大健啖家である彼女にとって、十五杯というのは非常に少ない量だ。普通の人間で言うと「今日の昼飯、おっとっとのヒトデだけだわ」ぐらいである。
「そうですよね。私も十四杯しか食べられませんでした」
「うん……うん……?」
何か間違っているような気がしたが、サイレンススズカは黙っておくことにした。今ここで口を挟んでも二対一で自分が少数派なのは間違いない。沈黙は金だ。
「食堂はトレーナーの人なら無料で使えるのに。おかしいですよスズカさん」
「そうよね……」
トレセン学園に所属しているならば、どれだけおかわりしようが無料だ。だからわざわざ食事を抜く必要など無い。たとえ財布に一円も無くとも、食事は無料でできるのだから。それなのになぜ食べないのか。
「もしかして私、なんかやってしまったんでしょうか」
「スペちゃんが来る前からあの様子だもの。それはないわ」
トレーナーがいつから食事をしていないのかは分からない。しかしサイレンスズカが初めてトレーナーを見た日、彼はドリンクコーナーに置いてあるコーヒーの横にある角砂糖を直接舐めていたので最初からだろう。入学した時、スラム街に異世界転生したのかと思った。
「どうして食べないんでしょう……」
スペシャルウィークは不安になってきた。ご飯は一回抜くだけでも倒れそうになる。空腹が何より辛いことを彼女は理解している。毎日トレーニングに付き合ってくれるトレーナーだが、いつか倒れるのでないかと思うと気が気でない。
「牛さんなら餌を置けば食べるのに……。あっ、もしかしてトレーナーさんはベジタリアンなんでしょうか!」
「そう言えば私もトレーナーがツツジの蜜を吸っているのは見たことがある」
「花の蜜を吸って生きてるベジタリアンはいないと思うわ」
常人が手を出す主義主張としては過酷すぎる。それはもはや修行僧の領域だ。
「何か事情があるんじゃないかしら。例えば……何か病気を抱えているとか」
「病気……!」
それは考えたこともなかった。スペシャルウィークはトレーナーの方を振り返った。
「えっ!? 寮の傍にハチの巣ができてるだって! お任せくださいたづなさん! 僕が処理をしましょう! さあ巣はどこですか!」
「あの、トレーナーさん。ハチって危険ですからね? そんな涎垂らして目をキラキラさせるものじゃないですからね? 専門の業者さん呼びますから大丈夫ですよ?」
「いえいえ、慣れてますんで。確か一回までは刺されても大丈夫なんですよね?」
「一回でも駄目ですよ!?」
「あれ、何してるのトレーナー」
「お、テイオー。確か君ははちみーが好きだったな。よし、おすそ分けしてやるか。テイオーって蜂の子って大丈夫?」
「いらない」
「遠慮するな。幼虫はタンパク質たっぷりだぞ」
「そんなにタンパク質に困ってないよ……」
「まあ初心者だもんな。素揚げにすれば大丈夫か?」
「だから食べないよ!」
「胃袋以外はすごい健康そうですけど」
病気の人間はあんな笑顔でハチの巣に突撃しないだろう。あれほどの笑顔を見るのは自分のデビューレース以来だとスペシャルウィークは思った。そう考えると悲しくなってきた。自分のレースは蜂と同じレベルなのか。
「まったくだ。ハチの巣など危険なことこの上ないぞ。ところで話は変わるが蜂の子ってどんな味なんだ?」
「全然話は変わってないんじゃ……」
サイレンススズカはオグリキャップの口元から涎が垂れていることは触れないでおくことにした。「虫食か……」と呟いているのも聞こえないふりをする。
「よし! トレーナーさんのことを調べましょう! どうしていつもお腹を空かせているのか調査するんです!。分からないことは自分で調べるのが一番です! 捜査の基本は足ですから!」
名案だと言わんばかりにガッツポーズをするスペシャルウィーク。
「シャーロック・ホームズみたいだな。そういえばファミコン版のやつはキックで敵を倒していたな」
思い出にふけるオグリキャップを見てサイレンススズカは「お前は何を言っているんだ」と思った。まったくピンと来ない例えを出されても困る。
「そうそう! 判定が少しでもずれると虫眼鏡コマンドが役に立たなくなるんですよね!」
「私、時々スぺちゃんたちの言っていることが分からなくなるわ」
「えっ!? スズカさんあのゲームやったことないんですか!? 2コンがないとコンティニューできないやつですよ!」
「それやってないのって驚かれるほどメジャーなゲームなの?」
「大奥記、デスクリムゾン、シャーロック・ホームズが三大日本のゲームじゃないのか……」
どんな世界線からやって来たのだろう。前世で何をしたらそんなゲームしかない世界に放り込まれるのか。そう思いながらサイレンススズカは意気揚々と歩くスペシャルウィークの後ろを着いていった。オグリキャップはなぜか着いてこなかった。
「ぐわああああ! 蜂に刺された! タイシン、おしっこかけて!」
「死ね」
「じゃあエアグルーヴ! おしっこちょうだい!」
「くたばれ」
遠くから聞こえてくるトレーナーの声をサイレンススズカは無視した。