プロローグ:運命の日
ピリピリと張り詰めたような空気と裏腹に、賑やかな雑踏がここまで届く。
もう秋も深まったというのに、まるで夏と再来と思わんばかりなほどの熱気が、こちらまで伝わってくるようである。
コツン、コツン……。
足音が反響する。一歩一歩、踏みしめる度に、熱狂の渦の中心に近づいていくのを肌で感じる。
彼女はゆっくりと地下バ道を歩み進めた。
先程から鼓動がやけに高まっている。
緊張をするな、という方が無理がある。
彼女にとっては初めての大舞台。これまでに重賞を三度経験しているが、その比ではない。
足を止め、目をつむる。
『今から怖じ気ついていては、だめだ』
バ場に入れば、もうそこは決戦の舞台なのだ。会場に飲み込まれている場合ではない。
彼女はゆっくりと息を吸って吐いて、心を落ち着かせる。そして右手を胸元にかざすと、ギュッと握りこぶしを作り、自分に活を入れる。
(よし……行こう!)
それまでどこか朧げだった彼女の足取りが、どこか勇ましくなっていた。
地下バ道を抜けた先の景色は――まさに圧巻であった。
どこを見渡しても人で溢れかえっている。これだけの大勢がこのレースを見に来ているという事実が、高揚を覚え、少し身を震え上がらせる。
「これがGⅠ……」
そんなつい漏れた独り言も、この喧騒の中では、かき消えてしまう。
すでに観客たちのボルテージは最高潮に達していた。
今日はこの京都レース場に、多くの観客が詰めかけている。
述べ、12万人以上――すべてはこれから始まる、歴史に残るであろうレースを見に来ていた。
史上5人目のクラシック三冠ウマ娘の誕生の瞬間を、見届けるために……。
しかしそんなことは彼女にとって無縁のことだし、クラシック三冠のレースはおろか、GⅠの舞台は今日が初めてとなる。
まだ着慣れぬ勝負服……そこに浮かれている様子などなく、ただまっすぐに前だけを見つめていた。
(コンディションは……大丈夫……!)
柔軟を行い、軽く走り込んでアップを済ませ、芝と自分の足の具合を、大地を踏みしめて確かめる。
天候、晴れ。芝、良好。足もよく動いている。
気持ちも問題ない。GⅠの舞台だからといって掛かっていない、落ち着いていられている。
あとはゲートに入り、その時を待つだけ。
進むべき方向に視線を送ると、ふと一際歓声を浴びている一人のウマ娘が視界に写った。
(ミホノ……ブルボン……!)
きつく口を結び、忘れもしない京都新聞杯で辛酸を嘗める結果になった元凶のウマ娘の名を心の中で叫ぶ。
あの皇帝”シンボリルドルフ”以来の無敗での三冠ウマ娘をかけたこのレース。
さぞ周囲からの期待や、重圧は計り知れないものであろう。
それでもあそこにいるミホノブルボンは、京都新聞杯に相対したときと同じく堂々と、まるで感情のないマシーンのようにひどく冷静そうであった。
ただ一点、違うとすれば――内から闘志のようなものが漏れ出ていると、錯覚するほどの気迫を感じる。
ミホノブルボンもまた、このレースにかける強い意志があるのであろう。
これが無敗で二冠のウマ娘の風格――。
おそらくこの場にいるものだけにしか感じ取れないだろう。
それに触れるだけで、身がすくんでしまいそうな……まるで他者を寄せ付けない、圧倒的なオーラを醸し出してる。
『大丈夫、あの時のように、足はすくんでない』
初めてミホノブルボンと対峙した京都新聞杯。
彼女は、今のようなプレッシャーを受けてしまい、萎縮し、スタートが出遅れるという失態をやらかしてしまった。
彼女は今でもその光景が、脳裏に焼き付いている。
スタートが決まらずリズムに乗れなかったこともあるが、ただ一度も先頭を取ることができなかった。
完全なる敗北――。
すべての歯車を狂わされた。
その時は、夏の上がりウマ娘と言われ上り調子と言われていたが、結果を残せず、10人中9着という大敗を喫する。
相手にとっては、ただの
だが彼女にとっては、乗り超えなければならない障害となった。
相手も彼女と同じ逃げ脚質……ミホノブルボンを超えなければ、勝機は万に一つも訪れない。
『絶対に負けない――!』
そうプレッシャーを跳ね除けるように、ミホノブルボンの方をきつく睨みつけた。
自らを決起させていると、ひとしきり賑やかな、ファンファーレがレース場に鳴り響く。
その音に合わせ、大地が揺れるかと思うほど歓声が辺り一帯に響き渡る。
ついにその時がやってきた。
まるでそれが合図かのように、ファンファーレが鳴るとともに、ウマ娘たちが次々とゲートへ入っていく。
彼女も自分のゲートへと入る。すべての決着を――因縁を終わらせるために。
6枠12番11番人気……。
彼女自身、今日の主役が自分でないことはわかっていた。
しかしそれでも、譲れない物があった。そこにかける強い想いがあった。
『何があっても、ミホノブルボンに先頭を譲らない!』
これしか戦い方を知らない。ただ一重に、己の戦いを貫き通すだけ。
それは自分が自分であるために、自分の走りを証明するために――そしてなにより、あの日の雪辱を晴らすために。
キョウエイボーガン――その日、彼女の運命を揺るがす菊花賞が、今始まるのであった……。