思えばあたしにとって、走るということはずっと前からごく当たり前のことで……いわば生活の一部だった。
風を切って駆け抜けると身体中が喜びを上げる。
それがウマ娘としての性なのかよくわからないけど、小さい頃から単純に走ることが好きだったし、誰よりも一番で駆け抜けた時はとても気持ちよかった。
あたしはいつも運動会とかで1着を取ると、
するとおじいちゃんはまるで自分のことの用に、普段は無愛想な顔を緩めて喜んでくれた。
それがなによりも嬉しかった……。
すっかりおじいちゃんのことが大好きになっていたけど、最初の頃は、いつも無愛想でちょっと顔が怖かったので、苦手だったこともあった。
けど一緒に暮らしいくうちに無口で無愛想ながらもあたしに優しく接してくれて、気がついたら苦手意識なんかなくなっていた。
そしておじいちゃんの喜ぶ顔が観たくて、もっともっと早く走れるよう、誰よりも一番になって1着を沢山とれるよう、夕暮れまで長い階段の道を何度も往復したりと……子供ながらトレーニングなんかに明け暮れたりもしていた。
……我ながら微笑ましい。
子供時代のあたしは多分……クラスの男の子と混じってよく遊ぶ、やんちゃな子供だったと思う。
それを裏付けるわけじゃないけど、あたしに親がいないことや、授業参観でおじいちゃんが代わりに来たことをクラスの男子にバカにされた時は、かけっこ勝負で決着をつけるよう持ち込んで圧倒的大差で勝って、バカにした子を黙らせてみせた。
『悔しかったらあたしに走りで勝ってみろ! バーカー!』
と、勝ってはそうよく吠えていたものだ。
今思えば、なかなか痛々しい子供だ……。
でもそれくらい、あたしにとって走ることは身近なことだったし、切っても切り離せないものだった。
だからか自然と、トレセン学園に入ってトゥインクル・シリーズで活躍することを夢見るようになった。
きっかけはなんだっけかな……多分、テレビでトゥインクル・シリーズの中継を観たことだったと思うけど、小さい時の頃なのでちょっとはっきりとは覚えてはいない。
そんな子供の頃に抱いた夢をずっと抱き続けてあたしは育った。
そして夢を現実にするために、あたしは迷わず進路希望に『トレセン学園』と書いて出し、倍率数十倍という狭き門のトレセン学園を受験した。
この頃から何か目標を決めると、それに向かって突っ走る性格だったみたい。
まあそんなこんで受験したはよかったんだけど……当時のあたしは、全然受かる自信はなかった。
あんまり勉強ができるほうじゃなかったので、筆記試験の手応えはなかったし、実技も周りをあっと驚かせるようなすごい成績を残せたわけじゃなかったし……。
今なら言うけど、正直落ちたと思ってた。
合格する確率は低く、無謀なチャレンジだったかも知れないけど後悔は微塵にも感じていなかった。
トレセン学園を受験したいとおじいちゃんに打ち明けた時、「ダメでもともと、挑戦してみればいいじゃあないか」と、激励の言葉を貰って、『やってやろう』って息巻いていたものだ。
だから結果がどうなっても挫けたりしない、そう自分の道を信じて歩けた。
なにかの間違いか運命の悪戯か、合格通知が届いた時は本当に驚いた。
そして赤飯を炊いたり、ケーキを買ったりと、おじいちゃんと一緒に一晩盛大に喜びあったものだ。
……あれは楽しかったなぁ。
大切な思い出……今はもうおじいちゃんと逢うことは叶わないけど、おじいちゃんに引き取られ、おじいちゃんと一緒に過ごした日々は幸せだったよと――胸の奥にしまってある。
そうしてあたしはトレセン学園に入学して、トゥインクル・シリーズで活躍できる日を目標に、毎日励んだ。
その道程は、けして順風満帆ではなかった……。
少しは走りに自信があったけど、流石は全国各地から才覚あるものだけがその門をくぐることを許されるトレセン学園、天狗になっていたあたしの鼻を折られた。
才能のあった周囲のクラスメイトは早々とチームのスカウトを受けてデビューして、夢を叶えた者もいた。
対する自分は、入学して数年間は勉学やトレーニングに付いていくのがやっとで、たまに選抜レースに出場できたぐらいしか成果を残せなかった。
あたしと同じような境遇で、地方から来た地元では敵なしと謳っていた者の一部は、現実の厳しさにぶつかって夢を諦め、トレセン学園を去っていったウマ娘もいた。
けれどあたしは何度挑戦して破れても……次こそはと――夢を諦めず、努力し続けた。
この時は辛くてもまだ頑張れたし、諦めなければいつか何とかなるって信じていた。
まあ実際、その努力が結びついて、チームにスカウトされたし、デビューすることができて、憧れだったトゥインクルシリーズで走れることもできたから、全部が全部無駄ではなかったと思うけどね……。
憧れていたトゥインクル・シリーズの世界――。
テレビなどで観ていた時はもっと華々しくて、綺羅びやかな世界だと思っていた。
けれどそれは表面上のことだけで、あの輝かしい勝利の栄光は、血の滲むような努力とわずかばかりの時の運によって持たされるものだと知った。
だからこそあたしもその栄光に焦がれたし、是が非でも掴みたいと願った。
どのレースをとってみても、無意味なものはなかったと思う。
レースで負けた時は本当に悔しかったし、勝った時はその何倍も嬉しかった……。勝っても負けても得られるものがあった。
――引退間近のは除いて……だけど。
けして楽しい事ばかりではなく、辛く苦しいことも沢山あったレースの世界……。
けれども、あたしの中で『走らなければよかった』ということはなかった。
憧れを憧れのままで終わってしまう者もいる中、僅かでも栄光の片鱗に触れ、ターフの上を駆け抜けることが出来た日々はかけがえのないものだったと――そこだけは言い切れる。
だからこそ……美しい思い出のまま、自分の意志で終わろうと思ったのかも知れない。
大きな怪我をして脚部に不安を抱え、そして本格化の終わりの足音が聞こえるようになり、もうあたしは前のように走れない、いずれレースで走れなくなると思い知らされた。
走ることが唯一のあたしの取り柄だったのに、それが失われてしまったら一体何が残っているのだろうか……。
――何も答えられない。
でもまだ走れないわけじゃない、完全に終わったわけじゃなかった。
たとえ勝てる見込みがなくてもレースには出れる、ギリギリまで競走生活を続けることもできた。
だけどあたしは……それをよしとできなかった。
自分の気持ちに嘘はつけない。
惨めに走る事へしがみつくより、きっぱり諦めて
……後悔はあるよ。
やり残したことはいっぱいあったよ。
でも今のあたしではもう叶えることはできないし、何よりチームのみんなに迷惑をかけるのが嫌だった。
きっとあたしがこんなボロボロの状態でも、チームのみんなは受け入れてくれるだろう。
それほどみんな温かいし、ずっとそこに居たくなるような居心地の良さがある。
だからこそ……余計に辛い。
負ける度にみんなから気を使われ、励まされ……。
あたしはそれに甘えてしまうだろう――。
そんな未来は想像するだけでも虫酸が走った。
共に競い合い、切磋琢磨し合う仲にこそ、きっと絆は紡がれる。
大切な仲間だからこそ、対等の関係でいたい――きっとあたしは我侭でプライドだけは一人前なんだと思う。
終わり良ければ全て良し……そんな見栄を張って、あたしはみんなとも別れることを決めた。
引退――レースに出て走ることを辞めるということはつまり……チームを抜け、トレセン学園から去り、
トレーナーに考え直すように言われたけど……あたしの気持ちは変わらなかった。すでに固まっていた。
自分で言うものなんだけど,ほらあたしって一度決めたことは曲げない、頑固者だし……。
だからあの後、チームの部室に呼び出され、トレーナーとラフインとマーチの三人から色々言われたけど、断固意思を曲げなかった。
まあ、みんなあたしのことを思って引き止めてくれているのは伝わっていたから、それを無下にするのは気が引けたけどね……。
そういえば意外だったのが、ルーブル先輩だった。
あたしたちがお互いの話をきかず、平行線をたどっていると、ルーブル先輩が突如、間に入ってきた。
「まあまあお前さんたち、おそらくボーガンが悩んで考え出した結論なんだろうよお。ここはボーガンの気持ちを組んでやるのが、粋ってえもんじゃあねえのかい?」
と、全面的にあたしに賛同してくれたのだ。
……一瞬、自分の耳を疑ったのは秘密だ。
だって部室に最初から居たけど、ずっと押し黙っていたのだから、てっきりルーブル先輩は機嫌が悪いのだと思っていた。
『ちょっと足が遅くなったからってえなんでえ! レースから逃げんな、この唐変木!!』
とか怒鳴られるのは覚悟していた。
だから、いの一番にあたしに理解を示してくれたことがびっくりだった。
一度は周囲に猛反対されたけど、ルーブル先輩の後押しもあって、チームのみんなとはお互い納得した上で、円満に解決できた。
落ち着いたらまたいつか会おう……そんな約束を交わして――。
その日が本当に来るのか、わからなかったけれど……。
ともあれ、ケンカ別れみたいにならなくてよかった。
詳しい理由などはきかず、あくまで自分の意志を尊重してくれたルーブル先輩には、ただ感謝しかない。
トレセン学園に入って一番良かったことはやはり、彼女たちチームのみんなと出会い、一緒に切磋琢磨して、とても充実した生活を送れたことだろう。
そんな想いが沢山詰まったトレセン学園を、あたしは間もなくして去った。
見送りは気恥ずかしいから、誰にも会わないようにこっそり朝早くに少ない荷物を抱えて寮を出たんだけど……校門で待ち構えていたトレーナーに見つかってしまった。
挨拶もせず黙って出ていこうしたあたしに対して、何か小言を言われるかと思った。
けど違った――。
「何か困ったことがあれば遠慮せずいつでも私に連絡下さい。どうかお元気で……」
と、トレーナーの連絡先が書かれたメモをあたしに渡しながら、優しいエールをくれた。
最後まで本当に面倒見が良くて、そしてお節介な人だ……。
けどあたしに手を差し伸べてくれた――居場所くれた恩人だった。
散々弄ばれた運命だったけど、トレーナーやチームのみんなと出会えたことは本当に良かったと、それだけは確信をもって言える……。
あたしはトレーナーに深く一礼して、数年間お世話になったトレセン学園を後にした。
……思えば、レースで華々しい活躍はできず、ちょっとした爪痕を残したぐらいだったけど、ウマ娘として走ることだけを考えられたの日々は、幸福だったと思える……。
それに比べて……学園を離れてからは、苦悩の毎日だった――。
おじいちゃんが亡くなり、帰る場所が無くなったあたしは……施設に入ることになった。
こういった施設に入る子というのは、家庭に何だかの事情があるとか、あたしみたいに身寄りがないとか、脛に傷持つ者ばかりだ。
そこでひどい苛めにあったとか、嫌な職員が居るとか、そういう事ではないんだけど……明るく楽しい生活は、とても送れなかった。
施設にいる子の年齢層は揃って低い。
なぜなら、高校を卒業したら施設から卒業――強制的に出ていかないといけないからだ。
そしてあたしは、施設に入って間もない、新しい高校に編入したばかりだというのに……すでにその期限が迫っていた。
施設に居られる時間は残り少ない……。
あたしは自分の将来のためにも、奨学金の返済もあるので少しでも貯蓄しておこうと、早朝から学校に行くまでと学校の授業が終わって施設の門限ギリギリまでアルバイトに勤しんでいた。
満足に寝れる時間なんてなかった……。
いつも眠い目をこすっていたし、学校の授業中、居眠りしてしまったのはしょっちゅうで、
まさに寝る間を惜しんでアルバイトに明け暮れていたし、施設を出ても生活できるように就職活動も合間の時間を縫って行っていた。
そんな生活だったので、学校のほうは全然満喫できていなかった。
トレセン学園で履修していた科目と一般の学校の学習内容に差異もあって、あたしは休み時間を割いてでも自習しないと慣れない授業についていくのが必死だったし、友達を作る余裕とか、放課後どこか遊びに行くとか、そういった高校生らしい青春を送る暇がなかった。
一時期は高校を中退して就職しようとも考えたけど、周りから『高校は卒業したほうがいい』『将来苦労する』と、言われたので高校は卒業しようと思っていた。
お金があったら進学するとか選択肢もあったんだけどね……。
ああ、そういえばトレーナーに、トレセン学園のサポートスタッフの研修生に編入することを勧められたけど、あたしには走ること以外に特筆した特技なんてなかったし、たいして頭もよくないし、専門的な知識もなかったから編入試験は受けなかった。
まあ……走ることを諦めたのに未練がましくトレセン学園に居続けるのも、どこかいたたまれない気持ちがあったからかもしれない。
とどのつまり――あたしには走ることしか、能がなかったのだ。
それがなければただのごく一般的な十代の少女と何も変わらない、むしろそれ以下なのかもしれない……。
そんな劣等感にも似たものを抱きながら、時は無情にも過ぎていく。
繰り返される日々――毎日同じような時間が流れていった。
なかなか内定が決まらず焦燥感だけが積もっていく。
それほど学力も秀でていない、社会に出て役立つスキルも特にない、何か誇れる立派な活動を送ってきたわけでもない、ただ一時期レースで走っていただけ……。
何より住み込みで働かせてもらえる勤め先を見つけるだけも一苦労だった。
そして状況が一転しないまま月日は流れ、やがてその時は訪れた――。
半年にも満たない僅かな間だったが、お世話になった施設を退去した。
ここに来たときよりも更に少なくなった、生活必需品だけが入った荷物を抱えて……。
圧倒的に時間が足りなかった。
一社面接を受けて結果を待ってダメだったら別の就職先を探す……どうしたってこれでは時間がかかってしまう。
あたしは何度も同時に複数の会社に応募したいと申し出たけど、学校からは『規則だから』と、最後まで許可はおりなかった。
結局、就職も決まらないまま学校を卒業を迎え、施設から追い出されてしまった……。
しばらくは夜だけネットカフェに寝泊まりながら、高校の頃勤めていたアルバイトを続けてなんとか食いつないだ。
どこか家を借りようとしても、身分証もない、連帯保証人を用意できないあたしには無理だったので、泊まれる場所がそこしかなかったのだ。
アルバイトがない日は、昼間は無料で入れる図書館とかショッピングセンターの休憩スペースとかで時間を潰し、夜になったらネットカフェのナイトパックで一晩明かす……。
食費も切り詰めていたから、お腹いっぱい食べられることなんてなかったし、節約のために公園のベンチで夜を明かしたこともある。
まだギリギリなんとか生きてこられた……。
でもそれも長くは続かない。
アルバイト先に住所がないことが知れて、「それでは雇えない」と、アルバイトを解雇されてしまった。
最後の頼みの綱の収入源が途絶えた――。
そこからはどんどん追い詰められていった。
アルバイトで貯蓄していたお金も、ただ毎日生きているだけで通帳の額がすり減っていく。
他のアルバイトを見つけようにも住所がないとダメだったし、肝心の家も借りれることもできず、泥沼だった……。
施設を出て、何度目かの春を越し夏になって秋が深まり冬を迎える。
あたしは冬の寒空の下、残りわずかとなった所持金――片手ですくえるほどの少ない小銭を握りしめていた。
いよいよ路銀が尽きかけ、露頭に彷徨っていた。
どうしていつもこうなんだろう……。
必死に頑張ってきた、懸命に努力を続けた。
けど結局またこれだ……。
ウマ娘としてはダメだったけど、せめて普通の人として、まっとうな人生くらいは歩みたい――そんなささやかな願いすら叶わない、叶えることができなかった。
どうやら運命の神様はあたしを幸福にはさせたくないようだ……これが本当に『運命』だというのなら、運命をひどく呪いたい。
それだけ絶望するには十分な時間があったし、現状について思い悩む暇ならいくらでも足り得りた。
残された手立ては少なく、限られている。
ホームレスになってゴミを漁って生きていくか、窃盗など犯罪を犯して食いつなぐか、街を当てもなくブラブラしていたときに誘われた売春系のお店で働くか……。
――どれも選びたくない。最悪の手段だった。
誰もいない公園のベンチに座り込み、思わず出たため息が、白い息となって吐き出される。
今日はやたら冷える……。
温かい家はもちろん、毛布や厚着できるような服もない。
ここで野宿するには厳しい気候。このままここにいたら、おそらく風邪をひいてしまうだろう。
そう頭でわかっていたけど、もう一歩も足が動かなかった。
動かす気力が湧かなかった。
ここに行くまでにすれ違った人々――楽しそうに談笑している女子高生たち、幸せそうに手を繋いでいる恋人、仲睦まじそうな親子……どれもこれも眩しく見えてくる。
町並みに一人佇んだところで、手を差し伸べてくれるものなどはいやしなかった。
この先あたしはずっと一人なんだ……そう思い知らされる。
何もかもが虚しい――。
あたしは一体何のために今、生きているのだろう……。
いっそこのままここで眠りについたら、楽になれるのかな……。
もう頑張ることには疲れたし、前向きに考えることすらままならない。
明日すら真っ暗で光が差さず、足元すらおぼつかない。
俯くことしか出来ないで、もう疲れきってしまった。
あたしはこんな人生を送るために、レースから退いたわけじゃないのに……。
大切な人たちと別れたわけじゃないのに……。
何をやっても上手くいかない。
この先、この運命に抗ったとしても、待っているのは先が見えない暗闇だけ……それって生きているっていえるのかな?
ううん、生きていない。ただ死んでいないだけ……。
寒気が止まらない、手の震えが止まらない。
自分の腕で自分の身体を抱きしめてみても、外にいるせいかぬくもりなどちっとも感じられなかった。
なら――本当に、自分の手で終わりにするのも……。
それは最後の最後の選択肢だった。
しかしそれはけして選択してはいけないもの――。
わかっている……けど、全てを終わりにしてくれる。
今起きている全ての苦しみから解放されるかもしれない。
甘美な誘惑……このままそれに負けてしまいたい、楽になってしまいたい……。
だからあたしは……。
あたしは――。
――――ッ。
「……嫌だ……死にたく…………ないよぉ……」
どん底に追い込まれ、たった一縷の望みが、あたしの口から自然にこぼれた。
悔しくてただ悔しくて……目元から涙がこぼれ落ちる。
何を諦めるものか――。
運命に翻弄され続け、色々なことを諦めて捨ててきたけど、生きる権利までは捨てきれなかった。
あたしが今まで築いてきた軌跡を自分で否定したくない。
紡いできた大切な人たちとの思い出まで無くしたくない。
涙がとめどなく溢れて、止まらない。
――生きたい、生きて幸せになりたい……。
やっとわかった。
ここまで追い込まれて、あたしの本心がわかった。
お母さんが産んでくれた、おじいちゃんが繋ぎ止めてくれた、トレーナーやみんなで過ごしたこの生命を最後まで手放すことを、あたしは諦めれなかった。
会いたい。
トレーナー……ルーブル先輩……ラフイン……マーチ……クラスのみんな……誰でもいい、あたしを知っている誰かに無性に会いたい。
会ってあたしはまだ生きているよって、伝えたい。
思いに馳せ、溢れる涙を噛み締めていると、ふと脳裏に誰かの言葉が浮かんできた――。
『何か困ったことがあれば遠慮せずいつでも私に連絡下さい』
荷物の中から、あの時もらったメモを慌てて広げる。
今の今まで忘れていた……トレーナーと最後に交わした言葉だった。
頼ろうと思えば、頼れる人はいたじゃないか。
なぜ思い至らなかったのか……。
いや……多分あたしは意図的に思い返そうとしなかったのだと思う。
こんな無様に落ちぶれた姿を知り合いに知られたくなかったから、ちゃんとした生活になるまで誰にも頼ろうとせず頑張っていこう、見栄を張っていた。
けどもう自分一人でどうこうできるレベルじゃない。そんな恥を忍んでいられる余裕はない。
――あたしが今、生き残るためにトレーナーに連絡しよう。
そうあたしは決めると、涙を振り払ってベンチから立ち上がると、荷物を置き去りにしたまま最寄りの公衆電話のところまで駆け出していた。
さっきまで一歩も動けなかったのに、自然と足が動いた。
公衆電話に辿り着くと、息を整えるのも忘れ、残ったお金全てを注ぎ込んで、メモに書かれていたトレーナーの携帯の番号に電話をかけた。
――静寂の中、自分の呼吸音と、コール音だけがしばらく続く。
忙しいのだろうか、中々繋がらない。
思い立ってトレーナーに電話をかけてしまったけど……。
繋がっていざ、なんて言えばいいのだろうか。
急に不安に駆り立てられる。
トレセン学園を去って幾ばくか過ぎた。
もしかしたらもうあたしの事なんか覚えていないのかもしれない。
これまでの辛い境遇で、ネガティブな……どんどん嫌な考えが思い浮かんでくる。
何度目かのコールの後、やはりやめてしまおうと受話器を置こうと思ったその時――電話が繋がった。
『はい――長末です』
変わらない、懐かしい声だった……。
たった最後にその声を聞いたのは数年前のことだけど、ずっと遠い日のように思える。
「――あ、あの……」
どうしよう……声が全然出てこいない。
ここ最近、人とろくに会話していなかったせいか、まるで発し方すら忘れているかのようにうまく言葉を発せない。
それに突然電話をかけて、なんと言えばいいのかわからなかった。
『……もしもし、少しお声が遠いようですが……』
押し黙ってしまったこちらを心配するようなトレーナーの声が、受話器越しから聞こえてくる。
早く何か喋らないと……。
いたずら電話だと思われて、電話を切られてしまうかも知れない。
そう心のなかで葛藤している間にも、公衆電話の通話可能時間の残り秒数の表示がどんどんと減っていき、タイムリミットが近づいていく。
もうお金はない……今を逃したら次は訪れない。
何を迷う必要があるのだろうか……。
もうあたしには意地も尊厳もなんても残っていない。
だから今だけは誰かに甘えていい、迷惑をかけてもいいじゃないか……。
受話器を握る手を両手で強く握ると、意を決する。
「トレーナー……」
震える声でそう呟くと、トレーナーはそれであたしだと気がついたようで、慌てた声を出してきた。
『その声は――もしかしてボーガンさん! どうかされたのですか!?』
伝えたいことは沢山あった。
沢山あったからこそうまく伝えられない。
だから不器用にもたった一言、こう懇願した。
「お願い……助けて…………」
『いまどちらに居ますか?! すぐにそちらに向かいますので!』
あたしが今の居場所をぼそりぼそりと伝え終わると、トレーナーにお礼や謝罪などろくに出来ないまま、通話可能時間が過ぎて、プツリと電話が切れてしまった。
もうトレーナーの声が聞こえない。
名残惜しそうに受話器を置いて、そのままそこで寒さに凍えながら、少しでも寒さを凌ぐために、膝を抱えて座って待つことした。
あれからどのくらい時間が過ぎたのだろうか……。
よくわからない。
なんだがすごく眠い。
だんだん意識が朦朧としてくる……。
眠ってはいけないと理解しているんだけど、うまく意識を保てない。
あー……、もしかしてあたし、死んじゃうのかな……。
身体の感覚がどんどん薄れていく。
こんなところで終わりたくない。けど、どうしょうもなく眠い……。
このまま寝て起きたら、おじいちゃんに会えるかな……なんてそんなことをぼんやりと考えていると、どこか近くで車の大きなブレーキー音が聞こえた。
そして薄れゆく意識の中、あたしの名前を叫びながら誰かが駆け寄ってきたような気がする……。
それが誰なのかすらもうわからず……あたしの意識はそこでプツリと途絶えた。
後編へ続きます。