ドドドドドドッ……。
ウマ娘たちが芝を蹴り上げると、まるで大地が悲鳴を上げているかのように、唸りを上げて振動音が辺りに木霊する。
今はレースは開始直後から、少し進んで序盤を過ぎたあたり。
第一コーナーを抜けた頃合いで、位置争いが終わって、一段落ついたといった所だ。
「くぅぅ……。わたくしとしたことが、しくじった――しくじりましたわ……」
ターフの上を駆けながら、誰に言うのでもなく、ヒダカベルベットは小声で口惜しそうにそうぼやく。
彼女は、ほぼ先行に近い位置の集団に揉まれていた。
本来の彼女の作戦であれば、もっと後ろの方で脚をためて、終盤からまくるのが常道であったが、不運にも序盤の先行争いに巻き込まれる形でこのような不本意な位置取りになってしまった。
集団から抜け出そうともがくも時すでに遅し、こう取り囲まれてしまっていては、思い通りにはいかなかった。
ならばいっその事、斜行覚悟で強引に突破してしまうか――ついそんな乱暴な思考が頭をよぎる。
(いけない、いけない……。まずは冷静にならないと……。チャンスはきっとまだやって来るはず……!)
まるで自分にそう信じ込ませるように念じる。
歯がゆい思いをさせられながらも、今は少しでも体制を整えることに注力するため、周囲の状況をじっくりと観測する事に徹した。
「さすがでわすね……ボーガンさん……」
先頭を走るボーガンの背中を視界に捉えると、そんな感嘆が漏れ出す。
彼女の姿に、自分も負けていられないと、負けるわけにはいかないと、鼓舞される。
なぜなら自分にも志す決意――譲れない想いがあった。
ヒダカベルベットには年の離れた大いなる姉がいた。
その姉もすべからくウマ娘であり、桜花賞を戴冠した誉れあるGⅠウマ娘である。
幼きベルベットにとっては姉の姿はまさに憧れの象徴であったし、最後にためた脚で後方から差し込む追い込みスタイルも、姉の走り方に影響されたのが大きい。
そんな憧憬から挑み始まったトゥインクル・シリーズであったが、今度は自分が後続に己が姿を指し示す時――妹たちに見せる番となった。
チーム戦という舞台で花開くことも彼女の夢のひとつであるが、けれどトゥインクル・シリーズを諦め捨てたわけではない。
――姉のように光り輝く栄光を見せたい。
だがしかし、そんな強い意志とは裏腹に、春のトリプルティアラには、挑戦する資格さえすら与えられなかった。
『次こそは、きっと次こそは――』
それがどんな不格好でも往生際が悪くとも、諦めきれない。
まだ最後の挑戦――エリザベス女王杯が残っている。
たとえどんなに苦しくて厳しい状況だったとしても、最後までもがいてみせる。
次へと繋ぐためにどうしてもこの勝利がほしい。
故に、ライバルであるボーガンにも、レース前に凄みを見せつけられたハヤテにも、何人たりとも後手を踏むわけにはいかなかった。
「わたくしが勝つ……ですわ!」
ならば、やる事は単純明快――勝利をこの手で掴むだけ。
そのためには今はじっと耐え、終盤のラストチャンスに自分の持てる武器――自慢の末脚を最大限に発揮させて全力をぶつける……それにすべてを掛けるのであった。
ベルベットは、折れそうな己を気持ち振り払い、奮い立たせた。
◇◆◇
汗が額に張り付き、滲み出る。
まるで真夏のような熱気が、レース場に立ち込めているかのように感じられる。
状況は少し進んで、レースはコース半分を過ぎて、中盤……。
単独で逃げている先頭がペースを作り、やや縦長な展開となっている。
その先頭から少し離れた位置の先頭集団に、まるで何かを伺っているかのように、ハヤテが三番手についていた。
(まだだ……。仕掛けるのはこのタイミングじゃない……!)
逸りそうになる気持ちをぐっと抑え込むように、ハヤテは自分の内にそう語りかけていた。
注意すべきは序盤から先頭に立って、まさに独走といった形で、ペースを握っているキョウエイボーガンだ。
このまま好きに逃げさせておいてはいけない、というのは先行勢にとっては明らかで、現に現在二位の9番が何度かプレッシャーをかけにいったが、当のボーガンはまるで気にした様子はなく、自分のペースを守り続けている。
これでは仕掛けた方が、無駄に体力を削られただけである。
(……必ず仕留める…………)
だが今はその好機ではない。
相手の集中力も無尽蔵ではなく、いつか気が緩んで隙が生じるはず……ハヤテは獰猛な獣ような目つきで獲物を品定めしながら、雌伏の時をこらえる。
まるで獲物を待ち伏せしている飢えたライオンのように、爪を研ぐ。
そうハヤテはいつだって飢えていた。
その乾きは、走りで相手を打ち負かした時しか満たせないものだった――。
トレセン学園に入ったばかりの頃……というよりも元来のハヤテは今とは打って変わり、いつもナイフみたいに尖っては、目をギラギラさせながら周囲を食って掛かるような雰囲気を放っており、どうにも近寄りたがい存在であった。
溢れ出すその闘争心という名の気性の荒さは、選抜レースを経てスカウトされたトレーナーからすぐに見抜かれて、
「――貴女のその闘争心は武器になるでしょう。けれどもう少し心に余裕を持つようにしなさい。そんな調子だからいつも安い仕掛けに乗ってペースを乱されるのです」
最初に言われたのがその言葉であった。
井の中の蛙、大海を知らずとはこの事だった。
地元では敵なしで、
というのも、
「常に笑っていなさい。それくらいが貴女にはちょうどいい――」
刀はいつまでも抜き身のままでいると、いずれ我が身を傷つけてしまう。
鞘に収めた状態で保ち、必要な時に刀を抜く。
トレーナーのアドバイス以来、普段から笑顔という仮面をつけて形から平静を演じる事で、自分を御するようになった。
そのかいがあってか、堪えて解き放つという走りを覚えた。
だが彼女の本質そのものが変化したわけではない。
フラストレーションの発散とばかりに、抑え溜め込んだ闘争心がレース中、ここぞという場面で爆発する。
誰よりも何よりも、ただ貪欲に勝利を追い求める。
しかしこの所、ハヤテは勝利の味を久しく味わえていない。
その研ぎ澄した牙を存分に振るえていない。
『今日こそは、今日こそは――』
空腹こそが最大の調味料というように、その渇望がより大きければ大きいほど力となる。
積み重ねていった勝利への渇望は、自分の走りへの糧と変える。
すべては勝利の瞬間という、最高の美酒に酔いしれるために……。
「僕が勝つ……ッ!」
ハヤテは、鋭い目つきで
勝負の
◇◆◇
時は刻ざまれていく。
始まるがあるように、やがて終わりの時が訪れる。
レースはすでに終盤へと差しかかっていた。
先頭は以前変わらず、キョウエイボーガン。
序盤から他を寄せ付けず、順調に自分のペースで走り続けていた。
「はっ、はっ、はっ…………」
軽快な呼吸音。
ゴールまで残り四〇〇メートル。まだ息は上がりきっていない、まだ呼吸は乱れていない。
不慣れな左回りのコースであったが、小さな体躯をいかしたコーナリングで先頭を維持する事が出来た。
このペースを保ちつつ順当に行けば、一着の座をつかめる事だろう。
(けど――――ッ)
ここで気を抜く訳にはいかない。油断してはいけない。
確かに今は優勢かもしれない。だがこれでレースが決まったわけではない、ゴール板を通過するまではレースはまだ終わっていない。
(――気を抜いたら、後ろから差されるっ……!)
勝って兜の緒を締めよ、安堵するのは全てが終わってからである。
これまでの自分であれば、きっとそんな事露にも思わず、ただ一番に走る事だけを考えていただろう。
先頭で走っている時は、この自分が以外誰も映らない開けた視界が、まるで自由な世界にただ自分一人のように感じていた。
だが、今日は違った。
足音が息遣いが、どこからか伝わってくる。
熱い視線を受けているのを感じる。
それは背後から忍び寄る重圧感。
誰もが一心に自分の位置を奪い取ろうと、必死になっている。
このヒシヒシと感じさせられるプレッシャーに、否が応でもそちらに意識が向いてしまう。
(なんて……重いんだろう……)
ボーガンの肩に何かが重くのしかかる。
後方に控えている、ヒダカベルベットの強い意志か。
あるいは好位置にいるハヤテの闘争心か。
もしくはそれ以外――いやこのレースに出走しているすべてのウマ娘たちの想いなのか。
それが背負うという事……。
勝者というのは、これらすべての重圧をはねのけてこそ、勝者たりうるものとでもいうのだろうか。
『それでも、それでも――』
いつだってその一歩を踏み込むには勇気がいるものだ。
だからといってただ震えて足踏みして、臆するのか――? 否、断じて否。
ここで尻すぼみして脚を緩めるわけにはいかない。
なぜなら――勝利は誰にも譲れないのだから。
そしてコースは下り勾配の最終コーナーを終えると、後はそのまま緩やかな下り坂の直線を残すのみとなる。
「――あたしは勝ちたいッ!!」
感情を発露させ、ボーガンは思いの丈を叫ぶ。
そこに居る誰よりもレースに勝ちたいという気持ちは、負けていない。
自分だって譲れない想いがある。
『誰よりも速く、一番に駆け抜ける――』
今はただ、その想い全てを脚への力へと変えて、ターフの上を走り抜けるだけ。
「やあああぁぁぁっーーー!!」
掛け声を上げながらラストスパートをかける。
がむしゃらに、血眼になって、ただまっすぐにその視線の先――ゴールへと向けて……。
◇◆◇
――ワァァァァッ!!
鳴り止まないスタンドからの歓声。
観客たちの期待を受け、彼女たちは駆けてゆく。
それぞれの想いを胸に抱きながら、それぞれの想いに背中を押されながら。
まばゆい煌めきのような彼女たちの道のりは、けして平坦などではなく、時にはつまづきそうになって、その足取りを緩めてしまう事もあるだろう。
もしかすると、それは儚げな足取りに見えてしまうかもしれない。
栄光を駆け抜ける輝かしい軌跡と比べれば、ひどくゆったりとしたペースにも思えるだろう。
だがそれでも、ゆっくり一歩ずつ前へ進む。
その歩みが小さな一歩だっとしても、彼女たちに取っては大きな一歩となる。
だからこそ歩み続ける。
だからこそ彼女たちは前を向き、足を止めない。
例えそれが例え
進む先に、困難や数奇な運命が待ち構えているかもしれない。
しかし未来は誰にも分からない。
分からないからこそ、今を全力で付き走る。
ただ一心に、己がウマ娘たる証を立てるため、自分たちのゴールを目指して駆け続ける――。