トレーニング場――。
トレセン学園の施設の一つであり、ウマ娘たちが日夜トレーニングに励んでいる場所である。
そこはトラックが何重にも分かれており、それぞれ芝・ダート・ウッドチップ・坂路など、用途別のコースが複数存在し、あらゆる局面を想定してトレーニングを行うことが可能となっている。
そこにトレーニングコースをじっと眺めながら、固まって集まっている三人のウマ娘たちが、特にはずんだ会話もなく、佇んでいた。
キョウエイボーガンと、長末トレーナーのチームのバニータルーブルとオーサムラフインの三人である。
そこへ、一人の男性――長末トレーナーが駆け寄ってくる。
「皆さん、お待たせいたしました。模擬レースでの使用許可がおりましたので、いつでも準備できますよ」
爽やかな笑みを浮かべながら、三人にそう説明する。
ものの数十分程度で許可をとってくるとは、学園側がよほど寛大で大っぴらなのか、それともこの長末トレーナーがそういった交渉事にたけているのか、どちらか定かではない。
「おっしゃあ、さっそくおっぱじめるとしようぜえ! コースは無論、王道を往く芝2000mでえ!」
赤茶色の長髪のウマ娘――バニータルーブルが、威勢よく声を張り上げる。
どうにも少しの間ではあったが、待たされてウズウズしているといった様子だ。
それとは対象的に、無理やり連れてこられた、ウマ耳までしょんぼりとうなだれている白髪のショートヘアーのウマ娘――オーサムラフインは、さっそく泣き言を上げる。
「えええーーーっ!? そんな距離、ボクまだ走ったことないッスよ~。そんなの、ルーブル姉御の一人勝ちじゃないッスか~」
目尻にうるうると涙をためながら、バニータルーブルにしがみつく。
やるのは模擬レースといえど、相手は実戦経験も豊富かつ、オークスを獲っているGⅠウマ娘だ。
対するオーサムラフインは出走経験もなければば、まだ本格化もまだ迎えていない。
対等に張り合おうとするには、まだまだ力不足といえる。
「ああ、もうしょうがねえなあ……。じゃあ、三秒くれてやるよ」
今にも泣き出しそうな顔を見かね、バニータルーブルはやぶから坊に頭をかくと、指を三つ立てる。
ようするに、自分が三秒遅れてスタートする――と、ハンデを設けるというのだ。
「やったー! 流石ルーブル姉御、大好きッス♪ でも三秒といわず十秒くれたら、もっと好きになるッス♪」
先程までの消え入りそうな声はどこへやら。
あっけらかんと一転し、大げさに喜んで見せながら、猫なで声を出して、そうおねだりしてみせるオーサムラフイン。
「……てやんでえ! どんだけチンタラ走るつもりなんでえ!」
涙にはめっぽう弱いが、それが嘘泣きだったとわかると怒りを顕にし、軽くオーサムラフインの頭をポカリと殴りつける。
実際、そこまで力が入ってはいなかったが、オーサムラフインは「痛ッ」とおおげさにリアクションすると、「ひどいッス……」と涙目になりながら、押し黙った。
「……お前さんも、それでいいかい?」
鼻を強くこすってから、腕を組んで、それでも勝つ自信があると言わんばかりに自信たっぷりな目線をキョウエイボーガンに向けながらそう尋ねる。
2000mという距離……。
長くても1600mしかレース出走経験がなく、距離の不安はキョウエイボーガン自身も感じていた。
しかし、たとえ対等の条件であったとしても、こちらも勝負を受けたからには、今更引く気はなかった。
キョウエイボーガンは異論はないと認めるように無言で、コクリと頷いた後、視線を返すように相手に向かってこう言い放った。
「……それでもし負けても、後で言い訳にしないで下さいよ」
「へえ……言うねえ。後で吠え面かいても、知らねえぜえ?」
ニヤリと獲物を捉えるような目でキョウエイボーガンを見定める。
両者の視線と視線がぶつかり合い、激しく火花が飛び散る。
二人がそんなデッドヒートを交わしている中、「ひええぇぇ……」とオーサムラフインは、この場の緊張感に耐えきれなくなり、なんで自分が巻きまれなくてはならないのかと、涙目になりながら自分の不運を嘆いていた。
◇◆◇
「さて皆さん、お待たせいたしました。ゲートの準備ができましたよ」
ゲート牽引車から降りると、長末トレーナーが皆に向かってそう告げる。
長末トレーナーが降りた先のトレーニング場のスタート位置には、ゲートが三つ設置されていた。
ゲート以外も、コースの設備等はすべて長末トレーナーが「これからレースするウマ娘たちの手を煩わせるわけにはいきませんので」と、独りでテキパキとこなし、セッティングしてくれた。
ここからトラックを右回りに約一周半かけて2000mを走る模擬レースが行われる。
各自、準備運動やストレッチなどを済ませると、それぞれ指定のゲートに入る。
内から1枠1番にキョウエイボーガン、2枠2番にオーサムラフイン、3枠3番にバニータルーブルという順となっている。
「おうラフイン。もし手え抜いて、雑な走りしやがったら……後で承知しねえからなあ」
隣のゲートにいるオーサムラフインに「全力でやれよ?」と、発破をかけるバニータルーブル。
「わ、わ、わ、わかってるッスよ……」
ハナから絶対勝つのは無理だと思っていたので、軽く流そうと密かに企んでいたオーサムラフインは、その内心を見透かされ、慌てふためく。
「――ふぅ……」
そんな隣の喧騒を気にもとめず、独りキョウエイボーガンは深呼吸をし、今の心境を落ち着けさせるのに、神経を注いでいた。
『――走る目的を見失っている』
大樹のウロで長末トレーナーに言われたことが、脳裏に反響する。
そもそも今までそんな明確な理由を持って走っていたことがあっただろうか。
走れるから、走る。走れるレースがあるなら、レースで走りたい。
今も昔も、その気持ちに変化はないはず。
けれども長末トレーナーの言い方が妙に引っかかっていた。
未だそれに対する明確な答えを見つけ出せてはいないが、キョウエイボーガンはとりあえずその押し問答は保留にし、今はこの模擬レースのことに集中することにした。
そう、やるべきことは変わらない、ただ一つだ。
どんな勝負であろうともけして気を抜いたりはしない。
ただゴールを目指して走る抜けるのみ――。
キョウエイボーガンは、精神を研ぎ澄ませ、ゲートの動きに合わせて自分も駆け出すイメージを何度も想定し、今この瞬間からでも、瞬時に走れる心構えをする。
(へえ……)
ただの興味本位で、キョウエイボーガンの姿を横目でチラリと覗いたバニータルーブルは、試合前の彼女の目つきの鋭さに内心で感嘆の声を上げる。
デビュー戦まぐれ勝ちだけの一発屋……そう相手を見下していたが、少し評価を改める必要がありそうだと考え直す。
そして次に先程チャチャを入れた隣のオーサムラフインの様子をうかがう。
どうもなにやらゲートに入った後もしばらくは泣き言をブツブツ唱えていただったが、とうとう覚悟を決めたようで、ゴクリとつばを飲み込むと、無言となり、気を引き締めたようだ。
バニータルーブルも周囲を気にするのをやめ、ゲートが開放される瞬間を待つことにした。
そして、沈黙が流れる……。
三人の動きが止まり、スタート態勢が整う。
固唾を呑んで、ゲートが解き放たれるその瞬間を瞬きもせず、じっと待ち構える。
そしてその時はきた――。
『――ガコンッ』
ゲートの開閉音がするや否や、同時に二人が飛び出した。
三秒遅れてスタートするバニータルーブルを除いて、各自出遅れなしの好スタートを切った。
コースを駆け抜ける足音が響き渡る。
滑り出しは順調であった。
(……これなら、いける!)
そう確かな手応えを感じると、キョウエイボーガンは、一気にスピードを上げ、先頭へと躍り出る。
ウマ番が一番内側だったのも幸いしてか、今回は思ったように絶好のポジションに入ることができた。
対するオーサムラフインは、先頭争いには参加せず、そのままキョウエイボーガンに先頭を譲ると、そのやや後方に控えて、つかず離れずの距離につける。
彼女は逃げで勝負はしない作戦のようだ。
今のこの間だけは、二人だけのレースが繰り広げられる。
そして一方、二人のウマ娘がスタートし終わった、スタート地点では、長末トレーナーがストップウォッチを見ながら経過秒数をカウントを読み上げていた。
「……1秒……2秒……3秒!」
最後のカウントを読み上げると、ゲートからバニータルーブルが脱兎のごとく、猛スピードで駆け出した。
しかしすでに先頭から10バ身以上は差が開いている。
これが通常のレースでの出遅れなら、もはや挽回するのは不可能に近いことであろう。
「よっしゃあ、いくでええぇぇ!」
だが、そんなものお構いなしと言わんばかりに、序盤から快速に飛ばし、気合の雄叫びとともに、ラストスパートと見紛うの勢いでトップスピードに乗せてくる。
まるで獲物を捉えるような鋭い目つきで、今は遥か前方にいる二人を宥める。
その表情は高揚感からか、自然と笑みを浮かべていた。
バニータルーブルの猛追撃がこれから始まる……。
その頃、先に進む二人の状況は、すでに第2コーナーを曲がり終えて、再び直線に差し掛かろうとしていた。
順位は変わらず、キョウエイボーガンが快調に飛ばしてハナに立つ。
そこから離れた位置に、オーサムラフイン。
先頭に離されまいと、必死に食らいついていく。
(……あの子、まだついてくる……)
チラリと後方を確認すると、相も変わらずついてくる、そのしぶとさに舌を巻く。
何度かペースを上げて、振り切ろうと試みたが、その度に負けじと加速して、踏ん張ってくる。
先頭を走るキョウエイボーガン。
まだコースの半分も走破していないが、すでにレース展開はかなりのハイペースとなっていた。
このままこのペースで2000mを走りきれるのか、そんな不安もよぎる。
練習でその距離を走ったことはある、だがレースを想定した走りはまでは習熟度が足りていない。
――が、わからないことは、考えないようにしよう。
わかることを、出来ることを考える。
やれることは実に単純明快だ。
(なら……千切るまで!)
ついてくるなら……ついてこれなくなるまで、ペースを上げるのみ、そう一つの方針が定まった。
直線コースが終わり、第3コーナーに入った瞬間、小さい体を活かし軽やかにコーナーを曲がると、キョウエイボーガンはさらにペースを上げた。
(うへぇ……まだペース上がるんッスかぁ……)
第3コーナーでさらにペースが上がったことに気づき、それに反応して離されまいと、ついていこうとしたが……すでに息が切れかかっていた。
レース経験が乏しいオーサムラフインは、とにかくキョウエイボーガンに離されないよう、後をついていくことだけを考えて、自分のペース配分もわからず、これまで走っていた。
しかし限界は訪れる……。
日々のトレーニングで培った身体能力と、潜在能力でカバーしていたが、これほどハイペースで走らされ続け、スタミナ切れが近づこうとしていた。
オーサムラフインの足がだんだん重くなり、徐々にスピードが落ち始めてくる。
キョウエイボーガンとの差が縮まるどころか、どんどんと突き放されていく。
もはやこれまでかと、諦めの色が濃くなったその時――。
『――ザッザッザッ!』
と、後方から勢いの良い駆け足が迫ってくる。
「おうおう、ラフインさんよお。もっとちゃきちゃき走らんと、追い抜いちまうでえ!」
――バニータルーブルだ。
第3コーナーが終わり、短い直線を挟んで続いて第4コーナー付近。
3秒遅れてスタートしたにも関わらず、驚異の脚力でじわじわと追い上げ、いつの間にか両腕を広げたら届きそうなくらいの距離――おおよそ1バ身にまで詰め寄っていた。
オーサムラフインに向かって檄を飛ばすその姿は、まだまだ余力があるといった感じだ。
(……ひええぇぇぇ、どんだけ化け物なんッスかぁ!?)
心の中で、そんな悲壮な叫び声を上げる。
煽りを受け、それに何か反応を見せたり、応対する余裕は、オーサムラフインに最早ない。
だが彼女も必死だった。
1着になるのは無理でも、トラック1周ぐらいまでは頑張った感じにしよう。
でないと無様な走りを見せようものなら、あの先輩のことだ。
超体育会系でよく見る腕立て100回とかトラック10周とか、後でしごかれることが想像できた。
そんな疲れることは、やりたくない。なら――疲れるなら今にしよう。
(……い、いくッスっっ!)
声にならない叫び声を上げつつ、わずかに残った最後の力を振り絞り、先頭についていこうと速力を上げる。
――が、駄目。長くは続かない。
「……もう、無理……ッス!」
力尽きたオーサムラフインは、完全に失速し、第4コーナーを曲がる途中で、そのままあっという間にバニータルーブルに追い抜かされていった。
(お疲れさんっと、後は……あいつだねえ)
次の獲物を求めて、前方にいる、ハナを切るキョウエイボーガンを視線で捉える。
正直、バニータルーブルは、今のレース展開が予想できなかった。
元より最初から全力で飛ばして、早々に二人に追いつくつもりでいた。
しかし実際はどうだ。
まだペース配分をわかっていないオーサムラフインが垂れてくるほどのハイペース。
まるで短距離を走っているような感覚だ。
(さあて、どこまで持つか……見ものだねえ)
この2000mという距離は意外と長いものだ。
走りなれていないとペース配分が難しい。
このまま相手がバテるのを待って、息を入れることも作戦の一つだろう。
だが、どちらにしてもバニータルーブルのやることは、レースが始まる前から初志貫徹であった。
『――先頭を取るのはオレだ』
最後の直線がどうとか、道中の駆け引きとか、どうでもよい。
先に先頭にさえ出てしまえば、こちらの勝ちなのだ。
その先――先頭は譲らない、渡さない。
そう揺るがない絶対の自信の元、バニータルーブルは獲物に目掛けて、加速しだす。
◇◆◇
風を切るとともに、汗も同時に流れ、ターフの上に落ちる。
額に伝う汗が煩わしく、乱暴に手の甲で拭い取った。
キョウエイボーガンは、徐々に息が上がってきているのを自分でも感じ始めていた。
先ほど通り過ぎたハロン棒を目線だけで確認する。
――残り600m。
このままゴールまで走り切れるだろうか。
これまで快調に飛ばしてきた。いや――飛ばしすぎた。
すでに無茶を通り越して、無謀の域に達しようとしている。
だからといって下手にペースを落とすのは、後方からじわじわと追い上げてくる、怪物の足音がそれを許さない。
怪物が――彼女が、どんどん迫りきているのを肌で感じる。
自分にとっては優位、相手にとっては絶望的なスタート差、3秒というハンデ……。
しかしそれを意に介さない、強靭な脚力を見せつけ、バニータルーブルはキョウエイボーガンを猛追撃してくる。
流石は昨年のオークスの覇者。GⅠウマ娘のポテンシャルには、圧倒される。
これ以上は突き放せない。
最初に稼いだリードを、最後のゴールまで持たせるしかない。
先頭を往くキョウエイボーガンは、直線を抜け、2周目の第1コーナーへとさしかかったその時――。
(くっ――しまった……!)
焦りからか疲れからか、ミスを引き起こしてしまう。
体の軸が外にぶれ、コーナーを少し外回りに回ってしまい、最短コースからコンマ何秒かをロスしてしまう。
すかさず軌道修正をし、内側へ戻し立て直す。
そこでふと、ぞくりと嫌な視線を感じ、キョウエイボーガンは後ろを振り返った。
『――ッ!』
そこには一部の無駄のない完璧なコーナリングで、加速しながら迫りくるバニータルーブルの姿があった。
相手は、すでにスパートがかかっているのかと疑いたくなるような速力を存分に見せつけてくる。
そしてまもなく2周目の第1コーナーから、いよいよ最終コーナーへと入る。
とうとう恐れていた事態を迎えた。
キョウエイボーガンのぴたりと背後に、バニータルーブルがついてきた。
とうとうここまで追いついたのである。
「どうしてえ、そんなもんかあ?!」
声が届く距離になったからか、バニータルーブルは後ろから走りながら、そう声を上げる。
どれほど余力を残しているというのか。
キョウエイボーガンは今走ることだけで手一杯である。しかしそのゆさぶりに、内心焦りを見せていた。
(このままだと……最後の直線で抜かれる……!)
相手は強い、退かない、留まらない。
そんな絶対的な王者の前では、敗北の未来しかないのか。
(また……負ける…………)
ついには心が折れかけ、敗北をする自分の姿をイメージしてしまう。
そして不思議なことに、何も前触れもなく、最初にトレセン学園の模擬レースで負けたときのことを、走馬灯のように思い出した。
あの時は悔して悔しくて少し泣いた……。
トレセン学園に入学出来て、舞い上がっていた。
地元では敵なしと、少し天狗になっていた。
それはすべて反動となって返ってきた。
そして悔しさのあまり、義理の祖父に愚痴の電話してしまった。
電話で義理の祖父は『また次、頑張ればいいじゃあないかぁ』、そう優しくなだめてくれた。
それがあったからこそ、何度負けても挫けても『また次、頑張ろう!』と、踏ん張り続けた。
いつか大好きな義理の祖父に『勝てたよ!』そう、伝えられるようになるために。
そこで一つの事実に気がつく。
(……そっか……もう頑張らなくても、いいんだ……)
もう義理の祖父はいない、もう伝えるべき相手が居ない。
ならばなんのために勝つのか――なんのために走るというのだろうか。
何を理解してしまったキョウエイボーガンの脚色が一瞬、衰えた。
その隙きをバニータルーブルは見逃さなかった。
「――おっしゃあ、もらったぜえ!」
必殺の雄叫びを放つと、このタイミングで仕掛けてきた。
今までのはまだ全力全開ではなかったというのか。
外から抜け飛び出すと、ぐんぐん速度を上げ、最終コーナーを抜けるときには、バニータルーブルとキョウエイボーガンはほぼ並びかけていた。
『ここで反応しなければ、負ける……』
もう終わったはず。あとは千切られて終わるだけ……。
しかし、ふつふつと腹の中でくすぶっているものがある。
――このまま負けてよいのか、と。
祝ってもらえる相手がいないからと、むざむざ敗北をそのまま受け入れるのか。
ましてや、3秒もハンデをもらって無様に負けるなどと……屈辱に耐えられない。
(ごめんね、おじいちゃん……)
そうか、そうだった。
これまでは義理の祖父に喜んでもらえるよう安心してもらえるよう、自分は走っていたのかもしれない、今時分そう気付かされた。
けど――今はもう違う。
(じゃあ……往くね……!)
ただ己の欲求に素直になる。
走りたい……誰よりも早く走りたい。そんなウマ娘の根源たる衝動が沸き起こる。
そして誰にも負けたくないという気持ちが、すべてを凌駕する。
『絶対に――負けたくないっ!!』
キョウエイボーガンの不屈の闘志に火がついた。
最終コーナーを曲がり終え、残り200m……。レースはいよいよ最後の直線を残すのみとなった。
わずかに先頭をいくのは、バニータルーブル。
流石に3秒のハンデを遅れを取り戻すため、超ハイペースで飛ばしてここまで追いかけたせいか、疲れが表情にも伺える。
そしてそれを追うのは、キョウエイボーガン。
しかし最終コーナー辺りからわずかに失速し、先頭から徐々に引き離されていく。
この模擬レースを観戦していた者は誰もが、このままバニータルーブルが勝ったと思うことであろう。
その刹那――。
「……はあああぁぁぁっ!!」
突如、キョウエイボーガンが吠えた。
全身の血を――肉を――奮い立たせるために、力一杯吠えたのだ。
力強い踏み込みとともに、キョウエイボーガンの走る速度が急上昇した。
風を切るように猛ダッシュすると、あっという間に並び、果には奪われた先頭をも奪い返す。
「……ちっ、おりゃあああぁぁぁ!」
負けじと力の限り叫ぶ、バニータルーブルは最後の力を振り絞る。
彼女にも譲れない意地と根性がある。
二人は並んで一直線にコースを突き抜ける。
残り100m、60m、40m……。
どちらも先頭を譲らない、一進一退の攻防。
動画のコマ送りのように、一瞬一瞬がスローモーションのようになる。
並んでそのままゴールしたかと思われた、が――。
(ぐっ…………)
そのゴール手前。
これまでハイペースを超える超ハイペースで駆け抜けたバニータルーブルは、最後の一息が持たず、ゴール寸前で失速してしまったのだ。
それはほんの僅かな差であった。
そのままキョウエイボーガンが駆け抜け、ハナ差で1着をもぎ取った。
◇◆◇
『ハァ……ハァ……ハァ……』
壮絶な競り合いをしながら走り終えた二人は、その場に立ちすくみ、膝に手をつき、お互い肩で息をし合っている。
僅差であったが、勝敗の行方は最後に競り合っていた本人達が、結果をすでに理解している。
己が負けて、己が勝ったことを――。
「……お前さん、なかなかやるじゃねえか……。気に入ったぜえ……」
呼吸を整えながら、バニータルーブルはそう言うと、握り拳を作って、隣りにいるキョウエイボーガンの目の前に突き出してくる。
「…………」
もはや話す体力すらも満足に残っていなかったキョウエイボーガンは、その意図を察すると、無言で拳でコツンと突き合わせ、それに返す。
それに満足したように、バニータルーブルは無邪気な笑顔を向ける。
キョウエイボーガンも軽く頬を緩ませると、それに笑みで答えた。
「ふぃ~~~。やっとゴールッス……あ~マジ疲れたッス……」
しばらくして、だいぶ遅れてオーサムラフインがゴールしてくる。
一応、途中でへばらず、完走しきれたようである。
しかし全速力で駆け抜けて争った二人に比べると、さほど息も上がっておらず、おそらくあの後、そのまま軽く流したのであろう。
「おう、ラフイン……なんかお前、まだまだ元気そうじゃねえかあ……?」
顔をピクピクを震えさせながらオーサムラフインの肩を掴む、バニータルーブル。
オーサムラフインはぎくりと慌てて「そ、そんなことないッスよ」と手のひらで顔を仰いで、めちゃくちゃ疲れたアピールをしだす。
そんな後輩の哀れな姿を、ジト目になりながら、「本当だろうなあ」と、訝しむ。
オーサムラフインがそんな必死の言い訳をしていると、二人の元に欠伸を上げながら、寝ぼけ眼のままでゆっくりと近づいてくる一人のウマ娘がいた。
「……あれ~? みんな~、ここで何してるの~?」
ところどころ毛先がはねた、黒髪のポニーテールのウマ娘――長末トレーナーのチームメンバーの一人、アントレッドマーチが間延びした声で、そう訪ねてくる。
ナイスタイミング。
話を逸らすのにちょうどよいと、オーサムラフインは同輩、同室のアントレッドマーチの元へ寄る。
「あ、マーチ……起きたッスか? えーと、実はさっきまで模擬レースしてたッスよ」
部室で散々寝ていたアントレッドマーチは、あれからだいぶ時間も立ったが今しがた起きたようで、状況がつかめていない様子だったので、キョウエイボーガンとバニータルーブルとオーサムラフインで、チーム加入テストを兼ねた模擬レースをしていたことを簡素に説明した。
「ふぅ~ん。それで誰が勝ったの~? やっぱりルーブルちゃんかな~?」
と言ってバニータルーブルの方に視線を送ると、彼女は不正解と意味するように両手を広げ、少しかしげてみせた。
そしてついうっかりと、余計な一言が横から入る。
「いやぁそれがー、ルーブル姉御が、3秒ハンデくれるって舐めプして……負けたッス」
と、思わず口がすべる。しかも『負けた』というところを嘲笑気味で。
そして言ってからしまったと慌てて口を塞ぐも後の祭り――。
バニータルーブルの形相が鬼のように変わっているのが見える。
その鬼気迫る表情に、オーサムラフインは震え上がった。
「あはっそうなんだ~。ルーブルちゃん、ドンマイ♪」
そんな様子にもお構いなしに、バニータルーブルが負けたと聞くやいなや、彼女の元に小走りで駆け寄り、ポンポンと肩を叩いて、頭を撫で始めた。
まるで姉が妹を慰めるかのように、悪意のかけらもないその励ましが、より一層怒りに火を注いだ。
ちなみにアントレッドマーチがこのチームの中では、一番身長があるので、傍から見たら宥められている妹そのものである。
「……お前らあ! 併走トレーニングいくぞお! 遅れる奴は、後ろからケツ蹴っ飛ばすから覚悟しなあ!!」
例えるなら、『うがーっ!』という擬音がよく似合うほど爆発した怒りは、後輩二人に向けられた。
実のところ、後輩の失言に腹を立てたのもあるが、勝負で負け、悔しさもあった。
その鬱憤を晴らすため、無理やり二人の服を引っ張って引きづり、有無を言わせずトレーニングに付き合わせることにしたという。
「そんな~! どんだけ元気なんッスかぁ」
「わあ~。寝起きの運動に、ちょうどいいかも~」
それぞれ異なる反応を見せながら、バニータルーブルに連れられ、三人はトラックを走り始めていった。
なんだかんだでこのチームの仲は良かった。
騒がしかったのがいつの間にやら、静寂に包まれる。
三人が居なくなった後、一人残されたキョウエイボーガンの元に、爽やかな笑みを浮かべながら長末トレーナーがやってきた。
「レースお疲れ様でした。その様子ですと、どうやら悩みは解決できたようですね!」
笑みを崩さず、まるで自分ごとのように喜びながらそう言った。
それと対象的に、長末トレーナーの顔を見て、これまで何の説明もなしにここに連れてこられていきなり模擬レースする羽目になったことを思い出し、キョウエイボーガンは怪訝そうな視線をぶつけた。
「……それより、これまでのこと、ちゃんと説明してくれるんですよね……?」
少し怒りを込めてそう言い放つと、「それは失礼しました」と、長末トレーナーは苦笑いを浮かべながら、今回の経緯を説明してくれた。
話は意外と単純なものであった。
実のところ長末トレーナーは、選抜レースの選考会でキョウエイボーガンをたまたま見ていたのだという。
結果も振るわず、だいぶ調子をおとしながら、どんなに先頭から大差をつけられても、懸命に走る姿は……まるで暗がりをおっかなびっくりで走っているような、そんな印象が残ったという。
そんなキョウエイボーガンに、長末トレーナーは何かを見出した、という話しだった。
「あなたはまだまだ伸びます。その『負けない』という気持ちがあれば――」
その証拠がさっきの模擬レースということ、と告げる。
心が折れなければ、負けない。勝つまで挑めば、負けではない。
だからこそチームにスカウトしようと、話しかけたと、そう長末トレーナーは語る。
「どうですか……私たちと一緒にやってみませんか?」
長末トレーナーは、キョウエイボーガンに向かって手をのばす。
咄嗟のことに驚いて、どう反応していいか、キョウエイボーガンは悩んだ。
しかし、差し出されたその手のひらを見て、何かと重なった。
(そっか……そういうことか……)
その手を見つめて、思い出した。
母親を失って一人ぼっちになって俯くことしかできなかった時、唯一、自分に手を差し伸べてくれた義理の祖父の優しい手を――。
最初、長末トレーナーの雰囲気がどことなく誰かににていると感じていた。
容姿も声もまったく別人だけど、心の暖かさがどことなく似ている。
そんな気がした……。
だからこそ、この手をまた取りたいと思えた。
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
差し出されたその手を握る。
きゅっと優しく握り変えてしくれる手のひらが温かく感じる。
キョウエイボーガンはその時、屈託のない笑みがこぼれていた。
(ありがとう、おじいちゃん……。あたし、また頑張ってみる!)
出会いがあり、別れがある。されど別れを恐れることなかれ。
暗闇に光が差す――。
天国にいる祖父が安心していられるよう、それに恥じないよう一生懸命走る、そう天国の義理の祖父に向けて、誓いを立てた……。
今回登場したトレーナー、ウマ娘の明確なモデルは居ますが、
オリジナルということにしておいてください・・・
※コーナーの概念を勘違いしていましたので、内容を一部修正しました(2021/10/8)