『――先頭はそのままキョウエイボーガン、キョウエイボーガン! リードを1バ身、2バ身と広げて、今ゴールイン! キョウエイボーガンが逃げ切りましたッ!!』
残暑が終りを迎え、段々と肌寒くなって来た頃合いの阪神レース場に、その寒さをものともさせないような、大きな実況が木霊する。
勝った――キョウエイボーガンがまた勝ったのだ。
一番人気を抑え、この神戸新聞杯を制したのは、実力を示して二番人気の彼女であった。
内容は文句なし。序盤からリードを保ったまま、完全に逃げ切ってみせた。
これで通算5勝目。
そして怪我明けの復帰から重賞戦を含んでの4連勝と……まさに快進撃であった。
一時は、デビュー戦勝っただけのフロックと揶揄されたこともあった。
しかしそれがどうであろう。まるで生まれ変わったかのように、連勝に次ぐ連勝を重ね、見事、結果を残した。
もはや誰もフロックなどと呼ばせたりはしない。
むしろ『夏の上がりウマ娘』と、評価を翻させていた。
まさに小さな巨星の誕生――。
キョウエイボーガンは絶好調を迎えていた。
◇◆◇
『4連勝、おめでとうーっ!!』
けたたましいクラッカーの破裂音と同時に、一斉に祝福の声が上がる。
神戸新聞杯から数日明けたある日、長末トレーナーのチームの部室では、キョウエイボーガンの勝利を祝って、ちょっとした祝賀会が開かれていた。
ジュースにお菓子、デリバリーのオードブルにファーストフードのハンバーガーとポテト、そしてデリバリーのピザ……いささかジャンキーに寄り気味だが、食べ物の美味しそうな匂いが部室内に充満していく。
もちろん、みんな大好き人参料理もちゃんと用意されている。
「よっしゃあ、乾杯しようぜえ!」
小柄で前髪にメッシュが入った赤茶色の腰まで伸びたストレートロングヘアーのウマ娘――バニータルーブルが、威勢よく紙コップを頭上に掲げる。
集った一同はそれに合わせて同様に紙コップを持つと、『乾杯!』と言って、互いに突き合わせた。
わぁっと賑やかな声が室内に響き渡る――宴の始まりだ。
「いっただきま~す♪」
早速、もう待ちきれないといった感じで、モデル体型な、ところどころ寝癖のように毛先がはねた黒髪のポニーテールのウマ娘――アントレッドマーチが、食べ物にいの一番に食らいつく。
よく寝てよく食べる……これがすくすく育った彼女の秘訣なのかもしれない。
「ん~、これもおいし~♪」
誰の祝いの席だったか露知らず、お構いなしに次々食べ物を食い荒らしていくアントレッドマーチ。
それに呆れた声を出しながら、アントレッドマーチと同じ中等部の同級生で、寮で相部屋の、白髪のショートヘアーのウマ娘――オーサムラフインが叱りつける。
「こら、マーチ! 食い過ぎッスよ!! まったく……ちょっとは今日の主役のボーガン姉御に遠慮するッス」
バニータルーブルよりも少し背が低い、鹿毛色の外ハネのボブカットヘアーのウマ娘――キョウエイボーガンの方を申し訳なさそうに伺いながら、「マーチが申し訳ないッス」と、代わりに平謝りしてみせる。
「ううん、平気だよラフイン。みんなもあたしに遠慮せず、マーチみたくドンドン食べてよ」
どうせトレーナーの奢りだしね、と片目をつぶってウインクしてみせて、甘いマスクを持つ清潔感溢れるスーツに身を包んだ男――長末樹生に目配せをする。
「……ノ、ノープロブレム。もし足りなくなりそうでしたら、追加で注文しますよ……」
と長末トレーナーは言ってみせるが、どこか乾いた笑いを浮かべる。
彼の懐は少し寂しそうであった。
「じゃあじゃあミッキー。マーチはお寿司が食べたいで~す」
早速容赦のない追加注文が入る。
あれだけ食べているというのにまだ足りないというのか。まるで彼女の胃袋は宇宙だと疑いたくなるような、食べっぷりである。
勝手気ままだが、和気あいあいとした空間……。
あまりこういうことに慣れていないキョウエイボーガンは、どこか照れくさそうにしていた。
けれどこうして祝ってくれることは素直に嬉しかったし、今のこのチームが居心地良いと感じている。
みんなで一緒にトレーニングをしたり、時にはバニータルーブルの無茶振りに付き合わされたり、時にはオーサムラフインの悪ふざけに巻き込まれたり、時には突然居眠りし出したアントレッドマーチの介護をするはめになったりと――色々一緒に過ごしていく内に自然とチームに溶け込んでいた。
「いようボーガン! やってるかあ? しっかし重賞二つも取るたあ、こちとらチームのハナが高くなるの高くならねえっての!」
バニータルーブルは上機嫌そうに、紙コップ片手でキョウエイボーガンの首に腕を回して肩を組んでくる。
普段からあまり遠慮のないコミュニケーションを取ってくる彼女だが、今日はより一層、距離感が近い。
「そんな……ルーブル先輩の成績には、敵《かな》わないですよ」
確かアルコールは入っていないはずなのに、まるで酒に酔ったみたいに絡んでくるバニータルーブルにちょっと引き気味に謙遜してみせる。
実際彼女は、重賞はおろか昨年のオークスも獲り、桜花賞もあの落鉄事件がなければおそらくティアラ二冠達成できたぐらいの実力を備えている。
そんな気性が荒くて若干粗暴な面もあるバニータルーブルを、キョウエイボーガンは良き先輩として敬っていた。
もちろん慕ってくれる後輩二人も、あれはあれで可愛げがあると心を許していた。
そんなバニータルーブルがキョウエイボーガンに絡んでいると、食べることにはもう満足したのか、それとも今は腹ごなし中なのか、アントレッドマーチが二人の会話に混ざってくる。
「ルーブルちゃんもボーガンちゃんも、小さいのにすごいなぁ~。マーチも頑張らなきゃ、目指すは桜花賞~!」
「「小さいっていうな!!」」
すかさず二方向からハミングして怒鳴られる。彼女らに『小さい』というのは禁句である。
ちなみにアントレッドマーチに『ちゃん付け』されるのは、もはやチーム全員諦めている。
高等部の先輩だろうと別け隔てなくちゃん付けしてくるが、彼女の綿菓子のような性格上、なぜか憎めず、許容されていた。
「じゃあマーチが桜花賞なら、ボクは秋華賞を獲りたいッス!」
オーサムラフインも負けじと夢を語り出す。
そうすればみんなでトリプルティアラでカッコいいと、はしゃいでみせる。
オークスを勝利したバニータルーブルの影響か、後輩二人はティアラ路線のタイトルに興味を以前から示していた。
「こりゃあ将来が楽しみだねえ、なあ長末さんよお!」
頼もしい後輩たちの姿に、カカカと上機嫌に高笑いして、バニータルーブルは長末トレーナーの肩をバシバシと力加減を忘れた平手で引っ叩く。
「そ、そうですね……」
と長末トレーナーは、平静を保っていたが、明らかに顔が少しひきつっていたので、かなり痛かったようだ。
もし将来、そのようなことになれば、『ティアラの長末』という異名で呼ばれるかもしれない。
そんな些細な夢が広がる一時であった。
「でも実際、ボーガンさんは素晴らしいですよ。このまま行けば、きっとGⅠにだって届くはずです!」
私の見立てに狂いはありません、そう誇らしげにするように長末トレーナーは、自分の胸を叩いてみせた。
今の所、GⅢ、GⅡと――順当に制覇していった。
ならば残すところはGⅠ……というのもけして夢物語ではないはずだと、長末トレーナーは語る。
「GⅠかぁ……」
キョウエイボーガンは思いを馳せる。
これまではとにかくチームに入って、沢山トゥインクル・シリーズに出走したいとしか思っていなかった。
改めて考えてみると、春のクラシック路線にはまったく届かず、かすりもしなかったし、GⅠに出走する自分の姿を想像したことがなかった。
けどれ……もし出れるチャンスがあるなら、出てみたい。
キョウエイボーガンとてウマ娘の端くれ、栄誉あるGⅠで栄光を掴むことを一度ぐらいは夢見ることもあるものだ。
そしてちょうど、まだこれから挑める秋のGⅠのタイトルが残っていることに気がつく。
「……トレーナー」
目標を見定めたキョウエイボーガンは、真剣な眼差しを長末トレーナーに向ける。
「あたし――菊花賞に出たい!」
その一転の曇りもない決意表明の声に、周囲は静まりかえる。それほどキョウエイボーガンの本気さが推し量れたのだ。
「……菊花賞ですか……。出走条件的には問題なさそうですが、3000mの長距離に、あの二度の坂超え……スタミナが持つかどうか不安材料はありますね……」
難しい顔をする。
これまで2000mまでしかレース経験がない上に、今から長丁場に対応できるようにトレーニングをするにも、調整期間が二ヶ月もない。
長末トレーナーは、希望的観測は言わず、事実を隠さず伝える。
真剣には真剣で答えなければならない、不用意なことを言っても、相手を逆に傷つけるだけだからだ。
「……でもやりたい、やってみたい!」
それでもキョウエイボーガンは退かなかった。
無茶かもしれない、無謀かもしれない。
彼女自身、可能性は限りなくゼロに近いと理屈では理解できてはいる。けれど挑まなければ、その可能性すらない。
夢とは……そういうものを追いかけることなのである。
「……ですが……」
担当のウマ娘がこうまで言っているのだ、無論それに答えたい、長末トレーナーはそう思っている。
だが、
その巨大な存在が長末トレーナーをあと一歩押し出せずにいた。
「おうおう長末……。ボーガンがああ言ってんだ、お前さんも腹くくれってんだあ……」
見かねたバニータルーブルが、この場をたしなめるように、キョウエイボーガンの好きにやらせてみろと、長末トレーナーを説得する。
そこまで言われてしまったのなら、無理ですと、自分が食い下がるわけには行かない。
覚悟を決めた長末トレーナーは、力強くうなずく。
「わかりました……私も最善を尽くします。ではまずコースに慣れるためにも、京都新聞杯を挟みましょう」
菊花賞と同じ京都レース場で開催される、芝2200mのGⅡ京都新聞杯。
菊花賞のトライアルに指名されているこのレースで、まずは力をつけようという考えだ。
「――やるからには、勝ちを狙いに行きすよ!」
その長末トレーナーの頼もしい発言に周囲も沸き立つ。
誰しも負けるためにレースを出走するわけではない。
それが例えどんなに薄氷の上だったとしても――ただ最善を尽くすのみ。出来ることを足掻いてみせるだけだ。
「流石、粋ってえもんよ、そうこなくっちゃあねえ!」
「ミッキー、ぱねぇッス! 憧れる、痺れるッス!」
「わぁ~、それじゃあ今度のボーガンちゃんのレースには、みんなで応援しに行こうよ~」
キョウエイボーガンのGⅠを目指すという意思表明もあってか、その後もてんやわんやと宴は大盛況となり、その日は遅くまで大いに盛り上がった。
幸せな余韻を、今は残して……。
◇◆◇
迎えた京都新聞杯、当日――。
レース場はかなりごった返しており、まるでGⅠを観戦しに来ているような錯覚を覚える。
菊花賞のトライアルに位置するこのレースだが、例年に比べて多くの観客がこのレース場に詰め寄っていた。
なぜならば、誰もがその勇姿を見に来ていたのである。
今世間を賑わせている
「ほぇ~すごい人ッスねぇ~。GⅠのトライアルとなると、人気も違うんッスねぇ~」
キョロキョロ辺りを見渡しながら、この人混みに圧倒されつつあるオーサムラフインはため息を漏らす。
どこを見返しても人、人、人――。
この雑踏の中、チームメイトのキョウエイボーガンの応援が果たして届くのか、自信がなくなってくる。
人々が注目される中、いよいよパドックが行われる。次々とウマ娘たちが順番に自分たちの勇姿をお披露目していく。
「ボーガン、気合いれてけよお!」
「ボーガン姉御、ファイトッス!」
「ボーガンちゃん、頑張れ~」
キョウエイボーガンのパドッグが始まると、チームメンバーたちはそれぞれ激励の言葉を観客席から投げかける。
この雑踏の中だ、声援が届いたかはわからない。
しかし短い間の登場ではあったが、見た限り、特に入れ込んでいる様子はなく、まずは一安心とい感じあった。
その後順々とウマ娘が入っては捌けてを繰り返し、そして最後のウマ娘が登場すると、これまでと比べ物にならないほど観客から歓声があがった。
「な、なんかすごい人気のウマ娘がいるッスね……」
観客の声にびっくりしてしまったオーサムラフインは、驚きの声を上げる。
その沸き立たさせている件のウマ娘の方を一斉に見やる。
「……なんだ、あいつはあ……。やべえなあ、デキが違いすぎらあ……」
そう苦虫を噛み潰したような声を漏らす、バニータルーブル。いつもの彼女らしからぬテンションだ。
触覚のように前髪の一部が跳ね上がっている栗毛色の長髪で、カチューシャがアクセントの威風堂々たる佇まいを放つウマ娘が、そこに居た。
その姿を視線で捉えると、バニータルーブルは思わず冷や汗をかき、握りこぶしを作って力を入れてしまう。
この距離からでも伝わってくるあの圧倒的なオーラ……間違いない、強者の放つプレッシャーだ。
「――ッ! おい、長末!! もしかして奴はあ!?」
何かに気がついたように、長末トレーナーの方を振り向いて確かめる。
「……はい、あのウマ娘はミホノブルボンさん。6戦6勝、現世代最強とも称され、皐月賞とダービーを勝った無敗のクラシック二冠ウマ娘です……」
淡々とそう説明を挟むが、次々におとぎ話のような信じられない話が飛び出してくる。
しかし、それはすべて周知の事実であった。
「わぁ~、めちゃくちゃすごいねぇ~漫画みたい~」
呑気な感嘆を漏らすアントレッドマーチだが、現実味がないのは無理もない。
それほど偉業を成し遂げている存在なのだから。
「で、でも……今絶好調中のボーガン姉御なら、そんな人相手でもヘッチャラッスよね……?」
そう聞かずにはいられなかった。
今抱えている不安を払拭したく、オーサムラフインは恐る恐るバニータルーブルと長末トレーナーの顔を見る。
『…………』
しかし二人は難しい顔をするだけで、それに明確な返答はなかった。
その漂う緊張感に、しばらく無言が流れる……。
そしてバニータルーブルがこの静寂を破って口を開く。
「……長末。ボーガンには、奴のことは伝えているのか?」
いつになく真剣な面持ちで、正面――ミホノブルボンに視線を向けながら長末トレーナーに確認する。
「……いえ、自分の走りに集中して欲しいと思いましたので、あえて伝えてはいません。いつも通りの走りができればよいですが……」
余計な情報を与えてあのような化け物を意識しても良いことはないと判断し、その情報をキョウエイボーガンにはあえて伏せていた。
長末トレーナーとて、この京都新聞杯にあのミホノブルボンが出走してくるのは読めた。だがそのまま菊花賞まで大人しくしてくれないかと、僅かな期待をかけた。
そんな些細な望みも打ち砕かれた。
まだ相手にするには早いかもしれない。
しかしレースでは否が応でもあれと向き合うことになるだろう。
同じ逃げ脚質のウマ娘として――。
今回は多少控えてしまっても致し方ない。
無事に乗り切ってくれることを、長末トレーナーは祈るようにキョウエイボーガンの姿を遠くから、固唾を呑んで見守っていた。
◇◆◇
スタンド場の熱気とは裏腹に、ウマ娘たちが出走を待つレース場では、まるで冬空のような何か凍てついた空気が流れ込んでいた。
――それはある存在から解き放たれている。
他を寄せ付けない圧倒的な威圧感……これが絶対王者、無敗の二冠ウマ娘の風格。
瞳の奥に込められた気迫が違う。
目を合わせただけで威圧され、たじろいでしまいそうだ。
坂路の申し子? サイボーグ? そんな生易しいものではない。
あれは――悪魔だ!
この場にいるすべてのウマ娘に絶望と恐怖を与え、圧倒的な力で踏みにじる畏怖の象徴――まさに悪魔がターフに降臨していた。
誰しもが無言でゲートに入っていく、
ゲートで出走を待つ最中、ある者は死刑台に連れて行かれるのを待つような感覚を覚え、ある者はこの場から逃げ出したいとすら感じ始めてしまう。
それほどたった一人の存在によって、この場の全体が飲み込まれていた。
そしてキョウエイボーガンもまたその影響をモロに受けていた……。
(……どうしよう、さっきから震えが止まらない……)
ターフに立ってから、どうも自分の調子がおかしい。
緊張によるものや、武者震いともまた違う。
身体が、生存本能が、何を感じ取り訴えかけていた。
(ダメだ……集中しないと……)
もうゲートインは始まっている。
最後のウマ娘がゲートに入ったら間もなくレースが始まってしまう。
キョウエイボーガンはスタート前、入れ込みに近い形で精彩を欠くこととなってしまった。
だからこそ反応が遅れてしまったのだろう。
最後のウマ娘――ミホノブルボンがゲートインし、観客のわぁっと沸き立ったほんの数秒後、ゲートが解放されたことに。
(くっ……しまった……!)
コンマ数秒の遅れ……しかしそれは致命傷となって襲いかかる。
いつものようにコースの内へ行こうとしていたが、先にスタートしたウマ娘に前を塞がれる。
序盤で抜け出せなかったのはかなりのロスだ。
キョウエイボーガンはうまく先頭に行くことができず、三番手になってしまう。
そのまま、あまり展開も変わることもなく、走り続ける。
良くない位置だ。
スタートしてから第2コーナー、第3コーナーと、二番手争いをずっと繰り広げていた。
余計な消耗で、体力をじわじわと削られていくのをキョウエイボーガンは体感する。
(……早く前に行かないと……)
焦るキョウエイボーガン。
思った以上に坂道が厳しい。
消耗したスタミナを振り絞りつつ、位置争いを交わしながら、脚を回転させ、なんとか二番手にまで持ち返した。
後はなんとしても先頭にでなければ……。
だがそれまでだ――。
更に前に行きたい、いつものように先頭に行かなければ……。
そう何度も強く思っても、まるで見えない壁に阻まれているかのように、先頭との差が一向に縮まらない。
他の追従を一切受け付けない、延々と続く2バ身の壁――。
届きそうで届かない。異次元なほどまでに突き放されているなら、まだあきらめも付く。
だが、常に一定の距離から動かないのだ。
――見よ、これがミホノブルボンの走りだ。
上り坂だろうと下り坂だろうとコーナーだろうと直線だろうと、リズムは乱れない、ペースは崩れない。
一部の隙きもない、無慈悲なまでの強靭な走りが、そこはあった。
このレースの結果はすでに最初から見えていた。
誰かが唄う、『菊近し、淀の坂越え、一人旅』そう称されるほどの、ミホノブルボンの圧勝だった。
そしてキョウエイボーガンは、第3コーナー800mを通過したあたりで失速し、最後尾まで後退し、そのまま沈んでいった。
結果は、着外。10人中9着という大敗を喫してしまった……。
◇◆◇
観客席。ボルテージはマックスに達していた。
割れんばかりの歓声が、場内に響き渡る。
興奮が冷めやらない、熱が渦を巻いていく。
『――これなら菊花賞も確実だな』
『――菊花賞が楽しみだ』
そんな観客たちの声が、聞こえてくる。
そう、誰もが熱狂した。
そう、誰もが渇望した。
この強い走りを見せたミホノブルボンに、”皇帝”シンボリルドルフ以来の、無敗の三冠ウマ娘の誕生を――。
一方、同じ観客席にいた周囲の賑わいとは真逆に、長末トレーナーのチーム一行は、水を打ったように静まり返っていた。
そんな中、重い口を開いたのは長末トレーナーだった。
「……私はボーガンさんを迎えにいってみようと思います。皆さんはどうされますか……?」
一緒についていきますか、そう訪ねてくる。
三人のウマ娘たちは、同時に無言で首を縦に振った。
今考えていることは皆、同じである。
あんな負け方をしてしまったキョウエイボーガンの身が心配だったのだ。
キョウエイボーガンを迎えに、全員で地下バ道へ向かう……。
「ボーガンさん!」
珍しく余裕のない声で、長末トレーナーが呼び止める。
ちょうど入れ違いにならず、キョウエイボーガンが下を俯いて地下バ道をトボトボと歩いているところを見つけたのだ。
名前を呼ばれ、キョウエイボーガンは足を止める。しかし反応を一切見せることはなかった。
無理もない。あのようなレース内容だ。
このところ調子を上げて、勝ち星を上げていたのだから尚の事、ショックが大きいのだろう。
キョウエイボーガンを心配し、一斉に長末トレーナーたちが彼女の元へ駆け寄る。
しかし彼女になんと声をかけていいか、皆ためらってしまう。
気まずい沈黙が流れた……。
「……あいつは……菊花賞に出ますか?」
そんな中、ぼそりとキョウエイボーガンが呟く。
あいつ――それは当然、先ほど悪夢を見させられたミホノブルボンのことだろう。
「え、ええ……必ずタイトルを獲るため、出走してくるでしょう。どうしますか……? 無理に菊花賞を目指さず、今から回避されても……」
GⅠなら他にまだまだある。無理に菊花賞にこだわる必要はない。
まずはキョウエイボーガンのメンタルケアを考え、あの悪魔と対峙させないことを優先した提案をする。
「……冗談じゃない……」
吐き捨てるようにキョウエイボーガンは言った。
「――え?」
「確かに今日は負けた……悔しいけど、ぐうの音も出ないほど完敗だった……」
右手を前にかざす。未だに手の震えが止まらない。
「けど……次こそは……」
気持ちで負かされた。何もできず、叩き伏せられた。
このまま完璧に打ち負かされたまま終わってよいものか。
否――断じて否である。
「……負けない、負けたくない……っ!」
手の震えに負けないよう、力いっぱい握りこぶしを作る。
恐怖に屈するな、そうキョウエイボーガンは心の中で叫ぶ。
今は食いしばって前を見るときだ。
静かに闘志を燃やしていた。
次こそは、『ミホノブルボンに先頭は譲らない』と――。
運命の歯車は今、回り始める。
それは神の気まぐれか、運命の悪戯か。キョウエイボーガンの命運を大きく左右する……。
ミホノブルボンのキャラの扱いと、一緒に出走したいたライスシャワーにまったく触れていない点については、お詫び申し上げます。
ちょっとはずかしい誤字を修正(2022/7/12)