料理を受け取るカウンターからだいぶ遠い端の、ひっそりと仄暗い場所にある少人数向けのテーブル席――。
そこにキョウエイボーガンとライスシャワーは二人一緒に腰掛けていた。
普段よりは空いているといっても、幾分かは楽しそう談笑している席も見受けられる。
それとは対象に、二人の一室はまるで座禅でも組んでいるかのように、ただ静寂が流れており、ナイフやフォークが食器にあたる音や、食べ物を咀嚼する音ですらなんだか反響して響き渡るようであった。
(どうしてこうなったんだろ……)
早くも少し後悔し始めていた。
まさか食事に誘われるとは、キョウエイボーガンは露ほども思わなかった。
相手がせっかく誘ってくれたこともあり、断る理由も特になかったのでそれを受けてしまった。
それにあの期待込めた眼差しを見せられては、どうにも断り辛く、今こうして菊花賞の立役者と食事を一緒に摂ることとなっている。
キョウエイボーガンはそれほどおしゃべりを楽しみながら食事をするタイプではないが、それにしたってこの静けさは異常だった。
「……そ、そういえばライスシャワーは和食なんだね。わ、和食が好きなのかな……?」
この気まずい雰囲気をなんでもいいから解消したく、目の前にあった適当な話題を振ってみる。
「はい……。朝はパンですけど……」
そう一言やりとりしだけで、会話は途切れた。
再び静寂が訪れる……。
実は何度かライスシャワーと会話を試みたが、今のようにまるで会話が続かないやり取りに終わっていた。
急に『一緒に食事をしたい』と言ってきたのだから、何か面と向かって話したいことでもあったのかと気を使ったが、すべて徒労に終わる。
今この瞬間、キョウエイボーガンは、レースの時でも言わなかったあの「もう無理ぃ~」を叫びたくなっていた。
もうはこうなっては致し方ない……。
さっさと昼食をすませてこの場から去ろう――そう決めて、食べることに集中しようとしたところで、今度は逆にライスシャワーに話しかけられる。
「あの、ごめんなさい……。ライスのせいで、ボーガンさんまでひどいことを言われて……」
ライスシャワーは目線を下げながら、か細い声でそう謝罪してきた。
主語がないので何のことを謝っているのか分かりづらかったが、なんとなく彼女の言いたいことは察せた。
おそらく世間からバッシングを受けているキョウエイボーガンを気遣ったのであろう。
「……そんなのライスシャワーのせいじゃないし、そうやって謝られる理由もないよ。まあ何か色々言われているけど……それほど思い悩んではないし……」
それはただの方便ではなく、本心からそう思っていたことだ。
ただ流石に『くだらないウマ娘』と、評論家に吐き捨てられたのをテレビで観た時は、怒りのあまりテレビの画面に向かって枕を投げつけてしまったが――。
「でもライスが勝ったから、こんなことに……」
「――そう、君は勝った。そしてあたしは負けた。ただそれだけのことだよ……」
まるで他人事のように、感情の起伏のない声でライスシャワーに向けて語りかける。
考える時間はいくらでもあった……すでに気持ちの整理もついている。
やれ三冠の邪魔をしただの、やれ勝ち目がないのに先頭に立っただの、散々なひどい言われようだが……結局の所はレースに負け、試合にも負け、勝負にも負けたのだ。
掲示板に載れるほど健闘できたのならまだ申し訳も立つ、しかし着外という無惨な結果だった。
それが全てである――。
だからどんなに罵られようと、唾を吐きかけられようとも、それを甘んじて受け止めることしか術はない。
実力勝負の世界で生き、その実力を示すことができなかった、自分の不甲斐なさの結果なのだから――と。
「敗者に語る資格なし……だからなんと言われようとも、あたしは
嫌なことを言われて傷つかないわけではない。批判を受けて心地いいなどと微塵にも感じない。
ならばあの菊花賞をなかったことに――走らなければよかったと後悔するのか。
否、断じて否――。自分が菊花賞を走った事実までは否定したくはない。
負けたことに対する悔しさはあっても、菊花賞に挑んだことに一片の悔いはなかった。
今は耐えるしかない。いつか実力をもってしてその汚名をそそぐ――レースにて結果を示すと、渦中の最中、キョウエイボーガンは一種の悟りに似た境地を開いていた。
「……ボーガンさんは凄いね……。それ比べてライスは……」
ライスシャワーは羨望の眼差しでキョウエイボーガンを見ては、自分との落差にシュンとうなだれて気落ちしたように表情を暗くする。
その自虐にも近い態度。そうまで自分を卑下するのには、何か理由があるのだろうか……キョウエイボーガンは少し気になった。
「……ライスシャワー、君だって自分に恥じない走りをしてきたんでしょ? でなければ菊花賞でみせた走りはできないはずだよ」
自分の反省点を洗い出すために、菊花賞のレース動画を見返したことがある。
そこでみたライスシャワーの走りは圧巻だった。
周りに惑わされず一定のペースを保ち、ミホノブルボンを徹底マークすると、チャンスを逃さず最後の直線で、ミホノブルボンを寄せ付けず振り切ってみせた。
共に走り抜けたからこそわかる。
生半可な走りでは、あのミホノブルボンには届かない。『勝ちたい』という明確な強い意思がなければ不可能だ。
「……ライスはただ、ブルボンさんに追いつきたかっただけなんです」
弱々しい声でライスシャワーはポツポツと語りだす。
「スプリングステークスで初めてブルボンさんと出会って……皐月賞でブルボンさんと走って、その強さに憧れて……ライスはブルボンさんにずっと追いつきたくて、やっとこの間、追いつくことが出来て……」
その先をあまり口にしたくないのか、ライスシャワーは言葉をそこで一旦切る。
キョウエイボーガンは聞かされて改めて思う。
一度や二度ではない、このライスシャワーは何度もミホノブルボンという強敵に挑み、そして自分には果たせなかったこと――勝利してみせたその偉大さを。
ミホノブルボンに勝ちたいという想いは、キョウエイボーガンの比ではないほど強かったと、その言葉の重さで推し量れた。
「……でも誰もライスが勝ったことを祝福してくれない、喜んでくれなかった……。それどころか『余計なことするな』みたいに言われて……」
あの時のレース場の雰囲気は異常だった。
本来であれば勝者に贈られる祝福の声や拍手といったものが一切なく、ため息あるいは罵声といった、どよめきばかりだったのをよく覚えている。
ライスシャワーは心中を語ってくれる。
初めて走って1着になった時は、色々な人から祝福されて嬉しかった。
だからまた誰かに喜んで貰えるように一生懸命走り続けた。
もしも大きな舞台で勝利できたら、きっと大勢から祝福の言葉をくれると思っていた。
けれど祝福どころか、自分が勝ってしまったことで、みんなを不幸にしてしまった、と……。
「……こんなことになるなら、ライスが菊花賞、勝たなければよかった……」
今にも泣き出しそうな声で、さも懺悔するようにそう吐露する。
勝って走ったことを後悔しているライスシャワーと、負けて走ったことを悔やんでいないキョウエイボーガンとで……すべてが対極にあった。
同じ目標を目指していた二人だが……決定的に違う何かが存在していた。
「…………」
長い沈黙が続く。
先ほどライスシャワーが勝者が勝たなければよかったなどと言ったことに対し、キョウエイボーガンはその言葉に少し反感を覚えていた。
勝ったものがその掴んだ栄光を否定するのであれば、そのレースに挑んで負けた者たちは一体何のために存在したというのか、と。
その想いを吐き出しかけたが、今の彼女を攻め立てることはとてもできなかった。
同じく菊花賞で運命の歯車を狂わされた身として――。
だから言って代わりに慰めてやるべきなのだろうか。
同情心で優しい言葉を並び立てるだけなら容易かろう。だがきっと今のライスシャワーには届かない、響かない。
だからこそかける言葉がなかなか見つからなかった。
ただ一点、気がかりなことがあった。
意をけしたようにキョウエイボーガンはライスシャワーに疑問を投げかける。
「……ならもう走りたくないのか? レースには出ないつもりか?」
勝ったなければよかったということは、つまり勝つことを目指さないということ。
それはつまり、競走ウマ娘としての本懐を放棄する――『引退』すると同意義である。
その問いに、考えを整理していたのかしばらくの間があったものの、返答があった。
たどたどしくライスシャワーは答える。
「まだわかりません……。けど、今度の有馬記念に出られるなら出るつもりです……」
ファン投票によって選ばれた優駿たちが中山競馬場の芝2500mを駆け抜ける年末のグランプリ。
GⅠのタイトルを制覇した百戦錬磨の強者達が集う、最大級のレースだ。
人気、実力両方ともなければ出走することは叶わないが、菊花賞をとったライスシャワーならきっと選ばれるだろうと、キョウエイボーガンは率直で忌憚のない感想を述べる。
「でもライスなんかが選ばれていいのかな……もっと他の人のほうが……」
自分が出走したせいで出たくても出れないウマ娘もいるかもしれない、また水を指して誰かを不幸にしてしまうかもしれないと……ライスシャワーはネガティブな思考を述べて不安を漏らす。
今の彼女の心境を察するに、最初は純粋な気持ちで走り始めたが、今は周囲の影響で自分のせいで誰かに迷惑をかけてしまうと思い込んで、道をいくらか見失っているようにみえた。
かつてのデビュー以降負け続けて不調におちいった時と似ているなと、キョウエイボーガンは思った。
だからこそわかることがある。
やはり答えは『自分の中にある』ということ……気持ちの問題は自力で整理して解決するしかない、と。
なにか解決のきっかけがあれば、また別ではあるが――。
下手に義理立てする間柄でもないが、目の前で思い悩んでいる者を、むざむざ捨て置くのも忍びない。
しかし果たして今の自分に、そのきっかけを彼女に与えてあげられることができるのだろうか……とても自信がなかった。
菊花賞で同じく批判を受けた境遇を持つという弱い繋がりだけで、彼女の心に響かせられることができるのか、と。
少し考えるが、すでに答えは決まっていた。
難しいな……そう結論が出てしまう。
「……ごちそうさま」
と言うと、キョウエイボーガンは勢いよく席を立ち上がった。
食器の中にある料理は半分も手をつけられていなかった。
「ライスシャワー、菊花賞……優勝おめでとう。それじゃまたいつかレースで……」
ライスシャワーの方を柔らかい表情で見下ろしながら、そう語りかける。
これが今言える自分の最大限の伝えられる言葉であった。
敗者から勝者へ送れるのは……勝ったことへの称賛することしかない。
本人は勝たなければよかったと否定的だが、たまたまミホノブルボンの三冠という記録がかかっていたその反動が今来ているだけであって、時が来ればライスシャワーは必ず評価されるはずだ。
彼女に送った『おめでとう』という言葉はけして嫌味ではなく、勝者として誇りに思ってほしい、胸を張ってほしい、そういう想いを込めた言葉であった。
「ありがとうございます……。またです……」
誰からも貰えなかった、望んでいたはずの祝福の声だったが、ライスシャワーは表情は依然冴えないままで、下をうつむくばかりだった。
その姿を見届けてから、キョウエイボーガンはこの場を立ち去る。
束の間の回合であった。
去り際、やはり自分の言葉では響かないと感じた。
すぐには咀嚼しきれないこともある。
今は性急なのかもしれない。少し時間を必要なのかもしれない。
もし暗い闇に沈み込む彼女の心を晴らせることできるのだとしたら、それは直接破った相手から、もしくはまた同じような状況に立たされた時、かつて心の迷子になって自分が手を差し伸べられたように、一歩前に踏み出せてくれる存在が現れれば変わるかもしれない。
そんなことを思い馳せた……。
ただなんとなく彼女のことは大丈夫な気がする。
あれだけのことがあってもまだレースには出走する意欲はあったのだ。
この先、レースに出ていければ、またどこかで彼女と相まみえることもあるだろう。
彼女の出した結論はその時、走りで聞けばいい。
ライスシャワーが迷いを断ち切り、菊花賞のときのようなあの力強い走りを見せてくれる日を、楽しみにする。
偶然が重なってできた合間の出来事。
本当はここで出会うこともなかったかもしれない。
ほんの運命の悪戯で、わずかばかりの触れ合いを行った二人――。
しかしこの先、二人の運命は交錯することはなかった……。
◇◆◇
午後の授業が一段落した時間。
多くのウマ娘たちがトレーニング場などで、自分の夢に向かって練習に打ち込んでいる姿が見受けられる。
キョウエイボーガンは数日ぶりにチームの部室へ顔を出していた。
この数日ですっかり身体がなまってしまい、リハビリがてら少し体を動かそうと思ったからである。
「ボーガンさん! もうお身体はよろしいのですか?」
部室に現れたキョウエイボーガンの姿をいち早く確認し、今日もシワひとつのないスーツに身を包んだ端整な顔立ちの男性――長末トレーナーがキョウエイボーガンの元へ急いで駆け寄ってくる。
「うん……。まぁそれにずっと休んでいたら、逆に身体がなまっちゃうからね」
妙に過剰反応を見せて心配する長末トレーナーを安心させるために、その場でストレッチしてみせて、元気なところをアピールしてみせた。
「そ、そうですか……。まだご無理されなくても大丈夫ですので、休みたくなったらいつでも言ってくださいね」
そんなアピールは伝わらず、いつも以上に丁寧に気遣ってくる長末トレーナー。
その理由はただの大レースの後だからというわけだけではなく、おそらく今騒がれている
「だから平気だってば……むしろ今は無性に身体を動かしたいくらいだよ」
そう軽く冗談交じりに笑いながら、いつもと変わりないという様子で振る舞う。
気を使われているのを、逆に気を使うのも大変だな、と内心キョウエイボーガンは苦笑する。
『…………』
ふと長末トレーナーの後ろで、じっーとこちらの様子をうかがっている二つの影に気がついた。
「ん? どうしたのラフイン、マーチ? そんなところで……」
いつも賑やかしい後輩二人が今日はやけに大人しくしているのが気にかかり、声をかける。
この二人も少し様子が変なのはすぐわかった。
しかしオーサムラフインはともかくとして、アントレッドマーチにまで気を使われているとは思わなかった。
だからこそあえて、普段どおりに接して、自分に問題がないことを証明してみせる。
それが伝わったのか、安堵のため息をつくと、二人はキョウエイボーガンの元へ一気に飛び込んできた。
「ボーガン姉御~!」
「ボーガンちゃん~!」
二方向から熱い抱擁を受ける。
後輩二人に抱きしめられるが、身長差もあり、キョウエイボーガンの顔は二人の胸にうずくまる形となり、うまく息ができなくなる。
そして押し付けられる柔らかい感触に、自分より発育の良さが伺えて少しイラッとした。
「……いい加減にしなさいっ!」
少しの間なるようにされていたが、あてつけのように押し付けてくる物体にうんざりしてきたので、力を込めて二人を自分から引き剥がした。
それでも懲りずに、キョウエイボーガンに抱きつこうとしてきたので、ひらりと身をかわして後輩二人のハグを交わす。
勢い余ったオーサムラフインとアントレッドマーチは、頭をぶつけ合い、後ろでひっくり返った。
「――ところでルーブル先輩は?」
そういえばいつもかましいバニータルーブルの姿が部室に見当たらないことに気づく。
あの二人と違って突然抱擁してくるような真似はしないだろうが、ずっと静かにしているのは想像がつかない。
少し気になってそう訪ねてみる。
すると、おでこを抑えながら、オーサムラフインがその疑問に答えた。
「ええ……っと。今、生徒会に捕まって、反省文を書かされているッスよ……」
「え――なにそれ……」
何かやらかしたのだろうかあの先輩は……と、呆れてものが言えなかった。
普段から素行がいいとはお世辞にも言えず、ケンカっ早いはよく知っているが、本当に何か問題を起こしたり、誰かに手を挙げているところは実は見たことがない。
よほど気に食わない出来事でもあったのだろうか、バニータルーブルの様子が少し気になったが、生徒会に捕まっているのでは、しばらく解放されないだろうと、彼女のことは頭の隅に追いやった。
「あ、そうだ、トレーナー。相談があるんだけど……」
色々あって忘れていたが、部室に顔を出したのにはもう一つ理由があったことを思い出す。
長末トレーナーと今後のレースの方針について打ち合わせしたかったのだ。
「はい。なんでしょうか?」
「急な頼みで申し訳ないんだけど……あたし、すぐにでもレースに出たいんだ。次のレースの日程を決めたい」
ライスシャワーの件で感化されたわけではないが、今のキョウエイボーガンは、貪欲にレースに飢えていた。
菊花賞での汚名を晴らすには、とにかくレースに出て勝つしかない。
そう考えているからだ。
「そう……ですね……」
長末トレーナーは顎に手を当てて、慎重に考える。
菊花賞の対策でハードトレーニングをかしてしまったので、今度はあまり無茶をさせたくない、そんな心情を表情から読み取れた。
「……再度重賞を狙うと言いたいところですが、今から近日のレースだと調整期間と距離適正を考えると狙うのは難しいかもしれませんね……。なので、ここは一度自信をつけるためにも、オープン戦に出てみませんか?」
長末トレーナーが色々思案した結果、そう提案をしてくる。
ここは下手な挑戦はせずに、まずは勝って勢いに乗せたい……そんな長末トレーナーの思惑が合った。
「うん、それでいいよ。どんなレースでも、あたしは全力で走るだけだから!」
握りこぶしを作って、前に突き出す。
重賞に挑戦したいという気持ちもある。けどそれを焦る必要はない。
長末トレーナーの想いも全部受け止めて、一つずつ前進していけばいい。
今はどんなレースでもよい、とにかく一刻も早くレースをして、1着を獲りたかった。
どんなに周りからなじられようとも、ウマ娘はレースで走ってその結果で跳ね返すしか方法はない。勝つことでしか証明することができないのだから。
「わかりました。ではこのレースはいかがでしょうか――」
二人が納得した上で、出走するレースを見定める。
そうして次の出走を、約1ヶ月後の芝のマイル戦・ポートアイランドステークスと決めたキョウエイボーガンたち……
目指すはもちろん1着のみだ。
重賞をとったウマ娘が今更オープン戦に出走……それはけして屈辱ではなかった。
何度挫けても心が折れなければ、またいつかGⅠにも出れる日がくるかもしれない。
そのためにまた一つ一つ積み上げていこう――新しい一歩から始めていこう。
キョウエイボーガンのゼロからの再始動が、始まるのであった……。