キョウエイボーガン ~命運は矢となりて駆ける~   作:エガヲ

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8話:天命尽きる

 この日、キョウエイボーガンはこれまで経験したことのないレースを駆けていた。

 

 芝1600m、阪神レース場――何度かこのコースは出走した経験はあった。

 しかしいずれのレースでも体感しえなかった初めての()()がこのレースでは、常にまとわりついていた。

 

 それはレースが始まった直後からだ。 

 彼女が何かアクションを起こそうすると、周囲のウマ娘が即座にそれに反応してみせて行動を潰しにかかり、インコースを取ろうとしようものなら、そうはさせまいとすぐさまコースを塞がれ、行く手を阻まれる。

 

 完全にマークされていた……。

 11番の外枠というスタート位置にも恵まれていないのもあったが、徹底的したマークに合い、思ったような走りをさせてもらえず、ここまで2番手に追いやられている状態であった。

 

 キョウエイボーガンの中で焦りが積もってゆく。

 早く先頭に立って自分のペースで駆け抜けたい……ずっとそう思っているが、行動に移せてもらえない。

 先頭を走る3番が断固として抜かせない、隙きあらば2番手を奪おうと8番が並びかけてちょっかいをかけてくる、やや後方に控えている4番と6番が虎視眈々と伺いこちらに重圧をかけてくる。

 

 気がつけば全方位から狙われていた……。

 

 12月に阪神レース場で開催されるオープン戦、ポートアイランドステークス。

 この時期になると重賞やGⅠを狙うような百戦錬磨の強者達は、ほとんどこういったオープン戦には出走してこない。

 代わりに出走するのは――何回か勝ち星は上げてはいるもののイマイチ成績が振るわない、重賞クラスでは手が届かなかった……いわゆる低迷している競走ウマ娘だ。

 世代もバラバラで、10戦20戦は当たり前のようにレース出走経験のあるベテランも多い。

 中にはGⅠに何度か出走したこともある歴戦のウマ娘もいた。

 

 栄光の道を辿り、華々しいトップスターとなれるようなウマ娘はほんの一握り……。

 キョウエイボーガンのように勇ましく栄光の舞台を夢を見、挑戦して破れた者など星の数ほど存在する。

 夢破れてもなおウマ娘たちは走る――走り続けるしかない。

 同じトゥインクル・シリーズではあるが、勝ったところで世間を賑わすことはなく、栄光とは程遠いこの世界(レース)……。

 されどここでしか活躍の場がない。走る場所がないのだ。

 

 だからといって、全てを捨てて夢を諦めて走っているようなウマ娘は皆無であった。

 誰しもいつまでもこんなところで燻っていたいわけではない。叶うのならば、栄光の舞台に上がってそこで活躍したい。

 だからこそ勝って、次へ――未来へと希望を繋げる。

 

 ここで負けたらもう後がない……そんな者だっているだろう。

 泥すすってでも生き延びる――這い上がると、GⅠのタイトルを持っているようなキラキラした主人公(トップスター)たちにとってはちっぽけと思われてしまうような些細な勝利を掴むことに皆、必死であった。

 

 ここはそういう場所(レース)なのだ。

 今駆け抜けているターフ上には、そんな勝利に飢えた魑魅魍魎たちがばっこしている。

 そしてキョウエイボーガンは、自分もその一部であると、否が応でも認識してしまう。

 

 ただその中でも自分はまだ恵まれているほうかもしれない、と思う。

 4回程度の敗北ならまだ取り返しがつく。

 一般的に現役で走れる期間を考えればまだこれから沢山レース出れるので、結果次第ではすぐにここから次のステージに行けるチャンスが――望みがまだあるからだ。

 

 そんな中、9戦5勝重賞2勝という実力を評価され、人生初めての1番人気に推された。

 

 そしてそれは肉食動物の檻の中に、草食動物が迷い込んだようなもの――。

 他の出走するウマ娘全員から、ゲートに入るその時まで、まるで敵を見るような目でずっと見られていた。

 

 喉がヒリついて暑い……されど冷や汗が止まらない。

 ギラギラとした気迫に気圧されてしまいそうになる。

 これが……追われる側の立場というものだろうか、慣れない感覚にキョウエイボーガンは戸惑いを覚えていた。

 

 思えばキョウエイボーガンはずっと誰かを追いかける側、常に挑戦する立場であった。

 9度目のレースで、初めて得る体験……。

 かつて自分が強敵と定めた相手たちも、こんな重圧にさらされていたのかと驚くことばかりである。

 そんな周囲からマークされている中でも、きちんと結果を出せるものこそが、真の強者足りうるものなのだろう。

 

 それがわかっているからこそ……今の四面楚歌で、自分の走り――先頭を取れていない状況に対して、更に焦りを覚えてしまう。

 

 

 すでに残り600mを切った。

 コースはゆったりした最終の第4コーナーに差し掛かる。

 このコーナーを曲がり終えた後の長い直線が勝負所――。

 

 しかしそれは誰もが簡単に思いつくことだろう。

 当然、そのタイミングで仕掛けようものなら、待ち構えていた周囲の者たちによって、好きにはさせまいと、動きを封じられてしまうのが予想できた。

 

 ならば――予想の上を往くしかない。

 まだスタミナは十分残っている、脚は溜めていた……キョウエイボーガンは先んじてスパートをかけて、一気に先頭へ踊り出る作戦へと打って出た。

 

 足に力を込め、勢いよく大地を蹴る。

 キョウエイボーガンは緩やかなコーナーをぐんぐんとスピードを上げて曲がっていく。

 

 先頭を往く3番は、まさかこんなところで仕掛けてくるとは想像だにしておらず、ピッチを上げて外から迫りくるキョウエイボーガンの対応に遅れを取る。

 慌てて3番が、抜かせまいとキョウエイボーガンの進路を塞ごうとするが、時すでに遅い。

 

 あっという間に3番を追い抜かし、ついにキョウエイボーガンは先頭の座を奪い取った。

 だがそう安々と安心する暇を与えてくれはしなかった。

 

 キョウエイボーガンの後方に付いていたウマ娘達が、キョウエイボーガンの呼応に合わせるかのように次々と一斉にスパートをかけてきたのだ。

 その姿はまさに獲物に群がる野生の肉食動物の如く。

 先ほどキョウエイボーガンがやっとの思いで奪取した先頭を奪おうと、迫りくる。

 

 最終コーナーを先頭で抜け、全力で逃げるキョウエイボーガン。

 まだ差は2バ身ぐらいは残っているが、一寸たりとも気が抜けない。

 残すところは最後の直線のみ――。

 

 キョウエイボーガンを逃がすまいと6番と10番が、物凄いスピードで、猛追してくる。

 セーフティーリードなどあったものではない。

 スパートを早めにかけた分、だんだん脚が鈍ってきて、じりじりと差を追い詰められていく。

 

 すでに限界は近い。しかしここが正念場だ。

 どこまで走ってもまだゴールに辿り着かない。この長い直線が永遠に感じる。

 勝ちたい……負けられないのは、こちらとて同じ――。

 

 命を燃やせ、魂を削れ、死力を尽くせ――キョウエイボーガンは全ての力を解放し、踏みしめる自分の足に渾身の力を込めて、大地を思いっきり蹴り上げた…………はずだった。

 

 だがしかし、その足取りは軽かった……。

 

 意思と反して、なぜか思ったように力がでない――脚が回らない。

 ここで力を振り絞らなければ負けてしまう……そうわかっているはずなのに、なぜか身体が応えてくれない、まだいけるはずだったのに息がまるで続かない。

 

 あと一踏ん張りが出せず、ゴール手前でとうとう6番に追い抜かされる。

 そして気がつけば、1着から1バ身以上の差をつけられて、キョウエイボーガンはゴールしていた。

 下手をすればクビの差をまくられて、10番にすら負けそうであった。

 

 再起を誓ったレース――ポートアイランドステークスの結果は、無念の2着に終わった。

 

 ◇◆◇

 

 あれは一体何だったのだろうか……。

 ポートアイランドステークスのレースの数日後、トレーニングに打ち込むキョウエイボーガンは、敗北したことへの悔しさよりも、あのレースでゴール手前で感じた、得体のしれない違和感のようなものに思い悩まされ、鍛錬に身が入っていなかった。

 

 あの後、長末トレーナーにもそのことを話し、すぐに病院へ行き検査を受けたが、診断結果は異常なしであった。

 なら菊花賞開けに色々世間から不当なバッシングを受けていたこともあり、精神的なものによる不調(スランプ)かと思ったが、どうも違う。

 

 問題なく走れる、普通に走れるのだ。

 ただ負けたくないという気持ちが強くあって、ここ一番での勝負どころで限界を超えた――底力を出すことが思ったように出来ないでいた。

 やはり精神面に起因しているのだろうか……自分の中にまだ足りない何かがあるとしか言いようがなかった。

 

 この原因を探るべく、キョウエイボーガンは前回のレースを思い返す。

 まさにアウェイといっても過言ではないほど周りから敵視されて最初は困惑したが、むしろ闘志が湧き上がる展開だっと思う。

 だからこそ最後で力負けたことが未だに信じられず、レース中のことを振り返っても、思い当たる節が見つからない。

 とても気持ちで負けていたとは、思えなかった。

 

 ただレース後の、ゴールした後の出来事が、今でも強烈に印象に残っている。

 

 1着でゴールした6番のウマ娘が、ウイナーズ・サークルにも行かず、ゴールしたその場で号泣していたのだ。

 たかがオープン戦での1勝……されど喉から手が出るほど渇望していた大切な1勝を、泣きじゃくりながら喜びを噛み締めていたのだ。

 

 その姿を思い返してキョウエイボーガンは、まだどこか自分は勝利に対して貪欲でなかったのかもしれない。

 彼女たちにあって自分になかったものは何かとすれば……それはハングリー精神なのかもしれない、そう思い至る。

 そしてレース中で感じたあの違和感は、自分の気持ちの弱さ――環境への甘えや、たかがオープン戦と、まだどこかで慢心していた結果の現れだと思うことにした。

 

 だから次こそは――自分の弱さを克服するためにも、全身全霊をかけてトレーニングに励まなくてはいけない。

 さっきからモヤモヤと考え事ばかりで身が入っていないのは、悪い傾向だ。

 キョウエイボーガンは自分の両手の手のひらでパチンと頬を炊いて気を引き締めると、悩み事のせいで集中しきれていなかったトレーニングに打ち込むこととした。

 

 今はただ目の前のレースに勝つことだけを考える。

 そしてそれに必要なのは、だらけきった身体を絞ること……徹底的に基礎体力から作り直すトレーニングこなし、追加で自主トレーニングも行った。

 無論、長末トレーナーに相談の上で、オーバーワークにならない範囲に留めるよう努めた。

 

 

 そうして迎えた、1ヶ月後の洛陽ステークス。

 京都レース場の芝1600m……。

 

 不思議と因縁を感じる。

 よりにもよって()()()と同じレース場――上等ではないか、再起するにはうってつけだと、そうキョウエイボーガンは胸を躍らせていた。

 

 気が入るのも無理はない。またしても1番人気での出走となったからだ。

 

 オープン戦だろうと、もうなりふり構わない。

 誰かが自分に期待をしてくれるのなら、その期待を裏切るわけにはいかない、キョウエイボーガンはそう決意を胸に秘めながら、今日まで勤しんだトレーニングを思い返す。

 

 緩んだ体と心構えを入れ替えるために、厳しい鍛錬を積み重ねてきた。

 何度も音を上げそうにもなったが、勝利を掴み取るための修行と割り切って、耐えてきた。

 今こそトレーニングの成果を見せる時――。

 

 そして疲れが残らないよう、前日はゆっくりと休んで体調を整えたので、準備に抜かりはない。

 コンディションは万全だった。

 

 そう――――レースの前までは……。

 

 前回のように周りからの圧力で遅れは取らない……そうスタート前からキョウエイボーガンは力んでいた。

 やはり今回も周囲から警戒されている。

 逃げの戦法と取るにおいて、位置取りが肝心な序盤に、横槍を入れられて先頭を取れず、苦しい展開になるのは避けたかった。

 いち早く駆け出し、スタートで差をつける……今回はそれが彼女の課題だった。

 

 しかし、それが焦りとなってミスを引き起こしてしまう。

 

 先頭を取ろうという気持ちが前に出すぎていた。

 ゲートが解放し終わる前に駆け出してしまい、ゲートに体をぶつけてしまう。

 幸いそこでぶつけた箇所は、レースを走るのに支障が出るほどではなかったが、痛みに襲われ、アクセルかけたはずの足にブレーキする形となる。

 

 先急いだ結果、逆に出遅れるという本末転倒な展開へとなってしまった。

 

 先頭争いに負け、出たなりで各ウマ娘が横広の状態のまま2番手の位置についたキョウエイボーガンは、一刻も早くこの遅れを取り戻さなければならない、このままでは前回のレースの二の舞になってしまう……そう気持ちだけが逸る。

 

 そして先頭集団はスタートの長い直線を抜けて、あの淀の坂がある第3コーナーを迎える。

 

 不運はその時、起きた――。

 

 この坂で先頭を取ろうと速度を上げ、坂道を駆け登るために左足に体重を思いっきり載せたその刹那…………激痛が電流となって体中を駆け巡ったのだ。

 

 それは誰の目から見ても不自然なほどの失速だった。

 加速するどころか、突然の痛みにキョウエイボーガンの脚が鈍り、みるみるうちに順位を落としていく。

 

 今ここで思えば、ここで競走中止して、レースをやめるべきであったのだろう。もしくは誰かが彼女を止めるべきだった。

 しかしまだ足が完全に動かないわけではない……痛みを堪えればまだ走れる、そうキョウエイボーガンは意地をみせ、痛みに耐えながらもレースをなんとか走りきってしまった。

 

 もはやレースの結果は最後までみるまでもない――。

 健闘むなしく、16人中15着と……散々ななものであった。

 

 

 地下バ道に入ってすぐ、壁にもたれながらキョウエイボーガンはその結果を噛み締めていた。

 

 もはや悔しいと思うことよりも、ずっと痛みを訴えかけてくる足の激痛に参っていた。

 本バ場から去るまではまだ無理してなんとか歩くことができたのが、レースが終わった途端、アドレナリン分泌で今までせき止められていた痛覚が正常に戻ったのか、もはや一人で歩けないほど、ひどい症状に襲われていた。

 

 その後、戻りが遅いキョウエイボーガンを心配して迎えに来た長末トレーナーの手を借りて、すぐさま病院へ直行となる。

 病院に運ばれる車の中、彼女はうわ言のように何度も謝罪を繰り返していた。

 

 怪我をしてしまったこと――レースで勝てなかったこと――皆の期待に答えられなかったことを……。

 そんな自責の念にかられている彼女を、長末トレーナーは車を運転しながら、そんなことはないと、優しい言葉で励まし続けた。

 

 ◇◆◇

 

 怪我を負って病院に向かってから数日後――キョウエイボーガンは左足首にギプスをはめ、身動き取れない状態で、ベッドの上で退屈を持て余していた。

 

 デビュー後の2ヶ月後に負った骨膜炎以来の入院生活……。

 あの時は1週間程度で退院できたが、今度はどうやら派手にやらかしてしまったようだ。

 

 診断の結果、足首の疲労骨折と靭帯損傷で、全治に1年以上はかかると告げられた。

 しばらく絶対安静で、数ヶ月以上は入院生活を余儀なくされることとなる。

 

 やはり菊花賞から無理がたたったのかもしれない。

 この約半年間、毎月のようにレースに出走し、その合間にレースに勝つためのトレーニングを行い、時には厳しいトレーニングをしていた時もあった。

 

 一緒に診断結果を聞いていた長末トレーナーから、キョウエイボーガンに負担をかけたこと、トレーナーとして管理が不足していたことを深々と謝罪されたが、自ら望んでそれをやった事でもあるので自分の責任でもあると、彼女は逆に長末トレーナーに謝った。

 

 とにかく今は体をゆっくりと休め、怪我を治すことが先決となる。

 そして治ったら早くレースに復帰したい、再起を誓ったのに負けたままでは終われないと、キョウエイボーガンの闘志はまだこの時は失われていなかった。

 

 ここからレースへ復帰まで、しばし長い月日を隔てることとなる……。

 

 ***

 

 入院して数週間が経った――。

 

 することもなく、ずっとベッドの上でゴロゴロとしているのも退屈だったので、現状できる範囲で可能なトレーニング……腕の振りを早くするためにダンベルをつかったアームカールやペンチプレスしたり、腹筋を行い、主に上半身の鍛えるのが日課になっていた。

 とはいえ、やりすぎるのも怪我に響きそうなので、程々に控えている。

 ダンベルなどの器具は、お見舞いに来てくれたチームメンバー――バニータルーブル達からの差し入れであった。

 

 彼女たちからエールをもらいながらも、早く退院してチームメンバーと一緒にトレーニングに打ち込みたいと、強く願った。

 

 ***

 

 その数日後のことである――。

 

 いつものようにすることもなくベッドで寝そべっていると、長末トレーナーが何度目かお見舞いに来訪し、一通の手紙を渡してきた。

 それはキョウエイボーガン宛のファンレターだった。

 差出人は、すでに何度か手紙でのやり取りを交わしている馴染みの相手からだった。

 

 大した活躍などしていない自分にこんなもったいないものをくれる人は一人しか居ない。

 岡山県在住の主婦の松本さん……菊花賞が行われる前に、出走ウマ娘のインタビュー記事の雑誌が発売され、そこでキョウエイボーガンの記事”母親を失ったキョウエイボーガン”というのが頭に離れず、菊花賞のレースを見てファンになってくれたという奇特な方だ。

 

 後であの記事を読み返してみたが、だいぶドラマティックに話が大層に盛られていて、読んでいてこっちが気恥ずかしくなったが、こうやって応援してくれる人がいてくれることが何よりも嬉しかった。

 応援してくれる人のためにも、きちんと怪我を治してレースに復帰しようと、さらに意気込んだ。

 

 ***

 

 それから少しの歳月が経過する――。

 

 自分をベッドの上に縛り付けていたギプスがようやく取れて、車椅子を使ってだが移動できるようになって、やれることが増えた。

 しかし驚いたことに、この数ヶ月まったく歩けずほとんど動かしていなかったので、足の筋力がすっかり落ちてしまい、立って歩くことができなかったのだ。

 

 ギプスが取れたらすぐ自由に動ける――とはならず、これから数ヶ月ほどの辛く苦しいリハビリが始まる。

 けれどキョウエイボーガンは、行く幾分か自由になり、リハビリと称してトレーニングまがいなこともできるようになったので、気楽なものであった。

 なによりこんなところで躓いていては、レースに復帰など夢のまた夢だ。

 

 長く辛い、自分の体との戦う(リハビリ)生活を迎えることとなった。

 

 ***

 

 また幾ばくかの月日が流れる――。

 

 懸命なリハビリのかいがあってか、キョウエイボーガンは退院を迎えていた。

 すでに自力で歩行する分には、ほとんど支障をきたさないほどまで回復した。

 

 だからとってすぐにトレーニングできるというわけでもなく、しばらく激しい運動は控えるよう医者から強く言われている。

 なのでトレセン学園へ通うも授業だけにとどめて、トレーニングや実際に走ったりなどはせず、見学だけに努めた。

 

 久しぶりに顔を出したチームでは、みんなから”お帰り”と、温かい言葉で迎えられた。

 その何気ない言葉が、キョウエイボーガンにはなにより嬉しかった。

 帰れる場所があるというのは、こんなにもありがたいものなのか、変わらずここが自分の居場所であって本当に良かったと安堵する。

 

 だからなのか、入院中色々世話になった恩返しとばかりに、チームメンバーの汚れた衣服やタオルの洗濯や、部室の掃除など普段は当番制でやっていたが、キョウエイボーガンがトレーニングができるようになるまで、積極的に行うようになった。

 少しでもみんなの力になりたい、お互い支え合う存在でいたい……そんな想いもその行動には込められていた。

 

 ***

 

 退院してから数ヶ月ほどがたった――。

 

 医者からついに許可が降りた。

 これまで我慢して、治療に専念してきたかいがあった。

 ようやくトレーニングを始めることができる、キョウエイボーガンの気持ちは晴れやかであった。

 

 ようやく全力で走ることができる、それがどんなに嬉しいことか……。

 それまでも軽い筋トレぐらいは行ってきたが、目一杯走ることは出来なかった。

 キョウエイボーガンは気持ちを抑えきれなくなり、病院から帰ってからすぐにトラック一周を駆け出す。

 

 久しぶりに思いっきり走るのは、とても気持ちがよかった。

 しかし走りながら実感してしまった。否が応でも実感させられてしまう。

 随分衰えた……と。

 

 その証拠に測ってもらったタイムは、過去最低記録を更新していた。

 とてもこれではレースに出走しても、優勝なんて夢のまた夢……よくて最下位争いとなってしまう。

 

 けれど走り出せたなら、これからまた始められる。

 何度ふりだしに戻ろうとも、諦めない気持ちがあればきっと届くはず……。

 レースに出て恥ずかしくないように、だからといって焦ってまた怪我をしないように、じっくりとトレーニングを重ねて、自分の走りを取り戻していこう、そう決意を新たにした。

 

 ***

 

 何度目かの季節がめぐり、キョウエイボーガンが怪我してから約1年9ヶ月の長い歳月が経っていた――。

 

 そして菊の時期が深まる秋に……ついに復帰レースへと挑む瞬間が訪れる。

 

 怪我にも負けず再起を誓って励んだ日々。

 自分を応援、見守ってくれている人達のためにも、挫けず何度も起き上がってきた。

 

 ここから彼女の劇的な復活の物語が今――。

 

 

 

 

 

 

 ――始まりはしなかった……。

 

 

 復帰戦1戦目、8着……2戦目、6着……いずれも着外。

 

 レースには戻ってこれた――だが勝利までには程遠く、惨敗を重ねてしまう。

 

 よぎるのは怪我の再発や精神面での絶不調という言葉。

 だが……それらの要因ではない。

 

 出せていたのだ……全力を出して走れていたのだった。

 怪我が明けてからどんなにトレーニングをしても、かつてのスピードは戻らず、得意の逃げが使えなくなっていた。

 運命は残酷にも、彼女の脚を奪ってしまった。

 

 怪我明けから1年ぶりの大きな舞台で、劇的な復活をとげたウマ娘がいた事は記憶に新しいだろう。

 そんな感動的なシナリオはよく聞くが、実際にはほとんど起きないのが常である。

 起きないからこそ奇跡足り得るものなのである。

 選ばれしものだけが栄光を掴むことができるように、神に――奇跡に選ばれたものが体現でき、成し遂げられる。

 神の采配か運命の悪戯か――奇跡は平等に起こらない。

 キョウエイボーガンには……その恩恵に与ることが出来なかった。

 

 ◇◆◇

 

 レースから戻って数日がすでに経っていた。

 

 このところ彼女はずっと気が重かった。

 授業もトレーニングも、何もかもやる気になれなかった。

 

 今日は仮病を使って、朝からずっと部屋にこもっている。

 どこか熱があるとかそういうのではないので仮病ということになるが、体調不良と一言で片付けるには重い、精神的にひどく不安定な状態だった。

 

 よもや夜も眠れないほど思い悩むという経験を、キョウエイボーガンは生まれてはじめて経験した。

 

 菊花賞での出来事でひどく言われていた時ですら、これほど気分が沈んだことはなかった。

 

 それほど受け止めるには重すぎる深刻な事実を、突きつけられてしまった。

 

 諦めなければ、何度転んでも起き上がればいつか届くと信じていた。

 だが復帰して、レースを走ってみて否が応でもわかってしまった。

 

 これは怪我のせいや気持ちの問題などではなく……身体的に本格化(ピーク)が終わりを迎えようとしているという事に――。

 

 ポートアイランドステークスで感じた違和感の正体は、おそらくこれの前兆だったのだろう。

 

 今まで出せていた力が半分も出ない、スピードがまったく乗らない、脚が思ったように回らない、全力を出しているはずなのに周りとの差が埋まらない……じわじわとウマ娘として終末に近づいていると、自覚してしまう。

 

 競走ウマ娘なら、必ず誰しもが最終的に通る道……心や気持ちで到底乗り越えられるような壁ではなかった。

 絶対に超えることの出来ない壁があることを思い知らされる……。

 

 そんな絶望にくれている最中、ふとつけっぱなしになっていたテレビから、今年の菊花賞のレースが中継されているのに気づき、なんとなくそこを見やる。

 

 画面の中では興奮した実況者が、ナリタブライアンというウマ娘が、圧倒的な勝利をもってして、史上5人目のクラシック三冠ウマ娘に輝いたと、勢い盛んに喋っていた。

 

 あのミホノブルボンですら成し遂げられなかった三冠ウマ娘……それを達成したウマ娘が誕生したのだ、とてもすごいことだ。

 しかしそんな名誉ある感動のシーンに、キョウエイボーガンは何も心を揺さぶられなかった。

 

 

 未でも鮮明に思い返せるあの日の菊花賞……。

 だがあの日、同じ菊の舞台を駆け抜けたことが実在せず、まるで幻だったかのように思えてくる。

 

 あれだけ世間を騒がした騒動も、今ではもう影すらなく、自分の名前など過去の遺物となり、すでに時の中に埋没して消え去った。

 

 今テレビに映し出されている光景……これは本当に自分の知っている世界の出来事なのだろうか。

 

 かつては自分も栄光(そこ)を目指した……。

 一瞬、手が届きそうにもなった……。

 けれど栄光をつかめず、失墜する……。

 再起を誓って、もう一度挑戦できる時を待った……。

 だが…………。

 

 何もなし得なかった――成し遂げられなかった。

 歓声は自分に向けられない、栄光は降り注がない。

 

 今テレビに映っている三冠を達成したウマ娘と比べてどうだろう。

 

 それは笑ってしまうほどの綺麗な転落ぶりだった。

 

 何が実力で示すだ……何が結果で名誉挽回するだ……あの時の自分が思い上がっていた姿を思い返すと、鼻で笑えてきてしまう。

 

 ふとどこからともなく乾いた笑いが響く。

 それが自分の口から出ていたことに、しばらく気がつけなかった。

 

 ただ虚しかった――ただ心が空っぽだった。

 

 再度、彼女は走る理由を見失う。

 

 最初はただ義理の祖父の喜ぶ姿を見せたくて走って、それを失ってからは純粋に誰よりも速く、輝いてみたいと走り……今度は何を目的とすればよいのか。

 

 このままレースで走って一体に何になるのか、自分の目指したゴールはこの先あるのだろうか、そう考えてしまう。

 

 もう重賞クラスにはほとんど出られる機会はないだろう。

 出走するとすれば、オープン戦になる。

 

 何度か出走してみてわかったが――あそこは地獄だった。

 

 なぜなら自分以上に焦燥感に駆られているウマ娘たちが幾人も集い、1戦1戦を全力で挑み、泥まみれになりながら、小さな勝利を目掛けてみなひた走っている。

 

 そして走り終わった後、誰もが勝っても負けても泣いていた……。

 

 果たしてそれほど自分は彼女たちのように必死になれるのだろうか、とても自信がない。

 

 ここ数回負け続けたが、キョウエイボーガンは悔しさで泣くこともなく、もはや負ける事に何とも思えなくなっていた。

 

 いつ終わりを迎えるか怯えながら、歴戦の勇士が集うあのオープン戦で、勝てるかもわからないままレースを続けていくのか……その姿を自分に重ねることができず、何だか自分だけどこか遠い世界に居るような気分だった。

 

 試合(レース)で負けても気持ちでは負けない、心さえ折れなければ負けていない。

 

 そうかつての誰にも負けない気持ちを持っていた彼女の姿は……すでに居なくなっていた。

 

 その事に気づいたキョウエイボーガンは、自分でもよくわからないほどショックを受けた。

 その場で膝を抱えて、しばらくうずくまることしかできないほどであった……。

 

 ◇◆◇

 

 翌朝、キョウエイボーガンは引きこもっていた部屋を飛び出し、朝早くから長末トレーナーの元、トレーナー室を訪れていた。

 アポ無しで突然訪れたので、大層驚かれたが、長末トレーナーはいつものように柔和な笑みを浮かべ、暖かく部屋に迎え入れてくれた。

 

 早速、こんな朝早くからどうかしたのかと、要件を訊かれるがキョウエイボーガンは押し黙ったままである。

 彼女は長末トレーナーには見えないように、手で後ろに隠している一通の封筒を持っていた。

 

 おそらく何度も逡巡したのであろう、()()には手で握りしめられた跡が強く残っていた。

 

 何かを決心したように、キョウエイボーガンは唇を噛みしめる。

 そしてチーム脱退届(それ)を長末トレーナーに突き出すと、か細い声でたった一言、つぶやいた。

 

「あたし…………引退します」

 

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