少し先で線路がきしむ音がした。海底列車の到着だ。
海底列車にもモニターやスピーカーはあるだろう。もしかしたら列車の中で覚悟を決めた客たちが襲い掛かってくるのかもしれない。クロエは願った。自分にも魔法のような力があれば。杖を触ったときに見た幻覚みたいに力を振るえれば。
あの幻覚で見た魔法は言うなれば「風の魔法」だ。物を飛ばしたり自分が風に乗って動いたりしていた。鬼の集団から逃げるのにはとても都合がいいじゃないか。
その時クロエは鋭い頭痛に顔をしかめた。デジャブだ。杖を持って多くの武装した人間たちの前に立っている。クロエが杖で地面を強く叩くと、武装集団はふわりと浮き上がって回転し、なにも出来なくなってしまう――
デジャブが消えた頃にはプラットフォームに着くところで、すでに海底列車は止まっていた。まばらながらぞろぞろと人が降りていく。
「隠れるっすよ、そこの壁に張りついてて」
ルピナスの指示にはっとしてクロエは体を動かす。イフはすでに壁の陰になるように身を潜めていた。
一人だけ様子を伺うルピナスはしばらく列車を降りた客たちに視線を向けている。彼らはどんな気持ちでいるのだろう。列車の中で「鬼ごっこ」が開催されたことを知ったのだろうか。
「すごい緊張の『印象』を感じるっす…たぶん列車の中にもモニターとかがあってRONの放送がわかったはずなんすよ」
「見つかるとヤバいってこと?」
「間違いなく。でも降りた人たちは、私たちがいる場所を絶対に通らないと外に出られない。クロエちゃん、この列車って無料で乗れるんすよね」
「入園料にそういうのは全部入っているみたい」
「ならスモークを投げて無理やり乗りましょう。その後のことは一応考えているっす。なんとかするっすよ」
「信じてる」
ルピナスの背中に手をのせてクロエはささやいた。灰色のコートから伝わる温かさが自分に力を与えてくれているような気がして前を向く。降りてきた客がだいぶ歩いてきていて自分たちがいることが露見するのは時間の問題だった。
「あっ! あれってさっきのお姉ちゃんじゃない?」
子供がクロエを指さして大声を出している。隣には両親と思しき大人が二人。
ルピナスが懐から何かを投げた。ピンポン玉くらいの小さなボール。地面に触れた瞬間に白い煙をばらまき、指さしていた子供たちの姿を消していた。
「いまのうちに!」
クロエの手を掴んでルピナスが駆け出す。イフもその後ろにピタリとついている。走りながら同じボールをルピナスが投げる、投げる。たちまちプラットフォームは白煙だらけになってまともに周りを見るのも難しくなった。
来園客たちが混乱して騒いでいるが、クロエたちにとって「そこに近づいてはいけない」印になっている。その場所を警戒しながらルピナスが列車に乗り込むのをクロエは見逃さなかった。ルピナスの両手には拳銃が握られている。
「ルピナス!」
「大丈夫っすよ」
言いながらルピナスはがんがんと銃を撃つ。列車の天井に穴があいて、まだ残っている乗客たちが悲鳴を上げて我先にと列車から出ていく。
「降りろ! 殺すぞ!」
大声を出しながらさらに三発。ひときわ大きな悲鳴をあげて乗客たちが全員いなくなった。ルピナスが列車の先頭の方へと銃を構えて歩いていき、その後ろをクロエは警戒しながらついていく。
どこかに誰かが隠れて襲ってくるかもしれない。薄い勝ち目でも襲い来る者がいないとは言い切れないし、そもそも勝ち目を判断できない人間がいてもおかしくない。
「イフさん! こっちこっち」
「すぐ向かう」
クロエの後ろにイフがついていく。彼の右手の炎はまだ燃えていた。乗客は誰もいないが警戒はちっとも解いていない。
そして窓の外には水が見え始めた。この列車の発進はとても静かだった。透明なトンネル越しに見る海は埋設された照明のおかげでよく見える。海水自体がきれいなのか、海底の景色は透きとおっていた。
「どこまで行くの! ねえルピナス!」
「先頭車両までっす」
「なんのために!」
「緊急ブレーキがあるはずなんすよ、こういう列車なら。十中八九、鬼はこの先の駅で待ち構えているはず。だから駅で降りないで、途中でブレーキかけて飛び降りるんすよ」
むちゃくちゃだ。驚きに目を開いたクロエは前にすすむルピナスの肩を掴んで、しかしルピナスの歩みは止まらない。
「たぶんうまくいきます。飛び降りるときは私に抱きついていてくれれば、私が下になって怪我はさせないはずっすよ」
「気にしてるのはそこじゃない。ブレーキをかけて飛び降りて、それからどうするの?」
「たぶんメンテナンス用の通路かなにかがあるはずなんすよ。メンテナンスのために人を使う必要はある。必要なものはそれなりにあるはず。飛び降りて探して逃げるっすよ」
「なかったら?」
「その時は…覚悟するしかないっすね」
覚悟。なにを覚悟するのだろう。駅まで行って鬼役となった来園客の壁を突破することだろうか。その際に一人や二人は勢い余って殺してしまうことだろうか。あるいは突破しきれずに捕まって殺されることだろうか。生かされてセントラルまで連れていかれてRONになにかされることだろうか。全部ろくでもない。
「だろうな。俺たちはもう後戻りできない」
「イフさん」
「だがこの選択は悪くないはずだ。もし列車を選ばずにセントラルの方へ向かえばそれこそ自殺行為だ。鬼になった客がたくさんいるしRONだって控えている。しかし緊急ブレーキなんてものは本当にあるのか?」
イフの問いかけにルピナスは大声ではいと答えた。そこまで自信があるのならきっと見つかるだろう。見つからなければ覚悟を決めるだけだ。
これだ! 先頭車両に乗り込んだルピナスの喜びに満ちた声が響いた。
「緊急ブレーキってやつ?」
「そうっすね。表示もついてるから間違いなくこれっすよ」
「じゃあ早速――」
クロエは言葉を終わらせられなかった。先頭車両のモニターに文字が浮かんだのを見たからだ。
「――緊急ブレーキはこちらの指示で作動させろって書いてある」
「どれっすか」
「そこのモニターよ」
「えっと…ホントだ。これってなんだろう。どこから送られてるんすかね」
「わからないよ! っとちょっとまって。また文字が変わった」
信用してくれ。こちらは鬼ではない。クロエはそれをはっきりと音読する。
何者かがクロエたちの動向を把握したうえで接触を図ろうとしている。混乱し始めた頭でクロエは必死に考えを巡らせた。このメッセージの送り主はいったい誰だ? 何の目的で文章を送っている?
「こちらはRONを信用していない。君たちを助けることはこちらのためにもなる。赤いランプが光った場所で緊急ブレーキを作動させて飛び降りろ。すぐに回収に向かう」
「クロエちゃん。これを送ってきている奴はただものじゃないっすよ」
「わかってる。こっちの動きを把握できないとこんなの送れないよ。だけどこの状況で助けてやるって意思表示をしているのは信用できるかも…しれない」
「罠かもしれないっすよ」
「覚悟する。罠だったら全力で突破するしかない」
「その通りっすね。赤いランプ、赤い…ここだ!」
フロントガラスから見える遠い場所に赤いランプが天井に設置されていた。強く光るランプの下を通過するタイミングでルピナスは緊急ブレーキのボタンを押し、同時に海底列車がけたたましい音をたてた。
「うわあ!」
思わずクロエは耳を抑える。映画館でしか聞いたことのないような大音量と共に列車が減速し、クロエは前に転がりそうになったのをこらえた。
緊急ブレーキのおかげで列車の速度は落ちていった。だが衝撃や振動がすさまじい。クロエは近くの壁に寄り添うようにしてしゃがみこんで耐える。ルピナスもイフもそうしていた。
どれだけの時間が経ったろうか。無事に停車した列車のドアをルピナスが調べているのを見て、クロエは自分の命がまだあることに安堵した。ひどい地震みたいに暴力的な揺れがまだ続いているような気がしたが、それは錯覚だ。だが視界がふわふわする。
「こっちっす。ドアの鍵は外したから飛び降りれるっすよっと、あれが迎えっすかね」
ルピナスが降りながら銃を構える。射線の先には黄色のライトが見えていた。どうやら懐中電灯を持った人間がこちらに向かっているらしい。
クロエも手にしていた杖を構えて下車する。その後ろにイフが続いて右手を燃やす。そうして大きく低い声を出した。
「誰だ!」
「メッセージに従ってくれたんだな。あれの送り主だ。名前はロン。海底列車まわりの担当のスタッフだ。こっちに来い。逃げ道を案内する」
銃を向けられているのに少しも怯んだ様子がない。それ以上にクロエが驚いたのは、ロンと名乗った水色の作業着の人間の頭に獣の耳が生えていることだった。犬か狼か、そんな印象の耳だ。彼もアニマなのだ。
「信用できるっていう根拠は話せるか?」
口を開いたのはイフだった。右手に火をつけてロンに向かって歩いていく。そこで初めてロンは怯んだ、ようにクロエには見えた。
「根拠だって? そうだな、RONが言うことなんか信用できないから助けようとしている。それじゃダメか?」
「とりあえずは信用しよう。案内してくれ」
「話がはやくて助かるぜ。ついてきてくれ」
懐中電灯の明かりが列車の進行方向へと向く。このまままっすぐいけば次の駅、大勢の鬼が待ち構えているだろう。だがロンに従えばなんとかなるかもしれない。
「走っていくぞ。時間があまりないんだ」