しばらく走ったところでロンが立ち止まり、何もない壁に手をかざしはじめた。あたりはもう透明のトンネルではなくコンクリートのトンネルになっていて、ゆるい上り坂にもなっていた。
「ロンさん? なにをしているんですか」
「生体認証さ。客が勝手にこんなとこ入られても困るし、ほかのスタッフに入られてもまずい。海底列車のメンテナンススタッフは、まあ、特別なんだ」
手のひら、顔、そして目。何もないように見える壁に向かってロンは自分の体を近づけて離すと、壁が上に向かって引きあがっていく。これが元通りになれば鬼がどれだけ目を凝らしても見つかることはないだろう。安心しながらクロエはロンの後ろに続いていった。
「しばらく狭いのが続くぞ。いま明かりをつけるからそこで待っていてくれ」
青い作業着の影が遠くなってしばらくすると天井の蛍光灯が光を放った。すでに入り口は閉まっていて、蛍光灯の光はひとかけらも漏れていない。
廊下のような道をたどっていくと、クロエは大きな部屋に足を踏み入れていた。巨大なモニターが何枚も壁に並べられていて、座り心地の良さそうな椅子がそれらの前に置いてある。
コンピューターのファンの音に満たされた部屋だが、大きな丸いテーブルや五つの椅子もある。メンテナンススタッフの詰め所はそれなりに快適さを持たせようとデザインや工夫が施されているらしかった。
テーブルの上にはトロフィーが飾られている。長い銃、金色のライフル。射撃大会優勝と刻まれたトロフィーはロンが手に入れたものらしい。
「うるさいかもしれないが我慢してくれ。そうだ、そこの椅子に座って休んでいてくれ。コーヒーを淹れてこよう。インスタントのやつしかないが構わないよな」
「ありがとうございます」
クロエは頭を下げると椅子に座った。自分の内側からどおっと疲労が噴き出したような感覚があって、テーブルに頭をつけてしまう。
「しばらくはここにいた方が良い。鬼になってあんたらを捕まえようとしている客たちは東の島の駅で待ち構えている。それも一人や二人じゃない。少なく見積もっても五十人は見えたな」
奥の部屋、おそらくはキッチンへと向かったロンの声が妙に遠い。それだけ疲れていたのだとクロエはぼんやり自覚した。RONの襲撃、来園客の解放をかけた鬼ごっこが始まりこうして逃げてきたのだ。疲れないほうがおかしい。
「どこで確認したんすか?」
近くのルピナスの声もぼやけている。五分、いや、ちょっとだけ楽な姿勢でいよう。そうしたら回復するはずだ。
「あのたくさんあるモニターがあるだろ? あれで東の島に関連する監視カメラが確認できる。このシステムは俺が独自で構築したから、セントラルの管理システムとは別のやつなんだ。だからこっちの行動がRONの奴らに知られる心配はない」
「なるほどっすね」
「今日の勤務が始まったと思ったらRONの奴らが襲ってきてだ、鬼ごっこで勝てば客を全員逃がすなんて景気のいいこと言いやがってよ。そんなうまい話なんてあるわけねえ…ほら、コーヒーだ」
「ありがとうっす。こんな監視システムを持ってるなら、確かに私たちの動向なんて簡単に探れる…あっ。ロンさん、お願いを聞いてもらってもいいっすか」
「なんだ?」
「監視システムを使って人を探してほしいんす。東の島にある監視カメラなら全部ここで確認できるんすよね」
「人探しだって? 出来ないことはないがよ、あんたらいま追われてるんだろ。人を探してるってどういうことだ」
「いろいろ事情があるんすよ。探してほしい場所をメモするから、お願いするっす」
そうか。自分たちのことを考えるので精一杯だったが、ルピナスの言いたいことはわかった。まだ東の島にフィルたちがいる可能性があるのだ。
ルピナスのAR装備はアコニットたちが東の島にいることを告げているはずだ。だが本当に三人がそこにいるのかを確かめたいのだろう。
クロエは疲労とまどろみの沼からはいずり出て目を開ける。頭の近くに白いコーヒーカップが置かれていた。
隣にはイフが座っていて彼にも赤いコーヒーカップが差し出されている。ルピナスはロンと一緒にモニターを見て話をしている。イフの方を見れば、彼もクロエを見ていた。心配そうに目を細めている。
「大丈夫か? そうとう疲れているようだが、休むなら今のうちだ」
「そーだね…それに落ち着いて話をするチャンスでもあるよ」
「話したいことがあるのか?」
「いろいろ。でも、イフさんにとって失礼なことかもしれないし、いい」
「後悔するかもしれないぞ。死ぬつもりはないが状況が状況だ。俺も、君も、彼女も、ここで終わるかもしれない」
不安ではなく覚悟の言葉だ。イフの力強い声にクロエは勇気づけられた。ここで死ぬかもしれない。遊びに来た遊園地で死ぬかもしれない。不当に、不条理に、理不尽な目にあって。だがそれはここであきらめる理由にならない。
「じゃあ…イフさんは怖くないの? 火の魔法みたいなの、使えるようになって」
「正直言って身に余る力ではある。ここまで逃げてくるまでに火をつけたが、あれで人が燃えて死ぬんじゃないかって。そういう怖さはある。でもこの力がなければここまで無事に逃げられたか分からない。だからこれからも向き合っていかないとならない。そう思う」
「本当に強い人なんだね、イフさんは」
「君も挫けずにここまで来ている。俺も、少し気になることがあるんだ」
どこか遠慮がちにイフが言う。少しだけ心の中で身構えてクロエは次の言葉を待った。
「君はフィル君の家の養子だと教えてくれた。だけど君の名前はクロエ・ブルームだと聞いた。なぜ姓が違うんだ?」
「それは」
話してもいいはずだ。個人的な問題だから。だからどこまで話していいか分からない。
「喋りたくないことならやめておこう」
「そうじゃなくて。後悔したくないし、喋るよ。どう話せばいいか分からないけど」
背筋を伸ばしてクロエは言葉を考える。
「率直に言うと、私はメーベルの人間にふさわしくないんだ」
「なんだって?」
「メーベルはね、世界中に会社があるような大きな組織のトップの家系なの。だからメーベルの人には高い能力が期待されている。フィルは毎日いろんな勉強をしていて、それに古代遺跡の発掘とかにも参加している。まだ学生なのに」
「つまりこうか? メーベルの人間は人並外れた努力や能力、素質や才能なんかが期待されている?」
「そう。私と同じ養子の、私にとっては義兄にあたる人もすごいんだ。メーベルの軍事技術の方で活躍するようになったって。その過程で体が義体になったの。サイボーグになって自分の体を研究材料にしたのよ。それだけの覚悟があるってことでしょ」
「サイボーグ?」
「自分の体を機械の体にしてしまうのよ。おかげで普通の人とは比べ物にならない身体能力を手に入れている。でもメーベルの研究計画ではまだ次を考えているって聞いたことがある。そのためにクリスは、クリス義兄さんは自分の体を使っているって」
「養子になったからそんなことを強制されているってことか?」
「違うわ。義兄さんの意志でそうしているの。本人から聞いた。メーベルの人間になるということは、誰かのためになることをするってことだと言ってた」
喋りながらクロエはどんどん自信がなくなってきた。フィルもクリスも自分にできることを精一杯やっている。
遠出したフィルからのメールに添付されていた発掘現場の写真はクロエのスマートデバイスにたくさん保存されている。クリスから送られてきたメールも保存している。前回の実験に比べて義体の出力効率がこれだけよくなったのだとか、良くわからないが望ましい結果が出ているらしかった。それに比べて自分は。
「なのに私は、全然パッとしていないの。なんの適性テストを受けてみても全部それなり。特別に秀でているものはない。ただの凡人がメーベルの養子だなんて、そんなの、そんなのある?」
「だからメーベルを名乗らないのか」
「うん」
「なら、ブルームという名前はだれがつけたんだ?」
「私がつけたの。好きな映画にブルームっていう主人公がいるの。漫画が原作のアニメ映画ね。平凡な一市民だけど、悪党が街を襲ったとき、ブルームは変装をして悪党をやっつけるヒーローになるのよ。そんな彼がかっこよくて」
「フィル君たちはそれをよしとしたんだな」
「わからない。でもフィーに同じ話をしたことはあるの。自分がメーベルの養子であることに圧力を感じているって。そんなの気にしなくていいんだって言ってくれた。それに義理の兄妹だからって変にカタくなることもないんだって。まずは友達みたいに付き合おうって」
「だから義理の兄妹という関係を表に出していないのか…クロエ、俺が思ったことを言ってもいいか」
イフはコーヒーカップに口をつけてから息をつき、しっかりと視線をクロエに向ける。目を細めた彼の印象はどこか優しげに見えて、クロエは少しだけはっとした。まるで父親のようだ。もうひとりの。
「いや、はっきりと言わせてもらう。君は自分が思っているよりすごい人間だ。素直に思う」
「えっ」
「君と初めて会った駅のことだ。君はあの男たちに果敢に立ち向かっていった。俺があの騒ぎに気がついたのは君が派手に転がっていったのを見たからなんだ。君の動きがなければ俺が来たのは間に合わなかったかもしれない」
「えっと…そうだったの」
「まだあるぞ。俺の話を笑わなかった。俺だって自分の話がおかしいって自覚はある、遊園地にいけば記憶が戻るなんてな。だが君は真剣に聞いてくれた。あの場の誰もが茶化さなかった。最後に、君はこんな状況に叩き込まれても勇気をもって立ち向かっている。そのうえ義理の兄を、いや、一番の友人を助け出そうとしている。そんな人間がなにかにふさわしくないなんてバカな話があると思うか」
どこか遠い昔に同じようなことを言われたような気がした。どこで、だれに、いつ言われたかは分からない。デジャブに頭を揺らされながら、それ以上にイフの落ち着いた声にクロエは心が動いているのを認めた。思わず口が震えてしまう。
「私は、メーベルにふさわしい?」
「メーベルってのかどれほどすごいかは俺には分からない。だが、もしもメーベルの者が君をふさわしくないというのならば、メーベルには見る目がない。目立ってよく見えるものだけが全てじゃない」
面と向かって言われたことはなかった。だが、誰もが表に出さないだけで裏では考えているのかもしれないという恐怖が少しだけ根付いている。アコニットも、クリスも、お手伝いさんたちも、なんでこいつがメーベルの養子になんて考えているのかもしれないと。
だがイフの言葉を受け取ってみれば、少しでも抱いていた恐れは彼らに対して不誠実な態度だった。メーベルの人や関係者は自分を認めてくれていたに違いないのだ。クロエはちらりとルピナスの後ろ姿を見る。彼女にも悪いことをしてしまっていた。
現実に悪意ある言葉にして放ったのはアニーくらいのものだった。
フィルに好意を抱いて、近しい異性であるクロエを敵視するあのアニー。フィルへの好意は彼の人柄の良さからか、家柄の良さからか。どちらにしろ、クロエがメーベルの養子であることをよしとしないのはアニーだけだ。
「すまない、泣かせるつもりはなかったんだが」
そこで涙を流していることに気づいた。ややうつむいていたクロエは視線をイフに向けてはっきりと口を開く。
「いいえ…いいえ、ありがとう。なんだか心が軽くなった」
お話し中すまないが。モニターの前からロンの声がした。モニターを見ろと手でジェスチャーをしている。