突然に身を起こし喉からあふれそうな悲鳴をどうにか抑えた。あれは悪夢としか言いようがなかった。腹を剣で貫かれた痛みが生々しく今でも尾をひいている。最悪の気分だ。
寝台列車の二段ベッドの下段でクロエ・ブルームは目覚めた。深呼吸で彼女の黒いパジャマが上下して、少しずつ落ち着きを取り戻す。枕もとのデジタル時計が、いまが午前五時であることを示していた。
なんて目覚めの悪い日なんだろう。今日は遊園地への旅行で楽しい思い出を作るはずだったのに、出鼻をくじかれてしまったかのよう。
立ち上がって二段ベッドの上段を見てみるが、そこには誰もいなかった。一緒に寝台列車に乗っている親友はどこかへ行ってしまったらしい。別の場所から外の景色を見ているのかもしれない。
待っていたら戻ってくるだろうし、それまでに着替えを済ませてしまおう。そう考えていると部屋の扉ががちゃりと音を立てた。足音は二人ぶん。
「フィー?」
「起きてたのかい? 入っても大丈夫かな」
「オッケーよ」
部屋に入ってクロエの前にやってきたのは背の小さな少年――見ようによっては少女のようにも見える、中性的でかわいらしい容姿だ――と、その後ろにいる黒いスーツの女だった。
少年は柔らかな栗色の髪の毛を揺らして椅子に座った。両手にはカップがひとつずつ。その対面に黒スーツの女が座り、暗く長い赤髪に手櫛を通す。彼女も湯気がのぼるカップを持っていた。目鼻立ちのくっきりした、つり目気味の意志の強そうな顔は、カップの熱さをあまり気にしていないように見えた。
「おはようフィル、それにアコさんも」
「はいおはよう。クロのぶんのホットココア、ここに置いておくから」
「ありがと。おいしそ…でもその前に着替えてこなくちゃ。アコさんもまたあとで」
白いパンツと長袖、薄赤のカーディガンの少年にクロエは自然な笑みを見せた。彼こそが親友のフィル・メーベルだ。フィルは頷いて微笑み、アコと呼ばれた黒スーツ、アコニットも小さく手を振る。
シャワー室つきの洗面所の場所は覚えている。迷うことなくたどりついたクロエは熱いシャワーを浴び、鏡を見つめる。
クロエは自分の中性的な、どちらかといえば少年に間違われるような容姿が嫌いではなかった。芯の強い印象のあるすっきりした顔。他人がそんな顔をしていたら性別の判断を迷うかもしれない。
背中のあたりまである青い黒髪にもくしをとおしてドライヤーをかける。今日は結わないことにした。そういう気分だからだ。
線が細く起伏に乏しい体に、黒のパンツと長袖をまとっていく。灰色のパーカーはバッグに仕舞っている。列車から降りれば凍えそうな冬の寒さが待っている。お気に入りの茶色のコートの出番はそこだ。
好きな色を纏うと気持ちが落ち着いたが、あの悪夢を払拭するにはまだ足りない。足りないのは時間だった。どうしても頭に残って離れない。
誰が言っていたか、眠る時に見る夢は、過去の体験や記憶を整理する役割があるという。炎に包まれた場所、炎に包まれた人間、剣で刺殺された自分――あの夢の世界は記憶のどこにもない。
(記憶にない? 記憶喪失の人間がこう考えるのはちょっと変かもね…)
自嘲気味に笑ってクロエは扉を開ける。ベッドルームに戻れば、フィルとアコニットがカップのコーヒーに口をつけて談笑しているところだった。
「おかえりクロ。ホットココア、まだ冷めてないよ」
「わかった。持ってきてくれてありがと」
「いいんだよ。ほら、こっちに座って」
フィルが手で示したのは誰のものでもない椅子だ。簡素なつくりのそれに腰かけてテーブルに向かったクロエは、窓の景色と旅の同行人たちに視線を向ける。
「第八大陸も第九大陸も冬の景色は変わらないんだね」
「だね。でも、第八の方が高い緯度だからもっと寒いはずだよ。風邪ひかないように気をつけないと」
「大丈夫だよ、心配性なんだから」
他愛のない会話をかわすがクロエの心には不安が根づいている。悪夢が種を植えたかのようだった。
不安なのは悪夢のせいだけではなかった。前にこんなことをした感覚がしたからだ。いわゆる既視感、デジャブと呼ばれるものだろうか。フィルと話をして、高校の冬休みにどこかへ遊びに行くところだった…いや、やはりおかしい。
クロエがメーベルの養子になったのは一年前のことだった。既視感が伝える出来事はそれよりも昔に起こったことのような気がする。だからあり得ない。否定するのは簡単なのに妙に生々しい――そんな既視感にクロエは混乱しているのを自覚した。
「クロ? どうしたの、考えごと?」
「えっ」
「だって難しい顔をしているからさ…悪い夢でもみたのかい」
「まあそんなとこ…ねえフィー、アコさん。笑わないで聞いてくれる? 約束してほしいんだけど」
フィルはうんと頷いて、アコニットは穏やかな表情で視線を向けていた。
「実は悪夢を見たってのは半分当たっていて。あたりが炎に包まれた、街、なのかな。爆発が絶え間ない戦場みたいになってて、私は魔法を使って戦うんだけど、剣で腹を刺されて死んでしまうの。それも全身が燃えていた人間に……夢にしては生々しかった。本当に死んでしまうのかと思ったくらい痛いし、今でもその感じは思い出せる」
「嫌な夢だね、大変だ…」
なぐさめるような口調でフィルが言い、アコニットも目を閉じて小さくうなずく。次に口を開いたのはアコニットだった。
「全身が燃えていた人間って、なかなか変な話ね」
「ホントにね」
「炎人間だなんて、アニマにだっていやしないわよ。少なくとも私が見てきたアニマにそんなのはいなかった」
アニマ――動物や植物の要素を持つ人類をクロエはまだその目で見たことがなかった。
彼らはクロエが暮らす第九大陸では生きられないからだ。第九大陸に近づこうとすると苦しみ、命を落としてしまうという。誰も原因を突き止めることはできていない。
「それにね」
「なんだい」
「もう半分の話。デジャブを感じたの。前にフィーとこういう列車で、こんな時間で、一緒に過ごしていてね。私がホットココアでフィーがコーヒーを飲んでいて、それも三年くらい前に…そういうデジャブ。まるで記憶が蘇ったみたいな、そんな感じがして」
「それは……」
「分かってるよ、そんなのあり得ないって。私は孤児院にいた。それ以前のことは思い出せない。両親の名前も、顔も、どこに住んでいたかも覚えてない。記憶の始まりは孤児院で、フィーのお父さんに拾ってもらってメーベルの養子になったのが一年前のことだってはっきり覚えてる。でもデジャブは三年くらい前のことのように思えて。それで不安になっていたの」
確かに時間を考えるとあり得ないわね。アコニットが確かめるようにゆっくり口を開いた。フィルはといえば言葉を考えているらしく小さくうなっている。
「ねえクロ。不安な夢を見て混乱しているんじゃないかな。僕もそうなることあるよ…ホットココアを飲んで落ち着いてみない?」
そうね。頷きながらカップを持つ。熱さが指を刺激するが、離してしまうほどではない。
ホットココアがクロエの好物であることはフィルも知っていることだ。冷えてしまえば美味しさは消えてしまう。静かに口をつけてチョコレートの味わいに集中する。不安を払うように。
この甘み、この温かみ。これが好きだ。何百年も前からつきあいがあるような親しみを覚える味が好きだ。体の内側からじんわりと温かみが広がり、不安が少し離れていくような気がした。
「落ち着いた?」
「ちょっとはね」
「良かったよ…本当に良かった。それとクロ、話を変えるけど、ネクサスのパンフは持っているかい? 地図とかガイドとかあって便利だよ」
持っていなかったはずだ。クロエは首を横に振る。
「それならこれを持ってって。僕のはあるから大丈夫。アコニットもどうぞ」
近くに置いてあった鞄からフィルがパンフレットを配る。寝台列車に乗る前に取っていたのだろう。
鮮やかな黄色が目立つパンフレットは、巨大遊園地「ネクサス」を紹介する項目がずらりと並んでいる。読みやすい配置をしたちょうどよい厚さの読み物だ。どこになんという店があるかも、どこにどんなライドがあるのかも把握できる。地図の確認にも使えるだろう。
「便利そうね」
「でしょ? クロはネクサスについたらなにしたい?」
列車に乗る前にもそんな話をしたのを思い出しながらクロエは地図に目を落とす。
ネクサスは第八大陸の海沿いの半島と、その近くの島々を使った巨大遊園地だ。半島には駐車場や入り口があり、そしてレストランや映画館やホテルなど多種多様な施設を収める巨大な城「セントラル」が建っている。
半島からは東、西、北の島に橋がかけられ、船も出ている。海底列車もあるようだ。
東の島には子供向けな穏やかなライドが多数用意されていて、ショーを催すステージもいくつかある。
西の島はティーン向けの刺激の強いライドが多い。ちょうどフィルやクロエにぴったりの場所だ。十代のおわりなら複雑な機動をするジェットコースターにも乗れるだろう。
北の島には従業員の家が建っているという記述があった。確かに小さな一軒家が立ち並んでいる。ある種の住宅街だ。従業員はそこに住める特権があるらしい。
客にとって生活音は嬉しくないかもしれないが、きっと優秀な防音措置やきちんとしたルールが用意されているのだろう。前日にネットで見たネクサスのレビューで北の島を理由に低い評価をつけるものはなかった。
「最初はお城でゆっくりしようかな。ホテルでちょっと休憩して、それから…ゲームセンターが気になってるの」
「お城……セントラルだね。確かにそこの雰囲気は良さそうだけど、人がたくさんいるかも。どこも人が多いだろうけど。クロは人の多い場所って問題ないかな。大きい遊園地といっても狭く感じるかもしれないよ」
「どのくらい多いのか想像がつかないの。前にデパートに行ったでしょ、あの時よりも多いかな」
「きっとね」
「なら、たぶん大丈夫よ」
見知らぬ他人と近づくのはそんなに恐れることではなかった。しっかり荷物を持ってフィルとアコニットと離れなければきっと問題ないはずだ。
「そのあとで東の島に行こう。アコニットはどこに行きたい?」
「どこって、どこにでもついていくだけよ。私の仕事は二人を守ることよ。あらゆるものからね」
「仕事熱心だね」
「あなたたちをしっかり守ること、それが仕事ですから」
胸をとんと叩いて自慢げにしてみせるアコニットを見て、クロエは頼もしい気持ちになっていた。
アコニットの「ガーデナー」としての訓練風景は何度も見てきた。
ガーデナーの訓練施設は様々な過酷な状況を生成できる。そうして護衛部隊「ガーデン」と部隊員の「ガーデナー」は錬成され、アコニットは誰もが認めるガーデンの隊長になっている。
アコニットの横顔を見てクロエは心から安心する。彼女がいればなにがあっても大丈夫だ。そもそも護衛部隊なんてものが必要な理由はフィルが世界をまたにかける企業グループ「メーベル」の会長の息子だからだ。
事実、何度か社長やその家族が悪意ある手に狙われる事件はあった。そこでより確実に身を守るための手段として、私的な小規模の戦力を用意した。それがガーデンの起こりだった――過去にフィルが話してくれたことを、クロエは今でも鮮明に覚えている。