北の島のボート乗り場に到着してからしばらくの時間が経っていた。クロエはルピナスとイフ、そしてアニーと共に登山道の開始地点、の地下施設で休息をとっている。事前にロンが教えてくれたネクサススタッフのための休憩所で、クロエたち以外のスタッフは全員出払っていた。
アコニットたちの位置情報が消えた場所は北の島中央部にある山――ルピナスが地図に印をつけた場所はそこだった。その近くにフィルがいるはずだ。祈るような気持ちでクロエは簡素なベッドに座った。
クロエはARグラスを操作し、視界いっぱいにSNSやネットブラウザのウィンドウを広げ、あることを調べていた。RONの動向だ。真偽が混じっているのは承知の上で視界に浮かぶウィンドウに目を通していた。
通信妨害の類がないおかげでネクサスに囚われた人々の生の声がSNSではあふれかえっていた。
不安、絶望、そしてRONが示した唯一の脱出方法の鬼ごっこへの多様な反応。来園客の中にはRONを疑う者もいれば、クロエたちを捕まえてくれば家に帰れると本気で思っている者もいた。それどころかルールに生死を問わないとあるからなにがなんでも殺すとまで息巻いている者もいる。
またクロエの素性を特定しようとする動きもあった。成果はそこそこでていたようで、メーベルの養子らしいことまで突き止められている。燃える手の男と呼ばれていたイフについても特定班と呼ばれるネットの住民が調べようとしていたが、なにも分からずじまいのようだった。
「だめね…期待させてごめんなさい」
「気にしなくていいさ」
イフが小さく笑って缶コーヒーに口をつけた。休憩所の備品だった。
クロエがこうして情報収集をしている理由はRONや来園客たちの動向を掴むだけではなく、野次馬根性を全開にして個人を特定しようとする人々にただ乗りするためでもあった。
様々な人々の素性を掴める人種の彼らならイフが何者かも分かるのではないか。そんな期待は打ち砕かれてしまった。だが得られたものがないわけではなかった。
もう時間がない。クロエたちが北の島に来たことは広まりつつあった。ネクサスに囚われた人々の暴力的なコミュニティに潜入して情報を得ていたクロエは、休憩所の面々にそのことを伝えた。
北の島に逃げ込んだ「子」を殺してRONに差しだす。極限状態の中で暴力を選択した来園客たちはRONから貸与された装備を手に、クロエたちを追い詰めようとしている。
「おい、遅くなった。すまないな」
休憩所のドアを開けたのはロンだった。服は血まみれで、アニーが小さな悲鳴を飲み込んだのが聞こえた。
「大丈夫なのか」
「心配はいらない。動くのには支障がない。少し撃たれただけだからな」
「RONに撃たれたのか」
「いや客だよ。RONにしっぽ振ることにした奴らだ。いい装備で身を固めていた。奴らは殺す気でこっちに来ている」
「あとをつけられてないか?」
「それはない。スタッフの秘密の抜け道があるんだ。出入りしたところは見られていない」
イフはやっと安心したように緊張をといた。ルピナスが救急箱から包帯を取り出すのを見ながらクロエは考える。もしも攻撃的な来園客と対峙することがあったら、彼らは間違いなく攻撃をしてくるはずだ。だがクロエには反撃する勇気がない。彼らを殺すどころか傷をつけることにも踏み切れない。
彼らとは出くわさなければいいのだが、戦いが避けられない場面に直面する覚悟を決めなければならないだろう。現にロンは客に撃たれたと言っていた。それでもクロエは決断できなかった。
休憩室の一角が簡素なパーテーションで区切られている。クロエはルピナスを呼び出してそこで話をすることにした。鬼となった来園客たちを傷つけられないことを相談するつもりだった。
パイプ椅子に腰かけた二人の間に沈黙が流れる。ルピナスの顔には焦りの色が見えているが、前よりは表に出ていないように見えた。
クロエはどうやって切り出せばいいかわからなかった。代わってくれるかのようにルピナスが小さく手を挙げる。
「ロンさんの怪我は思っていたよりもひどくなかったっすよ。痛め止めも飲んだし、少し休めば動けるはずっす」
「そうなんだ、よかった。もっと傷が深かったらどうしようって思ってたんだ」
「心配はしなくて大丈夫。でも、さっきからクロエちゃんの様子が変だから心配なんすよ。ね、なにか話をしたくて呼んだんすよね」
「うん」
「困っていること、大体は見当がつくけど、クロエちゃんから聞けないと意味がないっす。どんな話し方でもいいから教えてほしいっす」
「その前にひとつだけ。私の『印象』はどう見える?」
「『印象』っすか。正直にいうなら、とても弱そうっす。吹いた風で倒れてしまいそうなくらいに。衰弱、焦燥、悲観――間違ってはいないと思うんすけど」
ルピナスの人を見る目は確かだ。どんな人生を送ってきたか、これから送っていくかがなんとなく分かるという。彼女の言葉を借りるなら「印象」という、かなりぼやけた概念をつかった観察眼はかなりの精度を誇っている。
ほとんど魔法に近いルピナスの「印象眼」はクロエの心中を当てていた。深呼吸して言葉を探し、クロエは小さく口を開く。
「……人を傷つけるの、怖いんだ」
「怖い?」
「私たちを捕まえれば脱出できるって考えてるお客さんがいる。もっと過激な奴だと、殺してでもRONに引き渡そうとしているのもいる。実際、RONの提示したルールだとそうだったよね。彼らは装備を借りて北の島に近づいているのよ、私たちの頭上を探し回っているんだ」
「間違いなくそうっすよね。状況を考えると」
「彼らは私たちを見たら間違いなく攻撃してくる。それほどまでに追い詰められてるのよ。もし出くわしたらきっと戦うことになる。でも私は彼らを撃てないかも。いや、撃てない。撃ちたくない、傷つけたくない。殺したくなんてない」
「RONなら撃てるんすか」
確かめるようなルピナスの言葉にクロエは頷いた。
「撃てるわ」
「じゃあ何が違うんすか。同じ人間っすよね。RONも過激派の客も同じ、人間っすよね。どうして撃てるとか撃てないとかって話になるんすか」
「だってそれは」
「それは?」
「過激派の客は追い詰められて、脱出のために手段を選ばないことにした。でもそうしたのはRONなのよ。彼らはRONのせいでそうさせられている。彼らは…被害者なの。RONは悪い奴だから撃てる。殺せるわ」
「私たちも被害者っすよ。意味不明の鬼ごっこに突っ込まれてこうなっているんす。それに私の仕事はクロエちゃんを守ることなんすよ。襲ってくるのがRONだろうが客だろうが、殺そうとするなら殺すだけです」
明るく気さくなルピナス。でもそれは自分が知る一側面でしかない。クロエはそのことに頬を殴られたような錯覚を覚えた。いまここにいるルピナスはどこまでも冷たいボディーガードだ。
「気持ちは分からなくはないっすけど、甘いこと考えてると死ぬっすよ。どれだけ力を尽くしても殺されてしまうかもしれないんすよ」
「分かってるのよ。でも納得できない」
「死んで二度と大切な人と会えなくなるのを選ぶんすか。いいっすか、そんなの選んだうちにはいらないんすよ。ただ諦めてる、つらいこと怖いことから逃げただけ、それは…それは、ただの逃げなんすよ。こんな状況なら、逃げたら死ぬだけなんすよ」
「…」
「RONでない人を撃つ、傷つける、殺す、無理にこれをしてほしいとは言わないっす。でも選べないのは弱さの証なんすよ。選択や決断ができないなら、死ぬんすよ」
「…ねえルピナス。私は死ねない。こんなふざけた出来事のせいでフィルともう会えないのは絶対にいやよ。だから…選ぶわ。RONにも、奴らに味方する客たちにも武器を向ける」
「なら、これを使うといいっす」
ルピナスが懐から取り出したのは緑色をした三つの弾倉だった。以前渡された拳銃に使えるものだと一目でクロエは理解する。ルピナスの狙いも。
「特別な弾が入っているのね?」
「めちゃくちゃ弱い弾です。当たれば痛いけど、たぶん死にません。ガーデナーの訓練でもやったんすよ、この弾で撃たれながら動くってやつ。かなりきつかったんすよね。これは訓練用でもあるし、相手をあまり殺したくないときに使えるから、ちょうどいいんすよ」
クロエは三つの弾倉を受け取り、懐に隠していた拳銃に装填する。いつでも撃てるようにしてから懐に仕舞い、ルピナスの顔をしっかりと見た。
「ありがとう。甘いこと言ってごめん」
「仕方がないっす。少し訓練を積んだといっても酷っすもん。でも、これだけは覚えておいてほしいっす。身を守るときに誰かを殺してしまったとしても、仕方のないことなんすよ。相手がその気で向かってきて死んだなら、こっちじゃどうしようもないんす」
諭すような口調だった。クロエはどうにか頷いてパイプ椅子から立ち上がり、パーテーションで区切られた向こう側を見た。イフとロンとアニーが話をしている途中のようだった。
「戻るわ、ありがとうルピナス」
「役に立ったのならよかったっす…それにしても隊長とカメリアの信号はまだ復活しないんすよね。二人なら心配いらないし、フィル様だって大丈夫。だけど…やっぱり心配っすね」
困ったように笑ってみせる。もしかしたらルピナスは混乱が表に出るのを抑えているのかもしれない。そう思うとクロエはルピナスから視線を外してしまった。ガーデナーはなんて強い心と覚悟を持っているんだろう。
パーテーションの向こう側から戻ったクロエは、イフとロンとアニーがテーブルを囲んで話をしているのを認めた。これからのことを相談しているようだった。
テーブルの周りにはパイプ椅子がここにいる人数分だけ用意されていて、電気ポットがロンに近いところで存在感を放っている。三人はコーヒーやお茶をそれで用意していたようだ。
「そっちの話は終わったの」
「うん。みんなはなにを?」
「フィル様を探し出すことについて相談していたの。ルピナスさんがこの地図に印を書いてくれたでしょ。そこを探しに行けば見つかるかもしれないけど、でも過激派の客がこっちにも来ているっていうじゃない。だから安全な道を考えていたの」
「そうだったんだ。私も話に混ぜて」
席についたクロエは電気ポットの横に、積み重なった紙コップとペン立てのような缶を見つけた。
缶にはインスタントの飲み物の袋がいくつか入っている。それを探るとホットココアの粉末袋があった。
「おう。お湯を入れるよ、渡してくれ」
ロンが手を伸ばしたので粉末袋を渡したクロエは、滑らかな所作でロンが紙コップにお湯を入れるのを眺める。レストランのスタッフの経験があるのかもしれない。
すぐに心地よい匂いが広がっていく。ホットココアの紙コップを差し出されたクロエは静かに口をつける。これまで緊張を張り巡らせ続けていたが、やっと一息つけたような気がした。
「本当にホットココアが好きなのね」
「え?」
「フィル様が教えてくれたことがあったのよ。クロが美味しそうに飲んでいるのを見るのが好きなんだって」
「そんな話をしていたの?」
「あんたがガーデナーとしての訓練をしていたことも聞いたわ。つらい訓練を終えたあんたのためにフィル様がじきじきにホットココアを用意していたこともね」
「護衛のためじゃない。護身のためよ。いまだって自分の身を守るのでせいいっぱい…」
「でもフィル様はあんたの話をしているととても楽しそうだったのよ。あんたの姿は、フィル様を豊かにさせていた…そうだと思う」
自分がフィルにいい影響を与えていた? そんなことを言われて素直に頷けない。クロエは困ったように視線を伏せて、少しずつアニーに向けてあげていく。口にはホットココアの紙コップをつけて。唇があたたかい。
「あんたが養子になった時くらいからフィル様は変わったのよ」
「なんの話?」
「物静かな人だったのに、少しずついろんな人との交流を始めていったの。メーベルの人間ということで少し距離を置かれていたのは誰が見てもわかっていた。フィル様はそれをよしとしていたようけど、あんたが来てからその姿勢を見直されたのよ」
「つまり…昔のフィーはあまり人と話さなかった?」
「ええ。挨拶くらいしかされていなかったのにね。きっとフィル様はあんたを見て、一緒に暮らすようになって、いろんなことが楽しくなったのだと思うわ。全部勝手な想像だけど」
「…他者と接することに喜びを感じるようになった?」
「言い換えるならそう。他の誰も出来なかった、家族でさえも出来なかったことをあんたはやっていたんだわ。あんたを妬んでいたのはそういうところもあったのよね…」
自分が特別になにかした覚えはない。ないが、なにかがあった。だからフィルはいまのフィルなのだ。優しくて温かみのある、どうしても離れたくない人になったのだ。
この話がフィルにとって真実かどうかはわからないが、そうだったら嬉しい。口につけた紙コップを離してテーブルに置く。心の中が温まるような気がして、クロエは自然に微笑んでいた。
「聞かせてくれたこと、本当かどうか確かめてみる」
「え?」
「フィーに会って確かめるの。そのためにも…生きるための努力をする」
それなら仮眠をとったらどうだ? 横からロンが言葉を投げていた。柔らかい印象の言い方にクロエは戸惑いをもって振り向く。
「仮眠って…眠くなんてないけど」
「眠気の問題じゃない。これまでずっとストレスにさらされて動いてきてただろ。鬼ごっこの標的にされて、たくさん体を動かした。友人を助けに行きたいって動機が活力をくれているとしても限界はある。休めるうちに休んだほうがいい」
「でもアコさんたちの位置表示が消えたのよ。必要以上に時間をかけるわけにはいかないでしょ」
たぶん問題ないと思うっすよ。パーテーションの向こうからルピナスが出てきた。やさしく諭すような言い方だった。
「自分で気づいていないだけでかなりのストレスを抱えて、疲れがたまっているはずっす。だから十分。十分だけ仮眠をとったほうがいいと思うんすよ」
クロエはゆっくりとまわりの人間の顔を見る。ルピナスとロンの言葉に疑問や反感を覚えている者はいないようだった。
「眠れなくてもいいんす。目を閉じて休んで…そこのベッドがちょうどよさそうっすね」
隣の部屋にある簡素なベッドをルピナスは指さした。白いパイプの脚がところどころさびている。厚い灰色のカーテンも、薄い毛布も用意されている。わかった。クロエはホットココアを一気飲みしてからベッドに向かった。