エレベーターを降りてからどれだけ進んだだろうか。右に曲がり、左に曲がり、ノームが生体認証を使って扉を開けてまた曲がり、まるで迷路のようだった。案内がなければあのエレベーターや研究所の入り口に戻ることはできないだろう。
だがアコニットならそれが出来そうな気がした。彼女はずっとあたりを観察しているような動きをしている。なんてことのない、どこまでも清潔な壁と天井になにかしらの目印を見出している。そんな印象があった。
(印象だなんて、ルピナスみたいなことを…)
これまで何度も助けてくれたガーデナー。そんな彼女は後ろの方でカメリアとなにかを話しながらついてきている。
ルピナスがガーデナーの中で実力が低いと言っていたのは誰だっただろうか。そんなことはない。彼女に助けられ、イフにも助けられ、裏ではクリスやノームにも助けられていた。それでもクロエはルピナスの影が薄いとは感じない。どこまでも深い感謝をささげても足りない。
「そろそろね。ごめんね、入り組んでいて」
「仕方がありません。ここはそのための場所なんですから、心得ています」
アコニットが穏やかに返事をしている。仕事モード全開の彼女はきっとフィルをこれまで守り続けてきたのだろう。カメリアも一緒に…
「ここよ。少し待ってて」
網膜認証。大きな扉の横にあるパネルにノームが顔を近づける。間をおかずにピピっと子気味いい音が聞こえて、クロエは思わず息をのんでいた。
それが美しかったとか勇ましくて壮大だとか、そんなことを思ったのではなかった。
広い部屋にコンピュータの動作音が鈍く響くなかで、クロエはあとずさりしていた。他の面々が「これが例のパワードスーツか」「強そうだな」と口にして前に進んでいるのに、クロエは後ろにしか進めない。
「どうしたの、クロエちゃん」
「私、これを見たことがある」
「それって記憶が戻ったっていうこと?」
「違う。残念だけど。あなたの住処にたどりつくときに夢を見ていたの。フィーと一緒にネクサスに来て、でもフィーがさらわれてしまう夢。まるで今日の出来事の『もしも』をなぞったような夢だった」
「詳しく聞かせて」
ノームはクロエの服の裾をつかんで壁まで優しく導いていく。背中が壁に当たって、クロエはそこで静かに座りこんだ。
「夢の中では悪い奴らがフィーをさらった。それで、私は奴らが出したゲーム…課題を突破していく。でもどれも簡単で、悪いことをしてまわれとか、そういうのではなかった。結局フィーを取り戻して、でも別のやつにまたさらわれるんだ」
「それで?」
「話の前後がうまくつながらない。とりとめのない夢だから仕方なかったんだけど、私はそいつと戦うために機械を身につけたの。紺色が目立つ、あれとそっくりの見た目をした…」
部屋の中央にある大きなカプセル。そこで展示されている紺色の鎧。さした指の震えが止まらない。
「…自分のものではない自分の記憶。うん、言葉にするならそうなのよ」
「もしかするとね。いま言ったことは全く変なことではないかも」
「え?」
「いろんな仮説や可能性は考えられる。だってこの世界には魔法があるのよ。大抵のことは複数の説明がつけられるの。普通の人が聞けばクロエちゃんの話はおかしいところだらけ。でも私には…とても興味深い」
「信じてくれるってこと?」
「うん」
「なら、もうひとつ伝えたいことがあるの。夢の中で私は死んだの。今朝見た夢と同じ光景だった。全身が燃えていた男に剣で刺し貫かれるの」
ノームのまぶたがぴくりと動いた。自分がそうされることを想像してしまったのだろうか。クロエは言葉を続ける。
「それが、私じゃない私の、最後の記憶なんだと思う。それに妙なことを言ったみたい」
「妙な?」
バッドエンドなんかで終わらせる気なんてない。
何の準備もしていないと本気で思ってるの?
みんなでハッピーエンドを見るわよ。
あんたも一緒に――
どう思う? 返事を待つクロエは、自分がノームを信用し始めているのを自覚した。
パワードスーツを見た時の奇妙な感覚からくる不安や恐れが、少しずつ顔を引っ込めていく。大昔から生きる小人の穏やかな目は、どこかフィルのものに似ているような気さえしてきた。
「どういうことがあったのかはわからない。でも、こうだったんじゃないかって仮説は立てられる」
「聞かせて」
「その夢が、もしも別のクロエちゃんが――いや、別の世界のクロエちゃんが記憶していた記録だとしたらね、燃える男っていうのはサラマンダーのことなんじゃないかしら」
「別の世界? どういうこと」
「フィクションでよく見ない? 並行世界ってやつ。無数の選択からなる分岐が星の数ほどの世界を生み出していく…ってやつ。この世界の理に並行世界の概念はあるの」
ノームが言うならそうなのかもしれない。本当かどうかはあまり重要な問題ではないかもしれない。
「だから、そうね、原因不明のなにかがあって、ここにいるクロエちゃんは別の世界のクロエちゃんの記憶を受け取ってしまった。その記憶の最後は、おそらくはサラマンダーとの戦いだったんじゃないかな。負けてしまった、死んでしまったけど、でも最期にはなにかの準備をしていた」
「なんの準備?」
「わからない。みんなでハッピーエンド、ね。別の世界のクロエちゃんなら分かったのかもしれない。そもそも、この話だって前提があるのよ。並行世界からの記憶を受け取ったんじゃないかって前提がね」
「…考えてすぐに分かるような問題じゃないってことか」
クロエはゆっくり立ち上がってパワードスーツが収められているカプセルに近づく。
「大丈夫かい。クロ、水をとってこようか」
「ううん、気にしないで。これが例のパワードスーツなのよね、フィー」
「そうだよ…とてもすごいところまで復元できているんだ。理屈だけで言うなら、これを身につけた人は義兄さんよりも強い能力を得られる。義兄さんの義体はメーベルの技術の限界を意味しているんだけど、これはそれをも上回っている」
クリスの義体の性能はよく見てきた。まるでアクション映画の主役のようなクリスよりも、あれを身に着ければ優れた能力を手にすることができるというのか。
自分の肉体を捨てて義体に置き換えなければ、人間離れした高い身体能力を得ることは出来ない。人間という枠を超えるには人間の形を放棄しなければならない。どこかで読んだ漫画の悪役のセリフが頭に浮かんだ。
あの漫画は現代の人間が描いたものだ。だから、人間が肉体を捨てなければ人間以上になれないだなんて考えたんだ。もっと技術が進歩すれば、パワードスーツを着こむだけでサイボーグよりも身体能力は上になるかもしれない。
「プランBでは誰があれを着ることになってるの。アコさんとか?」
頭に浮かんだ疑問をクロエはフィルに投げてみた。彼は一度目を閉じ、ゆっくり開いて、クロエをじっと見つめる。
「僕だよ」
「フィーがあれを?」
「そう。僕が装着することにした」
「なんでフィーが!」
「君に全部背負わせて、全部解決させる計画を、僕は止められなかった。どうにか出来たのは、この代案をなんとか形にする手伝いだった。だから僕がやらなくちゃならない。うん、訓練は積んできた。きっと大丈夫だよ」
「私に申し訳ないとか思っていてそうしているなら、戦いに慣れている人に代わってよ! 嫌よ、フィーがまた危ない目に遭うのは。危ないところへ行ってしまうの、嫌なのよ」
「これは僕がやるべきことなんだ。君に全部背負わせようとしたのは僕も同じなんだ。だから、プランBは僕と義兄さんが主戦力になる。みんなにも戦ってもらうけど、より危険度が低そうなところでだ」
クロエはフィルの肩をつかんで彼の目を見つめる。にらんでいるのかもしれない。目からは涙が流れ、自分がどんな顔をしているのかわからない。フィルが視線をそらさないことにクロエは強い覚悟を感じた。感じざるを得なかった。
「なら、約束して」
「うん」
「絶対に生きて戻ってきて。ここでお話しするのが最後だなんて、私、絶対に嫌だから」
「僕もだ」
アツいところ悪いが。どこかから声がした。知っている声ではない。
誰なの? クロエが口を開く前にそれは姿を現した。
一見すれば人間に見えたが、すぐに間違いだとわかった。ただの人間は皮膚が樹木のようにはなっていない。樹のアニマが白衣を着ている。頭は緑と橙の小さな葉が短髪のように茂っていて、見れば見るほど人間ではなかった。
「俺はイグ。フィルの大将に誘われて、ここで仕事をしている。早速だがプランBの説明と、反攻作戦のブリーフィングといこう」
ついてきてくれ。イグと名乗った樹のアニマは先導して別の部屋へと向かっていく。
いよいよ始まるのだ。仲間たちが覚悟を決めて、あるいは不安そうについていく中心で、クロエは長く深呼吸をした。